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2013年6月

2013年6月30日 (日)

殺しのナンバー

 CIAが極秘指令に使う乱数放送局とそれをめぐる暗闘を描いたサスペンスアクション映画「殺しのナンバー」を見てきました。
 封切り2週目日曜日、全国21館、東京では唯一の上映館シネマスクエアとうきゅう(224席)午前11時の上映は2割くらいの入り。

 乱数放送による指示をその時一度だけ使う乱数表と照合して解読し、暗殺や爆破などの指示に従って冷徹に任務を実行してきたCIAの諜報員エマーソン(ジョン・キューザック)は、本部の指示でCIAを裏切った元諜報員を暗殺するが、それを目撃した娘になぜ撃ったと問い詰められ娘を撃ち殺せずに戻ろうとしたところを上司のグレイ(リーアム・カニンガム)が娘を射殺し、カウンセリングに回された上で、イギリスサフォーク州の片田舎の元米軍基地内にある秘密放送局ブラックレグに左遷される。ブラックレグでは、民間人を雇用して極秘指令を暗号化してナンバーのみにして読み上げてCIA諜報員に伝えており、エマーソンの任務は暗号オペレーターキャサリン(マリン・アッカーマン)の安全と放送局の秘密を守ることだった。任務は女性民間オペレーターとCIA諜報員のペアで数日交替で行われ、もう一組のデビッド(ブライアン・ディック)とメレディス(ルーシー・グリフィス)は恋仲だった。キャサリンからのほのめかしにもドライな対応を崩さないエマーソンだったが、次第にキャサリンに心を開きつつあった。そんなある日、交代のために放送局を訪れたエマーソンとキャサリンはいきなり銃撃を受け、放送局内に逃げ込むが、デビッドとメレディスは殺されており、残されていた録音記録から放送局が襲撃されメレディスが暗号操作を強いられている様子がわかり、コンピュータの記録は抹消されていた。エマーソンがそのことを緊急通信で伝えると、本部はキャサリンを殺害した上で放送局を撤退するように指示してきたが…というお話。

 テーマはかなりシンプルに、秘密を知る者を皆殺しにすることを要求する権力者・官僚のやり方に対し、その駒として雇われている諜報員はどこまで従えるか、疑問を持たずにやれるかという点です。とりわけ何の罪もない目撃者やさらには組織のため、国のために一生懸命働いてきた仲間をも、単に秘密を知っているというだけで殺せという指示に従えるか。
 殺すという指示なので、極端に見えますが、組織が効率的に機能するためには指令系統が確立し末端はその指示に忠実に動くことが必要で、そのような組織のルーティーンに、違法な指示が入ってきたとき、ふつうの組織でも、同様の問題が生じます。程度の差はあれ、国や官僚組織では、組織の利害のために法規に反する指示が出されることは十分にありうると思います。そして官僚組織は秘密が大好きで、あらゆる場面で秘密保持を言いたがります。その秘密には、官僚組織の問題点や秘密裏に行われる違法指示の隠蔽が絡み合うことが容易に想定できます。
 組織からの指示があってもこれだけは従えない、違法な指示に対して正義を貫きたい、こう思う部下・一官僚がどれだけ出てくるかは、本来的には組織の民主性・健全性のバロメーターなのだと思いますが、果たして現実には…

 そして、指示を暗号化したナンバーの読み上げによる通告という形に単純化することは、情報漏洩のリスクを極限まで減らすとともに、指示が一方通行で理由等の告知もないことから指示を受けた者が疑問を抱く余地、抵抗する余地をなくすことを目的としていると考えられます。上意下達の極限ともいえる形です。
 それは、冷徹な組織の論理を貫くための、机上の論理では有効な道具なのですが、ここではそれ故に組織が危機に陥るというパラドックスも描かれています。そういう点でも、制作者側は権力者・官僚・諜報組織のやり方に批判の目を向け皮肉っているわけです。
 それでも官僚たちはそういう危機意識は持たないか、何よりも組織の維持を優先して既存の組織をより固める方向で動き続けるのでしょうけれど。

 裏切り者の殺害というスパイアクション的な象徴表現から離れて現実を見ると、よけい暗い思いになりますが、そういうことはおいて、正しいことをしようと懸命になる人もいるとか、極限状況でも人間的な感情が生き残ることもあるという少しホッとした思いで映画館を出てこれればねというところで作品を楽しんでおきましょう。

