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2015年10月

2015年10月25日 (日)

アデライン、100年目の恋

 事故で老化しなくなり29歳の身体のままの女性の隠遁生活と恋を描いた映画「アデライン、100年目の恋」を見てきました。
 封切り2週目日曜日、シネ・リーブル池袋シアター2(130席)午前10時の上映は3割くらいの入り。

 1908年1月1日生まれのアデライン・ボウマン(ブレイク・ライヴリー)は、21歳で結婚し娘フレミング(エレン・バースティン)を産んだが夫を事故で失い、29歳の時に交通事故で海中に落下して体温が低下して仮死状態になったところに落雷があり老化しない身体になった。次第に年齢と外見がそぐわなくなり警官に怪しまれFBIの捜査が接近し身の危険を感じたアデラインは、高校生となった娘と離れて暮らし、偽名を使い転々とするようになった。2014年12月、アデラインは、ジェニー・ラーソンという名前でサンフランシスコの資料館に勤めていた。大晦日に友人に誘われて参加したパーティーで、アデラインに強引に迫ったエリスと名乗る男性(ミキール・ハースマン)をあしらって立ち去るが、エリスは学生時代に起業して大もうけした金で寄付を重ねており、アデラインの勤務先に貴重な本を大量に寄付しに来た。アデラインがデートしてくれないなら寄付をやめるというエリスに困ったアデラインはランチタイムに短いデートを約束するが…というお話。

 アンチエイジングに大枚をはたく人々に、本当に年を取らなくなったら人生はどうなるか、周囲から怪しまれるのを避けて隠遁生活を送り、長く一所にとどまれず、恋人も作れず友人もごく少なくという生活が幸せか、と問いかける作品です。
 老化しなくなる原因の説明はまったく荒唐無稽で、こういう説明をするくらいなら、いっそのこと説明抜きの方がいいかなと思えます。それで、こういう無理無理の設定だから、そこにはあまり注目させない方がいいと思うのですが、ラスト近くは、まさかそれはやらないだろう/やって欲しくないなぁと思っていたパターンにドンピシャではまり、あぁあと思いました。

 隠遁生活を送り、恋を避けていたアデラインが、「真実の恋」を知り、自分の祖母のようになった娘からも励まされて、一歩踏み出すというのがテーマなのですが、その相手の男が、資力を武器にアデラインの勤務先への寄付をやめるぞと脅かしてデートを強要する傲慢でジコチュウなストーカーまがいの人物で、トリビアクイズの能力で女性を小馬鹿にし、女性にはピンクと決めつける、今どきの基準で言えば性差別主義者というのはいかがなものかと思います。1908年生まれの人物の古い価値観なら、そういう人物が魅力的に見えるという皮肉ではなさそうですし。
 アデラインの方も、偶然とはいえ、父親と息子の両方と関係を持ってしまうというのに割と平然としていられるのは、年の功の度胸というべきでしょうか。

2015年10月18日 (日)

マイ・インターン

 引退し妻に先立たれた70歳元ビジネスマンが若者企業で存在感を示すハートフルコメディ映画「マイ・インターン」を見てきました。
 封切り2週目日曜日、新宿ピカデリーシアター1(580席)午前9時55分の上映は7割程度の入り。

 電話帳印刷会社の営業部長を引退し、3年前に妻に先立たれ、海外旅行やヨガ、太極拳などさまざまな趣味に明け暮れ、近隣の女性からもモーションをかけられるが、満足感を得られず、やはり仕事をしたいと考えていたベン(ロバート・デ・ニーロ)は、ファッションのネット通販企業 About the Fit (ATF) が公益活動として行ったシニア・インターン募集に応募した。創業者で、25人でスタートした企業を1年半で従業員216人を擁するまでに成長させた社長ジュールズ(アン・ハサウェイ)は、シニア・インターン募集を実施した幹部のキャメロン(アンドリュー・ラネルズ)から、ベンをジュールズ付きに配属すると聞かされて、驚き、結局ベンには仕事を与えなかった。ベンは周囲の若い社員からアドバイスを求められるようになり、溶け込んでいくが、ある日、ジュールズの運転手がアルコールを飲んでいるのを見て運転を辞退させた際に運転手を務めることになったのを機会に、ジュールズと接するようになり…というお話。

