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2018年11月

2018年11月25日 (日)

ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生

 「ハリー・ポッター魔法ワールド最新作」と銘打たれた映画「ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生」を見てきました。
 公開3日目日曜日、新宿ピカデリースクリーン1(580席)午前8時50分の上映は、8~9割の入り。

 前作の最後にアメリカ合衆国魔法議会の高官グレイブスに化けていてニュート・スキャマンダー(エディ・レッドメイン)に拘束された闇の魔法使いグリンデルバルト(ジョニー・デップ)が、護送中に脱走した。イギリス魔法省はホグワーツの教師となっていた最強の魔法使いといわれるダンブルドア(ジュード・ロウ)にグリンデルバルトとの闘いを求めるが断られる。ダンブルドアは、ホグワーツの教え子だった卒業生ニュートに、「グリンデルバルトと闘えるのは君だけだ」と唆し、ニュートは、思いを寄せつつも兄テセウス(カラム・ターナー)の婚約者リタ・レストレンジ(ゾーイ・クラビッツ)をニュートの婚約者と間違えてすねてしまった闇祓いティナ(キャサリン・ウォーターストン)を探し求めるとともに、グリンデルバルトを追って、ニューヨークからニュートを訪ねてきたノーマジ(人間)のジェイコブ(ダン・フォグラー)とともに、パリに向かう。グリンデルバルトは前作で消滅させられたはずのクリーデンス(エズラ・ミラー)を探し求め…というお話。

 ハリー・ポッターシリーズ本編ではホグワーツ指定教科書「幻の生物とその生息地」の著者として名前が出ていただけのニュート・スキャマンダーを主人公にして、「ハリー・ポッター新シリーズ」とか「ハリー・魔法ワールド」などといって映画を5作も作ろうという強欲な企画の第2作。前作は、ハリー・ポッターとは違う舞台のニューヨークで、まったく別の話としてシンプルに作っていましたが、前作で新登場させた孤児のクリーデンスを重要なキャラに格上げし、そのクリーデンスを中核に据えて、ハリー・ポッターシリーズの終盤で語られたダンブルドアとグリンデルバルトの決戦に至るエピソード、言わばハリー・ポッターエピソード0を、あと3作もかけて描こうとする展開をしています。そのために、今回、すぐにダンブルドアがグリンデルバルトと直接対決しなくていいように(直接対決したら1作で終わってしまいますから)それができないわけを作り、ハリー・ポッターでヴォルデモートが飼っていた大蛇ナギニを人間として登場させた挙げ句に、この作品の中ではニュート側に配置し、他方前作でニュート・ジェイコブ側だったクイニー(アリソン・スドル)をグリンデルバルト側に走らせ、今後の紆余曲折で話を保たせようとしています。前作で消滅させられたはずのクリーデンスは説明もなくよみがえり、さらには、ハリー・ポッターでは弟のアバーフォースと妹のアリシアとの3人兄弟という設定だったダンブルドアにもう一人「アウレリウス」なる弟がいたことにされます。
 新たな展開と楽しめれば、いいんですけど、なんだか無理してこじらせねじれさせている感じがしますし、この作品自体、見ていて話がわかりにくく、なんといってもイメージが暗い。ハリー・ポッターファン向けのトリビアというか小ネタが多数仕込まれていて、それはそれで楽しめますけど、これで5作まで引っ張ると言われてもねという気持ちがどうしても前に出てしまいます。

2018年11月18日 (日)

人魚の眠る家

 脳死と推定される娘を最先端の技術で状態をコントロールし続ける夫婦の姿と思いを描いた映画「人魚の眠る家」を見てきました。
 公開3日目日曜日、新宿ピカデリースクリーン1(580席)午前10時15分の上映は、3~4割の入り。

