映画・テレビ

2017年9月17日 (日)

ダンケルク

 第2次世界大戦初期のダンケルクからの撤退(救出)劇を描いた映画「ダンケルク」を見てきました。
 封切り2週目日曜日、新宿ピカデリースクリーン1(580席)午前10時35分の上映は、9割くらいの入り。

 ドイツ軍に追われてダンケルクの街にたどり着いたイギリス兵トミー(フィオン・ホワイトヘッド)は、海岸で時折ドイツ空軍の爆撃を受けながら救出船の到着と乗船を待つ多数の兵士たちの姿に呆然としつつ、優先的に乗船を許される負傷兵を担架で運び同乗しようとして追い出され、港ですぐ爆撃を受けて沈没した船からの脱出兵たちに紛れて次の船に乗り込むが、その船もまたドイツ軍の攻撃を受けて沈没してしまう。イギリスでは、民間船も救出作戦に徴用され、空軍パイロットの長男が戦死した民間船の船長ドーソン(マーク・ライランス)は、次男らとともにダンケルクを目指し、途中の海で兵士を一人救出し、ダンケルクには行きたくない、行けばみんな死ぬぞ、戻れと叫ぶその兵士を尻目にダンケルクに向かう。イギリス空軍パイロットのファリア(トム・ハーディ)は、隊長機と友軍機が墜落・不時着し1機だけ残されて、ダンケルクで爆撃を続けるドイツ空軍機を追い続け・・・というお話。

 陸のトミーの視点では、反撃の手段/武器もなくただ無防備にドイツ軍の攻撃/射撃を受け続け、救出も国(イギリス軍優先、フランス軍等は後回し)、所属部隊別等の優先順位が定められて順番を待っていてはいつまでも船に乗ることさえできず、あれこれ策を弄して船に乗り込んでもその船がまたドイツ軍の攻撃で沈没してそこからまた命からがら抜け出して海岸に戻り振り出しに戻るという徒労感/絶望感と、しかしそれでもただ生き抜いてみせるという執念がテーマになります。同乗者を助けようという行動も見られますが、どちらかというと自分が助かるために他人を蹴落とそうというエゴの方が目につきます。その点から見ると、戦争の無意味さ、「英雄」の無内容さを描いた反戦というか厭戦の映画にも受け取れます。
 しかし、他方において、従軍し危機に陥った兵士を救出するために強い志を持ってダンケルクに向かい海中の兵士たちを救助する民間船の船長、ダンケルクの桟橋で救出の最後まで自分が居残る海軍中佐、燃料がつきるまでドイツ空軍戦闘機を追い続けるイギリス空軍パイロットといった、観客が共感できる英雄的行為も描かれていて、全体として厭戦的と評価できるかは微妙な感じです。
 私たちが、歴史的なできごと・事件を受け止めるときに、あまりに多くの人数(ダンケルクでは40万人)を聞いて感覚が麻痺してしまいがちですが、その中の一人一人に命があり、生きたい、生き抜きたいという強い気持ちがある(さらには、この作品ではそちらへの言及は見られませんが、一人一人に家族や愛する人がいる)ということを、無名の兵士たちの生き残るための懸命な行動/執念を通じて、再確認させられます。その無様で愚直な姿と、帰還した際に出迎え支援する人たちからの労い/英雄視とのギャップ、ここは、英雄の実情と見るべきか、従軍しただけ/生き残っただけで立派なものだ、卑下するんじゃないと見るべきか、見る側の信条で分かれるかもしれません。そして最後に、政治家(チャーチル)の勇ましい強硬姿勢の演説をかぶせるところも、政治家のエゴ/一将功なって万骨枯ると見るか、トップたる者こうあるべきと見るか、見る側の価値観で分かれるのかもしれません。

2017年9月10日 (日)

三度目の殺人

 是枝裕和監督の法廷心理劇映画「三度目の殺人」を見てきました。
 封切り2日目日曜日、新宿ピカデリースクリーン6(232席)午前10時20分の上映は9割くらいの入り。

 事務所の同僚弁護士摂津(吉田鋼太郎)から起訴後になって強盗殺人事件の弁護を引き継がされた弁護士重盛(福山雅治)は、被告人三隅(役所広司)からギャンブルのための金欲しさにかつての雇い主を殺害したと聞かされるが、三隅が乗ったタクシーのカメラの映像や証拠品の財布から財布にガソリンがかかっており、三隅が財布を取ったのは殺害後ガソリンをかけてからで殺人の際にはまだ財布を取ろうと考えていなかった(強盗殺人ではなく殺人+窃盗)と見立てた。その直後、三隅が殺害は被害者の妻(斉藤由貴)にメールで依頼されたと述べたという週刊誌報道がなされ、面会に行った重盛に三隅は取材にそう答えた、その通りだという。重盛は、公判前整理で、犯人性は争わない、殺害時には財布を奪う意思はなかった、殺害は被害者の妻の依頼によるという弁護方針を立て、三隅の携帯のメール履歴を証拠請求した。三隅のアパートを訪ねた重盛は、三隅の部屋を被害者の娘咲江(広瀬すず)が訪れていたことを知り・・・というお話。

