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2013年5月

2013年5月26日 (日)

聖☆おにいさん

 立川で長期バカンス中のイエスとブッダの日常を描いたギャグマンガを映画化した「聖☆おにいさん」を見てきました。
 封切り3週目日曜日、シネ・リーブル池袋シアター1(180席)正午の上映は9割くらいの入り。観客の多数派は若年層。女性グループ、次いでカップルという感じでした。

 世紀末を乗り越え、日本の立川でルームシェアしながら長期バカンスを楽しむイエスとブッダ。倹約に努めタイムセールで少しでも安い買い物を心がけるブッダに、新しいものや食玩に目を奪われがちのイエスは叱咤激励され、気づかないうちに親父ギャグを言ってしまい照れるブッダは、お笑い好きのイエスに慰められという具合に、平穏な日々を過ごしていた。周囲からはニートの外国人と怪しまれ、ブッダは小学生たちから額の白毫を怪しまれて「ボタン星人」と陰口を言われてつけ狙われることになり…というお話。

 倹約に努めまじめな人柄で、徳の高いことを言うと後光が差すブッダと、好奇心が強く物欲を抑えきれずがまんをすると額から血を流してしまうイエスが、平穏な日常で小さな幸せを噛みしめて生きる姿を描くほのぼの系のストーリーに、小さな逸脱を聖人でありながらという評価基準と聖人であればこその一般人と異なる感覚のズレでギャグにしていくというのが基本線の作品です。
 2人が着ている水色単色にイエスやブッダに関係する単語の文字が書かれただけのTシャツ。見ているうちにあんなTシャツ、どこで売ってるんだろと思いますが、それにあわせてコンビニの店員が同じ疑問を呈し、自宅でイエスに隠れてTシャツをプリントするブッダの様子が登場します。そういうふうに、概ね、見ていて感じたり予想するのに合わせた展開で、ビックリするようなことはあまりなく、そこそこの和みを感じさせるというところです。

 タイトルとかからは、イエスとかブッダとか出てくるアニメだから、「我が輩はエル・カンターレである」とか出てくるんじゃないかとか思ったんですが(そう思って調べてみたら、イエスはエル・カンターレの化身じゃないから大丈夫ですね。私の誤解でした)、関係ないようでした。

 立川の町並みの絵が、イエスやブッダが入らないシーンではぼかし気味のタッチできれいなのが印象に残りました。

2013年5月25日 (土)

愛さえあれば

 中高年男女の出会いを描いた映画「愛さえあれば」を見てきました。
 封切り2週目土曜日、全国14館東京で2館の上映館の1つ新宿武蔵野館スクリーン2(84席)午後3時30分の上映は4割くらいの入り。観客の多数派は中高年でした。

 癌の治療が一区切りついたイーダ(トリーネ・ディアホルム)が帰宅すると、夫のライフ(キム・ボドニア)は会社の経理担当者ティルデ(クリスティアーネ・シャウムブルグ=ミューラー)とセックスの真っ最中。イーダが詰め寄るとライフは君が病気になって自分も辛かったんだなどと言って出て行ってしまった。妻を事故で亡くし仕事中毒になった野菜果物貿易商フィリップ(ピアース・ブロスナン)は、南イタリアの別荘で息子パトリック(セバスチャン・イェセン)が結婚式を行うことになり、イタリアに向かう途中、コペンハーゲンの空港で車をぶつけてきた相手が息子の婚約者アストリッド(モリー・ブリキスト・エゲリンド)の母イーダと知り、別荘に同行する。別荘には、結婚式の準備を頼まれたパトリックの友人で密かにパトリックに思いを寄せるアレッサンドロ、フィリップの死んだ妻の妹でフィリップにあからさまな好意を寄せるベネディクテ(パプリカ・スティーン)とその娘、さらにはライフとともに現れライフの婚約者と自己紹介して回るティルデ、ライフに怒りを見せるライフとイーダの息子ケネト(ミッキー・スキール・ハンセン)らが集結し…というお話。

