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2017年4月

2017年4月30日 (日)

ワイルド・スピード ICE BREAK

 ワイルド・スピードシリーズ第8弾「ワイルド・スピード ICE BREAK」を見てきました。
 封切3日目日曜日、TOHOシネマズ日劇スクリーン1(944席)午前10時45分の上映は、なんと1~2割の入り。2週前(2017年4月14日~)の公開初週末に世界興収でオープニング興収歴代1位の新記録を作った超話題作ですが、アメリカでは今一つ振るわず、日本では不人気なこのシリーズ(前作「ワイルド・スピード SKY MISSION」が、世界興収歴代6位なのに、全米では歴代38位、日本ではなんと歴代100位圏にも程遠く、35.4億円の興収は公開年の2015年の年間ランキングでさえ13位どまり)、またしても寂しい結果に終わって日本市場の特殊性を印象付けることになるかも。

 前作でファミリーに完全復帰した恋人のレティ(ミシェル・ロドリゲス)といちゃつき、仲間たちとキューバでのバカンスを楽しむドミニク(ビン・ディーゼル)の前に、怪しげな女サイファー(シャーリーズ・セロン)が現れ、タブレット端末を見せ、凝視するドミニクに、私たちは出会うべくして出会ったとつぶやいた。ホブス(ドウェイン・ジョンソン)にミスター・ノーバディ(カート・ラッセル)から、ベルリンで新兵器のEMSを奪取するように指令があり、ホブスはドミニクらの協力を得て、EMSを奪取するが、追っ手を振り切ったと思いきや、ドミニクにEMSを奪われ、刑務所に入れられてしまう。刑務所でホブスは前作の仇敵デッカード・ショウ(ジェイソン・ステイタム)と遭遇し悪態をつき合うが、ミスター・ノーバディの策略で房の扉が開放され、ホブスもデッカードも脱獄する。ミスター・ノーバディのもとでドミニクからEMSを奪い返すミッションを与えられたホブスとファミリーの前にサイファーとドミニクが現れ、前作でファミリーが手に入れた監視プログラム「ゴッド・アイ」を持ち去った。ドミニクはサイファーの目を盗んで謎のママ(ヘレン・ミレン)に助けを求め、ホブスとファミリーとデッカードはドミニクを追ってニューヨークに向かうが…というお話。

 売り物のカーアクションは、冒頭のキューバでのポンコツ車を改造しての1マイル(1.6km)レース、ベルリンでのEMS奪取後のカーチェイスと鉄球作戦、ニューヨークでのハッキングによる無人車アタックと車の雨作戦、ロシアの軍事基地の氷上での巨大潜水艦との砲撃戦などの見せ場があります。
 自動車の運転制御システムをハッキングしての攻撃は、そこまでやれるなら、派手にあたり一帯の車を総動員しなくても、ターゲットの国防大臣のリムジンとせいぜい周囲の護衛車をハッキングすれば目的を達するんじゃないかと思ってしまいます。
 終盤のサイファーの基地となっている航空機への侵入と攻撃は、ガンアクションではありますが、あまりに都合よすぎてむしろコミカルな印象が強くなり「シューテム・アップ」(2008年)を思い起こしました。
 シリーズの継続により、常に前作を超えるアクションが求められるプレッシャーからでしょうけれども、まぁよくこういうの考え付くなぁとは思いますが、娯楽性が強くなって、手に汗握るスリルという感じは薄くなってきているように思います。

 本来的にはアクションが売りの映画なのですが、ドミニクとファミリー、特にレティとドミニクの絆、信頼、献身とその思いへの共感/感動がテーマとなっています。
 前作の撮影中に死亡したポール・ウォーカーの役柄のブライアンが、今回は登場しませんが、生きているという設定になっています(ドミニクの行方を追うのに、ブライアンならという話題が出て、ブライアンとミアを巻き込みたくないというセリフでその話題が打ち切られます)。一部の映像でCGで顔を作ったという前作の路線を続けるのか、保留になっているのでしょうけど、次回作ではブライアンを復活させるつもりなんでしょうか。

