映画・テレビ

2023年11月26日 (日)

 公式サイトの表現によれば「世界の北野武監督が描く“本能寺の変”は戦国史を破壊する超・衝撃作!!」といううたい文句の映画「首」を見てきました。
 開会3日目日曜日、新宿ピカデリーシアター3(287席)午前11時の上映は5~6割の入り。

 重臣荒木村重(遠藤憲一)に謀反を起こされ1年あまり有岡城を攻めたが村重を取り逃したことに立腹した織田信長(加瀬亮)は、捕らえた村重の一族を皆殺しにした上で、跡目を餌に、羽柴秀吉(ビートたけし)、明智光秀(西島秀俊)らに、村重探索を命じた。落城して死屍累々の有岡城に現れて元甲賀忍者の芸人曾呂利新左衛門(木村祐一)らに捕らえられた村重は、千利休(岸部一徳)を通じて密かに光秀に渡されるが…というお話。

 見ての感想は、権力闘争の虚しさ、でしょうか。制作側の意図がそこにあるのかは、必ずしも定かではありませんが、娯楽映画としてみるにはあまりにも血なまぐさく、兵士のみならず家族や無関係な村人まで皆殺し、殺戮シーンと死屍累々の場面が続きます。そして武将たちは、ただただわがままで偏執的で洞察力を欠く信長、策略家ではあるが短気で小物ぶりを見せつける秀吉、穏健に見えるが私情(恋愛感情)を優先して主君を裏切りさらに愛人も裏切る光秀、したたかではあるが自己保身のため影武者を犠牲にし続ける家康(小林薫)など、いずれも「偉人」などではなく尊敬・共感できない/しにくいものとして描かれ、こういう人たちのために多数の人が犠牲になったのか、と思わせます。

 こういった人物像が、「戦国史を破壊する」というキャッチにつながっているのかもしれませんが、コメディなりパロディとして見るにはあまりに人が死にすぎていてそういう受け止めがしにくい感じです。
 信長にディープな名古屋弁でしゃべらせ続けたのは、(戦国時代の尾張弁が、現在の名古屋弁と同じイントネーションなのかは知りませんが)あぁそういう描き方もあるのだなと最初の方でやや感心しましたが、それもすぐそれならどうして秀吉も名古屋弁をしゃべらないのかと思ったところで止まりました。

 本能寺の変を描くというキャッチにしては、本能寺の変自体はずいぶんとあっさりした描き方で、そこを期待していると拍子抜けします。戦国時代全体についての見方・評価がテーマだと考えた方がいいでしょう。

2023年11月19日 (日)

法廷遊戯

 メフィスト賞受賞の法廷ミステリーを映画化した「法廷遊戯」を見てきました。
 公開2週目日曜日、新宿バルト9シアター3(148席)午前10時40分の上映は4割くらいの入り。

 久我清義(永瀬廉)が通うロースクール(法科大学院)では、唯一現役で司法試験合格済の結城馨(北村匠海)が主宰して告発者の主張を証拠書類と指定する証人の証言により判断する「無辜ゲーム」が開催されていた。ある日久我がかつて収容されていた施設の施設長を刺したことを指摘し殺人未遂を犯した者が法曹になる資格があるのかを問うチラシがばら撒かれ、久我は「無辜ゲーム」での審判を求めた。その後、かつて久我と同じ施設に収容され今はロースクールの同級生の織本美鈴(杉咲花)のアパートにもその過去を問うチラシがアイスピックで刺されるなどの嫌がらせがあった。2年後、司法試験に合格し弁護士となっていた久我に、結城から久しぶりに「無辜ゲーム」を開くことになったと呼出があり、久我が会場に赴くと、そこには…というお話。

 あくまでも久我と織本の視点で描かれているのですし、久我と織本にも苦悩があって、その境遇から庶民の弁護士としては久我と織本に共感するべきなのだろうとは思いますが、結城の刑事司法の限界に対する絶望・諦念・怨念と、しかし刑事司法に賭けざるを得ない苦悩と期待の方に涙してしまいました。たぶんそちらがテーマであり、また味わいどころの作品なのだと思います。

