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2016年12月

2016年12月31日 (土)

バイオハザード ザ・ファイナル

 TVゲームを映画化したゾンビ・アクション映画の完結編「バイオハザード ザ・ファイナル」を見てきました。
 封切2週目土曜日、新宿ピカデリースクリーン1(580席)午前11時35分の上映は、1~2割の入り。「世界最速公開」の前週末は、「スター・ウォーズ」の天敵「妖怪ウォッチ」を抑えて興行成績1位となったものの、先行きは暗そう。

 廃墟と化したワシントンで一人さまようアリス(ミラ・ジョヴォヴィッチ)は、アンブレラ社のホスト・コンピュータのレッド・クィーン(エバー・アンダーソン:ミラ・ジョヴォヴィッチの実娘)から、現在生存している人類は世界に4000人余り、ラクーンシティのハイブにT-ウィルスに対抗するウィルスがあり、人類を救うためにはそれを散布するしかない、制限時間はこれから48時間と告知され、ラクーンシティへと向かう。途中、罠にかかって捕獲され、アンデッドに追われながらアンブレラ社の戦車に引きずられるピンチを脱したアリスは、再会したクレア(アリ・ラーター)ら新たな仲間と砦にこもってアンデッドの群衆の襲撃と闘い、ハイブに潜入するが…というお話。

 ミラ・ジョヴォヴィッチの超人的な/不死身の(アンデッド)ともいうべき格闘技的なアクション(同じゲームでも、ストリートファイターのイメージの方に近いような)で見せる作品だと思います。
 アリスとは何者か、なぜアリスに過去の記憶がないのか、人類をアンデッドに変えるT-ウィルスはなぜ流出したのか、何のために開発されたのか、アンブレラ社の目的は何か、アンブレラ社のホストコンピュータのレッド・クィーンとは何か(ついでになぜミラ・ジョヴォヴィッチの娘がその役なのか)、なぜクローンが作られたのか、などのこれまでのシリーズで明らかにされていなかった謎が、一通り説明され、シリーズのファンの人には満足度がたぶん高く、ファンでない観客にとってもようやく普通に理解できる作品となっています。
 レッド・クィーンの葛藤、「本物」とそのクローンの相克、クローンにとってのアイデンティティなど、人情の機微に迫り、考えさせられるところもあります。

 しかし、私は、ゾンビ映画は、どうしても好きになれません。相手を理解不能の不気味なもの、意思疎通不可能で有害な(加害者/攻撃的な)ものと表現し、それに「人間でないもの」とラベリングすることで殺害してよい(もっとも、「殺せない」のがゾンビなわけですけど)ものと扱い、徹底的に情け容赦なく殺戮の限りを尽くすが、良心の呵責は感じないというシーンを量産して、それに慣れ不感症にしてゆく。そのような感性には、同調できませんし、不愉快に思います。象徴的な「敵」を作って敵愾心をあおり、相手は人間ではない(鬼畜米英とか。ベトコンとか不逞鮮人とか「テロリスト」もそういう扱いかも)とすることで戦争や虐殺を容易にする人たちの論理/手法と通じるものを感じてしまいます。
 ましてや、この作品では、アンデッドはT-ウィルス感染被害者で、何ら罪なき人です。エリートではなく感染を防げなかった普通の庶民が劣等人類として抹殺すべき対象と扱われているのです。アンデッドが無差別に攻撃してくる凶悪な映像があるゆえにそこが隠蔽されていますが、この作品を支える世界観は、優越民族を守るために劣等民族を抹殺してよいというナチスの思想と親和性を持っているように、私には感じられます。
 アリス自身は、そこまでの意図を持たない(アリスの立場に身を置けば、相手の素性がどうあれ攻撃してくる以上戦い続けなければ生き残れない)としても、T-ウィルス感染被害者であるアンデッドの群衆を全員殺し尽くす/焼き尽くすことにまったくためらいも見せず葛藤がないアリスを英雄視する(制作側、興行側、そしてメディア・観客側の)姿勢は、人の命の尊さや弱き者・被害者の気持ち・立場への感受性を決定的に欠くものと見えます。

2016年12月25日 (日)

アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場

 無人機による爆撃をめぐる軍人・政治家らの葛藤を描き倫理を問う映画「アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場」を見てきました。
 先行公開3日目、全国唯一の先行上映館TOHOシネマズシャンテスクリーン2(201席)午前10時30分の上映は9割くらいの入り。

