« 2013年9月 | トップページ | 2013年11月 »

2013年10月

2013年10月27日 (日)

危険なプロット

 教え子が友人の家庭を描写した作文に才能を見いだし指導しながら続編を持ち焦がれるようになった高校教師の躓きを描いた映画「危険なプロット」を見てきました。
 封切り2週目日曜日、全国9館東京で2館の上映館の1つヒューマントラストシネマ有楽町シアター1(162席)午前10時35分の上映は4割くらいの入り。

 かつて恋愛小説を書いたが物にならず作家をあきらめた高校の国語教師ジェルマン(ファブリス・ルキーニ)は、担任を務める2年C組の生徒の作文を採点していた際、友人ラファ(バスティアン・ウゲット)に数学を教えるという口実でいつも公園のベンチから眺めていた家に上がり込みそこで「中産階級の女の香り」を漂わせ内装雑誌をめくる友人の母エステル(エマニュエル・セニエ)と遭遇したことを書いて「続く」とする作文を見つけ、興味をそそられる。ジェルマンはその作文を書いた生徒クロード・ガルシア(エルンスト・ウンハウワー)に真意を問い質すが、続きの作文を渡されてさらに興味を惹かれ、妻ジャンヌ(クリスティン・スコット・トーマス)とも意見を交わしながら、クロードを放課後残して小説の方法論等を指導するようになる。ジェルマンの指導と期待を受けてクロードはラファの家に通い詰めながらラファの家庭の中に入り込みその記述をエスカレートさせていくが…というお話。

 ストーリーは、クロードの作文で描写される友人ラファの家庭(ラファと父とエステル)、クロードの作文を読み批評する側のジェルマンの家庭(ジェルマンとジャンヌ夫婦)の2つの家庭の日常風景の描写を、ジェルマンとクロードが会う高校での会話を挟みながら進んでいきます。
 数学が苦手な友人ラファは、営業マンの父親ともどもバスケットボールが好きで、公園に面した家に住み、母エステルはかつて建築設計の仕事をしていたが今は専業主婦となりテラスを改装しようと内装雑誌をめくる日々。当初エステルはラファの元を訪れるクロードを好ましく思えず、出入りを禁止しようとしますが、クロードの策略でラファが試験で18点(フランスのテストは20点満点だそうな)の好成績を挙げたこと、夫が上司とうまく行かず独立を言いだしてその資金のために改装ができなくなったこと、夫と息子の留守を狙い澄まして訪れたクロードから母に捨てられた境遇を聞かされ同情したことからクロードを受け入れていくことになります。
 ジェルマンは、かつて恋愛小説を書いて出版したものの作家として成功せずあきらめて高校教師として勤めていましたが、クロードに才能を見いだしてその指導に情熱を注ぎ、画廊を任されている妻が有望な作品を見いだせず展覧会のアイディアに四苦八苦している様子を横目に見つつ、妻の話に生返事を続けます。妻もジェルマンから渡されてクロードの作文に興味を持ちますが、友人の家庭のプライバシーを盗み見るクロードにやり過ぎと感じ、またクロードの作文にのめり込んでいくジェルマンに対しては、ジェルマンがクロードの作文を見るようになって以降セックスレスになっていることを指摘します。
 2つの家庭の、ある種ありきたりの日常的な情景が、描写する者の視線・思惑によりスリリングで危ういように見え、またちょっとしたことで現実に危うくなるという、日常と非日常の境目あるいは境目のなさを味わう映画なのだと思います。ラファの家庭では、当初はその家庭に入り込み覗き見ようという意思、その後は母親を誘惑しようという意思を持った1人の高校生の登場によって、ジェルマンの家庭では、1人の高校生の作文に才能を見いだし引き込まれていったことによって、危うさが露呈/創出されていきますし、そもそもそのような意思を持った観察者の登場によりごくふつうの家庭でも危うさを見いだすことができるというわけです。
 原題は Dans la maison 、「家の中で」という意味です。どこの家でも、ごくふつうの家庭でも、表面上ありきたりの日常に見えてもそこにドラマがあり、危うさが潜んでいるという趣旨でしょう。
 そしてふつうで平和で平凡な家庭が危うさを孕んでいるというテーマとともに、教師と生徒という上下関係も確実なものではないという危うさもテーマとなっていると思えます。

 R15+指定ですが、ヌード系は男性陣のシャワーシーンの他はエステルと夫の短いベッドシーンが1シーンだけです。友人の家庭を徘徊して夫婦の会話を盗み聞きしたり友人の母を誘惑するというプロット自体が小中学生には見せたくないということかもしれません。

2013年10月19日 (土)

