映画・テレビ

2017年7月16日 (日)

パイレーツ・オブ・カリビアン 最後の海賊

 ディズニーランドのアトラクション「カリブの海賊」からひねり出した映画の第5弾「パイレーツ・オブ・カリビアン 最後の海賊」を見てきました。
 封切り3週目日曜日、新宿ピカデリースクリーン2(301席)午後1時25分の上映は、ほぼ満席。

 沈没船「フライング・ダッチマン」号に閉じ込められた父ウィル・ターナー(オーランド・ブルーム)を救うために必要な「ポセイドンの槍」を探し求めるウィルの息子ヘンリー・ターナー(ブレントン・スウェイツ)は、イギリス軍の船員となりジャック・スパロウを探していたが、船が「魔の三角水域」に入り込み、呪われた亡霊海賊サラザール(ハビエル・バルデム)に襲われ、呪いを解くためにジャック・スパロウのコンパスを求めていることを知らされ、ジャック・スパロウを探すように言われる。顔も知らぬ父から受け継いだガリレオ・ガリレイの日記の謎を解こうとしている孤児の天文学者カリーナ・スミス(カヤ・スコデラリオ)は、その知識故に「魔女」と疑われ、追われていた。島で新たな銀行のお披露目の日、金庫の中から泥酔状態で現れたジャック・スパロウ(ジョニー・デップ)は、仲間の海賊たちに馬で金庫を引かせて銀行強盗を企て・・・というお話。

 ヘンリーと父親のウィル、カリーナとその父の、2組の父子の絆、愛情を軸にしたアドベンチャー作品です。
 ジコチュウで無責任なジョニー・デップ(ジャック・スパロウ)が狂言回しを務めていますが、ジャック・スパロウとサラザールとイギリス海軍が対立する世界という舞台を作っているもので、この作品の主役はヘンリーとカリーナとみるべきだろうと思います。
 それでも、ジョニー・デップの無責任でおちゃらけた対応がおもしろい、ギャグだと感じられるか、うっとうしいだけで笑いのツボも外してると感じるかで、作品への評価は大きく変わるだろうと思いますが。

 公式サイトのトップページにある「これまで決して明かされることのなかったジャック・スパロウ誕生の瞬間―― 『パイレーツ・オブ・カリビアン』最大にして最高の謎が、ついにベールを脱ぐ!」という宣伝文句。シリーズのファン、ディズニーに忠実なファンには、そうなのかなぁとは思いますが、いや、これが、シリーズ「最大にして最高の謎」?
 あらゆる宣伝文句が、誇大で、言葉の重みというのが感じられない、という印象を持ちます。

 サブタイトルの「最後の海賊」。予告編では「最後の冒険が、ついに始まる」、公式サイトのイントロダクションでも「すべての謎が明かされる<最後の冒険>が、ついに幕を開ける!」とされています。原題は“ Pirates of the Caribbean: Dead Men Tell No Tales ” で、サブタイトルは「死人に口なし」。「最後」という言葉はどこにもありません。エンドロールのラストにほのめかし映像があり、続編制作が示唆されています。こういう状態で、いかにもこれが最終作みたいな宣伝をする日本の興業サイドのやり方には強い疑問を感じます。
 もともとシリーズ化を予定していなかったけど、第1作(2003年)が大ヒットしたので、3部作と言い出し、第3作(2007年)が終わった後から、未練がましく第4作(2011年)を作りさらにこの第5作(2017年)に至った経緯からして、稼げる限り前言など気にせずに翻すことは観客もわかっているはずということかもしれませんが、私には詐欺的で恥知らずな姿勢に思えます。

2017年7月 9日 (日)

ヒトラーへの285枚の葉書

 ヒトラー政権下のベルリンで平凡な夫婦がペンとカードのみで試みた抵抗の記録を映画化した「ヒトラーへの285枚の葉書」を見てきました。
 封切り2日目日曜日、全国6館東京で2館の上映館の1つヒューマントラストシネマ有楽町シアター1(161席)午前10時50分の上映は5割くらいの入り。観客の年齢層は高め。

 1940年6月、工場の職工長のオットー・クヴァンゲル(ブレンダン・グリーソン)と妻アンナ(エマ・トンプソン)の元に一人息子のハンスが戦死したという軍事郵便が届いた。やり場のない悲しみと怒りに打ちひしがれたオットーは、カードに「総統は私の息子を殺した。あなたの息子も殺されるだろう」などのメッセージを記し、街中の各所に置き始めた。カードを見て届けた市民の通報を元にエッシャリヒ警部(ダニエル・ブリュール)は捜査を始め、カードが置かれた場所から居住域を絞り一人息子が殺された父親を探し続けるが・・・というお話。

