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2012年10月

2012年10月27日 (土)

終の信託

 心を通じる患者から尊厳死を求められその限界の判断を託された医師の苦悩の選択を描いた映画「終の信託」を見てきました。
 封切り初日土曜日、新宿ピカデリースクリーン6(232席)午前9時20分の上映は2~3割の入り。観客層は中高年中心でした。

 ふだんよりもかなりネタバレです。特に最後の方の検察官の取調についてのコメントは、弁護士としていわざるを得ない思いで書きますがネタバレしないと全然書けない話ですから、完全なネタバレになっています。

 呼吸器内科医の折井綾乃(草刈民代)は、不倫関係にあった医師高井(浅野忠信)が綾乃が同行したいといって断られたホノルルへ妻以外の若い女性を連れて行ったのを目の当たりにして詰問したところ「結婚するなんていったっけ」とつれなくいわれ、当直室で酒を飲み、睡眠薬を繰り返し飲むうち意識不明となる。看護師に発見されて救命措置を受けながら、綾乃はぼんやりとした意識でもう終わりにしたいと思っていた。喘息の発作で入退院を繰り返す患者江木(役所広司)と話すうちに失恋を突き放して見ることができた綾乃は、次第に江木と心を通じ合わせていく。自宅付近の河原を散歩する江木を訪ねた綾乃は、無意味な延命治療はせず自分が死の苦しみにどこまで耐えなければならないかは先生が決めて欲しい、妻には重荷を負わせたくない、治療費の支出も抑えて少しでも多く妻に残してやりたいと江木から頼まれる。それからしばらくたって、綾乃の勤める病院の診察券だけをポケットに入れて河原で心肺停止状態で発見された江木が病院に搬送され、懸命な蘇生措置で心拍は復帰し自発呼吸も弱々しくは回復したが意識は回復しなかった。妻と息子を前に綾乃は江木の意向を説明するが・・・というお話。

 医療技術の発達で、回復の見込みがなくても延命措置で生かし続けることだけは容易になってしまった現代において、回復の見込みがないのに自分が延命措置を受け続けることに疑問や拒否感を持つ人が増え、家族の立場からは回復するのならば治療を続けて欲しいが回復する見込みがないのに医療費ばかりかさんでいくことは困るという思いがあり、しかし家族の側ではその判断もできずまた言い出しにくく病院側への不信感を募らせるという状況があり、他方技術的には生かし続けられるものを延命措置を打ち切るということになれば責任問題が生じうるという医師や官僚の立場も絡みどうしていけばいいのか、そういう重いテーマを正面から扱った作品です。
 前半で自ら救命措置を受けながら自己の意識の中ではもうやめて欲しいと思いしかしそれを伝えることができない状態だったことを経験したことが、綾乃の江木への思い、そして江木の延命措置をどうするかへの決断の布石になっていますし、このときに自分は自殺するつもりじゃなかったのに周囲に自殺未遂と思われてもそれを明言できない綾乃の態度は、後半で検察官(大沢たかお)に責められて自分の思いとは違う調書に署名してしまうことにも通じていて、一見本筋と無関係に見える高井との不倫や睡眠薬服用などもきちんとストーリーに絡み、無駄のない巧みな構成がなされているように思えます。

 自分の妻のショーツ1枚での乳房も揉まれるベッドシーンをとる監督ってどういう心境なんでしょうね。全裸にはしなかったというのが最後の一線なんでしょうか・・・
 それにしても、高井(浅野忠信)ちょっとひどすぎ。仲里依紗もああいうふうに捨てられたんだろうかと、つい余計な想像をしてしまいました。

 綾乃の医師としての失敗は、延命措置を打ち切る決断そのものではなく、チューブを抜いたときの江木の容態の変化を予期できなかったことにあるように思えます。実施する決断をするに当たっては、医師として当然に他の症例での研究とかを調査して現在の症状と照らし合わせて検討すべきでしょう。それを怠ったとしたら倫理的な問題以前に専門家としての失態だろうと思います。調べて予期できるものなのかどうかは、私にはわかりませんが。
 江木の容態の変化が予め予測できたのであれば、苦痛を除去するという目的からしても、チューブを外す前に鎮痛剤を投与するなどの措置ができたでしょうし、家族に対しチューブを外すとこういう症状が出るがそれはこういうことだからと説明しておけば家族も納得できただろうと思います。
 その部分で失敗があったがために、家族の気持ちの中で不信感がくすぶり続けて3年後の告訴という事態につながったのだろうと考えられます。専門家の対応として、きちんと押さえておくべきところであるとともに、難しくも悩ましいところではありますが。