 朝日新聞の映画紹介記事(2017年9月1日夕刊)には、次のように書かれています。「是枝裕和監督は、本作のために弁護士に取材をした。彼らは口をそろえて『法廷は真実を解明する場所ではない』と答えたという。確かに当然のことで、司法関係者は犯罪現場に居合わせたわけではない。彼らは自供や数々の証拠などから、量刑を判断する。真実をわかる必要はないという前提が、法廷に横たわっている。」・・・本当かなぁと思います。裁判で解明すべき事実の範囲が他の人々(被害者やマスコミや一般人)が知りたい事実と異なるということはよくあり、そういうときに「法廷は真実(というよりは「そういうこと」)を解明する場でない」と説明することはよくあります。また、真実を解明できる限度/限界を繰り返し実感した上での一種の諦めとして、本当の意味での/厳密な「真実」はわかるとは限らないという意味で、「法廷は真実を解明する場所ではない」と言うことはあるでしょう。さらに言えば、もちろんそれでも裁判や弁護はしなければいけないわけですから、意地悪な人(記者にありがち)から「真実がわからないのに弁護ができるのか」などと質問/詰問されれば、「真実」がわからなくても弁護はできる、真実などわかる必要はないと言いたくなることもあるでしょう。しかし、裁判ではもともと真実などわかる必要はない、真実を解明する必要はないと考えている弁護士は、私はいないんじゃないかと思っています。
 アメリカのリーガルサスペンスでは、被疑者/被告人が事実について話そうとするのに対して、自分は事実を知りたくない、知る必要がないと言って遮る弁護士が度々登場します。アメリカでそういうやり方でも刑事弁護ができるのは、(これもリーガルサスペンスによる知識ですから、本当のアメリカでの刑事弁護の実務がどうかは私は厳密には知りませんけど)被告人に法廷で証言させるかどうかが自由で(リーガルサスペンスでは)証言しない方が原則であること、事前の証拠開示(ディスカバリー)が徹底していて検察側の予定証人にも事前に尋問できることなどの制度保証があるからです。日本では、公判期日での被告人質問はまず回避できませんし、検察側証人への事前質問もほぼ無理(私は、2007年5月以降刑事事件を取り扱っていないので、その後日本での証拠開示の実務がどの程度進んだかわかりませんから断言はしませんけど)という状況では、劣位に立たされる弁護側のほぼ唯一のカードが、被告人が検察側が知らない情報を持っている可能性ですから、弁護人はとにかく被告人の話をよく聞くという選択しか考えられません。
 公式サイトで紹介されている「裁判で勝つためには、真実は二の次と割り切る」という重盛の弁護士像には、私は違和感を持ちます。
 その真実より法廷戦術などという小理屈というか観念的な言葉を振り回している部分以前に、重盛には事実をきちんと確認しようという法律実務家に確実に必要な素養が欠けているように思えます。三隅に解雇された理由を聞いてその次にすぐ「その日」は酒を飲んでいたかって質問。「その日」って解雇されたときのことを聞いているのか事件の当日なのか、内容的に事件の当日なんでしょうけど、聞き方に着実に事実を確認していこうとする姿勢が見られない。咲江が告白したときに「どこでやったのか」という質問も「だれと」があいまい。そもそも咲江が三隅の部屋を訪ねていたことを知ったら、何故すぐそれを三隅に聞かない?本来的に三隅(依頼者)が味方で咲江(被害者の娘)は敵方な訳で、ふつう、三隅に事情を聞いて敵方をどう攻略するかを協議するはずでしょ。一番唖然としたのは、公判が始まった後に面会の場で三隅が自分は殺していない、事件現場にも行っていないと言い出したときの対応。それならそれで、じゃあ事件当日はどこにいたのか、ド素人でもまず聞くでしょ。プロなら当然に、それなら事件の夜あの時刻にあそこからタクシーに乗った理由、タクシーに乗った時点でガソリンが付着した被害者の財布を持っていた理由を説明してくれって聞くでしょ。この時期は、裁判員裁判が始まって連日開廷中の弁護士の頭の中で証拠関係が一番整理されているとき。そしてこのタクシーのビデオ映像とガソリン付きの財布は、初期の弁護方針を支える基本証拠。三隅が事件現場に行っていないと発言して3秒以内にこの質問ができないなら、重盛弁護士、悪いけど法廷弁護士としては使い物にならないから、引退を考えた方がいい。少なくとも、「勝負にこだわる」なんて言えるほど勝てるはずはない。