 原作では「無辜ゲーム」は最後の「無辜ゲーム」/事件の前には3回だけでいずれも事件との関係があったことが説明され、会場もロースクールの模擬法廷ですが、映画では一般的に「無辜ゲーム」が繰り返されていたという描き方で、最初に出てくるものは事件との関連性の説明もなく(告発者の様子もちょっと異常な感じですし)、ロースクール内の「洞窟」(そんなものがあるんかい?)で行われるといった点で荒唐無稽というか現実感が希薄でした。また、原作ではその「無辜ゲーム」でどのような制裁を科すべきかが論じられ、その中で結城が「同害報復」(目には目を)を語り、この結城の考えが作品の中で重要な意味を持たされているのですが、映画ではその説明がなく、「同害報復」は結城の研究テーマとして出てくることになります。私には、原作の説明の方がしっくり来ました。
 その他、弁護士的な感覚では、映画では久我が公判期日に突然提出した映像を、裁判官が休廷もせず自分で中身を確認せず検察官に中身を見る機会も与えないままに法廷で再生させる(原作では、いったん休廷し、裁判官と検察官が内容を見てから、再度開廷した上で再生)というのはありえないとか、終盤で語られる事件の真相が被害者の創傷の態様やナイフへの指紋の付き方と整合するんだろうかという疑問を感じました。
 他にも、原作では事件発生は久我が弁護士になる直前(映画では弁護士になったあと)、久我の事務所はビルの地下(映画では2階で自宅兼用)、事務員がいる(映画ではいない)、刑法担当の奈倉は若手の准教授(映画では柄本明)などの設定の違いがありますが、そういった点以外はわりと忠実に原作をなぞっているように思えました。

2023年11月12日 (日)

愛にイナズマ

 自主映画の監督が家族の物語を撮ろうと長年疑問に思ってきた家族の秘密に迫る映画「愛にイナズマ」を見てきました。
 公開3週目日曜日、新宿ピカデリーシアター7(127席)午後1時5分の上映は9割くらいの入り。

 自主映画を撮り続けてきた映画監督折村花子(松岡茉優)は、20年前に出奔した母を題材とした「消えた女」という企画で制作費を得て企画を進めるが、プロデューサー原(MEGUMI)にあてがわれた助監督荒川(三浦貴大)から脚本や撮影方法でダメ出しを繰り返されて対立し、監督を降ろされてしまう。酔っ払いに路上で意見して殴られそうになっている学生をかばって殴られた愚直で不器用な青年舘正夫(窪田正孝)をバーで再度見て意気投合した花子は、夢をあきらめるのかと正夫に挑発され、正夫を連れて長らく連絡しなかった父(佐藤浩市)を訪れて、母の出奔の真相を告白するように迫るが…というお話。

 基本的には、それぞれに不器用な生き方をしてきた人たちが、真実をおろそかにしたくないと不器用に迫る花子にほだされる人間ドラマです。
 しかし、その中で多額の金をつぎ込んで配布したが誰も使わないアベノマスクをみんなからもらってつけているという青年を登場させ(その台詞でアベノマスク配布に一体いくら金がかかったかを延々と説明させ)、「あったことをなかったことにする」ことが許せないと花子に繰り返し言わせるこの演出は、やはり安倍政権批判を意図しているのだろうと感じました。

 花子の父の側から、癌・余命宣告を受けたとき、自分ならそれを誰に知らせるだろうかと考えさせられました。
 胃癌であと1年の命と知った花子の父は、友人(益岡徹)の勧めで花子に繰り返し電話をし、電話に出ないならメールでもという友人に対し、大事なことは直接言わないと、と言ってそのまま。時折連絡していた次男(若葉竜也)はいつ知ったかは明らかにされませんが知っていて、長男(池松壮亮)には花子が押しかけてくるまで電話をしていません。さまざまな経緯と感情はあるでしょうけど、同じく連絡が途絶えている子どもの間で差をつけるか。また独り立ちしている子に心配させ巻き込むような連絡をするか。でも、やはり死ぬ前には会いたいよね、とか。

2023年11月 5日 (日)

私がやりました

 有名映画プロデューサーの殺人を巡る裁判とその後日談のドタバタ劇「私がやりました」を見てきました。
 公開3日目日曜日、WHITE CINE QUINTO(108席)午前11時の上映は2割くらいの入り。

