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2015年11月

2015年11月29日 (日)

さようなら

 アンドロイド演劇の映画化作品「さようなら」を見てきました。
 封切り2週目日曜日、全国2館東京で唯一の上映館新宿武蔵野館1(133席)午前9時30分の上映は、2割くらいの入り。

 全国各地の原発で次々と爆発が起こり、行政が指定発表する順に諸外国に日本人が避難していく中で、取り残された人々が細々と住む近未来の日本の山村で、アパルトヘイト撤廃後南アフリカから両親と逃れて来て今は亡き父親が買ってくれたアンドロイドレオナ(ジェミノイドF)とともに住むターニャ(ブライアリー・ロング)が、在日韓国人青年敏志(新井浩文)との恋、子殺しの過去を持つ近隣のバツイチ女性佐野(村田牧子)との交遊を持ちながら、次第に周囲の人々が去り、人気がなくなり、病に朽ちていくというお話。

 全国各地で次々と原発が爆発、放射能まみれになった国土を捨てる政府、避難の順番をめぐる差別・棄民、被差別者や犯罪者など政府に嫌われた者が避難を後回しにされるとみんなが思っている社会と、実に反政府的な要素が多い作品で、あぁ日本でもこういう映画が作られているんだと、そこに感心しました。
 在日韓国人青年が、白人女性とつきあい、結婚の約束までしながら、その白人女性が南アフリカでアパルトヘイト撤廃後黒人から逆差別を受けたという過去を語るや、心変わりするという下り。差別を受けてきた者の複雑な思い、ターニャの「逆差別」の訴えに潜む自らの加害を意識しない/棚に上げた傲慢さの匂い…わかるような気もしますが、しかしそれならばターニャとの交際を始めた自分には白人女性と交際することへの優越感/特権的意識はなかったのかという問いかけもしたくなってしまいます。

 アンドロイドの詩の朗読がキーポイントになり、また沁みる作品になっています。そこが気に入らない人には眠気を誘う作品ということになるでしょう。実際いびきをかいて寝てる人が周りにいましたし。
 ラスト近く、病が重くなりソファーに伏せるターニャが上半身裸で過ごすのは、病で咳き込んでいる姿と合わせ、とても不自然。ラストへの流れなのでしょうけれど、無理に裸を見せているという印象を持ちます。
 ターニャの父が見て感動したというエピソードからポイントの1つになっている竹の花ですが、赤いハンカチのような竹の花があるのでしょうか。私が知る限りでは、白っぽい稲の花に似たようなもので、赤いハンカチ状のものとは似ても似つかぬものと思うのですが…

2015年11月22日 (日)

コードネーム U.N.C.L.E.

 1960年代に一世を風靡したスパイのナポレオン・ソロがKGBのスパイとチームを組んで核兵器をナチの残党に渡そうとする一味と闘うというスパイ映画「コードネーム U.N.C.L.E.」を見てきました。
 封切り2週目日曜日、ヒューマントラストシネマ渋谷シアター1(200席)午前11時50分の上映は5割くらいの入り。

 1963年、天才的な泥棒の腕を見込まれてCIAのスパイとして活動するナポレオン・ソロ(ヘンリー・カビル)は、ウラン濃縮の効率化を研究していたが2年前にローマで失踪したドイツ人技術者テラー(クリスチャン・ベルケル)の娘ギャビー(アリシア・ビカンダー)を東ベルリンから連れ出す。ソロがCIAの上司サンダース(ジャレッド・ハリス)に報告すると、東ベルリンでソロを執念深く追いかけてきたKGBのエージェントのイリヤ・クリヤキン(アーミー・ハマー)と引き合わされ、チームを組んで、ギャビーをイタリアの海運会社で働く伯父のルディ(シルベスター・グロート)のところに連れて行き、テラー博士を探し出すように命じられた。海運会社を営むアレグザンダー・ヴィンチグエラ(ルカ・カルバーニ)とその妻ヴィクトリア・ヴィンチグエラ(エリザベス・デビッキ)はテラー博士を使って核兵器を製造しナチの残党に引き渡そうとしており、そのために極秘裏にCIAとKGBが手を組んだのだという。クリヤキンはギャビーの婚約者を装い、ソロは美術品収集家を装ってヴィクトリアのパーティーに潜入するが…というお話。