 基本的には、70歳で妻に先立たれて退屈していた高齢者男性が、若者主体の企業に再就職して、文化の違いに戸惑いながらも次第に周囲に溶け込み重宝されるようになり、新たに恋人も見つけという具合に、高年齢の男性の観客に「自分もまだまだやれそうな」希望を持たせる作品と言えるでしょう。70歳で、仕事も現役、若者ともうまくつきあって存在感を示し、性生活の方も現役って、希望というより幻想/妄想かも、とも思うのですが…
 ベンは、そこそこの企業の幹部として勤め上げて立派な家もあり生活には不安がないという設定で、高齢者の多くが自分を投影できるかは、やや疑問に思えますが。まぁ、そこは映画だから、夢を持たせないとということでしょう。

 公式サイトのキャッチコピーは、「すべての女性を応援する、感動のデトックスムービー あの『プラダを着た悪魔』のアン・ハサウェイが、ニューヨークのファッションサイトの社長に!」とされていて、興行サイドは、アン・ハサウェイファンのアラサー女性をターゲットと考えているようです。
 アン・ハサウェイはスーパーキャリアウーマンの何でも自分でやる社長という役柄ですが、私生活では専業主夫となった夫マット(アンダース・ホーム)の浮気に悩み泣き崩れたり、娘ペイジ(ジョジョ・カシュナー)の幼稚園行事にも出られないことに後ろめたさを持ち、母親とはギクシャクし、仕事も自分で抱えすぎて次第に対応しきれなくなってキャメロンからは他の人をCEOに迎えるよう求められ、会社のトラブル収拾よりも母親に誤って送ってしまったメールの回収を優先するよう指示したり、簡単に酔いつぶれたりと、感情的でひ弱でわがままな部分の描写が目に付きます。それを年上男性であるベンのアドバイスで解決し乗り切っていくという展開には、どこか、やっぱり男がリードしてあげないとねという女性を一段低く見る意識が顔を覗かせているように感じました。スーパーキャリアウーマンでは取っつきにくいジュールズに、弱さや欠点を見せることで、観客の女性に親近感を感じさせ、その成長物語と位置づけるというのが、制作サイドの狙いなのでしょうけれど、素直にそう見てよいものか…

2015年10月12日 (月)

岸辺の旅

 死んだ夫とともに旅をする過程で知らなかった面を見つけていくという設定の恋愛映画「岸辺の旅」を見てきました。
 封切り3週目日曜日、テアトル新宿(218席)午前10時30分の上映は、5割くらいの入り。

  ピアノ教師として働く藪内瑞希(深津絵里)の前に、失踪して3年になる歯科医の夫藪内優介(浅野忠信)が現れ、「おれ、死んだよ」と告げ、死んでさまよっている間にたくさん美しいところを見た、みっちゃんに見せたいと言って旅に誘う。優介に連れられて谷峨(神奈川県西部の山中)を訪れた瑞希は、優介が世話になった新聞屋島影(小松政夫)を紹介され、優介が島影のパソコンの修理をしようとする姿を見、島影が優介と同様死んでいるのだが本人はそのことに気づいていないと知らされて驚く。町の中華料理屋で餃子を作る姿や、農村で人々に光や宇宙の講義をする姿を見せられ、瑞希は優介の知らなかった面を知ることとなったが…というお話。

 夫の死後、夫の幽霊とともに、夫が死後に暮らしてきた場所を再訪して周囲の人の話を聞きそこでの夫の幽霊の過ごす姿を見るという設定で、夫が妻には見せなかった一面を垣間見て、知らなかった夫の姿を知るということがテーマとなっています。
 その知らなかった一面は、おそらくは夫にとっても現実の人生では経験できなかった、よりのんびりした生活でのややのびやかな自分でもあろうと思います。
 そういう夫の/妻の知らない側面、あり得た姿を、想像し、知らないこと、あり得た道に進めない状況に謙虚に思いを馳せることで、相手をいとおしく思う、そういう機会を与える作品なのだなぁと感じます。

 ただ、観客としては、瑞希の視点で見ていくことになり、優介の態度は、どう謝ればいいかという戸惑いがあると言われても、ちょっと横柄というか反省が感じ取れないように思えます。3年間失踪状態で心配させていながら、謝る言葉一つなく、妻の写経を見て(私など、それを見るだけで妻の心境を思い少し涙ぐんでしまいますが)ただ「汚い字だなぁ」とか、不貞が発覚してもやはり謝らず終わったことだとかどうでもいい女だったとか。そういう態度でも、妻が夫に付いていくのが「究極のラブストーリー」(公式サイトのキャッチ)なんでしょうか。