 妻を事故で亡くして、ワーカホリックになり、息子をほったらかしたという負い目があるフィリップ。職場で部下からデートの誘いを受けても、もっと若い男を誘えと言って仕事の話に切り替え、義妹から度々色目を使われても応じず最後には妻は最高の女性だった、君が妻と姉妹だとは信じられないなどと罵り明確に拒絶。妻を忘れられないという話ならそれも一つの心情ですが、一方で癌治療中の人妻で、息子の婚約者の母イーダには惹かれていきます。部下は、どんなに魅力的であっても恋愛対象外というのは、セクハラ防止の観点・倫理感覚で理解できます(というか今どきは当然の感覚と思います)が、その倫理感覚は息子の婚約者の母親には当てはまらないんでしょうか。ちょっと局面が違うかなぁ…どっちにしても好きになるのはもう理屈じゃないってとこでしょうか。
 これに対して、部下と不倫の関係を続け、挙げ句の果ては娘の結婚式にその不倫相手を同行するライフ。倫理観も羞恥心もない、何だろ、この人って感じ。
 結婚式を前に怖じ気づき、婚約者から誘われても応じず1人テラスや海岸で物思いにふけるパトリック。
 基本的に傷ついた中高年の男女フィリップとイーダの出会い、そしてその子どもたちパトリックとアストリッドの男女間の心情の機微がテーマの作品ですが、登場する男たちの生き様の対照もまた気になりました。

 映像面では、南イタリアの海沿いの町ソレントの海と町並みと夕日の美しさが印象的です。デンマーク映画だからということもありますが、イタリアでの場面とデンマークでの場面で色彩・明るさを対照的に描いていて、イタリアの明るさ、イタリアへの憧憬が画面だけからでも感じられる作品です。

2013年5月12日 (日)

L.A.ギャングストーリー

 ロサンジェルスを牛耳るギャングに法律を無視してゲリラ戦を挑んだ警察官チームを描いた映画「L.A.ギャングストーリー」を見てきました。
 封切り2週目日曜日、新宿ミラノ3(209席)午前11時15分の上映は5割くらいの入り。

 1949年、除隊してロサンジェルス市警に戻ったジョン・オマラ巡査部長(ジョシュ・ブローリン)は、判事や警察上層部も買収してロサンジェルスを牛耳るギャングミッキー・コーエン(ショーン・ペン)の娼館に一人で乗り込み女性を騙して連れ込んでレイプしようとしていた3人の手下を逮捕・連行するが、警察署に戻る頃には人身保護令状が出され悪党は直ちに釈放されてしまう。憤るオマラを部屋に呼んだパーカー市警本部長(ニック・ノルティ)は、コーエンを潰すために何をやってもいい、逮捕の必要もない、部隊の人選は任せる、これは捜査ではない戦争だと極秘特別指令を出す。身籠もった妻コニー(ミレイユ・イーノス)が危険な任務に反対しながら選んだはぐれ者部隊を口説いて率いたオマラは、コーエンの賭場や麻薬輸送車を次々と襲撃してゆくが…というお話。

 危険を顧みずあまり作戦を練らずに愚直に現場に飛び込んでいくオマラの、西部劇的なマッチョなダンディさに、素直にまたはノスタルジックな思いを込めて、共感できるかがほぼすべてという映画だと思います。
 オマラに関しては、身重の妻コニーが戦争が終わって平和になったのにまた危険な任務を引き受けるのかという反対するのを押し切っていくわけですが、ここでコニーがそれでもやるのならと部隊の人選を自ら行い、勇気や志、無鉄砲さはあるがそれ故に冷遇されているはぐれ者たちを、それならオマラを守ってくれるしコーエンから買収されていないと言って人選するあたりや、オマラが妻と生まれてくる子どもに相当負い目を感じているところが、今ふうのアレンジというところです。
 スターになろうとしてコーエンの情婦となっているグレイス(エマ・ストーン)とオマラの部隊に選ばれながらやや斜に構えたジェリー(ライアン・ゴズリング)のカップルは、より若い世代の甘めのビジュアルでスクリーンに花を添えていますが、オマラとコニーより昔風かも。

