« 2016年12月 | トップページ | 2017年2月 »

2017年1月

2017年1月22日 (日)

僕らのごはんは明日で待ってる

 瀬尾まいこの青春恋愛小説をジャニーズアイドル主演で映画化した映画「僕らのごはんは明日で待ってる」を見てきました。
 封切3週目日曜日、公開初週末・2週目ともにベスト10にも入れない大コケをにらんででしょう、封切16日目の日曜日にしてミニシアターレベルの一番小さなスクリーンで1日1回だけの上映にまで落としたTOHOシネマズ新宿のスクリーン12(73席)午前10時50分の上映は、意外にも満席。観客の圧倒的多数は若い女性の2人連れ・3人連れ。満席の客席に男性客は数人レベル。男性1人客もいることはいましたが、この会場に男性1人で入るのは度胸がいるかなと…

 兄が病死してから孤独にたそがれていた高校生葉山亮太(中島裕翔)は、同級生の上村小春(新木優子)から体育祭で米袋ジャンプでコンビを組み1位になったのを機に告白される。不器用にすれ違いを見せつつも、2人は交際を始め、葉山は大学では誰にでも講義ノートを貸したためにとんでもなく心が広い奴と噂され「イエス・キリスト」と呼ばれるようになり、2年後には上村は短大を卒業して保育士になり、翌年葉山も就職が内定した。2人の関係は順調に見えたが、ある日、ファミレスで食事中、上村が突然別れを切り出し、葉山はまったく理解できず困惑し…というお話。

 原作を読んでから映画を見ると、使われているセリフはほぼ原作どおりで、特に前半は、(細かくいえば、原作では米袋ジャンプを含む「ミラクルリレー」は得点に入らないのに映画ではそのリレーを受けて「総合優勝!」ってコールされてるとか、上村の「ヒミツ」が原作で「おばあちゃんを裏切って父親が誰か調べようとしたこと」が映画では「静電気が苦手なこと」に変えられてるとか、上村が葉山に別れを告げた時に原作ではハンバーグを残して去るのに映画では持ち帰りするとか…)カーネル・サンダース関係のエピソード(握手も含め)が映画独自に追加されていることや上村のおじいさんが勝手に殺されていることを除けば、かなり原作に忠実に作られていると感じられます。
 しかし、牛乳を買う日や子どもの名前が上村が別れを切り出す前に出てくるあたりから「あれっ?」と思うのですが、後半になり、ストーリーも作品の軸というかテーマというか上村のキャラ設定の根幹にかかわるところまでもが、原作とは違ってきます。もっとも、登場するエピソードやセリフはほとんどが原作にあるもので、ことがらの順番を入れ替えるとここまで意味を変えられるのかと感心します。
 原作では、上村は、わかりにくく我が道を行く(他人に合わせようとしない)気まぐれで扱いにくいキャラで、葉山が別れを宣言されて納得できないのも当然ですし、読者にあえて理解を求めていないと思います。それに対して、映画は、公式サイトのキャッチで「彼女には、好きだからこそ言えない、ある秘密があった」と整理されてしまうように、ものすごくわかりやすい話に変更されています。映画の方が、わかりやすいし、「うるきゅん」しやすいし、上村のキャラも実はいいやつで純愛/殉愛の美談にふさわしいものと受け取られて好感をもたれることになります。それもこの作品の1つの解釈なのかもしれません。しかし、原作は、上村の尖がった拗ねたはずれたキャラでもそのまま丸ごと受け止める、生きたいようにあるがままにいていいんだよという、よりフレキシブルな許容性を持ったものだと思うのです。わかりやすい美談にすることで失われるものも多いように感じました。

 予告編でも使われているクライマックスの葉山がカーネル・サンダース像を抱えて走るシーン。原作には影も形もないシーンですが、私の世代のおじさんは、つい川沿いの道を走る(橋を渡る)場面では、そのまま川にダイブ!(よい子はマネしないように!)と期待してしまうと思います。そういう世代のおじさんは見ない映画だと思いますが…
 終盤登場する山崎さん(片桐はいり)も後半の設定が全く違うためにセリフも原作とだいぶ変わりますが、少ない登場シーンでいい味を出しています。山崎さんへのプレゼントが、原作ではわざわざ「大きな瓶のふりかけは明日も明後日も同じ味だが」たくさんの種類なら「明日のご飯はどれをかけようか楽しみになるね」と書いているのに、映画では大きな瓶のふりかけ1つというのは、どうかと思いますが。