もうひとりの息子

 ユダヤ人とパレスチナ人の子どもの取り違えを描いた2012年東京国際映画祭グランプリ受賞映画「もうひとりの息子」を見てきました。
 封切り初日土曜日、全国唯一の上映館シネスイッチ銀座スクリーン1(273席)正午の上映(公開初上映)は7~8割の入り。観客の多数派は中高年層。

 テルアビブに住むイスラエル国防軍大佐アロン(パスカル・エルベ)と病院に勤めるフランス生まれのオリット(エマニュエル・ドゥヴォス)のシルバーグ夫妻の18歳になる息子ヨセフ(ジュール・シトリュク)は兵役のための検査で、両親と血液型が合わないことがわかり、DNA検査の結果、シルバーグ夫妻の子ではないことがわかる。ヨセフが生まれたハイファの病院では、湾岸戦争の初期、ミサイルを避けて避難をしたが、その際保育器に入っていた赤ん坊を取り違えたというのだ。取り違えの相手はヨルダン川西岸のイスラエル占領地域に住むパレスチナ人サイード(ハリファ・ナトゥール)とライラ(アリーン・ウマリ)のアル・ベザズ夫妻の子でパリに住む伯母の元でバカロレアに合格したばかりのヤシン(マハディ・ザハビ)。ヨセフは兵役の召集を取り消され、友人はヨセフの父親が手を回したものとうらやむが、真実を説明できず途方に暮れる。ヨセフの相談を受けたラビは、ユダヤ人の子だけがユダヤ人だと言い、ヨセフはユダヤ人でもないしユダヤ教徒でもないと答える。弟と半分が口癖だった兄ヒラルは、ヤシンがユダヤ人の子と知って態度を一変し、ヤシンに対し、おまえは敵だ、この家から出て行けと言い募る。ヤシンとヨセフは互いの家を訪れ…というお話。

 18年近く育てた息子が自分たちの子ではなく別人の子とわかり、しかもそれが対立する民族の子だと知った両親の動揺・困惑と息子への対応、そしてその事実を知らされた息子の困惑と周囲に現れた拒絶者との関係と人生の選択がテーマの作品です。
 総じて言えば、父親たちは苦悩し事実を直視することを避け先送りし、母親たちは困惑しつつも早々に事実を受け入れ育ててきた息子にも血縁があることがわかった息子にも親愛の情を示し、幼い妹たちはさして困惑も見せずに新たな事態に対応し、本人たちは困惑し周囲の拒絶者の出現にさらに困惑してその苦悩を相談できない状況に苦しみながらも比較的淡々として事実を受け止めていくという流れです。
 イスラエルの占領政策のために職を失って無職状態のサイードには、特に相手の父がイスラエル国防軍大佐とあって、思うところ含むところは多々あると思いますが、苦渋を見せつつまた寡黙に大人の対応をしています。
 ユダヤ人(イスラエル人)とパレスチナ人(アラブ人)の取り違えという設定にしては、双方の家族で、相手方の民族(敵性)故の拒絶を明確に示すのはヤシンの兄ヒラルだけです。双方の家族がイスラエル軍エリートの家庭と父親は現在失業中とはいえ伯母の家にではありますが息子をフランスに留学させられる家庭という恵まれた家庭に設定したためかと思えますけど、見る前に予想したより遥かに淡々とした対応で、反感・怒りではなく苦渋・困惑が描かれています。
 登場人物が、困惑・苦悩しながらも、感情的・攻撃的にならずに事態を受け止めていこうとしていて、その結果、前向きに生きようとする姿に静かな感動を覚えるという作品に仕上がっています。

 父親のあり方を考えるとき、この作品での2人の父親の態度には、疑問を感じます。自分の子が対立する相手方の民族の子と知ったことへの困惑はもちろんあるでしょうけど、それを知って自分以上に困惑しているに違いない息子を支える行動が、少なくとも当初には、まったくありません。取り違えだとしても、君を大事に思う気持ちに変わりはないと、それくらいはすぐに伝えるべきだと思うのですが。

 本人は、内心の困惑はあるにしても、全然態度を変えていないのに、取り違えで血縁が違うと知った途端に態度を翻すラビとヒラルの言いぐさに、民族とは何か、民族紛争での敵とは何かを考えさせられます。
 昨日まで大切な仲間だった人物が、裏切り行為も翻心もないのに、生まれが違うとわかったというだけで、敵扱いされる。本人の「意思」でも「行為」でも「生き方」でもなく「血」「生まれ」だけが基準で敵か味方かが決まる。民族紛争の当事者やナショナリストには疑いもない基準なのかもしれませんが、こうした取り違えがわかったケースを考えると、民族とか国民とかを基準とした紛争や対立がいかに不毛なものか改めて実感します。