 売れない女優のマドレーヌ(ナディア・テレスキウィッツ)は、有名映画プロデューサーに役をやると言われてその自宅に行くが、端役をあてがわれ愛人になれと言われて抱きつかれて激高して外に飛び出した。マドレーヌが帰宅すると、家主から5か月分の滞納家賃を払えと言われて疲弊したルームメイトでやはり売れない新人弁護士のポーリーヌ(レベッカ・マルディール)が待ち受け、大企業の御曹司だが働きもせず借金をして競馬につぎ込むろくでなしの婚約者アンドレ(エドゥアール・シュルピス)が訪ねて来て金を作るために別の女と結婚すると言い出し、気落ちしたところへ、警察官がやってきて、プロデューサーが頭を撃たれて殺害されたと言い、マドレーヌに疑いをかけた。予審判事(ファブリス・ルキーニ)に呼び出されたマドレーヌに同行したポーリーヌは…というお話。

 基本的に一見してコメディなので深刻に考えるべきではないのでしょうけれども、弁護士として見たときには、科学捜査のない時代の裁判で、無能というか、公正さを心がけない(最も本人は自分が公正なつもりでいるのかもしれませんし、その方がよりやっかいかもしれませんが)者に裁かれるというのはとても怖いことだと再認識しました。
 1935年のフランスという設定ですが、銃による殺人なのに、発射痕鑑定も硝煙反応検査もなく、予審判事が手袋もなく直接銃に触っているところからして指紋鑑定さえない(まじめには調べていませんが、指紋鑑定は1935年なら既に実用化されていたと思うんですが)。
 客観的証拠がきちんと確認されないままで、予審判事の推測(たとえて言えば「名探偵コナン」の毛利小五郎レベルの決めつけ:事務官がそれは無理じゃないかと進言して退けられたりしていましたが)で容疑が固められていくのを見ると、こういう時代に生まれなくてよかったと思ってしまいます(現代は現代で、何らかの事情で例外的に間違った判断がされたり客観的証拠が捏造されたりしても、客観的証拠あるという思い込みで是正されないなど、昔とは違った怖さはあるのですが)。

 そして、弁護士としては、ほんとうはやっていないのに正当防衛を主張するというポーリーヌの選択がまた、悩ましい。
 セクハラプロデューサーに襲いかかられたという状況があり、やっていれば正当防衛が成立する可能性が相応にあると判断しても(ただし、この作品ではそこまで詰めていないけれども、プロデューサーの行為の切迫性・重大性が立証できないと、なんせ銃で撃って殺害ですから、過剰防衛と判断されて減刑はされても有罪のリスクは考える必要があります)、やっていない殺人をやったという主張をすることには、弁護士としてやっていいのか疑問が残ります。
 ろくに証拠がなくても、予審判事の思い込みストーリーで進められるような司法では、まっとうに無実を主張して退けられるより、リスクを取っても正当防衛を主張する方がまだ可能性があるという判断なのでしょうけれども。弁護士として、それはあまりに悲しい。
 もっとも、戦前のフランスの状況を笑ってられるかというと、私が刑事弁護をやっていた頃(2000年代初め頃まで)の日本の刑事裁判でも、否認すると保釈されないという「人質司法」の下、やっていないと主張すれば長期間(1年以上など)身柄拘束され続けるので、有罪でも執行猶予とか罰金が確実な事件ではやったことにした方がはるかに実生活への影響が小さいという状況があり、幸いなことに私自身はそういう事案でほんとうにやっていないと言われたことがないので窮地に追い込まれることはありませんでしたが、弁護士としては周囲の弁護士の話を聞き自分がそういうケースに直面したらどうしたらいいのかと悩んでいたことを思い出しました。

 なれ合いと思いつきで容疑を決めつける予審判事、証拠をきちんと把握せず女性嫌悪丸出しの傲慢な検察官など、低レベルの法律家が跋扈する中、女性の無権利状態を指摘し、検察官からマドレーヌとの同性愛疑惑を指摘されても毅然として女性の権利を主張する新人弁護士のポーリーヌが少しりりしい。
 司法制度の機能不全を指摘する(こっちはコメディ、パロディとして)とともに、1935年を舞台にしながら現代的なフェミニズムのトーンを持った作品だと思えます。

2023年10月22日 (日)

