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2023年5月

2023年5月28日 (日)

アフターサン

 11歳の時に父と過ごしたバカンスのビデオと記憶で父を偲ぶ映画「アフターサン」を見てきました。
 公開3日目日曜日、新宿ピカデリーシアター5(157席)午前10時35分の上映は8割くらいの入り。

 両親の離婚で離れて暮らしている父カラム(ポール・メスカル)の31歳の誕生日を控えたバカンスを父と2人でトルコのリゾートホテルで過ごす11歳の娘ソフィ(フランキー・コリオ)は、父にビデオカメラを向けてインタビューをしたり、初めてのスキューバ・ダイビングを楽しみ、若者たちを交えたビリヤードや同年代のマイケルとのレースゲームに打ち興じるが…というお話。

 公式サイトのキャッチで「20年前のビデオテープに残る、11歳の私と父とのまばゆい数日間」とあり、予告編のテロップで「20年前 11歳の私 30歳の父」、ナレーションで「20年前、2人で過ごしたまぶしい時間」とされ、イントロダクションで「11歳のソフィが父親とふたりきりで過ごした夏休みを、その20年後、父と同じ年齢になった彼女の視点で綴る」とされているのですが、映画自体には、これが20年前のことだということは明示されていないように思えます。私が見逃しただけかも知れませんが。また、現在、ソフィがビデオを見ながら父を偲んでいるということさえ、終盤にそれを示唆する場面がわずかにあるだけです。
 さらに、ソフィがどうして今父を偲んでいるのか、言い換えれば父がその後どうなったのかも、説明がなく、終盤に近い夜のカラムの単独行動を示唆と見るか、ラストシーンのカラムの向かう先をその示唆と見るかという程度(あとは、終盤に挟まれている「手紙」がいつ受け取ったものと理解すべきかとか、でしょうか)で、観客が解釈してくれというか察してくれという様子です。

 ソフィは、父に反発する場面もないではないですが、基本的にパパ大好きの姿勢で、娘を持つ(あるいは子を持つ)父の立場で見ると実に愛くるしい、とろけるような思いに浸ることができます。観客の立場からすれば、こんなに可愛い娘と幸せな時間を過ごしているのだから、何が不満なのかと思いますが、ソフィがいない場面のカラムは、ひとりでこっそり高価(850ポンド:15万円弱)なペルシャ絨毯に寝そべって思いにふけり、夜の海をさまよい、誕生日を祝ってもらった夜に泣き崩れと、悩み満たされない様子を見せます。カラムがどのような心情にあったのか、その理由は、カラムからの説明がないので、観客の方で察するということになるのでしょう(偲んでいるソフィからはますます見えないところでありましょうけれども)。
 そのあたりのソフィの愛らしさ微笑ましさと、カラムの内心のギャップを見る作品になるので、単純に楽しいという気持ちにはなれず、哀しさが募ることになります。

 ビデオ画像は子どもが撮影しているという設定で乱れていますし、全体のカット割りが、概ね不自然に長めでふつうここで次のカットに行くよねと思うところよりも2テンポくらい遅れて、ここで切らない以上何かが起こるかなという期待を裏切って次に行くところが多く、「余韻」よりは「違和感」を残します。おそらくは、そこにもこのバカンスは見えているとおりの楽しいバカンスではないという感覚を生じさせる狙いがあるのでしょう。

 ラストは、尺も考えるとフランス映画ならここで終わるかもと思った瞬間にそこで終わってしまいました。えぇと、これアメリカ映画だったよねと、説明のなさ、おちのなさに少し釈然としない思いを持ちました。一緒に観た人は、金返せと…。
 そのあたりの、説明はしないけど自分で考え/感じてねというところを、それでいいかと思うか、不親切と思うかで大きく評価が分かれる作品だろうと思います。

2023年5月21日 (日)

ワイルド・スピード ファイヤーブースト

 派手なカー・アクションで売る「ワイルド・スピード」シリーズ第10作「ワイルド・スピード ファイヤーブースト」を見てきました。
 公開3日目日曜日、新宿ピカデリーシアター3(287席)午前11時30分の上映は7~8割の入り。