2017年4月23日 (日)

美女と野獣

 ディズニーの看板アニメの実写化映画「美女と野獣」を見てきました。
 封切3日目日曜日、新宿ピカデリースクリーン1(580席)午後1時40分の上映は、ほぼ満席。日本公開より5週早い2017年3月17日公開のアメリカでは歴代6位のオープニング興収を記録し、公開5週間ですでに全米歴代12位の興収を稼いでいる大ヒット作ですが、日本では前週公開のコナン、クレしんと翌週公開のワイルド・スピードに挟まれながらどこまで伸ばせるでしょうか。

 フランスの片田舎の城に住み美しいものだけを呼び寄せてパーティーを繰り返していた王子(ダン・スティーヴンス)が、吹雪の夜、バラを代償に暖を求めた魔女を嘲笑して、野獣の姿に変えられ、家来たちも時計やポットに変えられてしまい、魔女が持ってきたバラの花びらがすべて散る前に王子が心から愛し愛される人が現れなければ永遠に呪いは解けないと宣告された。近くの村に住むシェークスピアを愛読する娘ベル(エマ・ワトソン)は、自由を求め、本を読み、近隣の子に文字を教えるなどが村人の反発を呼び、変人扱いされていた。ベルの父モーリス(ケヴィン・クライン)が制作した商品を売りに遠出する際、ベルは土産にバラの花を希望し、モーリスは村に帰る際森で落雷と狼に追われて城にたどり着いたがしゃべるカップに驚いて逃げ出しその途中でベルへの土産を忘れていたことに気づきバラを折って、野獣に泥棒と見られて捕らえられる。馬だけが帰ってきたため帰らぬ父を探して馬に乗り城にたどり着いたベルは、父と交換で自分が城の牢にとどまり…というお話。

 ハリー・ポッターシリーズで秀才ハーマイオニーを演じてスターになり、その後若手女優のフェミニストのシンボルとなっているエマ・ワトソンを、聡明で進歩的でそれゆえに村人から変人扱いされているベルにキャスティングし、野獣の見た目に囚われずその本質を見抜くという設定は巧みで説得力を感じさせます。
 しかし、その一方で、野獣王子は荒んだ心で、呪いを解く者が現れないことに焦りいらだつのみで、呪いをかけられた頃から特に成長しているように見えません。ベルが、村の傲慢な青年ガストン(ルーク・エバンス)を振る時に言った、内面の美しさは、野獣王子にもないように思えます。野獣王子にベルが優しさを見出すのは、城を出て森で狼に襲われたベルを救った時という、べたにマッチョなパターン。聡明で進歩的/フェミニストのベル/エマ・ワトソンが惹かれたのは男の強さ/戦闘能力って、それはないでしょうと思う。
 さらに、ベルは醜い野獣の外見に囚われず王子の本質を評価するという設定なのに、美しいものだけを呼び寄せてパーティを開いていた王子が呪いをかけられその成長を求める作品で、野獣王子が愛する相手はなぜ「美女」でなければならないのでしょう。なぜ野獣王子には、女性の外見に囚われずにその本質を見抜き内面を愛することが求められないのでしょう。私の感覚では、モーリスを森で救うみすぼらしい村の女アガット(ガストンに能無し呼ばわりされていますし)あたりを野獣王子が愛するという話の方が、野獣王子が改心して呪いが解けるという展開にふさわしいと思うのですが…

 原題は「 Beauty and the Beast 」。野獣が「 the Beast 」なのに対して、「 Beauty 」には「 the 」がつけられていません。これを「美女」と訳すなら、美女は特定の存在ではなく、つまりベルである必要もなく、美女ならだれでもいいということになりそうです。そう解すると野獣王子の呪いを解く人はあくまでも「美女」でなければならないということが強調されることにもなります。呪いをかけられた経緯からすれば、それは奇妙なことに思えます。「 Beauty 」に定冠詞がつけられていない以上、それは抽象的な美を意味し、むしろ野獣の外見と対比される美、つまり内面の美と解することもできます。そう解するなら、これを「美女」と訳すことは誤りだということになると思うのですが。

