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2023年1月

2023年1月29日 (日)

SHE SAID その名を暴け

 #Me Too 運動拡大の転機となったハリウッドの大物プロデューサーのセクハラを暴いたニューヨーク・タイムズの調査報道を映画化した「SHE SAID その名を暴け」を見てきました。
 公開2週目日曜日、渋谷 WHITE CINE QUINTO (108席)午前10時30分の上映は3割くらいの入り。

 2017年、ニューヨーク・タイムズの記者ジョディ・カンター(ゾーイ・カザン)は、ハリウッドの大物プロデューサーハーヴェイ・ワインスタインによるセクハラの取材を始め、トランプのセクハラの調査報道をしたミーガン・トゥーイー(キャリー・マリガン)とともに関係者をあたるが、取材に応じる者は少なく、話は聞けてもすでに示談して秘密保持契約(口外禁止条項)に拘束されてオフレコでしか取材に応じられない(記事にはできない)と言われ続けた。取材の動きをつかんだワインスタインの抗議を受けながらも、関係者への根気強い取材で次第に重い口が開き、被害者の連絡先がわかり…というお話。

 原作はノンフィクションで淡々と多数の関係者への取材の経過を記述しているところ、映画も原作に登場するエピソードの大部分を入れ込もうとしていて、それはそれで記者たちの困難とワインスタインの悪行の広がりを示しているのですが、映像では、私の顔認識・識別能力が低いこともあって、どの人の話だったか、今話題になっているのが誰のことだか、わからなくなり混乱します。映画を観た後で原作を読んで、あぁこのエピソードがこの人で、このエピソードがこれとつながるんだとようやく頭が整理できた感じです。
 原作よりも肉付けされているのは、記者2人の私生活で、2人とも幼子を抱えた母親記者(父親も育児は分担している)として描かれていることが、取材者の人間性、弱さ、迷い等をも描いて、人間ドラマとしての厚みを増しています。
 そして、編集長ディーン・バケット(アンドレ・ブラウアー)が、ワインスタインに対しても、ワインスタインの弁護士に対しても毅然としていて、ぶれないのが、すごくかっこいい。現実はこんなにスッキリ行かないんじゃないかとも思いますが、映画としてみる分にはスカッとしますし、安定感があります。
 この2点は、原作よりも、ニューヨーク・タイムズ側のスタッフの様子・人物を描き込んでいるのですが、映画としてはそれが利点となっていると思います。

 さて、弁護士として、この作品を見て考え込まざるを得ないのは、この問題に関する弁護士の役割です。
 記者の取材と被害者の被害申告の障害となり立ちはだかるものとして秘密保持契約(Non-Disclosure Agreement : NDA。和解合意の中では、口外禁止条項)が採り上げられています。私の弁護士実務感覚では、例えば労働事件での和解の際には、会社側はたいていは口外禁止条項を要求し、労働者側でも応じることが多いのですが、違反して口外した場合のペナルティを定めないのがふつう(会社側がペナルティの定めを要求することも稀にはありますが、私は応じたことはありません)です。しかし、映画で明示はされていませんが、このケースでは違反した場合のペナルティなど違反できないような定めが厳重になされていたようです。富裕層の側で、被害者を抑圧するためにそういう契約条項の考案・検討に精を出す弁護士が存在し活躍しているわけです。
 そして、この作品では、人権派弁護士の娘リサ・ブルームが、ワインスタインの代理人として暗躍していることが描かれています。日頃被害者を守る側で活動していても、金儲けのためには平気で富裕者・加害者側に付くという描き方です。映画ではそこまでは出てきませんが、原作では、リサ・ブルームはワインスタインに、自分はこれまでセクハラ被害者と(称)して金を要求する側の代理人を多く務めてきたので、自分ならあなたをそういう相手から救えると売り込む手紙を書いたとされています。原作はノンフィクションですから、実際にそうだったのでしょうけれども、弁護士がそこまでするというのは驚きました。

※原作本も読んでからと思ったので書くのが遅くなりました。

イニシェリン島の精霊

 第95回アカデミー賞(日本時間2023年3月13日発表予定)で8部門9ノミネートの映画「イニシェリン島の精霊」を見てきました。
 公開3日目日曜日、渋谷 WHITE CINE QUINTO (108席)午前10時20分の上映は5割くらいの入り。