 ヒラル以外は感情的な態度を取らず、こんなに静かに対応できるだろうかという疑問を感じ、特にヤシンはいい子過ぎるという印象は持ちますが、民族紛争の不毛性を考えるとともにしみじみとした感動を得られる作品だと思います。

2013年10月14日 (月)

タンゴ・リブレ 君を想う

 看守がタンゴ教室で知り合った受刑者の妻に惹かれる恋愛葛藤映画「タンゴ・リブレ 君を想う」を見てきました。
 封切り3週目月曜日祝日、全国2館・東京でも2館の上映館の1つヒューマントラストシネマ渋谷シアター3(60席)午前9時40分の上映は8~9割の入り。

 規則を忠実に守る一人暮らしの中年男の看守J・C(フランソワ・ダミアン)は、通っているタンゴ教室に新しく入ってきたアリス(アンヌ・パウリスヴィック)に惹かれる。J・Cは翌日刑務所でアリスが2人の受刑者と面会し服を肌脱ぎしているところを目撃する。タンゴ教室で、囚人の家族と個人的に接することは規則で禁じられていると伝えるJ・Cに対してアリスはそれなら踊らなければいいと突き放す。15歳の息子アントニオ(ザカリー・シャセリオ)を連れて、手分けして交互に夫のフェルナン(セルジ・ロペス)と愛人のドミニク(ジャン・アムネッケル)と面会し、集団面会室で抱擁やキスをするアリスを凝視するJ・Cをいぶかって関係を問い詰めるフェルナンに対し、アリスはタンゴ教室で一緒だと答える。アリスにタンゴなどやめろといって、あんたもやってみればいいと言い返されたフェルナンは、休憩時間にアルゼンチン人を探してタンゴを教えろと迫るが断られ、騒ぎになったところへ止めに入った看守たちからJ・Cを見つけ飛びかかる。思いを募らせるJ・Cはアリスに連絡をしようとするが通じず、他方懲罰の解けたフェルナンは刑務所内でアルゼンチン人からタンゴを習い始め…というお話。

 アリスを中心に夫フェルナン、愛人ドミニク、横恋慕の看守J・C、息子アントニオと、4人の男たちの愛憎と嫉妬に揺れる思いが、タンゴのダンスと音楽を媒介にどのように変化し展開して行くかがテーマであり見どころの作品です。
 フェルナンとドミニクは長いつきあいの友人同士。ドミニクがアリスに付きまとう男をボコボコにしてアリスとドミニクのつきあいが始まり、その後フェルナンともつきあうようになったアリスがフェルナンと結婚という展開をして、お互いの存在は承知の上。アリスは集団面会室で2人と交互に面会してキスと抱擁を繰り返しています。でも、ドミニクがフェルナンに対してアリスと寝るなと言い、フェルナンがアリスは俺と結婚したんだと返すように、100%納得してるというわけでもない様子です。
 アントニオは15歳で難しい時期に、父親のはずだったフェルナンから本当の父はドミニクだと告げられ、そこへJ・Cのこともあり、母さんが誰とでも寝るからこういうことになるんだと癇癪を起こします。
 その微妙な関係の中に、「規則」を破って入り込むJ・C。口では「規則」を言いながら、距離を置いているアリスに対してある面ストーカーのようにこだわり続けます。
 この関係がいつ破裂するかという危うさを微妙なラインでコントロールする様子が監督の腕の見せどころになっています。

