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2013年8月

2013年8月31日 (土)

ホワイトハウス・ダウン

 ホワイトハウスが襲撃・占拠されるアクション映画「ホワイトハウス・ダウン」を見てきました。
 封切り3週目土曜日、新宿ミラノ3(209席)午前11時15分の上映は2~3割の入り。

 議会警護官のジョン・ケイル(チャニング・テイタム)は、娘エミリー(ジョーイ・キング)が憧れるジェームズ・ソイヤー大統領(ジェイミー・フォックス)の警護官になろうと申込み、面接の日にエミリーを連れてホワイトハウスに入館するが、面接ははかばかしくなかった。ジョンは、面接後、エミリーとともにホワイトハウス見学ツァーに参加したが、議会ホールで爆発があり、ホワイトハウスの警備が手薄になったところを軍事訓練を受けた集団がホワイトハウスに潜入し、ホワイトハウスは占拠され、大統領の側近は射殺され、ツァー参加者は人質にされてしまう。トイレに行っていたエミリーは隠れて犯人たちを撮影したビデオをYouTubeにアップし、エミリーを探しにでていたジョンは銃撃されている大統領を発見してともにホワイトハウスの中を逃走し…というお話。

 ホワイトハウス襲撃の陰謀アクションものという設定を素材とした、娘を思う親心を描いた作品と評価すべきでしょう。
 ホワイトハウス襲撃に関しては、バラク・オバマをモデルにしていることが明らかな現職大統領が、イランに対し大量殺戮兵器保持の証拠はないと判断して平和条約の締結を申し入れ、これに対して危機感を持った軍需産業と癒着した者たちがホワイトハウス襲撃を敢行したという設定が目を引きます。アメリカのネオコンどもが敵意を煽り立てたイスラム原理主義者や、「ならず者国家」を悪役に据えるのではなく、戦争で利益を上げる死の商人の問題点をクローズアップし、アメリカ政府がイランに対して敵対していることを批判的に取り上げるもので、健全な政治的批判精神が感じられます。政府と政治家の大勢に迎合してアラブやイスラムを悪者にする映画が多数見られる中で、ハリウッドでこういう映画が作られるのを見ると、ちょっとホッとします。それは、オバマ大統領に対する注文と期待でもあるのでしょうけど、昨今のシリアに対する爆撃に傾斜する姿を見ると、オバマがいつまでエミリーのような少女の英雄でいられるか、心もとないところです。

 娘を思う親心というテーマでは、元妻とともに暮らす娘との面会で、父親に見てもらおうと籏を振る役を6週間も練習したのにジョンが発表会の日を間違えて見に来なかったことに失望してむくれるエミリーを、ソイヤー大統領に憧れる娘を喜ばせようとホワイトハウスに連れて行き、その後襲撃を受けながら命がけで娘を助け出そうとする姿、父と娘の信頼の絆が感動的です。ジョンが見に行かなかった発表会のエピソードが最後に効いてくる演出も巧みです。
 基本はアクション映画ですが、実際に見た感じでは、こちらの親子の絆の方で泣ける映画というべきかもしれません。

 それにしても、例によって公式サイトの情報量が異様に少ないソニーピクチャーズ。予告編とスティール写真、上映劇場の他には「ストーリー」と「キャスト・スタッフ」くらいで「キャスト・スタッフ」は名前が書いてあるだけ(写真も経歴も何もなし)。「ストーリー」はサイトに書いている全文でも「議会警護官のジョン・ケイル(チャニング・テイタム)は、ジェームズ・ソイヤー大統領(ジェイミー・フォックス)のシークレットサービスの面接で不採用となる。幼い娘をがっかりさせたくないと、娘と共にホワイトハウスの見学ツァーに参加したが、謎の武装集団がホワイトハウスを占拠する。今や合衆国政府は大混乱に陥り、時間切れ寸前・大統領と自分の娘、そしてアメリカ合衆国の運命はケイルに託された!」だけ。多くの映画紹介サイトがこれを引き写してますが、この短いストーリー紹介でさえ、映画を見て読むと違和感を覚えます。ジョンは面接で不採用とはっきり言われたわけではなく、それはほぼダメというニュアンスだからいいとして、エミリーに対しては合格すると思うと説明しています。エミリーはその直後にソイヤー大統領とばったり会ってインタビューまでできてご機嫌で、エミリーが「がっかり」する要素はありません。ジョンがエミリーとホワイトハウスの見学ツァーに参加したのは、ツァーと行き当たったのともともと娘がソイヤー大統領のファンでホワイトハウスオタクになっていてその娘を喜ばせたかったから。映画を見ている限り、「娘をがっかりさせたくない」とホワイトハウスの見学ツァーに参加するというイメージは出て来ません。どうして公式サイトの紹介文でこういう、書いた人は映画を見たんだろうかと思うような紹介がなされるのか。映画の内容についての公式サイトの情報ってほとんどこれだけなのに、それが不正確。こんなにやる気がないのなら公式サイトつくらなくていいんじゃないかって、ソニーピクチャーズのサイトを見る度に思う。