 テーマとしては、部隊内からも俺たちとコーエンのやっていることはどこが違うという疑問が出されるように、悪と闘うためなら何をやってもいいのか、悪人なら問答無用で撃ち殺していいのかというのがポイントになりますが、この作品ではそう深くは考えずにそれでいいんだと答えているようです。適正手続重視の国と、私たちには思えるアメリカでも、そういうフラストレーションがたまっていると読むべきでしょうか。
 また、この映画の悪役、冷酷非情のギャングの親玉ミッキー・コーエンはユダヤ人です。ハリウッド映画でユダヤ人を悪者に描くのはちょっとタブーに挑戦というところでしょうか。実話に基づく以上、設定を変えようがなかったということなんでしょうけど。

2013年5月11日 (土)

偽りなき者

 幼稚園児の腹いせの嘘から性的虐待を疑われ職を失い村八分とされた男の矜持を描く映画「偽りなき者」を見てきました。
 封切り9週目土曜日、現在全国5館、東京では唯一の上映館ヒューマントラストシネマ有楽町シアター2(63席)午前11時50分の上映は7割くらいの入り。

 離婚と失業を乗り越え、幼稚園に勤め、一人息子のマルクス(ラセ・フォーゲルストラム)に慕われて同居の準備もでき、人生の軌道を回復しつつあった42歳男ルーカス(マッツ・ミケルセン)は、ルーカスを慕う園児クララ(アニカ・ヴィタコプ)がルーカスにキスしたことを注意したことから気分を害したクララが園長(スーセ・ウォルド)に「ルーカス大嫌い」と伝え園長に聞かれるうちにルーカスの性器が硬かったと言い出し、部屋で尋問されるうちにルーカスが園内で男性器を露出し触らせて射精したことにされ、一方的に解雇され、その噂を広められ、警察に逮捕されてしまう。友人(ラース・ランゼ)がつけた弁護士の活躍もあり、ルーカスは起訴されることなく釈放されるが、ルーカスが性的虐待をしたと信じ込む園児の親たちや地域住民はルーカスを閉め出し、嫌がらせを繰り返す…というお話。

 まったく身に覚えがなくても、被害者側の嘘で犯罪、それも多くの人に忌み嫌われる犯罪(とりわけ児童に対する性犯罪のような)の濡れ衣を着せられてしまえば、人生は破壊されてしまう。時間や場所の特定もなくいつかどこか密室で犯したなどという容疑をかけられたら、無実を証明することはおよそ無理(せめて日時場所が特定されるならアリバイ証明がありうるけど)。それなのに弁明の機会さえなく勝手に犯罪者にされてしまい、解雇され、地域で村八分にされ、隠れて石を投げたり脅迫する卑劣な加害者の攻撃にさらされる。実に、いつどこで誰におきても不思議はない被害と不幸と不条理だと感じます。
 ルーカスの場合、それがルーカスを慕う少女によるという不条理が重なり、ルーカス自身がクララを責めることができず、クララのせいで被害を受けているのに終盤でもクララの気持ちを優先した行動を取る姿が感動的でもあり哀しいところです。
 もっとも、クララがルーカスにキスをしたシーンは、ルーカスがたくさんの男子の園児にじゃれつかれマットに倒れ込み、もう死ぬぞ、死んだといって死んだふりをし、園児たちがルーカスをくすぐって起こそうとしている場面だったことを考えれば、クララの気持ちとしては白雪姫や茨姫のように「死んでいる」愛しい人を生き返らせるキスだったと思います。そういうクララの気持ちを考えてあげれば、「王女様のおかげで生き返ったよ。ありがとう」くらい言って、抱き上げてぐるぐる回して、その後で「でも、唇へのキスはやめておこうね」とそっと言うくらいの対応じゃないかなぁ、幼稚園の先生としては。それを厳しい顔して「ダメだ」とか言って問い詰めるから反抗して嘘を言ったんだと思う。
 あと、ルーカスの行動としては、せっかく寄り添ってくれてたガールフレンドを、信じると言っているのに、ちょっと躊躇しただけで信じてないだろと癇癪を起こして追い出したのも失敗だと思う。わざわざ孤独になることもないし、異常な幼児性愛者と疑われていることを考えれば、普通に大人の女性とつきあっていてガールフレンドがまわりに「ルーカスは全然異常じゃないよ」って言ってくれれば疑いも晴れやすいのに、その芽を自ら摘むのは自殺行為。
 そういうルーカスの不器用さも、若干の遠因にはなっていますが、それにしてもルーカスに石を投げたり、嫌がらせをし、買い物に来たのを店から追い出す店長・店員とか、実に卑怯。犯罪を憎む素朴な正義感と、当人は思っているんだろうけど、そういう口実のただのいじめとしか思えない。権力にすり寄って、それを笠に着て弱い者いじめをする人が実に多いということが、暗い気持ちを引き起こします。
 その不条理に対して、悲しみつつも下を向かずに生きてゆくルーカスの姿に静かな感動を覚える作品です。

