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2023年11月

2023年11月26日 (日)

 公式サイトの表現によれば「世界の北野武監督が描く“本能寺の変”は戦国史を破壊する超・衝撃作!!」といううたい文句の映画「首」を見てきました。
 開会3日目日曜日、新宿ピカデリーシアター3(287席)午前11時の上映は5~6割の入り。

 重臣荒木村重(遠藤憲一)に謀反を起こされ1年あまり有岡城を攻めたが村重を取り逃したことに立腹した織田信長(加瀬亮)は、捕らえた村重の一族を皆殺しにした上で、跡目を餌に、羽柴秀吉(ビートたけし)、明智光秀(西島秀俊)らに、村重探索を命じた。落城して死屍累々の有岡城に現れて元甲賀忍者の芸人曾呂利新左衛門(木村祐一)らに捕らえられた村重は、千利休(岸部一徳)を通じて密かに光秀に渡されるが…というお話。

 見ての感想は、権力闘争の虚しさ、でしょうか。制作側の意図がそこにあるのかは、必ずしも定かではありませんが、娯楽映画としてみるにはあまりにも血なまぐさく、兵士のみならず家族や無関係な村人まで皆殺し、殺戮シーンと死屍累々の場面が続きます。そして武将たちは、ただただわがままで偏執的で洞察力を欠く信長、策略家ではあるが短気で小物ぶりを見せつける秀吉、穏健に見えるが私情(恋愛感情)を優先して主君を裏切りさらに愛人も裏切る光秀、したたかではあるが自己保身のため影武者を犠牲にし続ける家康(小林薫)など、いずれも「偉人」などではなく尊敬・共感できない/しにくいものとして描かれ、こういう人たちのために多数の人が犠牲になったのか、と思わせます。

 こういった人物像が、「戦国史を破壊する」というキャッチにつながっているのかもしれませんが、コメディなりパロディとして見るにはあまりに人が死にすぎていてそういう受け止めがしにくい感じです。
 信長にディープな名古屋弁でしゃべらせ続けたのは、(戦国時代の尾張弁が、現在の名古屋弁と同じイントネーションなのかは知りませんが)あぁそういう描き方もあるのだなと最初の方でやや感心しましたが、それもすぐそれならどうして秀吉も名古屋弁をしゃべらないのかと思ったところで止まりました。

 本能寺の変を描くというキャッチにしては、本能寺の変自体はずいぶんとあっさりした描き方で、そこを期待していると拍子抜けします。戦国時代全体についての見方・評価がテーマだと考えた方がいいでしょう。

2023年11月19日 (日)

法廷遊戯

 メフィスト賞受賞の法廷ミステリーを映画化した「法廷遊戯」を見てきました。
 公開2週目日曜日、新宿バルト9シアター3(148席)午前10時40分の上映は4割くらいの入り。

 久我清義(永瀬廉)が通うロースクール(法科大学院)では、唯一現役で司法試験合格済の結城馨(北村匠海)が主宰して告発者の主張を証拠書類と指定する証人の証言により判断する「無辜ゲーム」が開催されていた。ある日久我がかつて収容されていた施設の施設長を刺したことを指摘し殺人未遂を犯した者が法曹になる資格があるのかを問うチラシがばら撒かれ、久我は「無辜ゲーム」での審判を求めた。その後、かつて久我と同じ施設に収容され今はロースクールの同級生の織本美鈴(杉咲花)のアパートにもその過去を問うチラシがアイスピックで刺されるなどの嫌がらせがあった。2年後、司法試験に合格し弁護士となっていた久我に、結城から久しぶりに「無辜ゲーム」を開くことになったと呼出があり、久我が会場に赴くと、そこには…というお話。

 あくまでも久我と織本の視点で描かれているのですし、久我と織本にも苦悩があって、その境遇から庶民の弁護士としては久我と織本に共感するべきなのだろうとは思いますが、結城の刑事司法の限界に対する絶望・諦念・怨念と、しかし刑事司法に賭けざるを得ない苦悩と期待の方に涙してしまいました。たぶんそちらがテーマであり、また味わいどころの作品なのだと思います。

