映画・テレビ

2023年3月19日 (日)

フェイブルマンズ

 ハリウッドの巨匠スティーブン・スピルバーグの自伝的作品とされる2023年アカデミー賞7部門ノミネートにして受賞0の映画「フェイブルマンズ」を見てきました。
 公開3週目日曜日、新宿ピカデリーシアター7(127席)午前10時25分の上映は9割程度の入り。

 幼少期に両親に連れられて初めて映画を観たサミュエル・フェイブルマン(サミー:ガブリエル・ラベル)は、その映画「地上最大のショウ」の列車衝突(crash)シーンが忘れられず、誕生プレゼントに列車の模型をねだり、映画のシーンの再現を試みる。技術者の父バート(ポール・ダノ)から何故破壊するのかと叱られても衝突シーンにこだわるサミーに、母ミッツィ(ミッシェル・ウィリアムズ)は、衝突シーンを撮影して繰り返し見るように勧め、サミーは模型での衝突を再現して撮影した。その後撮影とフィルム編集を続けるサミーに対して、バートは趣味はほどほどにしておけと言い、サミーは趣味じゃないと抗議し、家族の行事を記録したり、友人を集めて演技指導して映画を作り続けるが…というお話。

 スピルバーグの「自伝的作品」と紹介されるのですが、描かれるのは幼少期から映画の仕事に就くまでで、仕事を始めてからどのようにして映画を作っていったか、どのように巨匠となっていったかは、まったく触れられません。映画監督としてのスピルバーグについての描写を期待した(誤解した)観客も多かったと思われ、エンドロールが始まるや足早に退出する人が多くいました。
 この作品で、スピルバーグが映画に興味を持ち、子ども時代からフィルム撮影と編集を繰り返し手作りで映画を制作していたことは描かれていますが、むしろピアニストとしての才能を持ちながら専業主婦となり、優しく包容力があるもののワーカホリックの夫との関係と夫の仕事(転職)のために転居を強いられることに不満を持ち耐えられなかった母の女性としての生き様、葛藤、それをめぐる家族の物語としてみるべきでしょう。その意味で、それが映画監督の母であるかは2次的なものともいえる、そういうふうに割り切って観ることができれば(スピルバーグの自伝的作品という枠を取っ払っても観る気になれれば)味わい深いものと言ってよいと思います。
 サミーが高校の最上級生の時にバートがIBMに転職したためにカリフォルニアの高校に編入し、そこでユダヤ人差別を受けたことが描かれ強調されています。ユダヤ人差別について告発する映画が作られることはいいと思うのですが、ユダヤ資本が支配的なハリウッドで巨匠となり財をなしたユダヤ人映画監督が、ハリウッドで働き始めた後のことには一切触れないままに、それ以前の高校時代のユダヤ人差別を今になって採り上げて許しがたいこととしてアピールしても、今ひとつ観る側の琴線に触れません。
 母リア・アドラー(2017年没)と父アーノルド・スピルバーグ(2020年没)が亡くなるまでは作品化できなかったという事情なのでしょうけれども、芸術家としての成功を捨てる選択をした専業主婦の葛藤や高校生時代のユダヤ人差別というテーマが、今強い関心を持てるかというと(その種の作品はすでにたくさん観てきた人が多いと思うので)、難しいように思えます。

2023年3月12日 (日)

エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス

 2023年アカデミー賞最多ノミネート作品「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」を見てきました。
 公開2週目日曜日、新宿バルト9シアター4(80席)午前10時10分の上映は、7割くらいの入り。アカデミー賞最多ノミネート作品ですが、公開初週末興行成績は5位、アメリカでも公開初週末はトップ10にも入らず口コミで拡がって上映館が増えたものの週末興行成績は最高でも4位という作品ですので、アカデミー賞の主要部門で受賞して大きな話題にならなければ日本での観客動員は厳しいところでしょう。

 コインランドリーの経営に追われる中、税金の申告で問題を指摘され(カラオケセットの導入がどうしてコインランドリーの経費になる?)、頑固な父親ゴンゴン(ジェームズ・ホン)のサプライズパーティーの準備中に娘ジョイ(ステファニー・スー)が白人女性の恋人ベッキー(タリー・メデル)を連れてきた挙げ句、夫ウェイモンド(キー・ホイ・クァン)からは離婚を求められ、たくさんの問題を同時に抱えて煮詰まったエヴリン(ミシェル・ヨー)は、税務署のエレベーターの中で夫から、実は自分はマルチバースの別の世界から来た、巨悪から世界を救うことができるのはエヴリンしかいないなどと言われ、みんなの指がソーセージの世界などさまざまな世界を行き来しながら悪漢と戦うことになり…というお話。

