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2017年5月

2017年5月28日 (日)

光をくれた人

 孤島の灯台守夫婦の元に流れ着いた乳児を自らの子として育てる流産直後の妻と規則違反を後ろめたく思いつつ押し切られる夫、行方不明の乳児を思い涙に暮れる母の葛藤を描いた映画「光をくれた人」を見てきました。
 封切り3日目日曜日、TOHOシネマズシャンテスクリーン1(224席)午後7時の上映は2割くらいの入り。

 第1次世界大戦に従軍し地獄を見ながら生き残ったトム・シェアボーン(マイケル・ファスベンダー)は、1918年、前任者が心を病んで休職した絶海の孤島ヤヌス島の臨時灯台守に志願した。3か月後、本土のパルタジョウズに呼ばれ、前任者が自殺したため正式に3年任期で赴任することを求められたトムは、地元の名士の娘イザベル(アリシア・ヴィキャンデル)からピクニックに誘われ、ヤヌス島に連れて行ってくれと言われる。文通を続けるうちにトムはイザベルに心を開くようになり、パルタジョウズの町で結婚式を挙げ、2人はヤヌス島で水入らずの新婚生活を送った。イザベルはトムの子を身ごもるが1921年の嵐の夜に流産してしまい、2年後の1923年春にもまた流産した。2度目の流産の直後、男の遺体と乳児を乗せた手こぎボートがヤヌス島に漂着した。信号で報告しようとするトムをイザベルは止め、この子を自分の子として育てると言い張り、情にほだされたトムもボートの件を報告せず、イザベルが予定より早く出産したと虚偽の報告をする。2年後に、ルーシーと名付けた娘の洗礼式でパルタジョウズを訪れたトムは墓地で涙する女性ハナ・ポッツ(レイチェル・ワイズ)の姿を見、海に消えたドイツ人の夫フランクと乳児グレースの悲劇を知った。良心の呵責に耐えかねたトムは・・・というお話。

 戦場で地獄を見て老けて生気のない表情のトムが、積極的なイザベルに心を開き明るく若々しくなり、イザベルとルーシーに囲まれ和らいでいく様子、そしてハナの存在を知り身構え思い詰めていく様子、明るく行動的なイザベルが流産して打ちひしがれ、ルーシーを得て輝きを取り戻し、ルーシーを失って無気力になる様子の、対比・起伏が印象的です。トムとイザベルの甘い新婚生活の描写が、その後の不幸/暗転を際立たせています。光を絞った暗がりの映像と光あふれる映像、荒れる海と青空、夕陽の美しさなどの映像の対比も効果的に使われている感じです。
 育ての親(イザベル)と生みの親(ハナ)の対立・葛藤が、テーマではあるのですが、私には、むしろ、規則・法に背いて妻への情にほだされたものの良心の呵責に耐えかねた夫と、子を失った(流産した)悲しみから目の前の乳児にしがみついた妻の、夫婦のありよう、(できた子どもは、もちろんかわいいのだけれども)子ができないときに夫婦水入らずでしみじみ暮らすという選択はそれほどに魅力的でないのか、妻をかばって罪をかぶる夫の姿勢は悲しみに打ちひしがれる妻には評価されないのかなどの方が、考えさせられます。

 トムがイザベルに出会う前のパルタジョウズに向かう船の中でハナを助けたエピソード、ハナの妹のグウェンがハナに内緒でルーシー/グレースをイザベルに会わせたエピソードなどが落ちていますが、概ね原作通りに展開しています。
 印象としては、イザベルと引き離されたルーシーのわめきぶりが原作のイメージよりは弱い感じがしますし、後半でのトム、イザベル、ハナそれぞれの葛藤が原作よりはシンプルに描かれているように思えます。監督の方針として過剰な演出を嫌ったのかもしれませんし、上映時間の制約から後半の描写を絞ったということかもしれません。原作を先に読んだためでしょうけど、そのあたりはもう少しそれぞれの心の揺れ・葛藤を描き込んで欲しかったなと思います。

2017年5月21日 (日)