 かつて「ワイルド・スピード MEGA MAX」(シリーズ第5作:2011年)でドミニク(ヴィン・ディーゼル)らに1億ドルを奪われた麻薬王レイエス(ヨアキム・デ・アルメイダ)の息子ダンテ(ジェイソン・モモア)は、復讐を誓い、ドミニクを苦しめるために愛する者を奪う計画を立てていた。「ワイルド・スピード SKY MISSION」(シリーズ第7作:2015年)以来ドミニクらが指示を受けてきたアメリカ政府の秘密組織からの依頼で仲間たちをローマに派遣したドミニクは、秘密組織はそのような依頼をしていないと聞き、罠だと気づいてローマに急行する。指令に従いラムジー(ナタリー・エマニュエル)らが侵入した輸送車には、目的のチップではなく巨大な球形の爆弾が積まれ、輸送車は遠隔操作されていた。ドミニクらは爆弾を人がいないところで爆発させるが、レティ(ミシェル・ロドリゲス)は現場付近で逮捕されてしまう。ミスター・ノーバディ(カール・ラッセル)亡き後組織を引き継いだエイムス(アラン・リッチソン)は、ドミニクらとの関係の清算を決意し、ドミニクらを爆弾事件の容疑者として指名手配する。ドミニクとレティの留守中、ドミニクの妹ミア(ジョーダナ・ブリュースター)に預けられていたドミニクの息子リトルブライアン(レオ・アベロ・ペリー)は、ダンテに雇われた武装集団に襲われ、助けに現れたジェイコブ(ジョン・シナ)とともに逃走し…というお話。

 この作品の続編(続編が1作か2作かははっきりしませんが)でシリーズが終了することがアナウンスされ、シリーズ最終章とか「最後への道が始まる」(ポスターのキャッチコピー)とされています。これまでわりと/かなりいい加減に作ってきたきらいのある設定を少し整理して説明しようという様子が見られますが、この作品でも敵だったはずの人がいつの間にか味方っぽく振る舞ったり味方のはずの人がいつの間にか敵対したりする感じがして、見ていてなかなかわからない印象が残ります。顔が似ている登場人物を私が判別できていないためかも知れませんが(今回は、公式サイトに「キャラクター」のページがあって、説明は抜きですが、一応ひととおりの登場人物の名前と顔写真、俳優名だけは明示されていて、助かりますが)。
 初期にはワルだったドミニクらが、シリーズの途中からFBIに半ば脅されて渋々協力し、さらに近作ではアメリカ政府の秘密組織と協力して悪役と対決するという設定になってきたのを、回顧して整理しているから、もともと無理があるのですが、「ワイルド・スピード MEGA MAX」で麻薬王から1億ドル入りの金庫を強奪したのは最後の一稼ぎということだったのに、この作品では金は奪ったんじゃない焼き捨てたんだと言っていて、まるでポケットに入れるつもりはなかったように言うのには驚きました。

 この作品の最大の売りのカー・アクションは、「ワイルド・スピード MEGA MAX」の巨大金庫を引きずり振り回すシーンの回顧が繰り返され、その他には転がる球形爆弾を止めにいく、多数の追跡車を撃退する、ヘリコプターを引きずり振り回す、予告編で使われているダムからの落下・降下などが展開され、それらのカー・アクション自体は迫力があり見せ場になっていますが、アイディアとしてはこれまでに出し尽くされている感があって新味はありません。シリーズを閉じるにあたって、実は第5作の巨大金庫を引きずるアクションが一番リアリティのある驚きがあったという評価がなされ、それでその続編と位置づけた構成をしたのかなと思います。
 ただ、敵となるダンテのキャラのおちゃらけぶり、軽みが、最終章として、また続編への観客動員のためにふさわしいかは考えものに思えました。
 また、続編があるとアナウンスされていても、Part1 とされているわけでも続編がすぐに公開されるわけでもない(今のところ2025年公開とアナウンスされているようです)のですから、それなりに区切りをつけて欲しいところです。いかにも「続く」と言って終わっているようなエンディングは、観客に不満を残し、2週目以降の動員に影響するんじゃないかと、他人事ながら心配してしまいます。

2023年5月14日 (日)

TAR

 2023年アカデミー賞6部門ノミネートにして受賞0の映画「TAR」を見てきました。
 公開3日目日曜日、渋谷WHITECINEQUINTO(108席)午前9時40分の上映は2割くらいの入り。