 公式サイトの紹介で「悪の手先に襲われマルチバースにジャンプ! カンフーの達人である別の宇宙の〈私〉の力を得たエヴリンの全宇宙を舞台にした闘いが幕を開ける――!」とされていますし、エヴリンとジョイが石になって話し合うこの作品でもっとも哲学的なシーンが挟まれているのを見ると、実際に行き来しているという設定のように思えますし、バカなこと(お漏らしをするとか、鼻に噛みつくとか)をするとエネルギーが蓄積されてパワーアップするということから、コミカルなSFアクションという位置づけなのでしょう。しかし、私には、見ていて、人生のさまざまな場面での選択について、エヴリンがこうすればよかった、こうしていればこうなったかもしれないという妄想のように感じられました。そういった中高年の後悔と悲哀に満ちた人生へのノスタルジーと現実逃避がテーマなのではないかと思います。
 基本的には、中高年、特に中高年の女性が、自分にあり得た人生を思い起こし、さらには自分のような平凡な人間にも活躍の機会がありうると想像をたくましくする/夢想するというニーズに応える作品でしょう。

 年齢制限なしの映画ですが、久しぶりに映画館でモザイク・ぼかしを目にしました。そのぼかしたもののわりとリアルな形状のおもちゃは堂々登場して、何が隠されるべきなのか、ちょっと考え込みました。

2023年2月26日 (日)

逆転のトライアングル

 2022年カンヌ国際映画祭パルムドール受賞作「逆転のトライアングル」を見てきました。
 公開3日目日曜日、休館を1月半後に控えた渋谷Bunkamuraル・シネマ1(152席)午前10時20分の上映は2割足らずの入り。パルムドールに加えてアカデミー賞作品賞ノミネート作品の公開直後としてはかなり寂しい。

 ファッションモデルのカール(ハリス・ディキンソン)は、モデルでSNSのインフルエンサーとして稼いでいるヤヤ(チャールビ・ディーン)と交際中、より稼いでいるヤヤがレストランで支払をする素振りも見せずおごられて当然という姿勢でいることにクレームをつけ、お互いに利用しているだけと言われ、悄然とする。ヤヤが無料で招待されて、2人は大金持ちを乗せた豪華客船でのクルーズに参加するが、乗客は自慢話や我が儘を言い放題、船長は飲んだくれて船室にこもったままという状態で…というお話。

 原題は「 Triangle of Sadness 」ですが、邦題では「逆転のトライアングル」とされ、それに合わせて公式サイトでも「現代の超絶セレブを乗せた豪華客船が無人島に漂着。そこで頂点に君臨したのは、サバイバル能力抜群な舟のトイレ清掃婦だった――。」というキャッチコピーを採用しています。
 3部構成の第3部では、無人島漂着後の話ですが、全体としてみると、カールを初めとするファッションモデルが雇われる企業(ブランド)に応じて節操なく態度を変える様子、外見だけの無内容さ(第1部)、富豪たちの我が儘さと人生と日常生活に退屈する様(第2部)、無人島でかりそめの権力を得たもののその儚い様子(第3部)といった内実のない人の行いの愚かさ、虚しさ、哀しさが通しテーマだと思います。
 原題の「 Triangle of Sadness 」は、眉間のしわの意味で、カールがモデルのオーディションで力を抜いて眉間のしわを消せと指示されるところで登場します。その前に、オーディションの順番待ちで控え室でたむろするモデルたちが取材者から、男性モデルなんて女性モデルの3分の1のギャラでゲイじゃないかと疑われる仕事なのになんでやりたいかと言われ、バレンシアガのときの強い表情とH&Mのときの笑顔を交互にやらされるなどしてからかわれる様子の映像があり、そういったモデルの仕事とそれに従事する自分自身への失望、哀しみを、あるいはそういった感情さえも捨てることを要求される非人間性を、このタイトルで表しているのだと思います。
 豪華客船での富豪たちの様子も、公式サイトで「カンヌ国際映画祭では会場爆笑!」と謳っているのですが、私には笑いのツボがヨーロッパの映画関係者とは違うのか、愚かしさ、虚しさの方が強く感じられました。

2023年2月12日 (日)