 また、この作品では、被告人質問の直前の打ち合わせで、重盛が三隅にこう答えてくれと「指導」する場面があります。弁護士は、被告人に法廷で事実と違っても都合がいいことを述べろと指示していると見られているようです。たいへん、残念なことです。
 私は、これまでの弁護士生活(1985年から30年あまり)で、刑事・民事、証人・当事者を通じて、法廷ではこう答えてくれという要求や指導をしたことは一度もありません。もちろん、事実確認は繰り返しします。その人がそれまでに言ってきたことと違うことを言い出したら、これまでの話と今言っていることとどちらが本当かということも、当然聞きます。しかし、その上で、なお、私が想定していることと違うというか、自分の依頼者に不利なことをいう場合、私は、それは困るから違うことを言ってくれとは決して言いません。それは、もちろん、偽証を求めることが許されないということもあります。また、そういうことをしたらその人は法廷で自分が嘘を言ったという後悔を引きずります。私は自分の依頼者等にそういう思いをさせたくありません。そして、それ以上に、私は、素人は嘘をつけないものだと考えています。事前の打ち合わせで、素直に聞いたときに出てきた答えを、法廷では違うことを言ってくれと頼んでも、緊張する法廷で「しくじる」可能性は低くないし、主尋問では「指導」通りに答えられても反対尋問で追及されているうちに化けの皮が剥がれるリスクは小さくありません。「嘘」が発覚したときの裁判に与えるダメージはかなり大きなものとなり得ます(ほかの本来は信憑性の高いことまで信じてもらえなくなりかねません)。私は、そういう事前打ち合わせで相手が法廷で話して欲しくない答えをした場合、その項目は質問しないことにします。そういうあやふやな材料を足場にしないで勝てるストーリー/論証を考えます。実務的にはその方が安全/着実だと、私は思っています。
(なお、一般の方は、そういう依頼者に不利なことを聞いたことに触れない/「隠す」こと自体、アンフェアだと考えるかもしれません。しかし、その人の話が真実かどうかは簡単には言えません(基本的にはあくまでもその人が言っているというだけです)し、弁護士が依頼者に不利な事実を依頼者の同意なく法廷に出したら誠実義務違反とか守秘義務違反で懲戒事由になります)

 この作品のレビューで、事件の真相は「藪の中」、「羅生門」のよう(つまり真相は不明/複数)とするものを目にしました。そう言えば、公式サイトの「ストーリー」でも「本当に彼が殺したのか?」の文字があり、作品中でも他の者が殺害したことを示唆する映像が挟まれています。この作品には、三隅と重盛と咲江が雪合戦をする映像のように、幻影も含まれているとしても、重盛が調査の過程で見たタクシーのビデオ映像は、明確に「事実」の領域に含まれています。事件の夜事件後と考えられる時刻に事件現場付近から(作品ではそのことは明示されてはいませんが、そうでなかったらビデオを見た時点で重盛が別の戦術:三隅は犯行時刻に別の場所にいたというアリバイ等を考えるはず)三隅がタクシーに乗り、その際ガソリンが付着した被害者の財布(つまり殺害されガソリンをかけられた後火をつけられるまでのごく限られた時間に被害者のポケットから抜かれた/言い換えれば犯人以外が抜き取ることは考えがたい物)を持っていたという事実がある以上、三隅以外の犯行というストーリーはほぼ不可能です。是枝監督が、もし、真相は不明という作品にする意図を持っていたのであれば、三隅がタクシーに乗っている映像を遺したのは失敗というべきでしょう。

 勾留中の被告人が週刊誌の取材に答えるというのは現実的ではないと思います(最近はそういうことも可能になっているのでしょうか?)が、何より、被告人の携帯電話のメールを検察側が調べてなかった(検察側がそのメールは殺人依頼ではなかったと判断しながら、それが殺人依頼でないという証拠固めをしていない)というのは、私の感覚ではおよそ考えられません。弁護士に多数取材しながら、こういう設定を取材を受けた弁護士が容認したのであれば、私には驚きです。
 殺人事件の遺族に被告人の手紙を持って会いに行き、玄関先でその手紙を読まずに破られて、最近は被害者なら何をやってもいいという風潮があると愚痴る重盛にも、驚きました。殺人事件の遺族ですよ。それくらいごくふつうに予測できることじゃないですか。重盛弁護士、殺人事件初めてですか?何年弁護士やってるのかと聞きたくなりますし、さらに言えば、もし初めてだとしても、遺族感情にそれくらいしか理解がないなら弁護士やってられないと思う。
 弁護士事務所の(古株と思われる)事務員が、金目当てか怨恨かで殺人事件の量刑が変わるのかと嘆いているのも、弁護士じゃないにしても法律事務所の事務員何年やってるのかと思う。
 いろいろ取材した跡が見えるところも多々ありましたが、それでも私には、弁護士としての実務面で違和感があるところが多い映画でした。

2017年8月27日 (日)

エル ELLE

 自宅で覆面男にレイプされたゲーム会社社長が自ら犯人を捜すサスペンス映画「エル ELLE」を見てきました。
 封切り3日目日曜日、全国13館、東京4館の上映館の1つTOHOシネマズシャンテスクリーン1(224席)午前10時15分の上映は満席。

 ゲーム会社のワンマン社長ミシェル・ルブラン(イザベル・ユペール)は、一人暮らしをしていたが、ある日自宅で覆面男にレイプされる。39年前に父親が27人を殺し、当時10歳だった自分が父に言われて家で服を燃やしているところを警察に踏み込まれ下着姿のまま報道されたことを恨みに思っているミシェルは、元夫のリシャール(シャルル・ベルリング)、親友でビジネスパートナーのアンナ(アンヌ・コンシニ)、アンナの夫で実は愛人のロベール(クリスチャン・ベルケル)らに警察に届けるよう勧められても、警察には行きたくないと言い、護身用のスプレイとハンマーで身を固める。しかし、携帯に非通知コールや嫌がらせメールが届き、家に侵入した痕跡を見つけ、会社では怪物がミシェルをレイプするゲーム動画がばらまかれ、ミシェルはレイプ犯が身内だと確信する。他方で、ミシェルは、ミシェルの心身の傷に無頓着に頻繁にセックスを求めるロベールに閉口しつつも要求に応じ、元夫のリシャールが交際する大学院生に嫉妬し、隣人のレベッカ(ヴィルジニー・エフィラ)の夫パトリック(ロラン・ラフィット)を双眼鏡で見つめながら一人Hする。夜自宅の前に停車する怪しげな車に護身用スプレイとハンマーを持って近寄ったミシェルは・・・というお話。

