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2017年2月

2017年2月26日 (日)

ラ・ラ・ランド

 売れないジャズピアニストと芽が出ない女優志望者の恋を描いたミュージカル映画「ラ・ラ・ランド」を見てきました。
 封切3日目日曜日、アカデミー賞発表前日、TOHOシネマズ新宿スクリーン7(407席)午前9時10分の上映はほぼ満席。

 高速道路の渋滞中にオーディションのセリフを練習し始め前の車が動いても気づかない女優志望のミア(エマ・ストーン)に対しセバスチャン(ライアン・ゴズリング)は後ろからクラクションを鳴らし続けそれでも動かないミアを追い越し、それを見たミアはセバスチャンに中指を立てる。オーディションに落ちたミアは、同じく女優志望のルームメイトたちに誘われてパーティーに出かけるが、愛車プリウスをレッカー移動され、とぼとぼと帰宅中見つけたバーに入ると、セバスチャンがピアノを演奏していた。セバスチャンの演奏が気に入ったミアが話しかけようとしたが、クリスマスソングを演奏するように言われていたのに逆らってオリジナルジャズナンバーを弾いたためにその場で支配人(J.K.シモンズ)からクビを言い渡されたセバスチャンはミアを突き飛ばして去っていった。春になりプールサイドパーティーで、セバスチャンがバンド演奏しているのを見たミアは、チャラい曲をリクエストしてセバスチャンの不興を買うが、脚本家に迫られているところを通りかかったセバスチャンに車のキーを取ってくれと頼み、2人はそのままパーティー会場を後にして丘の上の駐車場にのぼり、言い争った末ダンスを始め、意気投合する。紆余曲折の末、2人は交際を始め、ミアはオーディションに落ち続け、セバスチャンはかつてのジャズバンド仲間キース(ジョン・レジェンド)に誘われて不本意な曲の演奏を続け人気を得るが…というお話。

 基本的に、抒情というかノスタルジーの「気分」を味わう映画だと思います。
 冒頭シーンをはじめとして、カラフルなイメージを強調する作風と、エンディングは、私には、「シェルブールの雨傘」を思い起こさせましたが、この作品では、ミアはオーディションに落ち続けカフェのバイトを続けるという点では下積みの重さを感じさせますが、そのミアも後にはあっけなく成功し、セバスチャンは才能豊かで曲目・演奏のスタイルさえ妥協すればすぐに人気を博し成功する、2人の別離も生活苦や戦争のためではなく、成功のためということで、宿命とか生活や人生の重苦しさ、ましてや反戦のメッセージなど感じさせず、共通点は、抒情と悲恋のイメージのカラフルさにこだわったミュージカルだという点に尽きるように思えます。
 夕闇を背景にした駐車場でのダンス(ポスターに使われているシーン)に次ぐ見せ場のプラネタリウムでの空中ダンスは、私にはシャガールの絵をイメージさせます。そして、ラストのセバスチャンの表情にすべてが集約され、後々までその印象が胸に残ります。いろいろな点で視覚的な/絵的な印象の強い作品です。

2017年2月21日 (火)

湯を沸かすほどの熱い愛

 夫が失踪して休業中の銭湯の女将が末期がんと宣告された後の生きる意志を描いた映画「湯を沸かすほどの熱い愛」を見てきました。
 封切17週目(!)日曜日、新宿ピカデリースクリーン5(157席)午後7時25分の上映は、6~7割の入り。

 夫(オダギリジョー)がパチンコに行くと言ったまま失踪したため家業の銭湯「幸の湯」を休業しパートで働く幸野双葉(宮沢りえ)は、高校で同級生から陰湿ないじめを受けめげている幸野安澄(杉咲花)と二人で暮らしていたが、ある日、勤務先で倒れ、医師から末期がんで余命幾ばくもないと宣告される。さすがに落ち込んで銭湯の浴槽でうちひしがれていた双葉は、安澄からおなかすいたと電話で呼ばれ、わかった超特急で帰ってカレーつくると言い、安澄から少し待てるから急がないで気をつけて帰ってきてと言われて和む。探偵(駿河太郎)に夫の居場所を探させて乗り込んだ双葉は、同棲していた女に9歳の娘鮎子(伊東蒼)を残して逃げられきまり悪げにする夫を見て、末期がんの事実を伝える。夫と鮎子を迎え入れ、銭湯の営業を再開した双葉は、安澄と鮎子を連れて旅に出て…というお話。

