« 2014年5月 | トップページ | 2014年7月 »

2014年6月

2014年6月29日 (日)

300 帝国の進撃

 ペルシア戦争に着想を得た歴史アクション映画「300 帝国の進撃」を見てきました。
 封切り2週目日曜日、新宿ミラノ2(588席)午前11時50分の上映は1~2割の入り。

 アテナイでは、10年前のマラトンの戦いで、指揮官テミストクレス(サリバン・ステイプルトン)が艦上のペルシアの王ダレイオス(イガル・ノール)を弓で射殺し、駆け寄った息子クセルクセス(ロドリゴ・サントロ)は復讐を誓いつつ退却する。失意のクセルクセスをペルシア兵に拾われて海軍指揮艦に登り詰めたアルテミシア(エヴァ・グリーン)が鼓舞し、ペルシアは再びギリシャに攻め寄せる。アテナイは各ポリスに同盟を求め、陸路を進む100万人のクセルクセス軍にはスパルタの王レオニダスが不戦の神託のために正規の出兵ができない中を300人の精鋭部隊のみを率いてテルモピュライで戦い(こちらは前作「300」)、テミストクレスは民主制に移行したアテナイの「自由」を守る戦いと兵を鼓舞して、奇策を用いながらペルシアの大艦隊に緒戦の勝利を続ける。テミストクレスの力量に舌を巻いたアルテミシアは、テミストクレスを旗艦に呼び寄せて手を結ばないかと誘うが…というお話。

 民主主義と自由を守るために数で圧倒的に不利であるにもかかわらず立ち上がった勇気あるアテナイ対邪悪なペルシアの大軍という、「文明の衝突」的な単純なスローガン好きの人が喜ぶような構図の戦争映画です。ギリシャ側で民主制を採っていたのはアテナイだけ(それも女性や奴隷には参政権なし)で、アテナイ以外にとっては「民主主義」と「自由」のための戦いではないでしょうし、アルテミシアに刎ねた首に口づけさせていかにも「サロメ」のイメージを植え付けていますが、もちろん史実ではないでしょうし、そもそもキリスト教も存在しない時代の話にそういう印象付けをするやり方には疑問を持ちます。
 映像としては、スプラッター系の対戦型格闘ゲームを見ている感じです。
 前作の「300」は、私は見ていませんが、スパルタ王レオニダスがごく少数の精鋭のみを率いてテルモピュライの戦いに臨んだという史実に基づくもので、そのレオニダス王が率いた精鋭部隊が300人と言われていることから「300」というタイトルが出て来たはずです。今回の続編は、テルモピュライの戦いと並行して進んでいたアテナイサイドのエピソードで、「300」という数字は何の意味もありません。300人で戦ったスパルタ軍の精鋭部隊は、アテナイの「民主主義」を守る戦いなんて望んでなかったでしょうし。そういう作品に「300」というタイトルを付ける神経は、私には理解できません。

 民主主義と正義のアテナイ対邪悪なペルシアをテーマにした対戦型格闘技ゲームの、ものすごく単純な作りに、唯一陰影を与えているのがペルシアの邪悪な指揮官アルテミシアです。ギリシャ人に生まれながら、幼い頃戦乱の中でギリシャ軍の兵士に目の前で母親をレイプされて殺された上、自らもギリシャ兵に数年間監禁されてレイプされ続けた挙げ句にぼろ布のように捨てられたところをペルシア兵に拾われて剣術を仕込まれて最強の兵士となって海軍指揮官、ダレイオス王の懐刀に成り上がります。この設定が、この作品ではただアルテミシアのギリシャを憎む気持ちと残虐さを支えるだけなのですが、こういう設定をするのなら、テミストクレスに、そういった事実も踏まえてギリシャのひいてはアテナイの正義とは何か、それでもなお守るべきものは何かといったことを若干の苦渋・苦悩をにじませつつ語らせて欲しかったなと私は思います。対戦型格闘技ゲーム志向の娯楽作品には荷が重いのでしょうけれど。

2014年6月28日 (土)

トランセンデンス

 科学者の頭脳をコンピュータにインストールしたら…というSF映画「トランセンデンス」を見てきました。
 封切り初日土曜日、新宿ピカデリースクリーン1(580席)午前9時の上映は2~3割の入り。