 覆面のレイプ犯を追うサスペンスという形をとりながら、ミシェルという特定の/特別の「彼女(ELLE)」の人物像を、そしてまたレイプ犯の「彼」の人物像を描いた作品です。
 たぶん、レイプ被害者にとっては、耐えがたい人物造形だと思いますが、この作品も、通常のレイプ被害者あるいはあるべきレイプ被害者を描くつもりはさらさらなく、またそうは読み取れないと思えるのが救いでしょう。
 公式サイトの紹介で「世界初の気品あふれる変態ムービーにして異色のサスペンス」としているのが、(世界初かどうか、気品あふれるかどうかはさておき)この作品の性質を表しているというべきでしょう。

 イザベル・ユペールの身構えて挑戦的な表情と何かに動じるものかという頑なな表情が印象的です。
 レビューで、レイプされた後のミシェルについて、何事もなかったかのように平然と割れた食器を片付けるとか書いているものが多いのですが、私には、ミシェルの頑なな表情の中に、弱さを見せるまいとする構えの中に傷ついた心が感じられました。
 63歳のイザベル・ユペールが、役柄では49歳(39年前の父親の犯罪時に10歳)で、ヌードも見せ、それでさほど無理に見えないというのもすごいかなと(やっぱり私などには女の歳はわからん)・・・

2017年8月13日 (日)

少女ファニーと運命の旅

 ナチス・ドイツ支配下のフランスからスイスへと逃走するユダヤ人の子どもたちを描いた映画「少女ファニーと運命の旅」を見てきました。
 封切り3日目日曜日、全国6館、東京で唯一の上映館TOHOシネマズシャンテスクリーン1(224席)午前9時55分の上映は8割くらいの入り。

 1943年、フランス。支援者たちがユダヤ人の子どもをかくまっている児童施設に両親から離れ幼い妹2人とともに預けられた13歳の少女ファニー(レオニー・スーショー)は、通報により施設にドイツ兵が乗り込む直前にイタリア支配地域の支援者マダム・フォーマン(セシル・ドゥ・フランス)の下に移される。ファニーは、厳格なマダム・フォーマンにはなじめなかったが、料理担当の陽気な青年エリー(ヴィクトール・ムートレ)とコンビを組み、様々なことを教えられながらそこでの生活になじんでいく。しかし、ムッソリーニが逮捕され、イタリアが撤兵しドイツが進軍することを察したマダム・フォーマンはスイスへの逃走を決断し、子どもたちに偽名を与え行き先を決して口外しないよう厳命して子どもたちを列車に乗せる。偽造パスポートを調べられると計画が発覚するマダム・フォーマンは列車には乗らず乗換駅に車で先回りして先導し、列車内ではエリーが子どもたちを引率する計画だったが、乗換駅でドイツ兵が乗り込んでくるのを見たエリーは一人で逃走し、それを知ったマダム・フォーマンはこれからはファニーがリーダーと指名する。ところが、次の乗換駅の手前で橋が爆破されて、そのままではマダム・フォーマンと待ち合わせた駅に行けないことを知ったファニーは・・・というお話。

 13歳の少女が、子どもたちを率い、幼い子どもからは疲れた、もう歩けない、お腹がすいたとこぼされ、年上の子どもからはリーダーシップの不足を非難され計画遂行の見通しへの疑念を示されながら、当然に内心不安で心細くて泣き出したい気持ちであろうに、ときにはかんしゃくを起こしながらも、周りを叱咤したりなだめたりしながらけなげに初志を貫こうとする姿が、テーマであり、また見せどころです。
 設定もストーリーも雰囲気も違いますが、その点は、「ウィンターズ・ボーン」を思い起こしました。「ウィンターズ・ボーン」の主演でブレイクしたジェニファー・ローレンスはトップスターに上りつめましたが、映画初出演の新星レオニー・スーショーの今後はいかに。
 幼い子どもが、善意の大人と敵対する大人に囲まれながら、親や大人の保護から離れて生き抜きたくましく成長するというのは、立派ではありますが、しかし、幼い子どもをそのような運命に追い込む社会(というより政治か)と時代を作らないことが、大人の、親の責任なのだということを、かみしめておきたい。子を持つ親としてはそういうことを考える作品だと思います。

2017年7月30日 (日)

君の膵臓をたべたい

 膵臓の病で余命数か月の少女とそれを知ることになった地味な同級生の交歓を描いた映画「君の膵臓をたべたい」を見てきました。
 封切り3日目日曜日、新宿ピカデリースクリーン2(301席)午前10時50分の上映は8割くらいの入り。