2013年6月29日 (土)

華麗なるギャツビー

 1974年にロバート・レッドフォード主演で映画化されたスコット・フィッツジェラルドの青春小説 " The Great Gatsby " をレオナルド・ディカプリオ主演で再度映画化した「華麗なるギャツビー」を見てきました。
 封切り3週目土曜日、新宿ピカデリースクリーン2(301席)午前9時25分の上映は3割くらいの入り。

 バブル景気に沸く1922年のニューヨーク。証券会社に勤務するニック・キャラウェイ(トビー・マグワイア)は、いとこのデイジー(キャリー・マリガン)から夫の富豪の御曹司トム・ブキャナン(ジョエル・エドガートン)の浮気についての愚痴を聞かされ、トムに連れられて浮気相手の人妻マートル(アイラ・フィッシャー)らとの乱痴気騒ぎに参加し、そこで毎週末に開かれる豪邸でのパーティーの主催者ギャツビーの名を聞かされるが、ギャツビー(レオナルド・ディカプリオ)はニックの隣人であった。ある日、ニックにギャツビーからパーティーの招待状が届き、パーティーで出会ったギャツビーはニックを誘い連れ回す。そしてギャツビーはニックに、デイジーをお茶会に誘って欲しいと申し入れ、ギャツビーと親しくなっていたニックはデイジーを自宅に呼んでギャツビーと引き合わせるが…というお話。

 原作にほぼ忠実に描かれていて、原作を読んで映画を見た場合、予想外の場面はほとんどないといってよいでしょう。ただ、原作の小説では、すべてニックの語りの形式のため、ニックがいない場面、つまりギャツビーとデイジーが2人きりの場面が推測・ほのめかし程度ではっきり描写されていないのに対して、映画ではある程度描写されています。あらら、人妻のデイジー、ギャツビーとHしまくりじゃないのと、小説でははっきりしなかったところが印象的です(2人きりで会ってるんだからしてるにきまってると思わない私は純情/かまとと?)。
 2人で逃げようと誘うデイジーに、あくまでもトムに対して「あなたを愛したことはない」と言わせようとする、そしてデイジーがトムにそう断言すると信じるギャツビーは、純情なのか、頭でっかちの理念/妄想先行なのか、オタク的思い込み/思い違い男なのか…5年前に戦争のために会えなくなった女を思い詰め、再会を期して成り上がり巨万の富を得て錦を飾り、その女と再会するためだけに近くに豪邸を買い毎週盛大なパーティーを開き続けと、その女のためにすべてを注ぎ込んできたのだから、相手の女も片時も自分のことを忘れず、結婚したのも仮の姿で愛などあったはずがないという思いには、そこまで一途に頑張ったのだからと同情したくもなるけど、やっぱり自己満足の妄想だよなと思え、今どきの感覚では「勘違い男」と評価されるのが関の山と思います。もっとも、ギャツビーの経歴、成り上がる過程を考えれば、ずっとデイジーを思い続けていたというのも、そんなに純情に思い詰めるということも、本当かなと疑問に思えるのですが。
 ギャツビーのある種純情さ、一途さ、滑稽さ、哀れさがテーマかと思えますが、そうなると今どきならデイジーのしたたかさを描いて欲しい気がします。しかし、この映画でもデイジーは、優柔不断の不思議ちゃんで、自分の意志を貫こうとはせず状況に流されていくイメージです。原作の小説が書かれた時代の制約でしょうけど、今見るにはちょっとなぁという感じがします。
 パーティー・乱痴気騒ぎ場面でのど派手感と、キッチュな映像なども含め、1920年代のイメージを味わう映画かなとも思いました。

 原作の小説は読書日記の2013年5月11日の記事で紹介しています。

2013年6月23日 (日)

インポッシブル

 2004年のスマトラ島沖地震の際の津波(インド洋大津波)で離ればなれになった観光客家族の探索と再会を描いた映画「インポッシブル」を見てきました。
 封切り2週目日曜日、新宿武蔵野館スクリーン3(84席)午後1時15分の上映は7割くらいの入り。観客の多数派は中高年でした。

