映画・テレビ

2024年4月14日 (日)

名探偵コナン 100万ドルの五稜星(みちしるべ)

 名探偵コナンシリーズ劇場版第27作「名探偵コナン 100万ドルの五稜星(みちしるべ)」を見てきました。
 公開3日目日曜日、新宿ピカデリーシアター1(580席)午前10時40分の上映は9割くらいの入り。
 昨年、名探偵コナンの本命筋黒ずくめの組織を前面に出した「黒鉄の魚影」でシリーズ最高興収(初の100億円超)を挙げた後に服部平次・和葉コンビの作品にしたのは、2016年に黒ずくめの組織を前面に出した「純黒の悪夢(ナイトメア)」がシリーズ最高の興収を挙げた翌年、黒ずくめの組織が出てこない服部平次・和葉のカップルの行方に焦点を当てた「から紅の恋歌(ラブレター)」があっさり前年を上回る興収を挙げたことに味を占めての2匹目のドジョウ狙いの作品と思われますが、果たして…
※公開前日という絶妙のタイミングで、日本橋高島屋の「大黄金展」で展示中の時価1040万円の純金茶碗が盗まれるという事件があり、これは怪盗キッドの仕業に違いない、映画のプロモーションかと疑いましたが、関係なかったようですね (-_-;)

 函館の富豪斧江財閥の下に、斧江家が収集した土方歳三にまつわる日本刀を盗み出すという怪盗キッドの予告状が届き、警戒態勢の下、「キッドキラー」として呼ばれたコナン、剣道大会に出場するために函館にいた服部平次らはキッドの変装を見破るが取り逃がしてしまう。キッドを追って函館をさまよっていた平次の傍で斧江の顧問弁護士が殺害され、謎は深まる。戦時中に敗色濃厚だった日本軍が戦況を一変させ得る強力な兵器の隠し場所が6振りの日本刀を揃えることで解けるというのだが…というお話。

 展開のテンポのよさ、振り回し加減はよくできていると思いますが、肝心の謎解きが最終段階で失速する(えっ、それだけだったらもう写真で十分じゃん。再現実験する意味ある?)感があります。
 服部平次・和葉コンビの恋の行方のストーリーでは、前回は初登場でもあり存在感や絡み具合に注目できた大岡紅葉がムダに動いている感が強く、執事の伊織もわけわからない。そして平次の最後の叫びが、コナンらしい。
 エンドロールのあとに、怪盗キッドの正体を示唆するとともに続編の展開を予告するカットがあります。ここでコナンの両親が登場するのですが、母が若作りすぎで、カミさんは何度説明しても父の娘(つまりはコナンの姉か妹)にしか見えんと納得できない風情でした。高校生の親なんだからアラフォー世代でしょうし、私には今どき、アラフォー世代に限らず女性の容姿からの年齢判別なんてそもそも無理に思えているのですが。

2024年3月31日 (日)

オッペンハイマー

 アカデミー賞作品賞等受賞作「オッペンハイマー」を見てきました。
 公開3日目日曜日、新宿ピカデリーシアター1(580席)午前10時30分の上映は8~9割の入り。

 第2次世界大戦終戦後、プリンストン大学の研究所長に招聘されたJ・ロバート・オッペンハイマー(キリアン・マーフィー)は、原子力委員長ルイス・ストローズ(ロバート・ダウニー・Jr)に所長室に案内され、庭の池の前に佇むアルベルト・アインシュタイン(トム・コンフィ)を見つけて話しかける。オッペンハイマーは回想に浸り、数年前にアインシュタインに教えを請いに行ったときに思いをはせ、ストローズは商務長官任命に先立つ公聴会に赴き・・・というお話。