メッセージ

 地球上に12か所現れた浮遊物体を通じてエイリアンとの会話を試みる言語学者とエイリアンの発するメッセージを描いたSF映画「メッセージ」を見てきました。
 封切り3日間日曜日、TOHOシネマズ新宿スクリーン7(407席)午前11時40分の上映はほぼ満席。

 ある日、モンタナ州(アメリカ)、中国、ロシア、スーダン、北海道など世界各地の12か所に長さ約450mに及ぶ巨大な長楕円盤状の浮遊物体が現れた。言語学者ルイーズ・バンクス(エイミー・アダムス)は、理論物理学者イアン・ドネリー(ジェレミー・レナー)とともにモンタナ州の浮遊物体でエイリアンの言語を分析してエイリアンの目的を解明することを要請された。18時間おきに2時間の間浮遊物体の下部が開き、透明の隔離壁越しにエイリアンとの面接が可能となっていた。ルイーズとイアンは、現れる2体の7本脚(ヘプタポッド)のタコ型エイリアンをアボットとコステロと名付け、エイリアンが肢先から発する煙状の物質を用いて描く環状の文字の解読を試みるが・・・というお話。

 得体の知れないエイリアンとの面接に臨むという使命をあまりにもあっさりと受け入れるルイーズの姿/職業意識の高さに、私はまず胸を打たれましたが、そこはごく淡々と描かれています。
 この作品では、当然のことながら遅々として進まない解明作業に倦まず数十回の面接を続け、エイリアンとの信頼関係を作りコミュニケーションを図ろうとするルイーズの冷静さと粘り強さを、不気味なエイリアンへの疑心と恐怖心に煽られて攻撃を主張する軍人や民衆と対比させ、恐怖を煽りまた疑心から好戦的な対応をとることを戒め、平和的な解決へと粘り強い/地道な対応をすることの価値を示しているように思えます。終盤で、中国が先行し、ロシアとスーダンがそれに続いてエイリアンへの宣戦布告をし、またデータ交換を拒否するという展開は、アメリカと中国・ロシア・スーダンは、お互いをエイリアンよりもさらに信じられないのかという疑問を提起しているのだと思いますし、ルイーズが解いたエイリアンのメッセージは人類が協力し合うことの大切さを示しています。
 SFとしての部分は、最初に示される、もし時が流れるものでなかったらという問いかけがキーポイントになっていますが、エイリアンとのミッションの「現在」の合間に度々挟まれるルイーズと娘と過ごす日々の喜びと切なさがうまくストーリーに織り込まれて心に染みるようになっています。また、ルイーズのイアンに対する、もし未来がわかったら選択を変えるかという問いかけは、人生論として、重いものがあります。もっとも、その時間をめぐる部分は、原作よりしかけが多用され、その分数々の疑問を呼び起こしますが。

 原作では、エイリアンの登場とエイリアンとの交信はごく淡々と描かれ、アメリカ以外の国の対応やエイリアンへの宣戦布告などの政治的対応はまったく描かれず、エイリアンは、人間の科学・数学への信頼/過信に対してまったく違うアプローチがあり得ること、人間がすでに常識として疑わない現在の物理学や数学の基本定理/公式も当然ではないのではないかという文明論的な問題提起の道具となっています。映画は、エイリアンと宇宙船をより神秘的に描き、原作にないエイリアンへの宣戦布告などを入れることで政治的なメッセージを追加しています。映像表現による驚きも含め、映画作品の方が感動的になっています。
 基本的な設定と展開は原作に沿っていますが、大きいところでは、原作ではエイリアンに対して宣戦布告をする中国やロシアなどの動きが全くないことのほかに、原作では姿見( looking glass )と名付けられた高さ10フィート(約3m)幅20フィート(約6m)程度の小さな交信スペースがアメリカに9か所世界に112か所現れるというのが、映画では巨大な宇宙船が12か所現れることになり、原作ではエイリアンは円盤状のディスプレイに文字を示すのに、映画では肢先から出す煙状の物質で空間に文字を示す(イメージ的にはハリー・ポッターふう)、原作では物理学・数学サイドからの解明の方が進みそこで人間の物理学・数学の常識への文明論的な問題提起がなされるのに対し、映画ではそこはほとんど登場しない(言語学者とともに物理学者が参加している意味が、映画ではほとんど不明)などの違いがあります。小さいところでは、物理学者の名前(原作ではゲーリー)、ルイーズがつけたエイリアンの名前(原作ではフラッパーとラズベリー)、ルイーズの娘の名前の明示(原作では最後まで「あなた」、映画ではハンナ:Hannah )、ルイーズの娘の死因(原作では山岳での遭難、映画は癌に思える病死)、ルイーズの離婚の原因(原作では明示されず、映画では・・・これはさすがにネタバレが過ぎるか)、映画では印象的な小道具となる娘の絵「動物と話すパパとママ」が原作にはないなどの違いがあります。全体としての作品の印象は、かなり違っているように思えます。