2013年8月25日 (日)

トゥ・ザ・ワンダー

 テレンス・マリック監督最新作「トゥ・ザ・ワンダー」を見てきました。
 封切り3週目日曜日、新宿武蔵野館スクリーン2(84席)午前11時の上映は2~3割の入り。一人客が目につきました。

 フランスのモン・サン=ミシェルでシングルマザーのマリーナ(オルガ・キュリレンコ)と恋に落ちたニール(ベン・アフレック)は、マリーナとその娘タチアナとともにアメリカのオクラホマに移住し、環境調査の仕事を始める。ニールはタチアナを実の娘のようにかわいがっていたが、タチアナは学校で友達ができず、パリに帰りたいといい、マリーナのビザが切れるのを機にマリーナとタチアナはパリに帰る。ニールはその後幼なじみのジェーン(レイチェル・マクアダムス)と接近し、タチアナはマリーナを置いて父親の元に行ってしまい、パリで孤独に暮らすマリーナはニールに助けを求める。結婚すれば永住権を取れるといわれたマリーナはオクラホマに戻り、ニールと結婚するが、2人の間にはすきま風が吹き…というお話。

 男女の愛の美しさ・幸福感とそのうつろいやすさ・哀しさを美しい映像で象徴的に描いた作品、という紹介が一番ふさわしいでしょう。
 それぞれのシーンの映像はとても美しく、ところどころその美しさだけでホロリと涙ぐむような映像が見られます。
 しかし、人間が登場する場面のつなぎの部分で、人物の感情の流れがうまくつながっておらず、ぶつ切り感を持つところがあり、妙な居心地の悪さを感じてしまいます。
 ストーリーとしてみるには、説明が少なく、一番大事なニールとマリーナの関係にしても、ニールがマリーナを呼び戻した経緯、ニールとマリーナの心が離れていった経緯が、見ていてよくわかりません。マリーナの夫が離婚に応じた経緯も、ジェーンがどうなったのかも今ひとつわかりませんでした。理解できない点が多いから To the Wonder と題した訳じゃないと思うんですが。
 そういうそれぞれのシーンはとても美しいがぶつ切り感が強く見ていてよくわからんという印象からしても、「ツリー・オブ・ライフ」のラブ・ストーリー版というべきでしょう。「ツリー・オブ・ライフ」よりはストーリーから離れた環境映像っぽいシーンが続く場面は少なくて、「ツリー・オブ・ライフ」で寝ていた私の同伴者もこの作品では最後まで起きていましたけど。

2013年8月24日 (土)

エンド・オブ・ウォッチ

 ロス市警の警官の危険と日常を描いた映画「エンド・オブ・ウォッチ」を見てきました。
 封切り2週目土曜日、新宿ミラノ3(209席)午後0時20分の上映は3~4割の入り。

 ロサンジェルスの重犯罪多発地区サウスセントラルの中でも特に危険なニュートン地区を担当する警官ブライアン・テイラー(ジェイク・ギレンホール)とマイク・ザバラ(マイケル・ペーニャ)は、パトカーの中で一日の多くを過ごし、緊急連絡を受けると現場に急行し、市民の要請に応じて暴力犯を検挙し、ナイトクラブに押し入り音量を落とさせ、火事の現場で子どもを救出し、と危険と隣り合わせの業務を次々とこなしていた。マイクと妻ガビー(ナタリー・マルティネス)との間に子どもが生まれ、ブライアンは恋人ジャネット(アナ・ケンドリック)と結婚する。そんなある日、2人はひょんなことからメキシコ系麻薬カルテルのアジトを見つけてしまい、カルテルの親分は2人の抹殺を指示する…というお話。