 さて、終盤の検察官による取調のシーン。弁護士の目からは、歯がみしたくなる場面の連続でした。
 この事件では江木の直接の死因がチューブを外したことにあるのか、鎮静剤の過剰(致死量以上の)投与にあるのかが決定的なポイントとなり、それにあわせて綾乃が鎮静剤を投与する際に江木の死を予期・容認していたかが取調の最重要ポイントになります。回復の見込みのない植物状態の患者で患者が尊厳死を希望しているということならば、主治医がチューブを外すことは、既に延命措置が実施されている状態を前提とするとそれを外す行為は積極的な行為ともいえますが、全体としては延命措置をしないということにとどまり、理屈上は殺人罪に当たると解する余地があるとしても現実にはそれを殺人罪として公判請求するということにはならないと考えられます。この事件では死亡から3年後の告訴で事件が動き始めたということですから、死亡時点で司法解剖はされていないのではないかと考えられ、また解剖されていたとすれば死因は鎮静剤ではないと判断されたものと考えられます(解剖で鎮静剤が死因と判断されていればその時点で捜査が始まったはずですから)。さらにいえば、鎮静剤の投与量についても、病院に残る記録上、致死量以上ということはないはずです。病院が綾乃が患者に致死量以上の投薬をしたという認識を持ったなら、仮にそれ自体はもみ消したとしても、その後に部長にするとは考えられません。それを考えても、検察はほとんど手持ちの物証はなく供述だけで危うい組み立てをしていることが容易に想定できます。
 そのことはさておいて、仮に江木の死因が鎮静剤の過剰投与によるとしても、殺人罪で立件するためには、綾乃が投薬当時に致死量の投薬をしたという認識があったことが必要です。検察官は看護師の供述を材料に看護師に命じて30ml投与した後、自ら3アンプル30mlを投与したと主張し、綾乃は自分で追加投与したのは1アンプルだと主張しています。もし40mlでは致死量ではないというのであれば、殺人罪での立件は無理のはずです。
 ところが、検察官は、チューブを外すことによる死亡の予期と鎮静剤の投薬による死亡の予期をことさらに曖昧に聞き続け、綾乃に対して苦しませたくないから死なせたということを認めさせ、それを致死量を超える投薬と認識していたという調書にしていきます。また、江木の尊厳死の希望・依頼についてそれはまだずっと先のこととして言ったんだろう、死期が迫って言ったんじゃないだろうと追及する過程で、江木が尊厳死を希望した時点では死期が迫っていなかったと認めたことを綾乃がチューブを外した時点で死期が迫っていなかったことにすり替えていきます。このような素人にはわかりにくい違いを、気付かせないように曖昧にしたり混同させながら捜査側が欲しい供述(捜査側の筋書に沿った供述)をとっていくのが、取調のテクニックとなっているわけです(現実に私が取調を受けたことはありませんが、捜査段階で弁護人として被疑者から話を聞いていると、捜査側が意図的にやっていると断定まではしませんが、そういう流れで取調が進むことが珍しくないと思います)。こういった素人目にはたいした違いに見えないことが重要な意味を持つ事件で、その違いの重要性がわからず、しかも患者を死なせたことで負い目のある綾乃を追い込んで、筋書き通りの供述調書を作ることは、手慣れた捜査官にはさほど難しいことではないと思われます。
 医師である綾乃が死亡した患者のことで検察庁から呼び出しを受けたとき、弁護士に相談・依頼しなかったのでしょうか。こういう実態に反して捜査側に都合のいい供述調書を作らせないことが捜査段階の弁護の最も重要な目的です。せめてチューブを外すことによる死を予期したのと鎮静剤の投与の際に投薬による死を予期したのとでは法律上の評価に天と地ほどの差があること、尊厳死の依頼時点で死が切迫していることは尊厳死が正当化されるための要件ではないこと(尊厳死の依頼の重みやそれが継続していることの判断にまったく無関係とは言いませんが)など、この事件で問題となる論点を整理したアドバイスを受けていれば、そして検察官から調書への署名を求められても署名する義務はないこと、内容に少しでも疑問があれば署名拒否を材料に訂正を求めるべきこと(検察官は署名してもらわないと調書が無意味になることから、「訂正しないと署名しない」と言われれば訂正せざるを得ないこと)のアドバイスを受けていれば、検察官に赤子の手をひねられるように不本意な調書を作られなかったと思います。
 そういう点から、警察大好きマスコミが褒め称える(冤罪事件が発覚したときだけ批判する)取調の実情と、捜査段階での弁護の重要性を再確認させてくれる作品でした。