 フランスの片田舎という設定ですが、登場するフランス語は、「ボンジュール」と「マドモワゼル」だけ(「ベル」も美しいという意味のフランス語でしょうけど)。「ボンジュール Bonjour 」に対して毎度「グッデイ Good day 」が返されています。それならいっそのこと全部英語にすればいいのに。

2017年4月16日 (日)

名探偵コナン から紅の恋歌

 名探偵コナン劇場版第21作「名探偵コナン から紅の恋歌」を見てきました。
 封切2日目日曜日、新宿ピカデリースクリーン2(301席)12時30分の上映は、ほぼ満席。

 毛利小五郎が(なぜか…)百人一首界をリードする「皐月会」の阿知波会長のインタビューをすることになり、またその前段で遠山和葉の同級生枚本未来子と高校生クイーンの大岡紅葉が対戦することになり、コナンらと「西の高校生探偵」服部平次らが日売テレビに集合していた時、百人一首の札のイラスト付きの爆破予告が入り、スタッフらは避難するが、皐月会の伝統の札を守ろうと会場に戻る枚本を追っていた平次と和葉は爆発に巻き込まれ、コナンに救われて九死に一生を得る。他方、京都では、皐月杯の連続チャンピオン矢島が自宅で撲殺され、その犯人と疑われた2年連続決勝敗退者の関根を乗せた車が爆破され、矢島の死体には百人一首の札が握らされており、関根のスマホには百人一首の札を添付したメールが送られていたことが発覚した。2つの事件の関連性を見たコナンと平次は、次の殺害対象と睨む阿知波と紅葉をマークするが…というお話。

 前作「名探偵コナン 純黒の悪夢」でシリーズ最高興収を記録した後、ネタ切れなのか、力を抜いたのか、今回は「名探偵服部君 ちはやふる便乗版」の趣です。
 タイトル(「から紅」:在原業平の「ちはやぶる神代も聞かず竜田川から紅にみずくくるとは」に由来することは明らか)からして、「ちはやふる」人気への便乗商法と予測されましたが、大岡紅葉とその師匠の名頃が絶対相手に取らせない6枚の札にして、殺害予告のキーとなる札(歌)が「ちはやぶる」で、百人一首決戦に挑む和葉が死守する札が「しのぶれど」って、まるっきり「ちはやふる」のパクリ(「ちはやふる」の千早のライバル若宮詩暢がこだわり死守する札が「しのぶれど」です)。同じ百人一首をテーマにする/舞台に使うにしても、もっと調べ上げて別のエピソードを作れば/探せばいいのに、と思います。

2017年4月 9日 (日)

午後8時の訪問者

 診療時間終了後の訪問を無視した医師がその訪問者が殺害されたことに自責の念を持ち真相を探るサスペンス映画「午後8時の訪問者」を見てきました。
 封切2日目日曜日、全国5館東京2館の上映館の1つヒューマントラストシネマ有楽町シアター1(161席)午前11時50分の上映は、入場者プレゼント(ベルギーワッフル)付で7~8割くらいの入り。

 入院中の老齢の医師の診療所で代診を務めているジェニー(アデル・エネル)は、採用されることが決まった病院の歓迎会の夜、診療時間を1時間余り過ぎた午後8時05分に鳴ったブザーにドアを開けようとした研修医(オリヴィエ・ボノー)を制止する。翌朝、ジェニーが出勤したところに刑事が訪ねてきて、近くで身元不明の若い女性の死体が発見されたが、診療所の防犯カメラに写っていないかを尋ねられ、ビデオを確認した刑事から、死んだのは昨夜午後8時5分に訪ねて来た者だと知らされる。自責の念に駆られたジェニーは、老医師の診療所を継ぐ決意をして病院への就職を断り、訪れる患者に次々とビデオに写っていた女性の写真を見せて被害者の名前を知ろうとし、無縁仏として共同墓地に埋葬された被害者のために墓地を確保するが…というお話。