 自分が末期がんで余命幾ばくもないとわかったとき、残り少ない月日をどう過ごすか。映画や小説の世界では、自分がやりたかったがやれなかった/あきらめていた娯楽や冒険の類にチャレンジするという選択と、これまでの日常通りに過ごすという選択が多く、私自身が直面すればたぶん後者の道を歩むと思います。
 この作品では、双葉は、残される家族のために、これまでできなかったことをやり遂げようとします。重荷を負い、家族を精神的に支え、耐え忍んで生きている庶民には、そういう人が意外に多いかもしれない、とは思いますが、双葉の境遇・人生に思いを致すと、うん、偉い、りえちゃん、偉いけど、そんなに頑張らなくていいんだよ、と胸が詰まります。生きている間の双葉の苦しそうな力の入ったややゆがんだ表情と、安らかでこぎれいな死に顔の対比が、最後に胸を打ちます。
 頑張り通す双葉、陰湿ないじめに耐え/立ち向かう安澄、母に捨てられた悲しみをこらえ新たな環境を受け入れようと努める鮎子の3人の女の悲しみと懸命さに対し、どこまで行っても何が起こっても約束したことを守れないへらへらしたオダギリジョーの軽さ。この軽さが、3人の女たちの生きづらさ・ひたむきさを浮かび上がらせているのですから、作品の中では名演なのでしょうけれども、現実世界でこういう事例を見たら、どうしてこういうどうしようもない男が…と思うでしょうね。
 かなり計算された構成で、多数の布石が打たれて回収され、ほとんどのシーンが後であぁこのための布石だったのかと思わされます。
 日本アカデミー賞優秀作品賞総なめを狙って(あとの4作品はもう見ていたので)見に行った感じですが、予想したよりもよかったなと思いました。

2017年2月12日 (日)

未来を花束にして

 1910年代のイギリスでの女性参政権運動を担った女性たちを描いた映画「未来を花束にして」を見てきました。
 封切3週目日曜日、メイン上映館のTOHOシネマズシャンテスクリーン2(201席)午前10時の上映は2割足らずの入り。

 1912年のロンドン、洗濯工場で生まれ父は不明(たぶん工場長かと)母は4歳の時に死に、自らは7歳からパートで働き12歳で正社員となり今は24歳の洗濯工場労働者モード・ワッツ(キャリー・マリガン)は、洗濯物の配達の途中、ショー・ウィンドウに投石し女性参政権を叫ぶ活動家に遭遇し、女性参政権運動を知る。同じ職場に入ってきた活動家のバイオレット・ミラー(アンヌ=マリー・ダフ)に誘われて国会の公聴会での証言を傍聴に行ったモードは突然代わりに自らが証言することになり、聞かれるままに自らの生い立ちと境遇、労働の実情を語る。モードの証言は聴衆の心を打ったが、議会は結局女性参政権を認めなかった。それに抗議する集会に警察が介入し、参加者たちは警官に殴り倒され、モードも逮捕される。釈放されたモードは、難詰する夫サニー(ベン・ウィショー)にもう二度としないと誓うが、女性参政権運動のリーダーエメリン・パンクハースト(メリル・ストリープ)が演説すると聞いて集会に参加し…というお話。

 参政権以前に、強欲な経営者に劣悪な労働条件の下で労働を強いられ、悪辣な職制(工場長)に虐げられ続ける労働者の境遇に涙し、その労働者が立ち上がるというストーリーに共感します。
 薄幸の女性労働者が、能弁に論じるのではなく、言葉少なに憂い/悲しみをたたえた眼で耐え、決意し前進する様子を、キャリー・マリガンが好演しています。私は、「わたしを離さないで」で初めてキャリー・マリガンを見て、諦念と悟りと哀しみに満ちた瞳と表情のすばらしさに感銘を受けたのですが、キャリー・マリガンは、こういう役がはまり役だと思います。
 女性参政権のために立ち上がれと演説するメリル・ストリープも、2017年1月8日のゴールデン・グローブ賞授賞式でのトランプ批判スピーチを彷彿とさせ(現実の順番はこの作品の収録が先ですが)、はまり役と見えますが…

 エメリン・パンクハーストが投石等の実力行使を指示し、モードたちはポストや大臣の別荘を爆破し、女性参政権を求める者たちの存在をアピールするために破壊活動を行います。今、こういった破壊活動を/爆弾闘争を伴う運動の正当性を主張する映画がつくられることに、驚きました。
 モードたちの活動は、かつて、のちに連合赤軍の一翼となる「革命左派」が行っていた米軍基地に爆弾を仕掛け、それを通じて米軍基地の問題性をアピールしようという「反米愛国」(これが左翼/極左グループのスローガンだったことにも驚きますが)のプロパガンダ闘争とも共通性を持ちます。日本においても、そのような(被害者が出ない)爆弾闘争に相応の共感を示すメディアと民衆がおり、そのメンバーが(交番を襲って、ですが)射殺された葬儀にはかなりの参列者があり警察に批判的な報道がなされた、そういう時代があったのです。思えば、私たちはそこから随分と離れた時代と雰囲気の中にいます。他国では、「テロとの戦争」を絶叫し米軍と「同盟国」軍以外の実力行使を「テロリスト」と名付けて絶対悪視する権力とメディアの風潮の中でも、虐げられた者たちの抵抗の正当性を見ようとする流れもあるということを認識し、時代に流され変容した日本の世論の過去に思いをはせる、そういった契機を与えてくれる作品ともいえるかもしれません。