おまえの罪を自白しろ

 真保裕一の小説を映画化したサスペンス映画「おまえの罪を自白しろ」を見てきました。
 公開3日目日曜日、配給会社松竹のメインシアター新宿ピカデリーのメインスクリーンシアター1(580席)での午前10時40分の上映は、公開初週末から入場者プレゼント(晄司:中島健人の写真付き名刺)配布の特典をつけて、3割くらいの入り。観客の大方半分は若い女性で、女性2人コンビが目に付きました。主演のジャニーズタレント中島健人(ケンティ)ファンなのでしょう。それでも大宣伝の結果がこれかと心配になりました。

 埼玉県が荒川に建設する上荒川大橋の予定地が変更され夏川総理(金田明夫)のお友達企業が評価額1億円だった土地を埼玉県に8億円で売却することとなったことが、総理の指示で埼玉県選出の衆議院議員で現在は内閣府副大臣の政治家宇田清治郎(堤真一)が差配したものではないかとの追及が続いている最中、宇田清治郎の5歳の孫緒形柚葉(佐藤恋和)が誘拐され、犯人から我々の要求は金ではない、明日午後5時までに宇田清治郎が記者会見を開き政治家として犯してきたすべての罪を自白しろというメッセージが届いた。取り乱して全部自白してと泣きすがる長女緒形麻由美(池田エライザ)を残して宇田清治郎が議員会館に戻る際、経営していた企業が倒産して宇田清治郎の秘書となった次男宇田晄司(中島健人)は麻由美に必ず柚葉は助けると言ったが…というお話

 原作は、政治家同士の駆け引きを読ませる作品と読みましたが、映画では序盤中盤の宇田清治郎があちこちに手を回しそれが功を奏さない中でどう判断しどう行動するかを見切り決断していく過程の大半をすっ飛ばしているのでその趣はあまり感じられません。
 原作を読んだときに、最初は感情的で視野の狭い小粒な人物と見える宇田晄司が、途中から突然大胆不敵で読みがある動きとなるのが不自然に感じられましたが、映画では途中がすっ飛ばされているのでますます何だろうと思います。どうしてだかわからないけど、晄司を立てて晄司が事件を仕切り解決していくということに素直に馴染めれば、シンプルでわかりやすい作品になっていると評価できるでしょう。
 映画では、なすすべもなく動けない宇田清治郎ですが、中堅与党政治家の気概と悲哀という点では、堤真一が存在感のある演技をしています。

 事件の犯人について、設定が変えられています。因果応報を出したかったのでしょう。心情的には原作の結末よりも納得感があり、それが狙いとは思います。しかし、この犯人像は当然原作者も考えはしたが捨てたアイディアのはずです。これでは警察が犯人に迫れなかったことに納得しにくいのではないでしょうか。映画では原作と異なり警察の捜査をほとんど描いておらず、晄司が思いつきで犯行動機を言い当てるような描写なので警察が無能でもいいという判断なのかもしれませんが。

 原作とは誘拐される柚葉が5歳(原作は3歳)、宇田清治郎の妻は故人(原作では存命)、宇田清治郎は内閣府副大臣(原作では6期目の衆議院議員だが無役)、中央テレビの記者神谷美咲との関係は特に触れられない(原作では同じ大学のよしみで知り合い事件中も連絡している)、原作では随所で安倍晋三がモデルと示唆されている総理の名前は夏川(原作は安川:原作と名前が変えられているのは総理と犯人の1人だけ)など、設定も微妙に変更されています。大した意味はないのでしょうけれども。

2023年9月17日 (日)

ミステリと言う勿れ

 漫画原作で2022年1月期フジテレビ月9ドラマの映画化(フジテレビ開局65周年記念作品だとか)「ミステリと言う勿れ」を見てきました。
 公開3日目日曜日、新宿ピカデリーシアター1(580席)午前11時25分の上映は、ほぼ満席。私は、テレビほとんど見ないので予備知識なしで行ったため驚きましたが、現在の日本映画の興行上は鉄板のパターンですからそういうものでしょうね。そういう映画ばかり大入りになるのはいかがなものかと思いますが。

 広島市内観光をしていた久能整(菅田将暉)は、知人の我路(永山瑛太)に紹介されたという高校生狩集汐路(原菜乃華)から自分の命とお金がかかっているので付いてきてくれと言われ、一帯の大地主狩集家の当主の遺言披露の場に立ち会った。その遺言では相続人4名にそれぞれ1つの蔵の鍵が渡され、あるべきものをあるべきところへ過不足なくするというお題が課され、その結果を遺言執行人の顧問弁護士車坂義家(段田安則)と顧問税理士真壁軍司(角野卓造)が見て判断し全財産を1人に相続させるとされていた。狩集家では相続の度に争いが起こり人が死ぬという汐路の要請で整はそのまま汐路ら相続人とともに狩集家の邸宅に滞在することとなったが…というお話。