2012年10月21日 (日)

あなたへ

 妻の遺志を果たすために妻の故郷の海に向かう男の旅と思いを描いた映画「あなたへ」を見てきました。
 封切り9週目日曜日、新宿ピカデリースクリーン10(115席)午前9時20分の上映は4割くらいの入り。

 富山刑務所に嘱託として勤務する木工指導技官倉島英二(高倉健)は、かつて刑務所に慰問に来ていた童謡歌手洋子(田中裕子)と結婚し15年をともに過ごしたが、洋子は悪性リンパ腫で入院生活が続き、後部を改造したワゴン車で旅をしようという英二の計画も実現できないまま英二を残して死亡する。失意の英二の元を訪れたNPOの使者は「私の遺骨は故郷の海に撒いてください」とだけ記された洋子からの絵手紙を英二に手渡し、もう1通手紙を洋子の故郷の郵便局に局留めで送るように託かっていると告げる。洋子の最後の手紙を受け取れる期限は10日間。英二は洋子とともに旅するつもりだったワゴン車で洋子の故郷平戸の漁港薄香へと向かう。途中、キャンピングカーで放浪する元中学の国語教師と名乗る杉野(ビートたけし)、イカめしの実演販売で全国を渡り歩く田宮(草彅剛)とその部下の南原(佐藤浩市)らと寄り道をして期限ギリギリに薄香に着いた英二は洋子の最後の手紙のメッセージに戸惑う。漁協で散骨への協力を拒まれ、南原からもし薄香で船を手配できなかったらと紹介された大浦(大滝秀治)にも船を出すことを拒まれた英二は・・・というお話。

 妻との15年を振り返りながら生前には散骨の意思を伝えなかった妻の真意を探ろうとする英二の物語と、薄香で7年前嵐の日に船を出して帰らぬ人となった漁師の残された妻濱崎多恵子(余貴美子)と娘奈緒子(綾瀬はるか)の物語が被さる形で描かれています。そこが巧みなストーリー展開となっていますが、同時にそのために洋子の真意についてはよくわからない感じがします。洋子の手紙を見た多恵子が洋子の思いを計っていった言葉が洋子の真意と読むべきように見えますが、これはむしろ多恵子が自分の思いを託したものと考えざるを得なくなります。すると、結局、洋子の真意はどこに・・・田中裕子の若い頃のイメージも合わせてやっぱり不思議ちゃんかも、と思ってしまいます。多恵子の言葉の前段の夫婦だからって何から何までわかるわけじゃないという方がメインメッセージと考えるべきでしょうか。
 霧に浮かぶ山城のシーンと、海の夕暮れのシーンがとても美しく、それだけでもお得感があるかも。

2012年10月20日 (土)

毎日がアルツハイマー

 監督が認知症初期の母と過ごした2年あまりを撮影したドキュメンタリー映画「毎日がアルツハイマー」を見てきました。
 封切りから15週目土曜日、映画館を入れ替えて細々続く現在全国で3館東京では唯一の上映館銀座テアトルシネマ(150席)午前9時50分の上映は1~2割くらいの入り。観客は中高年中心。

 オーストラリアで小学生の息子と暮らしていたバツイチの映画監督が、夫に先立たれて一人で2世帯住宅の1階に住む母が自宅にチェーン錠をかけて入れてくれないと2階に住む妹から知らされ、同居して世話するしかないと決意し息子を元夫に預けて帰国し、母と毎日訪れる小学生の姪との日常風景、母の受診や介護認定、医師やケアマネージャーとの面談、息子と元夫の来日等のできごとを2年あまり記録して編集したドキュメンタリー。