すべてうまくいきますように

 脳卒中で倒れ体の自由がきかなくなった父が安楽死を希望し家族が翻弄される映画「すべてうまくいきますように」を見てきました。
 公開2週目日曜日、新宿武蔵野館スクリーン2(83席)午前9時45分の上映は6~7割くらいの入り。

 裕福な元実業家で美術品コレクターの父アンドレ(アンドレ・デュソリエ)が脳卒中で倒れ、妹パスカル(ジェラルディーヌ・ペラス)とともに病院に駆けつけた小説家のエマニュエル(ソフィー・マルソー)は、医師から今後も再発のおそれがあること、抗うつ剤を処方することを告げられた。彫刻家だった母クロード(シャーロッド・ランプリング)も介護者に付き添われ杖を突いて病院を訪れるがすぐに帰ってしまい、エマニュエルが連日病院に通うことになった。アンドレは順調に回復している様子だったが、エマニュエルに「終わりにしたい」と告げて安楽死を求め、エマニュエルははぐらかして先送りにするが、アンドレは繰り返しエマニュエルに安楽死の準備を進めることを求め…というお話。

 体が思うように動かなくなり、他人の介護なしに生活ができなくなると、そのような形で生きながらえたくないという判断について、どう考えるか。自分でも観念的にそう考えたこともありましたが、この作品のアンドレのように、車椅子生活とはいえ、上半身を動かすことにそれほど支障もなく(エマニュエルの腕を振り払ったりしています)、意識もしっかりし会話に不自由ない状態でそのように言われると、何を贅沢なことを言っているのかと思えます。そこは、病者側から見るか家族側から見るか、自分の年齢や体の状態、家庭環境等によって、見方が大きく左右されるところかと思います。私の経験でいえば、坂本弁護士一家拉致事件(当時は拉致事件と呼ばれていました。実際には殺害事件)の発生時、日弁連広報室嘱託だった私には、対立関係にあった弁護士への攻撃、司法制度に対する攻撃への怒りが主な感情でしたが、1年後に自分の子どもが生まれると、乳幼児までが連れ去られた(実際には殺害された)ことへの驚きと悲しみ(親族への同情・共感)の感情が支配的になりました。人間の見方はそれほどに自分の状況に揺り動かされるのです。今の私には、アンドレを見ていると、そんなに元気なのに、これでは生きる意味がないとか死にたいとか言わないでよという気持ちが強く生じます。

 アンドレが、体調や機嫌がよくなっても、安楽死にこだわり続ける動機については特に踏み込まれず、基本的に、驚き戸惑い振り回される家族の側の事情・心情が描かれています。
 それは、むしろ安楽死を考えている人に対して、安楽死など言い出すと家族がたいへんな思いをするからねと言っているようにも見えます。

 いい感じに歳を重ねたソフィー・マルソーの抑えた戸惑い・哀しみの演技が見どころかと思います。

2023年1月29日 (日)

SHE SAID その名を暴け

 #Me Too 運動拡大の転機となったハリウッドの大物プロデューサーのセクハラを暴いたニューヨーク・タイムズの調査報道を映画化した「SHE SAID その名を暴け」を見てきました。
 公開2週目日曜日、渋谷 WHITE CINE QUINTO (108席)午前10時30分の上映は3割くらいの入り。

 2017年、ニューヨーク・タイムズの記者ジョディ・カンター(ゾーイ・カザン)は、ハリウッドの大物プロデューサーハーヴェイ・ワインスタインによるセクハラの取材を始め、トランプのセクハラの調査報道をしたミーガン・トゥーイー(キャリー・マリガン)とともに関係者をあたるが、取材に応じる者は少なく、話は聞けてもすでに示談して秘密保持契約(口外禁止条項)に拘束されてオフレコでしか取材に応じられない(記事にはできない)と言われ続けた。取材の動きをつかんだワインスタインの抗議を受けながらも、関係者への根気強い取材で次第に重い口が開き、被害者の連絡先がわかり…というお話。

