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2023年6月

2023年6月25日 (日)

大名倒産

 浅田次郎の小説を映画化した時代劇コメディ「大名倒産」を見てきました。
 公開3日目日曜日、松竹の本丸ともいうべき新宿ピカデリーは公開初週末に最大スクリーンをあてがわず、シアター2(301席)午前10時45分の上映は4割程度の入り。

 越後丹生山で鮭役人間垣作兵衛(小日向文世)・なつ(宮崎あおい)夫婦の子として育った小四郎(神木隆之介)は、ある日突然藩主の子であると告げられて江戸の越後丹生山藩上屋敷に連行され、先代(佐藤浩市)から、長男は落馬して死亡、次男新次郎(松山ケンイチ)はうつけ者、三男喜三郎(桜田通)は病弱なため藩主はお前に継がせると宣告された。登城した江戸城で献上品の未納を老中(勝村政信)から叱責された小四郎は、家臣たちを問い詰めて、越後丹生山藩が25万両(約100億円)の負債を負っていることを知る。慌てて先代を訪ねた小四郎に対し、先代は5か月後には商人たちが騒ぎ始めるからそれまでは黙っていてそこで返済できぬといえばお家お取り潰しは避けられないが家臣や民は幕府が引き継いで生き延びられると言い放つ。いったんは納得したものの疑問を持った小四郎は、町中で再会した幼なじみのさよ(杉咲花)とともに調査と倹約作戦を始め…というお話。

 冒頭、この作品の結末はエンドロールの後にありますという告知があり、何かな?と思います。まさか、そう言っておかないとエンドロールが始まるやバタバタと観客が立つと予想してその予防のためなんてことじゃないでしょうねと訝しく思いました。
 原作と異なり幸せそうな幼少期を描き、母からお守りを渡され命を大切にするように言い聞かされるシーンが置かれているのが、小四郎の行動のバックボーンとなり、わかりやすくまた共感を呼びやすい設定となっています。幼なじみが磯貝平八郎(映画では天野大膳の部下として登場)と矢部貞吉(映画では登場せず)ではなく、さよで、母なつが小四郎が成人する前に死んでいなくなるなども、原作とは違っています(側室に迎えられる前に死んだことにした方がイメージがいいという判断なのでしょうけれども、小四郎が9歳の時に認知されて側室に迎えられ江戸の下屋敷に住んできたが作兵衛に操を立てて夜とぎを拒否しつづける原作の方が、私には共感できます)。
 メインストーリーの借金の処理について、原作では小四郎の有力な助っ人として登場する同様の経験をした他家の勘定役だった比留間伝蔵が登場せずその代わりを幼なじみのさよにさせていることに象徴されるように、さまざまな人物、さらには神まで登場させてさまざまな偶然や努力の貼り合わせで進めていた原作を、もっぱら内輪の人間の努力で解決するという物語に変えています。この点も、作品としてわかりやすくなり、神の力を外したことでより納得感なり共感が出てくると感じました。私が原作を読んで感じた不満(それについて読書日記の記事はこちら→「大名倒産 上下」:もっともその不満自体がこの映画の予告編を先に見たことに触発されている面がありますが)はほぼ払拭されています。他方で、さまざまな人の陰影や綾の部分を消してシンプルにして悪役をごく一部に押しつけることが、原作の味わいを損なっているところもあると思います。
 冒頭で期待を持たせたエンドロール後の結末ですが、そこまで引っ張るならもっとひねりなりパンチを効かせて欲しかったなと思います。小四郎のつぶやきに反対側に視線を送っているさよが、実は私の好きな人はこの人(例えば磯貝平八郎)とか言ったら観客の期待とは別方向でも、驚きを与えられたと思うのですが…

2023年6月18日 (日)

リトル・マーメイド

 ディズニーの記念碑的アニメ作品の実写版「リトル・マーメイド」を見てきました。
 公開2週目日曜日、新宿ピカデリーシアター8(157席)午前10時45分の上映は9割くらいの入り。

