映画・テレビ

2017年4月23日 (日)

美女と野獣

 ディズニーの看板アニメの実写化映画「美女と野獣」を見てきました。
 封切3日目日曜日、新宿ピカデリースクリーン1(580席)午後1時40分の上映は、ほぼ満席。日本公開より5週早い2017年3月17日公開のアメリカでは歴代6位のオープニング興収を記録し、公開5週間ですでに全米歴代12位の興収を稼いでいる大ヒット作ですが、日本では前週公開のコナン、クレしんと翌週公開のワイルド・スピードに挟まれながらどこまで伸ばせるでしょうか。

 フランスの片田舎の城に住み美しいものだけを呼び寄せてパーティーを繰り返していた王子(ダン・スティーヴンス)が、吹雪の夜、バラを代償に暖を求めた魔女を嘲笑して、野獣の姿に変えられ、家来たちも時計やポットに変えられてしまい、魔女が持ってきたバラの花びらがすべて散る前に王子が心から愛し愛される人が現れなければ永遠に呪いは解けないと宣告された。近くの村に住むシェークスピアを愛読する娘ベル(エマ・ワトソン)は、自由を求め、本を読み、近隣の子に文字を教えるなどが村人の反発を呼び、変人扱いされていた。ベルの父モーリス(ケヴィン・クライン)が制作した商品を売りに遠出する際、ベルは土産にバラの花を希望し、モーリスは村に帰る際森で落雷と狼に追われて城にたどり着いたがしゃべるカップに驚いて逃げ出しその途中でベルへの土産を忘れていたことに気づきバラを折って、野獣に泥棒と見られて捕らえられる。馬だけが帰ってきたため帰らぬ父を探して馬に乗り城にたどり着いたベルは、父と交換で自分が城の牢にとどまり…というお話。

 ハリー・ポッターシリーズで秀才ハーマイオニーを演じてスターになり、その後若手女優のフェミニストのシンボルとなっているエマ・ワトソンを、聡明で進歩的でそれゆえに村人から変人扱いされているベルにキャスティングし、野獣の見た目に囚われずその本質を見抜くという設定は巧みで説得力を感じさせます。
 しかし、その一方で、野獣王子は荒んだ心で、呪いを解く者が現れないことに焦りいらだつのみで、呪いをかけられた頃から特に成長しているように見えません。ベルが、村の傲慢な青年ガストン(ルーク・エバンス)を振る時に言った、内面の美しさは、野獣王子にもないように思えます。野獣王子にベルが優しさを見出すのは、城を出て森で狼に襲われたベルを救った時という、べたにマッチョなパターン。聡明で進歩的/フェミニストのベル/エマ・ワトソンが惹かれたのは男の強さ/戦闘能力って、それはないでしょうと思う。
 さらに、ベルは醜い野獣の外見に囚われず王子の本質を評価するという設定なのに、美しいものだけを呼び寄せてパーティを開いていた王子が呪いをかけられその成長を求める作品で、野獣王子が愛する相手はなぜ「美女」でなければならないのでしょう。なぜ野獣王子には、女性の外見に囚われずにその本質を見抜き内面を愛することが求められないのでしょう。私の感覚では、モーリスを森で救うみすぼらしい村の女アガット(ガストンに能無し呼ばわりされていますし)あたりを野獣王子が愛するという話の方が、野獣王子が改心して呪いが解けるという展開にふさわしいと思うのですが…

 原題は「 Beauty and the Beast 」。野獣が「 the Beast 」なのに対して、「 Beauty 」には「 the 」がつけられていません。これを「美女」と訳すなら、美女は特定の存在ではなく、つまりベルである必要もなく、美女ならだれでもいいということになりそうです。そう解すると野獣王子の呪いを解く人はあくまでも「美女」でなければならないということが強調されることにもなります。呪いをかけられた経緯からすれば、それは奇妙なことに思えます。「 Beauty 」に定冠詞がつけられていない以上、それは抽象的な美を意味し、むしろ野獣の外見と対比される美、つまり内面の美と解することもできます。そう解するなら、これを「美女」と訳すことは誤りだということになると思うのですが。