 原作はノンフィクションで淡々と多数の関係者への取材の経過を記述しているところ、映画も原作に登場するエピソードの大部分を入れ込もうとしていて、それはそれで記者たちの困難とワインスタインの悪行の広がりを示しているのですが、映像では、私の顔認識・識別能力が低いこともあって、どの人の話だったか、今話題になっているのが誰のことだか、わからなくなり混乱します。映画を観た後で原作を読んで、あぁこのエピソードがこの人で、このエピソードがこれとつながるんだとようやく頭が整理できた感じです。
 原作よりも肉付けされているのは、記者2人の私生活で、2人とも幼子を抱えた母親記者(父親も育児は分担している)として描かれていることが、取材者の人間性、弱さ、迷い等をも描いて、人間ドラマとしての厚みを増しています。
 そして、編集長ディーン・バケット(アンドレ・ブラウアー)が、ワインスタインに対しても、ワインスタインの弁護士に対しても毅然としていて、ぶれないのが、すごくかっこいい。現実はこんなにスッキリ行かないんじゃないかとも思いますが、映画としてみる分にはスカッとしますし、安定感があります。
 この2点は、原作よりも、ニューヨーク・タイムズ側のスタッフの様子・人物を描き込んでいるのですが、映画としてはそれが利点となっていると思います。

 さて、弁護士として、この作品を見て考え込まざるを得ないのは、この問題に関する弁護士の役割です。
 記者の取材と被害者の被害申告の障害となり立ちはだかるものとして秘密保持契約(Non-Disclosure Agreement : NDA。和解合意の中では、口外禁止条項)が採り上げられています。私の弁護士実務感覚では、例えば労働事件での和解の際には、会社側はたいていは口外禁止条項を要求し、労働者側でも応じることが多いのですが、違反して口外した場合のペナルティを定めないのがふつう(会社側がペナルティの定めを要求することも稀にはありますが、私は応じたことはありません)です。しかし、映画で明示はされていませんが、このケースでは違反した場合のペナルティなど違反できないような定めが厳重になされていたようです。富裕層の側で、被害者を抑圧するためにそういう契約条項の考案・検討に精を出す弁護士が存在し活躍しているわけです。
 そして、この作品では、人権派弁護士の娘リサ・ブルームが、ワインスタインの代理人として暗躍していることが描かれています。日頃被害者を守る側で活動していても、金儲けのためには平気で富裕者・加害者側に付くという描き方です。映画ではそこまでは出てきませんが、原作では、リサ・ブルームはワインスタインに、自分はこれまでセクハラ被害者と(称)して金を要求する側の代理人を多く務めてきたので、自分ならあなたをそういう相手から救えると売り込む手紙を書いたとされています。原作はノンフィクションですから、実際にそうだったのでしょうけれども、弁護士がそこまでするというのは驚きました。

※原作本も読んでからと思ったので書くのが遅くなりました。

イニシェリン島の精霊

 第95回アカデミー賞(日本時間2023年3月13日発表予定)で8部門9ノミネートの映画「イニシェリン島の精霊」を見てきました。
 公開3日目日曜日、渋谷 WHITE CINE QUINTO (108席)午前10時20分の上映は5割くらいの入り。

 1923年、本土では内戦が続くアイルランド沖の孤島イニシェリン島の農夫パードリック(コリン・ファレル)は、ある日、長年の親友コルム(ブレンダン・グリーソン)から避けられるようになり、話しかけると「お前のことを嫌いになった」と言われ、その理由を聞くと、「退屈だからだ」と言われて呆然とする。パブでコルムは作曲を始め音大生らとバイオリン演奏にいそしみ、蚊帳の外のパードリックは困惑し、コルムに詰め寄るが、コルムはこれ以上話しかけたらそのたびに自分の指を切断すると言い放つ。パードリックの妹のシボーン(ケリー・コンドン)が仲介しようとしたが…というお話。

 合理的な理由なく生じた行き違いから諍いが生じ、その過程で意地になり、引っ込みが付かなくなり、振り上げた拳の下ろしどころもなく、無意味に不条理に争い続け止められなくなる人間の性を、戦争の無益さのアピールの趣旨も込めて描いているのだろうと思います。
 タイトルから、人の死を予告するというアイルランドの精霊になぞらえた解説をする向きが多いですが、超自然的なものやホラーの映画ではなく、あくまでも人間の性・ありようを描いた作品です。
 気のいい人物のパードリック(警官や神父よりも人間的にできている:警官が傲慢で、神父がキレやすく描かれているのは、パードリックの人のよさ、温厚さを際立たせるためでしょう)でさえ、意固地な戦いに引き込まれ止められなくなるという展開が、人間性による解決への絶望を感じさせます。
 シンプルなテーマを俳優の渋い演技で見せ続けています。主要登場人物4名(パードリック、コルム、シボーン、ドミニク)が全員、アカデミー賞で主演・助演男優賞、助演女優賞にノミネートされたのも納得の演技です。
 他方で、全体としてテーマも展開も重苦しく救いがなく、見ていて楽しめるという作品ではありません。
 救いを見出すとすれば、動物たち(ロバ、犬等)の愛嬌と、海辺の風景と夕陽の映像の美しさくらいでしょうか。

