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2014年9月

2014年9月28日 (日)

猿の惑星:新世紀

 「猿の惑星:創世記」の続編、映画「猿の惑星:新世紀」を見てきました。
 封切り2週目日曜日、今年いっぱいで閉館が決まった新宿ミラノ1(1048席)午前11時30分の上映は1割くらいの入り。

 猿の惑星:創世記から10年後の地球。生存率500分の1とも言われる猿インフルエンザと名付けられた謎のウィルスが蔓延し、運転が維持できなくなった原子力発電所は炉心溶融を起こし都市は停電状態となり、サンフランシスコのタワーで暮らす人間たちは燃料を使い尽くす日が近づき、エネルギーの最後の頼りとして近郊の水力発電所の再開を計画した。しかし、そのダム一帯では、シーザーに率いられた知恵を付けた猿たちが道具を使った狩りや漁労をして生活していた。突然現れた人間に撃たれたアッシュは仲間を呼び、取り囲まれた人間のリーダーマルコム(ジェイソン・クラーク)は銃口を下げさせ、猿と話そうとしたが、現れたシーザーから「立ち去れ(GO!)」と言われて驚く。マルコムが戻った人間の集落では、猿と話し合って水力発電の再開をさせてもらおうとするマルコムと、戦闘を主張するドレイファス(ゲイリー・オールドマン)が対立し、猿の集落でも共存を主張するシーザーと、かつてシーザーといた研究所で人間から虐待され息子アッシュを撃たれたことから人間への強い不信感を持ち戦闘を主張するコバが対立し…というお話。

 いずれの側にも話し合い/交渉で決着しようとする者と、猜疑心・不信感と差別主義・排外主義的な感情から力による解決を主張する者が対立するという構造を持たせ、一種の社会のあり方と、そういった者たちを抱えるリーダーのあり方と苦悩といったところを描き出しています。
 シーザーの立場を、単純なあるいは無前提の人間への信頼(それはたとえて言えば手塚治虫「ジャングル大帝」のレオのような)ではなく、人間は銃/武器を持っており、追い詰めれば戦いとなり仲間に大きな犠牲が出るという現実認識と仲間・家族への愛に基礎づけられたものと描いているところが巧みです。前作でシーザーを育てシーザーと情を通じるウィルを登場させずに、人間側のリーダーを全くの別人にしたのも、個人的関係からの信頼ではなく、リーダーとしてのシーザーの判断を際立たせる効果を持っています。
 サルは仲間を殺さないと宣言したシーザーが、後日仲間に裏切られ、猿は人間より立派だと思っていたが、人間と同じだったと述懐する場面が、二重に悲しい。

 CGは前作よりもさらに技術の進歩を感じさせ、もうほとんど不自然さを感じさせません。猿が馬に乗って突き進みながら片手でマシンガンを撃ち続けるシーンさえ不自然に見えないのは、どう評価していいのか戸惑いますが。
 ラストシーンからすると、さらに次回作が予定され、普通に見れば次回作はすぐ引き続くシーンからになりそうですが、こうなると昔の「猿の惑星」につなげるのがかえって難しくなるような気がします。

 原発のメルトダウンを言いながら、この作品では放射能のことには全く言及されません。既に映画の中ではメルトダウンが起こっても、それは特別な特に恐れるべきできごとではなく、ありふれたできごと・記号として消費されるものになってしまったのでしょうか。

2014年9月27日 (土)

バツイチは恋のはじまり

 「一度目の結婚は失敗する」という一家に伝わるジンクスのため離婚相手を探すという筋立てのラブコメフランス映画「バツイチは恋のはじまり」を見てきました。
 封切り2週目土曜日、全国8館東京で唯一の上映館ヒューマントラストシネマ有楽町シアター2(62席)午前10時20分の上映は6~7割の入り。

 クリスマスの家族の晩餐に招いた上司が離婚後6か月間の婚活の悲惨なエピソードを話し泣き崩れるのを見たコリンヌ(アリス・ポル)は、我が家では代々1度目の結婚は失敗するというジンクスがあり、ここにいる者はみな2度目の結婚で幸せに暮らしていると説明し、そのジンクスに挑んだ姉イザベル(ダイアン・クルーガー)のことを話し始めた。イザベルは歯科医師で、同じ病院に赴任してきた歯科医師のピエール(ロベール・プラニョル)と10年にわたり同棲し幸せな毎日を送っていたが、ジンクスのため結婚は避けてきた。しかし出産を望むイザベルは、子どもを産むには結婚しないとダメというピエールの言葉を聞き、コリンヌと協議して偽装結婚・離婚を企んで、ピエールにはコリンヌがうつ病になって修道院で静養させると適当な言い訳をしてデンマークに旅立った。ところがコリンヌが手配した偽装結婚相手は現れず、焦ったイザベルは機内で声をかけてきた旅行ガイドレポーターのジャン=イヴ(ダニー・ブーン)に照準を合わせ、ケニヤに行くジャン=イヴを追い、サバンナでライオンに出くわし車を盗まれて歩き疲れたところで出会ったマサイ族の部族長の娘の婚姻に紛れて、マサイ族の儀式によりジャン=イヴと結婚し、そのままジャン=イヴを振り切ってパリに戻り、ピエールとの結婚の準備を進めるが…というお話。

