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2017年7月

2017年7月30日 (日)

君の膵臓をたべたい

 膵臓の病で余命数か月の少女とそれを知ることになった地味な同級生の交歓を描いた映画「君の膵臓をたべたい」を見てきました。
 封切り3日目日曜日、新宿ピカデリースクリーン2(301席)午前10時50分の上映は8割くらいの入り。

 教師となり6年目に母校に赴任してきた教師志賀春樹(小栗旬)は、伝統ある図書室の建て替えに際して図書の整理を任される。図書委員栗山(森下大地)からこの図書ラベルを全部整理した図書委員は志賀先生なんですってねと話しかけられた志賀は、あぁ、もう一人迷惑な補助がいたが、と話し、12年前を回想する。病院の待合で拾った本を開けると「共病文庫」と題して膵臓病であと1年も生きられないと記されているのを読んで呆然とした「僕」こと志賀春樹(北村匠海)は、クラス一の人気者の同級生山内桜良(浜辺美波)から、それ私の、中身読んだねと話しかけられ、だれにも話さないことを求められる。翌日から桜良は図書館で本を整理する「僕」のそばで、いい加減なラベルを貼って、探すのに少しくらい苦労した方が宝探しみたいでいいでしょなどと言ってみたり、デートに誘ったり、挙げ句の果ては一緒に旅に出たいと言い出す。戸惑う「僕」に桜良は、君は私に真実と日常を与えてくれる唯一の存在だ、医者は(残酷な)真実しか与えてくれない、両親は日常を取り繕うのに精一杯だ、親友の恭子(大友花恋)に病気のことを言ったら両親と同じようになってしまう、恭子とのふつうに馬鹿を言ったり楽しく過ごす日常を失いたくない、と答え・・・というお話。

 余命数か月の高校生が、死の恐怖を隠し、同級生に、そして真実を知る「僕」にも見せる満面の笑み、残された短い日々を腫れ物に触るようにではなくふつうの日常として送りたいという思い故にではあっても、余命幾ばくもないことを医者と両親と「僕」以外には知らせないと決意し淡々とそれを実行してみせる強さ、当然叫びたくなるほど怖いに決まっているのにそれを見せず、人間はいつか死ぬし病気でなくても明日死ぬかもしれない、一日の貴重さは私も仲良し君も同じとうそぶいて強がる様子に、もともと難病ものに弱い上に、近い世代の娘を持つ私には、いじらしくて切なくて、涙腺が緩みます。
 浜辺美波の笑顔がとても魅力的です。もちろん、作品の設定上、本当は悲しくて怖くて仕方がないはずなのにそれを隠しての笑顔という見方をすることが強く影響しているのですが、私のツボにはまった感じです。主演女優の笑顔の魅力で印象に残っている「言えない秘密」(2007年。日本公開は2008年)のグイ・ルンメイ、「モテキ」(2011年)の長澤まさみにも匹敵すると、思いました。浜辺美波の笑顔以外も含めたビジュアルが大変美しい作品だとも思いますが。

 誰かを好きになる、誰かを嫌いになる、誰かと手をつなぐ、誰かとハグをする、それが生きるということ。一人じゃ、自分がいるってわからない。好きだけど嫌い、一緒にいて楽しいけど鬱陶しい、そういう人と私の関係が私が生きているってことだと思うって、高校生に言わせちゃうところがすごい。
 他方、桜良に私が本当は死ぬのがめちゃくちゃ怖いって言ったらどうする?と聞かれて黙り込む「僕」。安易な答えはしたくないということかもしれませんが、どうかなぁ。そんなの当然じゃないか、だれだってもうすぐ死ぬって知ったら怖いよ、桜良がその恐怖を乗り越えて笑ってるのはすごいと思う、でも怖かったら泣いていい、叫んでいい、「僕」はそういう桜良をまるごと受け止めたい、とか言えないかなぁ・・・