 教師となり6年目に母校に赴任してきた教師志賀春樹(小栗旬)は、伝統ある図書室の建て替えに際して図書の整理を任される。図書委員栗山(森下大地)からこの図書ラベルを全部整理した図書委員は志賀先生なんですってねと話しかけられた志賀は、あぁ、もう一人迷惑な補助がいたが、と話し、12年前を回想する。病院の待合で拾った本を開けると「共病文庫」と題して膵臓病であと1年も生きられないと記されているのを読んで呆然とした「僕」こと志賀春樹(北村匠海)は、クラス一の人気者の同級生山内桜良(浜辺美波)から、それ私の、中身読んだねと話しかけられ、だれにも話さないことを求められる。翌日から桜良は図書館で本を整理する「僕」のそばで、いい加減なラベルを貼って、探すのに少しくらい苦労した方が宝探しみたいでいいでしょなどと言ってみたり、デートに誘ったり、挙げ句の果ては一緒に旅に出たいと言い出す。戸惑う「僕」に桜良は、君は私に真実と日常を与えてくれる唯一の存在だ、医者は(残酷な)真実しか与えてくれない、両親は日常を取り繕うのに精一杯だ、親友の恭子(大友花恋)に病気のことを言ったら両親と同じようになってしまう、恭子とのふつうに馬鹿を言ったり楽しく過ごす日常を失いたくない、と答え・・・というお話。

 余命数か月の高校生が、死の恐怖を隠し、同級生に、そして真実を知る「僕」にも見せる満面の笑み、残された短い日々を腫れ物に触るようにではなくふつうの日常として送りたいという思い故にではあっても、余命幾ばくもないことを医者と両親と「僕」以外には知らせないと決意し淡々とそれを実行してみせる強さ、当然叫びたくなるほど怖いに決まっているのにそれを見せず、人間はいつか死ぬし病気でなくても明日死ぬかもしれない、一日の貴重さは私も仲良し君も同じとうそぶいて強がる様子に、もともと難病ものに弱い上に、近い世代の娘を持つ私には、いじらしくて切なくて、涙腺が緩みます。
 浜辺美波の笑顔がとても魅力的です。もちろん、作品の設定上、本当は悲しくて怖くて仕方がないはずなのにそれを隠しての笑顔という見方をすることが強く影響しているのですが、私のツボにはまった感じです。主演女優の笑顔の魅力で印象に残っている「言えない秘密」(2007年。日本公開は2008年)のグイ・ルンメイ、「モテキ」(2011年)の長澤まさみにも匹敵すると、思いました。浜辺美波の笑顔以外も含めたビジュアルが大変美しい作品だとも思いますが。

 誰かを好きになる、誰かを嫌いになる、誰かと手をつなぐ、誰かとハグをする、それが生きるということ。一人じゃ、自分がいるってわからない。好きだけど嫌い、一緒にいて楽しいけど鬱陶しい、そういう人と私の関係が私が生きているってことだと思うって、高校生に言わせちゃうところがすごい。
 他方、桜良に私が本当は死ぬのがめちゃくちゃ怖いって言ったらどうする?と聞かれて黙り込む「僕」。安易な答えはしたくないということかもしれませんが、どうかなぁ。そんなの当然じゃないか、だれだってもうすぐ死ぬって知ったら怖いよ、桜良がその恐怖を乗り越えて笑ってるのはすごいと思う、でも怖かったら泣いていい、叫んでいい、「僕」はそういう桜良をまるごと受け止めたい、とか言えないかなぁ・・・

 最初のデートの日、桜良が「僕」の初恋の人のどこを好きになったか問い詰めて何でも「さん」付けする人であらゆるものに敬意を持ってるんだと感心してという答えに好きになった理由が予想外によかったと感心し、後日クラスでも一人で本に向き合っている強さに関心を持っていたと言ってみたり、元彼の委員長は見かけだけでネチネチとして度量が狭かったと言い委員長の陰湿さを描き出し、また恭子の結婚相手の選択など、全体を通じて、人の価値は見かけじゃないよというメッセージがちりばめられています。
 それにもかかわらず、福岡のホテル(ヒルトン福岡シーホーク)のスイートルームでの「真実か、挑戦か」ゲームで、桜良がクラスで一番かわいいのは誰か、自分は何番目にかわいいかと、自分は見かけで評価しないと答えている「僕」に対して、見かけを聞いてるのと言いつのってまでこだわりを見せるのは違和感がありました。

 病室での最後の「真実か、挑戦か」で桜良が「僕」に聞きたかったことも、期待を持たせた割には、肩すかし感があります。
 桜良と「僕」の関係を「恋人ではない」と位置づけることへのこだわりがあり(原作との関係でそれは譲れない線かもしれませんが)、桜良が「僕」に私を彼女にする気はないねと確認した挙げ句に、死ぬ前にしたいことリストの最後を「恋人でない男の子といけないことをする」としています。でも、そこは桜良は「僕」に思い直させて告白して/させて、「好きな人とHする」にしたかったんじゃないかと思うのですが、それは通俗的解釈に過ぎるでしょうか。

 現在と12年前が行き来する構成を、現在(茶系)と12年前(紺系)で制服を変えることで、一目で時代がわかるようにされています。手紙やスマホの画面(メール、ライン)が写るときも、ほぼ全部ナレーションをつけて読み上げています。近年、スマホの画面の文字映像を写して観客に読ませる作品が多く、視力の落ちた私には字幕よりさらに読みにくくて苦労していますので、こういう配慮はとても助かります。そういう面で観客に優しい作りになっていることも感心しました。

2017年7月23日 (日)