 ケニヤのナイロビのアジトにイスラム過激派「アル・シャバブ」の幹部が集結するという情報をつかんだイギリス軍は、上空の無人機からの映像を見ながら、キャサリン・パウエル大佐(ヘレン・ミレン)が率いるイギリス軍統合司令部、フランク・ベンソン中将(アラン・リックマン)らが控える内閣(首相、外相は外遊中)、無人機を操縦するスティーブ・ワッツ(アーロン・ポール)らが待機するネバダ州の米軍基地の3か所での合同作戦を展開し、現地での対象者の捕獲を準備していたが、パウエルが最重要対象者の確認を待つように指示する中、アル・シャバブの幹部らが車で過激派の支配地域内に移動してしまい、捕獲作戦は現地隊員の犠牲が大きくなるために困難になった。パウエルは、現地のスパイジャマ・ファラ(バーカッド・アブディ)を過激派支配地域に潜入させてアル・シャバブ幹部が集結した家の中に甲虫型の盗撮ビデオカメラを飛ばして最重要対象者の存在を確認したが、その際、自爆テロ用の爆弾を仕込んだベストなどが用意されていることを確認した。作戦を捕獲から無人機による対象者殺害(爆撃)に変更することを主張するパウエルに対し、内閣内では殺害を主張する軍側、決断の責任を回避する政治家、法的正当性がないことを指摘するアンジェラ・ノース(モニカ・ドラン)らが対立して紛糾し、決断は先延ばしにされる。アメリカ側の決断で爆撃が決定され、発射準備が整ったところで、爆撃対象の家の前で少女がパンを売り始め、爆撃による少女の死亡確率をめぐり、作戦はさらに迷走し…というお話。

 自爆テロで失われるかもしれない80人の命を守るために1人の少女を犠牲にしてもテロリストを爆撃すべきか、という問いが度々投げかけられています。
 この種の「究極の選択」を迫りたがる多くの作品同様、まずこの「二者択一」に疑問があります。長時間にわたり上空からの監視を続けて議論しているわけですから、パウエルはまずは捕獲作戦のために待機させている特殊部隊を過激派支配地域の外側に移動させて待機させておくべきで、自爆テロの行為者が移動を始めればそれを上空から監視を続け、支配地域を出たところで捕獲する、そこで抵抗すれば初めて射殺等の対応をするというのが本筋でしょう。自爆テロを続ける過激派を捕獲する作戦に従事する特殊部隊は、対爆弾用の装備もしているはずですし。パウエルらは過激派は人混みで自爆テロをすると繰り返し主張していますが、過激派が自分たちの支配地域で自爆テロをすることは考えられませんから、自爆テロの実行犯が支配地域からそうでない地域の人口密集地帯までの間の非居住地帯を通る場面が当然にあるはずです。その程度の冷静な判断もできないようなら、まず軍の作戦を指揮する資格はないでしょう。むしろ、パウエルには、自分が最重要対象者の存在確認に手間取って、その間に過激派支配地域に移動されて、捕獲作戦には軍の犠牲が大きくなってしまったという、自己の失策を糊塗するためにも、軍の犠牲を払わなくてよい殺害に切り替えたいという動機、6年間探し求めてきた最重要対象者の存在をようやく把握したことから逃がすリスクを最小限にするため捕獲より殺害にしたいという動機があったものと見えます。自爆テロが迫っているというのは、パウエルにとってはむしろ殺害に切り替えるための口実に過ぎなかったように思えます(終盤での2回目の爆撃指示を見ると、その感を強くします)。
 ここでは、自爆テロを準備しているテロリストなら裁判もなしに殺してよいのか、という問いかけはありません。過激派には人権はないと言っているようです。イギリス軍やアメリカ軍は、またアメリカ政府は、そしてまた少なくない人々は、いつからこのような感覚と認識を持つようになってしまったのでしょうか。
 まず、たぶんふつうの法的な考えでは、少なくとも私の感覚では、自爆テロを準備して敢行しようとしている人物は、爆発物を持って公道に出たところで爆発物所持の現行犯として、過激派の幹部は国際指名手配されているというのですから当然に逮捕令状が出ているはずなので令状により、いずれも逮捕はできるでしょうし、それで起訴・刑事裁判と進むべきで、裁判なしで殺害することは法的には許されません。国際法的な問題として、ケニア国内でイギリス軍やアメリカ軍が無人機を飛行させてその無人機からミサイルを発射すること自体、主権侵害でしょうし、いずれにしてもそれで人に危害を加えるなど犯罪というべきでしょう。自爆テロによる被害を防ぐため、だとしても、なにゆえにイギリス軍やアメリカ軍がそのような権限を持つのか、大いに疑問です。
 国際的な権限の問題を置いて、自爆テロを防ぐためにテロリストを殺害してよいという考え方は、国家権力の行使をテロリストの自爆テロと同次元に引き下げ、貶めるものです。国家権力の行使は、それが国家権力であるがゆえに(その理由が国民の信託によるものであるからか、権力が巨大であるからかは置いても)謙抑的な行使が求められ、また正義を具現するために行使されるべきであり、適正手続を守って行われるべきですし、権力を行使する者には一定の矜持(ノブレス・オブリージュ)が求められます。テロリストが悪を行うのだから、国家も同様に目には目をでいいというのは、子どもの喧嘩レベルの議論でしょう。ブッシュが「対テロ戦争」などと言い出してから、アメリカという国は、そのレベルで議論するように成り果ててしまいました。その「同盟国」も、そのレベルに落ちる国が多いようです。床屋談義であればともかく、権力を行使する人物がそのレベルでいることに、私は、戦慄を覚えます。この作品の登場人物で、私の眼には冷静に論じているのはアンジェラただ一人です。そのアンジェラでさえ、少女の犠牲がなければ殺害自体には反対しない姿勢で、私にはその価値観の飛び方が法律顧問として疑問に思えるのですが。