 フランスの片田舎という設定ですが、登場するフランス語は、「ボンジュール」と「マドモワゼル」だけ(「ベル」も美しいという意味のフランス語でしょうけど)。「ボンジュール Bonjour 」に対して毎度「グッデイ Good day 」が返されています。それならいっそのこと全部英語にすればいいのに。

2017年4月16日 (日)

名探偵コナン から紅の恋歌

 名探偵コナン劇場版第21作「名探偵コナン から紅の恋歌」を見てきました。
 封切2日目日曜日、新宿ピカデリースクリーン2(301席)12時30分の上映は、ほぼ満席。

 毛利小五郎が(なぜか…)百人一首界をリードする「皐月会」の阿知波会長のインタビューをすることになり、またその前段で遠山和葉の同級生枚本未来子と高校生クイーンの大岡紅葉が対戦することになり、コナンらと「西の高校生探偵」服部平次らが日売テレビに集合していた時、百人一首の札のイラスト付きの爆破予告が入り、スタッフらは避難するが、皐月会の伝統の札を守ろうと会場に戻る枚本を追っていた平次と和葉は爆発に巻き込まれ、コナンに救われて九死に一生を得る。他方、京都では、皐月杯の連続チャンピオン矢島が自宅で撲殺され、その犯人と疑われた2年連続決勝敗退者の関根を乗せた車が爆破され、矢島の死体には百人一首の札が握らされており、関根のスマホには百人一首の札を添付したメールが送られていたことが発覚した。2つの事件の関連性を見たコナンと平次は、次の殺害対象と睨む阿知波と紅葉をマークするが…というお話。

 前作「名探偵コナン 純黒の悪夢」でシリーズ最高興収を記録した後、ネタ切れなのか、力を抜いたのか、今回は「名探偵服部君 ちはやふる便乗版」の趣です。
 タイトル(「から紅」:在原業平の「ちはやぶる神代も聞かず竜田川から紅にみずくくるとは」に由来することは明らか)からして、「ちはやふる」人気への便乗商法と予測されましたが、大岡紅葉とその師匠の名頃が絶対相手に取らせない6枚の札にして、殺害予告のキーとなる札(歌)が「ちはやぶる」で、百人一首決戦に挑む和葉が死守する札が「しのぶれど」って、まるっきり「ちはやふる」のパクリ(「ちはやふる」の千早のライバル若宮詩暢がこだわり死守する札が「しのぶれど」です)。同じ百人一首をテーマにする/舞台に使うにしても、もっと調べ上げて別のエピソードを作れば/探せばいいのに、と思います。

2017年4月 9日 (日)

午後8時の訪問者

 診療時間終了後の訪問を無視した医師がその訪問者が殺害されたことに自責の念を持ち真相を探るサスペンス映画「午後8時の訪問者」を見てきました。
 封切2日目日曜日、全国5館東京2館の上映館の1つヒューマントラストシネマ有楽町シアター1(161席)午前11時50分の上映は、入場者プレゼント(ベルギーワッフル)付で7~8割くらいの入り。

 入院中の老齢の医師の診療所で代診を務めているジェニー(アデル・エネル)は、採用されることが決まった病院の歓迎会の夜、診療時間を1時間余り過ぎた午後8時05分に鳴ったブザーにドアを開けようとした研修医(オリヴィエ・ボノー)を制止する。翌朝、ジェニーが出勤したところに刑事が訪ねてきて、近くで身元不明の若い女性の死体が発見されたが、診療所の防犯カメラに写っていないかを尋ねられ、ビデオを確認した刑事から、死んだのは昨夜午後8時5分に訪ねて来た者だと知らされる。自責の念に駆られたジェニーは、老医師の診療所を継ぐ決意をして病院への就職を断り、訪れる患者に次々とビデオに写っていた女性の写真を見せて被害者の名前を知ろうとし、無縁仏として共同墓地に埋葬された被害者のために墓地を確保するが…というお話。