 弁護士の視点で、特に思ったのが、中途半端な能力の専門家が悪辣な役割を果たすという危険性です。この作品では、園長のグレテとグレテに呼ばれたカウンセラーだかなんだかわからない男。ただでも暗示に弱いから事情聴取には得に慎重になる必要があることが常識の幼児に対して、自分で勝手に想像をたくましくして誘導して行きます。こんな聞き方したら、子どもはそういうでしょと思う。男がルーカスが射精したかという趣旨の質問をしたのを聞いて横で吐くグレテ。そういう質問をする男も論外ですが、吐き気がするのは、このグレテの態度です。およそ専門家としての資質が欠けていると思います。そのくせ虐待児童は被害を忘れようとするとかいう方向での決めつける材料の知識・配慮だけはあって自身とまわりを説得していきます。そういう専門家としての資質に問題がある人物でも、専門家としての資格と一定の地位があれば、その判断が専門家の判断としてまわりに受け入れられてしまう(この場合は、いじめ・村八分の口実になるレベルかもしれませんが)ということは怖いことです。児童虐待問題は全然専門じゃありませんが、様々な分野で世間で専門家と扱われる一人として自戒しておきたいと思います。

2013年5月 6日 (月)

17歳のエンディングノート

 白血病で余命幾ばくもない17歳の少女の揺れる思いと恋を描いた映画「17歳のエンディングノート」を見てきました。
 封切り2週目月曜日・GW最終日、全国8館・東京では唯一の上映館の新宿武蔵野館スクリーン2(84席)午前11時40分の上映は6~7割の入り。

 4年前に白血病とわかり、17歳になり余命幾ばくもないとわかったテッサ(ダコタ・ファニング)は、親友のゾーイ(カヤ・スコデラリオ)と死ぬまでの残り9か月でやりたいことリストを作り、セックスやドラッグ、法律を破ることなどを挙げてトライしていった。仕事を辞めてテッサの闘病に寄り添う父親(パディ・コンシダイン)はテッサの逸脱に怒り反対しながら、葛藤し、幼い弟は「テッサが死んだら旅行するの?」などと無神経に口走り、離婚して別居している母親(オリヴィア・ウィリアムズ)は現実を直視したがらない。ゾーイは不誠実なボーイフレンドの子を孕みいっぱいいっぱいになる。そうした中、隣に引っ越してきた夫を亡くしたばかりの母に寄り添うために大学を休学中の青年アダム(ジェレミー・アーヴァイン)と知り合ったテッサは…というお話。