 海の王トリトン(ハビエル・バルデム)の娘の人魚アリエル(ハリー・ベイリー)は、沈没船から人間が作った道具などを拾い集め陸の世界に興味を持っていたが、トリトンから人間に近づくことを禁止されており、コレクションも破壊された。嵐の夜、沈む船から逃げ遅れた犬マックスを助けようとして王子エリック(ジョナ・ハウアー=キング)が海に落ちたのを見たアリエルは、エリックを浜辺に横たえ、歌を歌いながら介抱し、執事らが駆けつけるのを見て海中に戻った。エリックに恋をして人間の世界に行きたいと思うアリエルに魔女アースラ(メリッサ・マッカーシー)は3日間だけ人間になれる薬をやる、ただし声をもらう、そして3日以内に「真実の愛」によるキスができなければ人魚に戻りアースラに隷属する条件だと持ちかけ、アリエルは迷いながらもそれに応じた。エリックは自分を助けてくれた女性を忘れられず執事にその探索を命じるが…というお話。

 アリエル役に黒人女性(ハリー・ベイリー)を起用したことをめぐる議論が沸騰していますが、そこは、私は全然違和感なく見れました。ハリー・ベイリーの歌と演技がよかったということだけでなく、私がアニメの方を見てない(ひょっとしたら昔見ているかも知れませんが、印象に残ってない)のと、松田聖子のおかげでマーメイドの肌が小麦色ということに抵抗がないせいかもしれませんが。
 この議論を聞いているときは、タブーへの挑戦ならむしろエリックを黒人にする方が挑発的なんじゃないかとも思っていたのですが、作品を見て、やはりポジティブな面を考えるとアリエルが黒人の方がいいと思いました。エリックとの恋の場面ではアリエルの受身の姿勢が目につきますが、アースラとの戦いでアリエルが主導的に描かれていることからも、黒人女性に勇気を与えると感じました。
 陸の王を黒人女性にし、ラストでさまざまな肌の老若男女の人魚を配したことも、好感しました。それを見てさらに不満を募らせる方もいるかも知れませんが。

 アリエルがアースラと結んだ契約、弁護士としては、やはりこれはなんとかしないといけないと思います。無粋ではありますが、現在の日本でこれが裁判所で争われたらどうなるかを一応紹介します。
 アリエルは人間になったが、エリックを助けたエリックが探している女性が自分だと気づいてもらえず、声も出せなくて説明もできないことから、自分は大きな失敗をしたと後悔します。ここで、この契約を取り消せるといいですね。1つには、この作品でアリエルの年齢は示されていませんが、未成年であれば(親が同意していない限り:トリトン、同意するはずないし)、契約を取り消すことができます。また、訪問販売等の場合には、一定期間内なら無条件で契約を撤回できる「クーリングオフ」という制度があります。興奮した状態で十分考えずに契約したのを頭を冷やして冷静になったらやっぱり止めたいというのに備えての制度で、アリエルのケースにぴったりでもあります。訪問販売は、自宅に業者が来た場合だけではなくて、業者の店舗・事務所外での契約が含まれます。アリエルはアースラのところに行って契約していますが、自分から行ったというよりもキャッチセールスのような形で連れて行かれていますので、クーリングオフを適用できそうです。ただ、(広告等を見て)自分から店舗・事務所に行った場合や通信販売等にはクーリングオフの対象になりません。マルチ商法のように契約の性質から(訪問販売等の形でなくても)クーリングオフの対象となるものもありますが、アリエルのようなケースを考えると一消費者に致命的な結果をもたらしかねない契約はもっと広くクーリングオフの対象としてもらいたいですね。
 契約の内容が酷すぎるから無効にできないかということも考える必要があります。「ベニスの商人」でシャイロックがアントニオの胸の肉1ポンドを切り取ることができるというのが、現在の日本の法律では公序良俗に反するとして無効と解されているように。アースラが提供するのが人魚を人間にするという(荒唐無稽と言うべきですが)困難な債務なので、その対価として声をもらうということまで公序良俗に反して無効と言えるかは相当な議論が生じるでしょうけれども、3日以内にキスができなければ自分に隷属させるというのは、奴隷制を禁止し人身売買を禁止している日本の法制度の下では当然に無効と判断されるでしょう。
 そして、エリックとアリエルが惹かれ合いキスする趨勢にあったのをアースラが妨害したことについて、民法は契約の条件が成就することによって不利益を受ける者が故意にその条件成就を妨害したときは相手方はその条件が成就したものとみなすことができると定めていますので、このケースでは、アリエルはアースラに対しては、3日以内にエリックとキスをするという条件を達成したと主張することができそうです。もっとも、そのためにはアースラが妨害したこと、アースラの妨害がなければエリックと「真実の愛」によるキスができたことを主張立証する必要がありますので、裁判の現場ではけっこうハードルが高いかも知れませんが。

