2025年3月20日 (木)

ケナは韓国が嫌いで

 韓国で生きづらく思う女性の海外渡航の選択を描いた映画「ケナは韓国が嫌いで」を見てきました。
 公開2週目木曜日祝日、新宿武蔵野館スクリーン2(83席)午前10時の上映は4割くらいの入り。

 ソウルの勤務先に毎日2時間かけて通勤する28歳のケナ(コ・アソン)は、正しくマニュアル通りに評価して取引先会社を外して改めて入札する稟議を上げて上司から非常識と叱責されるなどし、ゲーム三昧の妹と寝室をシェアし狭い団地の建て替えで広い部屋に移るために拠出する費用の一部を貯金から出すように母親から強くいわれるなどするうちに、自分は韓国では生きてゆけないと思い詰め、7年越しの恋人で新聞記者を目指しているジミョン(キム・ウギョム)の反対を押し切って、ニュージーランドに渡航し…というお話。

 競争社会に疲れ、生きづらく思うのなら、韓国にこだわらず、生きやすい場所で自由に生きて行くという選択があるよというテーマです。
 それを、底辺の本当に生きづらい人ではなく(それが主人公なら海外渡航自体非現実的でもありますし)、有名大学を出て大手企業に勤務している(トップエリートではないものの)そこそこ競争の勝者とも見える者を主人公として、海外移住後もさまざまなバイトをしながらさまざまな男とデキ、しかし韓国にも帰って、ジミョンともよりを戻してみたりという揺れ動き逡巡する展開で描いたところ、つまり底辺層や思想的に固い層ではなく、中間層に向けて、決意を固めなくても緩くやっていいんだよという描き方をしたところにこの作品の持ち味があるように思えます。原作の作者が、延世大学出で元東亜日報記者の男性という、ジミョンの立場(ジミョンよりもさらにエリート)だったことが、それにどの程度影響しているのかは興味深いところですが。

 ケナの渡航先が原作ではオーストラリアなのをニュージーランドに変えたこと、ケナの勤務先での担当業務が原作ではクレジットカードの利用承認審査でケナが何か信念を持って主張したことなどないのを映画では取引先の評価について上司と対立したことにしたこと、原作ではジミョンが「僕が幸せにするよ。結婚してくれ。僕と一緒にこの国にいてくれ」っていってくれたらどうなっていたのかなとも思う(45ページ)というように、渡航前にはジミョンはプロポーズしなかったことになっているのに映画ではプロポーズされたがそれでも渡航したことにしたこと、原作では政治の話は出てこないのに映画ではケナが北朝鮮の核問題等についてコメントしていること、映画では大学の同期生で(薬剤師)受験を続けるキョンユニが死んでしまうことなど、原作の設定が変更されています。
 それらの変更は、(渡航先をニュージーランドにしたことと、キョンユニの件は関係ないでしょうけど)基本的には、原作では逡巡し揺れ動くケナを、より意志の強いキャラに見せる意図かと思われます。そうであるならば、原作でジミョンが「なあ、僕のこと好きなんだろ? 僕を愛しているならどこにも行かないで、僕のそばに、韓国にいるのはだめか? オーストラリアに行くのがそんなに大事なのか?」と聞いたのに、「あなただって私のこと好きなんでしょ。私を愛してくれるなら私についてオーストラリアに来るのはだめなの? 記者になるのがそんなに大事なの?」と切り返す場面(46ページ)は、残すべきだと思うのですが。

2025年3月 2日 (日)

ANORA アノーラ

 2024年のカンヌ国際映画祭パルムドールにして、アカデミー賞受賞も噂される映画「アノーラ」を見てきました。
 公開3日目アカデミー賞発表前日日曜日、新宿ピカデリーシアター2(301席)午前11時40分の上映は9割くらいの入り。

 ニューヨークの風俗店で働くセックスワーカーのアニーことアノーラ(マイキー・マディソン)は、ロシアの富豪の息子でドラッグとゲーム浸りの若者イヴァン(マーク・エイデルシュテイン)に気に入られ、豪邸に招かれて出張サービス、次いで1週間の専属契約をし、ラスベガスで結婚するに至ったが、週刊誌に写真が掲載されたことからイヴァンの監視役トロス(カレン・カラグリアン)が異変を知って乗り込み、イヴァンは逃走し、アノーラは用心棒のイゴール(ユーリー・ボリソフ)に拘束される。イヴァンの父の命を受けたトロスらは、婚姻無効の手続きを取るため、アノーラを連れてイヴァンの行方を追うが・・・というお話。