 人工頭脳研究の第一人者の科学者ウィル・キャスター(ジョニー・デップ)は、自我を持つ人工頭脳について講演した後、リバモア研究所へのテロを敢行した反テクノロジー組織R.I.F.T.のメンバーに狙撃され、軽傷で済んだかと思えたが銃弾に詰められていたポロニウムの中毒で余命1か月と宣告される。人工頭脳研究者の妻エヴリン(レベッカ・ホール)は、殺された研究者ケイシーが猿の脳のアップロードに成功していたことから、ウィルの存在を残すため、ウィルの脳をコンピュータにインストールする。ウィルの脳のデータのインストールに成功したエヴリンは、そのコンピュータをインターネットにつなぎ、R.I.F.T.の襲撃を辛くも逃れて逃走した。インターネット上のデータを駆使してエヴリンの会社に3800万ドルの株式売却益をもたらし、R.I.F.T.メンバーの隠れ家をFBIに通報して逮捕させたウィルは、エヴリンに片田舎の町を買収させて地下に巨大な基地を造らせ、ナノテクノロジーを駆使して再生医療を行い、再生した患者に自己のコントロールを及ぼして行き…というお話。

 コンピュータにインストールされ、インターネットにアップロードされたウィルが、インターネットを駆使してヴァーチャル世界に君臨するというところまでは、SFの発想としてついて行けたのですが、ウィルが再生した患者をコントロールし、攻撃で砕けたソーラーパネルの破片を浮遊させて修復し、雨の水滴の中にまで力を及ぼしという展開は、SFとしてもあまりに無理がありついて行けませんでした。
 そして、降る雨の水滴の中にまでも無数の分身を持つに至ったのであれば、それこそネットに拡散した情報を完全に抹消することが不可能なのと同様に、ウィルを消滅させることは不可能であるはずなのに、ウィルとつながっている人間にウィルスを感染させればウィルを消滅させられるという発想も、とてもついて行けませんでした。しかも、血がついたら感染するって、コンピュータウィルスと病原体のウィルスを勘違いしてるんじゃないかとさえ思えますし。
 それに、ウィルスでプログラムを書き換えてウィルを駆逐するという話なら、ウィルス作成者が悪人なら、ウィルになり代わってとかウィルの力を利用して悪だくみをするということも考えられるのに、人工頭脳研究者のエヴリンがそこを全然疑わないというのもちょっとねぇ。

 科学者としての意志と希望を持ち続け、自己にとっての理想を進めながら、妻との関係、間合いを計りかねて戸惑うウィルと、ウィルの存在を残したい一心で脳をアップロードしてみたものの人間を超え神の領域に踏み込むウィルに不安を持つエヴリンの、液晶ディスプレイを隔てたもどかしく悩ましい関係と、触れられない思いを伝えきれない切なさが味わいどころだと思います。

2014年6月22日 (日)

闇金ウシジマくん Part2

 10日で5割の違法高利のヤミ金融を主役に金に群がる人々の欲望を描いた映画「闇金ウシジマくん Part2」を見てきました。
 封切り6週目日曜日、ヒューマントラストシネマ渋谷シアター2(173席)午後1時40分の上映は4~5割の入り。観客の多数派は若者層。

 暴走族愛沢連合の総長愛沢浩司(中尾明慶)は、自分のバイクに勝手に乗って事故った加賀マサル(菅田将暉)を袋叩きにして、カウカウファイナンスに連れ込み、バイクの損害と慰謝料で200万円こいつに貸してくれと申し入れる。丑嶋(山田孝之)は愛沢を追い返したが、暴走族と渡り合ったマサルに興味を示し、カウカウファイナンスで働かせることにした。中卒で喫茶店でバイトする彩香(門脇麦)はゲームセンターで知り合ったホストの麗(窪田正孝)に一緒に夢を実現しようなどと口説かれ、バイト代をつぎ込むが足りず、体を売り、丑嶋にも金を借りに来るが、5万円しか貸せない、稼ぎたいなら割のいい商売を紹介すると言われて本番AVにも出演して貢ぐが、太客牧子(キムラ緑子)を得てナンバー1を目指す麗は彩香にはつれなくしながら次々と金を要求する。金を返せなくなった母親を裸にして写真を撮れと丑嶋に命じられてできないと土下座しカウカウファイナンスをクビにされたマサルは、カウカウファイナンスの顧客名簿を使って自分でヤミ金を始め、羽振りがよくなったところを愛沢に捕まって殺されかけ、丑嶋に愛沢から要求された金を貸してくれと頼むが、逆に名簿を使って営業妨害をした損害として300万円を要求され、それを10日で5割で貸したと宣言される。暴力団幹部の熊倉(光石研)の配下で凶暴なヤミ金の犀原(高橋メアリージュン)から200万円の返済を迫られ窮地の愛沢に、マサルは、丑嶋の部下の高田(崎本大海)と柄崎(やべきょうすけ)が銀行から金を下ろしたところを襲おうと持ちかけるが…というお話。