 17歳の娘が余命幾ばくもない白血病という、高校生の娘を持つ私には見るまでもなく泣けてくる設定ですから、当然に泣いてきました。
 やりたいことリストには、ハワイでサーフィンとかインドで象に乗るとかもありましたから、前半でもっとキャーキャー騒ぐのかと思いましたが、やりたいことへのトライは少し地味目で現実的でした。後半は白血病の悪化で悲惨な展開になるかと思いましたが、これも比較的あっさりした感じ。わりときれいに進んで、テッサの心の動き、家族や恋人の気持ち・思いに重点が置かれたハートウォーミングなラブストーリーと見るべきでしょう。
 一貫してテッサがもうじき死ぬことを前提に話す弟だけでなく、テッサが可愛くて仕方がない父親もまた写真を焼いたり破いたりするテッサに何も残さないつもりかとテッサの死後に思いを馳せる発言をしたり、端から見ているとそういう言い方はなぁと思う発言が目につきます。現実にはどんなに気をつけても限界はあるのだと思いますが。
 死なないでくれと泣きながらすがる父親と、どうすればいいのかわからず途方に暮れる恋人に、黙って寄り添う17歳の娘という構図を見ていると、けなげで泣けてくるとともに、そういうものかもとも思えてきます。

 恋をすることで、やりたいことリストが前向きなものになっていくところ、すがすがしく思えます。愛を知ることで、命は「ながくもがな」と実感でき、灯は強くなるものかと。まぁ、現実はそう甘くはないよということでもありますけど。

2013年5月 5日 (日)

ジャッキー・コーガン

 ブラッド・ピット主演最新作「ジャッキー・コーガン」を見てきました。
 封切り2週目日曜日・GW後半4連休3日目、シネ・リーブル池袋シアター2(130席)午前11時30分の上映は1~2割の入り。

 闇社会で開かれている賭場で、マーキー(レイ・リオッタ)が胴元の時、賭場に強盗が入り客から金を奪った。その後賭場は閉鎖されていたが、再開し、マーキーは仲間に実は自分が仕組んだと話したが仲間たちは自分が損をしたわけではないので放置した。その話を聞きつけたリスことジョニー(ヴィンセント・カラトーラ)は次にマーキーが胴元の時に強盗に襲撃させれば闇社会の連中は犯人はマーキーと思い込むと踏んで、若いフランキー(スクート・マクネイリー)とラッセル(ベン・メンデルソーン)の2人に賭場を襲わせる。マフィアのボスディロン(サム・シェパード)は犯人を抹殺するために殺し屋のジャッキー・コーガン(ブラッド・ピット)を雇うが…というお話。

 見終わって、これほどまでに登場人物の誰一人にも共感できない映画があっただろうかと呆然としました。
 ジャッキー・コーガンは「その男は優しく、殺す」(公式サイトのメインキャッチコピー)のではなく、単に命乞いをされるのがめんどうだから不意打ちでさっさと殺すというだけ。顔見知りの人間は別の殺し屋にやらせようとするし、指紋もきちんと拭き取る、めんどうなことはいやで捕まりたくはないという、そういうところには神経を使う、とても大人物とはいいがたい人間味のない金にしか興味がない殺し屋。本人は気取っているようだけどかっこよくも見えないただの不機嫌なヤクザレベル。それ以外は、マフィアの中間管理職の神経質でせこい連絡役、賭場で強盗を仕込んで客の金を奪い今回はそれをまねされて再犯を疑われる賭博の胴元、賭場強盗の経緯を知って胴元に嫌疑を押しつけて自分は助かると踏んで強盗を計画する人物、それに雇われた実行犯、ジャッキーに殺人を依頼されてホテルで遊びほうける人物など、ジャッキー・コーガンよりさらに共感の余地もないレベルばかり。
 予告編冒頭に「2013年 映画史に刻まれる、新たな殺し屋の誕生」って出ています。こういうの誰が作るのか、映画興行関係者というのは恥というものを知らないのかとしみじみ思います。アメリカで2012年11月末に公開され、公開初週末の興行成績がやっとこ6位、翌週10位でその後2度とベスト10にも入れず、ブラッド・ピット主演映画ワーストの呼び声の高いこの映画に日本公開に際してこういうキャッチをよくつけるものだと思います。
 映画の最初の段階で、制作会社やプロダクションのクレジットのくどさに呆れかえりました。近年、制作関連会社のクレジットが3つ4つは当たり前になってきていますが、それでも5つを数えることは少ないと思います。この映画では7つか8つ続きます。それを見た段階で、つまり映画本編が始まる前に既にこの映画は観客のために作られた映画ではないと、少なくとも制作者が観客のことなど全く考えていないことを確信しましたが、見終わって改めてやっぱりそうだったなぁと納得しました。

