« 2016年6月 | トップページ | 2016年8月 »

2016年7月

2016年7月31日 (日)

シン・ゴジラ

 「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」シリーズの最終作予定のタイトルを「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」と発表したきり一向に作れない庵野秀明監督が、その隙間に作ったゴジラ新作その名も「シン・ゴジラ」を見てきました。
 封切り3日目日曜日、新宿ピカデリースクリーン3(287席)午前11時15分の上映は、ほぼ満席。
 通常以上にネタバレの議論をしますので、これから見る予定の方はご注意を。

 東京湾で発生した学者の失踪と救出に向かった海保巡視艇の遭難、海底トンネルの損傷をめぐり、緊急対策本部で、官房副長官矢口(長谷川博已)は巨大生物の疑いを進言するが、官邸は新たな海底火山か熱水噴出口と判断する。しかし、会議のさなか、海上に尻尾が振り上げられる映像がテレビ放映され、巨大生物対策本部が立ち上げられるが、省庁の縦割りや権限、根拠法律をめぐり会議は混乱する。巨大生物は、大田区から川を遡上して陸に這い上がり、上陸後さらに巨大化し2本脚歩行を開始し街を破壊し続け、防衛大臣(余貴美子)と官房長官(柄本明)の進言で首相(大杉漣)は自衛隊の出動を決断するが、住民の避難が未了という報告で攻撃開始直前に中止命令を発する。行方不明の学者を追っていたアメリカ大統領特使カヨコ・アン・パタースン(石原さとみ)は矢口に接触し、アメリカ政府はその学者により " Godzilla " と名付けられた巨大生物を追っていると伝えた。ゴジラは、なぜかそのまま海中に戻ったが、後日、より巨大に変身して相模湾から上陸し、東京方向に突き進んだ。首相権限で自衛隊による全面攻撃が始められたが…というお話。

 「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」シリーズと同様、公式サイトには何の情報もありません。キャストさえ、役名記載なしで名前が羅列されているだけ。今どき、ここまで不親切なサイトは珍しいと思います。

 前半のテーマは、緊急事態に遭遇した際に、法律の根拠がなく、省庁が業務を押しつけあい省益重視の保身に徹する中、会議と手続にばかり時間を取られ、有効な対策を実施できない政府に対する揶揄と批判です。あからさまに、私たち中高年層では「有事立法」、昨今では「安保法制」「緊急事態条項」と呼ばれるものの整備を求める、あるいはそれを主張する政治勢力をサポートするものです。

 後半は、米軍の核攻撃宣言に対して、オタクっぽい若手の官僚や学者たちが結束してそれより先にゴジラを倒す作戦に奔走し、結果を出す、オールジャパンで戦えばけっこういけるぜ、日本人の底力はすごいって、自画自賛する民族意識・国粋意識の高揚が見せ場になります。

 そしてさらにもう一つのテーマは、老人たちが牛耳る政府の非効率・無能ぶりを、若手政治家と若手官僚の目から苦々しく「老害」と描き出し、若手の活躍で問題を解決する過程を見せて、これからは自分たちの時代だという世代交代の主張をすることにあります。

 合わせて言えば、安倍自民と大阪維新などの改憲勢力を支持する20代若手層をターゲットに、これからは君たちの/我々の時代/出番だと言っている(監督の世代を考えればネトウヨ若者層に媚びている)作品なのだと、私は思いました。