 アメリカ映画であり、セックスワーカーと富豪の(バカ)息子の結婚という設定から始めるので、私は、富豪の両親を踏み潰すなり蹴散らすなりかわすなりして、アノーラが何か成果をもぎ取るという力強さを見せる作品と予想したのですが、期待外れでした。
 ハリウッド作品にしては、そういったアメリカンテイストではなく、エンディングもアメリカ映画っぽくないヨーロッパ映画かと思うものでした。それがカンヌでは評価されたのかも知れませんが、私には、これがパルムドールといわれてもねぇとどうも腑に落ちません。
 ロシア人の富豪の傲慢さと富豪なのにケチな様が目に付き、私には、富豪なんてそんなものと思えますが、悪役を外国人(ロシア人、アルメニア人)に担わせているのも、今どき珍しい白人ばかりのキャスティングと併せ、不快感を持ちました。
 底辺労働者(アノーラの主観はそうではないようですが)の成功や勝利を描くこと(夢を見させること)もできず、ポリコレにも目配りできず、敵は外(外国人)に押しつけるという様子を見ると、私には、ハリウッド、衰えてるんじゃない?と思えます。

 富豪の執事から明日の朝一番で出て来いと顎で使われ、ラスベガスで結婚したことも伝えられないままにニューヨークの裁判所に申立をして法廷でアノーラからラスベガスで結婚したといわれてニューヨークの裁判所には管轄がないと追い出されて恥をかいた顧問弁護士の姿が哀れです。金を出しさえすれば何でも言うがままにできると思っている傲慢な依頼者(それもけちくさくて実際には大した金は出さない)って、いるんですよね。嘆かわしいことですが。

 近年見た映画でダントツにセックスシーンが多い。「哀れなるものたち」は、自分の体は自分のものだ、セックスするかは自分で決めるという強力なメッセージがあってやっていたと思うので理解できましたが、この作品でこれだけセックスシーンを多用した意図はわかりません。アノーラが娼婦だから?イヴァンがただの性欲の塊男だから?いや、単なる客寄せでしょうね。

2024年11月 3日 (日)

恋するピアニスト フジコ・ヘミング

 67歳でCDデビューしてブレイクした遅咲きのピアニストフジコ・ヘミングのドキュメンタリー「恋するピアニスト フジコ・ヘミング」を見てきました。
 公開3週目日曜日、新宿ピカデリーシアター7(127席)午前10時25分の上映は9割くらいの入り。

 サンタモニカ、東京(下北沢)、パリなどの自宅やコンサート等の会場での語りと字幕で、スウェーデン人画家の父と日本人ピアニストの母の間に1931年に生まれ、10歳で天才少女と言われ、13歳時に岡山に疎開し疎開先でもピアノ演奏を続け、青山学院(高校)、東京芸大卒業後、留学しバーンスタインに見出されてデビューする直前に聴力を失ってチャンスを逸した過去、1999年に67歳でCDデビューし、その後世界各国でコンサートを続け、チケットは完売が続きという活躍ぶりを紹介し、コロナ前から2023年までを、語りとコンサートの映像で綴る体裁です。

 67歳でCDデビューして、その後プロとして世界で活躍しているというフジコ・ヘミングの人生は、高齢者に希望を与えます(まぁ、10歳の時から天才と評価されていたので、年をとってからでも新たなチャレンジができるというイメージにはつながらないのですが)。
 そして80代後半から90代で、脚が痺れ親指の感覚がなく歩行器なしでは歩けないというのに、一流のプロとして現役でピアノが弾ける、まさに映像として、節くれ立ったしわの目立つ手から、時に力強い、時に繊細な音が紡ぎ出されるのは、感慨深い。
 自分自身がフジコ・ヘミングがCDデビューした年齢に近づき、また映画撮影時の年齢に近い母をもつ身には、すごく心に刺さります。
 そういうところで、力をもらえるというか、じわっとした感動を受ける作品です。

 全部本人が弾いているから自信を持ってみせるのでしょうけど弾いているところを映す映像が多い。で、クラシック苦手の私でも気づいたのですが、「黒鍵のエチュード」(ショパン)って、全部黒鍵というわけではなくて、左手の方は白鍵も弾くのですね。