 クラシック音楽界で華々しい成功を収め、今はベルリンフィルの首席指揮者を務めるリディア・ター(ケイト・ブランシェット)は、マーラーの交響曲第5番のライブ録音に備え、連日リハーサルに励んでいた。ターはレズビアンであることをカミングアウトし、ベルリンフィルのコンサートマスターのシャロン(ニーナ・ホス)、養女のペトラと同居していたが、シャロンは体調が優れず、ペトラは学校でいじめに遭っていた。ターは副指揮者を希望しているアシスタントのフランチェスカ(ノエミ・メルラン)から、若手指揮者クリスタからメールが来ていることを伝えられて無視するように指示していたが、その後クリスタは自殺してしまい、ターは自分のクリスタへの関与の痕跡を消すためにフランチェスカに対しクリスタとのメールをすべて削除するように命じた。しかし、ターが自分のパソコンの調子が悪いと言ってフランチェスカのパソコンを借りてメールをチェックしてみると、フランチェスカはクリスタとのメールを削除していなかった。ターが、ピントはずれの意見を言う副指揮者セバスチャンの解雇を決め、チェロのソロ奏者を第一チェロに任せずにオーディションをすると言ってオーディションの結果新人のオルガ(ソフィー・カウアー)を抜擢するなど、楽団内できしみが生じていたところに、クリスタの自殺についてターを告発する動きが出て…というお話。

 基本線は、傑出した能力を持ち多大な努力の末に頂点に達した者が、その独善的・高圧的な振る舞いから人望を失い、周囲の者に対するハラスメントを理由に転落するというところにあり、いかに能力があってもハラスメントは許されないという主張であろうと思われます。
 傑出した才能は、とりわけ、私はそちら方面の造詣はないのでよくはわかりませんが、たぶん指揮者のような仕事は、強力な自我、一切の妥協を排した厳しい要求(他人に対しても自分に対しても)があってこそ、開花するものと思えます。しかし、現代社会では、華々しい成果よりもハラスメントをしてはいけないことが優先され、芸術の世界であれすべてはハラスメントをしないという枠組みの下で、その範囲でのみ追求されるべきものということなのでしょう。
 もっとも、この作品には、単純にそう考えていいのかという含みもあるように見えます。
 ジュリアーノ音楽学院の授業で、バッハが白人優先で女性を抑圧したとしてバッハはやりたくないという学生マックスに対して、ターが音楽性に目を向けてバッハを学ぶべきと述べる場面。ターがマックスの矛盾を指摘してそれについて賛同する者に挙手させ、マックスが感情を害して去るという描き方は、ターのやり過ぎを印象づけ、制作者はやはりハラスメントは許されない、ターの失脚は自業自得という考えだと示唆していますが、他方で、リスナーとして聞きたくないというのは自由であっても、プロになろうとする者が自分の好みないしは信条でバッハはやらないというのに、あなたの意見はよくわかると応答すべきなのでしょうか。
 クリスタとの関係も、実は映画の中で、映像として、実際に何があったかは明示されていません。
 オルガの抜擢も、チェロのソロ奏者のオーディションでは、ブラインドテストで他の数名の審査員と全員一致で決められています。
 これらの場面で、果たしてターの言動が本当に問題だったのか、相対的に弱い側から告発があると強者の行為はその地位を利用したハラスメントだと見てしまいがちだということではないのか、という疑問も描かれているように見ることもできます。
 そう考える場合、フランチェスカの離反は副指揮者のポジションをめぐる権力闘争として、シャロンの離反は私生活面ではターの裏切り(クリスタとのことを隠していたこと、今はオルガになびいていること)への反発、楽団ではやはりコンサートマスターとしての地位を確保することの優先性、そして楽団の見限りはメンバーの心の離反と世論に怯えて(媚びて)の尻尾切りと見た方が、ハラスメントは許されないという考えからのターへの嫌悪と見るよりも現実的で深み・したたかさがあると思います。
 ターが気に病んだ夜中の音やオルガとは結局何者だったのかなど、結局よくわからない(単に、私にはわからなかったというだけかもしれませんが)ことが少なからず残されていることを見ても、シンプルなわかりやすい解釈が求められている作品ではないんじゃないかなと思いました。

2023年5月 6日 (土)

銀河鉄道の父

 宮澤賢治の父宮澤政次郎から見た宮澤賢治を描いた直木賞受賞作を映画化した映画「銀河鉄道の父」を見てきました。
 公開2日目GW中の土曜日、新宿ピカデリーシアター8(157席)午前10時35分の上映は7~8割の入り。