 小さな診療所で町医者/家庭医として、次々と訪れるさまざまな病気・ケガを負った人たちを診察し、多数の患者の家庭に往診で回るジェニーの多忙な日々が、こまめに丁寧に描かれています。こうした町の人々の雑多なニーズに応えることのしんどさとやりがいを、専門医としてのキャリア形成を捨てて選び取るジェニーの姿勢に、それが自責の念が絡んだ苦渋の選択ではあるとしても、共感します。
 いつ急患が目の前に立ち現れるかわからない、プライベートの時間の確保が困難な医師という仕事柄ではありましょうが、診療時間を過ぎて訪れた者に応えなかったという、本来何ら責められるいわれのないことでジェニーが自責の念を感じる姿、しかもその者が急患で病気やけがで死んだのならまだしも、何者かに殺害されたという医師には関係のない死に至った、ただ開けてやっていれば追ってきていた殺人者に見つからなかっただろうという、医師かどうかにも関係がない事情で、自責の念を感じる姿に、医師という職業の過酷さ、業を感じます。このような姿、ジェニーの思いが描かれること自体に、医師に対する世間の期待、幻想の重さが感じられ、そういったものに応えようとする良心的な医師たちの苦労がしのばれます(方向性や質は違っても、類似の期待と幻想を持たれがちな仕事をしている者として、実感しています)。

 予告編でも/公式サイトのイントロダクションでも、紹介されているテレラマ誌の「かつてない力強いラスト」って、ラストシーンのことじゃないですよね? ラストシーンが近づいたところで、ふと、フランス映画だから/カンヌ国際映画祭のコンペティション出品作品だからここで終わりってありそうだけど…と思ったら、本当にそこで終わり、「えっ」(「あっ」と驚くのではない)と思いました。

2017年4月 2日 (日)

ムーンライト

 黒人少年/青年の友人男性への恋心を描いたアカデミー賞作品賞受賞作「ムーンライト」を見てきました。
 封切3日目日曜日、TOHOシネマズシャンテスクリーン1(224席)午前9時45分の上映は8割くらいの入り。

 麻薬の売人の黒人フアン(マハーシャラ・アリ)は、いじめっ子に追われてフアンが麻薬を隠していた廃墟に逃げ込んだ黒人少年を連れて恋人テレサ(ジャネール・モネイ)のもとに帰る。少年は黙り込んでいたが、食事をさせて話を聞くうち、シャロンと名乗った。フアンは翌朝、シャロンを自宅に送るが、シャロンの母(ナオミ・ハリス)は、後日、フアンから麻薬を買っている客とわかる。フアンはシャロンを気にかけて何かとかまうようになり、海で泳ぎを教えたり、自分の道は自分で決めろ、周りに決めさせるなと諭すなどしていた。シャロンの母が客を取りその間家にいないように言われてシャロンは行き場がなくなり、学校でも心を許せるのは親友のケヴィンしかいなかったが、フアンが亡くなり…というお話。

 母子家庭に育ちその母ともしっくりいかず、学校でもいじめられて、居場所がない少年が、目をかけてくれた大人に影響されながら育っていく様子、唯一の友人に友情を超えた恋心を抱いていく様子を、少年期の「 Little (チビ)」、青年期の「 Chiron (シャロン)」、成人後の「 Black (ブラック)」の3部構成で描いています。家庭環境/生育環境から抜け出せず、ケヴィンのほかには友人もできず、内気で自分からなかなか話さないシャロンの、目に見えた成長/状況の好転が描かれない/観客が見られないもどかしさ、切なさ、ケヴィンに寄せる思いと高校時代の事件をめぐる複雑な思いというあたりを味わう作品です。言葉少ないシャロンの目の表情が印象的です。

2017年3月26日 (日)

モアナと伝説の海

 南の島に住む少女の冒険を描いたディズニーアニメ映画「モアナと伝説の海」を見てきました。
 封切3週目日曜日、新宿ピカデリースクリーン8(157席)午前8時10分の上映は8割くらいの入り。