 最初のデートの日、桜良が「僕」の初恋の人のどこを好きになったか問い詰めて何でも「さん」付けする人であらゆるものに敬意を持ってるんだと感心してという答えに好きになった理由が予想外によかったと感心し、後日クラスでも一人で本に向き合っている強さに関心を持っていたと言ってみたり、元彼の委員長は見かけだけでネチネチとして度量が狭かったと言い委員長の陰湿さを描き出し、また恭子の結婚相手の選択など、全体を通じて、人の価値は見かけじゃないよというメッセージがちりばめられています。
 それにもかかわらず、福岡のホテル(ヒルトン福岡シーホーク)のスイートルームでの「真実か、挑戦か」ゲームで、桜良がクラスで一番かわいいのは誰か、自分は何番目にかわいいかと、自分は見かけで評価しないと答えている「僕」に対して、見かけを聞いてるのと言いつのってまでこだわりを見せるのは違和感がありました。

 病室での最後の「真実か、挑戦か」で桜良が「僕」に聞きたかったことも、期待を持たせた割には、肩すかし感があります。
 桜良と「僕」の関係を「恋人ではない」と位置づけることへのこだわりがあり(原作との関係でそれは譲れない線かもしれませんが)、桜良が「僕」に私を彼女にする気はないねと確認した挙げ句に、死ぬ前にしたいことリストの最後を「恋人でない男の子といけないことをする」としています。でも、そこは桜良は「僕」に思い直させて告白して/させて、「好きな人とHする」にしたかったんじゃないかと思うのですが、それは通俗的解釈に過ぎるでしょうか。

 現在と12年前が行き来する構成を、現在(茶系)と12年前(紺系)で制服を変えることで、一目で時代がわかるようにされています。手紙やスマホの画面(メール、ライン)が写るときも、ほぼ全部ナレーションをつけて読み上げています。近年、スマホの画面の文字映像を写して観客に読ませる作品が多く、視力の落ちた私には字幕よりさらに読みにくくて苦労していますので、こういう配慮はとても助かります。そういう面で観客に優しい作りになっていることも感心しました。

2017年7月23日 (日)

怪盗グルーのミニオン大脱走

 「怪盗グルー」シリーズ第3弾の映画「怪盗グルーのミニオン大脱走」を見てきました。
 封切り3日目、TOHOシネマズ新宿スクリーン7(407席)午前9時30分の上映は5割くらいの入り。USJでは2017年4月21日の「ミニオン・パーク」オープンを始めこの夏の主役となっているミニオンたちの勢い、世界興収では第1作「怪盗グルーの月泥棒」(2010年)が5.431億ドルで歴代154位、第2作「怪盗グルーのミニオン危機一髪」(2013年)が9.708億ドルで歴代32位、スピンアウト作品の「ミニオンズ」(2015年)が11.594億ドルで歴代13位、この作品も全米公開3週目の2017年7月18日現在ですでに6.224億ドルで歴代119位にランクインしていることからすると、予想より不入り。日本での興行成績ではいずれも歴代100位に入れず、第1作が2010年の41位タイ(12.0億円)、第2作が2013年の21位(25.0億円)、「ミニオンズ」が2015年の6位(52.1億円)止まりなので、日本ではそれほど期待できないともいえますが。笑いのツボが違うということでしょうか(私には、同様に笑いのツボがずれているように感じられるパイレーツ・オブ・カリビアンシリーズは、日本でも大ヒットしているので、そういうことでもないかと思いますが)。

