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2012年8月

2012年8月26日 (日)

トガニ 幼き瞳の告発

 韓国の聴覚障害者施設で行われていた校長や教師による児童に対する性的虐待とそれに対する告発の行方を描いた「トガニ 幼き瞳の告発」を見てきました。
 封切り4週目日曜日、全国9館東京で2館の上映館の1つ新宿武蔵野館シアター1(133席)午前10時20分の上映は6割くらいの入り。観客の多数派は女性の2人連れ。

 恩師の紹介で霧の街ムジン(霧津)の聴覚障害者施設に赴任した美術教師カン・イノ(コン・ユ)は、ある夕方聞こえてきたうめき声を追ってたどり着いた女子トイレの前で警備員からここは女子トイレだから入ってはいけない、ここの生徒は普通の子ではない退屈するとトイレで叫ぶんだと言われ、制止される。後日、寮の窓枠に座っていた生徒に注意しにその部屋に行ったイノは当初は脅えていたその女生徒ユリ(チョン・インソ)に帰り際に袖を引かれて洗濯室の前まで連れて行かれる。洗濯室に入ると寮長が女生徒の頭を回っている洗濯機に押し込んでいた。イノはぐったりとした女生徒ヨンドゥ(キム・ヒョンス)を病院に連れて行き、赴任の際にひょんなことから知り合ったムジン人権センターの幹事ソ・ユジン(チョン・ユミ)に連絡する。ユジンはヨンドゥから校長らが複数の生徒に対して性的虐待を続けてきたことを聞き出し、ヨンドゥ、ユリの証言を録画して警察、市役所、教育委員会に告発するが、校長らの買収を受けていたり管轄違いを言ってまるで動こうとしない。興味を示したテレビ局が証言を放映するに至り、警察は校長らを逮捕し裁判が始まるが・・・というお話。

 外界から隔絶された閉鎖的な施設で、障害者の児童という弱い立場にあり抵抗が困難な者に対して、施設の管理者たち権力者がその地位を利用して性的虐待を繰り返し、警察を買収して捜査を抑止し、逮捕されたあとも社会的地位・コネで裁判への反対運動に人々を動員し、財力で裁判関係者も抱き込んで執行猶予判決を勝ち取るという権力者の許しがたい行動を描き、告発しています。
 涙なくしては見れませんし、素朴な正義感と怒りをかき立てられます。内容と結末からしてすっきりした思いはもてませんけど。
 現実に起こったこの許しがたい事件について、「コーヒープリンス1号店」でブレイクした韓流スターが自ら志願して映画化に動き、韓国では460万人を動員し、再捜査が行われ、子どもへの性暴力や障害者施設の関係者による障害者への性暴力に対する処罰を強化する法律改正が「トガニ法」と名付けられて実施されたそうです。
 日本でもこういうことは起こりうるでしょうか。現時点で上映館は全国で9館、近日公開予定が9館にとどまっています。韓流ドラマは高い視聴率を上げる中、こういった硬派の作品も見る人が増えるといいのですが・・・
 この作品、R18+指定なんですが、ヌードシーンは男児の背後からのものだけで性交シーンも特に露骨に見えるわけでもなく、子どもを殴りつけるシーンがかなり見たくないレベルで出てくるものの、R18+指定というのはちょっと違和感があります。一般的にR18+指定というとポルノ系統のアダルト作品というイメージになり、むしろまじめな映画ファンの足が遠のきかねません。親として考えると子どもに対する性暴行や暴力シーンを子どもに見せたくないとも思いますが、同時に実話として子どもたちが権力者の暴力に対して立ち上がったということを高校生や場合によったら中学生にこそ見せてやりたいという気もします。