 この作品では、職業上の禁忌というかプロフェッショナルの倫理が問われ、考えさせられます。受刑者の関係者と個人的に接してはならない、より端的には受刑者の妻と不倫してはならない/横恋慕してはならないというのは、仮に規則で定められていなかったとしても、職業柄やってはならないことだと思います。公務員として買収されたりそれを疑われたりしないように、そして他の受刑者から公平を疑われたり反抗の口実にされないように、自らの職業についての自覚があれば当然に自ら襟を正すべきことがらと理解できるはずです。
 私の職業柄、弁護士の場合を考えますと、刑務所の看守などの公務員の場合とは守るべき利益状況が少し異なりますが、事件の当事者やその関係者との不倫や恋愛がそれに当たると思えます(依頼者の妻と不倫すれば依頼者と利害が対立することになり、相手方やその妻と不倫すれば当然依頼者からは相手と通じているなどと疑われることになります。依頼者本人ととなると、依頼者自身の主観はそれでもよかったりするかもしれませんが、1つには弁護士と依頼者というどっちが上かケースにより微妙なこともありますが上下関係があるときにはそれを背景としてセクハラ問題があることと、もう1つ別の観点ですが事件を第三者の目で冷静に判断するべき弁護士の第三者性が損なわれることから、やはり職業柄避けるべきと考えられます)。私の経験上は、事件の当事者やその関係者については、異性としてどれだけ魅力的な人であれ、そういった感情は端からシャットアウトされるというか感じたことはありません。
 J・Cの場合、タンゴ教室で出会い惹かれた時点では受刑者の妻・愛人とは知らなかったという点で同情すべき部分が全くないではないと言えるかもしれませんが、既に不倫してしまってから受刑者の妻と知ったというのならともかく、出会った翌日にはもう受刑者の妻と知ったわけですから、そこで踏みとどまり思いを断ち切るのが当然だと思います。好きになったものは仕方がない、というのが制作者側の提示かもしれませんが、プロフェッショナルとしては明らかに失格だと思います。
 J・Cは、冒頭シーンで、見渡す限り車が1台も見えない平原の道路で、信号で停車ししかも停止線を数十cmオーバーしたのをバックして信号が変わるのを待つことに象徴されるように、規則の遵守を心がけてきたのに、なぜここで規則を守れなかったのか、「愛」の力はそれほど大きいというのが制作者の問題提起にも見えます。しかし、J・Cは、自分の職業を自覚してその禁忌の意味を理解して行動していたのではなく、ただ規則を守っていればいいという認識だったから、受刑者の妻と不倫してはいけないという規則の本質的な重要性が見えなくなり車が通行していない道路での信号停止と同レベルの認識で規則違反に至ったのではないかと思うのです。形式的に規則は守ろうという意識だから、破るとなったら重要なルールもその重要性を実感できないままに破ってしまうということなのでしょう。
 そういったあたりで、プロ意識というか、プロフェッショナルの倫理について、J・Cの自覚のなさを反面教師にせねばと、思ってしまうわけです。作品の味わいとしてはそういう思考は妨げになるかとも思いますが…

2013年10月13日 (日)

ランナウェイ 逃亡者

 30年前に組織が行った犯罪で指名手配され潜伏していた男が素性を暴かれ、娘のためにも無実を証明しようと奮闘するサスペンス映画「ランナウェイ 逃亡者」を見てきました。
 封切り2週目日曜日、新宿武蔵野館スクリーン2(84席)は5~6割の入り。観客層は圧倒的に中高年。

 1969年にベトナム反戦運動団体から分派し数々の爆破事件を起こした極左学生グループ「ウェザーマン」。ベトナム戦争の終結と共に、活動を終えた彼らはその後忽然と姿を消したが、ミミ・ルーリー、ニック・スローン、シャロン・ソラーズの3人は銀行襲撃で守衛が殺害された事件で指名手配されていた。事件から30年後のある日、子どもも大きくなり仲間に相談して自首しようとしていたシャロン・ソラーズ(スーザン・サランドン)が電話の盗聴を続けていたFBIに逮捕された。地元紙記者のベン・シェパード(シャイア・ラブーフ)は、このような事件を率先して引き受けていた地元の公設弁護人ジム・グラント(ロバート・レッドフォード)が弁護を引き受けなかったことに疑問を持ちジム・グラントの過去を調査するうちにジム・グラントがニック・ソラーズであることを知り、スクープする。危機を悟ったジム/ニックは11歳の娘イザベル(ジャッキー・エヴァンコ)を連れて雲隠れし、イザベルを兄ダニエル(クリス・クーパー)に預けて一人逃走する。ニックは、娘の人生のためにも自分が銀行襲撃には参加しなかったことを証明しようと、実行犯のミミに会うためにかつての仲間たちを尋ねて回るが…というお話。

 30年も前の事件の捜査で今なお関係者の盗聴を続けているFBIの執念にまず驚きます。極左グループの犯罪なので、公安的な関心から続けているのでしょうけど、殺人罪などの公訴時効がなくなり(2010年4月27日時点で時効未成立の事件に適用)、組織犯罪の捜査のためには盗聴が認められるなど、厳罰化の世論を背景に捜査の制限がどんどん緩やかになってきている日本でも同じような状況になっていく/来ているんでしょうね。

 ベトナム反戦運動の過程で犯された犯罪が取り扱われていることから、その政治的な意味や運動論的なものも含めた評価が前面に出るかなとも思ったのですが、過ちを犯したけれども私たちは正しかったというミミと一般市民に犠牲を強いることには最初から反対だったというニックの議論は、ミミからあなたが来ていれば冷静な判断ができたはずで守衛が死ぬこともなかったはずと言い返され、守衛を殺害することになったことは誤りだという点で一致していて、銀行襲撃以外の国家機関に対する爆破事件は議論の対象にもなっていないので、深まらずに終わります。他のメンバーは、過去のことは振り返りたくない、関わりたくないという姿勢ですし。