 原爆の父(マンハッタン計画のプロジェクト・リーダー)オッペンハイマーの話なんですが、設定としてはオッペンハイマーとさまざまな因縁のある原子力委員長ストローズの商務長官任命に先立つ議会の公聴会を大きな枠組みとし、同時並行的に原子力委員会がオッペンハイマーの機密アクセス権を更新しなかったことに対するオッペンハイマーの不服申立の審査のための非公開の聴聞会を続け、その中でオッペンハイマーの回想が続くという入れ子の構造となっていて、率直に言ってわかりにくい。
 私の目には、正義なり志を抱いて国のために貢献しても、特に(元)左翼とか人道的な人物は、権力者や官僚機構に利用されるだけで、自分の考えを通したり信念を貫くことなどできないというのがテーマなりメッセージなのだと見えますが、たぶんそうシンプルに描くのをよしとせずに、さらにオッペンハイマーを利用しようとした政治家もまた足元を掬われるという構図にしたくて、こういう設定を選択したのだろうなと思いました。
 オッペンハイマーについても、日本への原爆投下への積極意見と水爆開発への反対意見を並べ、さらにその論調も時々でうつろわせ、また私生活面も含めて迷いを描き、人と人生の複雑さを印象づけています。
 アカデミー賞作品賞を受賞し、観客動員も多い大ヒットと言ってよい映画ですが、今ひとつすっきり感がない、制作側も簡単にわかってくれるなよと言っているような印象の作品です。

2024年3月24日 (日)

四月になれば彼女は

 佐藤健・長澤まさみ主演の恋愛映画「四月になれば彼女は」を見てきました。
 公開3日目日曜日、新宿ピカデリーシアター7(127席)午前8時40分の上映は、4割くらいの入り。

 ボリビアのウユニ湖を歩き写真を撮る伊予田春(森七菜)から、10年ぶりの手紙が、獣医の坂本弥生(長澤まさみ)との結婚準備中の精神科医藤代俊(佐藤健)の元に届いた。折しも4月1日の誕生日を迎えた弥生は、お祝いにと取り出したシャンパンの瓶を割ってしまいそつなく片づけて行く俊に絡みあわないやや醒めた視線を送っていたが、愛を終わらせない方法を問いかけ、その後出奔してしまう。俊は、職場の精神科医奈々(ともさかりえ)に相談したり、弥生の妹純(河合優実)を訪ね、弥生の消息を追うが…というお話。

 冒頭から映し出されるウユニ湖、プラハの天文時計、アイスランドの海岸の朝日と、春が訪ね回る原作が明らかに映像化を意識して配した光景と春のその後などは原作どおりですが、原作を先に読んでから見たこともあり、設定の違いが目に付きました。
 大きな違いに見えないかも知れませんが、原作では湾岸のモノレールから花火(たぶん、ディズニーランドの、でしょうね)を見ながら春が藤代に告白し、弥生との関係も弥生がリンゴを投げてどの猿が食べるかを賭けようと言い出したことで決まり、という具合に、藤代は基本的に受動的でいましたし、春との学生時代の別れも藤代の方が自分が追いかけることができなかったと後悔しています。それが映画では藤代が積極的に朝日を見に2人で行く機会を作り(ペンタックスを騙してまで)積極的に告白し、弥生とも自らが弥生の元に駆け戻って抱きしめ、学生時代の春と藤代の別れは、春の方が自分が選べなかった、追えなかったと後悔しています。一見微妙な違いに思えるかも知れませんが、原作ではそういった受身で積極的に動けなかった/動かなかった藤代が最後に積極的に弥生を追うという転換が象徴的なメッセージになっています。原作では、ベタに「卒業」(1967年の映画)をダメ押し的に紹介しています(文庫版247~248ページ。もっとも結婚式場で花嫁を奪いバスに乗り込んだラストがハッピーエンドとは言えないという注釈付きですが)。映画の設定だと、以前から藤代が積極的だったが、それでも足りなかったと見ることになるのかと思います(追ってきた藤代に対する弥生の態度の違いもそれを反映してでしょうか)が、そこ、テイストが変わってくる感じがします。
 春の設定ですが、原作では青森の田舎の出身で、父親は登場せず、写真を始めたのは隣のカメラ屋のオジさんがきっかけ、大学では一人暮らしで藤代の家に通い、2人で海外旅行もしていて、自分の意思がはっきりした行動的な女性となっています。映画では大学に通えるところに実家があり、父親(竹野内豊)とともに住み写真も父親の趣味に習い自宅通学の箱入り娘的な設定ですし、藤代の告白に受動的に応じ(今ひとつうれしい表情でもなかったかも)海外旅行にも行けないというあまり自分の意思が明確でない描かれ方になっています。
 弥生の設定も、原作では藤代が自分の患者の飼い犬の世話を頼みに行くというお願いする関係で始まり、関係を持つきっかけは先に述べたように弥生側が主導するという関係だったのですが、映画では弥生が患者というところから始まり、藤代側がアプローチしていて、やはり弥生は受動的になっています。
 登場人物では、原作ではタイトルにも藤代と春の関係にも絡む大学の先輩大島がわりと重要な役割と位置づけを持っています。タイトルは大島が写真部の夏合宿の夜に海辺でサイモン&ガーファンクルの「四月になれば彼女は:April Come She Will 」を歌っていたシーン(文庫版88ページ、169ページ、263ページ)にちなんでいますし、藤代と春の別れは大島に起因する事情(結局明確にはされないのですが)で、春の手紙の中でも大島への回想が繰り返されます。このキーパースンの大島を映画では消滅させています。藤代と弥生の関係に集中するために藤代と春関係はシンプルにしたかったのかも知れませんが、ちょっと味わいが減っている感じもします。

