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2024年3月

2024年3月31日 (日)

オッペンハイマー

 アカデミー賞作品賞等受賞作「オッペンハイマー」を見てきました。
 公開3日目日曜日、新宿ピカデリーシアター1(580席)午前10時30分の上映は8~9割の入り。

 第2次世界大戦終戦後、プリンストン大学の研究所長に招聘されたJ・ロバート・オッペンハイマー(キリアン・マーフィー)は、原子力委員長ルイス・ストローズ(ロバート・ダウニー・Jr)に所長室に案内され、庭の池の前に佇むアルベルト・アインシュタイン(トム・コンフィ)を見つけて話しかける。オッペンハイマーは回想に浸り、数年前にアインシュタインに教えを請いに行ったときに思いをはせ、ストローズは商務長官任命に先立つ公聴会に赴き・・・というお話。

 原爆の父(マンハッタン計画のプロジェクト・リーダー)オッペンハイマーの話なんですが、設定としてはオッペンハイマーとさまざまな因縁のある原子力委員長ストローズの商務長官任命に先立つ議会の公聴会を大きな枠組みとし、同時並行的に原子力委員会がオッペンハイマーの機密アクセス権を更新しなかったことに対するオッペンハイマーの不服申立の審査のための非公開の聴聞会を続け、その中でオッペンハイマーの回想が続くという入れ子の構造となっていて、率直に言ってわかりにくい。
 私の目には、正義なり志を抱いて国のために貢献しても、特に(元)左翼とか人道的な人物は、権力者や官僚機構に利用されるだけで、自分の考えを通したり信念を貫くことなどできないというのがテーマなりメッセージなのだと見えますが、たぶんそうシンプルに描くのをよしとせずに、さらにオッペンハイマーを利用しようとした政治家もまた足元を掬われるという構図にしたくて、こういう設定を選択したのだろうなと思いました。
 オッペンハイマーについても、日本への原爆投下への積極意見と水爆開発への反対意見を並べ、さらにその論調も時々でうつろわせ、また私生活面も含めて迷いを描き、人と人生の複雑さを印象づけています。
 アカデミー賞作品賞を受賞し、観客動員も多い大ヒットと言ってよい映画ですが、今ひとつすっきり感がない、制作側も簡単にわかってくれるなよと言っているような印象の作品です。

2024年3月24日 (日)

四月になれば彼女は

 佐藤健・長澤まさみ主演の恋愛映画「四月になれば彼女は」を見てきました。
 公開3日目日曜日、新宿ピカデリーシアター7(127席)午前8時40分の上映は、4割くらいの入り。

 ボリビアのウユニ湖を歩き写真を撮る伊予田春(森七菜)から、10年ぶりの手紙が、獣医の坂本弥生(長澤まさみ)との結婚準備中の精神科医藤代俊(佐藤健)の元に届いた。折しも4月1日の誕生日を迎えた弥生は、お祝いにと取り出したシャンパンの瓶を割ってしまいそつなく片づけて行く俊に絡みあわないやや醒めた視線を送っていたが、愛を終わらせない方法を問いかけ、その後出奔してしまう。俊は、職場の精神科医奈々(ともさかりえ)に相談したり、弥生の妹純(河合優実)を訪ね、弥生の消息を追うが…というお話。

 冒頭から映し出されるウユニ湖、プラハの天文時計、アイスランドの海岸の朝日と、春が訪ね回る原作が明らかに映像化を意識して配した光景と春のその後などは原作どおりですが、原作を先に読んでから見たこともあり、設定の違いが目に付きました。
 大きな違いに見えないかも知れませんが、原作では湾岸のモノレールから花火(たぶん、ディズニーランドの、でしょうね)を見ながら春が藤代に告白し、弥生との関係も弥生がリンゴを投げてどの猿が食べるかを賭けようと言い出したことで決まり、という具合に、藤代は基本的に受動的でいましたし、春との学生時代の別れも藤代の方が自分が追いかけることができなかったと後悔しています。それが映画では藤代が積極的に朝日を見に2人で行く機会を作り(ペンタックスを騙してまで)積極的に告白し、弥生とも自らが弥生の元に駆け戻って抱きしめ、学生時代の春と藤代の別れは、春の方が自分が選べなかった、追えなかったと後悔しています。一見微妙な違いに思えるかも知れませんが、原作ではそういった受身で積極的に動けなかった/動かなかった藤代が最後に積極的に弥生を追うという転換が象徴的なメッセージになっています。原作では、ベタに「卒業」(1967年の映画)をダメ押し的に紹介しています(文庫版247~248ページ。もっとも結婚式場で花嫁を奪いバスに乗り込んだラストがハッピーエンドとは言えないという注釈付きですが)。映画の設定だと、以前から藤代が積極的だったが、それでも足りなかったと見ることになるのかと思います(追ってきた藤代に対する弥生の態度の違いもそれを反映してでしょうか)が、そこ、テイストが変わってくる感じがします。
 春の設定ですが、原作では青森の田舎の出身で、父親は登場せず、写真を始めたのは隣のカメラ屋のオジさんがきっかけ、大学では一人暮らしで藤代の家に通い、2人で海外旅行もしていて、自分の意思がはっきりした行動的な女性となっています。映画では大学に通えるところに実家があり、父親(竹野内豊)とともに住み写真も父親の趣味に習い自宅通学の箱入り娘的な設定ですし、藤代の告白に受動的に応じ(今ひとつうれしい表情でもなかったかも)海外旅行にも行けないというあまり自分の意思が明確でない描かれ方になっています。
 弥生の設定も、原作では藤代が自分の患者の飼い犬の世話を頼みに行くというお願いする関係で始まり、関係を持つきっかけは先に述べたように弥生側が主導するという関係だったのですが、映画では弥生が患者というところから始まり、藤代側がアプローチしていて、やはり弥生は受動的になっています。
 登場人物では、原作ではタイトルにも藤代と春の関係にも絡む大学の先輩大島がわりと重要な役割と位置づけを持っています。タイトルは大島が写真部の夏合宿の夜に海辺でサイモン&ガーファンクルの「四月になれば彼女は:April Come She Will 」を歌っていたシーン(文庫版88ページ、169ページ、263ページ)にちなんでいますし、藤代と春の別れは大島に起因する事情(結局明確にはされないのですが)で、春の手紙の中でも大島への回想が繰り返されます。このキーパースンの大島を映画では消滅させています。藤代と弥生の関係に集中するために藤代と春関係はシンプルにしたかったのかも知れませんが、ちょっと味わいが減っている感じもします。