 オットーの息子ハンスは戦死したというだけで、その死は、別段、「ナチスの戦争」「ヒトラーの戦争」に特有のものではないように見受けられます。
 ヒトラー親衛隊の奢りのさばる様子、ユダヤ人を密告する者たちの略奪/窃盗行為と卑しさ、人道的な/良心の呵責を持つ者の社会的地位の危うさ、ヒトラーに従わない態度自体の甚だしいリスクといった「世情」が描かれ、それがヒトラーとその体制への反発/抵抗へとつながったという面はあると思いますが、オットーとアンナの思いは、ナチスではなくても、戦争一般への反対に通じるものであったと考えられます。
 オットーは、公式サイトで繰り返されている「労働者階級」ではありますが職工長というむしろ管理者の立場にあり、それまでは反体制の意識は持っていなかったと考えられます(そこははっきり描かれていないと思いますが)。アンナは国家社会主義女性同盟の活動で募金や労働奉仕を求めて戸別訪問するという体制側の人でした。そのもともと反体制派でない夫婦が、一人息子の戦死を機に反戦に目覚め、組織的基盤もなく個人の創意工夫で権力に抵抗するというところが、この作品のポイントになっています。

 それとともに、オットーが決意したペンとカードによる抵抗運動に、アンナが自分も同行すると言い、アンナ自身も実行するに至る、その過程でオットーはアンナを巻き込むまいと気遣い、アンナはオットーのピンチを救うべく立ち向かう、命の危険を賭けた夫婦の心情、夫婦愛が、第2のテーマであり、終盤の法廷で手を握り合う二人の姿が見せ場だと、私は思います。
 二人の抵抗の実践の経緯は、夫唱婦随的な色彩が強いのですが、アンナは国家社会主義女性同盟の活動でヒトラー親衛隊幹部の妻に対しても労働奉仕しないのはおかしいと詰め寄る一本気な強さが描かれていて、ただ夫に従った妻というのではない位置づけもいい感じです。

2017年6月25日 (日)

ハクソー・リッジ

 武器を持たずに沖縄の戦場で倒れた兵士75名を救出した米軍衛生兵を描いた映画「ハクソー・リッジ」を見てきました。
 封切り2日目日曜日、TOHOシネマズ新宿スクリーン9(499席)午前9時の上映は8割くらいの入り。

 ヴァージニア州の田舎町で野山を駆け巡って育ったデズモンド・ドス(アンドリュー・ガーフィールド)は、過去のできごとから銃を持たないと決意していたが、町の多くの若者たちが志願して戦場に行き、自らも人殺しはしないが衛生兵としてなら貢献できると考え、恋人の看護師ドロシー(テリーサ・パーマー)にも相談せずに陸軍への志願を決める。入隊し、体力では負けなかったが、銃を持つことを拒否したドスに対し、部隊長のグローヴァー大尉(サム・ワーシントン)は呆れ、除隊を勧める。ドスは、除隊を断り、自分は良心的兵役拒否者ではない、軍服や軍隊は大丈夫だが人を殺したくないだけだ、衛生兵として従軍したいと述べ、上官や兵士から嫌がらせを受ける。ドロシーと結婚式を挙げる予定だった休暇の日に上官からライフルの訓練を終えないと休暇を認めないと言われたドスは、命令を拒否して軍法会議にかけられる。軍法会議で刑務所に入れられるピンチをしのいだドスは、1945年5月、沖縄に送られ、難攻不落の激戦地「ハクソー・リッジ」(のこぎりの崖)と米軍が名付けた戦場に足を踏み入れ、日本軍の激しい攻撃に直面し・・・というお話。

 予告編から予想したよりは、ドスが沖縄に達するまでの展開が長く、ドスの幼少時代から「人を殺さない」「武器を持たない」という信念が形成された過程、第1次世界大戦に従軍して友人を戦場で失いトラウマとアルコール中毒に苦しむねじくれた父との葛藤と家族愛、ドロシーへの思いとドスの心の支えとなるドロシーの一途さ、ドスが信念を貫くことへの障害とそれを乗り越える困難が、丁寧に描かれていて、むしろそちらが見どころの映画かもと思ってしまいます。
 戦場の描写は、兵士の死傷、凄惨な傷口、死傷者に襲いかかるネズミたちがこれでもかとばかりに続きます。戦争の無残さをしみじみと感じさせます。
 しかし、ではこれが反戦の映画かというと、そうとも考えにくい。作品の流れは、ドスを蔑んでいた兵士たちが戦場を駆け回り砲弾をかいくぐり日本兵の隙を見て倒れた重傷者を救出し続けるドスの姿に驚き感動して、ドスとともに戦いたい、ドスがいるから安心して戦えると結束して勝利を収めるという団結と英雄の物語に回収され、日本兵も勇敢に戦ったと称揚することはあっても、一方的に被害を受けるだけの沖縄の民衆はまったく登場もしません。犠牲は多いものの戦争は否定はされず、従来とはタイプが違う英雄譚と位置づけるべきでしょう。
 感動できる部分と、あまりにも凄惨な戦場の死傷者の映像に、複雑な形容しがたい印象を残す作品です。