 体裁としては、パトカー同乗8時間とかいう類のドキュメンタリー、メンタリティとしては警察側から見た警察物語といっていいでしょう。
 警察官の仕事の重要性と危険性を英雄的に描き、警察官の友情・連帯感の堅さを感動的に描き、一方で仲間と下品な下ネタ話に興じ他方で妻との愛情豊かな私生活を送る様子を描くことでその人間性に共感させ、警察官に対する親近感と尊敬、犯罪と犯罪者に対する憎悪を醸成する警察官物語です。
 ロス市警を主役とする映画で、ロス市警の腐敗がまったく登場しないという、近年まれに見る映画です。
 主役の2警官がやっていることは暴走気味で、弁護士の目から見れば違法な捜査も多々あります。しかし、違法であっても自分の利益を図っていないし、全体として警察官が英雄に見える映画ですので、暴走気味・違法な捜査も容認できるというイメージが植え付けられます。
 ロス市警の腐敗・悪徳警官を描いて注目を浴びた「トレーニング デイ」の脚本を書いたデヴィッド・エアーがこの作品の監督だということですが、ロス市警へのお詫び・つぐないなんでしょうか。
 私には、ロス市警のPRビデオに見えました。

2013年8月17日 (土)

ワールド・ウォーZ

 ぶらぴさま主演のゾンビ映画「ワールド・ウォーZ」を見てきました。
 封切り2週目土曜日、新宿ミラノ2(588席)正午の上映は2割くらいの入り。

 国連を退職した調査員ジェリー(ブラッド・ピット)は家族とともに渋滞に巻き込まれていたが、目の前で何者かに噛まれた人間が12秒でゾンビ(アンデッド)として周囲の人間に襲いかかり始めるのを見て逃走する。国連事務次長ティエリー(ファナ・モコエナ)から夜明けに助けに行くと言われ、近くのアパートに飛び込んで、アンデッドの追撃を振り払いながらアパートの屋上からヘリで救出され、大西洋上の空母に搬送されたジェリーは、謎の感染症が爆発的に広がり今ではほとんどの都市がアンデッドに席巻されていると知らされ、感染症学者とともに感染源の特定の調査を命じられる。家族とともにいたいと断るジェリーに対して、ティエリーは任務に就かないのならこの船にいる資格はないと通告され、12日前にゾンビにやられたというメールを送ってきた在韓米軍基地に向かう。給油のために降りたところで、ジェリーらはアンデッドに襲われ、混乱の中で感染症学者は誤射されて死んでしまい…というお話。

 私は基本的にゾンビ映画は苦手です。ホラー全般が好きではないですが、そのレベルを超えて、人間を平気で大量殺戮する言い訳をするのに、かつては「鬼畜米英」とか「劣等民族」などとレッテル貼りして虐殺してもかまわないと言っていたのを、さすがに今ではそうは言えないので、相手は人間ではない、ゾンビだと言っているように思えます。ミラ・ジョヴォヴィッチが主役でもあまり見たくないのに、ましてや中年のおっさんの映画なんて…
 タイトルの「ワールド・ウォーZ」の「Z」を公式サイトのイントロダクションでは「最期」とふっていますが、原作本のタイトル World War Z : An Oral History of the Zombie War からしても、Zはゾンビの意味。それなら予告編や番宣でもっとはっきりゾンビ映画だと明示して欲しい。そうすれば、「ジャッキー・コーガン」でブラピ主演作品ということに見る価値をもはや見出せないことを十分に頭に刻み込んでいたのだし、ましてやゾンビ映画なら絶対見ないという選択だったのに。

 ただ、この作品の結論部分が、全面的な解決は簡単ではないことを示し、ブラピが見つけた限りの解決策は客観的には「共存」を意味していることは、野蛮なゾンビ殺戮映画から少しは抜け出しているところがあり、よかったと思います。

 アンデッドに対してイスラエルはいち早く高い壁を張り巡らせて防備し、賢明さが強調されています。その賢明になれたわけは、イスラエルは騙され続けてきたからだということで、中東戦争も例に挙げてアラブから騙されたとも明示しています。その上で、ムスリムを含む難民も受け入れ、寛容で良心的な存在と描かれています。さぞかし中東ではイスラエルが終始被害者で、それにもかかわらず寛容な行動をとり続け、イスラエルに正義があるのでしょうね。ハリウッドがユダヤロビーに支配されているということを、いくら何でもここまでやる?という思いとともに再認識しました。