怪盗グルーのミニオン大脱走

 「怪盗グルー」シリーズ第3弾の映画「怪盗グルーのミニオン大脱走」を見てきました。
 封切り3日目、TOHOシネマズ新宿スクリーン7(407席)午前9時30分の上映は5割くらいの入り。USJでは2017年4月21日の「ミニオン・パーク」オープンを始めこの夏の主役となっているミニオンたちの勢い、世界興収では第1作「怪盗グルーの月泥棒」(2010年)が5.431億ドルで歴代154位、第2作「怪盗グルーのミニオン危機一髪」(2013年)が9.708億ドルで歴代32位、スピンアウト作品の「ミニオンズ」(2015年)が11.594億ドルで歴代13位、この作品も全米公開3週目の2017年7月18日現在ですでに6.224億ドルで歴代119位にランクインしていることからすると、予想より不入り。日本での興行成績ではいずれも歴代100位に入れず、第1作が2010年の41位タイ(12.0億円)、第2作が2013年の21位(25.0億円)、「ミニオンズ」が2015年の6位(52.1億円)止まりなので、日本ではそれほど期待できないともいえますが。笑いのツボが違うということでしょうか(私には、同様に笑いのツボがずれているように感じられるパイレーツ・オブ・カリビアンシリーズは、日本でも大ヒットしているので、そういうことでもないかと思いますが)。

 泥棒稼業から足を洗い、ルーシーと結婚したグルーは、反悪党同盟の捜査官として、1980年代に子役として人気を博したが番組を打ち切られてすねて泥棒になったバルタザールを追っていたが、目の前で世界最大のダイヤモンドを盗まれて取り逃がし、ルーシー共々反悪党同盟から解雇されてしまう。グルーの解雇を知ったメルらミニオンたちはグルーが泥棒に戻ると期待して大騒ぎするが、グルーは泥棒には戻らないと宣言し、ミニオンたちは失望して出て行く。失意のグルーの元にグルーがその存在を知らなかった一卵性双生児の兄弟ドルーから連絡があり、グルーの母と別れた父が大泥棒でドルーにそれを継ぐことを期待していたが亡くなり、グルーに父を継いで欲しいとして父の遺産の様々な装備を提供した。グルーは、それを利用して再度バルタザールに挑むが・・・というお話。

 グルーとルーシーの夫婦愛、グルーと娘たちの親子愛の物語と、ミニオンたちのコミカルさが売りなのだと思いますが、グルーをめぐるストーリーと、ミニオンたちの流れが別々で統合されない感じが残り、そこが今ひとつかなと思いました。
 バルタザールが音楽に乗って踊ったり戦うのに、カセットテープを使うのが、新鮮というか・・・今どきカセットテープを再生できる端末がどれだけあるのか・・・もちろん音楽も1980年代で、私のようなおじさんには懐かしいのですが、そういう世代を客層に狙ってるわけではないでしょうに。

2017年7月16日 (日)

パイレーツ・オブ・カリビアン 最後の海賊

 ディズニーランドのアトラクション「カリブの海賊」からひねり出した映画の第5弾「パイレーツ・オブ・カリビアン 最後の海賊」を見てきました。
 封切り3週目日曜日、新宿ピカデリースクリーン2(301席)午後1時25分の上映は、ほぼ満席。

 沈没船「フライング・ダッチマン」号に閉じ込められた父ウィル・ターナー(オーランド・ブルーム)を救うために必要な「ポセイドンの槍」を探し求めるウィルの息子ヘンリー・ターナー(ブレントン・スウェイツ)は、イギリス軍の船員となりジャック・スパロウを探していたが、船が「魔の三角水域」に入り込み、呪われた亡霊海賊サラザール(ハビエル・バルデム)に襲われ、呪いを解くためにジャック・スパロウのコンパスを求めていることを知らされ、ジャック・スパロウを探すように言われる。顔も知らぬ父から受け継いだガリレオ・ガリレイの日記の謎を解こうとしている孤児の天文学者カリーナ・スミス(カヤ・スコデラリオ)は、その知識故に「魔女」と疑われ、追われていた。島で新たな銀行のお披露目の日、金庫の中から泥酔状態で現れたジャック・スパロウ(ジョニー・デップ)は、仲間の海賊たちに馬で金庫を引かせて銀行強盗を企て・・・というお話。

 ヘンリーと父親のウィル、カリーナとその父の、2組の父子の絆、愛情を軸にしたアドベンチャー作品です。
 ジコチュウで無責任なジョニー・デップ(ジャック・スパロウ)が狂言回しを務めていますが、ジャック・スパロウとサラザールとイギリス海軍が対立する世界という舞台を作っているもので、この作品の主役はヘンリーとカリーナとみるべきだろうと思います。
 それでも、ジョニー・デップの無責任でおちゃらけた対応がおもしろい、ギャグだと感じられるか、うっとうしいだけで笑いのツボも外してると感じるかで、作品への評価は大きく変わるだろうと思いますが。

 公式サイトのトップページにある「これまで決して明かされることのなかったジャック・スパロウ誕生の瞬間―― 『パイレーツ・オブ・カリビアン』最大にして最高の謎が、ついにベールを脱ぐ!」という宣伝文句。シリーズのファン、ディズニーに忠実なファンには、そうなのかなぁとは思いますが、いや、これが、シリーズ「最大にして最高の謎」?
 あらゆる宣伝文句が、誇大で、言葉の重みというのが感じられない、という印象を持ちます。