 父喜助(田中泯)から継いだ家業の質屋宮澤商会の当主政次郎(役所広司)は、子煩悩で、幼い賢治が赤痢で入院すると周囲の反対を押し切って自ら病院に泊まり込んで付きっきりで看病し、喜助に反対されながら賢治に進学を勧めるが、賢治(菅田将暉)は質屋は農民を苦しめているなどと反抗し、日蓮宗に入信するなどし、政次郎は困惑し…というお話。

 政次郎と賢治の親子関係が中心なのですが、原作では、政次郎は「新時代の」理解のある父になりたいのか「伝統的な」息子の壁になりたいのか迷い逡巡し、賢治は親の心子知らずで反抗的な態度、少なくとも素直になれない態度をとり続け、ねじれた関係の中で内心では信頼を持っているというような、より複雑な心情と関係が描かれているのに対し、映画では政次郎はまっすぐに親馬鹿を演じ、賢治も後半では素直に政次郎への敬意と感謝を示すというものすごくシンプルな描き方になっています。
 特に象徴的なのは、賢治が「おらはお父さんになりたかったのす」と政次郎の大きさを素直に認め、しかし自分はなれない、そして子どもの代わりに童話を生むとつぶやく場面。原作ではもちろんこれは賢治がひとりでいるときのつぶやきで「むろん賢治は、政次郎に言うつもりはない。私はあなたになりたいのですなどと面と向かって口にすることは一生しないだろう」とはっきりと書かれています(270ページ)。それが映画では何と面と向かって言われ、政次郎がそれを受けて童話が子どもならそれは自分の孫だ、だからお父さんは賢治の童話が好きなんだとわかったなどと述べています。賢治が死ぬ場面も、原作では賢治が政次郎に席を外させるような発言をしてその間に死んだことを政次郎は賢治の最後の反抗かいたずらかと思う(402~403ページ)のに対し、映画では賢治が政次郎に体を拭いてくれと求め、政次郎の目の前で死んでいきます。
 映画の方が、わかりやすい父と子の絆の物語になっているのですが、素直になりきれない賢治と、正面から報われなくても子を思い続ける政次郎という原作の含みのある味わいをあっさり切り捨てていいのか、疑問なしとしません。

 有名な「永訣の朝」で描かれた妹トシ(森七菜)が死ぬシーン。原作では、政次郎がトシに言い置くことがあるなら言いなさいと言い渡し、それに対してトシが「うまれてくるたて、こんどは・・・」と言いかけたところで賢治が政次郎を突き飛ばしてトシの耳元で法華経を唱えてトシが続きを言えなくなってそのまま死に(290~293ページ)、それにもかかわらず賢治が「永訣の朝」(春と修羅)で、トシが「うまれでくるたてこんどはこたにわりやのごとばかりでくるしまなあよにうまれてくる」と述べたように書いているのを見た政次郎が自分がトシの口を封じておきながらトシの言葉を捏造したことに腹を立て、しかし妹を犠牲にしてでも売ることが詩人としての自立なのだと思い直す(329~333ページ)という複層的な事実と心情が描かれています。この部分は、原作者が想像力を働かせてある意味渾身の力を込めて創り出したものと思います。原作を読んだとき、「永訣の朝」から容易には想像できない状況に驚きました。しかし、映画では、トシが政次郎に死ぬ日より前に「うまれてくるたて・・・」を最後まで誰にも邪魔されることなく答え、死ぬ場面では特に言い残すことを邪魔されることもなく死んでいき、複雑な状況は生まれず、「永訣の朝」から素直に思い浮かべられるようなシーンだけで構成されています。原作が見せ場として創った場面がまるごと消し去られているのです。

 賢治が童話を精力的に書き始めたきっかけは、原作では東京で何者にもなれぬ敗残者として自分を思い詰めていたところに日蓮宗団体の理事の言葉に力づけられ文房具屋で原稿用紙を見た途端に物語があふれ出してきた(261~270ページ)というあまりわかりやすくないもので、それを書きためていたところでトシが病気だから帰ってこいという電報が来た(270ページ)とされているのですが、映画ではトシが病気だという電報が来てから書き始めたことになっています。映画の方が、動機としては、わかりやすいのですが、すぐ帰れという電報が来るほどの病状を聞いてすぐに帰ろうとしないで物語を書き始めるということも、そんなに短期間でたくさん書けるのかについても、不思議に思います。