 映画全編を通して、2008年のアメリカ大統領選挙が背景に登場します。ラジオでブッシュ政権の財政政策に関するナレーションがかぶり、政治家たちの演説や言い訳が続き、オバマの CHANGE の広告が映り、後半はオバマ演説が背景に溢れかえります。それを背景音に、ブラッド・ピットが、オバマ演説の言い回しを皮肉りながら、アメリカは国じゃないビジネスだとまくし立てます。制作者が少なくともオバマが嫌いなんだなということは、よくわかる映画です。アメリカの当時の政治ニュースに疎い私には共和党側も皮肉られているのかはちょっとわかりませんでしたが。どちらにしても、2012年制作のこの映画は、アメリカ国内向けには、その種の政治的メッセージが含まれているのでしょうけど、日本人にはあまり関心を持てないしまたうまく読み取れないと思います。アメリカ向けにしても、公開が大統領選挙の投票(2012年11月6日)終了後というのでは、腰砕けで時季外れだと思います。その結果、アメリカでも興行成績は惨憺たるものだったわけですが。
 アメリカ社会の描写という点で見ると、ジャッキー・コーガンが呼び寄せた殺し屋のミッキーが3日間にわたり娼婦に奉仕させた挙げ句に支払ったのが100ドルとか、ジャッキー・コーガンの殺人の報酬が1人1万ドル、ジャッキー・コーガンがそれに文句を言う言い値も1万5000ドルという、価格破壊、自営業の厳しさなんてものが、ひょっとしたら着目ポイントかも。娼婦への100ドルは、単にジャッキーのお友達のミッキーが人の弱みにつけ込む酷い奴だというだけのこととも思いますが。

 さらにいうと、アメリカでのタイトルは、"Killing them softly"。 原作(小説)は "Cogan's trade" というそうですので、映画のタイトルは制作側で独自につけたものということになります。このタイトルを聞けば、だれでも日本では「やさしく歌って」と呼ばれる(というよりは、ネスカフェのCMソングとして知られる)1973年に大ヒットした "Killing me softly with his song" を想起します。内容的には全然関係ありません。このあたりもあやかり商法的でいやな感じがします。日本語タイトルが、「ジャッキー・コーガン」とされているのは、原作小説の線に戻したもので、少しホッとします。まぁ、日本では「やさしく歌って」の知名度(メロディの知名度はかなり高いですが曲名の知名度は…)とそれに引っかけるのが難しい(「やさしく殺す」では引っかけていることがわからないし、「やさしく殺して」ではブラピが主語じゃなくなりますし)ということが考慮されただけかもしれませんが。

2013年5月 4日 (土)

アイアンマン3

 アイアンマンシリーズ最新作の「アイアンマン3」を見てきました。
 封切り2週目日曜日・GW後半の4連休2日目、新宿ミラノ1(1064席)午前11時30分の上映は1割くらいの入り。連休中ということもあってか、男性一人客がわりと目につきました。

 「アベンジャーズ」の戦いで無力感を持ち、それがトラウマになっているトニー・スターク(ロバート・ダウニーJr)は夜も眠れず新たなアイアンマンスーツの開発に明け暮れ、恋人でスターク・インダストリーズのCEOペッパー(グウィネス・パストロウ)にも呆れられていた。アメリカ大統領は、アイアンマンスーツを改良した「ウォーマシーン」をローディ中佐(ドン・チードル)に着用させ、組織的な防衛をもくろむが、謎のテロリストマンダリンが次々と爆弾事件を起こし始めた。テレビ局からマンダリンに対するコメントを求められたトニーは、自宅の住所を教えて挑発し、直後に武装ヘリ数機からミサイル攻撃を受け、トニーは海底に落下、行方不明となるが…というお話。