 「恋」の話は、岡山(中学生)時代の秘めた思いと、学生時のプレーボーイとの件の他には、今も恋してるという一言くらい。タイトルはちょっとそぐわない印象です。

 コロナ前から撮りためておいて、今年(2024年)10月公開というのは、本人との間で死(2024年4月に亡くなられたそうです)後に公開するという約束だったのでしょうか。

2024年10月20日 (日)

徒花 ADABANA

 クローン人間による臓器・身体の提供を受けることの苦悩を描いた映画「徒花 ADABANA」を見てきました。
 公開3日目日曜日、メイン上映館のテアトル新宿(218席)午前10時10分の上映は1割くらいの入り。

 上級国民には事故・病気に備えて自分のクローンが用意されるようになった近未来、政略結婚の末富裕な家庭の跡取りとされている新次(井浦新)は死期が近づき医師から頭部を新次のクローンに移植する手術を勧められ、手術までの間臨床心理士のまほろ(水原希子)のカウンセリングを受けるよう指示された。まほろから繰り返し質問を受けるうちに、若き日、子どもの頃のことを思いだした新次は、ただ「それ」と呼ばれる自分のクローンに面会することを求め…というお話。

 臓器移植用の臓器を提供する目的で造られたクローン人間の苦悩を描いた「わたしを離さないで」(原作カズオ・イシグロ)の、それを提供を受ける側から見たバージョンの作品です。自分が生き残るために他人(別の自分)を殺していいのかという苦悩、そこまでして自分は生きながらえたいのかという問いを、井浦新が淡々と演じています。
 「わたしを離さないで」とは異なり、クローン側の悩みは描かれません。むしろ自分は提供のために生きている、提供できることになって嬉しいという様子が、生まれてすぐからそのように教え込まれ、洗脳されてきた人生の悲哀を感じさせます。
 もっとも、「わたしを離さないで」のような不特定多数者への提供ではなく特定の相手への提供を予定したクローンの場合、移植手術なくその相手が死んでしまったらそのクローンはどうなるのでしょうか(生かし続ける理由もなくなるでしょう)。そうすると、新次の苦悩は何のためだったのかという疑問も残ります。

 また感情の起伏を見せないまほろの姿、まほろが新次に感情を爆発させたことがありますかと問う場面は違和感をも感じさせました(それを聞くあんたこそ人としての感情がないんじゃない?)が、それがラストへの伏線となり、クローンを利用する社会、管理社会への疑問・問題を投げかけているように思えました。

 全体として光を絞った粗い映像が、ノスタルジーよりも絶望感・閉塞感を持たせます。それでも月夜の海のシーンは美しかったですが。

 冒頭に、小児癌の娘を連れてクローン製造の申し込みに来た母が、担当者から「国民カード」の提示を求められ、それをカードリーダーで読んだ担当者からあなたには資格がないと突っぱねられ、上流階級しか受け付けないのか、差別だと叫びながら強制的に排除されて行くシーンが印象的です。現時点ではそうなるわけではないと思いますが、制作側のマイナ保険証/管理社会への反感が感じ取れ、個人的には共感できます。

2024年10月 6日 (日)

HAPPYEND

 管理社会に鬱屈する高校生たちの反発を描いた青春映画「HAPPYEND」を見てきました。
 公開3日目日曜日、新宿ピカデリーシアター7(127席)午後1時30分の上映は9割くらいの入り。

 アベ政治的な政権が続き、ついに大地震等の非常事態に首相に全権を集中する緊急事態法が成立し、警察は顔認証で国民1人1人を特定でき政権反対デモを攻撃して参加者を逮捕している近未来の日本で、夜間自らが通う学校の部室に忍び込んだユウタ(栗原颯人)が幼なじみのコウ(日髙由起刀)を唆して校長の車にいたずらを仕掛け、翌朝それを発見した校長(佐野史郎)はこれはテロだと激高した。問い詰められてもしらを切るユウタらに業を煮やした校長は校内に監視カメラに写った生徒を顔認証で特定しその行動に減点をつけるAIシステムを導入して生徒らへの圧力を強め…というお話。