 ヤミ金に金を借りる借り主がギャンブルのためやホストに貢ぐために金を借りていて、借りるときは10日で5割とわかっても返せると軽く考えて借り、返せなくなったら見苦しく逃げるか開き直るという姿が繰り返し登場し、ヤミ金が違法なことはもちろんではあるが、借りる客も借りる客だ(借りる側にも相当に落ち度がある)というニュアンスで描いています。
 確かに経験上ヤミ金まみれになって弁護士のところへやってくる借り主には人間的に壊れた人が多くて、私自身、かつてヤミ金相手の事件を多数やっていた頃、ヤミ金と喧嘩することよりも壊れた依頼者とつきあうことの方がしんどくて、そっちの方で嫌気がさしていたことも事実です。
 しかし、ヤミ金から借入をする借り主の大多数は、最初からヤミ金に手を出すことはなく、消費者金融からの借入が増えて消費者金融に返済できなくなり消費者金融の取立に追われて消費者金融に返済するためにヤミ金から借入を始めていました。最初からヤミ金融から借りた少数の借り主は、金利が年数%という嘘の広告を見てヤミ金の事務所に行き、あれこれ書類を書かされた上でそんな安い金利では貸せないとかあなたにはそういう条件では貸せないとか言われて既にいろいろ情報を与えてしまい既に事務所にも行っていてまた金が必要で行っていて金をちらつかされると矢も楯もたまらずというような経緯で借りています。そういう過去の私が借り主から聞き取った経緯からすれば、ヤミ金からの借入は、消費者金融の取立に耐えられずとか、嘘の広告がきっかけになっていることが多く、消費者金融や、嘘の広告を掲載する夕刊紙や雑誌に問題があると思えます。この作品ではそういう経緯の借り主はまったく登場せず、消費者金融や雑誌社に矛先が向くことを回避しています。企業の問題点には触れず、借り主の落ち度を強調する姿勢には疑問を感じます。

 家庭環境に恵まれず、リストラされた父親は酒浸りで就活もせず、姉には高校中退を詰られ、健気に喫茶店でアルバイトしながらもゲームセンターで憂さ晴らしをしていた彩香が、ゲーセンで知り合ったホストのイケメン男にむしられ貢がされて体を売り風俗に沈んで行く様、さらには不気味なストーカー男に付きまとわれながら、ホストにも相手にされなくなる様は哀れで泣けてきます。しかし、この作品では、ヤミ金が主人公というくらいですから、彩香への同情は示されず、ただドライに金利の取り立てがなされていきます。ホストに入れ込むのも風俗に沈むのも自己責任という描き方です。
 もう一つのヤミ金の犀原茜の暴力への躊躇のなさ、キレっぷりは、徹底していて、ある意味で突き抜けています。
 この2人の女性を通じて、この作品がたくましい女性像を提示していると見る余地もないではありません。若い女性の貞操の危機が直前で救われる普通のパターンと異なり、むしろ誰とやっても自由だ、それで悲観することなんてないというメッセージを見るべきなのかも知れません。しかし、彩香がホストにいいように貢がされ、ストーカーの暴力にもただ脅えるだけ、犀原も熊倉の言いなりということからすると、女が愚かで理解不能な存在と描いていると見た方がよさそうです。

 丑嶋の昼食、「中華にしよう」というのがカップラーメンという倹約ぶり、ホットケーキ(今どきの言い方だとパンケーキか)にシロップをたっぷりかける甘党ぶりが少し笑えるというか、ホッとします。 

2014年6月21日 (土)

ノア 約束の舟

 旧約聖書のノアの箱舟のエピソードを映画化した「ノア 約束の舟」を見てきました。
 封切り2週目土曜日、新宿シネマスクエアとうきゅう(224席)午前11時の上映は2~3割くらいの入り。

 楽園を追放されたアダムとイヴの子孫は、カイン、アベル、セトの兄弟の時代にカインがアベルを殺害し、神の言葉を聞くのはセトの子孫だけとなった。セトの子孫として荒野で孤独に暮らしていたノアは幼き日に父をトバル・カインに殺害された。成人して妻ナーマ(ジェニファー・コネリー)と3人の息子とともに暮らしていたノア(ラッセル・クロウ)は、大地から突然花が咲くのを見、夢で世界が水に沈んでいるのを見て、神の声を聞いたと言い、祖父(アンソニー・ホプキンス)が住む山へと旅する。途中襲撃され重傷を負った生き残りの少女イラを助け、荒野の「番人」に追われながら番人の信頼を得たノアは、突然地から水が湧き出し樹々が伸び繁ったのを見て、これで箱舟を造ると言い、その後約10年をかけ箱舟がほぼできあがった。箱舟に鳥や動物たちが駆け込むのを見たトバル・カインと一族は、ノアたちを襲い舟を奪うと宣言するが番人たちに追い払われ、武器を造り兵を訓練して機会を窺っていた。ノアの長男セム(ダグタス・ブース)はイラ(エマ・ワトソン)と恋仲になるが、子どもの時の怪我のために子どもを産めないイラは自分は箱舟に残る資格はないと悲しむ。ノアには妻が、セムにはイラがいるのに自分には女がいないと拗ねるハム(ローガン・ワーマン)はトバル・カイン一族の村に紛れ込み…というお話。