 性的虐待を告発することになる主人公のイノは、妻と死別し、病弱な娘ソリを母に預けて単身赴任していて、学校の行政室長から教職を得るには5000万ウォン(現在のレートでは約350万円)の寄付が必要といわれてそれを母に頼み、家を売ってその金を用意した母から、教職を金で売るようなところだからろくなところじゃないことはわかっている、善悪がわからなくて言ってるんじゃない、娘のことを第一に考えて動けと深入りしないように制止されて悩み、学校を解雇されたあげくに恩師から呼び出されてそこに校長らの弁護士が同席してソウルでの教職を約束した上でのヨンドゥとの示談あっせんを求められ、という具合に困り悩みながら、しかし、今この子たちの手を離したらソリにとっていい父親になれる自信がないと語り、告発の道を決断していきます。その悩みながら、不遇ながら、大きな抽象的な正義よりも目の前の具体的なところからの決意が胸に染みます。
 ある意味、それが人生のソ・ユジンの明快な行動を中心に据えるのでなく、利害があり悩ましい立場のイノの視点を中心に据えたところが巧みな感じがします。映画製作時点での事件の状況からしても、イノの喪失感をベースにすることで観客の怒りを導けたのだと思います。

 裁判シーンがストーリー展開の重要部分を占めていて、法廷ものとしての側面もあります。証人尋問のシーンは、なかなかいいつくりで見応えがありました。
 裁判官や検察官の法廷での言動は、法廷シーンの進行から見れば特に不自然な点もなく、必ずしも被告人側に抱き込まれているようには見えなかったのですが。まぁ、法廷ではこちら側に近い態度をとりながら判決になると全面的にあちらの言い分通りという「ニッコリ笑って人を斬る」タイプの裁判官を少なからず見てきた弁護士としては、法廷での言動と内心が一致しているとは限らないというべきなんでしょうけど。
 終盤のビデオの扱い、ちょっと見ていてわかりにくい。あとで検察官が抱き込まれていたという話が出てくるので証拠提出・採用されなかったような印象がありますが、前提として13歳以上の者に対する性暴行は親が示談に応じると起訴が無効になり、この事件ではユリとミンスの親が示談に応じたためにヨンドゥに対する校長の暴行のみになってしまう、そうならないためにビデオを出すということだったわけで、これが証拠にならなければ校長以外の2人は判決を受けないはず。ですからビデオは証拠提出され採用されたはずで、じゃあ検察官が抱き込まれたっていうのは何?求刑が軽かった?(求刑のシーンはなし)とよくわからなくなります。それに加えて、イノがビデオの内容について3月14日のビデオでは13歳未満だったからと検察官に説明していますが、そこに写っているのは校長のように見えますし、そうでなかったとしても、それで教師の方も有罪にできるのはなぜ?と悩んでしまいます。
 この作品で前提とされている、13歳以上の者に対する性暴行の起訴が親と示談すれば無効になるという点。韓国の法律がどうなっているのか私は知りませんが、日本では、告訴の取り下げは起訴前しかできないので、起訴後に示談しても(もちろん量刑には反映されるでしょうが)それで起訴が無効になって裁判が終わるということはありません。それをおいて単純に告訴の取り下げを考えても、この作品では13歳になったばかりの障害者ということで告訴能力にやや微妙な問題がないとは言えませんが、おそらくは告訴能力が認められ、告訴能力が認められる以上は本人が拒否しているのに親が勝手に告訴を取り下げるというわけには行かないはずです。親自身も告訴でき、その告訴は親が取り下げられます。この事件で被害者自身に告訴能力が認められずに親だけが告訴していたのなら親が示談して本人が拒否しても告訴取り下げというパターンは考えられますが、作品の流れからすると、親が告訴したということは考えにくいところです。法制度の違いがあるとしても(あるのでしょうけど)、この点、ちょっとしっくりこないところが残りました。

2012年8月25日 (土)

セブン・デイズ・イン・ハバナ

 7人の監督によるハバナのイメージの短編競作「セブン・デイズ・イン・ハバナ」を見てきました。
 封切り4週目土曜日、全国2館東京では唯一の上映館ヒューマントラストシネマ渋谷シアター3(60席)午前9時55分の上映は3割くらいの入り。