 1923年、本土では内戦が続くアイルランド沖の孤島イニシェリン島の農夫パードリック(コリン・ファレル)は、ある日、長年の親友コルム(ブレンダン・グリーソン)から避けられるようになり、話しかけると「お前のことを嫌いになった」と言われ、その理由を聞くと、「退屈だからだ」と言われて呆然とする。パブでコルムは作曲を始め音大生らとバイオリン演奏にいそしみ、蚊帳の外のパードリックは困惑し、コルムに詰め寄るが、コルムはこれ以上話しかけたらそのたびに自分の指を切断すると言い放つ。パードリックの妹のシボーン(ケリー・コンドン)が仲介しようとしたが…というお話。

 合理的な理由なく生じた行き違いから諍いが生じ、その過程で意地になり、引っ込みが付かなくなり、振り上げた拳の下ろしどころもなく、無意味に不条理に争い続け止められなくなる人間の性を、戦争の無益さのアピールの趣旨も込めて描いているのだろうと思います。
 タイトルから、人の死を予告するというアイルランドの精霊になぞらえた解説をする向きが多いですが、超自然的なものやホラーの映画ではなく、あくまでも人間の性・ありようを描いた作品です。
 気のいい人物のパードリック(警官や神父よりも人間的にできている:警官が傲慢で、神父がキレやすく描かれているのは、パードリックの人のよさ、温厚さを際立たせるためでしょう)でさえ、意固地な戦いに引き込まれ止められなくなるという展開が、人間性による解決への絶望を感じさせます。
 シンプルなテーマを俳優の渋い演技で見せ続けています。主要登場人物4名(パードリック、コルム、シボーン、ドミニク)が全員、アカデミー賞で主演・助演男優賞、助演女優賞にノミネートされたのも納得の演技です。
 他方で、全体としてテーマも展開も重苦しく救いがなく、見ていて楽しめるという作品ではありません。
 救いを見出すとすれば、動物たち(ロバ、犬等)の愛嬌と、海辺の風景と夕陽の映像の美しさくらいでしょうか。

 舞台になっているイニシェリン島( Inisherin )は架空の島のようですが、公式サイトの写真に組み込まれたタイトルが " The
BANSHEES if INSHIERIN "と表記されているのはいかがなものかと思います(デザイナーが2つめの" I "の位置を間違えたことに気がついていないのか)。

2023年1月15日 (日)

イチケイのカラス

 フジテレビの2021年春月9ドラマの劇場版映画「イチケイのカラス」を見てきました。
 公開3日目日曜日、新宿ピカデリーシアター2(301席)午前11時の上映は5割くらいの入り。

 テレビドラマから2年後(熊本地裁第2支部から)岡山地裁秋名支部に異動になった入間みちお(竹野内豊)は、裁判長として、イージス艦と衝突して沈没した貨物船の船長の墓前で墓参りに来た防衛大臣(向井理)のお付きの者にナイフで傷害を負わせた船長の妻(田中みな実)の刑事事件を担当し、夫がそのような事故を起こすはずがないと被告人が述べたのに対して、検察官(山崎育三郎)が何故かイージス艦の航海日誌が紛失しているが衝突事故原因が貨物船側にあることは明らかだと説明したところで、職権を発動すると宣言し、衝突事故を目撃した漁師を訪ねて聞き取りを始めるが、裁判所を防衛大臣が訪れ、その後最高裁から入間を事件の担当から外すという指示がなされる。同じ時期に他職経験のために隣町の岡山県日尾美町で弁護士事務所を開設していた坂間千鶴(黒木華)は、工場の従業員とその関係者が日尾美町住民の7割を占めるという総合化学企業シキハマ株式会社に対して、その排出する有毒物質により子どもが健康を害したというラーメン店主を代理して損害賠償請求訴訟を提起し、入間がその裁判を担当することになり…というお話。