 描いた絵を見せ、きれいなところを見つけたの、今度連れて行ってあげると微笑む6歳の娘瑞穂(稲垣来泉)を母千鶴子(松坂慶子)と妹美晴(山口紗弥加)に預け、夫の浮気を契機に別居中の夫和昌(西島秀俊)とともにお受験の模擬面接に臨んだ薫子(篠原涼子)は、瑞穂がプールで溺れたと知らされて、和昌とともに病院に駆けつけるが、医師(田中哲司)から、瑞穂は脳死状態と推定されると告知され、臓器提供の意思の有無を確認される。自宅に戻り、瑞穂が四つ葉のクローバーを見つけた際に、それが幸せを呼ぶから持ち帰ったらといわれて、瑞穂は幸せだからいい、他の人に残してあげると答えたことを思い出した薫子は、瑞穂なら他の人の役に立ちたいと考えるだろうと、いったんは臓器提供を決意した。ICUで、親族が集まり、瑞穂に別れを言う中、弟生人(斎藤汰鷹)がお姉ちゃんさよならと言ったときに瑞穂の手がピクリと動いたのを感じた薫子は、この子は生きていますと、臓器提供の意思を撤回する。障害を負った人の補助テクノロジーを開発する会社の社長である和昌は、自社の研究者から聞き及んだ情報に基づいて、横隔膜ペースメーカーを埋め込む手術で瑞穂に電気信号で呼吸をさせ、さらに脊髄への磁気刺激で手足を動かす技術を研究している星野(坂口健太郎)に信号で瑞穂の手足を動かすよう求めたが・・・というお話。

 何が子どものためなのかということを、素直にも、同時に覚めた目でも考えさせられる作品です。自分の意思を表示できない/できなくなった子どもの周囲で、それぞれが瑞穂ちゃんのためには、と思い、語り、それがある場面では頷け、ある場面では自己満足な身勝手な考えではないかと思える、その繰り返し、移り変わりが、味わいどころと思えました。場面は違うのですが、仕事がら、離婚事件で、裁判所も(裁判官も家裁調査官も)、双方の当事者も(父も母も)、代理人も(原告代理人も被告代理人も)、言葉としては未成年子のため(業界人の言葉では「未成年子の福祉」)と口をそろえつつ違う主張を闘わせる姿を想起しました
(-_-;)
 映画では、原作にあった薫子が夫との離婚をしないままに別の男と逢瀬を繰り返す場面や江藤雪乃ちゃんを救う会に潜入する場面(これは和昌が行くことに替える)など、読んでいて薫子に心情的に反発を感じやすい(私はそういう反発があり原作の薫子に入りにくく思いました)ところを切り落とし、プール事故前に瑞穂が薫子に絵を見せて微笑む美しいシーンを追加して、薫子を屈折した底意地の悪い女からまっすぐな女に作り替え、エンターテインメントとしてわかりやすくしています。原作で感じた、薫子の行為がいかにも金持ちの自己満足という印象が薄れ、子を持つ親の多くが思う悩みのように感じられます。その点、私には、むしろ映画の方がうまいように思えました。
 公式サイトのトップにある「娘を殺したのは、私でしょうか。」というキャッチに、すごく違和感があります。原作でも感じたのですが、瑞穂は生きていると主張し、寄り添い続ける薫子が、法的評価、国のお墨付きを求める問いかけをするクライマックスは、原作者の問題意識・問題提起がそこにあるとしても、母の行動・価値観・心情としてはあまりにも不自然に思えるのです。むしろ薫子の行動の流れからは、国がどう言おうが関係ない、私は瑞穂を守る、という主張が行動の基準となるはずなのに。薫子の行動、作品の全体の中では浮いて感じられるその場面での薫子の台詞を使ったキャッチは、作品全体の印象からかけ離れ、読む者をミスリードするだけだと思います。気を引きさえすれば、かまわないという感覚でこういったものが作られているとしたら、残念です。
 自分も親として、薫子の心情を思い泣かされるだろうと予想していたのですが、むしろ、子どもたち(瑞穂や、若葉や生人)の心情に涙ぐみました。

2018年11月 4日 (日)

スマホを落としただけなのに

 恋人がスマホを落としたことを契機にさまざまな被害に遭い危険にさらされるというSNSミステリー「スマホを落としただけなのに」を見てきました。
 公開3日目日曜日、新宿ピカデリースクリーン8(157席)10時40分の上映は9割くらいの入り。