 善悪をめぐる人間観、ノアの人物像、そして神はなぜノアを選んだのかがテーマになっています。
 地上が悪人に満ちノアが善人であるからノア一族のみを残そうとしたという考えを退け、人間には善悪両面がある、誰も皆そうだとノア夫婦に言わせ、ノアには自分は善人だからではなく神の指示に従うから選ばれたのだと言わせています。最後には、妻ナーマに人間は善悪をともに持つ、その善と悪をどう評価するか、神は判断を委ねたのだと言わせています。そこが監督が示したかった解釈であり深みなのでしょうけれども、やっぱり男は妻の掌というか糸を引かれている凧というように感じてしまいます。う~ん、僻みかな、コンプレックスかな…

 一族だけが生き残るという選択に際して、子どもを産めないイラの悩みが描かれています。イラの悩みは、ノアの隠された思惑と祖父の奇跡で思わぬ展開を見せることになりますが、ストーリー展開とは別にこれではやはり子どもを産めない女は欠陥があるとまで明言しないまでも不幸と評価しているように思えます。今どき作る映画としては、子どもを産めない女性への配慮なり生き様の描き方に疑問を持ちました。

 神から見捨てられ、人間たちにも裏切られたと言って荒野に住む「番人」たち。結局ノアにも尽くしただけという感じで、私には、番人たちが一番かわいそうに思えました。

 箱舟に乗り込む動物たち、どう見ても1種に1つがいには見えません。鳥でも蛇でも同じ種でた~くさん乗り込んでいったように見えます。そして箱舟に乗っている期間は少なくとも数か月に及んでいたようです(箱舟に乗り込む直前にHして箱舟の中で出産に至るように描かれてますし)が、その間動物たちは何を食べて生き延びていたのでしょう。

 予告編の冒頭に「世界各国で空前の大ヒット」というナレーションが入っています。公式サイトのイントロダクションでは「全世界で公開されるやいなや歴代オープニング記録を塗り替え、37ヵ国でNo.1大ヒットとなり」と書かれています。アメリカで公開初週末興行成績1位は事実ですが、公開初週末(2014年3月28~30日)の興行収入は約4400万ドル。アメリカの歴代オープニング記録は「アベンジャーズ」(2012年)の約2億0700万ドルだそうです。このノアの少し前で「ハンガー・ゲーム2」(2013年11月23~25日)が約1億6100万ドル(これが歴代4位だそうな)を叩きだしていますし、ノアの直前でも、その前週(3月21~23日)の「ダイバージェント」が約5460万ドル、3週前(3月7~9日)の「300 帝国の進撃」が約4500万ドルです。どう錯覚したら「歴代オープニング記録を塗り替え」なんて妄想できるんでしょう。累積興行収入の方を考えても、公開初週末の後2位、6位、9位で5週目にはトップ10を外れ、公開4週目週末までの累計が9328万ドル、最終的な全米興行収入は1億2000~3000万ドルと見られているようです。この興行成績は全米年間ランキングでトップ10に入るかどうか微妙、歴代なら300位台と思われます。こけた映画ではないですが、普通にヒットしたくらいの数字でしょう。そういう映画を、「空前の大ヒット」と宣伝する神経は、私にはとても理解できません。広告の世界ではどんな嘘でも平気なんでしょうか。それとも「空前」という言葉の意味がわかってない?日本では公開初週末(2014年6月14~15日)が14週目の「アナと雪の女王」に及ばす2位で約2億5500万円。日本の歴代オープニング記録はわかりませんけど、近年で「アリス・イン・ワンダーランド」(2013年4月17~18日)約13億1600万円というのがありますから、歴代記録は夢の彼方、直前の「X-MEN:フューチャー&パスト」(2014年5月31日~6月1日)の約2億7200万円にも及びません。

2014年6月15日 (日)

捨てがたき人々

 人間の欲と業を描いたという映画「捨てがたき人々」を見てきました。
 封切り2週目日曜日、全国6館東京では唯一の上映館テアトル新宿(218席)午後1時45分の上映は4割くらいの入り。