2017年1月15日 (日)

ブラック・ファイル 野心の代償

 巨大製薬会社の治験データねつ造の証拠を不正に入手した若手弁護士の野心の行方を描いたサスペンス映画「ブラック・ファイル 野心の代償」を見てきました。
 封切2週目日曜日、全国10館東京で2館の上映館の1つ新宿ピカデリースクリーン9(127席)午前11時5分の上映は6割くらいの入り。

 公選弁護人事務所で勝訴を続けニュー・オーリンズの名門事務所に移籍し、ハードな残業をこなしながら11連勝していた若手弁護士のベン・ケイヒル(ジョシュ・デュアメル)は、病院勤めの妻シャーロット(アリス・イヴ)と流産以来すれ違いの日々を送っていた。元カノのエミリー(マリン・アッカーマン)からSNSで友達申請があり、妻とのデートの約束も忘れて10年ぶりにエミリーと会ったベンは、エミリーが偽名で暮らす隠れ家で愛人のピアソン製薬CEOアーサー・デニング(アンソニー・ホプキンス)のパソコンから抜き取った新薬の治験データをねつ造した決定的証拠となるファイルを受け取る。ベンは事務所の代表弁護士チャールズ・エイブラムス(アル・パチーノ)に、内部資料の入手を報告し、アーサーに対する訴訟提起を提案した。チャールズは、ベンに自分の価格を書いて見ろと、そのファイルを購入してベテランの弁護士に訴訟を遂行させようとしたが、ベンは自分をその主任にすることを求め、チャールズは渋々それを認めた。ベンはシャーロットと出かけたパブで謎の男(イ・ビョンホン)から訴訟から手を引かないと妻の笑顔を見るのは今日が最後になると脅され、アーサーの元には「12時間後にこの女を殺す」というエミリーの顔写真付きのメッセージが届き…というお話。

 新人弁護士のベンとベテラン弁護士のチャールズの言動に、弁護士のあり方、一般人が弁護士に対して持つイメージを考えさせられます。
 ベンは、「正義のためなら手を汚す」ことも辞さないという姿勢を度々示し強調しています。ここには2つの疑問があります。一般的に言って、弁護士は、「正義のためなら手を汚す」べきでしょうか。訴訟においては、ルールに従って訴訟行為を行うことが求められ予定されていて、弁護士は「ルールに従って勝つ」ことが求められているはずです。訴訟外の交渉においても、法律家として登場する以上、同様だと思います。世間一般では弁護士がルールに違反して手を汚して勝つことは期待されていないはずですし、そのようなやり方で勝訴しても尊敬を勝ち得ることはないと思います。依頼者の中にはそのような手を使っても勝ってほしいと考える者もいるかもしれませんが、それが正当な期待であるとはいえませんし、弁護士はそのような者の期待に応えるべきではないと思います。また、訴訟において弁護士がどのようにしてどこまでの証拠収集をすることが期待されるべきでしょうか。証拠は基本的には依頼者が所持しているか、そうでなければ訴訟手続を通じて入手するものです。それを超えて弁護士が独自に証拠を入手するということは現実的ではありません。リーガルミステリーでは、弁護士が調査員(しばしば元捜査関係者や私立探偵)を通じてまったく独自に証拠を入手するという設定が多く、この作品でも、ベンはハッカーの知人を通じて不正に証拠を入手しています。このようなことが期待されていると、弁護士が自ら「手を汚して」不正な方法で証拠を入手するという役割まで求められることになりかねませんが、それは誤った期待だと思います。
 チャールズは、真実よりもどう見えるかが大事だと語ります。民事訴訟の目的/役割/機能は、「真相の解明」ではなくその紛争/事件の適正な解決であること、いくら真実はこうだと叫んでもそれを立証(証明)できなければ裁判に勝てないということは、法律実務家であれば、誰しも認めるところです。それを超えて、裁判の目的が純然たる真相の解明にあるとか、証拠の裏付けのない自分にとっての「真実」(悪くいえば自分に都合のいい「真実」)が認められない限り「正義に反する」と言われても、困ります。しかし、同時に、弁護士が真実がどうでもいいと思っているわけではなく、証拠から見て通常の第三者の目からは真実と評価できる事実関係に基づいた適正な解決を目指しているものです。チャールズの言葉は誤解を招きやすいもので、不適切に感じます。