2017年6月18日 (日)

22年目の告白 私が殺人犯です

 時効が成立した殺人事件の手記を出版して登場した犯人を名乗る男をめぐるサスペンス映画「22年目の告白 私が殺人犯です」を見てきました。
 封切り2週目日曜日、新宿ピカデリースクリーン2(301席)午前11時の上映は、9割くらいの入り。

 1995年に東京で起こった5件の被害者を近親者の目の前で後ろから縄で絞殺するという残忍な手口の連続殺人事件が、殺人事件の公訴時効撤廃の当日・施行直前の2010年4月27日午前0時に時効が成立し、当時おびき出された犯人と組み合い口を切り裂かれながら肩を銃撃しつつも取り逃がし、その報復として自室に仕掛けられた罠で目の前で上司滝幸宏(平田満)を殺害された刑事牧村航(伊藤英明)は、2017年、連続殺人事件の手記を出版した曾根崎雅人と名乗る人物(藤原竜也)が記者会見をすると連絡を受けた。曾根崎は、記者会見で一躍時の人となった後、遺族の医師山縣明寛(岩松了)の病院に謝罪のパフォーマンスに訪れ、曾根崎と遭遇した牧村は曾根崎を殴ろうとして取り押さえられる。曾根崎のサイン会には若い女性たちが押し寄せ、遺族の暴力団組長橘大祐(岩城滉一)の意を受けた組員戸田丈(早乙女太一)は曾根崎を狙って発砲し、遺族の娘岸美晴(夏帆)は曾根崎を刺そうとするが、いずれも牧村に阻止される。曾根崎は、かつて戦場カメラマンで帰国直後に起こった東京連続殺人事件の取材で名を挙げたジャーナリスト仙堂俊雄(仲村トオル)がメインキャスターを務めるNEWSEYESに生出演し、仙堂から追及されるが、番組で真犯人を名乗る人物がネットにアップした5件目の牧村宅での事件直後に縛られた牧村の妹里香(石橋杏奈)を映した映像が流され、食堂でテレビを見ていた牧村は・・・というお話。

 「巧い」つくりではあります。公式サイトのキャッチフレーズが「男の告白に、刑事が、遺族が、メディアが、そして日本中が動き出す!あなたは、その衝撃に裏切られる-。」で、確かに出だしからの流れ、曾根崎の正体に関しては、しっかり乗せられ、だまされました。また、殺人罪の公訴時効廃止をめぐる法技術的なポイントの、2010年4月27日午前0時までに(15年の)公訴時効が成立した殺人事件は公訴時効、その時点で公訴時効が成立していない殺人事件は公訴時効なしという遺族にとっても警察にとってもそして犯人にとっても天と地を分ける運命の1日も巧く使われています。
 他方で、進行の過程で感じられるいくつもの不自然さ(それを具体的に書くとストレートなネタバレになってしまうのであえて書きませんが)があり、これをもう少し拭えないかと感じるか、その程度に見せることが「布石」なのだと感じるか、たぶん評価が分かれるのでしょう。私は、ミステリーとして作る以上、もう少し隠して欲しい感じがしましたが。
 この巧さといくつもの不自然さのために、見る前の予想よりも、殺人事件そのもの、遺族感情そのものに入り込めなかったという印象を持ちました。予告を見ている段階では、もっと曾根崎に憎しみを感じ、遺族の心情に涙すると予測していたのですが。

 不自然さとは別に、東京に来て15年たっても関西弁が抜けない人が、それから7年後には関西弁がきれいに抜けてるっていうのは、今ひとつ日頃の経験からの実感に合わないように思えるのですが・・・

2017年6月11日 (日)

マンチェスター・バイ・ザ・シー

 避けていた過去の過ちと向き合うことを強いられた男の苦悩を描いた映画「マンチェスター・バイ・ザ・シー」を見てきました。
 封切り5週目日曜日、ヒューマントラストシネマ渋谷シアター1(200席)午後0時10分の上映は8割くらいの入り。