 大島が登場せず、1度として「四月になれば彼女は:April Come She Will 」が流されない(しかし公式サイトのメイン画像でポスター画像となっている写真には、April Come She Will の書き込みがある)この映画、どうして「四月になれば彼女は」なのか。作品中であえて引っかけるとすれば、4月1日が誕生日の弥生が、学年が4月2日で区切られていて4月1日生まれは前の学年に入れられる(早生まれ扱い)のがいやだった、4月はきらいだという場面くらい。原作では特定されていない弥生の誕生日をそのために4月1日にしたのでしょうけれど、4月1日生まれの娘に「弥生」と名付ける親がいるものか・・・(理屈をいえば旧暦の3月は新暦では3年に1回程度の割合で4月1日も含む年があるのですけれど、そういうことを考えて名付けるということはないでしょう)

 ストーリーでは、原作では弥生は「愛を終わらせない方法」を問いかけたりしていないし、失踪の時期はもっと後だし、失踪後の行き先も違うなどの点でも違っていますが、まぁそのあたりは映画的にはありかなと思います。
 原作がこだわりを見せているカニャークマリの朝日が削られているのは、ロケ費用の問題か、それとも映像的にそれほどでもないという判断でしょうか。

2024年3月 3日 (日)

コットンテール

 遺灰をウィンダミア湖に撒いて欲しいという亡くなった妻の希望に添って夫と息子夫妻がイギリスを旅する映画「コットンテール」を見てきました。
 公開3日目日曜日、新宿ピカデリーシアター5(157席)午後0時40分の上映は7~8割くらいの入り。

 妻明子(木村多江)を失い失意の大島兼三郞(リリー・フランキー)は告別式の日に寺の住職から亡き妻から数年前に預かったという手紙を渡された。そこには、自分の遺灰はイギリスの湖水地方のウィンダミア湖に撒いて欲しいと記されていた。息子の慧(錦戸亮)は妻さつき(高梨臨)、と幼いエミを連れて切符を手配し、兼三郞とともに渡英するが、兼三郞は単身列車に乗り大きく外れて道に迷ってしまい…というお話。

 冒頭から妻を失った兼三郞の茫然自失というか腑抜けてしまっている様子が描かれます。昼間から酒を飲み、葬式に行く準備もできずに息子から叱られたり、不謹慎にも見えますが、やはり身近な人の死を受け止めきれずに意欲・気力を持てないでいるのだと思います。
 その後も息子と何度か衝突し、自分一人で行動して、父さんは自分のことしか考えていないと繰り返し息子に詰られます。妻の死以前からそのように言われてきたことや、公式サイトのイントロドダクションで「贖罪や和解といった普遍的なテーマを探求しながら、新たな一歩を踏み出そうとする家族の姿を映し出す」と記載されていることからすれば、自分の殻にこもり自分のことばかり考えて息子に対し心を閉ざしていた兼三郞が旅の過程で「成長し」心を開く物語と読むべきなのかも知れません。しかし、私には、兼三郞は、わがままはわがままなのかも知れませんが、妻を失って情緒が不安定になり、自分の気持ち・感情をコントロールできていない、さらに言えば自分がそういう状態になっていることを自分で意識できていないように見えます。
 近しい人を亡くした者の気持ち・心情は、えてしてそういうものではないかと、感じるようになりました。私には、妻を亡くした兼三郞の心情のうつろう様子の描写が染み入りました。