 設定も展開も映像も昔風のスパイ映画で、ソロとクリヤキンのダンディズムとノスタルジーが売りの作品だと思います。
 敵愾心を持ち、互いに自己の組織からは必要なら相棒を殺すように指示されながら、ソロとクリヤキンが次第に心を通わせていくところも、見どころとなっていて、そこもまた昔風の人情ものっぽく、ノスタルジーを感じさせます。
 ソロもクリヤキンも組織に弱みを握られ、消耗品と位置づけられ、官僚の上司が、職務上持っている権力をちらつかせて理不尽に威張っているところが、単純なかっこいいスパイ像ではなく、彼らの境遇に共感させてくれます。特にクリヤキンの、父は失脚してシベリヤ送り、残された母は…という境遇をソロに指摘されてキレる場面や、上司からお前もシベリヤに送られたいかと恫喝される場面など、哀れを誘います。
 ソロはプレイボーイで手先が器用で格好良く立ち回るのに対して、クリヤキンは父親への思いを引きずり同室するギャビーに手も出さない純朴で不器用な人物に描かれています。基本的に、ソロがメインの役割ではあるのですが、性格設定と境遇の描き方からは、私はクリヤキンの方に親しみを覚えました。

 核兵器を手にしようと悪だくみをする一味はナチの残党とムソリーニと関係があるイタリアの会社。そういう設定にされると、3国同盟「枢軸国」の残り1国は…そこには関心も持たれないのか、やはりジャパン・パッシングかと存在感の薄さを感じてしまう私はひねくれ者でしょうか。

 新たなコードネームとされる U.N.C.L.E. は、エンドロールの中で、United Network Command for Law and Enforcement の略だと紹介されますが、当然、伯父 ( uncle ) のあてはめで無理っぽい。
 エンドロールでは、ギャビーのプロフィールの紹介の最後のひと言が心温まる (*^-^*)

2015年11月15日 (日)

明日へ

 店舗の現場業務の外注化を決めて非正規労働者全員を解雇した大手スーパーと闘った労働者たちを描いた映画「明日へ」を見てきました。
 封切り2週目日曜日、全国11館東京では唯一の上映館のTOHOシネマズ新宿スクリーン4(200席)午前9時の上映は9割以上の入り。日曜日の午前9時の上映がほぼ満席となるのはすごい。テーマからして高年齢層中心かと思いましたが、観客の多数派は若年層女性でした。非正規労働者への共感、明日は我が身という思いは、若い女性ほど強くなっているというところでしょうか。

 夫の長期不在中高校生の息子テヨン(ド・ギョンス)と未就学の娘を抱えながら残業も厭わず5年間1度も減点されずに大手スーパー「ザ・マート」のレジ係として働き続けたハン・ソニ(ヨム・ジョンア)は、3か月後に正社員に登用されることになったが、その直後、会社は、現場業務の外注化を決定し、レジ係や清掃係の非正規労働者(契約社員)全員を解雇し、正社員を契約社員に変更することを決め、張り紙と社員への電子メールで通告した。契約期間さえまだあるのに解雇を通告された従業員たちは、労働組合を結成することを決め、ベテランの清掃係スルレ(キム・ヨンエ)らに勧められ、ソニは労働組合の共同代表として会社に交渉を申し入れたが、会社側は組合を無視し、交渉に一切応じなかった。1週間が過ぎ、遅れて組合に加入したシングルマザーのヘミ(ムン・ジョンヒ)の主張に突き動かされ、労働組合はストライキを決めた。ストライキ当日、午後4時を期してレジを止めたソニたち労働者に対し、会社側はスト破りのレジ要員を大量に雇ってレジを再開しようとしたので、ソニたちはレジを占拠し、スト破りを追い出した。組合員たちは、そのまま勢いでスーパーを占拠し続けるが、数日後、会社側は警察を動員し、スクラムを組んで抵抗する組合員たちをごぼう抜きに逮捕させて占拠を解いた。釈放後スーパー前でテントを張りビラ配りを続ける組合員たちに、会社側の人望が厚いが契約社員たちへの同情を強めていたカン・ドンジュ課長代理(キム・ガンウ)も正社員たちに労働組合結成を呼びかけた上で合流した。支援者も増え、51日目、中央労働委員会は会社に解雇撤回を勧告し、労働組合が勝利したかに見えたが…というお話。

