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2021年4月

2021年4月25日 (日)

SNS 少女たちの10日間

 12歳の少女を装った偽アカウントに群がり局部を曝し裸の写真や性交を求める男たちの醜態を描いたドキュメンタリー「SNS 少女たちの10日間」を見てきました。
 3度目の緊急事態宣言初日となった公開3日目日曜日、全国7館東京3館の公開館中のメイン館ヒューマントラストシネマ渋谷シアター2(173席)11時25分の上映は7割くらいの入り。予想以上に入っているのは、大規模映画館が軒並み休館して映画難民が開けている数少ない映画館に集まったおかげでしょうね。己の無策・無能を糊塗するために一つ覚えに民に「欲しがりません勝つまでは」を強いる権力者のおかげで、ふつうにやっていれば観客が分散するのに一部の映画館がかえって密になってるんだと思います。

 SNSで「オオカミたちが子どもたちと巧妙にコミュニケーションを取りながら、騙したり操ったりする全てのトリックを事細かに、かつ正確に伝え」るため(公式サイトでの監督の発言)に、12歳に見える18歳以上の女性をオーディションで集め、3名を選んで偽のアカウントで12歳として登録させ、そこに連絡を取ってきた男たちとやりとりをさせてその様子を撮影したドキュメンタリー。

 初対面の女性に対して、いきなり局部を露出してオナニーを始める中高年男性たち、物欲しげに服を脱ぐように求め裸の写真を送ってくれと言い、セックスしようと言い寄る男たち、12歳なんだけどと言われても問題ないと言って続ける男たちを次々と見せることで、まぁ見る前から予想される展開ではありますが、こういう行為・姿が相手方、第三者、覚めた目から見たら、いかに恥ずかしいかを改めて実感させる、そういう点で、成功していると思います。

 しかし、こういった犯罪の告発という場面でメディアはどういう立ち位置を取るべきか、という問題で、この作品は躓いているように、私には感じられます。
 例えば、アフリカで飢餓に倒れたり猛禽類が死んだら死体をつつこうと待ち構えていたりする場面を撮影し報じた写真家・記者をなぜ助けないのかと詰る人々がいます(私は、目の前で死にかけている人を助けない、見殺しにするというレベルのものは、やや薄情だとは思っても批判する気にはなりません。日本にいたって、例えば冬の寒い時に路上で寝ているホームレスを見て一々「大丈夫ですか」と声をかける人などほとんど見ませんし、私もそうはしません)。こういうドキュメンタリーを見ても同じようなことを言う人がいるのでしょう。この映画の制作者たちは、映画自体の中でも、このような犯罪者たちを許せないと、糾弾し、警察に映像を提供したそうです。最後にそういう説明が入り、公式サイトのイントロダクションでも「児童への性的搾取の実態を描いた映像として、チェコ警察から刑事手続きのための映像が要求された。実際の犯罪の証拠として警察を動かした大問題作がいよいよ日本公開となる」と書かれています。
 メディアは、その表現の中で不正を、犯罪を、告発することにとどまらず、制作者が犯罪を告発すべきなのでしょうか。この作品の最後の説明を見て、万引き犯を映した監視カメラ映像を公開する店主を見るような、まぁ怒る気持ちはわかるけど、また万引き犯が悪いのはそのとおりだけど、しかしどこか感じる胸くその悪さ・不快感と同じようなものを感じました。
 出演した女性たちは、いきなり局部を露出してオナニーを始める姿を見せられたり、そういう連中が多数いることを思い知らされることでそれがトラウマになったり人間不信を引き起こすということはありそうです。また合成画像ではあっても顔は本人の顔のヌード写真を送ってそれをばらまくぞと言われれば恐怖を感じるでしょうし、実際にネットにアップされれば(現にアップされたという話になっています)嫌な思いをするでしょう。そういう連中、それも相手が12歳の少女だと聞きながらそういうことをする連中を放置できないと感じるのはある程度自然な感情だとは思います。その意味で観客がそう思うのは理解できます。しかし、実際には出演した女優は全員18歳以上の成人です。そして、男性の局部を見せつけられることも、さらに言えば裸体写真を送ればいつかはそれがネットにアップされたり脅迫に使われることも、わかっていたはずで、そうだとすれば、この作品中で行われた行為は「犯罪」と言えるでしょうか。出演した女性が局部を見せられることや送った写真がネットにアップされたりそれをネタに強請られることを理解して納得してやっていたら、その予期されたことがなされた場合にそれは「犯罪」と言えるでしょうか。少なくとも監督や制作スタッフは、局部の露出や送った裸体写真がネット上アップされたり脅迫に使われることは当然に予想し、さらに言えばそれを期待していたはずです。出演女性に監督や制作スタッフがそれを十分に説明して納得させていなかったとしたら、出演女性が感じた不快感や恐怖、受けた心の傷は、直接には相手の男の行為によるものではありますが、監督や制作スタッフの責任もかなり大きいのではないでしょうか。ライオンが待つ檻にそのことを十分に説明しないで人を誘い込んだら、それ自体犯罪じゃないでしょうか。
 この作品の構造は、行為者の主観・意図は悪い(犯罪そのものではある)けれども客観的には犯罪と言えるか疑問のもの、たとえて言えば空箱の商品を並べておいてそれを万引きした者を万引き犯としてその映像をネット上公開しているような、そういう後味の悪さがあります。SNSでの悪行を告発するという目的のために、自分たちもあまりフェアとは言えないことをやっているという、そういう自己批判というか苦渋に満ちた思い、謙虚な姿勢があってしかるべきだと思うのですが、この監督や制作スタッフはそういう意識・認識はまったくないようで、行為者の主観が悪い、けしからんと憤慨して、警察に引き渡そうというのですから、義憤の空回りを感じます。
 最初に述べたように、SNSで少女に群がる大人たちの行為の第三者の目から見た恥ずかしさを実感させるという点では(そこにとどめておけば)優れたものであったとは思うのですが、それを超えたところで残念に感じてしまいました