 サスペンス/ミステリー映画らしく、いくつかのどんでん返しがあり、そういう点では楽しめます。
 イ・ビョンホンの役割/パフォーマンスについては評価が分かれそうです。暗く不気味な雰囲気をよく演じていたと、イ・ビョンホンファンは評価するのでしょうし、非現実的で浮いていたという評価も可能でしょう。
 「戦慄のラストがあなたの人生も狂わせる」というキャッチ。う~ん。リーガルミステリーファンにはどこかで見たような感じがするラストのような…(どの作品とまで言うとネタバレなので…)。

2017年1月 8日 (日)

アイヒマンを追え! ナチスがもっとも畏れた男

 1960年のイスラエルの情報機関モサドによるナチ戦犯アイヒマン逮捕の裏側を描いた映画「アイヒマンを追え! ナチスがもっとも畏れた男」を見てきました。
 封切2日目日曜日、全国10館東京で2館の上映館の1つヒューマントラストシネマ有楽町シアター1(161席)午前10時の上映は満席(12時5分も満席と言ってました)。

 1950年代のフランクフルト、ヘッセン州検事長のフリッツ・バウアー(ブルクハルト・クラウスナー)は、逃亡・潜伏しているナチ戦犯の捜査を進めていたが、部下の検察幹部のほとんどは面従腹背で捜査は進展せず、バウアーが執務室を空けるといつの間にか捜査ファイルが消えているというありさまだった。バウアーの行動を快く思わない連邦刑事局長はユダヤ人のバウアーが戦時中デンマークに亡命した際に男娼といるところを逮捕されたことを材料にバウアーの失脚を画策し、バウアーの元には反ユダヤ主義者からの脅迫や嫌がらせの手紙が次々と送られ、バウアーは心理的に追い詰められていた。そんなある日、最重要戦犯とされていたアドルフ・アイヒマンが偽名でブエノスアイレスに潜伏しているという手紙が届いた。バウアーは、インターポール(国際刑事警察機構)に海外潜伏中のナチ戦犯の逮捕の可否を照会したが、インターポールからは政治犯は管轄外というつれない回答が来た。バウアーは、協力する姿勢を見せていた部下の検事カール・アンガーマン(ロナルト・ツェアフェルト)にイスラエルの情報機関モサドへの情報提供を相談したが、国家反逆罪に当たると反対され…というお話。

 アウシュビッツ裁判(「顔のないヒトラーたち」2014年、ドイツ:日本では2015年10月3日公開で描かれています)で有名なフリッツ・バウアーについて、バウアーをめぐる環境、バウアーへの圧力と、これまでドイツとは関係なくイスラエルのモサドが逮捕したと考えられてきたアイヒマン逮捕の陰にバウアーがいたということを中心に据えて描いた作品です。
 アイヒマン逮捕のためにフリッツ・バウアーが行った検察官としての捜査自体は、通報の手紙の処理と情報屋への依頼くらいしか描かれておらず、作品の中心は、バウアーの孤立、敵対勢力の陰謀・画策、バウアーが受け続けた圧力・恫喝です。
 日本とは対照的に、第二次世界大戦前・戦時中の暗い過去と正面から向き合い克服してきたと世界から評価されているドイツにおいても、その克服の過程は簡単ではなく、様々な抵抗勢力の妨害があったことがわかります。
 当時同性愛を処罰する刑法の規定があったことが、バウアーに協力する検事を陥れバウアーを国家反逆罪で告発するように脅しつける材料とされ、またバウアー自身の失脚を図る材料とされたことを見るにつけ、現実の被害者がいないような犯罪や微罪の類を幅広く処罰できる刑罰法規の存在が、国家・政権に都合の悪い者を排除する権力者の武器となることを痛感します。なんでも処罰処罰と言いたがる人とマスコミが、権力者の専横を助けていることを、「共謀罪」の亡霊がまた姿を現したこの国でももっときちんと認識してほしいと思います。

2017年1月 3日 (火)

