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2024年1月

2024年1月28日 (日)

哀れなるものたち

 アカデミー賞に作品賞・監督賞・主演女優賞・助演男優賞の主要部門を含めて11部門でノミネートされている映画「哀れなるものたち」を見てきました。
 公開3日目日曜日、新宿ピカデリーシアター8(157席)午前10時35分の上映は8~9割の入り。

 大学で教鞭を執る天才外科医ゴドウィン・バクスター(ウィレム・デフォー)は、入水自殺した妊婦の体にその胎児の脳を移植して蘇生させ、ベラ・バクスターと名付け、屋敷内に住まわせていた。ゴドウィンに呼ばれてベラ(エマ・ストーン)の観察記録を取るようにいわれた学生マッキャンドレス(ラミー・ユセフ)は、ベラの美しさに魅了される。大人の体と幼児の脳を持つベラは、思うままに行動し、屋敷の外に出られないことに不満を持つようになり、さらには性的快感に目覚めて自慰を始め、マッキャンドレスがそれをたしなめたのに対し、ある日忍んできて平然と誘惑を仕掛ける放蕩ものの弁護士ダンカン・ウェバダーン(マーク・ラファロ)とともに駆け落ちを決意する。ベラにそれを告げられたバクスターは反対しつつもベラに緊急時のためと金を服に縫い付けて渡し、ベラは止めるマッキャンドレスにクロロホルムを嗅がせてダンカンとともに世界を旅するが…というお話。

 幼かろうが、不思慮だろうが、不道徳だろうが、自分のことは、自分の体のことは自分で決めたいと強くアピールしそのように行動するベラに対し、それを抑圧する男たち(典型的にはダンカンとブレシントン将軍(クリストファー・アボット))を対置することで、自己決定権について考えさせる作品です。
 18禁指定(R18+)にふさわしく、これでもかというほどヌード・セックスシーンが登場します。それは、観客サービスの意図もあるのかもしれません(著名女優のフルヌードですから、もちろん客寄せの意図はあるでしょう)が、貞操観念とか、女性が奔放なセックスをすることに対する忌避感・嫌悪感とかに対して、そんなことを気にすることがバカらしくなる/感覚がマヒするまで、セックスシーンを見せてやるという意志のように思えました。ベラが娼婦として稼働する場面は、こうあっけらかんとやられるとセックスワーカーが自由意思で、好きでやっている(救済も規制もその他の政策も、不要だ)という描き方にも見えるのが気になりますが、ここではそれよりも自己決定だ(ダンカンに非難されたり、ブレシントンに許してもらったりするいわれはない!)ということなのでしょう。
 こうして見ると、「バービー」はずいぶんとお上品だったのだなと思えます。

 原作とは、原作がマッキャンドレスの文章を基本にそれにこの本の記述はウソだというベラの手紙をつけて真実がどこか疑わせる構成を取っているのを採用せず、バクスターが原作ではマッキャンドレスの大学の同級生なのを長年経験を積んだ大学教員の外科医に変更し、ベラと婚約するマッキャンドレスは原作ではベラとそれまでに2回しか会っていないのを連日通って観察・接触を続けていることに変更し、ブレシントン将軍を原作ではバクスターが追い返しているのをベラがブレシントン将軍について行くことに変更しています(その結果ラストも大きく違っています)。最初の3点は、その方が自然ですし、最後の点は映画の展開としてはその方がなじみ(最後にひとひねり)、いずれも原作から変更して正解だと思います。

 ベラがバクスターの屋敷に閉じ込められている間はモノクロで、ダンカンと旅立ったあとはフルカラーになり、海のシーンをはじめとして映像の色彩が美しく、映像の面でも楽しめる作品でした。

2024年1月21日 (日)

僕らの世界が交わるまで

 DV被害女性のシェルターを経営する母親と音楽ライブ配信に夢中の高校生息子の距離感を描いた映画「僕らの世界が交わるまで」を見てきました。
 公開3日目日曜日、kino cinéma新宿シアター1(294席)午前9時の上映は、1割足らずの入り。雨の日曜日朝という悪条件ですが公開初週末でこのガラガラぶりは…