2021年4月11日 (日)

21ブリッジ

 ニューヨーク市警の武闘派刑事が警察官を多数射殺したコカイン強盗犯を追うアクション映画「21ブリッジ」を見てきました。
 公開3日目日曜日、渋谷HUMAXシネマ(202席)午後1時15分の上映は1割足らずの入り。

 殉職した警官の父の後を継いでニューヨーク市警の刑事となったアンドレ・デイビス(チャドウィック・ボーズマン)は、9年間で8名を射殺して査問を受け、認知症気味の母と住む住まいにも早く帰れない忙しい日々を送っていた。元軍人のレイモンド(テイラー・キッチュ)とマイケル(ステファン・ジェームズ)がコカイン50kgを強奪し警官7名を射殺して逃走した事件で、署長マッケナ(J・K・シモンズ)から麻薬捜査官フランキー(シエナ・ミラー)とコンビを組んで担当するよう命じられ、犯人への復讐を示唆されたデイビスは、マンハッタン島の封鎖を提案し、午前5時までの期限付きで認められる。監視カメラ映像を駆使して犯行に使用された車両を割り出しその名義人を問い詰めて犯人を聞き出したデイビスは、監視カメラの情報で犯人の足取りを追うが…というお話。

 深く考えずにただアクションと展開のスリルを楽しむ作品です。それに没入できれば、その点では悪くないとは言えるでしょう。しかし…

 タイトルは、ブラック・ジャックとコントラクトブリッジのスリルを併せ持つカードゲーム、ではなくて、マンハッタン島にかかる橋が全部で21ということから来ているようです。21の橋すべてとトンネル、川もすべて封鎖してマンハッタン島全域を封鎖して犯人を追いつめるというアイディア、ほぼこれが売りの作品と言っていいでしょう。日本の警察映画で最高の興行成績(今のところ歴代9位)を記録している作品がレインボーブリッジ1つ封鎖するのもおっかなびっくりだったことを考えても、大胆な着想と言えるでしょう。
 しかし、アメリカではコロナ禍前の2019年11月22日からの公開初週末、FrozenⅡ(アナと雪の女王2)とぶつける勇気ある決断は実らず930万ドルで4位(ちなみにアナと雪の女王2は1億2700万ドル)と残念な成績に終わり、その後6位、7位、10位でランキングから消え去り、興行的にはハリウッド作品としては惨敗と言ってよいでしょう。
 その後2020年8月に主演のチャドウィック・ボーズマンが病死(癌だったとか)し、それを宣伝材料にして、ハリウッド大作不足の2021年の日本で公開してきたわけですが、果たしてどうなることか…