 サブタイトルの「最後の海賊」。予告編では「最後の冒険が、ついに始まる」、公式サイトのイントロダクションでも「すべての謎が明かされる<最後の冒険>が、ついに幕を開ける!」とされています。原題は“ Pirates of the Caribbean: Dead Men Tell No Tales ” で、サブタイトルは「死人に口なし」。「最後」という言葉はどこにもありません。エンドロールのラストにほのめかし映像があり、続編制作が示唆されています。こういう状態で、いかにもこれが最終作みたいな宣伝をする日本の興業サイドのやり方には強い疑問を感じます。
 もともとシリーズ化を予定していなかったけど、第1作(2003年)が大ヒットしたので、3部作と言い出し、第3作(2007年)が終わった後から、未練がましく第4作(2011年)を作りさらにこの第5作(2017年)に至った経緯からして、稼げる限り前言など気にせずに翻すことは観客もわかっているはずということかもしれませんが、私には詐欺的で恥知らずな姿勢に思えます。

2017年7月 9日 (日)

ヒトラーへの285枚の葉書

 ヒトラー政権下のベルリンで平凡な夫婦がペンとカードのみで試みた抵抗の記録を映画化した「ヒトラーへの285枚の葉書」を見てきました。
 封切り2日目日曜日、全国6館東京で2館の上映館の1つヒューマントラストシネマ有楽町シアター1(161席)午前10時50分の上映は5割くらいの入り。観客の年齢層は高め。

 1940年6月、工場の職工長のオットー・クヴァンゲル(ブレンダン・グリーソン)と妻アンナ(エマ・トンプソン)の元に一人息子のハンスが戦死したという軍事郵便が届いた。やり場のない悲しみと怒りに打ちひしがれたオットーは、カードに「総統は私の息子を殺した。あなたの息子も殺されるだろう」などのメッセージを記し、街中の各所に置き始めた。カードを見て届けた市民の通報を元にエッシャリヒ警部(ダニエル・ブリュール)は捜査を始め、カードが置かれた場所から居住域を絞り一人息子が殺された父親を探し続けるが・・・というお話。

 オットーの息子ハンスは戦死したというだけで、その死は、別段、「ナチスの戦争」「ヒトラーの戦争」に特有のものではないように見受けられます。
 ヒトラー親衛隊の奢りのさばる様子、ユダヤ人を密告する者たちの略奪/窃盗行為と卑しさ、人道的な/良心の呵責を持つ者の社会的地位の危うさ、ヒトラーに従わない態度自体の甚だしいリスクといった「世情」が描かれ、それがヒトラーとその体制への反発/抵抗へとつながったという面はあると思いますが、オットーとアンナの思いは、ナチスではなくても、戦争一般への反対に通じるものであったと考えられます。
 オットーは、公式サイトで繰り返されている「労働者階級」ではありますが職工長というむしろ管理者の立場にあり、それまでは反体制の意識は持っていなかったと考えられます(そこははっきり描かれていないと思いますが)。アンナは国家社会主義女性同盟の活動で募金や労働奉仕を求めて戸別訪問するという体制側の人でした。そのもともと反体制派でない夫婦が、一人息子の戦死を機に反戦に目覚め、組織的基盤もなく個人の創意工夫で権力に抵抗するというところが、この作品のポイントになっています。

 それとともに、オットーが決意したペンとカードによる抵抗運動に、アンナが自分も同行すると言い、アンナ自身も実行するに至る、その過程でオットーはアンナを巻き込むまいと気遣い、アンナはオットーのピンチを救うべく立ち向かう、命の危険を賭けた夫婦の心情、夫婦愛が、第2のテーマであり、終盤の法廷で手を握り合う二人の姿が見せ場だと、私は思います。
 二人の抵抗の実践の経緯は、夫唱婦随的な色彩が強いのですが、アンナは国家社会主義女性同盟の活動でヒトラー親衛隊幹部の妻に対しても労働奉仕しないのはおかしいと詰め寄る一本気な強さが描かれていて、ただ夫に従った妻というのではない位置づけもいい感じです。

2017年6月25日 (日)

ハクソー・リッジ

 武器を持たずに沖縄の戦場で倒れた兵士75名を救出した米軍衛生兵を描いた映画「ハクソー・リッジ」を見てきました。
 封切り2日目日曜日、TOHOシネマズ新宿スクリーン9(499席)午前9時の上映は8割くらいの入り。

 ヴァージニア州の田舎町で野山を駆け巡って育ったデズモンド・ドス(アンドリュー・ガーフィールド)は、過去のできごとから銃を持たないと決意していたが、町の多くの若者たちが志願して戦場に行き、自らも人殺しはしないが衛生兵としてなら貢献できると考え、恋人の看護師ドロシー(テリーサ・パーマー)にも相談せずに陸軍への志願を決める。入隊し、体力では負けなかったが、銃を持つことを拒否したドスに対し、部隊長のグローヴァー大尉(サム・ワーシントン)は呆れ、除隊を勧める。ドスは、除隊を断り、自分は良心的兵役拒否者ではない、軍服や軍隊は大丈夫だが人を殺したくないだけだ、衛生兵として従軍したいと述べ、上官や兵士から嫌がらせを受ける。ドロシーと結婚式を挙げる予定だった休暇の日に上官からライフルの訓練を終えないと休暇を認めないと言われたドスは、命令を拒否して軍法会議にかけられる。軍法会議で刑務所に入れられるピンチをしのいだドスは、1945年5月、沖縄に送られ、難攻不落の激戦地「ハクソー・リッジ」(のこぎりの崖)と米軍が名付けた戦場に足を踏み入れ、日本軍の激しい攻撃に直面し・・・というお話。