 優介の身体は蟹に食われてなくなっているっていう設定、なんとなく宮澤賢治の「やまなし」(蟹の子どもらが話していました…クラムボンは死んだよ…とかいう教科書でも見るやつ)を連想してしまいました(いや、クラムボンは蟹に食われたんじゃないでしょうから、そういう連想はおかしいんですが)けど、死体が蟹に食われるためには死体は浮かばずに海底になきゃいけないわけで、そうすると優介は、暴力団に海に沈められたのか(事故や自殺なら、死体は浮くでしょ)とか、死因についても余計な詮索をしたくなります。

2015年10月11日 (日)

顔のないヒトラーたち

 敗戦18年後にドイツの戦争犯罪人が起訴されたフランクフルトのアウシュビッツ裁判に至る検察官らの苦悩を描いた映画「顔のないヒトラーたち」を見てきました。
 封切り2週目日曜日、全国3館東京で2館の上映館の1つヒューマントラストシネマ有楽町シアター1(161席)午前10時の上映は8~9割の入り。

 1958年のフランクフルトで、強制収容所で妻子を失い生き残ったユダヤ人シモン(ヨハネス・クリシュ)は親衛隊の伍長だったシュルツが規則に違反して教職に就いていることを発見した。それを聞いたドイツ人記者のグニルカ(アンドレ・シマンスキ)は検察庁にシモンとともに乗り込み、告発するが、検事正(ロベルト・ハンガー=ビューラー)を始め検事たちは関心を示さない。交通違反事件担当の駆け出しの検事ヨハン・ラドマン(アレクサンダー・フェーリング)がその事実を調査して報告したところ、検事正は文部省に確認すると言い次いでシュルツは免職になったと言うが、実際には免職になどなっていなかった。そのことを知って落胆するラドマンの調査記録を盗み取ったグニルカはその経過を新聞ですっぱ抜き、ラドマンは検事総長フリッツ・バウアーに呼ばれ、政府機関には多くのナチスが潜んでいること、きちんとした証拠がなければ裁くことはできないことを注意された。グニルカに招待されたパーティーで酔いつぶれたシモンを送ったラドマンは、シモンのスーツケースからアウシュビッツの親衛隊の名簿を発見し、バウアーに示し、捜査開始を求め、自分も手伝いたいと申し出た。バウアーは、ラドマンに「ダメだ」と言い、「君が捜査を率いるんだ」と命じた…というお話。

 1945年に行方不明となった父親の正しいことを行えという言葉を座右の銘にして法律を貫くことに邁進する(60マルクの罰金の求刑に対し所持金がないという被告人マレーネ(フリーデリーケ・ベヒト)について裁判官から25マルクでどうかと提案されても拒否して、自分が残りを立て替えても60マルクを支払わせるとか)ラドマンが、上司や周囲から当時は誰もがナチスだった、命令に従っただけだ、父親世代に子どもたちからお前は犯罪者かと問い詰めさせたいのかと、考え直すように言われながら、嘘と沈黙をやめさせると宣言して、バウアー検事総長、バウアーから追加で担当を命じられた先輩検事のハラー(ヨハン・フォン・ビューロー)、秘書(ハンシ・ヨクマン)ら数少ない理解者とともに、数々のハードルを乗り越えて捜査を進めてゆく様子がストーリーの軸になっています。
 その中でも繰り返し、父親世代の多くがナチスの党員であったこと、罪を犯したのはごく普通の人たちであり命令に従っただけだということ、そのことをめぐる被疑者や関係者の怒り、検察当局の戸惑い、他方で被害者の悲痛な告白が示されます。ラドマンが、慕い続ける父親が親衛隊員であったことを知ったときの落胆は、言ってみれば、ハリー・ポッターが、敬愛するダンブルドアがヴォルデモート出現前の闇の魔法使いの頂点にいたグリンデルバルトの親友だったと知った時の驚きにも匹敵するものでしょう:ハリポタオタクにしかわからないこと言うなって?\(^_^;)。それはさておき、そういった正義を貫くことの苦悩を描いているところが、この作品を重厚なものにしています。
 被害者の特定、犯罪行為の特定、殺人罪以外はすでに時効という時効の壁、加害者の特定と現住所の探索といった、捜査の実務的なポイントをていねいに潰していく作業が描かれていることも、作品のリアリティと説得力を高めています。
 捜査の過程での、バウアー検事総長の支持と抑制、ハラー検事の飄々としつつ落ち着いた作業、秘書の示す涙と怒りが、実にいい演技で、捜査チームの一体感と着実な仕事を印象づけています。