 現在の日本が既にそうなりつつある強権的な監視社会で、自分がどのように闘えるのか、どのように日和り諦めそうかを考えさせられます。
 まっすぐに闘い校長を追い込むが仲間であるはずの同級生から離反されて悄然とするフミ(祷キララ)、フミとコウを見どころがあると見て反政権デモに誘いその責めを負う岡田先生(中島歩)、現状を肯定できずに反発するが奨学金の申請許可取消で校長に脅され葛藤するコウ、音楽のことしか考えていない、子どもの頃からまったく変わらない(進歩がない)と批判されて傷つくユウタら、それぞれの闘いと挫折、回帰がテーマであり見どころだと思います。

 他方で、権力者側を小さく描いているのは、現実の権力者もそんなものということか、巨悪から目をそらすことにならないか、校長が意外に話し合いに応じるのは一定の勝利感を出したいからか、見かけが柔軟でも油断するなというメッセージなのか、今ひとつよくわかりませんでした。
 大地震(緊急事態!)の誤報アラートのシーンや、 クラスの半数くらいが外国籍の教室(自衛隊員が募集の話をする授業で対象外の者は退室しろと言って教師が外国人の番号を読み上げるシーンがありました)で愛国心を言う場面は、単純にパロディというか皮肉なのでしょうけれど。

 首相の名前こそ別の名前(「しとう」か「きとう」かよく聞き取れませんでした)にしていましたが、実質は安倍政権を描き批判していることが明白です。
 予告編や公式サイトの記載からはそれは読み取れず、映画が始まって初めてそれがわかり、意外でした。エンドロール(ロールアップしませんでしたけど)が始まるや出て行く観客が多かったのは、安倍政権批判の映画とは知らずに観に来た安倍ちゃんファンが少なくないためでしょうか。

2024年9月 8日 (日)

ナミビアの砂漠

 山中瑶子監督の本格的な長編第1作(公式サイトの紹介)「ナミビアの砂漠」を見てきました。
 公開3日目日曜日、シネマカリテスクリーン2(78席)午前10時の上映は満席(館員のアナウンスでは)。
 観客の多数派はおっさんの一人客、次いでカップル。若い女性の生きづらさがテーマの映画でなぜ?

 脱毛サロンで施術者として勤める21歳のカナ(河合優実)は、飲んで遅く帰っても文句も言わず、食事も作ってくれる不動産業者勤務のホンダ(寛一郎)と暮らしつつ、脚本家のハヤシ(金子大地)とも関係を持ち、ホンダと過ごす休日にもハヤシから電話があると、友だちが泣いているからなどといって嘘をついてハヤシに会いに行ってしまう。ホンダが札幌出張から帰ってきて、上司に無理やり風俗に連れて行かれたが勃たなかったと告白して謝った後、カナは黙って出て行き、ハヤシと暮らし始めるが、ハヤシから執筆中は1人にして欲しいと言われて…というお話。

 おそらく多くの観客、特に男性からは、カナは、暴力的でないことはもちろん支配的でも圧迫的でもなくむしろ優しい男たちに二股をかけながら、それでも満足できずにいるわがままな女と位置づけられるでしょう。
 カナに追いすがるホンダが、僕はカナのことを理解していると言い、ハヤシが、カナとならお互いに高め合って行けると思うと語るのを聞いて、特にリアクションは見せませんがたぶん内心うんざりしているカナをどう見るかというところかなと思いますが。
 カナについては成育上の問題の描写は特になく(父親を最低の人と言っている、母親は中国人というくらいでそこは掘り下げられません)、職場の人間関係も特に軋轢がある様子も陰口を言われている様子もありません。
 そういう中で、どこか不満や不機嫌を漂わせつつもどちらかと言えば無表情に近いカナの鬱屈に何を感じるかというあたりが、たぶんこの作品のテーマであり、評価の分かれるところだろうと思います。一般化すれば、Z世代の鬱屈を描いているのだということでしょう。