 そのため、作品の焦点はむしろかつての仲間との関係、思い、絆というところにあるように思えます。原題も The Company You Keep (守るべき仲間、守っている仲間)ですし。
 事件から30年、潜伏し別人を名乗って新たな生活を築いている3人に対して、かつての仲間たちは、潜伏を助け、裏切ることなく暮らしてきました。シャロン・ソラーズの逮捕で過去を蒸し返され現在の生活が脅かされるようになり、ニックの接触を迷惑に思う仲間たちも、ニックの必死の思いを拒否はせずにこっそりと対応し、ニックを裏切って通報するようなマネはしません。そして6つの名前を経由してほぼ完璧に存在を隠しているミミも、今でも自分たちは正しかったと考え、権力に投降するときは権力が誤りを認め謝罪したときだと論じながらも、ニックの前に姿を現します。そして、11歳の娘に犯罪者の子としての人生を歩ませたくないという思いからミミに自首と証言を迫ったニックは、FBIの追跡からミミを逃がすことを優先します。
 そういうかつての左翼仲間の自己犠牲を伴う友情が人情味ある形で描かれているところが、この作品の一番の味わいかなと思えました(極左って、仲間割ればかりしているというイメージで描かれがちですし)。
 そして仲間以外でも、彼らにシンパシーを持ち支援する人が少なくないこと(昔の言葉で言うと「人民の海」ですね)もしみじみとした共感を拡げます。
 こういうかつての左翼への少し温かな視線の映画は珍しいのかもと思います。既に左翼が脅威ではなくノスタルジーの対象であるということかなとも思いますが。

 ジム/ニックが守りたかった11歳の娘イザベル(イジー)役のジャッキー・エヴァンコ。天使の歌声で名高い歌手で、この作品がスクリーンデビューですが、むちゃくちゃかわいい。
 ジムの年齢は明確にされていません(ベトナム反戦の頃学生でそれから30年ですから50代、1年前に死んだ年の離れた妻が48歳ですから50代後半でしょうか)が、77歳のロバート・レッドフォードが演じるという点からみても、逆に11歳の娘がいるという点からみてもちょっと年齢設定に無理があるよなという思いが残りました。

2013年10月12日 (土)

そして父になる

 第66回カンヌ国際映画祭審査員賞受賞作品「そして父になる」を見てきました。
 封切り3週目土曜日、シネ・リーブル池袋シアター2(130席)正午の上映は7割くらいの入り。先週土曜日満席で見られなかったリベンジで上映40分前に行きましたが、その必要もなく余裕でした。

 大手建設会社のエリートサラリーマン野々宮良多(福山雅治)は、土日もなく働き続け、6歳の一人息子慶多(二宮慶多)に対しては負けても悔しがらないおっとりしたところに不満を感じながらピアノとお受験を勧める教育パパだった。ある日、みどり(尾野真千子)が慶多を里帰り出産で産んだ前橋の病院から連絡があり、慶多は同じ日に生まれた別の子どもと取り違えられ、良多・みどり夫婦と親子でないことが判明した。実の息子(黄升炫)は群馬で電気店を営む斎木雄大(リリー・フランキー)・ゆかり(真木よう子)夫婦の下で琉晴と名付けられ妹・弟に囲まれのびのびと育っていた。良多はあまり働かず病院からの慰謝料の金額を気にする雄大に反感を持つが、子どもたち同士はすぐに仲良しになる。慶多も琉晴も引き取りたいという良多に雄大・ゆかりは反発し、週末に交換でお泊まりをするうちに、慶多か琉晴かの選択に苦しんだ良多は…というお話。

 「血のつながりか、共に過ごした時間か。」と公式サイトのキャッチにもあるように、子どもの取り違えという事件を素材に、親子関係で血縁(産みの親)と実績ないし想い出(育ての親)のどちらが重要かということが、少なくとも形の上では最大のテーマになっています。
 育てている子が自分の子でないことが後でわかったらというクエスチョンは、母親にはこのケースのような取り違えということでもなかったら起こらないでしょうけれども(人間以外では、カッコウの子を育てるモズとかホトトギスの子を育てるウグイスとかよくあるわけですけど)、父親にとってはままありうることでもあります。
 そういうとき、自分だったらどうするかを考えると、子どもを持つ父親としての経験で考えると、私には、(取り違えてすぐわかった場合は別ですが、何年も育てた後で)今育てているその子を手放すという選択はまったく考えられません。(取り違えではない父親違いの場合、裏切り者の)妻とは別れるとしても、育ててきた子どもの方を手放して血縁のある方の子どもを育てる(子どもを交換する)という選択はあり得ないと思うのですが。映画の中で良多がその選択に悩み続け、病院側は「こういう場合100%交換が選択されている」と説明することには、私は、違和感があったというかまるで信じられない思いでした。もちろん、取り違えられたもう一組の夫婦が交換を強く主張する場合、自分の希望だけで決められるわけではないですが、でも私の感覚では、現実に子を育ててきた親なら同じ選択をする人が多いと思うのですが。双方で話し合って、そのまま育て続けて、子どもが大きくなったときに事情を話し、実は君が6歳の時にそのことがわかったんだけど私は君のことがかわいくてかわいくてとても好きだったからこのまま育てさせてくださいってお願いして君を育ててきたんだ、でももう君も大きくなったから自分の意思で実の親のところに行ってもいい、もちろん私は君と一緒にいたいと思ってる、君には贅沢にも2人の父親と2人の母親がいるんだ、得した気持ちにならないか、みたいな説明をするのが、私の場合、ベストチョイスだと思います。