 予告編から予想したよりは、ドスが沖縄に達するまでの展開が長く、ドスの幼少時代から「人を殺さない」「武器を持たない」という信念が形成された過程、第1次世界大戦に従軍して友人を戦場で失いトラウマとアルコール中毒に苦しむねじくれた父との葛藤と家族愛、ドロシーへの思いとドスの心の支えとなるドロシーの一途さ、ドスが信念を貫くことへの障害とそれを乗り越える困難が、丁寧に描かれていて、むしろそちらが見どころの映画かもと思ってしまいます。
 戦場の描写は、兵士の死傷、凄惨な傷口、死傷者に襲いかかるネズミたちがこれでもかとばかりに続きます。戦争の無残さをしみじみと感じさせます。
 しかし、ではこれが反戦の映画かというと、そうとも考えにくい。作品の流れは、ドスを蔑んでいた兵士たちが戦場を駆け回り砲弾をかいくぐり日本兵の隙を見て倒れた重傷者を救出し続けるドスの姿に驚き感動して、ドスとともに戦いたい、ドスがいるから安心して戦えると結束して勝利を収めるという団結と英雄の物語に回収され、日本兵も勇敢に戦ったと称揚することはあっても、一方的に被害を受けるだけの沖縄の民衆はまったく登場もしません。犠牲は多いものの戦争は否定はされず、従来とはタイプが違う英雄譚と位置づけるべきでしょう。
 感動できる部分と、あまりにも凄惨な戦場の死傷者の映像に、複雑な形容しがたい印象を残す作品です。

2017年6月18日 (日)

22年目の告白 私が殺人犯です

 時効が成立した殺人事件の手記を出版して登場した犯人を名乗る男をめぐるサスペンス映画「22年目の告白 私が殺人犯です」を見てきました。
 封切り2週目日曜日、新宿ピカデリースクリーン2(301席)午前11時の上映は、9割くらいの入り。

 1995年に東京で起こった5件の被害者を近親者の目の前で後ろから縄で絞殺するという残忍な手口の連続殺人事件が、殺人事件の公訴時効撤廃の当日・施行直前の2010年4月27日午前0時に時効が成立し、当時おびき出された犯人と組み合い口を切り裂かれながら肩を銃撃しつつも取り逃がし、その報復として自室に仕掛けられた罠で目の前で上司滝幸宏(平田満)を殺害された刑事牧村航(伊藤英明)は、2017年、連続殺人事件の手記を出版した曾根崎雅人と名乗る人物(藤原竜也)が記者会見をすると連絡を受けた。曾根崎は、記者会見で一躍時の人となった後、遺族の医師山縣明寛(岩松了)の病院に謝罪のパフォーマンスに訪れ、曾根崎と遭遇した牧村は曾根崎を殴ろうとして取り押さえられる。曾根崎のサイン会には若い女性たちが押し寄せ、遺族の暴力団組長橘大祐(岩城滉一)の意を受けた組員戸田丈(早乙女太一)は曾根崎を狙って発砲し、遺族の娘岸美晴(夏帆)は曾根崎を刺そうとするが、いずれも牧村に阻止される。曾根崎は、かつて戦場カメラマンで帰国直後に起こった東京連続殺人事件の取材で名を挙げたジャーナリスト仙堂俊雄(仲村トオル)がメインキャスターを務めるNEWSEYESに生出演し、仙堂から追及されるが、番組で真犯人を名乗る人物がネットにアップした5件目の牧村宅での事件直後に縛られた牧村の妹里香(石橋杏奈)を映した映像が流され、食堂でテレビを見ていた牧村は・・・というお話。

 「巧い」つくりではあります。公式サイトのキャッチフレーズが「男の告白に、刑事が、遺族が、メディアが、そして日本中が動き出す!あなたは、その衝撃に裏切られる-。」で、確かに出だしからの流れ、曾根崎の正体に関しては、しっかり乗せられ、だまされました。また、殺人罪の公訴時効廃止をめぐる法技術的なポイントの、2010年4月27日午前0時までに(15年の)公訴時効が成立した殺人事件は公訴時効、その時点で公訴時効が成立していない殺人事件は公訴時効なしという遺族にとっても警察にとってもそして犯人にとっても天と地を分ける運命の1日も巧く使われています。
 他方で、進行の過程で感じられるいくつもの不自然さ(それを具体的に書くとストレートなネタバレになってしまうのであえて書きませんが)があり、これをもう少し拭えないかと感じるか、その程度に見せることが「布石」なのだと感じるか、たぶん評価が分かれるのでしょう。私は、ミステリーとして作る以上、もう少し隠して欲しい感じがしましたが。
 この巧さといくつもの不自然さのために、見る前の予想よりも、殺人事件そのもの、遺族感情そのものに入り込めなかったという印象を持ちました。予告を見ている段階では、もっと曾根崎に憎しみを感じ、遺族の心情に涙すると予測していたのですが。

 不自然さとは別に、東京に来て15年たっても関西弁が抜けない人が、それから7年後には関西弁がきれいに抜けてるっていうのは、今ひとつ日頃の経験からの実感に合わないように思えるのですが・・・

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