 舞台になっているイニシェリン島( Inisherin )は架空の島のようですが、公式サイトの写真に組み込まれたタイトルが " The
BANSHEES if INSHIERIN "と表記されているのはいかがなものかと思います(デザイナーが2つめの" I "の位置を間違えたことに気がついていないのか)。

2023年1月15日 (日)

イチケイのカラス

 フジテレビの2021年春月9ドラマの劇場版映画「イチケイのカラス」を見てきました。
 公開3日目日曜日、新宿ピカデリーシアター2(301席)午前11時の上映は5割くらいの入り。

 テレビドラマから2年後(熊本地裁第2支部から)岡山地裁秋名支部に異動になった入間みちお(竹野内豊)は、裁判長として、イージス艦と衝突して沈没した貨物船の船長の墓前で墓参りに来た防衛大臣(向井理)のお付きの者にナイフで傷害を負わせた船長の妻(田中みな実)の刑事事件を担当し、夫がそのような事故を起こすはずがないと被告人が述べたのに対して、検察官(山崎育三郎)が何故かイージス艦の航海日誌が紛失しているが衝突事故原因が貨物船側にあることは明らかだと説明したところで、職権を発動すると宣言し、衝突事故を目撃した漁師を訪ねて聞き取りを始めるが、裁判所を防衛大臣が訪れ、その後最高裁から入間を事件の担当から外すという指示がなされる。同じ時期に他職経験のために隣町の岡山県日尾美町で弁護士事務所を開設していた坂間千鶴(黒木華)は、工場の従業員とその関係者が日尾美町住民の7割を占めるという総合化学企業シキハマ株式会社に対して、その排出する有毒物質により子どもが健康を害したというラーメン店主を代理して損害賠償請求訴訟を提起し、入間がその裁判を担当することになり…というお話。

 業界人として、見ていてまず違和感を持つのは、「秋名支部」の民事裁判で、原告側が傍聴席から見て右側(裁判官席から見て左側)に着席していること。刑事裁判の法廷では、基本的には検察官が傍聴席から見て左側、弁護人が傍聴席から見て右側ですが、東京地裁等では法廷によって反対の場合があります(逃亡のリスクを下げるために被告人を廊下側にせず、入り口から奥側に置きたいという考慮によるものと推測します)。しかし、民事裁判の法廷について(1審で)原告側が傍聴席から見て右側になる例外を、私は聞いたことがありません(控訴審では、1審で原告が勝訴して敗訴した被告に控訴された場合は、1審の原告が「被控訴人」として傍聴席から見て右側になりますが)。
 損害賠償請求事件の判決で、慰謝料に遅延損害金を付けなかったり、訴訟費用(提訴の印紙代とか、出廷日当とか。弁護士費用は含まれない)の支払を命じていないのは、たぶん単純化のためなんでしょうけど、不法行為による損害賠償請求ではふつうに認められる裁判所が認めた損害の1割相当の弁護士費用分の支払を命じていないのも、業界人としては違和感を持ちました。まさか、エリート裁判官(裁判官経験8年)の坂間千鶴が請求を忘れたなんてことでもないでしょうに。
 裁判所の支部名が東京地裁第3支部、熊本地裁第2支部と来て、どうして岡山地裁では「秋名支部」なんだとか、他職経験で裁判官が弁護士事務所に勤務することはあっても1人で弁護士事務所を作らせることは考えられないし、弁護士がほとんどいない支部で他職経験させることも考えられないとか、階段・吹き抜けの開放空間に机を置いて裁判官室にしてるとか、いろいろ疑問はあるけど、その辺はドラマ・映画の設定としてかまわないと思いますが。

 この作品の売りの、入間裁判官の「職権発動」。そこはそれがポイントなんですし、作品中でも言及しているように、刑事訴訟法上は根拠規定もありやってもかまいません。そうは言っても、裁判制度としては本来的にそれを予定しているわけでもなく、適切ではないと考えられることは、テレビドラマの最終回についての記事で私の意見を述べていますが(→「イチケイのカラス最終回に思う」)。
 しかし、この映画でも傷害事件で漁師の話を聞きに行くときのように、検察官、弁護人ら当事者とともに行くのはいいですが、その後に入間みちおが釣りに行くとかいってひとりであちこちの漁師等の話を聞いたり、監視カメラ映像を確認したとかいうのは、そしてそれを根拠に事実関係について判断したりするのは、およそやってはいけないことだと思います。申立てか職権かということを超えて、当事者に立ち会い意見を述べる機会を与えない証拠調べというのは民事裁判(刑事裁判でもですが)の原則を大きく踏み外しています。面白ければいいということなのかもしれませんが、ちょっとこれはどうよと思いました。