 シーンやエピソードとしては、原作に沿ったものが多いと思うのですが、小さく見える修正が大きなニュアンスの差異を生んでいて、私にはかなり原作と味わいの違う作品に見えました。

 原作についての読書日記の記事はこちら→銀河鉄道の父

2023年5月 5日 (金)

パリタクシー

 追い込まれていた無愛想なタクシー運転手が老人施設に向かう92歳の女性客を乗せてその想い出の地をめぐるうちに打ち解けていく映画「パリタクシー」を見てきました。
 公開5週目コロナ自粛はもう終わったぞの風潮猛々しいGW最中の金曜日祝日、新宿ピカデリーシアター5(157席)午前10時20分の上映はほぼ満席。

 免停寸前(あと2点)のタクシー運転手シャルル(ダニー・ブーン)は、迎車のリクエストに応じてパリ東方郊外から92歳のマドレーヌ(リーヌ・ルノー)をパリ西方郊外にある老人施設まで送ることになった。無愛想なシャルルにマドレーヌはあれこれ話しかけ、昔住んでいた場所への寄り道を求め、これまでの想い出を語る。マドレーヌの意外な過去に、次第にシャルルも引き込まれ、マドレーヌから聞かれて自分のことも話すようになって、次第に打ち解けて行き…というお話。

 平凡に見える老人に意外な過去、激情に駆られた過去があり、言い換えれば若いときに流されたり過激な行動に出た者も品良く老いることができるという人生の綾、他方で追い込まれ絶望的になっている者も人間の情にほだされ他人に思いをめぐらせる余裕を得られれば落ち着き思い直せる…そういうことを考えさせる作品だと思います。
 そういう堅めの物言いをしなくても、誰もが他人からは思いも及ばぬ事情/人生/想い出を持ち、出会うはずではなかった人と言葉を交わすうちに他人の事情に理解を示し共感して人間の幅を拡げていくというドラマに、しっとりと感じ入りました。
 最後のサプライズは作品の収め方としていいところと思います(フランス映画ではあえて「落ち」をつけないものが多いように見受けられますが、日本の観客には受け入れやすいラストです)が、これがなかったとしてもしみじみ感を持って映画館を出ることができたでしょう。

 「自由・平等・博愛」のスローガンで有名なフランスで、現在生きている老人が青春期を過ごした1950年代において、女性が夫の許可なしでは銀行口座も持てずDV夫との離婚もできなかったということは、史実としては理解できていても、それを映像としてみせられると衝撃を受けます。そういう描き方(現在生きている老人が経験したこととして、したがって人間の人生の範囲の近い過去と実感させられる)ができるのは、もうほぼ最後の機会ということでしょうけれど。

 読書日記(2023年5月4日)で書いているように、とても久しぶりにフランス語の学習本を読んだので、フランス語どこまで聞き取れるかなと意識して見たのですが、やはり、知っている単語と疑問形の言い回しくらいしかわからず、字幕頼りで見るしかありませんでした。
 でも、この映画、フランス映画なのに、歌はみんな英語なのはどうしたことでしょう。
 マドレーヌが92歳というのは、俳優の実年齢94歳にも合っていて違和感なかったのですが、シャルルが46歳だというのは、聞いたときからいや無理でしょ、それ、ヨーロッパの人は日本人より老けて見えるというけど…と不審を感じました。調べたら俳優の実年齢56歳ですし。

 原題は " Une belle course " で、素敵な(素晴らしい)ドライブ(走り)。たぶん、course に人生の意味を含ませて、この日のタクシーでのドライブとマドレーヌの人生をともに想起させようとしているのでしょう。邦題でそのニュアンスを出すのは、やはり難しいでしょうね。
※ belle は名詞の美人とか恋人じゃないかと思う方もひょっとしたらいるかも。→ Michelle, ma belle (ビートルズ 1965年)を想起!
 フランス語の形容詞は名詞の後だし、とか。
 でも、beau ( belle は beau の女性形)は数少ない名詞の前に付く形容詞なので、後に名詞(女性名詞)の course があることから、形容詞と理解することになります。フランス語の学習本を読んだ直後なので、自信を持って…

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