 業界人として、見ていてまず違和感を持つのは、「秋名支部」の民事裁判で、原告側が傍聴席から見て右側(裁判官席から見て左側)に着席していること。刑事裁判の法廷では、基本的には検察官が傍聴席から見て左側、弁護人が傍聴席から見て右側ですが、東京地裁等では法廷によって反対の場合があります(逃亡のリスクを下げるために被告人を廊下側にせず、入り口から奥側に置きたいという考慮によるものと推測します)。しかし、民事裁判の法廷について(1審で)原告側が傍聴席から見て右側になる例外を、私は聞いたことがありません(控訴審では、1審で原告が勝訴して敗訴した被告に控訴された場合は、1審の原告が「被控訴人」として傍聴席から見て右側になりますが)。
 損害賠償請求事件の判決で、慰謝料に遅延損害金を付けなかったり、訴訟費用(提訴の印紙代とか、出廷日当とか。弁護士費用は含まれない)の支払を命じていないのは、たぶん単純化のためなんでしょうけど、不法行為による損害賠償請求ではふつうに認められる裁判所が認めた損害の1割相当の弁護士費用分の支払を命じていないのも、業界人としては違和感を持ちました。まさか、エリート裁判官(裁判官経験8年)の坂間千鶴が請求を忘れたなんてことでもないでしょうに。
 裁判所の支部名が東京地裁第3支部、熊本地裁第2支部と来て、どうして岡山地裁では「秋名支部」なんだとか、他職経験で裁判官が弁護士事務所に勤務することはあっても1人で弁護士事務所を作らせることは考えられないし、弁護士がほとんどいない支部で他職経験させることも考えられないとか、階段・吹き抜けの開放空間に机を置いて裁判官室にしてるとか、いろいろ疑問はあるけど、その辺はドラマ・映画の設定としてかまわないと思いますが。

 この作品の売りの、入間裁判官の「職権発動」。そこはそれがポイントなんですし、作品中でも言及しているように、刑事訴訟法上は根拠規定もありやってもかまいません。そうは言っても、裁判制度としては本来的にそれを予定しているわけでもなく、適切ではないと考えられることは、テレビドラマの最終回についての記事で私の意見を述べていますが(→「イチケイのカラス最終回に思う」)。
 しかし、この映画でも傷害事件で漁師の話を聞きに行くときのように、検察官、弁護人ら当事者とともに行くのはいいですが、その後に入間みちおが釣りに行くとかいってひとりであちこちの漁師等の話を聞いたり、監視カメラ映像を確認したとかいうのは、そしてそれを根拠に事実関係について判断したりするのは、およそやってはいけないことだと思います。申立てか職権かということを超えて、当事者に立ち会い意見を述べる機会を与えない証拠調べというのは民事裁判(刑事裁判でもですが)の原則を大きく踏み外しています。面白ければいいということなのかもしれませんが、ちょっとこれはどうよと思いました。

 公式サイトでのキャッチで「国を揺るがす2つの事件。それは決して開けてはならないパンドラの箱だった!?」とされているのですが、国も大企業本社もお咎めなしで傷つきません。この結論でこのキャッチで売るか?とか、フジテレビはこんなものかと思ってしまいます。
 人権派弁護士へのいびつな視線と、環境保護団体への悪意も、制作者の姿勢を示しているのかと思いました。

2023年1月 8日 (日)

すずめの戸締まり

 新海誠監督の最新作「すずめの戸締まり」を見てきました。
 公開9週目日曜日、9週目にして最大スクリーンを充てた(前週末興行成績、まだ2位ですからね)新宿ピカデリーシアター1(580席)午前10時25分の上映は、入場者プレゼント第3弾「小説すずめの戸締まり~環さんものがたり~」付きで、4割くらいの入り。前週末(2023年1月3日)までの興行収入が113億円ほどで歴代30位。前作「天気の子」の142億3000万円歴代14位を超えられるかは微妙なところでしょうか。