 慧との父子関係は、今ひとつ原因がわからないままにギクシャクしています。これもまた無口さ、不器用さの所産でしょうけれども、ありがちなものかと思います。

 コットンテール( cottontail )は、ピーターラビットの妹の名前(絵本の日本語版では「カトンテール」と振っています)で、明子が子どもの頃の1966年に一度ピーターラビットの舞台の湖水地方に行ったことがあるということが、そこに遺灰を撒いて欲しいという希望につながっています。

 どこかギクシャクした父子関係とその修復、一度訪れたというだけの場所に遺灰を撒いて欲しいと希望する背景などにも読み取るべきものがあるかも知れませんが、私には、それらもありがちな人間関係、家族関係として、主として妻を失った兼三郞の哀しみに圧倒された作品でした。

2024年2月25日 (日)

コヴェナント/約束の救出

 米軍曹長を救助したためタリバンから懸賞金をかけて狙われたアフガン人通訳の救出を描いた映画「コヴェナント/約束の救出」を見てきました。
 公開3日目日曜日、配給会社のメイン館 kino cinema 新宿シアター1(294席)午前10時40分の上映は1割程度の入り。

 2018年、アフガニスタン駐留米軍のジョン・キンリー曹長(ジェイク・ギレンホール)は、タリバンの武器倉庫と爆弾製造工場の捜索を続け、情報を得て基地から120km先の建物を急襲し爆弾製造工場を発見し時限爆弾を仕掛けたが、作業員から連絡を受けたタリバンが武装した兵士を多数派遣し銃撃戦となり、銃傷を受けたキンリーとアフガン人通訳アーメッド(ダール・サリム)だけが生き残った。アーメッドは、瀕死のキンリーを手作りの担架に乗せて、タリバンの追っ手をかわしながら山岳地帯を引きずり3週間をかけて米軍基地まで連れ帰った。4週間後意識を取り戻してさらに3週間を経てアメリカに帰国したキンリーは、アーメッドがタリバンから懸賞金をかけて狙われ、家族とともに姿を消したことを知り…というお話。

 ここまでは公式サイトや予告編で告知されているとおりで、この前半が思ったよりも時間をかけて描かれているのが少し予想外だった程度ですが、後半は、予告編で言われる「行方不明」「それは99.9%不可能な救出作戦」「単独行動」から想定される、キンリーが1人で何の手掛かりもないところからアーメッドを探すとか、1人でタリバンと戦うとかいうのとは、だいぶイメージが違います。具体的に指摘するともろにネタバレになるので止めておきますが、キンリーの元々の計画通りなら別にキンリー自身がアフガニスタンに赴く必要さえなかったはずで、まぁその方が現実的ですが、そこがわかったときには、おいおいと思いました。

 キンリーの「チーム」、腕がいいんじゃなくて、ただ装備が桁違いというだけと思います。火力/兵器の威力で圧倒するシーンは米軍らしい「力の正義」を見せつけられます。あくまでもタリバンは絶対悪という前提で、観客にカタルシスがあるのかも知れませんが、B29に竹槍で立ち向かおうとする者たちが機銃掃射や焼夷弾等で皆殺しにされるシーンだったら気持ちよく見られるでしょうか。私は、このシーンに至り、醒めてしまいました。

 アーメッドを助けるためにアフガニスタンに行く前にアーメッドと家族のビザを取ろうとして掛け合い、動かぬ官僚組織を前に35日間にわたり電話で怒鳴り続けるキンリー。そうしているうちにアーメッドたちが殺されているかも知れないと考えるなら、まずは救出してビザなしでもアメリカに送り込み難民申請すれば、米軍兵士を救った英雄でしかもアメリカ政府の宿敵のタリバンから懸賞金をかけて命を狙われているというのですから、難民認定するんじゃないでしょうか、いくら移民嫌いのトランプ政権でも(むしろ米軍兵士を救った英雄なら喜んで特別扱いしそう)。
 実はこの作品で一番描かれているのは、通訳人として米軍に協力すればビザを与えるという米軍の空手形に踊らされたアフガン人通訳の悲哀と、米軍とアメリカ政府の無責任で官僚的なふるまいなのかも。