 さらに、終盤、暴力的になるカナをどう評価し、この作品の描き方をどう見るかは、たぶんあえて多義的な解釈の余地を残していると見えます。
 カナをそこに追い込んだ現代日本社会の病理を見るか、病気というレッテルを貼ってある種排除ないし無視し理解の外に置く現代の日本社会とマスコミの風潮の問題を見るか。登場する医療関係者を少しうさんくさげにあるいは頼りなく描いているのは後者かなと感じましたが。
 しかし、さらに言えば、平気で二股をかけるのも(成育歴とか職場とかで)特に事情があるわけでもないのに暴力を振るうことにも共感はできないものの、少なくともさまざまな映像作品上二股をかけて何ら良心の呵責を感じない/恥じない男はごくふつうに登場しますし、かつて、例えば50年前なら若者が理由なく反抗し暴力を振るうことに私たち(社会あるいはメディア)は寛容だったのではないでしょうか。それを病気と描かなければならないとすれば、それは私たちの社会が逸脱を許さない狭量なものに変貌してきたというのではないでしょうか。そういう大上段の問題提起がなされているのではないとは思いますが、ちょっとそういうことを感じてしまいました。

 タイトルの「ナミビアの砂漠」は本編の中では、カナのスマホの中の動画として2回その映像が登場する(ナミビアとは紹介されませんが)、エンドロールで砂漠で水場にたむろする動物が映るだけで、特に映画との関連はないように見えます。カナの心の中は砂漠だとか、心象風景だというメッセージがあるのかも知れませんが。

2024年9月 1日 (日)

箱男

 1973年の安部公房の小説を映画化した映画「箱男」を見てきました。
 公開2週目日曜映画サービスデー、新宿ピカデリーシアター6(232席)午前10時35分の上映は、9割くらいの入り。
 観客の主流は中高年、一人客が多い感じでした。

 街中で段ボール箱を被って座り込み前を通る人々を(主として女の脚を)穴から覗いて、自分が透明な存在で一方的に視る存在であることに自己満足を感じている男(永瀬正敏)が、何者か(渋川清彦)に襲われて怪我をしたところに、現れた偽看護師の葉子(白本彩奈)から近くに医者がいるから尋ねるようにメモと金を渡され、そこで偽医者(浅野忠信)と葉子に治療を受け麻酔をかけられ…というお話。

 最初モノクロの写真コラージュが続き、その中で1970年代が語られ、1973年箱男が誕生したとされて、段ボール箱に潜む男が登場するのですが、1970年代の風情ではなく(街行く人の格好から:1970年代にシャツを出して歩いている人なんてほとんどいなかったのにと思いながら)、その後はスマホやノートパソコンも登場しますし、いつの設定か示されませんが、どう見ても現代です。なら、なんで最初に1973年の話をしたのかわかりません。安部公房の原作小説が発行されたのは1973年ですが、その時生まれた箱男というアイディア・概念と、この映画中の箱男がどうつながるのかも説明もないし見ていてわかりません。

 この映画自体から考える限り、他者の視線を遮って自分が一方的に相手を視ることの権力性(現代思想業界では、ミシェル・フーコーの「監獄の誕生」・パノプティコンを例に挙げて論じるのが常道になっていますね)と書くことの権力性を見出し、自分がプチ権力者になる/なれるという妄執を持つ男たちが、箱男という形態/存在を取り合いつつ、自己完結することができずミューズ(あるいはマドンナ?)を求め、それに一定程度は付き合いつつも乗りきれずに覚めた目で見る女に自己の妄想と現実を示唆されて虚無感に陥るというようなことがテーマであり、ストーリーの根幹であるように見えます。
 男はどうとか女はどうとかの2分論自体、今どきどうよと思いますが、そういう抜きがたい古さが端々に感じられます。
 原作は学生時代に読んだきりで、まったく覚えていない(この映画を見る前に読み返す気力は起こらなかった)のですが、「箱男」ってこんなシンプルな作品でしたっけ?もちろん、映画化する以上、わかりやすくしないといけないのは理解しますけど…

 ラストメッセージも、もうずいぶんと言い古されたパターンで、言い始めたときにもう、ああこういうことをいうのだろうし、それで終わるつもりなのだなと見えてしまいました。

 私には、どうして今この原作で作って発表したいのかがよくわかりませんでした。

2024年8月25日 (日)

ラストマイル

 巨大ショッピングサイトの配送物への無差別爆弾テロを扱った映画「ラストマイル」を見てきました。
 公開3日目日曜日、新宿ピカデリーシアター2(301席)午前10時50分の上映は9割くらいの入り。