ぼくは明日、昨日のきみとデートする

 「たった30日恋するためにぼくたちは出会った」というキャッチのラブ・ストーリー「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」を見てきました。
 封切3週目月曜日三が日、新宿ピカデリースクリーン5(157席)午前11時30分の上映は、7割くらいの入り。

 京都の美大の漫画学科の学生南山高寿(福士蒼汰)は、通学時の叡電(叡山電車:今は京福電鉄じゃなくて京阪なんですね。知らなかった…)の車中で見かけた福寿愛美(小松菜奈)を運命の人と感じて降車駅で声をかけた。「また会えますか」と聞かれて感極まって涙ぐんだ愛美は、「会えるよ。また明日」と言って叡電で去った。翌日岡崎の動物園でキリンを描く高寿の背後から愛美が現れ、驚く高寿に、愛美は「教室に張り出されるやつですね」とつぶやき、高寿は愛美に連絡先を聞く。ルームメイトの上山(東出昌大)に煽られて電話でデートを申し込んだ高寿に、愛美は即答で承諾、「明日」と答える。愛美とのデートに向かおうと大学を出る高寿に上山がお前の絵教室に張り出されたぞと声をかけ、高寿は一瞬立ち尽くすが、愛美とのデートは最高で、高揚した高寿は愛美に交際を申し込み、やはり涙ぐんだ愛美は、自己紹介したうえ「私涙もろいから」と断って「よろしくお願いします」と答えた。愛美は毎日のように高寿を訪れ、夢のような日々が続くが、ある日、愛美が帰った後高寿の部屋に遺されていた手帳には、驚くべき書き込みがあり…というお話。

 設定の着想がすべてといってよい作品で、それを書かないと具体的な議論ができないのですが、それを言ってしまったらネタバレにもほどがあるということで、記事を書くには悩ましい作品です。

 その理由はさておいて、自分の運命の行方、そして愛する人とともに過ごす運命の行方がわかってしまったら、人はどのようにそれを受け止めるか、残されたわずかな時間をどう過ごすか、自分の気持ちにどう踏ん切りをつけるか、そしてその時愛する人の気持ちをどこまで思いやり寄り添えるかが、テーマであり、泣かせどころです。終盤に盛り上がる愛美の思いの切なさ、高寿の成長が、泣かせてくれます。

 しかし、シンデレラの愛美は、あの手帳をいつ/どうやって回収したのでしょうか…

 映像としては、学生時代を過ごした鴨川の眺めをはじめ観光地でない京都の雰囲気が、私には懐かしくいい感じでした。

2017年1月 1日 (日)

ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅

 「ハリー・ポッター新シリーズ」と銘打たれた映画「ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅」を見てきました。
 封切6週目日曜日映画サービスデー、新宿ピカデリースクリーン1(580席)午後1時55分の上映は9割くらいの入り。

 ハリー・ポッターシリーズよりも70年ほど前、ヨーロッパでは闇の魔法使いグリンデルバルドが席捲した後姿を隠していたとき、魔法生物学者ニュート・スキャマンダー(エディ・レッドメイン)は、ニューヨークを訪れ、鞄の中に魔法生物を隠したまま無事税関をすり抜けた。その頃、ニューヨークでは、正体不明の謎の生物による建物破壊が続き、合衆国魔法議会(MACUSA)の高官グレイブス(コリン・ファレル)は現場検証を続けていた。ニューヨークの街頭では、人間(ノー・マジ)に対して、魔法使いの実在を主張してその危険性を訴えるセーラム慈善協会のメアリー・ルー・ベアボーン(サマンサ・モートン)の脇でその養子のクリーデンス(エズラ・ミラー)らがチラシを配っていた。ニュートが演説するメアリーのそばを通ったときニュートの鞄から光るものが好きな魔法生物ニフラーが逃げ出し、銀行に飛び込んだ。ニフラーを探すニュートは、パン屋を開業するために融資を申し込みに来たノー・マジのジェイコブ・コワルスキー(ダン・フォグラー)を巻き込んでしまう。今は単純作業担当に左遷されている元合衆国魔法議会調査部の闇払いティナ・ゴールドスタイン(キャサリン・ウォーターストン)は、ニュートがノー・マジのジェイコブの前で魔法を使うのを見てニュートを調査部に連行するが、謎の魔法生物による建物破壊事件を検討していた元上司たちはそれどころではないとティナを追い返す。ニュートの鞄を取り違えて持ち帰ったジェイコブは、自宅で鞄の中の魔法生物を逃がしてしまいジェイコブの家が大破し…というお話。