 主演は「ブラック・パンサー」の主役、制作が「アベンジャーズ エンドゲーム」のルッソ兄弟と大書されているマーベルな価値観の映画らしく、犯人射殺について尋問を受けるデイビスは、南北戦争では発砲せずに弾倉を取り替えてばかりの兵士がいたと言い、何を言うかと思ったら、次はベトナム戦争で敵を撃った兵士は3割に過ぎない、本当の兵士は3割しかいない、お前らは7割の方だと言い放ちます。現在のアメリカで、ためらわずにベトコンを射殺するのが本当の兵士だ/正義だと言いきるこのあっけらかんとした態度には驚きました。深く考えずにただアクションとその展開のスリルを楽しむ(しかない)作品ですが、そこまでの能天気さを示されると、いくらなんでもねぇと思ってしまいます。

2021年4月 4日 (日)

ノマドランド

 アメリカ西部をキャンピングカーで流浪する女性労働者を描いた映画「ノマドランド」を見てきました。
 公開2週目日曜日、グランドシネマサンシャイン池袋シアター8(79席)午前11時15分の上映は、6~7割の入り。

 夫ボーに先立たれ、勤めていた大企業が倒産してその企業城下町だった街が閉鎖されることになり、キャンピングカーで放浪しながらそこここで働くという生活を選択したファーン(フランシス・マクドーマンド)は、国立公園(清掃業務)や、厨房、アマゾンの物流センターなどで働きながら、出会った人たちと交流しては、美しい光景に感動し、姉やファーンを見初めた男からの定住の勧めを拒んで我が道を行き…というお話。

 不安定雇用に従事し、十分な蓄えはなく、ときにタイヤのパンクや車の故障に苦しみ、ひとりの夜の不安と寂しさを感じつつも、自らの意思で定住を拒み放浪を選択した者の自由と誇りを描き出すという作品で、ほぼそこに尽きると言ってよいでしょう。
 底辺労働者にも自由と誇りはある…それは見落としてはならないことで、また映画作品としてそのテーマはありなのだとは思います。
 ファーンの不安と諦念を感じさせながらも強い意志を秘めた表情が印象的で、それがこの作品のトーンを決定づけていると思います。
 老後をひとりで誇りを持って自由な生活を切り開いて行く、そういう生き方を肯定し、そういう生き方をし、またそうしたいと思う人たちに勇気を与え、力づける作品と評価することもできるかも知れません。

 しかし、ファーンは、自身が大企業に勤務していたことから見ても、社会の底辺層でもマイノリティでもなく、姉が同居を求め、ファーンを見初めた男が同居・再婚を求めていて、その気になれば定住ができるという、言わば恵まれた条件の下で、自らの意思で放浪生活を選択したものです。キャンピングカーでの放浪生活に積極的な意味を見いだすグループの会合も描かれていますが、アメリカでキャンピングカーでの生活を続ける人たちの多数派はそういう人たちなのでしょうか。
 労働者派遣法が制定されたときには「多様な働き方」がもてはやされました。かつては「フリーター」が拘束を嫌がる若者の新たな生き方だと喧伝されました。非正規労働、企業がいつでも切り捨てられる安い労働を拡大しようとする勢力は、実際にそれを求めているのは企業・経営者なのに、労働者自身がそれを求めていると言いたがるものです。現実には多数の者ができることなら回避したいが仕方なくキャンピングカーでの生活に追い込まれているのだとしたら、そのときに、一握りのそれを自己の意思で選択し自由を謳歌している恵まれた条件の人に焦点を当て強調することは、何を結果するでしょうか。
 ケン・ローチが口当たりのいい個人事業主の体裁に騙されて経済的にも時間的にもまったく余裕のない状況に追い込まれていく労働者を描く「家族を想うとき」を想起すると、アマゾンの物流センターでの労働を肯定的に描く(少なくとも過酷な労働というニュアンスはまったく感じさせずに描く)ディズニー作品を、底辺労働者やマイノリティを力づける作品だという無邪気な評価をすることには、私は抵抗を感じます。

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