 民間の小さな権力者/暴君としての企業経営者の身勝手な/利己的な振る舞いに対する労働者の怒り(ソニら「ザ・マート」の労働者、テヨンとスギョンのアルバイト労働者)と虐げられた者の悔しさ・悲しみ・弱さ・不安を、しみじみと感じます。私は、労働者側の弁護士として、労働者側で見ていますので、涙なくしてみられないシーンが多く、また使用者側の悪辣さに怒りに震える場面が数多くありました。
 労働者の団結の強さと喜び、連帯感も描かれていますが、一時の夢の感があり、現実の重苦しさの方が勝ります。
 労働者側の実力行使は、警察による逮捕と損害賠償請求訴訟という形で確実に制裁を受けることになり、他方会社側が雇った黒服マスクの男たちの暴力はどれだけ労働者を痛めつけても一切おとがめなしでやりたい放題です。それは会社側の狡猾さでもありますが、警察が気がついたとしても相当程度は見て見ぬふりをすることが予測されます。
 そういった現実社会の不公正への認識が、この作品の眼目なのだろうと思います。その意味でも、これを韓国の話とみるのではなく、日本でも当然に起こり得る話としてみておくことが必要でしょう。

 会社の経営者にとって、非正規労働者などいつ切り捨ててもかまわない使い捨ての消耗品に過ぎないのだということを改めて認識させてくれる作品です。日頃から細々とせこいやり方で労働者を締め付け、ものすごく狭い門の正社員登用を餌に競争させサービス残業に励まさせた挙げ句に、外注の方が利益が出ると判断したら直ちに解雇。こういう形で見せられると、これはごく一部の特に酷い事例と思うでしょうけれど、労働事件をやっていると、日本の有名企業でもたいして変わらないと感じます。
 日本の法制度で見ても、派遣労働者は派遣先からは切り放題(契約期間の残り分の休業手当=賃金の6割の支払が義務づけられる程度)ですし、契約社員もそれまでの更新回数が少なければ更新拒絶はやり放題、更新回数が多いと法的には更新拒絶は簡単ではなくなりますが、契約条項の書き方次第で切りやすくなります。裁判所も決して非正規労働者の味方とは言えません。
 このケースで、日本の法制度を前提として、自分が労働側弁護士として何ができるかを考えると、まず契約期間中の解雇に関しては、裁判所に持っていけば違法と判断されることはほぼ間違いないですが、問題はその契約期間経過後も労働者としての地位が認められるか(その後の賃金分も支払を受けられるか)にあります。それまでの契約更新回数が少ない人(一概には言えませんが、一度も更新されていないとか、更新が1回とか2回程度の人)は、それだけで難しい状況にあります(会社から長期雇用を示唆されていたとか、その職場の実績として更新拒絶された人はこれまでいない/ほとんどいないというような事情があるとまた違ってくることがありますが)。更新回数が多くなると、通常の解雇と同様の理由が必要になってきますが、整理解雇的な更新拒絶の場合、裁判所は非正規労働者の解雇を相対的に緩やかに認める傾向にあります。会社側が「外注」する必要性がどの程度あったかということによります(スーパーの売上げ不振による「縮小」ではなく、単に経費節減のための「外注化」は必要性が認められにくくなるとは思いますが)が、人員整理の必要性があると認められてしまうと、非正規労働者の勝訴はかなり難しくなってしまいます。また、昨今は、使用者側の弁護士の入れ知恵もあり契約書に今後契約更新をしないとか、更新回数の上限を入れるケースが増えてきています。そういう条項が無制限に有効とは限りませんが、労働者に不利に働くことは間違いありません。さらに、日本の裁判所は、単なる「ストライキ」(職場放棄)は容認しても、このケースのような職場占拠に対しては、理解を示すことは少なく、労働組合に対する損害賠償請求も、使用者側が請求すれば認める傾向にあります。
 そう考えると、この作品のケースで何ができるかについては、無力感を持ちますが、少なくとも、自分が使用者側の弁護士でなくてよかったとは感じます。非正規労働者の首を切りやすくするために契約条項に入れ知恵をしたり、労働者いじめのために巨額の損害賠償請求の裁判を起こすような弁護士にだけは、私はなりたくないと思っています。

2015年11月 8日 (日)

アクトレス 女たちの舞台

 40歳になる大女優の過去の自己に縛られた自己認識と時の経過の葛藤を描いた映画「アクトレス 女たちの舞台」を見てきました。

 封切り3週目日曜日、全国13館東京で3館の上映館の1つヒューマントラストシネマ有楽町シアター2(62席)午前9時50分の上映は8~9割の入り。1週間前、上映20分前で満席敗退。今回は30分前で無事リベンジ (^^ゞ