 終始穏やかで、不機嫌になることはあっても癇癪は起こさない母親の様子、記憶に障害があったり、いろいろなことが次第にできなくなって意欲が失われて外出がおっくうになっても日常生活や言動には特段問題がない様子など、全体としてはアルツハイマー病で認知症の初期から中期と診断されても多くの場面では普通なんだなという印象を持ちます。医師の言葉でも患者さんの脳の95%部分は正常なんですといわせていますし。認知症患者への偏見を解こうという目的なんでしょうけど、少し明るい気持ちになれます。ホントはもっと厳しい場面もあったけど省いたんだろうなという気もしますが。
 認知症の診断の場面。今日の日にちは結局いえなかったけど、例の「100-7は」「93-7は」という質問には軽々と答えたお母さん。でも次の場面で医師はアルツハイマーで認知症の初期ですねと断言。アルツハイマーの人は数にこだわるんですとも・・・。計算問題できてもダメなんだと、ちょっとドッキリ。
 度々登場する10歳~11歳の姪(監督から見て。お母さんからは孫)のこっちゃん。私から見ると無邪気でひょうきんで微笑ましいけど、実名(たぶん)顔出しで「うんこ」「コマネチッ」とかやってるのを本人が中学生とか高校生になって見たら、「何でこんなの公開したんだ」って家庭内紛争にならないかなぁと、他人事ながら心配してしまいました。

2012年10月14日 (日)

天地明察

 江戸初期に800年ぶりの改暦事業の主役となった安井算哲を描いた映画「天地明察」を見てきました。
 封切り5週目日曜日、シネリーブル池袋シアター2(130席)午前9時30分の上映は6~7割の入り。

 将軍に碁を教える囲碁の名家安井家の息子安井算哲(岡田准一)は、将軍の前で過去の棋譜通りに打つことに嫌気がさし、親友の本因坊道策(横山裕)と計って棋譜を無視して初手を天元(碁盤中央)に打ち真剣勝負を始め、将軍は興味を持ったが、対戦中に予想外の日食が始まり不吉だとして中断させられた。謹慎を言い渡された算哲は、仕えていた会津藩主保科正之(松本幸四郎)に天文好き・算術好きを見込まれ、北極星の高度の測量の旅に出るよう指示される。その旅から帰った算哲に、保科正之は800年前唐から受け継いで使い続けてきた暦(宣明暦)の改暦事業を行うよう命じる。唐代の宣明暦、元代の授時暦、明代の大統暦の精度を観測で比較した算哲は授時暦が正確であるとして、受入を拒否する朝廷を尻目に瓦版で3つの暦の予告する食の日を一覧表にして三暦勝負を挑むが・・・というお話。

 安井算哲の人物像を、天文好き・算術好きで天体観測や算術の問題解きにかかると時を忘れ、それ以外の場面ではどこか抜けている憎めない人物と描き、からっとというかさらっとした笑顔を見せられるキャスティングができたことが、この映画の印象をかなりよくしていると思います。同じ話を頭の切れるクールなタイプとか、引きこもりオタクタイプでやったらかなり引きますもん。
 ストーリー紹介や感想では、改暦の話よりも妻えん(宮崎あおい)との夫婦愛の話という評価も散見されますが、宮崎あおいの登場するシーンはそれほど多くありません。それでも主役に準ずる存在感を出しているのは、堂々とした態度と落ち着いた台詞と含みを持たせた笑顔の味わい故でしょうか。「早くこの帯を解いて」なんていう意味深なというよりもあからさまな台詞も初心でもなくしかし色気づかずにやれるのはこの人ならではかも。

 時代考証にはそれなりには気を遣っているように見えましたが、17世紀に日本が真ん中に来る世界地図があるのかとか、その地図や地球儀でアフリカの内陸まで国境線が書かれてるとかいうのは、勘弁して欲しいなと思いました。→ と、書いていましたところ、親切な読者の方から、イタリア人宣教師マテオ・リッチ(利瑪竇)が作成し1602年に刊行された「坤輿万国全図」では中国(明)が中心の世界地図になっておりアフリカ大陸の国も色分けされているというご指摘をいただきました。私の認識不足でした。

2012年10月13日 (土)

エージェント・マロリー

 罠にはめられた凄腕の女性スパイが逃走し闘うアクション映画「エージェント・マロリー」を見てきました。
 封切り3週目土曜日、ヒューマントラストシネマ有楽町シアター2(63席)午前9時30分の上映は4割程度の入り。土曜午前という時間帯のためかほとんどが一人客。

 マロリー(ジーナ・カラーノ)の雇用先の民間軍事企業の代表者でありマロリーの恋人だったケネス(ユアン・マクレガー)の元にマロリーを指名した作戦の依頼があった。バルセロナで監禁されているジャーナリストを救出するという作戦で、マロリーはアーロン(チャニング・テイタム)らと4人でアジトを急襲し作戦は成功する。自宅に戻ったマロリーにケネスはすぐに新たな作戦依頼を通告する。それはダブリンで同業者のポール(マイケル・ファスベンダー)と新婚夫婦になりすましてスチューダーというフランス人と接触するというもので、マロリーはそんなレベルのものは他の者に依頼しろといったが、依頼者がマロリーを指名しているという。マロリーは不審に思うが・・・というお話。