 ブラピが旅客機の中でアンデッドに襲われて手榴弾を投げて旅客機に穴が開き、旅客機は不時着、乗客乗員のほとんどが死亡というシーン。旅客機の破片・残骸の中でブラピとイスラエル軍人セガン(ダニエラ・ケルテス)が生き延び、何人かのアンデッドらしきものが呻いています。日本の観客には、少なくとも私には、日航ジャンボ機墜落をイメージさせるこのシーンを含む映画を、遺族が毎年灯籠流しをする8月11日・慰霊登山をする8月12日を直近に控えた8月10日に公開するかなぁ。日米同時公開だったら日本の興行サイドであまりずらせないかもしれませんけど、アメリカ公開は2013年6月21日。日本での公開をわざわざこの週にする必然性はないはずですが。

2013年8月11日 (日)

真夏の方程式

 ガリレオシリーズ劇場版第2弾「真夏の方程式」を見てきました。
 封切り7週目日曜日、ヒューマントラストシネマ渋谷シアター1(200席)午後2時10分の上映は8~9割の入り。テレビドラマと福山人気は衰えず、ですね。観客の多数派は若者カップルでした。

 海底からのレアアース発掘計画が進む玻璃ヶ浦での事業者の住民説明会にアドバイザーとして出席した湯川学(福山雅治)は、車中で老人に携帯を切れと絡まれキッズ携帯だから電源を切れないと応答している少年柄崎恭平(山崎光)におにぎりを包んでいたアルミホイルで携帯を包んでこれで電話は来ないといい、説明会では反対派の中心人物川畑成実(杏)に批判されたのに対してあなたは不勉強で無責任だと言い放った。湯川が宿泊先の緑岩荘を訪れると、そこには経営者の娘の成実と甥の恭平がいた。緑岩荘の客で元警察官の塚原正次(塩見三省)が堤防の下で死んでいるのが見つかり、地元警察は転落事故とみるが、岸谷美砂(吉高由里子)は非公式捜査を命じられて緑岩荘を訪れる。恭平から玻璃ヶ浦の海を見たいが泳げないし船にも乗れないと言われた湯川は、美砂の要請を聞き流し、恭平を連れてペットボトルロケットを飛ばして玻璃ヶ浦の沖合200mの海を恭平に見せるが、緑岩荘に辿り着き、緑岩荘の主人川畑重治と恭平がした打ち上げ花火の燃えさしを見ながら疑問を感じ始める…というお話。

 湯川が語る科学する心と、子を思う親心がテーマになっています。
 湯川の語る科学する心は、恭平に向けて語る部分は、湯川が嫌いな子どもにぎこちなくまじめに対応する様子と、映像的にはこの作品のクライマックスといえるペットボトルロケットのシーンの美しさと相まって、いかにもまっとうに思えます。
 それだけに、環境保護運動家を勉強不足で無責任と断じ、自分は調査をするだけで、調査は環境に配慮して行う、あとはすべてを知った上での選択の問題だという、成実と説明会出席者に語る科学する心は、私の目には開発事業者と役所の論理を正当と主張するものにしか見えませんが、その政治色を隠すことに成功しているように見えます。事業者に依頼され事業者から資金をもらい事業者のために調査をしておいて、開発をするかどうかを最終的に決めるのは自分でないから自分は中立だそれを批判するのはおかしいというのは、「風立ちぬ」で爆撃機の設計者が俺たちは武器商人じゃないただ美しい飛行機をつくりたいだけだといってるのと同じで、自分が客観的には開発事業者の協力者であることに目をつぶる、それこそ学者バカか非科学的な態度であると、私は思うのですが。
 原作でも基本的なスタンスは同じに思えますが、原作にはなかった「無責任」という言葉を付け加えたり、原作では湯川は海底調査について「間違いなく海底を荒らす」と言っているのに映画では環境には影響を与えずに調査することに変更されているのは、原作より環境保護運動家を貶め、事業者側の学者・調査を良心的なものと評価するものです。原作は連載が福島原発事故前のものでしたが、福島原発事故後にそれを映画化するにあたり、原子力ムラの村人のような御用学者の存在にも触れずかえって事業者側を持ち上げる形で変更を加え、より開発事業者を利する形の表現にしたのは、さすがはフジテレビ・文藝春秋連合というべきでしょうか。公式サイトのイントロダクションでも「『科学技術と自然の共存』といった今日的なテーマに対して、湯川が自らの考えを語る場面が設けられているのも、作品にさらなる深みを与えている」と紹介していて、そこを見て欲しいという意思が表れていますし。
 この映画は、結局のところ、環境保護運動家は不勉強で無責任で悪い奴、事業者側の学者は中立で良心的で正義という、開発事業者と役所にとても都合のいいイメージを観客に植え付けるものとなっていると、私には思えます。