 生きるのに飽きたと言って生まれ故郷の五島に帰ってきた無職の中年男狸穴勇介(大森南朋)は、無為に町をふらふらするうちただ一人微笑みかけてきた左頬に大きなアザのある弁当屋の店員岡辺京子(三輪ひとみ)にむりやりキスをして下着の中に手を突っ込み、通りがかった京子の叔母あかね(美保純)に邪魔されて思いを遂げなかったが、翌日弁当屋の前で無視して立ち去ろうとする京子に土下座して、宗教団体の幹部から明るい笑顔を指導されている京子が赦すとお詫びの印と言って夕食に誘い、酔いつぶれた京子を部屋に連れ込んでレイプする。京子は不動産屋と関係を持ち手当をもらっていたが、うちに帰ると京子の母は愛人の男とセックスの真っ最中、叔母の店に行くと叔母もセックスの真っ最中で、行くところがないと自慰の最中の勇介の部屋を訪ねる。俺のこれが欲しいんだろと増長する勇介に京子は簡単に応じ、勇介を宗教団体の幹部の社長(田口トモロヲ)に会わせて仕事も紹介し、当座の金まで渡す。2か月がたち、話がしたいと部屋に来た京子をさっそく押し倒す勇介は、子どもができたという京子に、堕ろせと怒鳴り、お前と俺の関係はセックスだけやと宣言する。京子はおばに子どもができたことを相談し、父親が勇介であることを打ち明けると、あかねはあの男はやめとき、あれは腐ったトマトばいと答える。それを盗み聞きしていた勇介は、あかねの店を訪ね腐ったトマトで悪かったなとあかねをレイプし…というお話。

 主人公の行動は、身勝手で女と子どもに対しては居丈高に振る舞い暴力をふるいと、見てて吐き気がし、最後まで共感できません。そういう人物が、海辺を歩きながら、突然「人は、何故この世に生を受けるのでしょうか」などと大声で哲学的な問いかけをするものですから、落差に驚くというか、大きな違和感があります。
 そして、作品のストーリー展開は、京子との関係もあかねとの関係も、むりやりやってしまえば俺の女という、やった者勝ち、まるで女にはレイプ願望があると言わんばかりのもので、制作者の良識を疑います。

 作中登場する人々がみんなセックスに励み、みんなが性欲を露わにしているところが、人間の欲と業を描いているとされるところなのでしょうけれども、「業」というより、微笑ましく思えます。特に京子の母と愛人のおじさん、京子が見ていても全然平気ですし、昼日中からずう~っとし続けてて、性欲が強いというかすごい絶倫というか。
 あかねが後日勇介にいう「結局人間っちさ、自分が食う、セックスする、金が欲しいっちことから逃げられんとさ」という言葉が、この作品のテーマなのだと思います。ろくでなしにも人生はあるさ、みたいな。
 勇介の暴力や、女はレイプでもやってしまえば勝ちというような部分がなければ、人生論的なところで共感できたかなと思います。ただ性欲が抑えられない、セックス好きというレベルではなく、弱い者に暴力をふるう、自分の性欲を満たすためにレイプまでしてしまう、そういう罪深さを人間の業として描きたかったと、制作サイドは言うのでしょうけれども。

2014年6月14日 (土)

ポンペイ

 火山の噴火で滅びた街ポンペイを舞台に奴隷のケルト人と街の有力者の娘の恋と被災を描いた映画「ポンペイ」を見てきました。
 封切り2週目土曜日、新宿ピカデリースクリーン10(115席)午前9時の上映は3割くらいの入り。

 幼き日に北ブリタニアでローマ軍に家族を皆殺しにされたケルト騎馬族の生き残りマイロ(キット・ハリントン)は、17年後、無敵のグラディエイター(剣闘士)に成長し、ポンペイに連れてこられた。道中、ローマからポンペイへと帰る途中のポンペイの有力者の娘カッシア(エミリー・ブラウニング)の馬車の馬が倒れたところに行きあったマイロは馬の様子を見て安楽死させる。カッシアの父親から招かれてローマからやってきた元老院議員コルヴス(キーファー・サザーランド)はカッシアに結婚を求め父親に取引の条件として娘を求めたが、カッシアから拒否された。祭りの夜に見世物として連行されたマイロを見つけたカッシアは、暴れる馬をなだめるためにマイロの手枷を解かせて厩舎に入れ、自分も厩舎に入り、ともに愛馬に乗って街を抜け出すが、ローマ軍に捕らえられる。カッシアがマイロの命乞いをし、コルヴスはむち打ち15回を命じるが、密かに部下にマイロを翌日の最初の戦いで殺害するよう命じた。あと1回戦いに勝てば自由の身になるチャンピオンのアティカス(アドウェール・アキノエ=アグバエ)は、マイロと一騎打ちを予告され、マイロと憎まれ口をたたき合っていたが、翌朝になると、コロセウムの貴賓席でコルヴス、カッシア、カッシアの両親らが見守る中、剣闘士は足枷を付けられて一列に並ばされ、ケルト討伐の再現と称して数十人のローマ兵が襲い…というお話。