 公式サイトでのキャッチで「国を揺るがす2つの事件。それは決して開けてはならないパンドラの箱だった!?」とされているのですが、国も大企業本社もお咎めなしで傷つきません。この結論でこのキャッチで売るか?とか、フジテレビはこんなものかと思ってしまいます。
 人権派弁護士へのいびつな視線と、環境保護団体への悪意も、制作者の姿勢を示しているのかと思いました。

2023年1月 8日 (日)

すずめの戸締まり

 新海誠監督の最新作「すずめの戸締まり」を見てきました。
 公開9週目日曜日、9週目にして最大スクリーンを充てた(前週末興行成績、まだ2位ですからね)新宿ピカデリーシアター1(580席)午前10時25分の上映は、入場者プレゼント第3弾「小説すずめの戸締まり~環さんものがたり~」付きで、4割くらいの入り。前週末(2023年1月3日)までの興行収入が113億円ほどで歴代30位。前作「天気の子」の142億3000万円歴代14位を超えられるかは微妙なところでしょうか。

 4歳の時に東日本大震災の津波で看護師だった母を失い、12年後の今、叔母の岩戸環とともに九州の港町で暮らす岩戸鈴芽は、ある日自転車登校中に、「この辺に廃墟はありませんか」と問いかける青年宗像草太と出会う。草太のことが気になった鈴芽は山中の廃墟で古ぼけた扉を見つけ、それを開けると中に美しい別世界があったが中に入るとそのまま扉の反対から廃墟に出てしまい、それを繰り返すうち傍らに石が落ちているのに気付いた。鈴芽がそれを手に取ると石は白い猫に変わり、立ち去ってしまう。その後、その扉から、他の者には見えない巨大な赤黒いものが湧き上がって飛び出し、それを学校から見た鈴芽が駆けつけると、草太がその扉を閉めようともがいていた。草太を手伝ってなんとか扉を閉めた鈴芽は、草太から、扉(後ろ戸)から出てきたのは常世(死者の世界)で生まれる「ミミズ」でそれが大地震を引き起こす、草太は大地震を防ぐために開いた扉を閉じて鍵をかける「閉じ師」だと聞いた。怪我をした草太の手当をするために草太を連れて自宅に戻った鈴芽の前に白猫が現れ、草太を椅子に変えてしまった。草太から、その白猫(ダイジン)はミミズを抑え込む「要石」だったと聞かされ、自分が要石を解き放ってしまったことを知った鈴芽は、草太とともにダイジンを追うことになる…というお話。

 要石から猫の姿になり、「すずめ、好き」と言い、「お前、じゃま」と言って草太を椅子に変えてしまい、逃げ回り、追いつかれると「すずめ、遊ぼ」などと言い、近くの廃墟の扉からミミズが出てきて草太と鈴芽が戸締まりに追われるのを傍観したりそのままプイと姿を消すダイジン(公式サイトでもカタカナですが、終盤で「サダイジン」が登場することからして、「大臣」でしょうね)の言動に、非難が集まるように作られていると思います。私も前半、そのように見て、なんて勝手なヤツと思っていました。
 しかし、少し考えれば、ダイジンは長い間(江戸時代からと示唆する場面もありますが、たぶん数十年と思います)常世でミミズが湧き上がる度にそれを押さえ込むということをずっと孤独に(要石は2つとのことですので離れたところにもう1人いるわけではありますが)続けてきたのです。短期間であれば志で続けられるかもしれませんが、長く続けば、なぜ自分がひとり犠牲にならなければならないのかという思いにも駆られるでしょう。自分はこんなに尽くしてきたのだという思いから、もう解き放たれたい、これだけやったのだからもう自分はお役御免でいいだろう、後は誰か他の人がやるべきだと考えても、あるいは鬱屈した気落ちから甘えや我が儘が出ても、さらに言えば少し気が変になったとしても、それを責めることは、本来できないのではないか。むしろ、要石としてこれまで長らく奉仕してきたことを知れば、ダイジンに向けるべきはただ感謝の気持ちであるべきではないか。
 それにもかかわらず、中盤でダイジンの正体が示唆されるまで、自分がダイジンの苦行と貢献への感謝の気持ちではなくダイジンへの非難の気持ちを持っていたことに、私は驚きを感じたのです。
 草太の心の声部分で、献身が当然ではない、嫌だという気持ちや恐怖感が語られていることから、そういった問題提起もなされているのかもしれません。しかし、作品の方向性として、草太は救われるべきであるのに、ダイジンも救われるべきだということは打ち出されていません(救われる必要があるのは、イケメンに限るのか)。草太からも鈴芽からも、最後まで、ダイジンの要石としての献身を労い感謝する言葉は出てこないのです。
 人を救う能力がある者はそれゆえに献身するのが当然なのか、人は、社会は、少数のあるいは1人の無償の貢献を当てにして安穏としていていいのか、私は、そういうことを考えさせられました。