 泥棒稼業から足を洗い、ルーシーと結婚したグルーは、反悪党同盟の捜査官として、1980年代に子役として人気を博したが番組を打ち切られてすねて泥棒になったバルタザールを追っていたが、目の前で世界最大のダイヤモンドを盗まれて取り逃がし、ルーシー共々反悪党同盟から解雇されてしまう。グルーの解雇を知ったメルらミニオンたちはグルーが泥棒に戻ると期待して大騒ぎするが、グルーは泥棒には戻らないと宣言し、ミニオンたちは失望して出て行く。失意のグルーの元にグルーがその存在を知らなかった一卵性双生児の兄弟ドルーから連絡があり、グルーの母と別れた父が大泥棒でドルーにそれを継ぐことを期待していたが亡くなり、グルーに父を継いで欲しいとして父の遺産の様々な装備を提供した。グルーは、それを利用して再度バルタザールに挑むが・・・というお話。

 グルーとルーシーの夫婦愛、グルーと娘たちの親子愛の物語と、ミニオンたちのコミカルさが売りなのだと思いますが、グルーをめぐるストーリーと、ミニオンたちの流れが別々で統合されない感じが残り、そこが今ひとつかなと思いました。
 バルタザールが音楽に乗って踊ったり戦うのに、カセットテープを使うのが、新鮮というか・・・今どきカセットテープを再生できる端末がどれだけあるのか・・・もちろん音楽も1980年代で、私のようなおじさんには懐かしいのですが、そういう世代を客層に狙ってるわけではないでしょうに。

2017年7月16日 (日)

パイレーツ・オブ・カリビアン 最後の海賊

 ディズニーランドのアトラクション「カリブの海賊」からひねり出した映画の第5弾「パイレーツ・オブ・カリビアン 最後の海賊」を見てきました。
 封切り3週目日曜日、新宿ピカデリースクリーン2(301席)午後1時25分の上映は、ほぼ満席。

 沈没船「フライング・ダッチマン」号に閉じ込められた父ウィル・ターナー(オーランド・ブルーム)を救うために必要な「ポセイドンの槍」を探し求めるウィルの息子ヘンリー・ターナー(ブレントン・スウェイツ)は、イギリス軍の船員となりジャック・スパロウを探していたが、船が「魔の三角水域」に入り込み、呪われた亡霊海賊サラザール(ハビエル・バルデム)に襲われ、呪いを解くためにジャック・スパロウのコンパスを求めていることを知らされ、ジャック・スパロウを探すように言われる。顔も知らぬ父から受け継いだガリレオ・ガリレイの日記の謎を解こうとしている孤児の天文学者カリーナ・スミス(カヤ・スコデラリオ)は、その知識故に「魔女」と疑われ、追われていた。島で新たな銀行のお披露目の日、金庫の中から泥酔状態で現れたジャック・スパロウ(ジョニー・デップ)は、仲間の海賊たちに馬で金庫を引かせて銀行強盗を企て・・・というお話。

 ヘンリーと父親のウィル、カリーナとその父の、2組の父子の絆、愛情を軸にしたアドベンチャー作品です。
 ジコチュウで無責任なジョニー・デップ(ジャック・スパロウ)が狂言回しを務めていますが、ジャック・スパロウとサラザールとイギリス海軍が対立する世界という舞台を作っているもので、この作品の主役はヘンリーとカリーナとみるべきだろうと思います。
 それでも、ジョニー・デップの無責任でおちゃらけた対応がおもしろい、ギャグだと感じられるか、うっとうしいだけで笑いのツボも外してると感じるかで、作品への評価は大きく変わるだろうと思いますが。

 公式サイトのトップページにある「これまで決して明かされることのなかったジャック・スパロウ誕生の瞬間―― 『パイレーツ・オブ・カリビアン』最大にして最高の謎が、ついにベールを脱ぐ!」という宣伝文句。シリーズのファン、ディズニーに忠実なファンには、そうなのかなぁとは思いますが、いや、これが、シリーズ「最大にして最高の謎」?
 あらゆる宣伝文句が、誇大で、言葉の重みというのが感じられない、という印象を持ちます。