 ストーリー部分では、骨格というか事件の真相に関する部分は、原作ではそれなりの重要人物となっている環境保護運動家の沢村元也が映画では登場しないとか、映画では地元警察がほとんど登場せず成実の元同級生の西口も登場しないという点を除き、概ね原作通りに描かれていますが、事件に関わる情報の出てくる順番が違うことでミステリーの印象・味わい方としてけっこう違いがあるように思えます。
 濡らしたコースターをめぐるやりとりをはじめとする湯川の恭平との関わり方も、原作とはけっこうニュアンスが違います。
 私は映画を見てから原作を読みましたが、原作を読んでから映画を見た人には、えっと思う場面が意外に多いかもしれません。

 この作品の映像面ではベストシーンとなるペットボトルロケットのシーン、青い海とロケット発射の高揚感と試行錯誤を繰り返す湯川の誠実なイメージが成功しています。しかし、着実に結果を出すならロケットよりペットボトルにモーターをつけて海面上を進めた方が有利に思えます。それから、もともとは「玻璃ヶ浦」の由来が沖合に水晶が多数沈んでいて海面がきらきらする、それを見たいということだったはずなのに、ペットボトルロケットで見えた海がふつうの珊瑚礁だったのは…

2013年8月10日 (土)

最愛の大地

 アンジェリーナ・ジョリー長編初監督作品「最愛の大地」を見てきました。
 封切り初日土曜日、全国10館東京2館の上映館の1つ新宿ピカデリースクリーン4(127席)午前11時50分の上映は7割くらいの入り。

 出産したばかりの姉レイラ(ヴァネッサ・グロッジョ)の住むサラエボに帰ってきた画家アイラ(ザーナ・マリアノビッチ)は、恋人の警官ダニエル(ゴラン・コスティック)とナイトクラブでデートしていて爆弾事件に遭う。4か月後、セルビア軍がレイラらムスリムの住むアパートに踏み込み、男性はその場で射殺し、若い女性は兵舎に連行し、次々とレイプした上で監禁した。アイラもレイプされそうになるがセルビア軍の隊長が交代だといってアイラをレイプしようとした兵士を押しのけた。アイラが振り向くとその隊長はダニエルだった。夜ごとに女たちは兵士に引き出されてレイプされ、アイラも兵士に連れ出されるが連行された先は隊長室で、ダニエルはアイラは自分のものだから手を出すなと兵士に伝えたので大丈夫だという。セルビア兵から嫌がらせを受けたのを機にアイラはダニエルと性交渉を持ち、ダニエルは自分がいつまでも守ることはできないと言いアイラに脱走を勧める。しかし周りのムスリム女性がレイプの心の傷にすすり泣く中アイラは脱走を思いとどまる。ダニエルが去った後のある日、アイラは別の女性たちとともに連行され、セルビア兵がムスリムと銃撃戦を行うときの楯にされ、女性たちを撃つことにひるんだムスリム兵士たちはアイラたちの目の前で惨殺される。アイラはセルビア兵たちの宴会の夜に隙を見て逃走し、姉レイラの下に辿り着くが、レイラはセルビア兵の包囲の中で泣き止まぬ赤ん坊を隣人に投げ出され、セルビア兵からアパートを追われてムスリム兵の基地でセルビア兵への復習の計画を練っていた。ムスリム兵はアイラをスパイとしてダニエルの下へ送り込む計画を立てるが…というお話。