 大島が登場せず、1度として「四月になれば彼女は:April Come She Will 」が流されない(しかし公式サイトのメイン画像でポスター画像となっている写真には、April Come She Will の書き込みがある)この映画、どうして「四月になれば彼女は」なのか。作品中であえて引っかけるとすれば、4月1日が誕生日の弥生が、学年が4月2日で区切られていて4月1日生まれは前の学年に入れられる(早生まれ扱い)のがいやだった、4月はきらいだという場面くらい。原作では特定されていない弥生の誕生日をそのために4月1日にしたのでしょうけれど、4月1日生まれの娘に「弥生」と名付ける親がいるものか・・・(理屈をいえば旧暦の3月は新暦では3年に1回程度の割合で4月1日も含む年があるのですけれど、そういうことを考えて名付けるということはないでしょう)

 ストーリーでは、原作では弥生は「愛を終わらせない方法」を問いかけたりしていないし、失踪の時期はもっと後だし、失踪後の行き先も違うなどの点でも違っていますが、まぁそのあたりは映画的にはありかなと思います。
 原作がこだわりを見せているカニャークマリの朝日が削られているのは、ロケ費用の問題か、それとも映像的にそれほどでもないという判断でしょうか。

2024年3月 3日 (日)

コットンテール

 遺灰をウィンダミア湖に撒いて欲しいという亡くなった妻の希望に添って夫と息子夫妻がイギリスを旅する映画「コットンテール」を見てきました。
 公開3日目日曜日、新宿ピカデリーシアター5(157席)午後0時40分の上映は7~8割くらいの入り。

 妻明子(木村多江)を失い失意の大島兼三郞(リリー・フランキー)は告別式の日に寺の住職から亡き妻から数年前に預かったという手紙を渡された。そこには、自分の遺灰はイギリスの湖水地方のウィンダミア湖に撒いて欲しいと記されていた。息子の慧(錦戸亮)は妻さつき(高梨臨)、と幼いエミを連れて切符を手配し、兼三郞とともに渡英するが、兼三郞は単身列車に乗り大きく外れて道に迷ってしまい…というお話。

 冒頭から妻を失った兼三郞の茫然自失というか腑抜けてしまっている様子が描かれます。昼間から酒を飲み、葬式に行く準備もできずに息子から叱られたり、不謹慎にも見えますが、やはり身近な人の死を受け止めきれずに意欲・気力を持てないでいるのだと思います。
 その後も息子と何度か衝突し、自分一人で行動して、父さんは自分のことしか考えていないと繰り返し息子に詰られます。妻の死以前からそのように言われてきたことや、公式サイトのイントロドダクションで「贖罪や和解といった普遍的なテーマを探求しながら、新たな一歩を踏み出そうとする家族の姿を映し出す」と記載されていることからすれば、自分の殻にこもり自分のことばかり考えて息子に対し心を閉ざしていた兼三郞が旅の過程で「成長し」心を開く物語と読むべきなのかも知れません。しかし、私には、兼三郞は、わがままはわがままなのかも知れませんが、妻を失って情緒が不安定になり、自分の気持ち・感情をコントロールできていない、さらに言えば自分がそういう状態になっていることを自分で意識できていないように見えます。
 近しい人を亡くした者の気持ち・心情は、えてしてそういうものではないかと、感じるようになりました。私には、妻を亡くした兼三郞の心情のうつろう様子の描写が染み入りました。

 慧との父子関係は、今ひとつ原因がわからないままにギクシャクしています。これもまた無口さ、不器用さの所産でしょうけれども、ありがちなものかと思います。

 コットンテール( cottontail )は、ピーターラビットの妹の名前(絵本の日本語版では「カトンテール」と振っています)で、明子が子どもの頃の1966年に一度ピーターラビットの舞台の湖水地方に行ったことがあるということが、そこに遺灰を撒いて欲しいという希望につながっています。

 どこかギクシャクした父子関係とその修復、一度訪れたというだけの場所に遺灰を撒いて欲しいと希望する背景などにも読み取るべきものがあるかも知れませんが、私には、それらもありがちな人間関係、家族関係として、主として妻を失った兼三郞の哀しみに圧倒された作品でした。

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