 幼い頃に卵から孵ったばかりのウミガメを鳥から助けて海に好かれた南の島に住む村長の娘モアナは、サンゴ礁の外の海に好奇心を持ち続けていたが、父トゥイからサンゴ礁の外の海に出ることを固く禁じられていた。トゥイ自身が若いころ仲間と外海に出て大波に遭い仲間を失った苦い経験をしていたためだった。成長したモアナは村長を継ぐ決意をしたが、ヤシの実が水分を失い、内海で魚が獲れなくなって、モアナの知恵では解決できない危機が訪れ、モアナは、幼い頃祖母から聞かされた人間の英雄マウイが世界を創造した女神テ・フィティの心を奪ったため暗黒が訪れたという伝説を思い出し、マウイを探し出してテ・フィティに盗んだ心を返させようと、海へと漕ぎ出すが…というお話。

 少女の冒険と成長がテーマで、それはよく描かれていると思うのですが、物語(伝説、童話)としては、モアナが帰還した(一応ネタバレではありましょうが、この設定でモアナが帰還しないという進行はあり得ないでしょう)際に、モアナが冒険に出る前に生じていた問題(ヤシの実が水分を失ってカスカスになっている、内海で魚が獲れない)が解決したという描写がはっきりなされていないのは、不完全燃焼感があります。海洋の民としての本分を取り戻すというところにポイントがあったのかもしれませんが、それであれば、女神にマウイが盗んだ心を返すということは必要なかったわけで、ディズニーにしては、抜かりがあったと思います。

 本編上映前の短編アニメは、健康管理と単調なデスクワークに縛られたビジネスマン(そう言えば、今どきにしては、女性労働者も同時に描こうという努力が見えなかったような…)の悲哀を描き、たまには自由にやりたいようにやろうよというものでしたが、春休み公開のアニメのターゲット層のお子様連れ(字幕版上映ではわずかしかいませんでしたけど)にはちょっと物悲しいかと思います。

2017年3月20日 (月)

わたしは、ダニエル・ブレイク

 役所から手当受給を拒否され当惑し苦しむ心臓病で働けなくなった高齢の大工とシングルマザーの姿を描いた映画「わたしは、ダニエル・ブレイク」を見てきました。
 封切3日目月曜日・祝日、全国11館東京2館の上映館の1つヒューマントラストシネマ有楽町シアター1(162席)午前10時20分の上映は満席。

 心臓病のため医師から労働を禁止された59歳の大工ダニエル・ブレイク(デイヴ・ジョーンズ)は、支援手当の受給を申請したが、「就労可能」と判定され受給を拒否される。拒否の通知に異議を述べようとしても役所への電話はつながらず1時間48分待たされた挙句、認定人からの電話連絡の後でないと不服申立はできない、電話は認定人の手が空いたらかけるだろうと言われるだけ。憤慨して役所に行ったダニエルは、ネットで予約しないと受け付けられないとにべもなく拒否され、パソコンは使えないと言っても相手にされない。ロンドンからニューカッスルに引っ越してきたばかりで道に迷ったというシングルマザーのケイティ(ヘイリー・スクワイアーズ)を予約時間に遅れたと追い返す役人に、ダニエルは幼子を2人も連れた母を追い返すなんてひどいと抗議するが、一緒に役所から追い出される。フードバンクでの配給を受けたとき、空腹のあまりその場で棚にあった食品をむさぼり情けなくなって泣き崩れるケイティに、付き添ってきたダニエルは、あんたは悪くない、立派にやっていると励ますが、ダニエルも隣人や周囲の人々の助けを受けてパソコンから申請手続をしても、役所の壁は厚く…というお話。