 私の眼には唯一冷静な判断をしているアンジェラに、自分たちは安全な場所で戦争をしていると指摘させ、他方そのアンジェラの指摘に対してベンソン中将が自分は自爆テロの現場に何度も行った「決して軍人に言ってはならない。彼らが戦争の代償を知らないなどと」と諭すシーンを置き、そのベンソン中将が子どもへのプレゼントを持って帰るシーンをつなげるあたりは、アンジェラが現場を知らない頭でっかちだと言いたいのか、自分の子どもはかわいくても見知らぬ子どもには冷酷になれると言いたいのか…
 アンジェラの問いかけを採って、原題にはないサブタイトル「世界一安全な戦場」を付けた日本の興行サイドに、少しだけ拍手。

 パウエルが、爆撃の際の少女の死亡確率を計算する部下がどう計算しても上限は65%になると答えたのに対して、爆撃を実行するために、計算結果を45%以下にしろと命じ、部下が戸惑いながら計算をせずに着弾点をここにすればたぶん45%になると答える場面があります。何としてでも自分の希望を押し通したい権力者と、権力の意向を気にして希望的観測で自己の良心をなだめてさじ加減する技術者のやり取り。私は、原発の設計や事故評価の計算をイメージしてしまいます。

 家屋内に令状もなく盗撮ビデオカメラを飛ばして中の様子を監視することも、もちろん違法で、犯罪と言ってよい行為です。これも、犯罪者(犯罪を準備する者)には人権などないというレベルの粗雑な議論で押し通すのでしょうか。盗聴法が制定されて実施され、2016年7月の参議院選挙期間に大分県警が連合大分の事務所に盗撮用カメラを設置した事件が発覚しても政権が転覆することもない日本でも、他人事には思えません。米軍が駐留し、首都(東京)を1時間程度で制圧できる位置に米軍基地(横田基地)があり、米軍機やオスプレイがどこでも自由に飛行できる(原発の上は、なるべく飛ばないようにする、けど)この国では、無人機がどれほど飛んでも不思議はありませんし、無人機が民家を爆撃しても、オスプレイが墜落しても米軍と政府に遠慮して「着水」なんて報道しかしないマスコミばかりの現状では、きっともみ消されてしまうでしょう。この映画のテーマは、全然他人事には思えませんでした。

2016年12月18日 (日)

マダム・フローレンス!夢見るふたり

 音痴の歌手フローレンス・フォスター・ジェンキンスがカーネギーホールでコンサートを開いた実話に基づく映画「マダム・フローレンス!夢見るふたり」を見てきました。
 封切3週目日曜日、TOHOシネマズ新宿スクリーン1(86席)午前8時50分の上映は3割くらいの入り。

 父親の莫大な遺産を相続したマダム・フローレンス(メリル・ストリープ)は、初婚の夫からうつされた梅毒の治療のため左手にマヒが残りピアニストの道をあきらめて歌手を目指してレッスンを受ける。事実婚の夫シンクレア(ヒュー・グラント)は、フローレンスの音痴ぶりを知りつつも、妻の夢をかなえるため、協力する伴奏者コズメ・マクムーン(サイモン・ヘルバーグ)を見出して高額の報酬で釣り、好意的な観客を集め、記者を買収し、小さな会場での公演を続け、好意的な論評を得ていた。しかし、フローレンスは、それに飽き足らず、レコードを録音し、さらにカーネギーホールでの公演を希望し…というお話。