 パリで歯科医師として働き、歯科医師の恋人と幸せな同棲生活を続けているイザベルが、ジンクスに振り回されてピエールに内緒で偽装結婚・離婚を試みるという設定、そしてピエールとの幸せで安定しているとはいえ決まり切った生活(月曜日はボウリングに始まり金曜日はHまで)に飽きてハプニング続きのジャン=イヴとの道行きに魅力を感じて飛び込むという展開は、手堅くて現実的なイザベルのキャラ設定とそぐわない印象を持ちます。モスクワに住み世界中を回るジャン=イヴを選んだら、イザベルの歯科医師としてのキャリアはどうなるんだろう。しっかり者のキャリア・ウーマンもジンクスに振り回される愚か者、結婚するならキャリアなんて投げ出すものと描きたいのでしょうか。
 振られ役に回るピエールは43才で、コリンヌの夫からこれから子どもができたらその子がティーンエイジャーの時君は60才だと脅されてびびってしまい、それが致命傷になりますが、それ以前にHは毎週金曜日と決めてるってことは週1回だけ。フランス人としてはそれは少なすぎたかも(イザベルは水曜日にしてもいいじゃない、1か月しなくてもいいとも言っていますが)。
 妹のコリンヌの娘、台詞は3か所ほどしかありません(「やりたがる」って何?とか)が、あどけなさとおしゃまさが共存していてかわいい。
 1度目の結婚はみな失敗という家族の中で、母の一度目の夫との子コリンヌと母の2度目の夫との微妙な語らいがちょっといい。幸せかどうか、失敗かどうかなんて型にはめなくていいじゃないかという隠れた制作者側の声が聞こえる気がします。

2014年9月14日 (日)

NO

 1988年のチリでの軍事独裁政権の信任投票の際反対派の広報を担当した広告プロデューサーを描いた映画「NO」を見てきました。
 封切り3週目日曜日、全国6館東京では唯一の上映館ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1(162席)午前11時40分の上映は5割くらいの入り。

 広告事業主グスマン(アルフレド・カストロ)の元でやり手の広告プロデューサーとして活躍するレネ(ガエル・ガルシア・ベルナル)は、一人息子シモン(パスカル・モンテロ)と2人暮らし、反政府活動家の妻ベロニカ(アントニア・セヘルス)とは別居中だった。反対派への激しい弾圧と人権侵害を国際社会から批判されたピノチェト政権は、1988年大統領の任期延長について国民投票を実施することを決定し、反対派陣営に選挙期間中の27日間毎日深夜に15分間の国営放送でのアピールを認めた。反対派陣営「NO」を束ねるウルティマ(ルイス・ニェッコ)は同級生で家族ぐるみのつきあいのあるレネに「NO」陣営の選挙映像への助言を求め、レネは政権の正当化に使われるだけと批判的だったが、助言を引き受ける。政権の弾圧・迫害を告発する映像に、怒りでは人は動かない、明るい未来を見せるべきだと主張するレネは、活動家からコーラのCMのようだと批判されるが、最終的に映像の作成を任される。「NO」陣営の予想外の映像に焦りを感じた政権側は、グスマンを広報責任者に任命し、「NO」陣営の映像を批判するとともにレネに圧力と脅しをかけ…というお話。

 「CMは世界を変えられるのか」が公式サイトのメインキャッチコピーとされています。軍事独裁政権の国民投票による無血交代という政治ドラマを、広告の力として描くこの作品は、映画関係者側からは、広告の威力と歴史の中で縁の下の力持ちとして政権交代を実現した英雄を讃えようという意図によるものと思われます。しかし、家族や知人を殺され拘禁されながら長年にわたり地道な闘いを続けようやく国際社会の批判を引き出して国民投票にこぎ着けた反対派の活動家からすれば、最後になって出て来た広告プロデューサーが政権交代の立役者だと言われるのは納得がいかないところでしょう。映像業界の人々には広告プロデューサーの仕事の意義が過小評価されているという思い/僻みがあるのでしょうけれど、私にはむしろ映画・テレビ等の映像業界の力で広告プロデューサーらの仕事は既に過大評価されているように感じられます。その意味で、今、この作品を世に問う意味がどれくらいあるのかなという疑問は感じます。
 制作者側も、そういう意識があったのか、レネの人物設定は、いかにも広告業界っぽい派手さを排し、妻と別居中でありながら、一人息子と同居して育て、浮気もしない(少なくとも作品中に他の女性との関係は登場しない)というおとなしく誠実さを感じさせるものになっています。また、レネ自身は左翼ではないという設定ですが、父親は政権反対派に知られた人物であり、妻は反政府活動家で、環境的には左翼陣営になっています。そういう設定が、最終段階で参加した広告プロデューサーに手柄を横取りさせるのかという反発を和らげているように思えます。
 また、制作サイドは、グスマンのしたたかな立ち回りを見せることで、広告業者を英雄とだけ描いてるわけじゃないよという姿勢も見せています。

 被害・迫害/弾圧・事件に直面した当事者が被害の事実と思いを語りたいという心情と、しかしそれでは勝てないというジレンマは、実は、裁判の場面でも時々直面します。当事者からはこういうことを裁判官にアピールしたいと、当事者の経験した事実と経緯、心情からは重要でありこだわりを持つ事実をたくさん語られても、裁判官にとってその請求を認めるかどうかのポイントとなる事実と関係ない事実は多くの場合主張しても判断を示されません(この点については私のメインサイトの「民事裁判の判断の対象」で説明しています)し、むしろ裁判官にとって無意味なことを多数書き連ねると大事なことが埋もれて無視される(十把一絡げに否定される)なんてことがままあります。そういうときに当事者(依頼者)をどう説得するか、弁護士としては悩ましい思いを持ちます。そういう事件では、勝訴した弁護士もレネと同じような達成感と疎外感を味わうことになります。映画の終盤でふと他人ごとじゃないんだと思えてしまいました。

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