 冒頭、おそらくは民間委託(アウト・ソーシング)で支援手当(日本の生活保護に相当するものと思われる)の受給要件として就労できないことの認定を担当する医師でも看護師でもない「医療専門家」が、ダニエル・ブレイクにマニュアルに沿って質問を続けるシーンが象徴的です。心臓病のために医師から働くことを禁止されたダニエル・ブレイクが、それを繰り返し述べているのに、心臓病とは関係なく、「介助なしで50m歩けるか」「手を上にあげられるか」等の一般的な質問を続け、その点数だけで機械的に判定する。ダニエルからすれば、医師から労働を禁じられているのだから、死亡/心臓病悪化のリスクを賭けるのでなければ働きようがない、それにもかかわらず手当の受給の段になると、手当を受給させないために極端に狭くされている要件(生活保護の不正受給などを言い立てるマスコミ等の連中がそれを後押ししている)を盾に「就労可能」と判定されてしまう。役所は法律(実際は役所がつくった基準)を口実に手当受給は拒否し、それを申請者側の落ち度と言い、また民間委託により責任を回避しようとする。こういった役所のやり口で、役所は手当の受給を減らし(税金は役人の給料や軍事費や銀行や電力会社の救済のような役人の目から見て有意義な使い道に回されることになる)、困っている人が、本来権利を有する手当の受給をできず貧困にあえぎ、健康を害し、またホームレスになっていく。この作品で描かれている、制度としては存在するセーフティネットが役所の都合で本来適用されるべき人に適用されない実情は、言うまでもなく、イギリスだけのことではありません。
 そして小役人、または民間人でも一定の権限を持たされた者が、弱者に対しては居丈高にふるまい権力を濫用したがるのも、普遍的な姿です。この作品ではアン(ケイト・ラッター)というダニエルの力になろうとし、ダニエルにあきらめないでと言い続けるケースワーカーと思われる職員も登場しますが、良心的な職員が少数いたとしても、組織の中でどうにもできません。
 手当を受給できず食べるものにも困り最終的には体を売ることになるケイティを、本来は助けるべき役所の代わりに励ますのが自分も手当が受給できず苦しんでいるダニエルであったり、ダニエルを最後に支援手当不支給に対する不服申立手続の専門家(弁護士と思われる)のもとに導くのがケイティというあたり、貧しい者同士の助け合う姿の美しさを感じるのですが、本来は役所がきちんとやるべきことをやっていればどちらも救われたはずなのにという思いが募ります。
 ダニエルが、自分は人間だ、犬ではないと言い、ずっと働き、税金を払ってきたしそのことを誇りに思っている、権利のはずの手当をなぜ誇りを持って/プライドを捨てずに受けることができないのかと問う姿は、りりしくも悲壮感が漂い、見ていて涙が出ます。
 こういう作品をパルムドール(最高賞)に選んだカンヌ国際映画祭の姿勢は称賛に値すると思います。

2017年3月19日 (日)

SING シング

 廃業を迫られる劇場主が再起を賭けて歌のオーディション企画に取り組むという、「ミニオンズスタッフ最新作」映画「SING シング」を見てきました。
 封切3日目日曜日、新宿ピカデリースクリーン5(157席)午後6時10分の上映は、ほぼ満席。

 父が洗車屋で稼いだ資金で劇場主となったコアラのバスター・ムーン(声:マシュー・マコノヒー)は、出資者に追加の出資を断られ、銀行に返済を迫られ、役者へのギャラも払えず、長年の友人の羊のエディ(声:ジョン・C・ライリー)にも廃業を勧められていたが、一発逆転を狙い、アマチュアの歌唱オーディションを行うことにした。賞金は全財産をはたいて1000ドルの予定だったが、秘書のトカゲのミス・クローリー(声:ガース・ジェニングス)のミスで10万ドルと印刷された大量のチラシが配布されてしまう。劇場には応募者が長蛇の列をなし、バスターは8組を選んで準備を進めるが、選ばれた者たちもそれぞれの事情があって…というお話。

 追い込まれた劇場主バスターのあがきと、選ばれた歌手のそれぞれの事情、特に25匹の子どもたちの世話に追われる日常を過ごしつつ夢を持つブタの主婦ロジータ(声:リース・ウィザースプーン)、自分より才能に欠ける俺様男の恋人との関係に悩むヤマアラシのアッシュ(声:スカーレット・ヨハンソン)、ギャングのボスの父親に盗みの手伝いをさせられて悩むゴリラのジョニー(声:タロン・エドガートン)、あがり症で人前で歌えないゾウのミーナ(声:トリー・ケリー)の物語で、見せる作品です。
 私には、ブタの主婦ロジータの、25匹の子どもたちの世話に明け暮れ、帰宅するや疲れて眠りこみロジータの様子はもちろん存在さえ把握できていない夫(この夫自身、へとへとになるまで働かされている、強欲な経営者の犠牲者だと思うのですが)との日常を抱えながら、晴れの舞台での輝き(必ずしもその日常から脱出しようというのではなく、一時の夢として)を求めるバイタリティに、最も魅力を感じました。画としては太めのブタなのですが、そのロジータに、10代のアッシュよりも魅力を感じてしまうのは、やはり私の年齢のせいか。