 4歳の時に東日本大震災の津波で看護師だった母を失い、12年後の今、叔母の岩戸環とともに九州の港町で暮らす岩戸鈴芽は、ある日自転車登校中に、「この辺に廃墟はありませんか」と問いかける青年宗像草太と出会う。草太のことが気になった鈴芽は山中の廃墟で古ぼけた扉を見つけ、それを開けると中に美しい別世界があったが中に入るとそのまま扉の反対から廃墟に出てしまい、それを繰り返すうち傍らに石が落ちているのに気付いた。鈴芽がそれを手に取ると石は白い猫に変わり、立ち去ってしまう。その後、その扉から、他の者には見えない巨大な赤黒いものが湧き上がって飛び出し、それを学校から見た鈴芽が駆けつけると、草太がその扉を閉めようともがいていた。草太を手伝ってなんとか扉を閉めた鈴芽は、草太から、扉(後ろ戸)から出てきたのは常世(死者の世界)で生まれる「ミミズ」でそれが大地震を引き起こす、草太は大地震を防ぐために開いた扉を閉じて鍵をかける「閉じ師」だと聞いた。怪我をした草太の手当をするために草太を連れて自宅に戻った鈴芽の前に白猫が現れ、草太を椅子に変えてしまった。草太から、その白猫(ダイジン)はミミズを抑え込む「要石」だったと聞かされ、自分が要石を解き放ってしまったことを知った鈴芽は、草太とともにダイジンを追うことになる…というお話。

 要石から猫の姿になり、「すずめ、好き」と言い、「お前、じゃま」と言って草太を椅子に変えてしまい、逃げ回り、追いつかれると「すずめ、遊ぼ」などと言い、近くの廃墟の扉からミミズが出てきて草太と鈴芽が戸締まりに追われるのを傍観したりそのままプイと姿を消すダイジン(公式サイトでもカタカナですが、終盤で「サダイジン」が登場することからして、「大臣」でしょうね)の言動に、非難が集まるように作られていると思います。私も前半、そのように見て、なんて勝手なヤツと思っていました。
 しかし、少し考えれば、ダイジンは長い間(江戸時代からと示唆する場面もありますが、たぶん数十年と思います)常世でミミズが湧き上がる度にそれを押さえ込むということをずっと孤独に(要石は2つとのことですので離れたところにもう1人いるわけではありますが)続けてきたのです。短期間であれば志で続けられるかもしれませんが、長く続けば、なぜ自分がひとり犠牲にならなければならないのかという思いにも駆られるでしょう。自分はこんなに尽くしてきたのだという思いから、もう解き放たれたい、これだけやったのだからもう自分はお役御免でいいだろう、後は誰か他の人がやるべきだと考えても、あるいは鬱屈した気落ちから甘えや我が儘が出ても、さらに言えば少し気が変になったとしても、それを責めることは、本来できないのではないか。むしろ、要石としてこれまで長らく奉仕してきたことを知れば、ダイジンに向けるべきはただ感謝の気持ちであるべきではないか。
 それにもかかわらず、中盤でダイジンの正体が示唆されるまで、自分がダイジンの苦行と貢献への感謝の気持ちではなくダイジンへの非難の気持ちを持っていたことに、私は驚きを感じたのです。
 草太の心の声部分で、献身が当然ではない、嫌だという気持ちや恐怖感が語られていることから、そういった問題提起もなされているのかもしれません。しかし、作品の方向性として、草太は救われるべきであるのに、ダイジンも救われるべきだということは打ち出されていません(救われる必要があるのは、イケメンに限るのか)。草太からも鈴芽からも、最後まで、ダイジンの要石としての献身を労い感謝する言葉は出てこないのです。
 人を救う能力がある者はそれゆえに献身するのが当然なのか、人は、社会は、少数のあるいは1人の無償の貢献を当てにして安穏としていていいのか、私は、そういうことを考えさせられました。

 ビジュアルですが、序盤の鈴芽が自転車に乗っているシーン、前から見たシーンでは漕ぐときに少し揺らしているのに、横からのシーンは自転車が機械的に平行移動して、今どきとしてはちょっと雑な作業に見えました。
 一番気になったのは、鈴芽を初めとする人物の細さ。ターゲットをアニメオタクにしているということかもしれませんが、若い女性がすでに痩せているのにさらに痩せたいと思い健康を害することが問題となっているというのに、今なお、これほど細身の女性を描いて若者の痩せ信仰をさらに煽るようなマネは止めて欲しいと思います。

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