 天然パーマ(天パ)の整のキャラでシリアス色を消し、コメディにまではならずにほのぼの系でまとめるという印象で、それを中途半端と見るか万人受けしやすい作りと見るか…
 整の長台詞が多い作品ですが、その中で1シーン、「バービー」もビックリの直球のフェミニズム的な発言がありました。専業主婦の赤峰ゆら(柴咲コウ)が幼い娘を親に預けて蔵の謎解きに奔走しているのをその父が叱責し、働いている夫に悪いと思わないのか、働かず家事をしていればいい楽な身分なのだから子どもの面倒くらいちゃんと見ていろというようなこと(正確な言葉は覚えていませんが)を言ったのに対して、人それぞれで家事が好きな人もいれば苦手な人もいる、家事が好きでも掃除は好きだが料理は嫌いという人もいる、家事なら楽だとどうして言えるのか、楽をさせてあげたいと思うのは自由だが、相手がそれが楽だと思うかは別だ、男は体が大きくて強いのだから肉体労働をしてくださいと言われたらどうですか、目の前の人がどういう顔をしているかがわからないようですね、女の幸せということは男が言っているし、男の幸せという言葉は聞かない、それは男の都合じゃないですかというようなことを、まさしく教条的に説教しています。ある面、娯楽作品でよく言ったなという気もしますが、他方でその言葉で影響があったのはゆらの整への心情が和らいだくらいというのも寂しいところです。

 冒頭、整が雪の中を広島県立美術館から出てきて、ロートレックの土産物が買えてよかった、モネはもっと年をとってからの方がわかるのかもというようなことを言っています。ロートレックの有名なポスターの「アンバサダー」(こんな絵)の男がかぶっている黒い帽子が整の髪と似たイメージだからでしょうか。ちょっと気になったので調べてみましたが、広島県立美術館の所蔵品検索(こちら)で探した限りでは、広島県立美術館はロートレックもモネも所蔵していません。ちなみに近隣のひろしま美術館はロートレックを2点、モネを2点所蔵していて、それもロートレックは「アンバサダー」と似た(モデルが同じ人物かも)「アリスティド・ブリュアン」(こちら)を所蔵しているのですが。

 具体的に言うとネタバレになるので説明しませんが、やはり(フジテレビさんには?)弁護士は信じていただけていないのだなと感じます。

 エンドロール後にテレビドラマファンへのサービス映像がありますが、テレビドラマを見ていない私には無意味に思える映像でした。

2023年8月13日 (日)

バービー

 公開3週(日本公開前)で世界興収10億ドル突破の映画「バービー」を見てきました。
 日本公開3日目日曜日、新宿ピカデリーシアター3(287席)午前10時30分の上映は、7割くらいの入り。

 バービーランドでは、バービーたち(女性)は大統領や最高裁判事を始めさまざまな地位に就き、ボーイフレンドのケンたち(男性)と毎晩のようにダンスパーティーなどで楽しく過ごしていた。ところが、ある日ステレオタイプのバービー ( stereotypical Barbie )(マーゴット・ロビー)はダンス中に他のバービーに死について考えたことある?と聞き、みんなを凍り付かせてしまい、慌てて撤回した。翌朝、ステレオタイプのバービーは、自分の口臭に気がつき、それまでハイヒールを履くために都合よく踵が浮いていたのが地面に付いてしまうという変調を来し、驚愕する。壊れたバービーを直せると言われている変てこバービー ( Weird Barbie )(ケイト・マッキノン)に会いに行ったステレオタイプのバービーは、人間の世界(リアル・ワールド)に行って自分を使っている人間に会うように言われて、勝手に車に乗り込んでいたステレオタイプのケン(ライアン・ゴズリング)とともにカリフォルニアにたどり着くがそこではバービーランドとは違って…というお話。