 一応、罠にはめられたマロリーが、その黒幕と真相を追って、敵の追跡を振り切り黒幕を追い詰めるという展開ですが、関係者の顔を覚えるのが苦手な私には少しわかりにくく、どちらにしても真相は最後に語りで知らされるので、そっちの興味よりは、とにかくマロリーのアクションを見る映画と位置づけた方がいいと思います。
 闘うシーンはほとんどが素手の格闘で、パンチと蹴りと絞め技が中心です。逃走場面でも、ビルの屋上伝いの逃走では超人的なジャンプとか普通なら落ちるだろうと思うところを奇跡的に助かるような展開はなく、はしご段とか雨樋沿いに降りて最後は落ちて背中を打って動けなかったり、カーチェイスでも方向転換して森に逃走して最後は鹿にぶつかって諦めたりと、映画じゃなきゃ無理と思われるような場面は作らないぞという監督の決意が感じられます。だからといってそれが直ちに「リアル」といえるかにも疑問は残りますが(ケネスとの海辺の場面とか、岩の隙間に突っ込んで動けなったり、満潮が迫ってきたといいながらカメラが引いたら波は全然遠かったり・・・)。
 映画じゃなくてもあるかもと何とか思えそうなアクションシーンと展開で、マロリーかっこいいと浸れるかどうかで決まる映画だと思います。

2012年10月 8日 (月)

ボーン・レガシー

 CIAの抹殺指令の対象となったCIAの暗殺者養成プログラムで作られた最強の暗殺者と研究者の逃避行を描いたアクション映画「ボーン・レガシー」を見てきました。
 封切り3週目月曜日祝日、シネマスクエアとうきゅう(224席)午前11時15分の上映は2割くらいの入り。観客の年齢層はやや高め。

 CIAが極秘に進めていた暗殺者養成プログラムで養成されたジェイソン・ボーンと内部調査局のパメラの告発によって計画が明るみに出ることを恐れたCIAは、証拠隠滅のために関係した工作員を含むプログラム全体の抹消を決定した。ボーンとは別の「アウトカム」計画により薬物で肉体と精神を強化された暗殺者アーロン・クロス(ジェレミー・レナー)はアラスカで訓練中であったが、無人飛行機からのミサイルで襲撃される。他方、アーロンの人体改造を担当していた研究所では職員が突然銃を乱射して研究者を射殺、ただひとり生き残ったマルタ・シェアリング(レイチェル・ワイズ)はCIAの追及を受け、命を狙われるが、そこに服用し続けなければならない薬物が切れたアーロンが薬物を求めて現れ・・・というお話。

 既に完結したジェイソン・ボーン3部作の第3作の進行と並行して別の暗殺者養成プログラムが進行していて、ボーンらの告発によって発覚するリスクが生じたので、そちらの別計画も含めて証拠隠滅のために関係者を抹殺することになって、ボーンとは別にアーロンらも抹殺しなければならなくなり、CIAが組織を挙げて行方を追う中をアーロンとマルタが逃避行するという設定です。これがきちんと説明されない上に、ジェイソン・ボーンが登場しないのに名前が何度か出てくるので、ジェイソン・ボーン3部作を見ていない私には、アラスカでサバイバルしているのがジェイソン・ボーンではなくてアーロンという別の暗殺者なのだということを理解するのにずいぶんと時間がかかりました。
 研究所で職員が突然他の研究員を銃撃し始めた経緯も唐突な感じで、見ていて結局その動機もよくわかりませんでした。
 見ていて、アーロンがCIAから命を狙われ、その後マルタも命を狙われ、その2人が逃避行するということは、その流れに関する限りごくシンプルにに理解できるのですが、その理由とか前提事実とかを考えると、今ひとつわかりにくい映画だったように思います。

 アクション映画として、無人飛行機の爆撃とアーロンの対抗策、研究所とかマルタの家での銃撃、CIAの裏をかいての出国、マニラでの逃走劇などは、あれこれ考えずにとにかくCIA対アーロン&マルタという構図だけで楽しめます。アーロンよりさらに完成度の高い暗殺者と紹介された追っ手はなんかしょぼくて看板倒れでしたが。

 ジェイソン・ボーン(マット・デイモン)が登場しない映画につけたこのタイトルは、ボーンの遺産(legacy)でさらにひと儲けをもくろむ制作者を意味しているのかも。

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