 派遣社員の稲葉麻美(北川景子)が以前の派遣先の同僚で恋人の富田誠(田中圭)に電話をしたところ知らない男が出て、富田がスマホをタクシーの中に落としたことを知り、預けて置くからと言われて指定された店でスマホを無事に回収したが、その後、富田にはクレジットカードでの身に覚えのないショッピング代金の請求や、データを破壊されたくなければ身代金をよこせというランサムウェア感染などの異常が相次ぎ、麻美はSNSでかつての上司の知人と自己紹介しているネットセキュリティ業者に連絡し、その従業員の浦野(成田凌)に富田のスマホを見てもらい対策を施してもらう。対策が済んで安心したのもつかの間、今度は、麻美に、以前の派遣先での富田の上司からの執拗な誘いやSNSアカウントの乗っ取りと身に覚えのない投稿が相次ぎ・・・というお話。

 生活・仕事上の情報をスマホに集中し、連絡や情報収集などさまざまな場面でスマホに依存することが多くなっている現状の危うさを改めて実感させる作品です。そのことは、スマホに限らず、他のものであっても、1つのものにあまりに多くを依存してしまうと、それを失ったときのダメージが大きく、同じようなことになるわけです。この作品では、スマホを落としたという設定で、しかもパスワードを誕生日にしていたためにハッキングされたという描き方なので、どこか「自己責任」的な印象があり、システム自体の脆弱性とかメーカーや通信会社等には非難が向かないように配慮されていますが、能力のあるクラッカーの手にかかれば暗証番号をわかりにくくしても、またスマホを落とさなくても、ハッキングされるリスクというのは否定できないわけで、本当はもっと現代のシステムそのもののリスクに目を向けておくべきなのだと思いますが。
 この作品の秀逸なところは、スマホを落とした本人だけではなく、その恋人に被害・危険が及ぶというところにあります。そういう点では、自分に何ら落ち度がなくても、自分自身はスマホを落としたりしなくてもリスクがあり、そういう社会なのだという警告にもなっています(でも、それを考えても、非難はスマホを落とした個人に向けられるように作られています)。

 富田のスマホを拾って富田と麻美に攻撃を仕掛ける、連続女性殺人事件の犯人が、異常に気が短いというかいらだつとすぐ気ぜわしく足踏みをし手を震わせる様子が執拗に描写され、短時間しかふつうの社会人の態度をとれない(装えもしない)という戯画的な設定となっています。犯罪者は、ふつうの人とはまったく違う異常な人物だと言いたいのでしょうけど、エンタメだし犯罪者は自分たちとはまったく違う人間だという設定で安心して見せたいのでしょうけど、安易な感じがします。
 そして、犯人が長い黒髪の女性の下腹部を執拗に刺して殺す原因が、幼い頃に母親(黒髪の女性)から「あんたなんか産まなきゃよかった」と言われたことへの恨みとされます。その母がどうしてシングルマザーになったのか(父親はどこでどうしてる?)、母親がそこに至るまでにどのような苦労をして息子を育ててきたか、どういう経緯と思いでそのような言葉を発するに至ったかは何一つ描かれません。あくまでも無責任で身勝手な母親の心ない言葉と描きたいようです。母親のみなさん、どんな事情があれ、子どもを産んだ以上は育てる義務があります、子どもに心ない言葉をかけてはいけません、そうでないと犯罪者が生まれ社会に迷惑です、そう言いたいのでしょうか。

 知人の名をかたってヤミ金融から借金を繰り返し債務が1000万円にもなったということが、重要な設定となっています。事業者(自営業者)から手形や取引先への債権(売掛債権)の譲渡証書を書かせるなどして数百万円単位の金を貸すヤミ金融はありますが、ふつうの勤労者個人にはヤミ金融はせいぜい数十万円しか貸しません。それにヤミ金融は、まぁヤミ金融自体個人なのでいろいろいるとは思いますが、貸付に際して本人だけじゃなくて勤務先はもちろん親や兄弟などの名前と連絡先などをたくさん書かせるのがふつうです。返さなかったらそういうところへも追い込みをかけるぞというのが、ヤミ金融にとっての担保になるわけです。知人であってもそういう情報はふつうさらさらと書けませんから、知人の名をかたってヤミ金融から借入をするというのは、そう簡単ではないと思うのですが。

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