2024年2月24日 (土)

カラーパープル

 ブロードウェイミュージカルの映画化にして1985年のスピルバーグ監督映画のリメイク「カラーパープル」を見てきました。
 公開3日目日曜日、新宿ピカデリーシアター6(232席)午前10時10分の上映は5割くらいの入り。
 1985年作品はアカデミー賞10部門ノミネートされながら受賞なし、今回は助演女優賞のみノミネートですが果たして…
 見たのはもう2週間前ですが、今頃になったのは、原作を読もうとしたのと仕事の書面締め切りに追われたため (>_<)

 「父」に孕ませられた子2人を奪い取られ、20歳になって傲慢な暴力男「ミスター」ことアルバート(コールマン・ドミンゴ)に嫁がされたセリー(ファンテイジア・バリーノ)は、愛する妹ネティ(ハリー・ベイリー)と離ればなれになったことを悲しみつつ、ミスターの息子のハーポ(コーリー・ホーキンズ)、その妻ソフィア(ダニエル・ブルックス)、ミスターが慕う人気歌手のシュグ・エイブリー(タラジ・P・ヘンソン)らに囲まれ、ミスターの横暴に耐えて暮らし続けるが…というお話。

 虐げられた黒人女性が耐え続けてしぶとく願いを果たすという作品で、ミュージカルらしく最後にセリーが歌い上げる " I'm here ! "(日本語字幕では「私は生きている」)が力強く感動的です。
 しかし、暴力に真っ向から抵抗するソフィアが踏み潰されて敗北し、セリーの成功も闘い取ったというよりは耐えているうちに転がり込んできたという印象で、観ていて今ひとつ高揚感というかカタルシスを感じません。私としてはやはりソフィアに勝利と幸福を感じさせて欲しい。

 この作品で黒人が白人から虐げられる場面はミリー市長夫人の登場する場面くらいです。この場面に至るまで、黒人女性を虐待するのは黒人男性だけで、世の中で悪いのは黒人男性で、白人などそれに比べたらよほどましと言いたいのかと思いました。今回は黒人男性監督ですが、白人(スピルバーグ)の作品だったら今どきどうよとなるかもしれません。

 原作の設定をいくつか変えながらエピソードの多くを詰め込んでいますが、説明や中間を省いているためにわかりにくいところが多かったように思えます。原作が、セリーが神様に送る手紙、ネティがセリーに送る手紙、セリーがネティに送る手紙で構成されているのを、基本、セリーの視点に統一し、その結果、ネティが語るアフリカの村のエピソードを大半落としています。その部分は原作を読んでいてアフリカの黒人たちを批判し愚かだとするニュアンスが強くストーリーとしても横道感があったので省いて正解かなと思いますが。

2024年2月23日 (金)

落下の解剖学

 2023年カンヌ国際映画祭パルムドール受賞作にしてアカデミー賞作品賞ノミネートの法廷サスペンス「落下の解剖学」を見てきました。
 公開初日祝日、新宿ピカデリーシアター5(157席)午前10時25分の上映は、ほぼ満席。

 ドイツ人の人気作家サンドラ(ザンドラ・ヒュラー)がフランス人の夫サミュエル(サミュエル・タイス)と事故により視力を失った11歳の息子ダニエル(ミロ・マシャド・グラネール)とともに住むグルノーブルの雪深い山荘に、ダニエルが愛犬スヌープを連れて散歩から帰ってきたとき、サミュエルが頭から血を流して死んでいるのを発見した。解剖医は他殺であることを否定できないとし、サンドラは殺人罪で起訴され、知人の弁護士ヴァンサン(スワン・アルロー)に弁護を依頼し、公判が始まるが…というお話。