 バービーランドは「すべてが完璧」(公式サイトイントロダクション等)とされています。女性が主役で(男性は添え物)、「なりたい自分になれる」という点で、女性の目に理想の世界に見えるのかもしれませんが、シリアスなことを考えることはタブーで、ハイヒールに合わせた足を持つことが当然視されている(バービーランドでは建築現場も女性たちが担っているというのに!)世界は、女性はものを考えずただ美しくあれ、という世界で、女性がそこに引きこもり幻想/妄想に浸っていることはむしろ(男性の)権力者に都合のいい状態でもあるように思えます。
 自分の頭で考えずにリアリティなく過ごしているから、ステレオタイプのケンが男社会の概念を持ち込みケンたちが主体性を持つと、あっさりケンたちに付いていきサービスすることが幸せ(楽?)と「洗脳」されてしまったのでしょう。
 そこは、バービーもケンも、それぞれがそのままで価値がある、みんな違ってみんないい、バービーランドでの地位も、女性が中心だけど男性にも少しずつ門戸を開こうというところで、手が打たれても、それはしょせん女性たちの夢の世界、心の中での理想を、「正しく」しただけで、現実世界でそれをどのように実現していくかは別に考えなければなりません。そういう観点から、ラストに注目していたのですが、それはどうよと思いました(監督の話では、自分の体を大切にしてという若い女性へのメッセージのようですが)。

 基本的にはフェミニズムの映画なのですが、バービーはフェミニズムを50年後退させたと述べ、ステレオタイプのバービーに対して「ファシスト」と罵ったサーシャ(アリアナ・グリーンブラッド)に対して、母でありマテル社の受付のグロリア(アメリカ・フェレーラ)はバービーに対する愛着と好意を示し続けていることや、ステレオタイプのバービーのリアル・ワールドでの就職等が最後に描かれるかと思いきやそこが裏切られるなど、中途半端に終わっているように思えました。
 もっとも、そうであっても、比較的ストレートにフェミニズムの視点を打ち出した映画が、アメリカで大ヒットし、世界の多くの国々でヒットしているのを見ると、時代の変化を感じます。

2023年7月30日 (日)

君たちはどう生きるか

 宮崎駿改め宮﨑駿監督の10年ぶりの長編アニメ「君たちはどう生きるか」を見てきました。
 公開3週目日曜日、新宿ピカデリーシアター2(301席)午前11時30分の上映は9割くらいの入り。

 空襲で母ヒサコを失い、1年後に父ショウイチとともに東京を離れ父が戦闘機工場を持つ地方の屋敷に移り住んだ眞人は、父の再婚相手で母の妹のナツコがすでに妊娠していることを知らされ、ナツコから気にかけられて世話を焼かれるが馴染めないでいた。度々屋敷に出入りするアオサギに、ある日、母は死んでいないと言われたことを気にしていた眞人は、ナツコが行方不明となったのを機に使用人のばあやの1人キリコとともに探し回るうち、アオサギに導かれて…というお話。

 作品の内容については、難解であるという評価が多く、作品のできについては絶賛と酷評が飛び交っているようですが、私には、青年(少年)が主人公の冒険ファンタジーとしてふつうにあり得る作品に思えました。
 設定の中に、ファンタジーとしても無理な点や一貫性に欠ける点があり、破綻しているという評価があるのも理解できます。しかし、それを言えば、多くの作品にその手のことはあり、ある程度しかたないものと思います。
 過去の宮崎作品のアナロジー等はふんだんに登場し、それを賛美する人は宮崎アニメの集大成と評価するでしょうし、悪く言えば過去の遺産を食い潰して生きながらえようとするのかと失望することもあり得るところです。
 そのあたりについて書き込んでいくと、どんどんネタバレになります。この作品では興行側が情報を絞ることに精力を注いでいることを考えて、そちら方面のコメントはこの程度にしておきます。