2017年5月14日 (日)

ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス

 マーベルのアメコミを映画化したSFアクション映画「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス」を見てきました。
 封切り3日目日曜日、新宿ピカデリースクリーン6(232席)午前10時35分の上映は9割くらいの入り。前作(ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:2014年)は、全米歴代47位、世界歴代70位とそれなりにヒットしたものの、日本では興収10億7000万円で(歴代ではなく)2014年の41位止まり。1週早く公開したアメリカでのオープニング興収は前作の154%だそうですが、どの程度まで伸ばせるでしょうか。

 前作で対立しながらもチームを組んだ宇宙のこそ泥ピーター・クイル(クリス・プラット)、暗殺者ガモーラ(ゾーイ・サルダナ)、マッチョ男ドラックス(デイヴ・バウティスタ)、凶悪なアライグマのロケット(声:ブラッドリー・クーパー)、前作で破壊され小枝から1フィート足らずに育ったベビー・グルート(声:ヴィン・ディーゼル)らは、高飛車な黄金の惑星の指導者アイーシャ(エリザベス・デビッキ)に雇われて宇宙怪物と戦ったが、ロケットが電池を盗んだことからアイーシャの怒りを買い、総攻撃を受ける。クイルらが逃げる途中、謎の男エゴ(カート・ラッセル)がアイーシャの軍団を壊滅させてクイルらを守り、不時着した宇宙船を追って現れて、クイルの父だと名乗る。ロケットとベビー・グルートを残してエゴの惑星を訪れたクイル、ガモーラ、ドラックスは、エゴが作り上げた平和な世界に驚き、ドラックスは触れると感情を読み取ることができるエゴの従者マンティス(ポム・クレメンティエフ)と微妙な関係になる。不時着大破した宇宙船を守っていたロケットらは、海賊ヨンドゥ(マイケル・ルーカー)らに捕まるが、海賊の宇宙船内で対立が起こり・・・というお話。

 破天荒で身勝手なキャラクターがいがみ合いながらもいつしか仲間意識を持ち、協力して戦い、敵に捕まった仲間を救おうとするという、「友情」がテーマになっています。
 そして、これに、クイルの出自と母親への愛情、父親探し、「育ての親」ヨンドゥとの絆、ガモーラの妹ネビュラ(カレン・ギラン)との愛憎複雑な思いといった「家族愛」が付け加わります。同じくディズニー傘下となったスター・ウォーズ同様に宇宙人の特異なキャラ、宇宙を舞台としたアクションで映像を作りながら、家族・血統の物語を色濃くする手法がとられています。ヨンドゥの終盤の使い方は、スター・ウォーズエピソード7でのハン・ソロのように見えましたし、仲間を「家族」という、近年では「ワイルド・スピード」シリーズを意識させる発言も見られます(ワイルド・スピードシリーズの主役ドミニク役のヴィン・ディーゼルが、自身には「俺たちは家族だ」という台詞はないものの出演しているのは、ご愛敬、なんでしょうか)。そういう、ヒット作品をあちこちかじったような構成が「リミックス」なんでしょうか。
 映像的にはテーマ・パークのアトラクションのイメージが色濃くありました。特に、アイーシャ軍団の遠隔操作攻撃は、ゲーセンのシューティングゲームを大会場にブースを並べてやっているようですし、クイルらが乗る宇宙船からの景色はいかにもテーマ・パークの映像系アトラクションのようです。
 エンド・ロールの間に何度も映像が入りますが、いずれも、続編を作るぞ、作るぞ、作るぞとただアピールするもので、垢抜けないなぁと思いました。