 2004年のクリスマス休暇をタイのリゾートの高級ホテルで過ごしていた日本で働くホワイトカラーのヘンリー(ユアン・マクレガー)と子育て休業中の医師マリア(ナオミ・ワッツ)夫婦とその子どもたちルーカス(トム・ホランド)、トマス(サミュエル・ジョスリン)、サイモン(オークリー・ペンダーガスト)は、ホテルのプールで遊んでいたところを、突然の大津波に飲み込まれてバラバラになる。マリアとルーカスは遠くに流され、マリアは脚に深手を負いながら、近くで泣いていた白人の幼児ダニエルを助け、木の上に登って避難していたところを地元の住民に助けられ病院へと搬送される。ホテル内でトマスとサイモンを見つけたヘンリーは、山への待避を勧めるホテル側に逆らい、トマスとサイモンを山へ避難するトラックに乗せ、マリアとルーカスを探し続け…というお話。

 自然災害の圧倒的に力の前になすすべもなく傷を負い離散した家族が、執念を持って行き残り、家族を見つけ再会するというシンプルなテーマとストーリーに、以下のような疑問を最初から持っていてもなお、引き込まれ、再会シーンではやはり涙を誘われます。そういった力強さを持った作品であることは、まず認めておきます。

 しかし、この物語は、徹頭徹尾恵まれた強運のエリートのお話で、そこを取り出してこの津波を語ることには、強い違和感を感じざるを得ません。
 犠牲者が30万人にも及んだといわれるインド洋大津波で、リゾートの外国人観光客も相当数が被害を受けたとはいえ、被害の中心は地元の人々のはず。この映画を見ていると、まるで被害にあったのは白人の観光客だけで、地元の人々はほとんど無傷でもっぱら外国人観光客被災者の救援に当たっていたように見えます。
 ルーカスとマリアは、流されて草原のまっただ中に取り残され、マリアは脚に深手を負いますから、そのまま歩けなくなってうずくまるうちに破傷風で倒れ、ルーカスやダニエルも裸足ですから津波が引いた後の漂流物だらけの草原を歩くうちに足がずたずたになってやはり破傷風で倒れるというのが一番ありそうな展開に見えますが、あっという間に地元の男たちに発見されて病院へ搬送されます。外国人観光客に限定しても、流された被害者の多くは流されるうちに漂流物と衝突して死ぬかおぼれ死に、生き残っても人里にたどり着けずになくなったと思われます。この映画のようなケースは希有の僥倖というべきでしょう。
 そして、ヘンリーとマリアは、再会さえできれば、自宅も勤務先も無事ですから帰国してふつうの生活をすぐにでも再開できます。圧倒的多数の地元の被災者たちは、生き残っても生活基盤を破壊され、生活の再建は前途多難で容易ではありません。
 地元被災者の本当に大変な被害には目をつぶり、生き残って再会できればそれで万事OKの恵まれた白人観光客家族の離散と再会のドラマにのみ焦点を当てたこの作品のコンセプトには根本的な疑問を持ちます。公式サイトによれば「世界中の映画祭で比類なき賞賛を浴び」ナオミ・ワッツはアカデミー賞主演女優賞にノミネートされたとありますが、アジアの地元の人たちの深刻な被害を気にかけることなく白人観光客の悲劇と再会の感動を賞賛する人々の姿は、私の目には、湾岸戦争でイラク人がどれだけ殺されたかを気にかけることなく油にまみれた海鳥への迫害に怒りに震えた人々、アメリカ軍兵士に銃撃され理由のない家宅捜索などを受け迫害されるイラク民衆を気にかけることなくイラク人テロリストに襲われる恐怖や爆弾処理の恐怖と戦う米軍兵士を賞賛する映画にアカデミー賞を贈る人々のメンタリティと重なります。
 同じテーマで、日本を舞台に、東日本大震災で津波で被災し家族が死んだり行方不明、福島原発事故のために遺体を捜すことさえできない被災者たちにまったく触れることなく、白人観光客が津波で被災して家族と離散して再会することに焦点を当てた映画が制作されて日本で上映されたら、私たちは平気で見ることができるでしょうか。