 初婚の夫から17歳の時に梅毒をうつされ、その治療のために髪の毛が抜け左手にマヒが残るマダム・フローレンスと、マダム・フローレンスの離婚後に知り合い事実婚状態となったシンクレアの夫婦関係。肉体関係は最初から控え、別の女性キャサリン(レベッカ・ファーガソン)と暮らし愛人関係を保ちつつ、フローレンスの夢を包み込むように支え、献身的に尽くすシンクレア。肉体関係はなくても、また不倫相手と同居しながらも、フローレンスを愛し心が通いあうという様子・描写に、夫婦関係のありようを考えさせられます。
 明らかに音程を外しているけどそれと気づかないフローレンスに対して称賛するシンクレア。「ほめて伸ばす」は、どこまで通用するのか。真実を直視させるのが愛情だと言いたくなりますが、人々の気持ちに訴えるのは歌唱力だけではなく、下手でもそれを聞いて喜ぶ/癒される観衆もいて、現実のフローレンスのカーネギーホールでの公演が記憶に残り愛されていることを考えれば、一概には言えないという気持ちになります。
 距離を置いて見れば、大金持ちの夫人が、金にものを言わせて道楽をし、身勝手な自己満足をごり押ししていくのを、財産目当ての後添えが愛人と暮らしながら夫人の財産を駆使して助けていくという、金持ちのわがまま話と考えられるのですが、メリル・ストリープのとぼけた天真爛漫さとヒュー・グラントのフローレンスを見つめるまなざし・表情の演技がそういった俗っぽさ・いやらしさを消し、むしろ奥行きを感じさせる人情ドラマになっています。

2016年12月11日 (日)

アズミハルコは行方不明

 現代日本社会での女性の生きにくさを描いた映画「アズミハルコは行方不明」を見てきました。
 封切2週目日曜日、新宿武蔵野館スクリーン1(128席)午前9時45分の上映は2割くらいの入り。

 親元の地方都市で暮らす28歳・独身・恋人なしの事務員安曇春子(蒼井優)は、勤務先では、女性は早く結婚して子どもを産むべきだと言い募り安月給しか払わない社長と専務の下、会社を事実上切り盛りしている10歳年上の吉澤(山田真歩)が手取り月給17万円で働かされ煙たがられている姿を見続け、家では疲れた両親の様子を見続けていた。安曇春子は、母に言われてトイレットペーパーを買いに行ったスーパーで幼馴染の曽我(石崎ひゅーい)と再会し、曽我が女子高生軍団にリンチを受けて池に投げ込まれたのを助けた夜、曽我の部屋でセックスし、逢瀬を重ねるようになる。時は飛んで、アズミハルコが失踪し交番に尋ね人ポスターが貼られた同じ都市で、名古屋の大学に行ったユキオ(太賀)と成人式で再開したキャバクラ嬢の愛菜(高畑充希)は、ユキオと同級生だった学(葉山奨之)が街頭でスプレイの落書きを始めアズミハルコの尋ね人ポスターの写真を使った落書きを量産するのを見て一緒に落書きを始め、盛り上がるが…というお話。

 最初からネタバレになりますが、女性の生きにくい社会で、抑圧者としての男たちへの復讐心を表現するのに、たまたま出会った男にストレートに暴力をぶつける謎の女子高生軍団、自分を傷つけた男の作品(物)の破壊に励む愛菜、自分を傷つけた男に刃を向けることなく失踪し自分が「優雅な生活」を送ることが復讐だと愛菜に諭す安曇春子という、3者3様が、おそらくは制作者の目指したテーマなのだろうと思います。そして、ラストに愛菜に微笑む安曇春子を置く構成からしても、安曇春子の選択が、より洗練された復讐であると言いたいのでしょう。
 しかし、加害者の受けるダメージは、女子高生軍団のリンチでは直接的(心理的なダメージもかなり大きいと思います。特に、女性はか弱く従順なものという、「常識」・認識を持つ男ほど)なのに対し、愛菜の破壊では間接的に、そして安曇春子の失踪なり「優雅な生活」ではほとんどない(痛くもかゆくもない)ということになります。安曇春子側の気持ちの整理としては、現実的なものと言えますが、加害者に打撃を加えうる復讐を抑制することで、加害者に都合のいいものとも言えます。そもそもこの作品自身が描いている女性が生きにくい現在の日本社会で、親元/勤務先を離れて失踪した安曇春子は、どうやって「優雅な生活」を手に入れるというのでしょうか。現実の世界/人生の現実が変わらない/変えられない中で、気の持ちようだけを変えて、惨めだったはずの現実を優雅なものと受け入れていく、怪しげな新興宗教にからめとられていくような途しか待っていないということでなければよいのですが。
 私には、むしろ謎の女子高生軍団の暴力の方が爽快に見えてしまいました。誠意のない甲斐性なしの男たちがなすすべもなく倒される展開は、男たちもまた生きにくい様子をも示しているようにも見えますし、一番無節操で無責任なユキオはやられないで、相対的には愛菜に向き合おうとする学の方がリンチに遭うというのも不条理に思えますが。

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