 無抵抗の一般人を射殺し、略奪し、レイプする兵士たち。ただ銃器を持っていて、殺人や強姦をすることを躊躇しない人間がいるというそのこと故に、平穏に暮らしていた善良な市民が平穏な生活も財産も誇りも命も奪われる。これが一般市民の生活圏に侵入した軍隊の、戦争の本質なのだと、この映画は訴えているのだと思います。
 戦争を行う側の人間は、常にそこに何かしらの正義を掲げるわけで、セルビア軍の将軍ネボイシャ(ラデ・シェルベッジア)も、かつてムスリム軍に母と家族を皆殺しにされたことへの復讐戦だと主張しています。軍隊をつくるときは「防衛のため」といってつくられても、予防戦争も防衛戦争だなどといわれて侵略への道をひた走ることとなる、それが戦争をやりたがる人たちの常套手段でしょう。戦争を行う側がどのような正義を唱えていても、現場で行われるのは、平時なら許されないはずの、殺人であり略奪でありレイプで、前線にされた地域の弱者たちがいつも最大の被害を被ることには変わりはない。戦争犯罪の、そして不可避的に戦争犯罪を引き起こす戦争そのものの非人道性を、この作品は訴えているのだと思います。
 リアルタイムでニュースを見ていた頃も、一般市民を高地から狙撃するセルビア兵には吐き気を覚え、怒りに震えた覚えがありますが、しかし、軍が一般市民を平気でなぶりものにすることはイラクでの米軍でも同じことで、むしろ占領軍の通常の姿なのだと思います。そして、ボスニア・ヘルツェゴビナという白人同士の闘いであったから世界の注目を集めましたが、アフリカではこれより遥かに大規模の「内戦」といわれる虐殺が繰り返されながら、何十万人とか何百万人が殺害されたという数字(それもたぶんかなり不正確な)以上にその詳しい事実が紹介されることもありません。
 殺人や強姦事件に厳罰を唱える人々が、戦争となると一転して仕方がないなどと言い出すのか、そのあたりもよく考えてみたいところです。

 ポスターでも「いまこの地で本当の愛が試される」というキャッチコピーが中央に配され、この作品で、ストーリー上のテーマとなっているアイラとダニエルの「愛」ですが、こういう「愛」が成り立つと考えるのは支配側・加害者側の幻想/妄想なのではないかと、私には思えました。
 セルビア軍の戦闘開始前のナイトクラブのシーン、ここでのアイラとダニエルはまさしく恋人同士であり、愛があった、それは問題ありません。しかし、アパートにセルビア軍兵士が乱入し、目の前で男性たちが銃殺され、銃を突きつけられ兵舎に連行され、目の前で一緒に連行した女性が兵士にレイプされ、監禁されて、自分は免除されたとはいえ、その後も周囲の女性は兵士の気の向くままにレイプされ続けるという極限状況の下、逆らえば殺され、またそもそも貞操・処女性を極めて重要視されて育てられたムスリム女性がレイプされ続けて誇りも希望も失い泣き続けたり無気力で投げやりになっている状況の下、よりによってその悪逆非道の限りを尽くすセルビア軍の隊長に対して、それがかつて恋人でありまた現在自分をかろうじてレイプから守っている人物であったとしても、愛情を抱くことができるでしょうか。
 被害者側の痛みも恐怖も怒りも見えないデリカシーのない加害者にとってだけ、自分の庇護による恩恵に対して報酬を求める傲った気持ちと相まって、そこに愛があると思えるのではないかと、私には思えます。平時でいえば、セクハラ上司の心情と同じようなものでしょう。

 軍隊と戦争犯罪の醜さ・非人道性を強く印象づけられる作品で、アンジェリーナ・ジョリーの語る制作意図は十分反映されていると思います。見終わっての印象は、怒りと、それよりも哀しさと悔しさの方が多めに入り交じった感情で、もちろん、爽快感はありません。
 2011年の作品が、ようやく日本で上映されるに至り、しかしその上映館が全国で僅か10館という上映に至る経緯はよく知りませんが、観客の期待とはミスマッチだったようです。封切り初日から小さなスクリーンをあてがった新宿ピカデリーの読みの範囲で7割程度の入場者だったにもかかわらず、本編が始まる前後までうろうろする客が少なからずいて、エンドロールに入るやバタバタと席を立つ客が多く、女性たちの悲嘆を想起させるテーマソングも気が散ってよく味わえませんでした。事前に報道されたアンジェリーナ・ジョリーのインタビューからしてこういう作品だということは当然に予測できたはずですが、こういう人たちは何を期待していたんでしょうか。まぁ、戦争犯罪に怒りも関心も持たない人たちが見に来た方が教育効果はあるんでしょうけどね。

2013年8月 4日 (日)