 大女優マリア・エンダース(ジュリエット・ビノシュ)は、かつて新人女優時代に主演した映画「マローヤの蛇」に自らを抜擢してくれた劇作家ヴィルヘルムに代わり授賞式に出席するために、マネージャーのヴァレンティン(クリステン・スチュワート)とともに列車でチューリヒに向かっていたが、車中でヴィルヘルムの訃報を聞いた。チューリヒでの授賞式後のパーティーで、ヴァレンティンの勧めでマリアは新進の舞台演出家クラウス(ラース・アイディンガー)と密談したが、クラウスのオファーは、「マローヤの蛇」の舞台化で、かつて演じた20歳のシグリッド役ではなく、シグリッドに翻弄され自殺する40歳の経営者ヘレナの役だった。シグリッド役にはハリウッドで破天荒な振る舞いで話題の新人女優ジョアン・エリス(クロエ・グレース・モレッツ)が指名されていた。マリアは、クラウスとヴァレンティンに説得されてオファーを受け、ヴァレンティンと台本読みを繰り返すが、ヘレナはただ愚かなだけ、台本は全てシグリッドのために書かれている、自分は今もシグリッドにアイデンティティがあるとヴァレンティンに嘆き、役を降りようとし…というお話。

 タイトルや予告編からは、大女優のマリアと新進女優のジョアンの対立、さや当て、嫉妬というような展開(例えば、「ブラック・スワン」のような)を予想しました。しかし、それに当たるシーンは予告編でも見られる1か所だけ(台詞、だいぶ変わってますけど)です。

 現実に見てみると、テーマは、かつての自分の枠に囚われ、40歳になっても18歳の時に演じた出世作での役を自己像として持ち続ける大女優が、時の流れ(老い)を感じて、葛藤し、若い新人女優や演出家を評価できない/したくない思いから、それを受け入れ、新たな自己像を見いだして行く姿にあることがわかります。その意味で、マリアとジョアンの対立ではなく、あくまでもマリアの物語です。

 ジョアン=クロエ・グレース・モレッツは、マリアと同席する場面は少なく、基本的にはマリアが遠くでその影を感じ圧迫される位置づけですが、登場すると何者をも恐れぬ姿勢で主導権を握ってしまい、その場の注目を集め、華のあるところを見せつけます。今が旬かなぁと感じました。

 さて、それにもかかわらず、あくまでもマリアが主役のストーリーで、クロエ・グレース・モレッツの華やかさが目を惹くにもかかわらず、終盤近くまで、まるでヴェレンティンが主役であるかのような展開が続きます。終盤近くで消えずに最後まで登場し続けたら、これは大女優の元で秘書/マネージャーとして苦労するヴェレンティンの物語として見られただろうと思います。それ程までに主役を食ったクリステン・スチュワートの、華やかではなく、有能なふうでありつつ私生活もエンジョイし感情も完全には抑えられない比較的等身大の役柄で、存在感を見せつけた演技は、私には「トワイライト」以来好きなタイプの女優ではないですが、評価に値するでしょう。

 ジュリエット・ビノシュ、この作品では、40歳だとか、18歳でシグリッドを演じて20年とか、いずれにしても40そこそこという役回りですが、第2部で髪を切って現れた姿はどう見ても50代。帰ってきて調べたら実年齢は51歳。作品としては、別に50歳の女優としたって何も困らないはずなんですが、どうしてそういうところで無理な設定をするんだろ。

 原題は、" Sils Maria " で、「マローヤの蛇」(初秋の早朝にマローヤ峠から雲が低空を這い蛇のように移動する現象)が見られる景勝地を指しています。日本人にはなじみのない地名ですから、邦題を変えるのは致し方ないとは思いますが、「アクトレス」はいいとして、サブタイトルで「女たちの舞台」は、どうかなぁと思いました。

2015年11月 3日 (火)

エール!

 聴覚障害者の両親と健聴者の娘の家族の絆と子離れを描いた映画「エール!」を見てきました。
 封切り4日目火曜祝日、ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1(161席)午後2時05分の上映は満席。

 フランスの田舎で酪農を営むベリエ家は、両親と弟が耳が聞こえず、来客や市場での客との会話は娘の高校生ポーラ(ルアンヌ・エメラ)が手話通訳をしていた。市場で自家製のチーズを売るベリエ家の店にこれ見よがしにやってきて、障害者を支援しているようにアピールしながら、農民の土地を奪おうとする村長に対抗して、父(フランソワ・ダミアン)が村長選に立候補を決意し、ポスター撮影やテレビ局の取材などにポーラも対応を求められる。ポーラは、高校では、コーラスのクラスを取り、思いを寄せるガブリエル(イリアン・ベルガラ)とデュオを組まされ、自宅でガブリエルと歌をダンスの練習をするが、その最中に初潮が来て、以後、ガブリエルと気まずくなる。歌の練習の成果が現れ、ポーラは音楽教師のトマソン(エリック・エルモスニーノ)から声のよさを指摘され、パリの音楽学校のオーディションを受けるように勧められる。父の選挙のテレビ取材の手伝いとトマソン先生のレッスンがかち合い、母(カリン・ヴィアール)からも家族を見捨てるのかと詰られ、悩んだポーラは…というお話。