 さて、私にとって、この作品での一番強い感想は、宮﨑駿監督の姿勢、むしろ何が描かれなかったかにあります。
 2013年、福島原発事故後の技術者の倫理と責任が問われる情勢の下、戦闘機設計技師の生き様を賛美した映画「風立ちぬ」を公開し、その中で登場する主人公の同僚に爆撃機を作っているんじゃない、美しいフォルムを追求しているんだなどと言わせて、まるで美しいフォルムを追求しているのであれば、技術者の主観において「純粋」であれば、技術者は武器を作っても(核兵器だろうが原発だろうが何を作っても)免責されるのだと言わんばかりの姿勢を示した宮崎駿監督は、今作では、眞人の父を戦闘機設計技師どころか戦闘機メーカーの経営者と設定した上で、思春期の(おそらくは中学生)青年を主人公に据え、しかも「君たちはどう生きるか」などという生き様をテーマにしたタイトルをつけながら、眞人が武器商人の父の仕事への疑問や葛藤を覚えるシーンをまったく描いていません。私はこのことには驚きました。父が母が死んだ翌年にはもうその妹を孕ませていることについての釈然としない思いはわずかながらに描かれています(ただしそれはナツコへの態度に表れ、父が非難されるという場面はありません)。しかし、眞人が、父が武器(戦闘機)メーカーの経営者であること、さらには自分はその金で優雅な生活をしていることに考え込み、反発し、悩む場面はまったくないのです(あからさまにではなく、「間」のレベルでそれを読み取れるという意見も、ひょっとしたらあるかもしれませんが)。
 思春期の青年は、父親に対して何らかの反発や葛藤を持つのがふつうでしょう。それが、父親は死の商人、主人公は思春期の青年(少年)、作品のタイトルは「君たちはどう生きるか」。これだけそろいながら眞人が父親の仕事に何一つ疑問を持たないというのはあまりにも不自然だと思います。これは、宮崎駿監督があえて描かなかったと評価せざるを得ません。宮崎駿監督は、「風立ちぬ」での自分の姿勢は正しかったのだと、設計技師どころか戦闘機メーカー経営者でも何ら恥じるところはないんだと、開き直っているのでしょうか。
 残念ながら、私にとっては、「風立ちぬ」で示された宮崎駿監督のボケた政治センスが、10年後も継続しむしろさらにボケてしまったことを確認する作品となってしまいました。

 

 

2023年7月16日 (日)

サントメール ある被告

 母親による幼児殺の裁判をテーマとした映画「サントメール ある被告」を見てきました。
 公開3日目日曜日、ル・シネマ渋谷宮下7階(268席)午前10時30分の上映は2割くらいの入り。2022年ベネチア国際映画祭銀獅子賞受賞作の公開後最初の日曜日(全国17館・東京2館上映)のメインスクリーンの状況としてはやはり寂しい。日本の観客はやはり宮崎駿一極集中か…

 パリの大学に通いつつライターをしているラマ(カイジ・カガメ)は、フランス北部の海沿いの町サントメールで大学に復学して哲学を学んでいたロランス・コリー(ガスラジー・マランダ)が生後15か月の幼児を海岸に置き去りにして殺害したとして起訴された刑事裁判の記事を書くために傍聴し始めた。ラマは、傍聴に来ていたロランスの母と話すようになり、また自分自身が妊娠していることもあってさまざまな感情が押し寄せ…というお話。

 公式サイトのキャッチが「真実はどこ?」「あなたは誰?」「彼女は本当に我が子を殺したのか?」「世界中の映画祭を席巻、かつて見たことのない衝撃の法廷劇!」というのですから、法廷での迫真のやりとりの末に意外な、衝撃の真実が明らかになるという展開を期待しましたが、その点は、はっきり言って期待はずれでした。

 私にとっては、フランスの刑事裁判が、これまで思っていたよりも日本の刑事裁判とは大きく違うというのが一番の驚きでした。
 裁判の開始時点でまず、参審員がその場で選ばれ検察官・弁護人が忌避できるというのを見て驚きました。参審員というのは事件ごとに選ばれるのではなく特定の裁判官と一定期間すべての事件で一緒にするものと認識していたのですが、違うのですね。
 裁判では、まず裁判官が次々と一方的に質問をし続け、裁判官が気が済んだらそこで、検察官どうぞ、弁護人どうぞと言われるだけ。超職権的・糾問的構造で、これだったら弁護人なんて要なし、何のためにいるの?って気がします。そして、その促されてする質問が、質問になっていない。質問じゃなくて自分の意見を言っているだけという感じです。日本ではやってはいけない/素人かと見下される尋問の典型です。素人が作った映画だからね、ということではなくて、公式サイトのイントロダクションには「実際の裁判記録をそのままセリフに。」と記されています。ここはもう、裁判制度、裁判の実務が日本とはまったく違うのだと考えざるを得ません。
 そういった点で、裁判の実務の構造や考え方自体が違うのだということが実感できたのが、弁護士としては驚きであり、勉強になりました。