 1920年代のアメリカが舞台ですから、当然、生まれてもいないハリー・ポッターも、ロンも、ハーマイオニーも、まったく登場しません。ニュート・スキャマンダーは、ハリー・ポッターの中では、ホグワーツ指定教科書「幻の生物とその生息地」の著者として名前が出るだけで、ホグワーツの教員でもなく、登場しませんし、「伝説の人」として重要視されたわけでもありません。それで、そのハリー・ポッターシリーズで現実に登場することもなくさしたる重要性もない場面でただ名前が出てきただけのニュート・スキャマンダーが主人公の話を、スピン・オフ作品としてさえ無理があると思われるのに、あろうことか「ハリー・ポッター新シリーズ」などと銘打って売り出そうというのですから、商魂の逞しさに、ただただ驚きます。
 ストーリーも、ニュート・スキャマンダーが鞄に入れていた魔法生物が複数逃げ出して、それを回収するのにてんてこ舞いし、その過程で周囲にいたノー・マジ(一般人)のジェイコブと魔法議会の元闇払いのティナ、その妹のケイニー(アリソン・スドル)を巻き込み、魔法議会内部の人間関係・対立・陰謀が絡むという、かなりシンプルな構成です。

 人情ものとしては、ニュート・スキャマンダーが、ハリー・ポッターファンにわかりやすくいえば、スマートで能力があり標準語をしゃべるルビウス・ハグリッドのようなキャラ(第三者から見れば危険な魔法生物を「かわいい」ものと見て思い入れを持ち、トラブルを引き起こす)設定になっていること、ジェイコブが親しみを感じさせるキャラで、ケイニーがルーナ・ラブグッドのような不思議ちゃん系の惚れっぽさを見せるあたりが、巧みで、みせどころになっています。
 映像面では、魔法生物、特にニフラー、ボウトラックル等の可愛さが見どころになっています(私としては、こういうテーマでつくるのだったら、ハリー・ポッター本編で登場しなかったサンダーバードとかエルンペントなどを新たに作るよりは、本編で重要な位置づけだったはずなのに映画で登場させなかった尻尾爆発スクリュートとかを、今ならCG技術も発達して作りやすくなってるんですから、この際登場させて欲しかったなぁと思いますが)。

 他方、ネタバレになりますが、終盤で、子どもが作り出す謎の生物「オブスキュラス」(ハリー・ポッターシリーズでは影も形もなかったと思います)を生み出した子どもに対して、その危険性から抹殺を図る魔法議会議長セラフィーナ・ピッカリー(カルメン・イジョゴ)と、利用しようとするグレイブス、助けたいニュートの3者が対立する構造となった後、子どもが抹殺された(本当に抹殺されたかは、続編でどうなるか疑問ですが)段階で、ニュートが即座にグレイブスを拘束して魔法議会に協力するのは、私には違和感があります。
 現実的には、ニュートのその選択が、ニュートのその後のニューヨークでの滞在に有利に働きまたニュートのイギリス魔法省でのキャリアにも有利に働くことになるでしょうし、ティナやケイニーの立場も好転させるということになります。しかし、ニュートはそういう清濁併せ呑むタイプに描かれていません。そのニュートが、自分が守ろうとした子どもを目の前で抹殺した人物に対して苦渋の選択という描写もなく(心理的には一転してのはずの)協力をするというのは、私には、すとんと落ちず、素直に受け入れることができませんでした。

 「シリーズ」になると、今回は名前と顔写真だけだったリタ・レストレンジとの過去ないしはやけぼっくいとティナとの三角関係、原作では終盤の大きなテーマとなっているのに映画では避け続けられたダンブルドアとグリンデルバルドの関係で話を膨らませてゆくことになると予想されます。後者はハリー・ポッターファンの琴線に触れるテーマだけに、どのように取り扱われるのか、続編も見ることになれば、注目です。

« 2016年12月 | トップページ | 2017年2月 »

2017年2月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28        
無料ブログはココログ