 ボストンでアパートの便利屋として働くリー・チャンドラー(ケイシー・アフレック)は、仕事は堅実だが、無愛想で、呼ばれた顧客の住人に挨拶もせず、不評を買っていた。心臓病を抱えていた兄ジョー・チャンドラー(カイル・チャンドラー)の入院の報を聞いて、リーは故郷の町マンチェスター・バイ・ザ・シーの病院に駆けつけたが、兄はすでに死んでいた。兄の遺言で、幼い頃にはよく遊んだ甥のパトリック(ルーカス・ヘッジズ)の後見人に指名されたことを知り驚いたリーは、パトリックにジョーの船や自宅を売却してボストンに転居することを提案するが、パトリックは船は売りたくない、自分はここに学校も友人もホッケークラブもバンドも2人の彼女もいる、便利屋なんてどこでもできるんだからおじさんがここに引っ越してくればいいと、引っ越しを拒否する。リーは、ジョーの葬儀の準備をしながら思い悩むが・・・というお話。

 自らの過ちと圧倒的な喪失感/悲しみに耐えられず、故郷の町を離れて一人暮らしてきたリーが、兄の死と未成年(高校生)の甥パトリックの存在(放置できない/後見人指名)故に、故郷の町に呼び戻され、避けていた過去と向き合わざるを得なくなった苦悩、それにリーがどう対処するのかがテーマです。
 事件の前の、幼いパトリックとじゃれ合う陽気でフレンドリーな姿、ジョーとパトリックと海へ出て帰った後の妻ランディ(ミシェル・ウィリアムズ)から絡まれながらも悪びれずに娘たちとハグしランディの機嫌を取りに行くリーの朗らかさ、事件直前に友人たちを招いて騒ぐ陽気さと、現在のリーの寡黙で無表情な様子が対比され、リーの変化、取り返しのつかない喪失感を印象づけています。
 そして、いずれも「現在」のリーですが、ボストンの居酒屋でちょっとしたことから居合わせた客を殴りつけるいらだち/不安定さが、ラスト近くでマンチェスター・バイ・ザ・シーの居酒屋でも再現され、兄の死・パトリックの後見人就任の一連のできごとでも変わらないリーの姿が描かれています。ありがちな「リーの成長物語」にはならず、そんな簡単に成長したり解決できるはずがないだろと言っているようです。
 そういった、大きな悲しみがあっても、人間はなんとか生きていく、簡単に立ち直ったり乗り越えられなくても、見苦しくても不器用でも、苦悶しあがきながら生き続ける姿が、この作品の味わいどころになっています。
 リーの立場に身を置いた時、自分だったらどのように生きていけるか、想像ができません。リーとランディの再会の時の壊れた会話、その心情、取り乱しぶりに、見ていて心が壊れそうな思いをいました。

 無愛想さに加えて、周囲の女性からかけられるモーションをことごとくスルーするリーの対応が、父ジョーの死後も(彼なりに父の死に傷ついてはいるのですが)Hの機会は決して逃すまいと二股かけてH道に邁進するパトリックと対比的に描かれて、リーの対人関係への消極さ、無気力さが印象づけられています。
 でも、最初のアパートの住人の「アパートの便利屋に恋しちゃいそう」という電話の聞こえよがしの会話。その女性のトイレの詰まりを直しに来て、詰まった大便を吸引し、大便で汚れた手を洗っているというシチュエーションでそれを聞かされて、その気になる(萎えない)ものでしょうか。悲劇で人格が変わり無気力無感動になったという描写以前の問題があるような気も・・・

2017年6月 4日 (日)

ゴールド-金塊の行方-

 金鉱を探し求める鉱山会社経営者の執念と栄枯盛衰を描いた映画「ゴールド-金塊の行方-」を見てきました。
 封切り4日目日曜日、TOHOシネマズシャンテスクリーン2(201席)午後2時の上映は9割くらいの入り。