 原作では「無辜ゲーム」は最後の「無辜ゲーム」/事件の前には3回だけでいずれも事件との関係があったことが説明され、会場もロースクールの模擬法廷ですが、映画では一般的に「無辜ゲーム」が繰り返されていたという描き方で、最初に出てくるものは事件との関連性の説明もなく(告発者の様子もちょっと異常な感じですし)、ロースクール内の「洞窟」(そんなものがあるんかい?)で行われるといった点で荒唐無稽というか現実感が希薄でした。また、原作ではその「無辜ゲーム」でどのような制裁を科すべきかが論じられ、その中で結城が「同害報復」(目には目を)を語り、この結城の考えが作品の中で重要な意味を持たされているのですが、映画ではその説明がなく、「同害報復」は結城の研究テーマとして出てくることになります。私には、原作の説明の方がしっくり来ました。
 その他、弁護士的な感覚では、映画では久我が公判期日に突然提出した映像を、裁判官が休廷もせず自分で中身を確認せず検察官に中身を見る機会も与えないままに法廷で再生させる(原作では、いったん休廷し、裁判官と検察官が内容を見てから、再度開廷した上で再生)というのはありえないとか、終盤で語られる事件の真相が被害者の創傷の態様やナイフへの指紋の付き方と整合するんだろうかという疑問を感じました。
 他にも、原作では事件発生は久我が弁護士になる直前(映画では弁護士になったあと)、久我の事務所はビルの地下(映画では2階で自宅兼用)、事務員がいる(映画ではいない)、刑法担当の奈倉は若手の准教授(映画では柄本明)などの設定の違いがありますが、そういった点以外はわりと忠実に原作をなぞっているように思えました。

2023年11月12日 (日)

愛にイナズマ

 自主映画の監督が家族の物語を撮ろうと長年疑問に思ってきた家族の秘密に迫る映画「愛にイナズマ」を見てきました。
 公開3週目日曜日、新宿ピカデリーシアター7(127席)午後1時5分の上映は9割くらいの入り。

 自主映画を撮り続けてきた映画監督折村花子(松岡茉優)は、20年前に出奔した母を題材とした「消えた女」という企画で制作費を得て企画を進めるが、プロデューサー原(MEGUMI)にあてがわれた助監督荒川(三浦貴大)から脚本や撮影方法でダメ出しを繰り返されて対立し、監督を降ろされてしまう。酔っ払いに路上で意見して殴られそうになっている学生をかばって殴られた愚直で不器用な青年舘正夫(窪田正孝)をバーで再度見て意気投合した花子は、夢をあきらめるのかと正夫に挑発され、正夫を連れて長らく連絡しなかった父(佐藤浩市)を訪れて、母の出奔の真相を告白するように迫るが…というお話。

 基本的には、それぞれに不器用な生き方をしてきた人たちが、真実をおろそかにしたくないと不器用に迫る花子にほだされる人間ドラマです。
 しかし、その中で多額の金をつぎ込んで配布したが誰も使わないアベノマスクをみんなからもらってつけているという青年を登場させ(その台詞でアベノマスク配布に一体いくら金がかかったかを延々と説明させ)、「あったことをなかったことにする」ことが許せないと花子に繰り返し言わせるこの演出は、やはり安倍政権批判を意図しているのだろうと感じました。

 花子の父の側から、癌・余命宣告を受けたとき、自分ならそれを誰に知らせるだろうかと考えさせられました。
 胃癌であと1年の命と知った花子の父は、友人(益岡徹)の勧めで花子に繰り返し電話をし、電話に出ないならメールでもという友人に対し、大事なことは直接言わないと、と言ってそのまま。時折連絡していた次男(若葉竜也)はいつ知ったかは明らかにされませんが知っていて、長男(池松壮亮)には花子が押しかけてくるまで電話をしていません。さまざまな経緯と感情はあるでしょうけど、同じく連絡が途絶えている子どもの間で差をつけるか。また独り立ちしている子に心配させ巻き込むような連絡をするか。でも、やはり死ぬ前には会いたいよね、とか。

2023年11月 5日 (日)

私がやりました

 有名映画プロデューサーの殺人を巡る裁判とその後日談のドタバタ劇「私がやりました」を見てきました。
 公開3日目日曜日、WHITE CINE QUINTO(108席)午前11時の上映は2割くらいの入り。