 圧政を敷き傲慢に振る舞うローマ帝国幹部と、有力者であっても逆らえないポンペイ市民、囚われの奴隷で命を削り続ける剣闘士という支配・被支配の構造を、奴隷・剣闘士側から描き、支配者の腐敗と醜さ、虐げられる者の苦しみと怨みを描いています。
 その構造の中で、天変地異に遭遇したとき、自分の利害のみを優先し窮状につけ込むか、恩義に報いあるいは窮状を見て他人を救うか、人のありようをも描いています。
 虐げられた側からの視線に、庶民の弁護士としては共感してしまいます。

 人の支配と被支配、危機の中での人間のありよう・生き様といったヒューマンな側面を捉えたスペクタクルですが、圧倒的な自然の猛威の前には、人の醜さも美しさもひっくるめて人間の無力を感じてしまいます。
 地震と地割れ・地崩れ、津波、火山の噴火による噴煙と火山弾そして火砕流。圧倒されるとともに、いかにもCGだよねとも思ってしまうのですが、こういう地獄絵を見ると、地震国・火山国で原発など造ってしがみつく連中の小賢しさが虚しく愚かしくも恐ろしく思えました。

 ローマのグラディエイターというと、ついテルマエ・ロマエⅡと比較してしまいますが、ローマ側の暴虐を描くポンペイを見てしまうと、ローマ皇帝とその側近の立場から描くテルマエ・ロマエには権力賛美の匂いを感じます。まぁフジテレビですもんね。

2014年6月 8日 (日)

美しい絵の崩壊

 親友の息子とできてしまう母たちの戸惑いと喜びを描いた映画「美しい絵の崩壊」を見てきました。
 封切り2週目日曜日、全国4館東京で2館の上映館の1つヒューマントラストシネマ有楽町シアター1(162席)午前10時の上映は3割くらいの入り。

 オーストラリアの海に面した家に住む幼なじみの親友ロズ(ロビン・ライト)とリル(ナオミ・ワッツ)は、ともに10代の息子と暮らしていた。ロズの夫ハロルド(ベン・メンデルソーン)がシドニーの大学で演劇専任教師の職を得てロズと息子トム(ジェームズ・フレッシュヴィル)にともにシドニーで暮らそうと話して先にシドニーへと旅立った夜、酔いつぶれたトムを介抱するためにロズのうちに泊まったイアン(ゼイヴィア・サミュエル)は、夜寝室を抜け出してロズの部屋に行き口づけをし、ロズもこれに応じる。深夜に台所に行きロズが脱いだジーンズを手にイアンの寝ている部屋から出て来たのを見たトムは事情を察し、直ちにリルの元を訪ねて泊まりリルのベッドで寄り添い朝起きたリルはトムと絡み合う。シドニーに家を確保して妻子を呼びに来たハロルドは、ここを離れないというロズに追いやられる。2年が過ぎ、演出家となって時々ハロルドの元を訪ねて仕事をするトムは、若き女優メアリー(ジェシカ・トヴェイ)と2股をかけたのちメアリーと結婚する。落ち込むリルを慰めながら、ロズは2人で耐えていこう、私もイアンとは終わりにすると宣言するが…というお話。

 予告編を見ていた段階では、言い争うシーンもあるので、片方の母と相手の息子ができてしまいそこから友情に亀裂が入り…という展開と予想していたのですが、あっという間に両方ともできてしまいますし、リルの夫でイアンの父テオが早くに事故死しているので、リルとトムができるのかと思ったら、人妻のロズとイアンが先にできちゃうというのも予想外でした。
 親友の息子とできてしまったという戸惑いと苦悩が、一応はテーマなのだと思うのですが、あまりそこで倫理的に苦悩するシーンがなくて、むしろ老いてもなお若いイケメンが夢中になる魅力的な私という自己陶酔と、いずれは若い美しい娘に男を奪われるという焦燥感に揺れるところでの苦悩の方が優越している印象です。