 アクション場面ではアイアンマンスーツの遠隔操作と大量生産がポイントになっていて、戦闘シーンが派手になっていますが、どこか大味な感じがします。やられたと思ったらそれは遠隔操作のスーツだったということが繰り返されると、最初はいいけど、次からはどうせまたそういう落ちでしょと思ってしまいますし。
 ストーリー的には、トニーのトラウマと、たまたま知り合った少年との交流あたりが見せ場でしょうか。

 サブタイトルは「さらば-アイアンマン。」ですが、見る前からどうせ客寄せに最後みたいにいってるだけでしょと思っていましたし、始まる前にMARVELのコマーシャルで、アベンジャーズの続編が2015年公開決定なんてやってますし、ご丁寧にラスト付近の語りでも私はアイアンマンであり続けるといわせているわけで、続編が予定されていることは明らかです。どうしてしらじらしく「さらば、アイアンマン。」とか「最後の戦い」とかいうキャッチコピーをつけられるのでしょうか。

2013年5月 3日 (金)

横道世之介

 大学時代の人のよい憎めない友人を振り返る青春映画「横道世之介」を見てきました。
 封切り10週目金曜日・GW後半4連休初日、シネ・リーブル池袋シアター1(180席)午前10時30分の上映は1~2割の入り。

 1987年4月、法政大学経営学部に入学した横道世之介(高良健吾)は、入学式で隣り合った倉持(池松壮亮)・ガイダンスで隣り合った阿久津唯(朝倉あき)とともにサンバ同好会に入り、ホテルのボーイのアルバイトをしながらひょんなことから知り合った謎の年上女性千春(伊藤歩)に憧れ、そのことを相談したくて声をかけた同期生の加藤(綾野剛)に誘われたダブルデートで知り合った社長令嬢与謝野祥子(吉高由里子)と交際を始める。世間知らずで初心で天然呆けの祥子は世之介を気に入って夏休みには長崎の世之介の実家に押しかけるが…というお話。

 比較的純朴で飾り気がなくお人好しな青年の横道世之介が、友人たちと成り行きで過ごす学生生活の日々や初心な祥子との微笑ましい恋愛模様を描き、十数年後の友人たちが学生時代を振り返っておもしろいいい奴がいたよねと振り返り、こういう奴と学生時代に知り合えて得したなぁと思うという、ハートウォーミング・ノスタルジー青春映画です。
 世之介自身は、それほど特別の人という感じではなく、打算的なところや狡猾なイメージはないですが、どちらかというと普通の若者で、そのあたりが多くの人にとって、そんな奴いたよねと思えて共感しやすいところなのだと思います。
 私の目には、むしろ、世間知らずで天然な娘祥子の初心な恋愛事情がとても微笑ましく思えました。「蛇にピアス」の激しく執拗な濡れ場で脚光を浴びた吉高由里子がこんなにも可愛く初心に見せられるなんて、と女は/女優は?怖いと感じます(まぁそれを言ったら、「蛇にピアス」でその吉高由里子と激しい濡れ場を演じた相手役の高良健吾も、この作品ではおどおどと「キスしてもいいですか」なんて聞くようなブリッ子ぶりですから、お互い様ではありますが)。
 2人の微笑ましい関係、特に祥子の世之介へのまっすぐな思いがまぶしいくらいだっただけに、世之介と祥子がどういう事情で別れるに至ったかがスルーされているのが残念です。

 公式サイトのプロダクションノートのページに掲載されている写真を見ると、クライマックスともいえる世之介と祥子のクリスマスイヴ、積雪の夜のラブシーンは昼間に撮影したようです。それを加工して夜のシーンに見せているということなのでしょう。技術の進歩はめざましいということなんでしょうけれども、なんだかちょっとがっかりしてしまいました。

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