 売れない女優のマドレーヌ(ナディア・テレスキウィッツ)は、有名映画プロデューサーに役をやると言われてその自宅に行くが、端役をあてがわれ愛人になれと言われて抱きつかれて激高して外に飛び出した。マドレーヌが帰宅すると、家主から5か月分の滞納家賃を払えと言われて疲弊したルームメイトでやはり売れない新人弁護士のポーリーヌ(レベッカ・マルディール)が待ち受け、大企業の御曹司だが働きもせず借金をして競馬につぎ込むろくでなしの婚約者アンドレ(エドゥアール・シュルピス)が訪ねて来て金を作るために別の女と結婚すると言い出し、気落ちしたところへ、警察官がやってきて、プロデューサーが頭を撃たれて殺害されたと言い、マドレーヌに疑いをかけた。予審判事(ファブリス・ルキーニ)に呼び出されたマドレーヌに同行したポーリーヌは…というお話。

 基本的に一見してコメディなので深刻に考えるべきではないのでしょうけれども、弁護士として見たときには、科学捜査のない時代の裁判で、無能というか、公正さを心がけない(最も本人は自分が公正なつもりでいるのかもしれませんし、その方がよりやっかいかもしれませんが)者に裁かれるというのはとても怖いことだと再認識しました。
 1935年のフランスという設定ですが、銃による殺人なのに、発射痕鑑定も硝煙反応検査もなく、予審判事が手袋もなく直接銃に触っているところからして指紋鑑定さえない(まじめには調べていませんが、指紋鑑定は1935年なら既に実用化されていたと思うんですが)。
 客観的証拠がきちんと確認されないままで、予審判事の推測(たとえて言えば「名探偵コナン」の毛利小五郎レベルの決めつけ:事務官がそれは無理じゃないかと進言して退けられたりしていましたが)で容疑が固められていくのを見ると、こういう時代に生まれなくてよかったと思ってしまいます(現代は現代で、何らかの事情で例外的に間違った判断がされたり客観的証拠が捏造されたりしても、客観的証拠あるという思い込みで是正されないなど、昔とは違った怖さはあるのですが)。

 そして、弁護士としては、ほんとうはやっていないのに正当防衛を主張するというポーリーヌの選択がまた、悩ましい。
 セクハラプロデューサーに襲いかかられたという状況があり、やっていれば正当防衛が成立する可能性が相応にあると判断しても(ただし、この作品ではそこまで詰めていないけれども、プロデューサーの行為の切迫性・重大性が立証できないと、なんせ銃で撃って殺害ですから、過剰防衛と判断されて減刑はされても有罪のリスクは考える必要があります)、やっていない殺人をやったという主張をすることには、弁護士としてやっていいのか疑問が残ります。
 ろくに証拠がなくても、予審判事の思い込みストーリーで進められるような司法では、まっとうに無実を主張して退けられるより、リスクを取っても正当防衛を主張する方がまだ可能性があるという判断なのでしょうけれども。弁護士として、それはあまりに悲しい。
 もっとも、戦前のフランスの状況を笑ってられるかというと、私が刑事弁護をやっていた頃(2000年代初め頃まで)の日本の刑事裁判でも、否認すると保釈されないという「人質司法」の下、やっていないと主張すれば長期間(1年以上など)身柄拘束され続けるので、有罪でも執行猶予とか罰金が確実な事件ではやったことにした方がはるかに実生活への影響が小さいという状況があり、幸いなことに私自身はそういう事案でほんとうにやっていないと言われたことがないので窮地に追い込まれることはありませんでしたが、弁護士としては周囲の弁護士の話を聞き自分がそういうケースに直面したらどうしたらいいのかと悩んでいたことを思い出しました。

 なれ合いと思いつきで容疑を決めつける予審判事、証拠をきちんと把握せず女性嫌悪丸出しの傲慢な検察官など、低レベルの法律家が跋扈する中、女性の無権利状態を指摘し、検察官からマドレーヌとの同性愛疑惑を指摘されても毅然として女性の権利を主張する新人弁護士のポーリーヌが少しりりしい。
 司法制度の機能不全を指摘する(こっちはコメディ、パロディとして)とともに、1935年を舞台にしながら現代的なフェミニズムのトーンを持った作品だと思えます。

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