 世界的なショッピングサイトデイリーファースト(Daily Fast)関東センターに新センター長舟渡エレナ(満島ひかり)が遠方から赴任してきたブラックフライデーの日、委託先の羊急便が配送した荷物が爆発する事件が相次いだ。最初の2件では爆発した荷物中の商品が同じだったため、舟渡はその商品の出荷を止めて検査をし、爆弾が入っていないことを確認して配送を再開したが、3件目は別の商品が入った荷物が爆発し…というお話。

 利便性を追求して構築されたサービスへの依存の危うさ、社会のインフラとなっているサービスを利用した無差別テロが組織によらずに一個人に容易にできてしまうことを問う作品です。

 事情を知らせないまま隠蔽工作のみを指示して派遣するアメリカ本社、犯行予告とさらなる爆破の危険に気づきながらそれを週末のニューヨーク市場が閉まるまで(日本の土曜日午前6時まで)警察に知らせないという判断(人命より株価!)、委託先に対する配送料の徹底した買い叩き、爆発物検査の委託先への押しつけなど、さまざまな場面で大企業の論理が描かれています。
 また、連続爆破事件を報じながら、それがすべてデイリーファーストの配送物だということに言及しないマスコミの巨大企業への忖度も表れています(そこは明示的に指摘されているわけではないのですが。ニュースではそれに言及せず、SNSで話題になってからSNSで話題になっていることだけ報じているというのが、今の日本のマスコミを表しているように思えました)。
 それでいいのかという問題提起ではありますが、結局それが通ってしまうことへの諦めのほろ苦さがあります。

 物流センターでの労働問題、配送労働者の劣悪な労働条件など、現在の日本での労働者の置かれた状況を考えさせられるところもあり、テレビドラマ系のメジャー作品としては頑張った方かなと思いました。

2024年5月26日 (日)

関心領域

 アウシュビッツ強制収容所の隣で安穏と暮らす収容所長一家の様子を描いた映画「関心領域」を見てきました。
 公開3日目日曜日、新宿ピカデリーシアター2(301席)午前11時20分の上映はほぼ満席。
 このテーマの地味な作品にこの混み具合は、驚きました。日本の観衆、割と意識高いかも…

 基本的にアウシュビッツ強制収容所の隣の邸宅に住む所長のルドルフ・ヘス(クリスティアン・フリーデル)と、妻のヘートヴィヒ・ヘス(ザンドラ・ヒュラー)、子どもたちと家政婦らの家族が近くの湖で水浴をしたり散歩をしたり庭のプールで遊んだりといった日常生活、ユダヤ人から略奪した衣服や宝石を品定めし着服するなどする様子が描かれ、展開としては、ルドルフ・ヘスが異動になり妻がそれに反対して自分たちはアウシュビッツに残るなどがある程度という作品です。

 残虐・悪辣な行為をする者にも、通常は家族がいるわけで、その点に関心を向けさせることを意図した作品に思えます。
 強制収容所長のルドルフ・ヘスが幼い娘たちを寝かしつけながら「ヘンゼルとグレーテル」を読み聞かせるシーンと、妻がアウシュビッツからの転勤に反対し私はここで子どもたちの教育に最高の環境を作り上げたと論じるシーン、どちらが怖いでしょうか。
 ルドルフ・ヘスの悪行も描いてはいますが、ユダヤ人からの略奪品に喜びアウシュビッツに居続けたいという妻の方により悪い印象を与えるように感じました。

 残虐・悪辣な行為により利益を得、またそれを支えている家族が存在することはそのとおりなのでしょうけれども、そいつらも同罪だと非難することは適切・公平なのでしょうか。だとすれば、パレスチナ・ガザの人々を虐殺するイスラエル軍の将校の家族も、24時間・365日死ぬまで働け的な労働者の酷使で財をなした経営者の家族も、武器商人の家族も同様に非難されるべきでしょうか。武器メーカーの社長の息子の大冒険活劇アニメを賞賛している日本の観衆のメンタリティにはそぐわないかも知れません。

 制作者は、妻は非難しても、子どもも同罪とすることには躊躇しているように見えます。趣旨や意図が私にはわからない描写もいくつかありその辺は言いきれませんが、象徴的には、2度目に「ヘンゼルとグレーテル」が登場する場面。グレーテルが魔女を竈に閉じ込めて焼き殺し、ヘンゼルに褒められるシーン、ちょっとドキッとして、そうかそのための「ヘンゼルとグレーテル」だったのかと合点しましたが、ここでは子どもは登場しません。ここでそれを聞いた子どもに何か言わせれば、言わせなくても反応を描写すれば、より印象的なシーンを作れたと思いますが、制作者はそこは自制したのだと思います(実在の人物でしょうし、そこは、子どもには罪はないということで)。