 映画の終盤、ベッドに固定されて搬送されるマリアとともに空港に現れたヘンリーに保険会社のコンシェルジュが、シンガポールでアジアで最高の医療が受けられますと囁きます。そしてヘンリーらは1家族だけを乗せた特別機でシンガポールに向かいます。保険で特別機の費用まで出してくれるかは疑問がありますが、このラストを見ると、まるで、海外旅行傷害保険に入っておけば100年に1度の大津波に遭っても大丈夫、特別機でシンガポールまで行って(地元の人は到底受けられないような)最高レベルの医療が受けられます、みなさん、海外旅行に行くときは海外旅行傷害保険の契約をしておきましょうといっている、保険会社のPR映画かと思ってしまいます。
 はっきり言って、このラストの後味の悪さで、再会シーンで涙を流したことが帳消しにされ、涙ぐんだことがばからしくさえ思えました。

 ヘンリーの行動として、トマスとサイモンの無事は確認した、マリアとルーカスは生死もわからないという状況で、マリアとルーカスを探したいという気持ちはわかります。またその方が感動のドラマになることも当然です。しかし、トマスとサイモンはまだ幼く、もし離ればなれになれば最悪二度と会えないかもしれません。それに比べてマリアとルーカスは(ルーカスは少し不安がありますが)、無事でさえあれば、落ち着けば電話はできるしうまくすれば(保険会社や大使館に連絡して)自力で帰ってくることもできるはずです。何といっても自宅は無事なのですから。その状況でトマスとサイモンを置き去りにしてマリアとルーカスを探すというのは、現実的な選択としてはどうだろうと思いました。
 最初は自分のことしか見えなかったルーカスが被災を通じて大人になる姿が、映画的には感動的です。ただ現実の災害被害の中では、この年頃の子どもにそれを期待するのは酷で、取り乱したり子ども帰りをしたりトラウマに苦しむ方がありそうな気もするのですが。
 タイトルの「インポッシブル」。映画の中では、夜空を見上げるトマスに地元の老婆が今見える星の中には既になくなっている星もあり、なくなった星が爆発して放った光が届いて今も見えていると話し、トマスが死んだ星と生きている星は見分けがつくの?と聞いたのに、老婆が " Impossible " と答えています。たぶん、映画の中でこの言葉が出て来たのはここだけだったと思います(私が聞き落としたかもしれませんが)から、タイトルはここからでしょうか。映画の流れ・テーマとは違うような感じがしますが。

2013年6月16日 (日)

ローマでアモーレ

 ローマでの4組の男女らのラブコメ風エピソードを組み合わせてローマを見せる映画「ローマでアモーレ」を見てきました。
 封切り2週目日曜日、シネ・リーブル池袋シアター2(130席)午前9時50分の上映は1割くらいの入り。

 ローマ観光中に地元の弁護士ミケランジェロ(フラヴィオ・パレンティ)に道を聞いて一緒に歩くうちに恋に落ちたアメリカ人観光客ヘイリー(アリソン・ピル)は両親をローマに呼び寄せてミケランジェロの家族と引き合わせる。音楽プロデューサーを引退して暇を持て余すヘイリーの父親ジェリー(ウディ・アレン)はミケランジェロの父ジャンカルロ(ファビオ・アルミリアート)の美声に惚れ込み、オペラ歌手としてデビューさせようと画策するがジャンカルロの美声はシャワー中だけのため舞台にシャワーブースを持ち込む。
 妻ミリー(アレッサンドラ・マストロナルディ)を親族一同に紹介するためローマに連れてきたアントニオ(アレッサンドロ・ティベリ)は、ミリーが美容院に行くと言ってホテルを出た後突然部屋を訪ねてきたコールガールアンナ(ペネロペ・クルス)に押し倒されたところを親族に見られ、慌ててアンナを妻のミリーだと紹介する。街中を迷うミリーは映画撮影中の俳優ルーカ・サルタ(アントニオ・アルバネーゼ)に口説かれて舞い上がり、アントニオが親族と会食中のレストランに2人で訪れるがアントニオにも気がつかない。
 昔住んだローマの街を散歩中の著名な建築家ジョン(アレック・ボールドウィン)を街中で見かけ自宅に案内した建築家の卵ジャック(ジェシー・アイゼンバーグ)は、同棲中の恋人サリー(グレタ・ガーウィグ)から友人の女優モニカ(エレン・ペイジ)が失恋し仕事もうまく行かないのでしばらく滞在すると言われる。仕事で忙しいサリーに代わってモニカの相手をするうち、ジャックは、ジョンの忠告も聞かず、次第にモニカに心を奪われていく。
 平凡なサラリーマンで2児の父レオポルド(ロベルト・ベニーニ)は、ある日突然、テレビのレポーターらに囲まれ、朝食は何かなどのありふれた質問に答える様子がテレビ番組で取り上げられ一躍人気者になる。
 という4つのエピソードが交錯して繰り広げられる。