スタンリーのお弁当箱

 インドの不遇な子どもと学園生活を描いた映画「スタンリーのお弁当箱」を見てきました。
 封切り6週目日曜日、現在全国で10館東京で3館の上映館の1つヒューマントラストシネマ渋谷シアター1(200席)午後1時15分の上映は5割くらいの入り。

 作り話好きの陽気な少年スタンリー(パルソー:新人)は4年F組の人気者だが、家庭の事情でお弁当を持ってくることができず、昼休みは1人で水を飲んだりお弁当を買ってくると嘘をついて教室を出て時間つぶしをしていた。クラスの仲間たちは、スタンリーを気遣ってお弁当を分けてあげていたが、それを見つけた意地汚い国語教師ヴァルマー(アモール・グプテ:監督)は4年F組でいつも贅沢な料理を詰めた大量のお弁当を持ってくるアマン・メヘラ(ヌマーン)から自分が弁当を分けてもらうために邪魔になるスタンリーに腹を立て、スタンリーに対し人に弁当をたかるなと叱責した。アマン・メヘラたちクラスメイトはスタンリーをかばって、ヴァルマーを避けて教室外でお弁当を分け合って食べていたが、とうとうヴァルマーに見つかり、アマン・メヘラの弁当を分けてもらえずに苛立っていたヴァルマーはスタンリーに対し弁当を持ってこない奴は学校に来る資格がないと怒鳴りつけ、その日からスタンリーは学校に来なくなり…というお話。

 家庭の事情でお弁当を持って来れない子どもという形で象徴される恵まれない子どもが、クラスメイトの友情に支えられながら、困難を乗り越えるというテーマの作品です。
 お弁当を持って来れず友達のお弁当を分けてもらっているスタンリーに対して、裕福な家の子アマン・メヘラがスタンリーをいじめることもなくまた憐れむというスタンスでもなく、一緒に食べようと言い続けるあたり、やや非現実的にも見えますが、救われる思いです。子どもたちがみんな性格がよくて明るいいい子たちなのは、制作者側の願望と配慮もあるでしょうけど、見ていて気持ちがいいです。
 家庭の事情でお弁当を持って来れない子どもとその子どもに惨めな思いをさせず子どもたちの一体感を育むためにも給食をという運動は、日本でも経験したことで、アレルギーや食の安全問題と絡めて学校給食が批判的に捉えられがちな今は忘れられがちではありますが、格差社会の格差を拡げたい人々が圧倒的な力で政権を握ってしまったことと考え合わせると他人事ではない気がします。
 ラスト直前で、陽気に過ごしているスタンリーの境遇が明らかにされ、涙を誘われ、この問題の深刻さを考えさせられます。

 子どもからお弁当を取り上げて食べる教師ヴァルマー、それもそのために邪魔なスタンリーに人にたかるな、弁当を持ってこないなら学校に来る資格がないと怒鳴るヴァルマー。自分のことを棚に上げ、顧みて他を言うの典型ですが、小さな権力を持つ中間管理職や小役人の権力濫用を象徴しています。子どもから弁当を取り上げるという非現実的で滑稽な例えですが、中間管理職や小役人の権力濫用、セクハラやパワハラ、役人の水際作戦と捉え直せば、私たちの周りで日常的に見られるテーマです。
 左利きのスタンリーが隣の席の右利きの子どもとノートをとる度に肘が当たると言っていつも喧嘩しているのを見て、スタンリーに左利きを直して右で書けと命じるヴァルマー、喧嘩両成敗で2人とも廊下で立ってなさいと命じるアイヤル(ディヴィヤ・ジャグダレ)、利き腕同士が当たるなら席を交代しなさいというロージー(ディヴィヤ・ダッタ)と、同じ問題に対して教師の問題解決能力の違いを見せているシーンに象徴されるように、教師の資質・能力の違いが強調されています。
 そういった個人の資質の問題は、確かにあちこちであるのですが、身近な権力者たちの権力濫用問題をすべて個人の資質の問題に帰してよいのかは疑問を感じます。ヴァルマーにしても、どうして彼が自分の弁当を持ってくることができずに、子どもから取り上げるに至ったのか、そちらにも光を当てる必要があるようにも思えるのですが。

 そういう問題提起をしてすぐにこういうのも何ですが、ロージー先生、子どもへの対応も態度もよく、優しくて笑顔もチャーミング。特に年少の頃、こういう先生に当たりたい、子どもの担任はこういう先生がいいなと思ってしまいます。
 この作品でほぼ唯一(終盤でもう1人悪役が登場しますけど)の悪役ヴァルマーを演じたのがこの作品の監督で、実生活でスタンリーの父親というのは、ちょっとビックリします。