 父から引き継いだ鉱山会社「ワショー社」の経営が悪化し投資銀行からも融資を断られ続け、自宅も失って恋人のケイ(ブライス・ダラス・ハワード)の家に転がり込み浴びるように酒を飲み続けていた経営者ケニー・ウェルス(マシュー・マコノヒー)は、夢で見た情景に賭けてインドネシアに飛びかつて銅山を発見したが今は事業者から相手にされていない地質学者マイケル・アコスタ(エドガー・ラミレス)と組んで、残されたわずかな私産をつぎ込んで金鉱の試掘を始めた。マイケルが睨んだ住民が以前から砂金をとっている川の上流の山地から金が発見されるが試掘を続けるに従いその品質が落ち、雇った鉱夫たちも去りケニーはマラリヤに罹患して生死の境をさまよう。ようやくマラリヤから回復したケニーにマイケルはサンプルの分析結果を示し、良質の金鉱が発見されたことを知らせた。金鉱発見の報はたちまち広まり、ワショー社の株価は高騰し、投資銀行は掌を返したように支援を申し出てきたが・・・というお話。

 マシュー・マコノヒーの、泥臭く品のない山師の執念と、その山師らしい浮き沈みに伴う喜怒哀楽の演技が、一番の見どころだと思います。
 ケニーは、浴びるように酒を飲み続けるだらしない人物ですが、儲かったときにも、会社の事務所を復活させたり、自宅の土地を買いはしますが、成金的な行動に走らず、金銭よりも探鉱者の誇り・プライドを重視し、苦しい時代をともにしたケイを捨てることなく、金鉱を見つけてから言い寄ってきた美女にデレデレはしますが少なくともケイが出て行くまでは浮気もせず、という姿勢は憎めず、人物として好感が持てます。
 実話に基づくサスペンス仕立てなのですが、サスペンスとしての作りはどうでしょうか。途中でケニーがFBIに尋問されている場面が挟まれていて、途中でそういうほのめかしをしないとサスペンスと感じてもらいにくいということなのかもしれませんが、この尋問のやりとりで、ほぼ筋立てが見えてしまいます。そういうパターンの作りだったら、最初に尋問シーンから入って過去の回想に進むというパターンが多いと思います。それを避けるのなら、むしろ終盤まで尋問シーンを入れない方がよかったんじゃないかと、私は思いました。
 実話に基づく物語とされ、公式サイトにも「驚愕の実話」とうたわれていますが、予告編の最後に強調されている「驚愕のラスト10秒」も実話なんでしょうか。そこ、一番興味がありますが。

2017年5月28日 (日)

光をくれた人

 孤島の灯台守夫婦の元に流れ着いた乳児を自らの子として育てる流産直後の妻と規則違反を後ろめたく思いつつ押し切られる夫、行方不明の乳児を思い涙に暮れる母の葛藤を描いた映画「光をくれた人」を見てきました。
 封切り3日目日曜日、TOHOシネマズシャンテスクリーン1(224席)午後7時の上映は2割くらいの入り。

 第1次世界大戦に従軍し地獄を見ながら生き残ったトム・シェアボーン(マイケル・ファスベンダー)は、1918年、前任者が心を病んで休職した絶海の孤島ヤヌス島の臨時灯台守に志願した。3か月後、本土のパルタジョウズに呼ばれ、前任者が自殺したため正式に3年任期で赴任することを求められたトムは、地元の名士の娘イザベル(アリシア・ヴィキャンデル)からピクニックに誘われ、ヤヌス島に連れて行ってくれと言われる。文通を続けるうちにトムはイザベルに心を開くようになり、パルタジョウズの町で結婚式を挙げ、2人はヤヌス島で水入らずの新婚生活を送った。イザベルはトムの子を身ごもるが1921年の嵐の夜に流産してしまい、2年後の1923年春にもまた流産した。2度目の流産の直後、男の遺体と乳児を乗せた手こぎボートがヤヌス島に漂着した。信号で報告しようとするトムをイザベルは止め、この子を自分の子として育てると言い張り、情にほだされたトムもボートの件を報告せず、イザベルが予定より早く出産したと虚偽の報告をする。2年後に、ルーシーと名付けた娘の洗礼式でパルタジョウズを訪れたトムは墓地で涙する女性ハナ・ポッツ(レイチェル・ワイズ)の姿を見、海に消えたドイツ人の夫フランクと乳児グレースの悲劇を知った。良心の呵責に耐えかねたトムは・・・というお話。