 自室でギターをかき鳴らして音楽配信し、2万人のフォロワーを誇る高校生のジギー・キャッツ(フィン・ウォルフバード)は、親に配信中はドアを開けるな、静かにしていろと文句を言い、DV被害女性のシェルターを経営する母親エヴリン(ジュリアン・ムーア)からシェルターの補修を頼まれても拒否しつつ、学校にはエヴリンの車で送ってもらっていたが、政治環境問題への意識が高い同級生ライラ(アリーシャ・ボー)に思いを寄せ、ライラが述べた意見に他の同級生が否定的な態度を取ったのを見て自分はライラの意見に同感だと述べるが、どこに同感するのかと聞かれて言葉に詰まり、自分には2万人のフォロワーがいるなどの場違いな答をした。同級生と政治的な議論をしたいがどうすればいいかとエヴリンに問いかけたジギーは、子どものときにはデモにも連れて行っていたがあなたが興味を失い離れていった、議論をしようとするのではなくまず相手の意見をよく聞き学びそして自分の意見を持つべきだ、近道はないと言われ、反発するが、その足でライラの元に行き、自分は子どもの頃からデモや座り込みに参加していたと自慢話をして…というお話。

 自分は作曲時も配信時も大音量でギターをかき鳴らしているのに、同居する両親には静かにしていろと文句を言う、母親の収入に依存して生活し生活費を入れているわけでもないのに母親に対し自分の方が稼いでいると言い放つ(稼いだ金を何に使うと聞かれて配信のための機材等を買うと答え、永久運動(正確な言葉は忘れました)だねと呆れられる)など、視野が狭く経験も不十分なのに自分はイケているというプライドだけは強いジギーが、親に反発するとともに、思いを寄せるライラに対しても自分の視野の狭さ、知識経験不足、自らの思想のなさを顧みず、背伸びをし見栄を張る姿の痛々しさが印象的です。高校生なんてそんなものだよねと思いますが(自分の高校生時代を思い起こせば…自戒を込めて)。
 DV被害女性のシェルターを経営するエヴリンは、社会をよくしたい、被害に遭った虐げられた者を助けたいという意識が強く、また経験もあるのですが、自分の信念でよかれと思うことを実現することに急で、相手からは押しつけがましく思われがちです。デモや座り込みに連れて行った息子から反発され、その代償とも見られる被害女性の息子カイル(ビリー・ブリック)の大学進学サポートもカイルからは押しつけに見えてしまいます。
 もっとも、ノンポリで今や政治問題など関心も持たないジギーが政治環境問題への意識が高いライラを好きになるのも母親への思慕なり敬意によるものでしょうし、ジギーに反抗的態度を示されながらも聞かれれば真摯に答えようとするエヴリンにはジギーを受け入れたいという心情が見えているのですから、この親子には和解の素地が見えています。
 そういったありがちな親子の距離感、反発と和解をシンプルにわかりやすく描いた作品です。

 ジギーの未熟と背伸びの方に焦点を当ててより好意的積極的に作れば「いちご白書」(1970年)のような作品になるのでしょうけれども、そちらには向かいませんでした。時代の違いでもありますが。

2024年1月14日 (日)

ニューヨーク・オールド・アパートメント

 ニューヨークで暮らす不法移民たちを描いた映画「ニューヨーク・オールド・アパートメント」を見てきました。
 公開3日目日曜日、シネマカリテスクリーン1(96席)正午の上映は、5割くらいの入り。

 ニューヨークで飲食店の配達をしながら英語学校に通うペルーからの不法移民の兄弟ポール(アドリアーノ・デュラン)とティト(マルセロ・デュラン)は、母ラファエラ(マガリ・ソリエル)が男性客に人気のセクシーなウェイトレスとして稼働していることに誇りを持ちつつ他方で母が男性客に親しげに振る舞うことに嫌悪感を持ってもいた。ある日英語学校の教室を訪れて周囲から浮いていたクロアチアからの移民の美女クリスティン(タラ・サラー)に話しかけたポールとティトは、その後クリスティンと話すようになるが…というお話。