2013年8月 3日 (土)

ペーパーボーイ 真夏の引力

 死刑囚の冤罪疑惑を取材する兄に同行し、死刑囚と獄中結婚する女性に魅了された若者の未熟な恋を描いた青春映画「ペーパーボーイ 真夏の引力」を見てきました。
 封切り2週目土曜日、全国14館、東京2館の上映館の1つ新宿武蔵野館スクリーン2(84席)午前11時10分の上映はほぼ満席。R15+指定に引き寄せられてか中高年男性一人客がわりと目につきました。

 大学を中退してぶらぶらしていたジャック(ザック・エフロン)は、死刑囚ヒラリー(ジョン・キューザック)の冤罪疑惑を取材するためにフロリダの実家を訪れた兄ウォード(マシュー・マコノヒー)を手伝っていた。ウォードを訪ねてきた、ヒラリーと文通するうちに一度も会わずにヒラリーとの結婚を決意したシャーロット(ニコール・キッドマン)にジャックは一目惚れする。面会でヒラリーは、初めて会うシャーロットのスカートの中を見つめるのに夢中で、ウォードの質問にも答えようとしない。それでもあきらめないウォードはシャーロット抜きでヒラリーに面会し、ヒラリーからアリバイの主張を聞き、ジャックとともに沼地に住むヒラリーの兄に会いに行く。さんざんな目に遭ってウォードとジャックが戻ると、その間にウォードの同僚ヤードリー(デヴィッド・オイェロウォ)はヒラリーの兄以外の関係者にあたりアリバイを裏付け、シャーロットといちゃついていた。ヤードリーはその記事をウォードと連名で書くが、ウォードはそのアリバイに疑問を持ち…というお話。

 1969年、アメリカ南部フロリダの片田舎の設定で、若者の反抗の意識・雰囲気と人種差別意識が交錯する時代を背景として、ニコール・キッドマンのびっちな年上の女に魅了され振り回され舞い上がって独りよがりの恋に浮かれて沈んだ初心な若者ジャックの青春グラフィティというか青春挫折ストーリーというのが、この作品の基本となっています。
 母親に置き去りにされ、その後父親は次々と新たな女と結婚し現在は4人目の継母と同居するという環境の下、水泳にのめり込むが大学でプールの水を抜いて問題になって大学を中退、母親に結婚するまでは慎めと言われたのを守って今も童貞というジャック。それにしても、目の前で死刑囚に言われるままに脚を開きパンストを引きちぎり、海水浴場ではジャックにあの女に声をかければフェラチオしてくれると煽り、ヒラリーの無実を主張する記事を書かせるためにヤードリーとセックスしといった奔放なずっと年上(いくつ年上かは明言されません。ニコール・キッドマンとザック・エフロンの実年齢で見ると20歳違い)女性シャーロットに、母親の形見の指輪を渡してまで言い寄るかなぁ。
 しかも、ジャックがシャーロットに迫る夜は、兄が血まみれで倒れているのを発見し救急車を呼んだその夜。シャーロットも、しかたないなぁという顔で、1度だけだよと言って…そこまでしてしたいかなぁ。で、その後には、シャーロットから1度寝たくらいで…(その後の言葉ははっきりせず字幕もありませんでしたけど、彼氏づらするなとかいい気になるなというところでしょう)とか言われますし。美形で妖艶で触れなば落ちん風情の女性を目の前にしたら、やっぱりがまんできないか…傍目からはちょっと哀れに思えますが。

 ネタバレになりますが、結論から見ると、死刑囚の無実の訴えを聞いて死刑囚と獄中結婚を決意する支援女性は変な奴で、冤罪疑惑を取材しようなどと熱意を持って当たる新聞記者はやはり変な奴で、そういう奴らは報われないという印象を残します。1960年代末の若者の反抗の時代を背景にしながら、その熱気は狂気を帯び後には虚しさが残ったという印象でもあります。反戦、反抗、人権、正義といったものを青臭いと、体制側から総括するような、そこまでの意図はないでしょうけれども、人権のために働き体制側の動きに疑問を持つ立場にいる者としては、どこかいやな感じがする後味の悪い作品でした。

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