 4つのエピソードが、どこかで絡んでくるのかと思いながら見ていましたが、最後までまったく絡んできませんでした。4つともローマで起きているということだけが共通点のエピソードをそれぞれ何段階かに分けて順次展開することで一応1つの映画にした形の群像劇です。
 予告編でも公式サイトでもペネロペ・クルスを前に立てていますが、ペネロペ・クルスの出番は少なく、ペネロペに期待して見に行くと期待外れに終わります。

 ラブコメ風といってみましたが、ラブコメ的なのはアントニオとミリー、ジャックとモニカの2つのエピソードだけで、ミケランジェロとヘイリーのエピソードは2人の親族間の軋轢がポイントですし、レオポルドの方はほとんどレオポルド一人の栄枯盛衰です。全体としてコミカルなタッチではありますが、レオポルドのエピソードが無理筋で他のエピソードとかけ離れた感じがあり、ミケランジェロとヘイリーのエピソードではウディ・アレンが出しゃばりすぎの感があり、ジャックとモニカのエピソードではジョンが説教臭すぎ、コメディとして楽しむにも中途半端感を持ちました。

 ローマにエキゾチックな憧れを持つ人々が、「これがイタリア、これがローマ」という雰囲気を味わうという映画だと思います。

 労働者側の弁護士のミケランジェロ。仕事をするシーンは全くなく(たまたま道を聞かれた観光客のヘイリーにそのまま一日つきあってしまうくらい)その素性は不明ですが、共産主義者嫌いのジェリーにヘイリーが紹介するとき、ちょっと間を置いて、ミケランジェロを worker の弁護士だと紹介していました。英語のニュアンス、ちょっとわかりませんが、 labor や laborer だとかなりイメージが違うんでしょうか。私は国内弁護士(外国がらみの事件はしてませんって程度の意味です。聞かれたら domestic lawyer だと答えますが、これって家庭関係の事件の弁護士とか思われるかも:外国語はやっぱり苦手)なので基本的には気にしませんが、労働者側の弁護士だと自己紹介するときはどう言えばいいのかなと思いました。

2013年6月 9日 (日)

プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ/宿命

 親たちの事件が子の人生に影響を与えていく宿命に彩られた映画「プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ/宿命」を見てきました。
 封切り3週目日曜日、ヒューマントラストシネマ有楽町シアター2(62席)午後1時35分の上映は満席。

 移動遊園地で危険なバイクショーを演じて身を立てる天才的なライダーのルーク(ライアン・ゴズリング)は、ニューヨーク州のある町で以前関係を持った女性ロミーナ(エヴァ・メンデス)から声をかけられ、ロミーナがルークの子どもを生み、今は恋人コフィ(マハーシャラ・アリ)の家で暮らしていることを知る。自分の子どもが生まれていることを知ったルークは移動遊園地をやめ、この町で定住して仕事をして息子ジェイソンを養いたいと申し出るがロミーナに相手にされない。バイクで林の中を疾走するルークを見て運転の腕に魅せられた修理工場経営者ロビン(ベン・メンデルソーン)は、ルークに住まいと職を提供しつつ、銀行強盗を持ちかける。子どもを育てるためにと決意したルークは銀行強盗を始め、次々と成功するが、コフィの家にベビーベッドを勝手に持ち込んで組み立てているところをコフィから非難されコフィを殴って重傷を負わせ逮捕される。保釈で出て来た後も銀行強盗をしようとするルークに対し、ロビンはもうやめると言い出し、ルークは1人で銀行強盗を敢行するが失敗し、民家に立て籠もった。その家に飛び込んだ新米警官エイヴリー(ブラッドリー・クーパー)は、ドアを蹴破るとすぐルークを撃ち、ルークも発砲してエイヴリーは脚を撃たれるが、ルークはそのまま窓から転落して死亡してしまった。エイヴリーは英雄となり、警察内部の腐敗とも闘い地方検事補となり出世していくが、先に発砲してルークを殺してしまったことに負い目を感じ続けていた。15年後、ルークの子ジェイソン(デイン・デハーン)は高校生となり、学生食堂で薬物好きの転校生AJ(エモリー・コーエン)に声をかけられ、友達になるが、ある日、父の秘密とAJの父との関係を知り…というお話。