2023年6月11日 (日)

M3GAN/ミーガン

 AI少女ロボットの暴走をテーマにしたプチホラー映画「M3GAN/ミーガン」を見てきました。
 公開3日目日曜日、新宿ピカデリーシアター3(287席)午前11時の上映は9割くらいの入り。

 玩具メーカーのファンキ社に勤める研究者のジェマ(アリソン・ウィリアムズ)は、交通事故で両親を失った9歳の姪ケイディ(バイオレット・マッグロウ)を引き取るが相手をする時間が取れないことに悩み、開発中のAIロボット(生成AI登載人造人間第3モデル:Model
3 Generative Android)をケイディの世話をするロボットに仕様変更して完成させ、略称のM3GANからミーガンと名付け、ケイディの子守役をさせるとともに、社長の前でプレゼンをした。社長はミーガンがケイディの心をつかむ様子に感動し画期的商品として発表することを決意してジェマに準備を命じるが、ケイディはミーガンと離れることに抵抗し、ミーガンはケイディを守ることを優先してジェマの指示に従わないようになり…というお話。

 AIが制御できなくなって暴走するリスク/恐怖を、可憐な少女の外見とロボットの力のギャップを効果的に用いながら見せる作品です。恐怖を煽ったり驚かせるような音響や衝撃的な映像を用いることを避け、本能的な恐怖・感覚に訴えるのではなく思考によって恐怖を理解させようとしているため、直感的な恐怖感はそれほどありません。ホラー映画苦手な人も大丈夫だと思います。

 この作品は問題のミーガンの暴走を、ミーガンが感情を持ち感情によって行動しているという前提でAIに感情を持たせることについて問題提起しているのか、人間に危害を与え人間の指示に従わない行動(ロボット工学3原則の第1原則、第2原則違反)を取った(抑制できなかった)原因をプログラムの欠陥(不十分点)か、運用の過程での不具合発生(壊れた)か、自らプログラムを書き換えるというAIの性質・原理上の制御の限界に求めているのか、その点は明確でないように思えます。
 ミーガンの逸脱の最初にあたる犬への攻撃ですが、相手が人間ではないのでいわゆるロボット工学3原則の第1原則(人間に危害を与えない)には違反しないのでしょうけれども、犬がケイディを攻撃したわけでもなく、ミーガンは犬に攻撃されても損傷しないのですし、しかもミーガンが攻撃されているときに反撃するのではなくその後に自ら仕掛けて犬を攻撃する必要性はありません(その後のケイディへの攻撃を予期して予防するなら、犬を攻撃するのではなくそのほかの方法、例えばケイディを犬に近づけない、犬が近寄ってきたら威嚇して追い払うなどで十分なはずです)。このような不必要な攻撃性を見せられると、ミーガンのプログラムには、もともと人間等への危害防止のためのプログラム上の考慮(抑制策)が足りなかったのではないかと感じてしまいます。
 ミーガンが周囲の人間の精神状態を読んでいることは明示されていますが、ミーガン自身が感情を持っているのか、ミーガンの行動が感情に左右されるのかは、明確にはされていません。しかし、ミーガンの犬への攻撃が、その犬がミーガンを攻撃した後の夜に行われたことは、防衛ではなく、復讐を動機としたものと描かれているように思えます(自己を守ることはロボット工学3原則の第3原則ですし、自己が損傷しないようにしないとケイディを守ることもできなくなるということにはなりますが、チタン合金製の躯体は犬の攻撃にはびくともしないし、いずれにせよ防衛のためなら犬に攻撃されているときに反撃するはず)。
 その後のミーガンの行動を逐一論じるのはあまりにネタバレなので避けますが、最初の犬への攻撃だけを見てもすでにAIが感情に基づいて行動するとか、必要もなく犬を攻撃するという初期段階のプログラムの不備があると考えられます。
 この作品は、ミーガンの十分に人間らしい表情と愛らしい外見の効果もあり、AIの暴走のリスクを感覚的・感情的に感じさせることには成功していると思いますが、AIの暴走のリスクをより現実的で真剣に議論するには、十分に考え抜かれたプログラムで行動を制御したにもかかわらず禁止ルールの衝突矛盾やAIのラーニング、プログラム書き換え(自己生成)の結果悩ましい事態に陥ったという描き方をすべきだったのではないでしょうか。その意味で、問題提起としての深刻度・説得性のレベルが不十分に思えました。