 ビジュアルですが、序盤の鈴芽が自転車に乗っているシーン、前から見たシーンでは漕ぐときに少し揺らしているのに、横からのシーンは自転車が機械的に平行移動して、今どきとしてはちょっと雑な作業に見えました。
 一番気になったのは、鈴芽を初めとする人物の細さ。ターゲットをアニメオタクにしているということかもしれませんが、若い女性がすでに痩せているのにさらに痩せたいと思い健康を害することが問題となっているというのに、今なお、これほど細身の女性を描いて若者の痩せ信仰をさらに煽るようなマネは止めて欲しいと思います。

2022年12月18日 (日)

アバター ウェイ・オブ・ウォーター

 世界歴代興収第1位を誇る(いったん「アベンジャーズ/エンドゲーム」に抜かれたが、その後中国での追加公開で奪還したとか)「アバター」(2009年)の続編「アバター ウェイ・オブ・ウォーター」を見てきました。
 公開3日目新宿ピカデリーシアター6(232席)朝8時20分の上映は3割弱の入り。まぁ日曜日の午前8時台に見に来る客は少ないですが、ちょっと心配になる客席具合。この時間帯(午前8時から)最大スクリーンのシアター1(580席)を公開6週目に入った「土を喰らう十二ヶ月」(ジュリ~~!)にあてがった新宿ピカデリーの判断は…

 地球人(スカイ・ピープル)の侵略を跳ね返し、10年余が過ぎた惑星パンドラでは、地球人とナヴィのDNA結合体として作成されたがナヴィの仲間としてパンドラに残ったサリー・ジェイク(サム・ワーシントン)がネイティリ(ゾーイ・サルダナ)と結ばれ、子どもたちとともに平和に暮らしていたが、再度、マイルズ大佐(スティーブン・ラング)らが裏切り者ジェイクを抹殺すべくナヴィが暮らす森に侵入し攻撃を始めた。子どもたちに危機が迫り、地球人の子でパンドラに残りともに暮らしていたスパイダーがマイルズ大佐の手に落ち、ジェイクらは森から離れ、海辺の民に合流するが、マイルズ大佐らはジェイクらが逃げ込んだ海辺を探り当ててジェイクの引渡を求め…というお話。

 前作よりもさらに3DCGの技術が進み、特に水中の描写や空中と水中との間の移動などのリアルさ、美しさは特筆すべきものであろうとは思います。
 しかし、本格的な3DCGの最初というべき作品であった前作での驚きは、13年を経てすでに3DCGに慣れてしまった目には、再現されません。ナヴィを土人形のようなものとして造形しているが故にどんなに作り込んでも、これは実写ではなくCGだと意識し続けるということがなければ実写かと勘違いしかねない映像の技術水準は確かに高いのだとは思います。しかし、それは感心ではあっても、感動や驚きとはもはや言えないように思えるのです。

 ナバホ族をイメージしたアメリカ先住民を迫害する身勝手で横暴なアメリカ人というテーマをハリウッド大作で取り扱う(同じ年に元妻が監督したイラク占領米軍を賛美する映画にアカデミー賞をさらわれながらも!)という前作の心意気は、同じ設定ですから引き継いではいるのですが、それも、前作の続きだからねというレベルで新たな訴求力はないように思えます。
 こう言っちゃ悪いですが、ジェームズ・キャメロン監督が、続編を作るのに、舞台を水辺にしたらCGの高い技術力・表現力を見せつけられるし、「タイタニック」(1997年)ネタも使えるじゃん、と思って構想したのかなと思ってしまいます。