 エンドロールで、各国での女性参政権の実現の年が紹介されていますが、そこに日本は登場しません。日本の女性参政権(立法は1945年、行使は1946年)は運動で勝ち取ったものではないと評価されたからでしょうか。

2017年2月 5日 (日)

スノーデン

 アメリカ政府が一般人のメールやSNSなど非公開情報を収集し監視していることを暴露したNSA職員エドワード・スノーデンが内部告発をするに至った経緯を描いた映画「スノーデン」を見てきました。
 封切2週目日曜日、TOHOシネマズ新宿スクリーン3(128席)午後0時30分の上映はほぼ満席。

 9.11テロに衝撃を受けて軍に入隊したエドワード・スノーデン(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)は、特殊部隊での訓練の過程で両足を骨折し、除隊を強いられる。CIAの採用試験を受けて合格したスノーデンは、コンピュータの知識を生かし、訓練センターで抜群の成績を残し、指導教官コービン・オブライアン(リス・エヴァンス)に高く評価された。その頃、スノーデンは、交流サイトで知り合ったリベラルなダンサーのリンゼイ・ミルズ(シャイリーン・ウッドリー)と、政治信条では対立しながらも交際を始めた。スノーデンは予期していたイラクではなく国連のアメリカ代表部に派遣され、そこで有力者をCIAの協力者に仕立てるために、有力者の親族のメールやSNSを覗き込み、パソコンのカメラを遠隔操作して私生活を覗き、弱点を嗅ぎまわって義妹の恋人が不法滞在であることを見つけて強制送還させたり、有力者本人を飲酒させて飲酒運転をせざるを得ない状況に追い込んだうえで通報して逮捕させてその後便宜を図って恩を売るなどの策略に加担させられ、嫌気がさしてCIAを辞職する。バラク・オバマの大統領就任を受け、スノーデンは、民間企業から改めてCIAに派遣されるが…というお話。

 「テロとの戦い」の場面でも、無人機からピンポイントで「テロリスト」を攻撃するにあたって、特定の携帯電話(からの電波)を標的にしているという説明に対して、スノーデンが、その携帯電話を持っているのが別の人物でないという保証は、と聞き、それは地上部隊が確認していると答えるシーン、それに引き続き、自動車がその前に立っていた人物3人と対向車ともども攻撃されるシーンがあります。「テロリスト」を殺害するために(そもそもテロリストなら裁判手続も取らずに殺害してよいという考え自体、その正当性には強い疑問がありますが)、罪もない民間人が多少犠牲になってもかまわないという傲慢な姿勢が鼻につきます。
 そして、「テロとの戦い」を(内部的な)大義名分として極秘裏に行われるインターネットの監視が、CIAが民間人の有力者の弱みを探して協力者に仕立て上げるために、テロなどまったく関係ない有力者の親族のメールやSNSを覗き込み、異性関係を把握したり、コンピュータのカメラを遠隔操作して私生活を覗くといったことに使われている実情。権力は権力であるがゆえに腐敗するということを地で行くような担当者たちの腐敗堕落ぶりに吐き気を覚えます。「テロとの戦い」とか「安全保障」とかのために(果ては、オリンピック開催のためとか:あきれ果てますけど)権力者の権限を拡大させることは、このような権力の乱用、市民の生活への監視へとつながっていくものと考えておく必要があるでしょう。
 スノーデンが、自ら担当した業務で、横田基地勤務の際に、日本がアメリカの同盟国でなくなったときには日本が壊滅するように、電源供給やコンピュータシステムの隅々にマルウェア(悪意のあるプログラム:コンピュータ・ウィルス)を仕掛けたとされています。このような仕打ちを受けても、抗議ひとつせず、首都を1時間程度で制圧できるような場所に広大な基地を供与し続け、あまつさえ自ら米軍の駐留をお願いし、沖縄の人々に多大な犠牲を強いて我が国の美しい海と貴重な生態系を破壊してまで米軍基地を造って提供しようという権力者は、言葉の本来の意味での「売国奴」そのものだとしか、私には思えないのですが…

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