 オーディション等の場面で多数の歌が流れる中、きゃりーぱみゅぱみゅの歌が日本語で流れ(いずれも一瞬でしたが、公式サイトで確認すると3曲も)、レッサーパンダの5人組のアイドルグループが日本語でしゃべり(私は、「ミニハムず」(古い!(^^;))をイメージしてしまいましたが…)、と日本市場を意識した構成になっています。
 公式サイトでも「ミニオンズスタッフ最新作」が謳い文句になっていて、上映開始直前にミニオンズが登場します。独立の短編というほどではなく、今後ミニオンズの新たな作品が出るぞという広告で、そのエンドは制作会社の「 ILLUMINATION 」が「 ILLUMINATION 」になるというミニオンズの宣伝です(色が変わったところが、MINION になっている)。エンドロールの後、続編制作決定のお知らせがあり、予告編で大活躍のブタのグンターが出てきたので、続編の一部が予告編として出るのかと思ったら、それもなしですっと終わってしまいました。ディズニー/ピクサーと互角の戦いができる制作会社になるには、こういうところ、きちんと観客の期待に応える必要があると、私は思うんですが。

2017年3月12日 (日)

お嬢さん

 結婚により莫大な遺産を相続することになっている屋敷に囚われたお嬢さんを騙す計画で詐欺師と侍女が乗り込むR18+指定のミステリー映画「お嬢さん」を見てきました。
 封切2週目日曜日、全国15館東京3館の上映館の1つTOHOシネマズシャンテスクリーン2(201席)午前10時20分の上映は7割くらいの入り。R18+指定ではありますが、割と女性の観客もいました。

 1939年、日本の植民地支配下の朝鮮で、叔父上月(チョ・ジヌン)の屋敷で膨大な書物に埋もれて叔父の命で書物の朗読をして日々を過ごす秀子(キム・ミニ)が、結婚すれば莫大な財産を相続することになっており、自分が秀子と結婚して財産を手にしたあと秀子を日本の精神病院に閉じ込めて財産を自由にしようという詐欺師(ハ・ジョンウ)に誘われ、スッキ(キム・テリ)は「珠子」と名乗って秀子の侍女として屋敷に入り込み、藤原伯爵を名乗って上月に取り入った詐欺師をアシストして、秀子が詐欺師に好感を持つように仕向けようとする。しかし、一方で秀子の世話をするうちにスッキは秀子に好意を持ち、さらには思いを寄せ、ついには性的な関係を持ってしまい、心が揺れ…というお話。

 3部構成の作品の第2部まで隠していることなので、書いてしまうとネタバレではありますが、予告編でもお嬢さんと人形の疑似性交や春画が登場するのでまぁ推測がつくと思います。この作品では、叔父の下で軟禁状態のいたいけな少女(お嬢さん)が叔父と叔父の取り巻きのスケベ男たちの前で春本を朗読させられ続けているというシチュエーションが重要な意味を持っています。原作( FINGERSMITH 邦題は「荊の城」:サラ・ウォーターズ、2002年)は、ロンドン郊外の人里離れた古城が舞台ですが、これを日本支配下の朝鮮を舞台にしたのは、日本の支配層にそのような堕落を見出し/感じたということなのでしょうね。
 韓国映画ですが、日本の支配層の屋敷が舞台のため、半分近いセリフが日本語です。しかし、この日本語が、ネイティブの日本語スピーカーには片言のたどたどしさが残り、違和感があるというかどこかしらけがちです。お嬢さんが、いたいけな少女が、叔父やスケベ男たちの前でエロ本を朗読するシーンは、観客にはお嬢さんの肉声で聞かせるのがアピールすると思いますし、それは観客の母国語の方がいいと思いますが、これだと、韓国の観客は字幕で見ることになり、日本の観客は片言の日本語で、どちらも今一つに感じるんじゃないかと思いました。いたいけな少女感が、たどたどしい日本語の方がふさわしいという向きもあるかもしれませんが。