2023年6月 4日 (日)

怪物

 2023年カンヌ国際映画祭「脚本賞」の映画「怪物」を見てきました。
 公開3日目日曜日、新宿ピカデリーシアター2(301席)午前11時20分の上映はほぼ満席。

 クリーニング店に勤めるシングルマザーの麦野早織(安藤サクラ)は、小学5年生のひとり息子湊(黒川想矢)が、ブタの脳を移植したらそれは人間?と聞く、自分で髪を切る、スニーカーを片方なくす、水筒に泥を詰めて帰ってくるなどしたことに不審を感じ、問い詰めて、担任の保利(永山瑛太)に殴られたとの答えを得て学校に乗り込むが、保利は事実を認めようとせず、ただ誤解があったことは残念だと頭を下げ、教頭(角田晃広)や校長(田中裕子)も形だけ謝罪の言葉を述べ続けるのに対して切れる。保利を追及するうち、保利から湊が同級生の星川依里(柊木陽太)をいじめていると聞かされた早織は依里の自宅を訪ね、そこで湊のスニーカーの片方を見つけ…というお話。

 最初に麦野早織の視点から真相を隠し誠実に対応しない学校の無責任ぶりを描き、次いで保利の視点から早織のモンスターペアレントぶりを描き、最後に湊の視点から大人は何もわかってないという描き方をしています。
 我が子かわいさに視野狭窄に陥った保護者が、自分の目に映ったことを真実と頑迷に思い込み暴走するモンスターペアレントの「怪物」ぶりを描いた(ついでに、その依頼を受けて内容証明を送った弁護士も同罪として貶める)作品と見るべきでしょうか。
 そう思った次には湊の視点で保利の認識もまた誤解であることを示していることからして、そういった色彩を残しつつもそれにとどまらず、それぞれが認識する事実も、それに基づく評価も、完全ではない、自分に見えていない事実がきっと/必ずあり、自分が見落としたり重んじていないことを考えれば自分の評価が適切でないこともある、さらにいえばみんなの目から見て正しい評価などというのはそもそもないのではないかということを言いたいのだろうと思います。「藪の中:羅生門」の現代版というところでしょう。
 ここまで来ると、最後の湊の視点からの描写が真実といえるかも、疑ってみるべきなのだろうと私は思います。
 そういうつくりなので、3者の視点を経てもなお真相がわからないものも残されています。猫の死の原因、保利の自宅のドアノブにかけられていたものは誰が持ってきたのか、校長の事故の真相、冒頭のビル火災等々
 それぞれの視点の話のラストが統一されていないのも、これも観客の解釈/想像力に任せるということなのか、そこは少し気持ち悪いというか釈然としないものが残りました。

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