 小さな診療所で町医者/家庭医として、次々と訪れるさまざまな病気・ケガを負った人たちを診察し、多数の患者の家庭に往診で回るジェニーの多忙な日々が、こまめに丁寧に描かれています。こうした町の人々の雑多なニーズに応えることのしんどさとやりがいを、専門医としてのキャリア形成を捨てて選び取るジェニーの姿勢に、それが自責の念が絡んだ苦渋の選択ではあるとしても、共感します。
 いつ急患が目の前に立ち現れるかわからない、プライベートの時間の確保が困難な医師という仕事柄ではありましょうが、診療時間を過ぎて訪れた者に応えなかったという、本来何ら責められるいわれのないことでジェニーが自責の念を感じる姿、しかもその者が急患で病気やけがで死んだのならまだしも、何者かに殺害されたという医師には関係のない死に至った、ただ開けてやっていれば追ってきていた殺人者に見つからなかっただろうという、医師かどうかにも関係がない事情で、自責の念を感じる姿に、医師という職業の過酷さ、業を感じます。このような姿、ジェニーの思いが描かれること自体に、医師に対する世間の期待、幻想の重さが感じられ、そういったものに応えようとする良心的な医師たちの苦労がしのばれます(方向性や質は違っても、類似の期待と幻想を持たれがちな仕事をしている者として、実感しています)。

 予告編でも/公式サイトのイントロダクションでも、紹介されているテレラマ誌の「かつてない力強いラスト」って、ラストシーンのことじゃないですよね? ラストシーンが近づいたところで、ふと、フランス映画だから/カンヌ国際映画祭のコンペティション出品作品だからここで終わりってありそうだけど…と思ったら、本当にそこで終わり、「えっ」(「あっ」と驚くのではない)と思いました。

2017年4月 2日 (日)

ムーンライト

 黒人少年/青年の友人男性への恋心を描いたアカデミー賞作品賞受賞作「ムーンライト」を見てきました。
 封切3日目日曜日、TOHOシネマズシャンテスクリーン1(224席)午前9時45分の上映は8割くらいの入り。

 麻薬の売人の黒人フアン(マハーシャラ・アリ)は、いじめっ子に追われてフアンが麻薬を隠していた廃墟に逃げ込んだ黒人少年を連れて恋人テレサ(ジャネール・モネイ)のもとに帰る。少年は黙り込んでいたが、食事をさせて話を聞くうち、シャロンと名乗った。フアンは翌朝、シャロンを自宅に送るが、シャロンの母(ナオミ・ハリス)は、後日、フアンから麻薬を買っている客とわかる。フアンはシャロンを気にかけて何かとかまうようになり、海で泳ぎを教えたり、自分の道は自分で決めろ、周りに決めさせるなと諭すなどしていた。シャロンの母が客を取りその間家にいないように言われてシャロンは行き場がなくなり、学校でも心を許せるのは親友のケヴィンしかいなかったが、フアンが亡くなり…というお話。

 母子家庭に育ちその母ともしっくりいかず、学校でもいじめられて、居場所がない少年が、目をかけてくれた大人に影響されながら育っていく様子、唯一の友人に友情を超えた恋心を抱いていく様子を、少年期の「 Little (チビ)」、青年期の「 Chiron (シャロン)」、成人後の「 Black (ブラック)」の3部構成で描いています。家庭環境/生育環境から抜け出せず、ケヴィンのほかには友人もできず、内気で自分からなかなか話さないシャロンの、目に見えた成長/状況の好転が描かれない/観客が見られないもどかしさ、切なさ、ケヴィンに寄せる思いと高校時代の事件をめぐる複雑な思いというあたりを味わう作品です。言葉少ないシャロンの目の表情が印象的です。

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