 力入れて、原作を読んで見たのですが、公式サイトの解説で「…そして、物語の幕開けから60分、我々は予想だにしなかった展開に目を見張ることとなる」とある第1部の終わり、ここは原作を読んだ時には、確かに考えてみれば相応に布石はあるのですが、驚かされましたが、さすがに原作を読んでから見ると、予定通りの展開です。しかし、むしろ原作を読んでから見た観客には、その後第2部の後半、これも予告編にありますからいいでしょうけど、お嬢さんの首つりシーンがまず驚きで、そこからは原作から大きく外れていきます。原作からの離脱が、好ましいかどうかに意見が分かれるでしょうけれど、例えばグリムのラプンツェルで王子とラプンツェルを7年間も荒野をさまよわせて苦労させなくても、と思う私のようなタイプには、この作品の展開は、原作よりも好ましく、原作を読んで重苦しく感じた読者には最も喜ばしく痛快と言えるでしょう。いやいや物語の主人公は激しく苦労しなければ(貧民層の読者でも世の中にはすごく苦労している人がいるんだ、自分はまだまだましだと思えるようでないと、読者が、救われないじゃないか!)というタイプには、原作の重厚さが失われているということになるのでしょう。
 お嬢さんとスッキの長めの濡れ場が3回あるのは、R18+の観客サービスなんでしょうね。スッキの側から見る第1部とお嬢さん側から見る第2部で2回出てくるのは一応必然でしょう(2回目も同じだけの長さで繰り返す必要があるかは…)けど、3回目は必然性はあまり…

2017年3月 5日 (日)

ラビング 愛という名前のふたり

 1967年、異人種間の婚姻を禁止したヴァージニア州法を無効とする判決を勝ち取ったラビング夫妻を描いた映画「ラビング 愛という名前のふたり」を見てきました。
 封切3日目日曜日、全国で13館東京では唯一の上映館TOHOシネマズシャンテスクリーン1(224席)午前10時の上映は6割くらいの入り。

 黒人の恋人ミルドレッド(ルース・ネッガ)から妊娠を告げられた白人のレンガ職人リチャード(ジョエル・エドガートン)は、喜んでミルドレッドに求婚し、2人はワシントンDCで結婚の手続をして、ヴァージニア州の自宅に戻った。深夜保安官(マートン・ソーカス)が2人の自宅を襲い、2人を逮捕した。ヴァージニア州では黒人と白人の結婚が禁止されていたからだ。リチャードが依頼した弁護士は司法取引(有罪答弁)を勧め、直ちにヴァージニア州を立ち去り2人一緒にはヴァージニア州に戻らないことを条件に懲役1年、執行猶予25年の判決が言い渡された。2人は、ワシントンDCのミルドレッドのいとこのうちで結婚生活を過ごすが、子どもが交通事故に遭ったことを機にミルドレッドは逮捕されてもヴァージニア州に戻りたいと言い出し…というお話。

 公民権運動のシンボルの1つとなった裁判の当事者を、リチャードは朴訥な無口で悲観的な職人、ミルドレッドは前向きで希望を捨てないが活動家ではなく夫についていくタイプの人物と描いています。ルース・ネッガの潤んだ瞳と笑顔が魅力的です。
 そういう、活動家ではない、ごく普通の庶民の裁判が歴史を動かしたという事実、言い換えれば、ほんの60年ほど前のアメリカで、普通の庶民がただ結婚したというだけで逮捕・投獄されていたという事実に、感動と驚きを覚えます。
 タイトルの「ラビング」 Loving は Love の現在分詞ではなく、2人の名前。原題は単純に " Loving " で、アメリカでは公民権運動史上の人物として通じるのですが、日本では無名のため、邦題に苦労の跡がしのばれます。