 戦場で地獄を見て老けて生気のない表情のトムが、積極的なイザベルに心を開き明るく若々しくなり、イザベルとルーシーに囲まれ和らいでいく様子、そしてハナの存在を知り身構え思い詰めていく様子、明るく行動的なイザベルが流産して打ちひしがれ、ルーシーを得て輝きを取り戻し、ルーシーを失って無気力になる様子の、対比・起伏が印象的です。トムとイザベルの甘い新婚生活の描写が、その後の不幸/暗転を際立たせています。光を絞った暗がりの映像と光あふれる映像、荒れる海と青空、夕陽の美しさなどの映像の対比も効果的に使われている感じです。
 育ての親(イザベル)と生みの親(ハナ)の対立・葛藤が、テーマではあるのですが、私には、むしろ、規則・法に背いて妻への情にほだされたものの良心の呵責に耐えかねた夫と、子を失った(流産した)悲しみから目の前の乳児にしがみついた妻の、夫婦のありよう、(できた子どもは、もちろんかわいいのだけれども)子ができないときに夫婦水入らずでしみじみ暮らすという選択はそれほどに魅力的でないのか、妻をかばって罪をかぶる夫の姿勢は悲しみに打ちひしがれる妻には評価されないのかなどの方が、考えさせられます。

 トムがイザベルに出会う前のパルタジョウズに向かう船の中でハナを助けたエピソード、ハナの妹のグウェンがハナに内緒でルーシー/グレースをイザベルに会わせたエピソードなどが落ちていますが、概ね原作通りに展開しています。
 印象としては、イザベルと引き離されたルーシーのわめきぶりが原作のイメージよりは弱い感じがしますし、後半でのトム、イザベル、ハナそれぞれの葛藤が原作よりはシンプルに描かれているように思えます。監督の方針として過剰な演出を嫌ったのかもしれませんし、上映時間の制約から後半の描写を絞ったということかもしれません。原作を先に読んだためでしょうけど、そのあたりはもう少しそれぞれの心の揺れ・葛藤を描き込んで欲しかったなと思います。

2017年5月21日 (日)

メッセージ

 地球上に12か所現れた浮遊物体を通じてエイリアンとの会話を試みる言語学者とエイリアンの発するメッセージを描いたSF映画「メッセージ」を見てきました。
 封切り3日間日曜日、TOHOシネマズ新宿スクリーン7(407席)午前11時40分の上映はほぼ満席。

 ある日、モンタナ州(アメリカ)、中国、ロシア、スーダン、北海道など世界各地の12か所に長さ約450mに及ぶ巨大な長楕円盤状の浮遊物体が現れた。言語学者ルイーズ・バンクス(エイミー・アダムス)は、理論物理学者イアン・ドネリー(ジェレミー・レナー)とともにモンタナ州の浮遊物体でエイリアンの言語を分析してエイリアンの目的を解明することを要請された。18時間おきに2時間の間浮遊物体の下部が開き、透明の隔離壁越しにエイリアンとの面接が可能となっていた。ルイーズとイアンは、現れる2体の7本脚(ヘプタポッド)のタコ型エイリアンをアボットとコステロと名付け、エイリアンが肢先から発する煙状の物質を用いて描く環状の文字の解読を試みるが・・・というお話。

 得体の知れないエイリアンとの面接に臨むという使命をあまりにもあっさりと受け入れるルイーズの姿/職業意識の高さに、私はまず胸を打たれましたが、そこはごく淡々と描かれています。
 この作品では、当然のことながら遅々として進まない解明作業に倦まず数十回の面接を続け、エイリアンとの信頼関係を作りコミュニケーションを図ろうとするルイーズの冷静さと粘り強さを、不気味なエイリアンへの疑心と恐怖心に煽られて攻撃を主張する軍人や民衆と対比させ、恐怖を煽りまた疑心から好戦的な対応をとることを戒め、平和的な解決へと粘り強い/地道な対応をすることの価値を示しているように思えます。終盤で、中国が先行し、ロシアとスーダンがそれに続いてエイリアンへの宣戦布告をし、またデータ交換を拒否するという展開は、アメリカと中国・ロシア・スーダンは、お互いをエイリアンよりもさらに信じられないのかという疑問を提起しているのだと思いますし、ルイーズが解いたエイリアンのメッセージは人類が協力し合うことの大切さを示しています。
 SFとしての部分は、最初に示される、もし時が流れるものでなかったらという問いかけがキーポイントになっていますが、エイリアンとのミッションの「現在」の合間に度々挟まれるルイーズと娘と過ごす日々の喜びと切なさがうまくストーリーに織り込まれて心に染みるようになっています。また、ルイーズのイアンに対する、もし未来がわかったら選択を変えるかという問いかけは、人生論として、重いものがあります。もっとも、その時間をめぐる部分は、原作よりしかけが多用され、その分数々の疑問を呼び起こしますが。