 ということで、表のテーマの血縁か想い出かの選択は、私にとっては悩むテーマに感じられなかったので、この映画の実質的なテーマは、順風満帆のかっこいいエリートに見えながら実は父親失格の良多が、いくつか事件を経て父親の心情を持つに至るという父性の目覚めにあると見ました。タイトルも「そして父になる」ですし。
 ワーカホリックで子どもと過ごす時間をほとんど作らないでいて、ピアノの発表会でうまくできなかった慶多が上手な子に拍手しているのに対しておまえは悔しくないのかと会場で叱咤するシーンなどに象徴されるように叱ることに重きを置く教育パパの良多は、傲慢なジコチュウにも見え、すごく性格悪く思えます。交換でのお泊まりに来たよその家庭でのびのび育ってきた琉晴にも箸の持ち方が間違っているとか、テレビゲームは1日30分とか一方的にルールを押しつけ、ピアノなど習っていないから鍵盤を掌で叩いてふざけ始める琉晴にいきなり怒鳴り叱りつけるといった具合。お~い、こいつ6年間も子どもとどういうつきあい方してたんだよって思う。琉晴に突然今日から「パパ」と呼べといい、どうしてと聞く琉晴に「どうしても」って、それこそ子どもかよって思う。せめてそれなら「おじさんはね、琉晴くんのことがとっても好きで、君のパパの気分を味わってみたいんだ」とか、少しでも子どもが何か納得できそうなことを考えればいいのに(この程度じゃまだ無理だとも思いますが)。それに良多、自分は継母になる父の後妻(風吹ジュン)に対して、大人になった今でさえ頑なに「お母さん」と呼ばないで義母を苦しめ続けています。それでどういう神経して、6歳の子どもにはいきなり自分をパパと呼べって言えるんだろう。
 そして極めつけは、父母の元に帰りたくて家出して雄大・ゆかり夫婦の元に戻った琉晴を連れ戻しに行った際、「ご飯も食べさせずに帰せっていうの?」と気色ばむゆかりを無視して子ども部屋に向かい、ただひと言「琉晴、帰るぞ」と怒鳴ります。これを聞いた琉晴はそのまま積み木で遊んでいますが、慶多はしょんぼりと押し入れに隠れてしまいます。せめて「慶多、久しぶりだな。元気にしてるか」くらい言って抱きしめるなり頭なでるでしょ、親なら。ま、良多の頭では、慶多に対しては「親じゃない」んでしょうけど。人間としてどうよ、それって思う。究極の選択に悩む親の立場で涙が出たという観客が多いようですけど、私は良多にはほとんど共感できず、このシーンで慶多の心情を思って涙が出ました。

 終盤、慶多と離れて感情的になっているみどりから良多が「あなた、慶多が私たちの子どもじゃないと知ったとき、なんて言ったか覚えてる?」と問い詰められるシーン。いかにも男女の修羅場の匂いが立ちこめています。こういうとき、まぁ問い詰める方は覚えているから問い詰めるというだけなんでしょうけど、女性側が覚えていて、問い詰められた男は覚えていなくてしどろもどろという場面が多いような気がします。覚えていないと言ったらそれはそれで怒りを買うのでしょうけど、当てずっぽうで答えるとさらなる修羅場が待っています。「母親ならわかったんじゃないかって?」とぼっそりいう良多に、あなたもそういうふうに思ってたのねと嘆くみどり。いやそんなことないよと言いつくろっても時既に遅し。その上で、「あなたは、『やっぱりそういうことだったのか』って言ったのよ」、闘争心に欠ける慶多は自分の子にふさわしくないって思ってたんでしょ、私その言葉を一生忘れない、と案の定とどめを刺されます。こういう展開は、予測できても避けられないのかも。