 親の因果が子に報い…ってテーマなんですが、私にはそっちよりも、将来展望を持たない奔放な荒くれ者のルークが、自分の子どもができたと知って見せる父性愛とその思いが呼び寄せる子の父親への郷愁という印象が強く残りました。
 ルークのような性格設定の男は、子どもができたら逃げる、知らん顔を決め込むというのが、映画でも、また実世間でも大多数だろうと思います。それが、女性から責任を取れともいわれないのに、むしろ今は別の恋人がいるから姿を現すなとまでいわれているのに、それまでの仕事を辞めて定住し子どもを育てようと決意するという意外性(責任を取れと迫られたらやっぱり逃げたかもしれませんけど)。ライアン・ゴズリングの飄々としたどこか哀しげな表情が、そういった決意とともに、意外と純情ないい奴なのかもと思わせてくれて、いいキャスティングだったなと思います。
 しかし、冷静に考えると、ルークはそれまで行きずりでロミーナを弄んでそのまま連絡もせずに他の土地を放浪して放置し、別の男の子どもがいるとわかってロミーナと暮らしジェイソンをかわいがっているコフィの家に勝手に上がり込みコフィを追い出そうとしたり殴りつけと傲慢な態度を取り、子どものためにといってやることも生業ではなく銀行強盗。これが、父性愛とか意外にいい奴とか思えてくるのは、やはり、「ただしイケメンに限る」なんだとも思えます。
 私には、寛容の精神で別の男の子をかわいがり、育て続けているのに、イケメンでない黒人だからか、殴られ邪魔者扱いされるコフィが不憫に思えました。 

2013年6月 8日 (土)

オブリビオン

 エイリアンの侵略・核戦争後の地球に残る1組の男女という設定のトム・クルーズ最新作SF映画「オブリビオン」を見てきました。
 封切り2週目土曜日、新宿ミラノ1(1064席)午前11時の上映は1割くらいの入り。

 2077年の地球は、エイリアンの侵略により月を破壊され、大津波と核戦争のために荒廃し、放射能汚染で地表の多くが居住不能となっていた。ジャック・ハーパー(トム・クルーズ)とヴィクトリア(アンドレア・ライズブロー)は、宇宙ステーション「テット」から地球に派遣され、地上高く作られた快適な「スカイタワー」を基地として、監視兵器「ドローン」とともに、海からの採水でエネルギーを得るプラントや燃料電池を、地球に残る「スカヴ」の襲撃から守る任務に就いていた。ある日、謎の宇宙船が墜落し、興味を持ったジャックは、テットの帰還指令を無視して駆けつけた。墜落現場には地球人宇宙飛行士が入った冬眠装置が散乱していたが、ジャック以外の生命体を認識すると攻撃するようプログラムされているドローンは宇宙飛行士たちを殲滅し、ジャックはようやくその1人ジュリア(オルガ・キュリレンコ)を助ける。任務のため記憶を消されていたジャックは、ジュリアが何度も夢に現れた女性とそっくりであることに驚くが、その直後スカヴに倒され…というお話。

 基本線は近未来SFなのですが、謎解きミステリーが組み合わされていて、これに触れずに感想を書くことがかなり難しい作品です。
 特にミステリーだと謳っているわけではないのですが、冒頭から放射能汚染で人類が住めなくなった地球でミッションに出るときにマスクもしないでいいのかとか、2017年のスーパーボウルの記憶があるとかエンパイア・ステートビルが世界一高い場所ってジャックは一体何歳だとか、気になる疑問が出て来ます。後から、もっと大きな謎が登場し、そういったことも含めて、一応ストーリーとしてはそれなりにきちんと説明されることになります。
 ニューヨーク・ヤンキースファンの(ヤンキーズのキャップをかぶり続けている)ジャックが、ヴィクトリアに2017年の話をするのに、なぜスーパーボウルの人類最後の試合の話題で、ヤンキースや(野球の)ワールドシリーズじゃないのかは、結局最後まで解き明かされませんでしたが。