 テーマも意図も理解できますが、私には、どうかなぁという印象の作品です。

2024年5月 3日 (金)

ミセス・クルナス vs ジョージ・W・ブッシュ

 パキスタンで捕らえられて米軍のグアンタナモ基地に収容された息子を取り戻そうとする母の奮闘を描いた映画「ミセス・クルナスvsジョージ・W・ブッシュ」を見てきました。
 公開初日祝日、新宿武蔵野館スクリーン1(128席)午前10時5分の上映は6~7割の入り。

 2001年10月、ドイツのブレーメンで暮らすトルコ人移民のクルナス一家で、息子のムラートと連絡が途絶え、殺到したマスコミからムラートが刑務所に入れられたと知らされ、さらにキューバのグアンタナモ基地に収容されたと聞かされた母ラビエ(メルテム・カプタン)は、電話帳で探した人権派弁護士ベルンハルト・ドッケ(アレクサンダー・シェアー)の事務所に駆け込み、息子の救出を依頼するが…というお話。

 タイトルや予告編から、裁判映画と予想したのですが、何の手続きをしているのか今ひとつ理解できず、裁判の審理の場面も少なく、裁判ものとしてはとてもわかりにくい作品でした。
 最初にベルンハルトが最高裁に訴えるといっていた手続きでは、アメリカ人弁護士が最高裁で弁論をする場面がありますが、示された事件名(事件当事者)は別人で、ベルンハルトとラビエは傍聴席にいます。集団訴訟の一人という位置づけなのかも知れませんが、そこは明示されなかったように思います。これは判決が出て、裁判なしの拘束は違法とされますが、米軍側は「軍法会議」による形だけの裁判をして抵抗したことが示唆されます。
 それでその後ラビエが原告となってブッシュ大統領を訴えるという話になるのですが、こちらの一番肝心要の裁判の審理や結果が出てきません。少なくとも私には理解できませんでした。
 その後、ドイツでムラートが更新手続きをしなかったとして在留資格を剥奪されたため、ベルンハルトがドイツで裁判を起こし弁論するシーンが描かれています。この作品の中で、裁判の内容も結果もスッキリ理解できるのはこの裁判くらいです。
 米軍・アメリカ政府の横暴と不条理を描くのに、救いのなさを印象づけようとそうしているのかもしれませんが、行われている裁判手続きがわかりにくいのは裁判ものとして見るには残念です。

 人権派のベルンハルト弁護士。予約もなくいきなり押しかけてきたラビエから依頼を受け、親族が9.11の犠牲者というスタッフの感情を害し、事務所の家賃を払うのに窮しているというのに、ラビエから「お金も受け取らない」という台詞があることからして無償かそうでなくても低額で受けているようです。
 マスメディアが人権派弁護士を描くときのある種のステレオタイプですが、弁護士にとっては基本、迷惑な描写です。少なくとも、わたしにはとてもできません。予約なしでいきなり押しかけてくる人は確実にお引き取りいただきますし、スタッフが気持ちよく働けないと困ります(ときどき、弁護士にはへつらいながらスタッフには横柄な態度を取る人っていますが、そういう人の依頼も確実にお断りしています)。人権派だからとか、「庶民の弁護士」だから、自分の事件は受けるべきだとか特別低額で受けるべきだという人も、確実にお断りしています(本当にお金がない人は法テラス利用で受任しますが、法テラスの援助要件に当たらない実際にはお金があるのにただ弁護士費用がもったいないという人は弁護士に依頼すべきではないと思っています)。
 ベルンハルト弁護士の描写で一番どうかと思うのは、ラビエの依頼に集中した挙げ句、別の事件の控訴理由書が翌日締め切りなのにできておらず同僚の別の弁護士がそれを引き取るシーン。プロがこれをやるのは論外で、そういうことになりかねないなら、事件受任を断るべきだと思います。
 人権派弁護士への過剰な期待には、胸が痛むとともに頭が痛いところですが、私は、そんな虫のいいことを期待されてもとても期待に応えられないというスタンスで対応することにしています。

«名探偵コナン 100万ドルの五稜星(みちしるべ)

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