 弁護士としてみたとき、裁判シーンにも引っかかりがないでもなかったですが、一番印象に残ったのは、良多が大学時代の知人の弁護士のところへ相談に行き、慶多と琉晴の両方を引き取りたいと言った上で、ファイルを引っ張り出してイギリスでは子育てに不適切な親の親権を剥奪できる制度があるようだとか言うシーン。その場で弁護士がそれはかなり極端なケースでこのケースではとても無理と一蹴しますが、こういう相談者時々いるんですよね。ネット情報とかで聞きかじった情報を、具体的な事例とかちゃんと検討しないで自分に都合よく解釈して、弁護士から見たらこのケースにそんなの当てはまる訳ないじゃないと思うものを自分にぴったり当てはまると言い張る。弁護士のところに相談に来ればそれが誤解だとわかるわけですが、弁護士に相談しないでそう思い込んでいる人はその何倍もいるんでしょうね。なお、児童の虐待等があれば親権を喪失させる制度は、別にイギリスだけにある訳じゃなくて、日本にもあります。そういうあたりも含めて、ネット情報でわかった気になっている人がたくさんいるであろう現状(近年弁護士会の法律相談センターへの相談件数はがた減りで、ネット情報などでわかったと思って弁護士に相談しない人が増えているのだと思います)には、一弁護士としても、元第二東京弁護士会法律相談センター運営委員長としても、憂慮しています。

2013年10月 5日 (土)

エリジウム

 究極の格差・隔離社会で貧困者・庶民の住む地球から富裕者の居住するエリジウムに挑んだ男を描いた社会派SF映画「エリジウム」を見てきました。
 封切り3週目土曜日、シネ・リーブル池袋シアター1(180席)午後0時30分の上映は1~2割の入り。

 21世紀末、汚染され人口過剰になった地球を嫌い、超富裕層は宇宙空間に建設されたスペースコロニー「エリジウム」に移住した。エリジウムの家庭にはあらゆる病気を治療できる「医療ポッド」が備え置かれていたが、医療ポッドはエリジウムの市民と認識しない限り作動しないよう設定されていた。2154年のスラム化したロサンジェルスで、かつて車泥棒として才能を発揮し保護観察中のマックス(マット・デイモン)は更生してアーマダイン社の工場で働いていたが、照射炉の故障を上司に強要されて中に入って修理していて致死量の放射線を浴びてしまう。ロボットから余命5日と宣告され薬の受領書とだまされて退職同意書にサインさせられアーマダイン社を追い出されたマックスは、生き延びるためにはエリジウムに行って医療ポッドで治療するしかないと思い定め、エリジウムの市民IDの偽造と宇宙船での密航を世話しているスパイダー(ワグナー・モーラ)に会いに行った。スパイダーはマックスをエリジウムに送り込む代償として、地球に住むエリートを誘拐してその脳のデータを盗み取ってその財産を奪うことを求め、マックスに脳のデータをやりとりする装置とロボット(ドロイド)とも闘えるアームスーツを装着する。マックスは、襲撃対象として、致死量の放射線を浴びて瀕死の自分をぼろ布のように捨てたアーマダイン社のCEOジョン・カーライル(ウィリアム・フィクナー)を選び、護衛ロボットとの激しい戦闘の末にカーライルの脳のデータを自分の脳に移行することに成功するが、そこにはエリジウムの防衛長官デラコート(ジョディ・フォスター)がクーデターを起こしてエリジウムの支配者となるためのエリジウムのシステムのリブートデータが入っていた。マックスはデラコートの命令で捕獲のために襲撃してきた犯罪歴豊富な「民間協力者」クルーガー(シャールト・コプリー)から命からがらスパイダーの元に逃げ戻るが…というお話。

 格差社会で虐げられる労働者・庶民、治療技術があるのに庶民はそれを受けられずそのために命が危機にさらされる幼い娘とその娘を抱えてけなげに生きる母と、庶民の弁護士としては、共感と、悪辣な行政・企業・政治家に対する怒りを強く感じ、いろいろに考えさせられる映画でした。

 幼い頃に孤児院で、天上に見えるエリジウムを眺め憧れるマックスに、修道女があちらから見ればこちらが美しいんだと宇宙空間から見た地球の写真を渡し、自分がどこで生まれたのかを忘れるな、あなたは特別な存在なんだと、貧しく生まれても自分に誇りを持てと諭すシーン、後から孤児院に来た少女フレイ(アリス・ブラガ)にマックスがいつかエリジウムに連れて行くと約束するシーンが美しく印象的です。
 年を経て犯罪を重ね工場労働者として未来の展望を描けない日々を送るマックスと、看護師となり多くの患者の世話に追われ急性白血病でエリジウムの「医療ポッド」で治療しない限りは救えない娘マチルダ(エマ・トレンブレイ)を抱えて疲労の濃い顔で「私の人生は複雑なの」と語るフレイが再会し、そこからスムーズには行かないままに幼き頃のエピソードと重ね合わされていくストーリーが最後には泣けてきます。