 エイリアンの侵略とか核戦争という大仕掛けな話のわりにはあっけない感じはありますが、SFとしての仕立ては悪くないと思いますし、ヒューマンドラマとしてもそこそこのできで、エンターテインメントとしてはいい線ではないかと思います。
 タイトルの意味は忘却。ハリー・ポッターシリーズで登場する忘却呪文もオブリビエイト ( Obliviate ) でしたし。ジャックが記憶を消されていたことと、地球に取り残された忘れられた存在を意味していると思います。

 公式サイトのイントロダクションの「たった1人残された男、ジャック。なぜ誰もいない地球を守るために闘うのか」って、ミスリーディングというか、ちょっと酷い。ジャックはヴィクトリアと2人組で派遣されているわけで、(業務上派遣されている間柄で、いいのかとも思いますが)ヴィクトリアとHもしてるし仲むつまじく暮らしているのですから、「1人」ってイメージではありません。そういったら、「男は1人」とか屁理屈こねるんでしょうか。「トム・クルーズ主演」が売りの映画だからトム・クルーズにしか目が行かないのかもしれませんが…
 ジャックを捕まえたスカヴの親玉ビーチ(モーガン・フリーマン)が最初に話すときにマッチを擦って話し出すシーン、「100,000年後の安全」を思い起こしてしまいました。

2013年6月 2日 (日)

きっと、うまくいく

 インド国内で歴代興行収入1位の記録を打ち立てた2009年のインド映画「きっと、うまくいく」を見てきました。
 封切り3週目日曜日、シネ・リーブル池袋シアター2(130席)午後0時15分の上映はほぼ満席。

 動物写真家となって活躍中のファーラン(R.マーダビン)は旅行に出るため飛行機に乗ったところで、超エリート大学ICEで同期だったサイレンサーから呼び戻され、大学時代の友人ラージュー(シャルマン・ジョーシー)を呼びつけて、ICEに向かった。サイレンサーは、ファーランとラージューの友人だったランチョー(アーミル・カーン)にいたずらをされて恥をかいた夜、10年後の9月5日にここで再会しどちらが偉くなっているかを賭けようと宣言し、そのために2人を呼び寄せたのだが、肝心のランチョーは現れる様子がない。大学卒業後行方不明となったランチョーに会えると思って駆けつけた2人は怒り、サイレンサーの情報を元にサイレンサーの車でランチョーを探しに出た。学生時代、ランチョーは、ファーラン、ラージューと寮で同部屋だったが、規律を押しつける連中や学長と対立し、優れた思考力で難題を解決しながらも学長に疎まれて迫害され、2人もそれに巻き込まれながらランチョーの正義感とユーモアと行動力に惹かれ、友情を深めていったのだった。しかし、サイレンサーの情報で尋ねたランチョーの邸宅にいたのは、彼らの知るランチョーとは別人で…というお話。

 インド映画にしては歌と踊り(乱舞)の場面が少なく、悪役の学長が不正などはせず厳しいけれども比較的フェアな姿勢をとっていて正義と悪の2項対立というよりも悪ガキ(いたずらっ子)対大人の構図の方に近い、学園青春もの映画です。
 超学歴社会となったインドの教育問題をテーマとして、超エリート大学の教育を学問ではなく点の取り方を教えていると批判し、なりたいものになる(やりたい仕事をする)べきと繰り返すランチョーと、大学側や周囲の学生の親たちの対立の形で問題提起をしています。
 そういう堅めのテーマを選びながら、映画としては悪ガキっぽいランチョーの行動とそれに振り回される周囲の様子がコミカルに描かれ、ランチョー、ファーラン、ラージューの友情、ランチョーと学長の娘(カリーナ・カプール)の恋も絡んで、青春グラフィティ&ハートウォーミングコメディになっています。歴代興行収入記録を支えた観客の大半はその線で映画を楽しんだ人たちだと思います。
 途中、"Interval " (幕間、休憩)の字幕が出ながらそのままノータイムで後半に入り、2時間50分通しの上映でしたが、見やすい展開と、ランチョーの素性と卒業後の行方をめぐるミステリー的興味で、あまり長さを感じさせませんでした。

 原題は " 3idiots "(3人の愚か者、3バカ)。日本語タイトルは、ランチョーが自分や人を落ち着かせるために度々唱える " All is well " ("Aal Izz Well " とも…)から。この日本語タイトルは、悪くないかも。

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