 サブタイトルの「最後の海賊」。予告編では「最後の冒険が、ついに始まる」、公式サイトのイントロダクションでも「すべての謎が明かされる<最後の冒険>が、ついに幕を開ける!」とされています。原題は“ Pirates of the Caribbean: Dead Men Tell No Tales ” で、サブタイトルは「死人に口なし」。「最後」という言葉はどこにもありません。エンドロールのラストにほのめかし映像があり、続編制作が示唆されています。こういう状態で、いかにもこれが最終作みたいな宣伝をする日本の興業サイドのやり方には強い疑問を感じます。
 もともとシリーズ化を予定していなかったけど、第1作(2003年)が大ヒットしたので、3部作と言い出し、第3作(2007年)が終わった後から、未練がましく第4作(2011年)を作りさらにこの第5作(2017年)に至った経緯からして、稼げる限り前言など気にせずに翻すことは観客もわかっているはずということかもしれませんが、私には詐欺的で恥知らずな姿勢に思えます。

2017年7月 9日 (日)

ヒトラーへの285枚の葉書

 ヒトラー政権下のベルリンで平凡な夫婦がペンとカードのみで試みた抵抗の記録を映画化した「ヒトラーへの285枚の葉書」を見てきました。
 封切り2日目日曜日、全国6館東京で2館の上映館の1つヒューマントラストシネマ有楽町シアター1(161席)午前10時50分の上映は5割くらいの入り。観客の年齢層は高め。

 1940年6月、工場の職工長のオットー・クヴァンゲル(ブレンダン・グリーソン)と妻アンナ(エマ・トンプソン)の元に一人息子のハンスが戦死したという軍事郵便が届いた。やり場のない悲しみと怒りに打ちひしがれたオットーは、カードに「総統は私の息子を殺した。あなたの息子も殺されるだろう」などのメッセージを記し、街中の各所に置き始めた。カードを見て届けた市民の通報を元にエッシャリヒ警部(ダニエル・ブリュール)は捜査を始め、カードが置かれた場所から居住域を絞り一人息子が殺された父親を探し続けるが・・・というお話。

 オットーの息子ハンスは戦死したというだけで、その死は、別段、「ナチスの戦争」「ヒトラーの戦争」に特有のものではないように見受けられます。
 ヒトラー親衛隊の奢りのさばる様子、ユダヤ人を密告する者たちの略奪/窃盗行為と卑しさ、人道的な/良心の呵責を持つ者の社会的地位の危うさ、ヒトラーに従わない態度自体の甚だしいリスクといった「世情」が描かれ、それがヒトラーとその体制への反発/抵抗へとつながったという面はあると思いますが、オットーとアンナの思いは、ナチスではなくても、戦争一般への反対に通じるものであったと考えられます。
 オットーは、公式サイトで繰り返されている「労働者階級」ではありますが職工長というむしろ管理者の立場にあり、それまでは反体制の意識は持っていなかったと考えられます(そこははっきり描かれていないと思いますが)。アンナは国家社会主義女性同盟の活動で募金や労働奉仕を求めて戸別訪問するという体制側の人でした。そのもともと反体制派でない夫婦が、一人息子の戦死を機に反戦に目覚め、組織的基盤もなく個人の創意工夫で権力に抵抗するというところが、この作品のポイントになっています。

 それとともに、オットーが決意したペンとカードによる抵抗運動に、アンナが自分も同行すると言い、アンナ自身も実行するに至る、その過程でオットーはアンナを巻き込むまいと気遣い、アンナはオットーのピンチを救うべく立ち向かう、命の危険を賭けた夫婦の心情、夫婦愛が、第2のテーマであり、終盤の法廷で手を握り合う二人の姿が見せ場だと、私は思います。
 二人の抵抗の実践の経緯は、夫唱婦随的な色彩が強いのですが、アンナは国家社会主義女性同盟の活動でヒトラー親衛隊幹部の妻に対しても労働奉仕しないのはおかしいと詰め寄る一本気な強さが描かれていて、ただ夫に従った妻というのではない位置づけもいい感じです。

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