 究極の格差社会・隔離社会「エリジウム」は、おそらくは南アフリカのアパルトヘイト政策と公式にはその政策が放棄された後も残る現実を象徴しているのだと思いますが、日本社会にとっても他人ごととはとても思えません。
 保護観察中のマックスは、バスを待っているときに前科者には問答無用で所持品検査を強行する警察官ロボットに冗談を言ったために反抗したとして左腕を叩き折られて連行され、保護観察ロボットに言い訳をしようとしても聞いてくれさえせずに保護観察期間を延長されます。
 まったく人情味のない行政官に実際には行政側の都合を「規則だ」といわれて市民が窓口で追い返される姿は、日本の生活保護行政で前々から指摘され近年生活保護バッシングのキャンペーンを経てさらに強化されている水際作戦を始め、さまざまな場面で見ることができます。
 エリジウムでは、医療技術が完璧になり技術上はどんな病気も治せるにもかかわらず、その治療を受けられるのは富裕層だけで、庶民はその完璧な治療を受けることができずに死んでいく運命です。
 現在の医療技術は完璧にはほど遠いですが、今でも、医療技術の発達により治療できる病気は増えていても、最先端の治療を受けられるのは富裕層だけで、庶民は経済的事情からその治療を受けることができません。近年では、企業がリストラをやり放題で社会保障が手薄なために経済事情で健康保険料を滞納している人が増えていますが、そういう人々から保険証を取り上げて医療を受けさせないというようなことが、平然と行われています。貧しい者は医療など受けられなくていい、ましてや先端医療が受けられないのは当然だという冷酷な価値観が、この国の役人や政府に共有されつつあるのではないでしょうか。
 左腕を骨折しても休むと解雇されることを恐れるマックスはそのまま業務に就きます。そのマックスに上司は後ろから遅刻で半日分の給料を差し引くと宣告します。マックスが担当する照射炉のドアが故障して閉まらなくなると、上司は何を作業を遅らせているんだと言いがかりをつけ、中を見たマックスがドアが中のもので引っかかっていると伝えると、中に入って直せと命じます。マックスが拒否すると、上司はそれなら中に入れる奴を雇う、おまえは首だと言い、マックスがしかたなく炉の中に入って引っかかりを外すとドアが閉まって放射線の照射が始まります。照射炉は「有機物反応」と警報を出しますが、自動停止する設定ではなく、周りの労働者が助けようとするのを上司は手遅れだと言って追い散らします。照射が終わって倒れているマックスをロボットが運び出して致死量の線量を浴びており余命は5日と宣告し、それを窓越しに見たCEOのカーライルは汚いから会社から追い出せと指示し、その意を受けたロボットがぐったりしているマックスを薬の受領書とだまして退職同意書にサインさせます。
 不安定な労働者に対しておまえの代わりはいくらでもいると脅しつけて低賃金の過酷な労働を強いてそれにより企業が儲けているという構図は、非正規雇用が増え、正社員もリストラに脅えあえぐ日本社会でも見られます。労働者を犠牲にして儲けたいという欲望をむき出しにして「労働規制の緩和」「産業競争力の強化」などといって派遣法の抜本改正とか「解雇しやすい特区」(私の感覚では、「ブラック企業野放し特区」)などを次から次に言い出す連中と、消費税増税で庶民から巻き上げた金を法人税減税と公共事業で大企業と土建屋にばらまくような庶民の犠牲で企業を優遇する政府の下では、日本社会はこの映画で描かれている地球の姿へとどんどん近づいていくことでしょう。カーライルの姿に1年365日1日24時間死ぬまで働けと言っていたという今は国会議員になってしまった経営者をダブらせたのは私だけでしょうか。

 この映画の公式サイト、私が度々けなしているソニーピクチャーズにしては破格の情報量で、登場人物紹介がきちんとなされている上に、アーマダイン社のWebサイトが作られけっこう充実しています。ただ、会社概要の「IR」(投資家向け情報)で、「2158年はアーマダイン社にとって記念すべき年でした。アーマダイン社史上初めて、利益が18兆ドルを超えました。」としたうえで、CEOとして、映画では2154年に死んだはずのジョン・カーライルの言葉を掲載しているのはケアレスミス。慣れないサービスするからかなぁ。

« 2013年9月 | トップページ | 2013年11月 »

2017年9月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