 東宝の宝であった初代ゴジラは、被爆国日本にあって、放射能により突然変異で生まれた怪物として、恐怖と不安の対象として描かれていました。この作品で、ゴジラは、人間を超えた究極の進化を遂げた生物、未知の放射性元素を内蔵する科学の発展のカギを握るものとして、恐怖と殲滅の対象であるとともに人類にとって有用なものという肯定的な評価がなされています。それはまさしく、放射能について、否定的な側面だけでなく、人類に恩恵をもたらすものとして、またしても懲りることなく「原子力明るい未来のエネルギー」と言おうとするものでもあります。
 かつて、原爆を生み出した科学とそれを操る者たちへの不信と、さらには反核・反戦のシンボルとさえなっていたゴジラを、戦争法制、緊急事態条項導入の道具とし、原子力利用の有用性さえもアピールする材料とすることには、私は強い反発を感じます。
 怪獣映画なのだから、そうならざるをえない、でしょうか。ゴジラに大型高所放水車で血液凝固剤を放水するというのは、福島原発事故の際の使用済み燃料プールへの放水をイメージしたものと考えられます。そうであれば、ゴジラに有効に対処できない政治家・官僚たちを描くにも、「法的根拠」よりも、「想定外の事態です」「巨大生物の存在を主張した学者がいたのに御用学者を動員して握りつぶしたのはお前の省だろう」「はっきりした証拠もないのに巨額の費用をかけて対策なんかできるか」などのやりとりをさせてもいいでしょうし、血液凝固剤の注入でゴジラが活動を停止した後についても、ゴジラが活動を再開しないように血液凝固剤を注入し続けるということに(映画でなければ当然に)なるはずですが、注入した分が傷口などから流出し放射能を含んだ汚染水となり、その対策に苦しみ、対策をめぐる利権争いが生じる等の展開を描くなど、現政権に媚びることなく非効率な政府のありようを表現することはできたはずです。

 最初は愛嬌のあるトカゲふうだったゴジラが最初にあげる雄叫びは「トトロ」のようですし、その後「進化」するのは、ポケモンのイメージでしょうか。
 「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」とあわせて上映された、「巨神兵東京に現わる」での特撮・街並みの破壊と殺戮を撮ったときから、ゴジラもやりたかったのかなぁ、という感じですが、それが動機だったら、変に政治ストーリーをつけないで怪獣映画に徹した方がよかったような気がしますが。

2016年7月24日 (日)

帰ってきたヒトラー

 アドルフ・ヒトラーが2014年のドイツにタイムスリップし物まね芸人としてテレビ出演し人気を博すという映画「帰ってきたヒトラー」を見てきました。
 封切り6週目日曜日、TOHOシネマズ新宿スクリーン1(86席)午前10時50分の上映は、ほぼ満席。

 1945年に籠もった地下壕から2014年にタイムスリップして現代ドイツに現れたアドルフ・ヒトラー(オリバー・マスッチ)は、テレビ局からリストラ通告された番組制作者ファビアン・ザヴァツキ(ファビアン・ブッシュ)に引きずり回されて各地で人々と対話し、その様子を撮影したビデオがYouTubeで話題を呼んだ。ザヴァツキからアピールされたテレビ局が、局長カッチャ・ベリーニ(カッチャ・リーマン)の判断でヒトラーをバラエティ番組に出演させたところ、ヒトラーは持ち前の演説・演出力で聴衆を引き込み、視聴率も上昇するが、ザヴァツキとの行脚の途中でヒトラーが指に噛みついた犬を射殺したビデオが放映されると、視聴者の非難が集中し、ヒトラーの出演はストップ、局長は辞任に至った。諦めきれないザヴァツキは、ヒトラーに日記を書かせて出版し、これが話題を呼んでその映画化を図るが…というお話。

 ナチスの行為を批判し、過去と訣別したはずのドイツにおいて、それでも独裁/民主主義・自己決定の放棄への誘惑、国粋主義・排外意識のくすぶりが、きっかけ/言い訳さえ見いだせばすぐにも顔を出し人々を魅了しかねないという危うさが、テーマとされています。
 そして現代ドイツのマスメディアのありようが、それに次ぐテーマになっていると思います。いかなるものでも自己の利益のために利用し、視聴率が稼げればどのような番組でも作るが、肝心なことは報道しようとしないテレビ局の体質も。ヒトラーのテレビ出演をやめさせたのがユダヤ人大量虐殺などの過去への反省ではなく、犬が射殺されたことへの反発だったことも。
 ヒトラーが、計画を明示した上で、選挙で勝利したということを何度か示し、この独裁者を政権につけたのは、民衆の選択であった、視聴率第一主義のテレビ局にバラエティ番組しか作らせない結果となる人々の視聴傾向もあわせて、それは人々の意識/民主主義のありようにかかっているのだと、この作品はいいたいのです。
 ヒトラーが、緑の党が一番本物だ(祖国と環境を守るというのはいいことだ。ただし反原発は間違っている。原子力は核兵器に利用できるのだから)と述べ、ネオナチをニセモノだと批判するのは、皮肉と見るべきでしょうか、そのままに受け取るべきでしょうか。

