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2021年6月

2021年6月27日 (日)

夏への扉

 タイムトラベルSFの古典を日本を舞台に1995年起点に映画化した映画「夏への扉」を見てきました。
 公開3日目日曜日、新宿ピカデリーシアター5(157席)午前10時40分の上映は、2割くらいの入り。

 両親を失い科学者の養子として育てられ、義叔父松下和人(眞島秀和)が経営する会社のエンジニアとして人工頭脳(AI)を搭載したロボットと自己再生発電機関である「プラズマ蓄電池」を開発中の高倉宗一郎(山﨑賢人)は、義妹の松下璃子(清原果耶)に慕われつつ、社長秘書の白石鈴(夏菜)のプロポーズを受け入れ、所持していた会社の株を譲渡したところ、和人と示し合わせた白石の裏切りにより開発中のロボットの販売が決定され、研究成果を奪われ持ち去られた。失意に暮れる宗一郎は、諦めるなと叱咤し、ずっと好きだった一緒にいたいという璃子を突き放し、冷凍睡眠サービスを行う保険会社を訪れて30年間の冷凍睡眠を申し込む。診査医から血中アルコール濃度が高いことを指摘されて翌日再審査を申し渡された宗一郎は、和人宅に乗り込み研究成果の取り戻しを求めるが、白石に麻酔薬を打たれ、そのまま和人の会社の系列の保険会社で冷凍睡眠させられてしまう。30年後に目覚めた宗一郎は…というお話。

 「夏への扉」と聞いて、「フレッシュ!フレッシュ!フレッシュ!」と松田聖子の声が脳内に鳴り響く人(私の世代はそういう人が多いと思う)は、「へ」があることに思いを致し、まず誤解を解きましょう。「夏の扉」ではなく、「夏への扉」はタイムトラベルSFの古典です。

 粒子を粗くした「過去」の映像/テレビ画像の中で、1995年時点で、瞬間移動(テレポーテーション)が実現しており、冷凍睡眠(人工冬眠)が民間企業(保険会社)のサービスとして運用されているというのが違和感がありますが、そこを乗り越えられれば、前半での科学者の、パラレルワールドは存在しない、時間がループするという説明と、最初は何のためかと訝しく思う宗一郎の冷凍睡眠に2つの保険会社が絡む設定が、後から考えると意外にもよく練られていて、タイムトラベルものとしては破綻の少ないできになっていると、私は思いました(宗一郎が目覚めたときの医師の説明には綻びがあると思います。そこは、余計な説明はやめときゃよかったのに、あるいはストーリーを考えればそういう設定はしない方がよかったのにと、残念に思うのですが)。

 設定を1995年にしたのは、原作(1956年発表、1970年のロサンジェルスが舞台)の30年冬眠を前提に冬眠明けを近未来にすることからの逆算でしょうか。宗一郎は手計算で開発を進めていくし、コンピュータを使うとしても専門家には Windows95 が販売されてもそれで何か飛躍的に環境が変わったわけでもないでしょうし、映像的には阪神大震災の高速道路崩壊は使われていましたけど、他には特に印象的・効果的なものはありませんでしたし。1995年2月から始まり、1995年3月1日、3月8日と日付が刻まれていく間は、まさか地下鉄サリン事件に絡めて新興宗教団体が新たな兵器(地震兵器とか)を開発とかストーリーに入れてくるのかと思いながら見てしまいましたが。

 ビジュアルで、肥満が悪、みたいな表現ぶりは、わかりやすいのかも知れませんが、安直に過ぎ、古くさいセンスだなと思えました。

2021年6月 6日 (日)

いのちの停車場

 救急医療の戦場のような現場から在宅医療に転身した医師の目から医療の目的は何かを問う映画「いのちの停車場」を見てきました。
 公開3週目日曜日、新宿ピカデリーシアター7(127席:販売60席)午前10時25分の上映は、7割くらいの入り。

 多重交通事故で多数の重症患者が運び込まれた救急救命センターで後回しにされていた女児の痛みを抑えるために医師資格がない事務職員野呂(松坂桃李)が点滴の針を刺したことがその母親から指摘され病院側が野呂を問責しようとするのを見て、責任を取る者が必要なら自分が当日の責任者だとして救急救命センター部長の職を辞して故郷の在宅医療(往診)を行う小さな診療所「まほろば診療所」に勤めることになった白石咲和子(吉永小百合)は、交通事故で車椅子生活となって自分が往診に出られない仙川院長(西田敏行)、看護師星野(広瀬すず)、そして白石を追ってまほろば診療所に勤めることになった野呂とともに、最先端の設備の下での緊急の生死がかかった救急救命センターの医療とは異なる素手で患者と向きあうような在宅医療に戸惑いながら、進行した癌患者たちの医療に取り組むこととなった。そして、老いた父(田中泯)から、苦痛を除去するために安楽死を求められて…というお話。

 医師の仕事が、単に目の前の患者の命を救い(死なせない)、傷病から回復させるという比較的明確な方向で進めればよいということではなく、さまざまな患者のニーズ(意思)、患者の家族の意向により左右され、さまざまな困難を抱えていることを考えさせられます。
 寝たきりで生きながらえるのでは意味がない、自分がやりたいことができないと生きている意味がないという患者、コミュニケーションが難しくなり患者の気持ちに寄り添えているのか自信を失う家族、症状を悪化させないための医師の指示と患者本人の気持ちに挟まれて悩む家族、死を目前にしてけんか別れした息子との再開を願う患者の要請を満たせずに苦しむ家族など、医療そのものではない部分で、しかし確実にある患者側のニーズにどう向きあうべきかというようなことが描かれています。たぶん、そういうことに丁寧に対応していたら、医師の方が過労で倒れ、また病院・診療所は経営していけなくなることが予想されますが…
 そして、死を目前にして苦痛のコントロールができなくなった患者からの安楽死要請という現在の日本の法制上は医師が対応できない(やってはいけない)問題についても提起されています。川崎協同病院事件を題材にした「終の信託」(朔立木、光文社)、最近やはりこの事件を題材として書かれた「善医の罪」(久坂部羊、文藝春秋)でも描かれていますが、患者からの安楽死要請が、良心的な、有能な医師を犠牲にする(医師としての職を賭し、さらには犯罪者とされることまでも覚悟する)ことになることを考えれば、薬剤による苦痛のコントロールができなくなった末期の患者が主治医に早く楽になりたいと要請することは、してはいけないことと考えるべきでしょうか。
 冒頭の、自分の行為ではなく部下の事務職員の行為でその事務職員を守るために救急救命センター部長の職を自ら辞した設定に現れる白石医師の責任感というか、何でも自分で抱え込んでしまう性格設定が、患者のさまざまなニーズへの対応と父親の安楽死問題への悩みも抱え込んでしんどくなるというか自分を追いつめてしまうこととなるあたりは、見ていてつらいものがありました。

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