 ドイツでも戦争犯罪人は、日本の東京裁判に当たるニュルンベルグ裁判で戦勝国により起訴されて裁かれましたが、この作品で描かれているアウシュビッツ裁判は、それに加えて、ドイツ人が自らの手でナチスの犯罪を起訴して裁き、ナチスの犯罪を許さないという姿勢を示したもので、ドイツの指導者は、現在の保守政治家の代表というべきメルケルまで含めて、繰り返しナチスの犯罪はドイツの恥であり許さないと言い続け、被害者への謝罪を繰り返しています。
 そういった姿勢が、ドイツがEUの中心として近隣諸国の信頼を勝ち得ていることへとつながっているのだと思います。
 この作品で、ラドマンが訴追にこだわったメンゲレがシモンの幼い娘に対して行った残虐行為は、日本でいえば731部隊が中国で行った人体実験や九州大学の生体解剖事件と類似するものです。この作品はあくまでもドイツの自省の一環として制作されていて、日本のことは特に意識していないと思いますが、過去の誤った行為への対応の決定的な違い、ドイツが取り組んだ問題と苦悩を認識し学ぶために、日本人にこそ見て欲しい作品だと思います。そういう作品でありながら、この上映館の少なさは、とても悲しい。

2015年10月 4日 (日)

ぼくらの家路

 10歳と6歳の兄弟が失踪した母親を探して歩き回る姿と心理を描いた映画「ぼくらの家路」を見てきました。
 封切り3週目日曜日、全国7館東京では唯一の上映館ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1(161席)午前9時50分の上映は、2割くらいの入り。

 シングルマザーのザンナ(ルイーゼ・ハイヤー)は、10歳のジャック(イヴォ・ピッツカー)と6歳のマヌエル(ゲオルク・アルムス)の2児があったが、子どもより新たな男との関係を優先し、ジャックは、自分の食事の支度やマヌエルの世話に追われていた。ある日、ジャックが用意した風呂の熱湯でマヌエルが火傷をして泣き叫び、通報を受けた役所から、ジャックの児童保護施設行きが言い渡される。施設では、年長のダニエルから言いがかりを付けられて暴力を振るわれるなど、ジャックはなじめず、スタッフから夏休みになれば母親と会えると言われたのを支えにしていたが、待ちに待った夏休みの始まりの日、ザンナから迎えに行けない、週明けまで施設にいるようにと電話が入る。落胆したジャックは、同情したルームメイトが貸してくれた父の形見の双眼鏡を手に付近を散策するが、ダニエルに見つかり、池に抑え込まれて溺死させられかけた上、ルームメイトの双眼鏡を池の中に投げ込まれてしまう。あまりのことに憤激したジャックは、落ちていた木の枝でダニエルを殴り倒し、そのまま施設から逃走して自宅に向かった。自宅の前まで行ってもザンナは留守で鍵も置かれておらず、家には入れないジャックは、マヌエルの預け先のザンナの友人のところに行ってマヌエルを連れ出し、2人でザンナを探すが…というお話。

 母親の育児放棄にあい、悲しみ途方に暮れつつも、他方でその事実を直視したくなくて周囲の大人たちには見栄を張ってしまう10歳の少年ジャックの心情に引き込まれます。
 10歳の少年が、母親不在で、他方で6歳の弟を抱え、悲嘆することも泣き崩れることもできず、否応なく大人の対応、判断をせざるを得なくなっていく様子が、この映画の見どころではありますが、あまりに哀しい。
 6歳のマヌエルが、眠いと文句は言いますが、母親に会えないまま、3日間にわたって、兄に手を引かれて歩き通しで、ぐずらないというのもすごい。マヌエルの天使のような表情、どこでもすぐ寝られる順応性が、また哀感を誘います。

 児童養護施設に収容されているのですから、ダニエルもさまざまな事情があってカリカリしていたのでしょうし、まわりの大人たちもよかれと思って行動している部分があると思うのですが、そういう複雑な設定は見せずに、すべてをジャックの視点からシンプルに描き、年少のジャックと幼いマヌエルの置かれた境遇の過酷さ、ジャックとマヌエルへの共感に集中させたことで、感情的にすんなりと入りこみ素直に感情を揺さぶられる作品になっています。

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