 法廷サスペンスで、作品の多くの場面が裁判関係のやりとりなのですが、弁護士の目からは、フランスとの法廷慣行、尋問の運用の違いに、一種のカルチャーショックを受けました。
 証人の尋問/証言の途中でそれに関して被告人にも質問をする場面が多々ありました。これは、日本の裁判では通常はやりません(私は刑事裁判、もう十数年離れていますのでひょっとしたら変わっているのかも知れません)が、労働審判ではそれに近い運用がされている(使用者側の出席者:上司とか総務関係者とかに質問して答えがあったところでそれに関して労働者に質問したりというのは、ふつうに行われます)ので、そういうやり方もさほどは違和感はありません。
 しかし、検察官の尋問も弁護人の尋問も、証人や被告人に質問し証言を引き出すよりも、議論をすること、自分の意見を言うことに重きを置いている感じです。裁判では、証人の証言は証拠になっても検察官や弁護人の意見は証拠になりません。日本の弁護士の感覚では有利なというか使える証言を引き出せずに尋問としては失敗に終わって負け惜しみ/捨て台詞を言っているようにさえ聞こえます。裁判官がヴァンサン弁護士の意見を述べるだけの「尋問」のあとに、参審員に今のは弁護人の最終弁論ではありませんと注意していたのは、明らかに弁護人への皮肉でしょうから、フランスでもそれがスタンダードではないのでしょうけれども、「サントメール ある被告」でも同じような「尋問」がなされていた(そちらは実際の裁判記録に基づいて脚本を書いたとされていますし)のに続いてこういうのを見ると、フランスの裁判ではこういう尋問がふつうであったり効果があったりしているのかもと思ってしまいます。そうだとすると、裁判文化というか尋問の運用の違いに驚きます。
 また、日本でもそういうきらいがないではないですが、ちょっと証人に推測というか「意見」を求めすぎに思えます。専門家証人以外の証人は本来経験した「事実」を証言するもので、自分の意見を言う立場にはありません。そしてその専門家証人ではない証人の意見(推測)が裁判結果を左右する/裁判官が証人の意見(推測)に依拠するというのもどうかなぁと思います。

 スヌープが白目を剥いているところを始め、スヌープの表情や仕草がどうやって撮影したのかと思うほどはまっています。パルム・ドッグ賞受賞も納得の好演と言っていいでしょう。

2024年1月28日 (日)

哀れなるものたち

 アカデミー賞に作品賞・監督賞・主演女優賞・助演男優賞の主要部門を含めて11部門でノミネートされている映画「哀れなるものたち」を見てきました。
 公開3日目日曜日、新宿ピカデリーシアター8(157席)午前10時35分の上映は8~9割の入り。

 大学で教鞭を執る天才外科医ゴドウィン・バクスター(ウィレム・デフォー)は、入水自殺した妊婦の体にその胎児の脳を移植して蘇生させ、ベラ・バクスターと名付け、屋敷内に住まわせていた。ゴドウィンに呼ばれてベラ(エマ・ストーン)の観察記録を取るようにいわれた学生マッキャンドレス(ラミー・ユセフ)は、ベラの美しさに魅了される。大人の体と幼児の脳を持つベラは、思うままに行動し、屋敷の外に出られないことに不満を持つようになり、さらには性的快感に目覚めて自慰を始め、マッキャンドレスがそれをたしなめたのに対し、ある日忍んできて平然と誘惑を仕掛ける放蕩ものの弁護士ダンカン・ウェバダーン(マーク・ラファロ)とともに駆け落ちを決意する。ベラにそれを告げられたバクスターは反対しつつもベラに緊急時のためと金を服に縫い付けて渡し、ベラは止めるマッキャンドレスにクロロホルムを嗅がせてダンカンとともに世界を旅するが…というお話。