 3D眼鏡で字幕が読みにくいというハンデがあったせいか、前作で死んだはずのマイルズ大佐がどうして再登場したのか(DNA結合体なんか作れる設定だからどうにでもなるんでしょうけど)、ジェイクとネイティリの娘として暮らしているキリがなぜ突然地球人のグレイス・オーガスティン博士を母と呼ぶのか(キリは養女らしい)とか、見ていて設定が理解しにくいところが少なからずありました。

 映像の美しさは、3時間12分の長尺をあまり長いと感じさせないくらいの力があります。前作が画期的な作品であったがために、その記憶と比較して感動の薄れを指摘してしまうのですが、絶対評価としては、やはり見る価値がある作品だと思います。

2022年3月27日 (日)

ベルファスト

 北アイルランド紛争の中で1969年8月に起こったプロテスタントによるカトリック系住民襲撃の暴動に翻弄される家族を描いた映画「ベルファスト」を見てきました。
 公開3日目日曜日、WHITE CINE QUINTO(108席)午前9時30分の上映は4割くらいの入り。

 北アイルランドの首都ベルファストのカトリック系住民集住地域に住むプロテスタント家族の9歳の息子バディ(ジュード・ヒル:新人)は、税金の支払いに苦しみながらも実直に生きる母(カトリーナ・バルフ)、現実主義的な祖母(ジュディ・デンチ)、穏やかでユーモアのある祖父(キアラン・ハインズ)、年の離れた兄ウィル(ルイス・マカスキー)、ロンドンに出稼ぎに出て1~2週間に1度帰って来る大工の父(ジェイミー・ドーナン)とともに平和な日々を送っていた。ところが、1969年8月15日、プロテスタントの一団がカトリック系住民を地域から追い出そうと火炎瓶や道路の敷石を投げ暴動が生じた。そのニュースを聞いてロンドンから駆けつけた父は、プロテスタントの暴徒のリーダーからカトリック系住民襲撃に加担するよう求められて拒否したために家族への危害を予告されて動揺し…というお話。

 プロテスタントが多数派のベルファストの少数派のカトリック系住民集住地域の中に混住するプロテスタント家族という難しい立場に置かれた者を主人公に、プロテスタントとカトリックが対立し暴動に発展する中で、どのように生きるか、住み慣れた街にとどまるか移住するかの苦悩の選択がテーマです。北アイルランド紛争の中でも武装テロやゲリラ戦ではなく、比較的小集団による暴動での一家族の動向に焦点を当てていることで、宗教対立・民族対立などさまざまな対立抗争に不本意に巻き込まれる状況を普遍的に描写できているように思えます。
 この家族にみられるように、宗派の対立や民族間の対立の最中でも、みんなが他方を憎み嫌悪しているわけではなく、むしろ宗派や民族が違っても仲良くしたい、少なくとも敵対したくないと思っている人が多数いる/実はそれが多数派かもということに改めて思い至りました。プロテスタントでもカトリックでも、聖書には「汝の隣人を愛せよ」と書かれ、教会でそう教えられているはずですし。
 そして、一家族を描き続けることで、抗争中の地域でも、そこで生活している住民は、ごくふつうの穏やかに実直に生きている人たちなのだ/少なくともそういう人が少なからずいるのだということを示しています。

 家族の中で、さまざまな顔を見せる実直な母が実に魅力的です。また同級生のキャサリン(オリーヴ・テナント)に思いを寄せるバディの様子と、カトリック系の住民で優等生ながらバディに思いを寄せるキャサリン(テストの点数順に座席が決まる教室で、毎回1位のキャサリンの隣に座るためになかなか3位より上に上がれないバディが策を弄して2位になったときキャサリンが4位だったのは、運命のいたずらなんじゃなくて、キャサリンがバディの隣に座ろうとしてわざと間違えたと、私は思います)の様子も微笑ましく思えました。
 モイラ(ララ・マクドネル)から自分が店主を奥に行かせる間にチョコバーを万引きするように言われたバディが慌ててターキッシュ・ディライトを持って逃げたことを知って、モイラはそんなもの誰も食べないと嘆きます。「ナルニア国ものがたり」第1巻でエドマンドを魔女ジェイディスの誘惑に負けさせた栄光のターキッシュ・ディライトが…時代の流れ(1969年は、「ナルニア国ものがたり」出版からまだ20年足らずですが)でしょうか、制作者の「ナルニア国ものがたり」への当てこすりでしょうか。

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