 ロランスの不倫相手であり、殺害された幼児リリの父親であるリュック・デュモンテ(グザヴィエ・マリ)の言葉の信用性と責任問題をはじめ、ロランスと母、ラマと母の関係、そして序盤にラマが大学で受ける講義で1944年のパリ解放の際にドイツ兵の愛人だったフランス人女性が次々と剃髪されてさらしものにされた映像が映されそれに関するマルグリット・デュラスの論考がテーマとされていることなどが、果たして単純に被告人のロランスを断罪すれば済むのかを問うています。
 作品そのものとしては、紹介されている法廷劇として見るよりも、母が、女が、幼児殺犯人として罪を問われることの意味を考えさせる作品として見るべきだろうと思います。

2023年6月25日 (日)

大名倒産

 浅田次郎の小説を映画化した時代劇コメディ「大名倒産」を見てきました。
 公開3日目日曜日、松竹の本丸ともいうべき新宿ピカデリーは公開初週末に最大スクリーンをあてがわず、シアター2(301席)午前10時45分の上映は4割程度の入り。

 越後丹生山で鮭役人間垣作兵衛(小日向文世)・なつ(宮崎あおい)夫婦の子として育った小四郎(神木隆之介)は、ある日突然藩主の子であると告げられて江戸の越後丹生山藩上屋敷に連行され、先代(佐藤浩市)から、長男は落馬して死亡、次男新次郎(松山ケンイチ)はうつけ者、三男喜三郎(桜田通)は病弱なため藩主はお前に継がせると宣告された。登城した江戸城で献上品の未納を老中(勝村政信)から叱責された小四郎は、家臣たちを問い詰めて、越後丹生山藩が25万両(約100億円)の負債を負っていることを知る。慌てて先代を訪ねた小四郎に対し、先代は5か月後には商人たちが騒ぎ始めるからそれまでは黙っていてそこで返済できぬといえばお家お取り潰しは避けられないが家臣や民は幕府が引き継いで生き延びられると言い放つ。いったんは納得したものの疑問を持った小四郎は、町中で再会した幼なじみのさよ(杉咲花)とともに調査と倹約作戦を始め…というお話。

 冒頭、この作品の結末はエンドロールの後にありますという告知があり、何かな?と思います。まさか、そう言っておかないとエンドロールが始まるやバタバタと観客が立つと予想してその予防のためなんてことじゃないでしょうねと訝しく思いました。
 原作と異なり幸せそうな幼少期を描き、母からお守りを渡され命を大切にするように言い聞かされるシーンが置かれているのが、小四郎の行動のバックボーンとなり、わかりやすくまた共感を呼びやすい設定となっています。幼なじみが磯貝平八郎(映画では天野大膳の部下として登場)と矢部貞吉(映画では登場せず)ではなく、さよで、母なつが小四郎が成人する前に死んでいなくなるなども、原作とは違っています(側室に迎えられる前に死んだことにした方がイメージがいいという判断なのでしょうけれども、小四郎が9歳の時に認知されて側室に迎えられ江戸の下屋敷に住んできたが作兵衛に操を立てて夜とぎを拒否しつづける原作の方が、私には共感できます)。
 メインストーリーの借金の処理について、原作では小四郎の有力な助っ人として登場する同様の経験をした他家の勘定役だった比留間伝蔵が登場せずその代わりを幼なじみのさよにさせていることに象徴されるように、さまざまな人物、さらには神まで登場させてさまざまな偶然や努力の貼り合わせで進めていた原作を、もっぱら内輪の人間の努力で解決するという物語に変えています。この点も、作品としてわかりやすくなり、神の力を外したことでより納得感なり共感が出てくると感じました。私が原作を読んで感じた不満(それについて読書日記の記事はこちら→「大名倒産 上下」:もっともその不満自体がこの映画の予告編を先に見たことに触発されている面がありますが)はほぼ払拭されています。他方で、さまざまな人の陰影や綾の部分を消してシンプルにして悪役をごく一部に押しつけることが、原作の味わいを損なっているところもあると思います。
 冒頭で期待を持たせたエンドロール後の結末ですが、そこまで引っ張るならもっとひねりなりパンチを効かせて欲しかったなと思います。小四郎のつぶやきに反対側に視線を送っているさよが、実は私の好きな人はこの人(例えば磯貝平八郎)とか言ったら観客の期待とは別方向でも、驚きを与えられたと思うのですが…

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