 原作では、エイリアンの登場とエイリアンとの交信はごく淡々と描かれ、アメリカ以外の国の対応やエイリアンへの宣戦布告などの政治的対応はまったく描かれず、エイリアンは、人間の科学・数学への信頼/過信に対してまったく違うアプローチがあり得ること、人間がすでに常識として疑わない現在の物理学や数学の基本定理/公式も当然ではないのではないかという文明論的な問題提起の道具となっています。映画は、エイリアンと宇宙船をより神秘的に描き、原作にないエイリアンへの宣戦布告などを入れることで政治的なメッセージを追加しています。映像表現による驚きも含め、映画作品の方が感動的になっています。
 基本的な設定と展開は原作に沿っていますが、大きいところでは、原作ではエイリアンに対して宣戦布告をする中国やロシアなどの動きが全くないことのほかに、原作では姿見( looking glass )と名付けられた高さ10フィート(約3m)幅20フィート(約6m)程度の小さな交信スペースがアメリカに9か所世界に112か所現れるというのが、映画では巨大な宇宙船が12か所現れることになり、原作ではエイリアンは円盤状のディスプレイに文字を示すのに、映画では肢先から出す煙状の物質で空間に文字を示す(イメージ的にはハリー・ポッターふう)、原作では物理学・数学サイドからの解明の方が進みそこで人間の物理学・数学の常識への文明論的な問題提起がなされるのに対し、映画ではそこはほとんど登場しない(言語学者とともに物理学者が参加している意味が、映画ではほとんど不明)などの違いがあります。小さいところでは、物理学者の名前(原作ではゲーリー)、ルイーズがつけたエイリアンの名前(原作ではフラッパーとラズベリー)、ルイーズの娘の名前の明示(原作では最後まで「あなた」、映画ではハンナ:Hannah )、ルイーズの娘の死因(原作では山岳での遭難、映画は癌に思える病死)、ルイーズの離婚の原因(原作では明示されず、映画では・・・これはさすがにネタバレが過ぎるか)、映画では印象的な小道具となる娘の絵「動物と話すパパとママ」が原作にはないなどの違いがあります。全体としての作品の印象は、かなり違っているように思えます。

2017年5月14日 (日)

ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス

 マーベルのアメコミを映画化したSFアクション映画「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス」を見てきました。
 封切り3日目日曜日、新宿ピカデリースクリーン6(232席)午前10時35分の上映は9割くらいの入り。前作(ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:2014年)は、全米歴代47位、世界歴代70位とそれなりにヒットしたものの、日本では興収10億7000万円で(歴代ではなく)2014年の41位止まり。1週早く公開したアメリカでのオープニング興収は前作の154%だそうですが、どの程度まで伸ばせるでしょうか。

 前作で対立しながらもチームを組んだ宇宙のこそ泥ピーター・クイル(クリス・プラット)、暗殺者ガモーラ(ゾーイ・サルダナ)、マッチョ男ドラックス(デイヴ・バウティスタ)、凶悪なアライグマのロケット(声:ブラッドリー・クーパー)、前作で破壊され小枝から1フィート足らずに育ったベビー・グルート(声:ヴィン・ディーゼル)らは、高飛車な黄金の惑星の指導者アイーシャ(エリザベス・デビッキ)に雇われて宇宙怪物と戦ったが、ロケットが電池を盗んだことからアイーシャの怒りを買い、総攻撃を受ける。クイルらが逃げる途中、謎の男エゴ(カート・ラッセル)がアイーシャの軍団を壊滅させてクイルらを守り、不時着した宇宙船を追って現れて、クイルの父だと名乗る。ロケットとベビー・グルートを残してエゴの惑星を訪れたクイル、ガモーラ、ドラックスは、エゴが作り上げた平和な世界に驚き、ドラックスは触れると感情を読み取ることができるエゴの従者マンティス(ポム・クレメンティエフ)と微妙な関係になる。不時着大破した宇宙船を守っていたロケットらは、海賊ヨンドゥ(マイケル・ルーカー)らに捕まるが、海賊の宇宙船内で対立が起こり・・・というお話。