 ロズに拒絶されるなどしてうまく行かない場面で、イアンが最初にはハロルドにすべてあんたのせいだと毒づき、のちにはロズにすべてあんたのせいだと罵ります。ロズとイアンの関係は、イアンが夜にロズの部屋に行ってキスしたところから始まります。まぁ人妻のロズがそこで応じるべきではなかったでしょうし、第三者が大人のロズがたしなめるべきだったと評価するのはわかります。でも、当のイアンが、自分から仕掛けたのに、すべてロズのせいって、普通言えるでしょうか。ましてや、ハロルドに対して、ハロルドの留守を狙ってロズに言い寄った間男が、あんたのせいだなんて、一体どういう神経してたらそんなこと言えるんだろう。本当に、イケメンというだけの空っぽ男ぶりに唖然としました。
 映画を見た後、原作(ドリス・レッシング「グランド・マザーズ」)を読むと、ハロルドがロズと別居したのは息子たちが10歳くらいの時で、ハロルドとロズの離婚はイアンとロズの不倫とは関係がなく、ロズとイアンの関係は、その場面は描写されていませんが、むしろロズが誘ったことが示唆されています。また、イアンがハロルドに対してすべてあんたのせいだと言う場面はありません。そうであれば、イアンがロズにすべてあんたのせいだと罵る場面も比較的素直に受け取れます。もっとも、イアンの子供じみた身勝手な空っぽぶりは、原作でも十分に見られるのですが。

 終盤で、それぞれに若い女と結婚して娘を連れてロズとリルの元を訪ねたイアンとトムが海辺ではしゃぎ、幼い娘たちがロズとリルをおばあちゃん大好きと慕い、ロズとイアン、リルとトムの関係を知らない妻たちが微笑ましくそれを見守るというシーンがあり、私にはここが見せ場に思えました。隠された過去を乗り越えた/関係を隠して成り立つ平和の一面微笑ましい一面おぞましい様相が象徴的です(原作では、最初に破局の場面が置かれているので、終盤に登場するこのシーンは軽く流され、また結果が先に示されているのであまり緊張感はありません。映画での独自の見せ場と言えるでしょう)。
 スリリングでもアップテンポでもないのですが、さまざまな意味で予想を裏切る展開で、小さな驚きが持続しました。

2014年6月 7日 (土)

ラスト・ベガス

 幼なじみの悪ガキ4人組が70才になってラスベガスに集まりバチェラー・パーティーをするハートウォーミング系映画「ラスト・ベガス」を見てきました。
 封切り3週目土曜日、新宿ミラノ2(588席)午前11時の上映は1~2割の入り。

 独身を貫いてきた70才のビリー(マイケル・ダグラス)は、友人が死んだのを機会に31才の愛人との結婚を決意し、葬式の弔辞の中でプロポーズし、受け入れられた。ビリーから結婚式の招待を受けた幼なじみのサム(ケビン・クライン)とアーチー(モーガン・フリーマン)は、ラスベガスでビリーのバチェラー・パーティーをやろうと言い、ビリーが妻ソフィーの葬式に来なかったことから険悪になっている昔の悪ガキ4人組のもう一人パディ(ロバート・デ・ニーロ)をだまして誘い出す。ラスベガスで顔を合わせた4人は、ホテルの予約の手違い、パディがビリーに口論をふっかけるなどから気まずい雰囲気だったが、カジノのクラブで聴衆もなく歌うダイアナ(メアリー・スティーンバージェン)を囲んで盛り上がり、アーチーがカジノで大勝ちし、損を取り返したいとホテルのマネージャーがスイートルームを用意し、と進むうちに昔の調子を取り戻し、ラスベガスで老人パワーを発揮するが…というお話。

 子どもの頃の悪ガキ4人組が70才になってラスベガスで開いた同窓会。さすがに歳が70才ですからはしゃぎぶりもはちゃめちゃではなく少し控えめで、ちょっと恥じらいがあるのが微笑ましい。
 幼い頃も青年期も、そして70才になっても、同じ女性を好きになり張り合うビリーとパディ。この2人の関係と人情の機微がストーリーの中心となっています。そして子どものときも若者のときも老人になっても、もてる男はもてるし、もてない方はもてない。う~ん…身につまされるというか、やはりもてない方に共感してしまうなぁ。

 幼なじみのバチェラー・パーティーでラスベガスに行くと聞いた妻から、バイアグラとコンドームを渡され、浮気してきていいからその代わり何をしたかは自分に秘密にしてくれ(知りたくない)と言われ、妻公認で浮気ができると浮かれて画策し首尾よく若い美女を射止めたものの、結局妻の方がいいと、渡されたものを使用しないままに妻の元に帰るサム。映画を見終わったカミさんが、「あなたはあの4人で誰かなと考えたけど、やっぱりサムね」って。否定はできませんけど、その自信は何?それに、70才になってもできるかは…

2014年6月 1日 (日)

マンデラ 自由への長い道

 ネルソン・マンデラの自伝を映画化した「マンデラ 自由への長い道」を見てきました。
 封切り2週目日曜日、シネマスクエアとうきゅう(224席)正午の上映は3~4割の入り。