 テレビ局が選挙期間中は政治の報道をしない、選挙期間中以外でももはや政権に不利益になる報道はしないという状態が続き、憲法改正をいう(選挙期間中だけはいわないという小狡さだけはある)政治勢力が選挙で勝利してしまう国は、この映画の状況よりも問題が進んでいるように思えます。そしてその政治勢力が、かつてはその民族主義的主張から旗印としていた「陛下」からも平和の大切さを指摘され暴走をたしなめられて、その言葉さえ無視するほどに凶暴に変身していることを考えれば、危険の度合いはドイツの比ではないと思えるのですが。

2016年7月17日 (日)

ファインディング・ドリー

 「ファインディング・ニモ」(2003年)の「絶対作らない」はずだった続編「ファインディング・ドリー」を見てきました。
 封切り2日目日曜日、TOHOシネマズ新宿スクリーン9(499名)午前9時30分の上映は5割くらいの入り。アメリカでは公開4週で全米アニメ映画史上最高興収がほぼ確実(4億2258万ドル。過去最高は「シュレック2」の4億4120万ドル)になっていますが、日本では「ベビー・ドリー」ステッカーの入場者プレゼントで後押しして果たして…まぁ日曜日の午前9時台で5割入ってるのは上々と見るべきでしょうか。

 カクレクマノミのマーリンが忘れんぼのナンヨウハギのドリーとともに、息子のニモを助け出してから1年後、ニモとその仲間たちとともに暮らしていたドリーは、幼い日に両親(チャーリーとジェニー)と過ごしたこと、幼い日に両親とはぐれてしまったこと、そして「カリフォルニアの宝石」という言葉を思い出す。両親を探しに行くというドリーに、マーリンは、無謀だと止めるが、ニモに協力を促され、仕方なくウミガメのクラッシュの導きでカリフォルニアを目指すが…というお話。

 前作に続いて、離散した親子の深い愛情の物語、なんですが、ドリー、マーリン、ニモの眼の作画自体が力が入っているというのかウルウルした感じで、なんだかかえって泣きにくいという印象でした。そして、子を失ったチャーリーとジェニーが、その後の人生を犠牲にしてドリーを探し続け、ドリーも(映画ですからそれがあって当然ということではありましょうが)危険を数々冒しながら両親を探すという設定に、あるべき論的な押しつけがましさも感じてしまいます。
 タコのハンクや、鳥のベッキー、アシカのフルークとラダーなどのサブキャラクターの造形と、前作と絡めたファンサービス的ユーモア(カモメ軍団とか、エンドロール後のビニール袋軍団とか…)は、さすがと思います。何年か後に作られるであろう第3作は、「ファインディング・ハンク」でしょうか。

2016年7月10日 (日)

ブルックリン

 ニューヨークに来たアイルランド移民の少女の揺れる心を描いた青春映画「ブルックリン」を見てきました。
 封切り2週目日曜日、角川シネマ新宿シネマ1(300席)午前11時10分の上映は、1~2割の入り。地味目の作品とはいえ、アカデミー賞作品賞と主演女優賞ノミネートの作品にしては、あまりに寂しい。

 1950年代、求人が少ないアイルランドの小さな町で、意地悪な店主ケリー(ブリッド・ブレナン)の下で店員として働いていたエイリシュ・レイシー(シアーシャ・ローナン)は、姉ローズ(フィオナ・グラスコット)がフラッド神父(ジム・ブロードベント)を通じて仕事と住処を手配してくれたことを受けて、ニューヨークのブルックリンに移住した。姉と母を故郷の町に遺して長い船旅の末にやってきたブルックリンで、エイリシュはデパートでの接客に自信が持てず、故郷を思って泣き暮らしていた。フラッド神父の勧めでブルックリン大学で会計を学び、寮母のキーオ夫人(ジュリー・ウォルターズ)の勧めで参加したダンスパーティで知り合ったイタリア移民の青年トニー(エモリー・コーエン)からダンスの秘訣は自分が上手だと信じて踊ることと知らされ、エイリシュは次第に自信を持ちニューヨークでの生活に馴染んでいく。そんなある日、情のこもった手紙でエイリシュの心を支え、年老いた母を支えてきた姉ローズが急逝し…というお話。