 ミルドレッドがケネディ司法長官に書いた手紙がACLU(アメリカ自由人権協会)に回され、ACLUが組織的に取り組むことになって、ACLUから指名された弁護士バーナード・コーエン(ニック・クロール)がラビング夫妻と面談します。その際、コーエンが、すでに有罪判決から5年がたっていて、控訴できないので、争うために2人でヴァージニア州に戻り再逮捕されることを提案し、リチャードから直ちに拒否されます。当事者が公民権運動の活動家で、組織として悪法の撤廃に向けた運動の活動方針を協議しているのなら、それもありでしょうけど、普通の当事者にそういうこと、言うかなぁ。その後、コーエンが、優秀な人権派弁護士フィリップ・ハーシュコプ(ジョン・バース)から憲法訴訟の経験を聞かれて、ほとんどないと答える場面、さらにはハーシュコプが、再逮捕されたらまずいぞという場面が置かれ、コーエンが経験の乏しい弁護士と評価されていますけど。
 裁判を進めながら、リチャードが、弁護士たちを評して、「ただの弁護士などあてにならん」というシーンがあります。ACLUが運動として取り組んでいるために無償とされているわけですし、ACLUが組織的に取り組んでもこう言われるのって…世間の弁護士への視線に、忸怩たる/悲しい/嘆かわしいものを感じます。

2017年2月26日 (日)

ラ・ラ・ランド

 売れないジャズピアニストと芽が出ない女優志望者の恋を描いたミュージカル映画「ラ・ラ・ランド」を見てきました。
 封切3日目日曜日、アカデミー賞発表前日、TOHOシネマズ新宿スクリーン7(407席)午前9時10分の上映はほぼ満席。

 高速道路の渋滞中にオーディションのセリフを練習し始め前の車が動いても気づかない女優志望のミア(エマ・ストーン)に対しセバスチャン(ライアン・ゴズリング)は後ろからクラクションを鳴らし続けそれでも動かないミアを追い越し、それを見たミアはセバスチャンに中指を立てる。オーディションに落ちたミアは、同じく女優志望のルームメイトたちに誘われてパーティーに出かけるが、愛車プリウスをレッカー移動され、とぼとぼと帰宅中見つけたバーに入ると、セバスチャンがピアノを演奏していた。セバスチャンの演奏が気に入ったミアが話しかけようとしたが、クリスマスソングを演奏するように言われていたのに逆らってオリジナルジャズナンバーを弾いたためにその場で支配人(J.K.シモンズ)からクビを言い渡されたセバスチャンはミアを突き飛ばして去っていった。春になりプールサイドパーティーで、セバスチャンがバンド演奏しているのを見たミアは、チャラい曲をリクエストしてセバスチャンの不興を買うが、脚本家に迫られているところを通りかかったセバスチャンに車のキーを取ってくれと頼み、2人はそのままパーティー会場を後にして丘の上の駐車場にのぼり、言い争った末ダンスを始め、意気投合する。紆余曲折の末、2人は交際を始め、ミアはオーディションに落ち続け、セバスチャンはかつてのジャズバンド仲間キース(ジョン・レジェンド)に誘われて不本意な曲の演奏を続け人気を得るが…というお話。

 基本的に、抒情というかノスタルジーの「気分」を味わう映画だと思います。
 冒頭シーンをはじめとして、カラフルなイメージを強調する作風と、エンディングは、私には、「シェルブールの雨傘」を思い起こさせましたが、この作品では、ミアはオーディションに落ち続けカフェのバイトを続けるという点では下積みの重さを感じさせますが、そのミアも後にはあっけなく成功し、セバスチャンは才能豊かで曲目・演奏のスタイルさえ妥協すればすぐに人気を博し成功する、2人の別離も生活苦や戦争のためではなく、成功のためということで、宿命とか生活や人生の重苦しさ、ましてや反戦のメッセージなど感じさせず、共通点は、抒情と悲恋のイメージのカラフルさにこだわったミュージカルだという点に尽きるように思えます。
 夕闇を背景にした駐車場でのダンス(ポスターに使われているシーン)に次ぐ見せ場のプラネタリウムでの空中ダンスは、私にはシャガールの絵をイメージさせます。そして、ラストのセバスチャンの表情にすべてが集約され、後々までその印象が胸に残ります。いろいろな点で視覚的な/絵的な印象の強い作品です。

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