2017年5月 7日 (日)

カフェ・ソサエティ

 ウディ・アレン監督の新作「カフェ・ソサエティ」を見てきました。
 封切り3日目日曜日、TOHOシネマズ新宿スクリーン6(117席)午前10時10分の上映は7~8割の入り。

 ニューヨークのユダヤ人家庭に生まれた平凡でうだつの上がらない青年ボビー(ジェシー・アイゼンバーグ)は、母がハリウッドのやり手のエージェントの叔父フィル(スティーブ・カレル)に頼み込んだ結果、フィルの元で雑用係として働くようになりハリウッドの名士たちに紹介してもらいながら、フィルの秘書ボニー(クリステン・スチュアート)を見初めた。ボニーが交際を続けていた男に別れを言い渡されて落ち込んでいたのを機に2人は関係を深め、ボビーは、ニューヨークに戻り兄のベン(コリー・ストール)の経営するナイトクラブで働くことにしてボニーに結婚して一緒にニューヨークに来てほしいとプロポーズした。2人の関係はうまくいきそうだったが、憂い顔で座り込んでいるフィルから妻と離婚することを打ち明けられたボビーは、それをボニーに右から左に話してしまい、雲行きが怪しくなって・・・というお話。

 女優志望でハリウッドに職を求めたが芽が出ない女性と、ロスでは成功できない一青年が恋をして、後日女性は映画界の実力者と結婚、青年は自分の店を持ち一定の成功をしたところで、2人が再会し、あったかもしれない2人の関係を想起して切ない思いを持つという、まるでラ・ラ・ランドを思わせる設定とラストです。かつての恋愛でのあのときこうしていればというノスタルジーは、特に中高年観客には、鉄板のテーマともいえ、それでも(ラ・ラ・ランドを見た後であっても)甘く切ない思いは持つのですが。
(作品の公開は、この作品の方が、2016年5月のカンヌ国際映画祭で上映されていて、2016年8月のヴェネツィア国際映画祭が初上映のラ・ラ・ランドより早いのですが、ラ・ラ・ランドの脚本は2010年には書かれていたとされているようですし、両者の関係については、私は判断を避けておきます)
 確固たる価値観や信念も感じられず、自らの力と努力ではなく叔父の力と人脈、兄の経営するナイトクラブの承継という他人任せで成功した(もっとも店を繁盛させたのは人脈を築く力があったからということでしょうけど)中身のなさそうな軽い(口も軽い)青年と、私が以前からあまり好感を持てないクリステン・スチュアートの組み合わせなので、内容の類似性とオリジナリティの帰趨とは別に、ラ・ラ・ランドより素直に切なさを感じにくく思えました。

 「あの女優は誰と寝てもいい役を得られない」という台詞が出てきます。まぁハリウッドでは、日常会話なんでしょうね。でも、クリステン・スチュアートが、主役を得た「スノーホワイト」(2012年)の監督ルパート・サンダースとの間で不倫をしたという報道があり(監督側は不倫の事実を認めているそうな)、続編「スノーホワイト/氷の王国」(2016年)では監督は交代、クリステン・スチュアートも出演しなかったことを考えると、意味深です。その台詞に続いて、「水着姿を見たけど、脚が太すぎる」とあるのが、「クリステン、君のことじゃないからね」というウディ・アレン監督の言い訳のように聞こえます。(クリステン・スチュアートが水着姿で脚が太かったら、さらに笑えますけど。ちなみに日本では来週(2017年5月12日)公開の「パーソナル・ショッパー」では、クリステン・スチュアートが水着に近い黒い下着で登場するシーンが、予告編にあります (^^;)

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