 幼かろうが、不思慮だろうが、不道徳だろうが、自分のことは、自分の体のことは自分で決めたいと強くアピールしそのように行動するベラに対し、それを抑圧する男たち(典型的にはダンカンとブレシントン将軍(クリストファー・アボット))を対置することで、自己決定権について考えさせる作品です。
 18禁指定(R18+)にふさわしく、これでもかというほどヌード・セックスシーンが登場します。それは、観客サービスの意図もあるのかもしれません(著名女優のフルヌードですから、もちろん客寄せの意図はあるでしょう)が、貞操観念とか、女性が奔放なセックスをすることに対する忌避感・嫌悪感とかに対して、そんなことを気にすることがバカらしくなる/感覚がマヒするまで、セックスシーンを見せてやるという意志のように思えました。ベラが娼婦として稼働する場面は、こうあっけらかんとやられるとセックスワーカーが自由意思で、好きでやっている(救済も規制もその他の政策も、不要だ)という描き方にも見えるのが気になりますが、ここではそれよりも自己決定だ(ダンカンに非難されたり、ブレシントンに許してもらったりするいわれはない!)ということなのでしょう。
 こうして見ると、「バービー」はずいぶんとお上品だったのだなと思えます。

 原作とは、原作がマッキャンドレスの文章を基本にそれにこの本の記述はウソだというベラの手紙をつけて真実がどこか疑わせる構成を取っているのを採用せず、バクスターが原作ではマッキャンドレスの大学の同級生なのを長年経験を積んだ大学教員の外科医に変更し、ベラと婚約するマッキャンドレスは原作ではベラとそれまでに2回しか会っていないのを連日通って観察・接触を続けていることに変更し、ブレシントン将軍を原作ではバクスターが追い返しているのをベラがブレシントン将軍について行くことに変更しています(その結果ラストも大きく違っています)。最初の3点は、その方が自然ですし、最後の点は映画の展開としてはその方がなじみ(最後にひとひねり)、いずれも原作から変更して正解だと思います。

 ベラがバクスターの屋敷に閉じ込められている間はモノクロで、ダンカンと旅立ったあとはフルカラーになり、海のシーンをはじめとして映像の色彩が美しく、映像の面でも楽しめる作品でした。

2024年1月21日 (日)

僕らの世界が交わるまで

 DV被害女性のシェルターを経営する母親と音楽ライブ配信に夢中の高校生息子の距離感を描いた映画「僕らの世界が交わるまで」を見てきました。
 公開3日目日曜日、kino cinéma新宿シアター1(294席)午前9時の上映は、1割足らずの入り。雨の日曜日朝という悪条件ですが公開初週末でこのガラガラぶりは…

 自室でギターをかき鳴らして音楽配信し、2万人のフォロワーを誇る高校生のジギー・キャッツ(フィン・ウォルフバード)は、親に配信中はドアを開けるな、静かにしていろと文句を言い、DV被害女性のシェルターを経営する母親エヴリン(ジュリアン・ムーア)からシェルターの補修を頼まれても拒否しつつ、学校にはエヴリンの車で送ってもらっていたが、政治環境問題への意識が高い同級生ライラ(アリーシャ・ボー)に思いを寄せ、ライラが述べた意見に他の同級生が否定的な態度を取ったのを見て自分はライラの意見に同感だと述べるが、どこに同感するのかと聞かれて言葉に詰まり、自分には2万人のフォロワーがいるなどの場違いな答をした。同級生と政治的な議論をしたいがどうすればいいかとエヴリンに問いかけたジギーは、子どものときにはデモにも連れて行っていたがあなたが興味を失い離れていった、議論をしようとするのではなくまず相手の意見をよく聞き学びそして自分の意見を持つべきだ、近道はないと言われ、反発するが、その足でライラの元に行き、自分は子どもの頃からデモや座り込みに参加していたと自慢話をして…というお話。