 破天荒で身勝手なキャラクターがいがみ合いながらもいつしか仲間意識を持ち、協力して戦い、敵に捕まった仲間を救おうとするという、「友情」がテーマになっています。
 そして、これに、クイルの出自と母親への愛情、父親探し、「育ての親」ヨンドゥとの絆、ガモーラの妹ネビュラ(カレン・ギラン)との愛憎複雑な思いといった「家族愛」が付け加わります。同じくディズニー傘下となったスター・ウォーズ同様に宇宙人の特異なキャラ、宇宙を舞台としたアクションで映像を作りながら、家族・血統の物語を色濃くする手法がとられています。ヨンドゥの終盤の使い方は、スター・ウォーズエピソード7でのハン・ソロのように見えましたし、仲間を「家族」という、近年では「ワイルド・スピード」シリーズを意識させる発言も見られます(ワイルド・スピードシリーズの主役ドミニク役のヴィン・ディーゼルが、自身には「俺たちは家族だ」という台詞はないものの出演しているのは、ご愛敬、なんでしょうか)。そういう、ヒット作品をあちこちかじったような構成が「リミックス」なんでしょうか。
 映像的にはテーマ・パークのアトラクションのイメージが色濃くありました。特に、アイーシャ軍団の遠隔操作攻撃は、ゲーセンのシューティングゲームを大会場にブースを並べてやっているようですし、クイルらが乗る宇宙船からの景色はいかにもテーマ・パークの映像系アトラクションのようです。
 エンド・ロールの間に何度も映像が入りますが、いずれも、続編を作るぞ、作るぞ、作るぞとただアピールするもので、垢抜けないなぁと思いました。

2017年5月 7日 (日)

カフェ・ソサエティ

 ウディ・アレン監督の新作「カフェ・ソサエティ」を見てきました。
 封切り3日目日曜日、TOHOシネマズ新宿スクリーン6(117席)午前10時10分の上映は7~8割の入り。

 ニューヨークのユダヤ人家庭に生まれた平凡でうだつの上がらない青年ボビー(ジェシー・アイゼンバーグ)は、母がハリウッドのやり手のエージェントの叔父フィル(スティーブ・カレル)に頼み込んだ結果、フィルの元で雑用係として働くようになりハリウッドの名士たちに紹介してもらいながら、フィルの秘書ボニー(クリステン・スチュアート)を見初めた。ボニーが交際を続けていた男に別れを言い渡されて落ち込んでいたのを機に2人は関係を深め、ボビーは、ニューヨークに戻り兄のベン(コリー・ストール)の経営するナイトクラブで働くことにしてボニーに結婚して一緒にニューヨークに来てほしいとプロポーズした。2人の関係はうまくいきそうだったが、憂い顔で座り込んでいるフィルから妻と離婚することを打ち明けられたボビーは、それをボニーに右から左に話してしまい、雲行きが怪しくなって・・・というお話。

 女優志望でハリウッドに職を求めたが芽が出ない女性と、ロスでは成功できない一青年が恋をして、後日女性は映画界の実力者と結婚、青年は自分の店を持ち一定の成功をしたところで、2人が再会し、あったかもしれない2人の関係を想起して切ない思いを持つという、まるでラ・ラ・ランドを思わせる設定とラストです。かつての恋愛でのあのときこうしていればというノスタルジーは、特に中高年観客には、鉄板のテーマともいえ、それでも(ラ・ラ・ランドを見た後であっても)甘く切ない思いは持つのですが。
(作品の公開は、この作品の方が、2016年5月のカンヌ国際映画祭で上映されていて、2016年8月のヴェネツィア国際映画祭が初上映のラ・ラ・ランドより早いのですが、ラ・ラ・ランドの脚本は2010年には書かれていたとされているようですし、両者の関係については、私は判断を避けておきます)
 確固たる価値観や信念も感じられず、自らの力と努力ではなく叔父の力と人脈、兄の経営するナイトクラブの承継という他人任せで成功した(もっとも店を繁盛させたのは人脈を築く力があったからということでしょうけど)中身のなさそうな軽い(口も軽い)青年と、私が以前からあまり好感を持てないクリステン・スチュアートの組み合わせなので、内容の類似性とオリジナリティの帰趨とは別に、ラ・ラ・ランドより素直に切なさを感じにくく思えました。

 「あの女優は誰と寝てもいい役を得られない」という台詞が出てきます。まぁハリウッドでは、日常会話なんでしょうね。でも、クリステン・スチュアートが、主役を得た「スノーホワイト」(2012年)の監督ルパート・サンダースとの間で不倫をしたという報道があり(監督側は不倫の事実を認めているそうな)、続編「スノーホワイト/氷の王国」(2016年)では監督は交代、クリステン・スチュアートも出演しなかったことを考えると、意味深です。その台詞に続いて、「水着姿を見たけど、脚が太すぎる」とあるのが、「クリステン、君のことじゃないからね」というウディ・アレン監督の言い訳のように聞こえます。(クリステン・スチュアートが水着姿で脚が太かったら、さらに笑えますけど。ちなみに日本では来週(2017年5月12日)公開の「パーソナル・ショッパー」では、クリステン・スチュアートが水着に近い黒い下着で登場するシーンが、予告編にあります (^^;)

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