 南アフリカ共和国のヨハネスブルグで弁護士として開業していたネルソン・マンデラ(イドリス・エルバ)は、人種差別に反対するアフリカ民族会議(ANC)に誘われて加入する。運動にのめり込み女性支援者と不倫を繰り返すマンデラに、妻エブリンは反発し、離婚する。マンデラはウィニー(ナオミ・ハリス)と再婚したが、その後非暴力の抗議活動に対して政府側が発砲し69人が虐殺される事件が発生し、非暴力の運動を続けてきたANCは武装闘争に方針を転換し、マンデラは地下潜行し爆弾闘争を指導するようになる。逮捕されたマンデラは裁判で闘争指導の事実は認めて正当性を主張したが終身刑の判決を受け、ロベン島の監獄に送られる。当局から嫌がらせと逮捕を繰り返されるウィニーは、マンデラとの面会をしつつ、民衆に実力による反抗を呼びかけ、マンデラ釈放運動を繰り広げるが…というお話。

 自伝に基づく映画ということもあり、マンデラと2人の妻との確執、子どもとの関係、それをめぐるマンデラの思いが描かれ、そちらに興味を引かれました。
 最初の妻エブリンとはマンデラが運動にのめり込み家庭を顧みないこと、そして支援者との不倫が対立点となります。不倫の点は置いて、運動家と、運動へののめり込みに反発する配偶者という対立は古くて新しい問題といえます。やはり別離に至るべくして至ったと見るべきなのでしょうか。
 2人目の妻ウィニーとの関係は、マンデラが投獄されたのち、武装闘争・復讐を主唱するウィニーと、復讐を否定し恐怖のない平和共存を主張するマンデラの路線対立と、27年間のマンデラの投獄中に生じたウィニーの不倫が問題となります。ここでも不倫の点は置いて、27年間投獄され自由を奪われてきたが、それ故に闘争の現場を離れ仲間たちの犠牲を目の当たりにしてこなかったマンデラの、統治者・政治家の視線と、常在戦場で日々仲間たちが虐殺され慟哭する遺族たちと悲しみと憤りを共有してきたウィニーの虐げられし者・運動家の視線のズレは、やはりすれ違い続けるしかなかったのでしょうか。
 いずれの点も、考えさせられるところです。

 改めて考えてみると、非暴力運動ののち、政府側の虐殺事件が契機となったとはいえ、爆弾闘争を指導して逮捕投獄された者が、民衆運動として、さらには世界的な広がりで釈放運動のターゲットとされたことは、驚くべきことです。日本の政府・官僚、そしてマスコミの様子から見れば、およそ考えられないと言っていいでしょう。こういう感覚の方が、世界の歴史の中では硬直した例外的なものなのかも知れないと、少し考えました。
 いずれにしても、マンデラの釈放は、ウィニーと獄外のANCの長年にわたる運動なくしてはあり得なかったものであるはずで、少なくともマンデラはもう少しウィニーに対する感謝を見せた方がよかったと思います。ロベン島の監獄から本土へ移送されたのち最初の面会でもうウィニーが政権に利用されないように注意しろと囁いているように、運動のアイコンとなった故に政権とANCの権力闘争のコマと位置づけられたマンデラは、この時点で既にウィニーにとって運動の道具と扱われているとも言え、素直に感謝しにくかったのかも知れませんが。
 復讐を否定し、赦しを語り、平和を目指すマンデラのテレビでのスピーチでは、闘争のため自分は投獄され人生の大半を奪われた、しかし自分は彼らを赦した、私が赦せたのだから、あなたたちも赦せるはずだと語られています。27年もの拘束を受けた事実は重く(27年も拘束され続ける前に獄中で死んだ/殺された運動家もいますけど)、そのマンデラでも赦すというのだから、より弾圧を受けていない者は赦せるはずと、第三者はマンデラの言葉にうなずき感動することでしょう。確かに27年の投獄は重いですが、当局に愛する者を殺された遺族はその言葉に納得するのでしょうか。当局の手によっては妻も子どもも殺されていないマンデラに自分の気持ちがわかるかと反発することはないでしょうか。統治者の視点に立てない/立ちたくない一弁護士としてはそこに引っかかりを感じました。

 公式サイトのマンデラの紹介で、「白人以外で初めて法律事務所を開業する」と書かれています。え~っと、南アフリカでは、その昔、青年弁護士時代のモハンダス・カラムチャンド・ガンディーが、法律事務所を開業し、南アフリカで鉄道で一等車の切符を買ったのに非白人は乗れないと言われて放り出されたことが契機となって人種差別反対運動を始め、その経験がインドへ帰国したのちの運動にも活かされたという流れだったように記憶しているのですが。ボーア戦争(南アフリカ戦争、ブール戦争)の際にイギリス側で従軍したガンディーは非白人の同志ではないという扱いなんでしょうか。

« 2014年5月 | トップページ | 2014年7月 »

2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
無料ブログはココログ