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2017年10月15日 (日)

愛を綴る女

 意に沿わぬ結婚をし愛を求める女の熱情を描いた映画「愛を綴る女」を見てきました。
 封切り2週目日曜日、全国7館東京で2館の上映館の1つヒューマントラストシネマ有楽町シアター1(161席)午前9時50分の上映は2~3割の入り。観客の年齢層は高め。

 南フランスのラベンダー農家の娘ガブリエル(マリオン・コティヤール)は、教師に惚れ熱烈なラブレターを渡すが突き放される。ガブリエルの奔放さを持て余した母は、ガブリエラを精神科医に診せ、雇っていた労働者のジョゼ(アレックス・ブレンデミュール)と結婚させる。ガブリエルは、ジョゼに「あなたを絶対に愛さない」と宣言、ジョゼも「俺も愛してない」と応じた。流産し、その原因が腎臓結石と診断され、医師に温泉療法を勧められたガブリエルは、逗留先で尿毒症が進んだ帰還兵のアンドレ・ソヴァージュ(ルイ・ガレル)と出会い、その病室に足繁く通い・・・というお話。

 情熱に突き動かされ奔放に行動するが、思いは満たされないガブリエルの焦燥感、渇望感と、「愛していない」と言いながら妻の行動を見守るジョゼの露わにしない献身、包み込むような愛情が描かれています。
 それをシンプルに見せるためか、原作の重要な設定である主人公(原作では名前は示されず「祖母」、映画ではガブリエル)の創作意欲、詩作と様々なことを手帖に書き込む姿、主人公と夫の奇妙な/ぎこちない夫婦生活、帰還兵の読書と新聞朗読と主人公への質問などをそぎ落としています。その結果、原作では、娼婦にやらせていたことの代わりを務めるだけの性生活、話をしても上の空で質問にまともに答えない夫への不満、他方において帰還兵は主人公の創作を理解し主人公の意見を聞きたがり尊重してくれるということから主人公が帰還兵に惹かれていったのに、映画では主人公が何故夫に心を許さず帰還兵に惹かれたのかがよくわからない、主人公の気まぐれな情動と見えてしまいます。原作でも映画でも、主人公はわがままで気まぐれなのですが、それでも自分の生き様・大切なものを理解してくれるという信条と心情が基盤になっているのと、それがない直感的なものだけというのでは、主人公の評価、主人公への共感はずいぶん変わってくるんじゃないでしょうか(映画は、主人公をより気まぐれでわがままと描いた方が「ジョゼの愛と献身」をイメージさせやすいと考えたのでしょうけど)。
 また、ラストは、原作がぼかし気味に示唆するにとどめた帰還兵と主人公の真実を、隅々まで(観客が想像をめぐらす余地がないほど)説明しています。これもまた、ジョゼの愛と献身を明確にするためですが、その分、原作にあった余韻はありません。
 総じて、原作の複雑さ、曖昧さ、登場人物の陰の部分などを排して、人物像を純粋にしてストーリーもシンプルにしていて、原作を読み終わったときの印象と映画を見終わったときの印象はかなり違う気がします。予告編で「ミレーネ・アグスのベストセラー小説『祖母の手帖』を完全映画化!」と銘打っているのですが、これだけ変えて「完全映画化!」って、どうかと思う。

 最初の方で、ガブリエルが川に入り腰まで水に浸かっているシーンがあり、スカートをたくし上げてもやっとしたアンダーヘアが見えるのが、きれいなんですが艶めかしくもあり鮮烈な印象を残します。しかし、このシーンが何をしているのかよくわからない。公式サイトの監督インタビュー(Q&A)で、監督は、「冒頭のシーンで、ガブリエルが川の水のなかに入り、スカートがめくれて水中で彼女の性器があらわになる。それこそ私が見せたかったことなの。クールベの描いた〝世界の起源〟ね。それが、この映画のテーマなの。」と答えていますが、ただマリオン・コティヤールの性器を見せたかったと?(見た印象では「性器があらわになる」という感じではないのですけど、日本版では若干カットされているのでしょうか)

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