 故郷を遠く離れて大都会に移住した少女が、自分に元気と自信を与えてくれた恋人とともに大都会の生活に慣れたときに、故郷での姉の死と老いた母一人の状態に接し、知り合って日の浅い恋人(夫)との大都会での生活を選ぶか、故郷での母と旧友との生活を選ぶかという、心の揺れと選択がテーマです。
 前半は、おじさん世代には、かつて太田裕美が歌い上げた田舎から東京に出て来た少女の物語「赤いハイヒール」あるいはその裏側としての「木綿のハンカチーフ」のニューヨーク版といった趣き、後半は、老親の将来の介護問題を背景に控えた離散家族を抱えた者の望郷物語という趣で、多くの人にとって自分に引きつけて考えさせられるテーマだろうと思います。
 人生の選択が、えてして偶然のできごとにかかっていること、そしてそれ故に現在の自分や家族との関係が、貴重な、たぶん感謝すべき偶然の賜なのだということを、感じさせられました。

2016年7月 3日 (日)

アリス・イン・ワンダーランド 時間の旅

 「不思議の国のアリス」のキャラと世界観を借りたファンタジーの2匹目のドジョウ「アリス・イン・ワンダーランド 時間の旅」を見てきました。
 封切り3日目日曜日、新宿ピカデリースクリーン2(301席)午前10時20分の上映は、7~8割の入り。

 1875年、中国への船旅からロンドンに戻ったアリス(ミア・ワシコウスカ)を、不思議の国の賢者アブソレムが訪れ、アリスは船主協会の会長になっていたヘイミッシュ(レオ・ビル)の館の鏡から不思議の国に舞い戻った。不思議の国の仲間たちからマッド・ハッター(ジョニー・デップ)がふさぎ込んでいることを聞いたアリスは、マッド・ハッターを訪れ、昔怪物ジャバウォッキーに殺されたはずのマッド・ハッターの家族を取り戻して欲しいと憔悴しきったマッド・ハッターから頼まれる。そんなことはできないとうちひしがれるアリスに白の女王(アン・ハサウェイ)は、時間を司るタイム(サシャ・バロン・コーエン)の館の大時計の力の源泉クロノスフィアを使えば時間を遡れると囁き、アリスはタイムの館に忍び込み…というお話。

 第1作の「アリス・イン・ワンダーランド」もそうでしたが、「不思議の国のアリス」のキャラと世界観だけを借用して、設定(そもそも原作ではアリスは少女のはず)やストーリーは全然無関係と言ってよい作品。今回も「鏡の国のアリス」を原作のように見せているけど、キャラクター以外は、鏡 ( Looking Glass ) を通って不思議の国に入り込むことが使われているだけだと思います(誰がタルトを盗んだかという「不思議の国のアリス」の方の裁判のテーマが借用されていたりはしますけど)。前作は全米興行収入が歴代42位(2016年6月27日現在。3億3420万ドル)のヒット作となりましたが、続編のこの作品は、アメリカでは公開初週末(2016年5月27~29日)2位、2週目4位、3週目8位、4週目9位、5週目10位で5週目の週末までの累計で7457万ドル(今年の作品でいえば、「ズートピア」の公開初週末3日間の興収と同じくらい)という惨憺たる成績。やはり柳の下に2匹目のドジョウはいなかったというべきでしょう。

 アリスと、アリスの航海中に家屋敷をヘイミッシュに取られ、アリスが乗っている今は亡き父親が遺した船「ワンダー号」をヘイミッシュに売る約束をしてしまった母親との対立と和解の物語、マッド・ハッターの、子どもの頃に恨んだ父親を含む家族への郷愁と悔恨の物語、幼い頃の事件を通じて決裂し対立を深めた赤の女王と白の女王の対立と和解の物語という、家族関係と愛情の物語3つをテーマとしています。
 すべてを家族関係とその愛憎、そしてハッピーエンドに描いてみせる、いかにもディズニーワールドの作品に、社会性の欠落と身の回り1mの世界への埋没を見るか、夢に満ちたエンターテインメントを見いだすかに、評価がかかってくるでしょう。
 アリスを成人の勇敢なチャレンジャーと描いてみせることで、女性の自立を印象づけたことは、「原作」がアリスを作者の掌で踊らせる父権主義(パターナリズム)を感じさせることへの皮肉も込めて、よい試みと評価できますが。

« 2016年6月 | トップページ | 2016年8月 »

2017年9月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