 自分は作曲時も配信時も大音量でギターをかき鳴らしているのに、同居する両親には静かにしていろと文句を言う、母親の収入に依存して生活し生活費を入れているわけでもないのに母親に対し自分の方が稼いでいると言い放つ(稼いだ金を何に使うと聞かれて配信のための機材等を買うと答え、永久運動(正確な言葉は忘れました)だねと呆れられる)など、視野が狭く経験も不十分なのに自分はイケているというプライドだけは強いジギーが、親に反発するとともに、思いを寄せるライラに対しても自分の視野の狭さ、知識経験不足、自らの思想のなさを顧みず、背伸びをし見栄を張る姿の痛々しさが印象的です。高校生なんてそんなものだよねと思いますが(自分の高校生時代を思い起こせば…自戒を込めて)。
 DV被害女性のシェルターを経営するエヴリンは、社会をよくしたい、被害に遭った虐げられた者を助けたいという意識が強く、また経験もあるのですが、自分の信念でよかれと思うことを実現することに急で、相手からは押しつけがましく思われがちです。デモや座り込みに連れて行った息子から反発され、その代償とも見られる被害女性の息子カイル(ビリー・ブリック)の大学進学サポートもカイルからは押しつけに見えてしまいます。
 もっとも、ノンポリで今や政治問題など関心も持たないジギーが政治環境問題への意識が高いライラを好きになるのも母親への思慕なり敬意によるものでしょうし、ジギーに反抗的態度を示されながらも聞かれれば真摯に答えようとするエヴリンにはジギーを受け入れたいという心情が見えているのですから、この親子には和解の素地が見えています。
 そういったありがちな親子の距離感、反発と和解をシンプルにわかりやすく描いた作品です。

 ジギーの未熟と背伸びの方に焦点を当ててより好意的積極的に作れば「いちご白書」(1970年)のような作品になるのでしょうけれども、そちらには向かいませんでした。時代の違いでもありますが。

2024年1月14日 (日)

ニューヨーク・オールド・アパートメント

 ニューヨークで暮らす不法移民たちを描いた映画「ニューヨーク・オールド・アパートメント」を見てきました。
 公開3日目日曜日、シネマカリテスクリーン1(96席)正午の上映は、5割くらいの入り。

 ニューヨークで飲食店の配達をしながら英語学校に通うペルーからの不法移民の兄弟ポール(アドリアーノ・デュラン)とティト(マルセロ・デュラン)は、母ラファエラ(マガリ・ソリエル)が男性客に人気のセクシーなウェイトレスとして稼働していることに誇りを持ちつつ他方で母が男性客に親しげに振る舞うことに嫌悪感を持ってもいた。ある日英語学校の教室を訪れて周囲から浮いていたクロアチアからの移民の美女クリスティン(タラ・サラー)に話しかけたポールとティトは、その後クリスティンと話すようになるが…というお話。

 基本的に、不法移民をあからさまに蔑む人、にこやかに寄り添いつつ自分の要求に応じなくなると途端に罵倒する人、不法移民に対して同情を示し助けようとする人の、姿勢、振る舞い、表情が描かれ、不法移民の置かれた境遇を訴える作品です。
 しかし、そこよりも、クリスティンの言葉と行動から、コケにされたら黙っていないで闘うべきだというメッセージ、ひいては弱者のプライド(ラマに象徴されるつばを引っかける程度であっても)が印象に残ります。
 また、ポールとティトの性の目覚めとか、ラファエラの家族愛もテーマになっているように思えます。

 たぶん、シングルマザーのラファエラの視点で描けば、よりストレートな不法移民の生活苦、差別、悲惨さをアピールする作品となったでしょう。家族関係についても、結局はラファエラの稼ぎに依存しているのにそれを十分に自覚せずに批判的な言葉をかけ、ラファエラの手伝いよりもデートを優先するような息子たちへの視線を出せばシングルマザーの大変さをもアピールするフェミニズム色も強まったでしょう。
 また、クリスティンの視点で描けば、不法移民の女を食い物にする男たちへの憎悪、ポールとティトにしてもクリスティンの目からはただセックスしたくて寄ってくる軽薄なチャラい男でそれを寛容にあしらいつつも我慢しきれなくなってくる(クリスティンが度々「今日の優しさはこれでおしまい」とつぶやく姿が痛々しい)様子が前面に出た移民と女性への虐待をよりストレートに描く作品となったでしょう。
 この作品は、それをせず、ポールとティトの視点で描いている故に、不法移民としての苦しみを描きつつもどこかお気楽なタッチになっています。それが過度に深刻にしないことで観客層を拡げる効果があるということなのか、メッセージ性を弱めて中途半端になっているということなのか、そのあたりをどう受け止めるかで評価が分かれるかなと思いました。

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