 基本的に、不法移民をあからさまに蔑む人、にこやかに寄り添いつつ自分の要求に応じなくなると途端に罵倒する人、不法移民に対して同情を示し助けようとする人の、姿勢、振る舞い、表情が描かれ、不法移民の置かれた境遇を訴える作品です。
 しかし、そこよりも、クリスティンの言葉と行動から、コケにされたら黙っていないで闘うべきだというメッセージ、ひいては弱者のプライド(ラマに象徴されるつばを引っかける程度であっても)が印象に残ります。
 また、ポールとティトの性の目覚めとか、ラファエラの家族愛もテーマになっているように思えます。

 たぶん、シングルマザーのラファエラの視点で描けば、よりストレートな不法移民の生活苦、差別、悲惨さをアピールする作品となったでしょう。家族関係についても、結局はラファエラの稼ぎに依存しているのにそれを十分に自覚せずに批判的な言葉をかけ、ラファエラの手伝いよりもデートを優先するような息子たちへの視線を出せばシングルマザーの大変さをもアピールするフェミニズム色も強まったでしょう。
 また、クリスティンの視点で描けば、不法移民の女を食い物にする男たちへの憎悪、ポールとティトにしてもクリスティンの目からはただセックスしたくて寄ってくる軽薄なチャラい男でそれを寛容にあしらいつつも我慢しきれなくなってくる(クリスティンが度々「今日の優しさはこれでおしまい」とつぶやく姿が痛々しい)様子が前面に出た移民と女性への虐待をよりストレートに描く作品となったでしょう。
 この作品は、それをせず、ポールとティトの視点で描いている故に、不法移民としての苦しみを描きつつもどこかお気楽なタッチになっています。それが過度に深刻にしないことで観客層を拡げる効果があるということなのか、メッセージ性を弱めて中途半端になっているということなのか、そのあたりをどう受け止めるかで評価が分かれるかなと思いました。

2024年1月 7日 (日)

市子

 劇団チーズtheaterの演劇「川辺市子のために」を映画化した「市子」を見てきました。
 公開5週目日曜日、シネマカリテ2(78席)正午の上映は6割くらいの入り。

 2016年8月、長谷川義則(若葉達也)は3年間ともに暮らしてきた川辺市子(杉咲花)に婚姻届けの用紙を出し、プロポーズした。市子はうれしいと言って涙ぐむが、翌日、荷物をまとめ、長谷川が帰宅するのに気づき慌てて荷物を置いたまま窓から飛び出し行方をくらませた。生駒山中から8年前頃に死亡したと見られる白骨死体が発見された件を捜査する刑事後藤(宇野翔平)の訪問を受けて質問されて自分が市子のことをほとんど知らないことを思い知った長谷川は、後藤から川辺市子という女性は存在しないと伝えられて衝撃を受け、市子の関係者を当たろうとするが…というお話。

 幼少期から過酷な境遇に置かれてきた市子が生きて行くために行い犯してきたこと、その過程で身につけてきた開き直り・図太さ等を描くことで、DV、無戸籍児、ヤングケアラー等の実情と政策の不備について問題提起している作品です。杉咲花は、近作の「法廷遊戯」の織本美鈴と被る不幸な中で開き直り図太く生きる女性役を快演しています。
 同時に、この作品ではむしろ自分が北秀和(森永悠希)の立場だったらどうするかの方に考えさせられます。そして、好きな人のために罪を犯してまでも献身的に尽くしながら、しかし報われないという「愛と誠」の岩清水弘みたいな、いやそれよりも報われないキャラに悲哀を感じます。

 それぞれのシーンの時期は右下に表示されるのですが、私は近視のためにそれが読みにくかったのと、起点となる「今」が実際の今ではなく2016年8月(7年あまり前)の設定であること、表示されている年月と市子の年頃にギャップが感じられ(とりわけ最初の頃の子ども時代:時代を遡った最初に市子がまだ幼児のはずの時期表示で小学生としか見えない市子が登場)混乱させられることもあって、時系列の把握に苦しまされました。

 幼少期の最初の場面で、小学校低学年と見える市子役の子役がやはり同じくらいの男子にキスをするシーンがあります。成人の俳優が演技と割り切ってするのは自由ですが、大人の都合で子どもにこういうことをやらせていいのでしょうか。「僕の初恋をキミに捧ぐ」のときにも言いましたが、子役にこんなことをやらせる大人たちの良識を疑ってしまいます。

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