 高校で教師から思わぬ自分の才能を見いだされうれしいポーラと、全員が聴覚障害者でそのためにポーラの声を評価できない家族のギャップ、一番認めてもらいたい家族に自分の才能を実感してもらえないポーラの失望、聞こえないハンディを絆と愛情で乗り越えようとする家族の思いといった感情の揺れと思いが実るときのしみじみとした幸福感・高揚感が巧みに描かれ、引き込まれる作品です。
 高校生になった娘と家族の子離れがもう一つのテーマですが、これは聴覚障害者の家族と、健聴者のポーラという設定、同級生への思い、初潮の訪れ、パリへの旅立ちといった象徴的できごとで彩られてはいますが、ごく普通の流れで進みます。それでも、年頃の娘を持つ親には、ジーンときてしまうのですが…
 マッチョで家父長的ながらポーラへの理解を示す父と、夫への愛情をふんだんに示す「可愛い女」している母のコンビは、古いタイプの男女観が見えて、よくないんだけどなぁと思いながらも、微笑ましく思えてしまいます。カリン・ヴィアールの態度・表情・演技は、私には、ポーラを詰るワンシーンを除き、とても魅力的に感じました。

2015年11月 1日 (日)

PAN ネバーランド、夢のはじまり

 ピーターパンの前日譚(エピソ-ドゼロ)映画「PAN ネバーランド、夢のはじまり」を見てきました。
 封切り2日目日曜日映画サービスデイ、丸の内ピカデリーシアター1(802席)午前10時の上映は1割くらいの入り。いや、まぁ、私も見たかったわけじゃなくて、「アクトレス」が午前9時台の上映なのにまさかの満席だったので転進したんですが…しかし、原作の知名度とヒュー・ジャックマン出演で、この閑散ぶりはすごい。

 ロンドンのランベス孤児院の前に捨てられたピーター(リーバイ・ミラー)は、12歳になり、親友のニブス(ルイス・マクドゥーガル)とともに、ドイツ軍の空爆下のロンドンで配給物資をちょろまかして私腹を肥やす修道女バーナバスの意地悪に対抗してたくましく生きていたが、ある夜、空から襲ってきた海賊船に多数の孤児たちとともに連れ去られる。空飛ぶ海賊船が向かった先は空に浮かぶ島「ネバーランド」。海賊の親玉黒ひげ(ヒュー・ジャックマン)の命令の下、鉱山で掘り尽くされつつある妖精の粉「ピクサム」の採掘に明け暮れる鉱山労働者の1人フック(ギャレット・ヘドランド)は、ピーターに斧の使い方を教え、ピーターと心を通わせる。ピーターが掘り当てたピクサムを他の鉱夫が横取りしてもめごとになったのを見た黒ひげは、鉱夫たちにピーターの処遇を問い、ピーターを絶壁上の板から蹴り落とすが、落下したピーターは地上近くで浮き上がり、生き延びた。先住民の言い伝えで、空飛ぶ少年が妖精を率いて黒ひげを倒すと言われていたことから、黒ひげはピーターを自室に呼び出し…というお話。

 孤児院で悪辣な修道女と闘いながら、したたかにたくましく育った少年が、見知らぬ国で冒険をして、大人に揉まれながら成長するというストーリーが軸になりますが、脇役のフックとタイガー・リリー(ルーニー・マーラ)の対立・さや当てから思いを寄せるようになるラブ・ストーリーの方が、大人の観客には興味を持ちやすいように思えました。黒ひげと、お調子者のスミー(アディール・アクタル)のコミカルさと併せて。
 あと、ピーターが母を捜し求める姿と、孤児院、フックの言う帰る家と、家、居所がキーワードになっている感じがしました。
 映像的には、孤児院のシーン等のモノトーンから、ネバーランドの先住民と妖精の世界のカラフルさへの対比が印象的です。
 基本的にお子様向きですので、深みや含みはあまり感じられません。シンプルな作品として見ておきましょう。

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