 月曜日(「ユマ」)はアメリカから来た俳優のテディがキューバ人の家庭やパブで戸惑いながら過ごす様子を、火曜日(「ジャムセッション」)は映画祭に招かれたセルビア人映画監督(エミール・クストリッツァ:実在・本人出演)が飲んだくれ酔いつぶれ妻とけんかしていたが運転手が趣味でやっている演奏を聴くうちに気を取り直す様子を、水曜日(「セシリアの誘惑」)はハバナのクラブ歌手セシリアがスペインから来たクラブオーナーに一緒にスペインに行って新しい生活をしようと誘われ同棲中の国外脱出をセシリアに勧められながら決断できない野球選手と別れてスペイン行きを選択するかを悩む様子を、木曜日(「初心者の日記」)はパレスチナから来たエリア・スレイマン(監督本人)がキューバの指導者への面会を申し込みそれを待つ間キューバ人の女性たちを眺め続ける様子を、金曜日(「儀式」)は見知らぬ女性と一夜を過ごした娘を発見した両親が娘にお祓いを受けさせる様子を、土曜日(「甘くて苦い」)はテレビ出演もするセラピストがアル中の夫に手伝わせながらお菓子作りの副業をする様子を、日曜日(「泉」)は夢のお告げで神を祭るパーティーをするように言われたという老婆が家族らを叱咤激励して家を改造しパーティーの準備をする様子を描いています。

 月曜日と火曜日、木曜日が観光・旅行者の視点から見たハバナの話。水曜日、金曜日から日曜日はキューバ人の生活を描いていますが、水曜日と土曜日は普通のキューバ人の生活、金曜日と日曜日は狂信的なキューバ人の行動を描いているような感じです。
 旅行者の視点の月曜日と木曜日は、積極的に打ち解けようとしなければ親しくなれないというお話なんでしょうね。目の前の一人で佇む女性たちが、見つめているうちに横から現れた男性に連れられて行ってしまうシーンが繰り返されます。木曜日の方は老人ですし政治的な目的が主ですからそうではないかもしれませんが(でも繰り返し一人でいる女性を見つめる様子からは同じかも)、月曜日の方はハント目的の観光客がいい目を見れるほど甘くないよというお話に思えます。同じく旅行者の視点でも火曜日の方は、キューバ人の生活に入ってみると、ちょっといい感じというお話でしょうね。
 水曜日は、ある意味普通のラブストーリーで、ハバナの意味は、国外脱出の誘惑というところ。
 土曜日がキューバ人の生活を描いた中で一番現代的な印象があります。

 土曜日の監督だけがキューバ人で、あとは外国人監督。そういう目で見ると、金曜日と日曜日の狂信的なキューバ人の姿はどの程度実情を反映しているのか、引いた目で見た方がいいかもしれません。

 7つのお話のうち、水曜日のセシリアが土曜日にも登場するのと、土曜日のお菓子が日曜日に登場するというところでわずかにつながりがありますが、それ以外には私はつながりを発見できませんでした。全部何らかの形でつなげてくれるのならば、それはそれで感心して見終わったあとの印象もよくなるでしょうけど、そのあたりは中途半端感が残りました。

2012年8月16日 (木)

桐島、部活やめるってよ

 朝日新聞の広告で「ハリウッドよ、これが日本映画だ」と啖呵を切った学園もの映画「桐島、部活やめるってよ」を見てきました。
 封切り6日目お盆休み中の木曜日、シネ・リーブル池袋シアター1(180席)午前11時25分の上映は3~4割の入り。観客層の多数派は若者女性お友達コンビ、次いで若者カップルというところ。

 2学期のある金曜日、バレー部のエースで県の選抜に選ばれたばかりの万能のスター高校2年生桐島が学校を欠席し、部活をやめると言ったという噂が駆け巡り、桐島からそれを聞かされておらず連絡も取れない恋人の梨紗、親友の宏樹らは動揺する。バレー部では桐島のサブの小泉を日曜の試合に出場させるが敗北。映画甲子園で1次予選を突破したが2次予選で落ちた映画部の前田は、顧問の脚本を拒否して自分たちで撮りたい映画としてゾンビものを撮り始める。月曜日になっても姿を現さない桐島に関係者の焦燥感が高まり、火曜日、桐島を見たという情報に殺到するが・・・というお話。

 学園生活での何気ないできごとを複数の生徒からの視点で繰り返しながら、生徒たちの隠された思いや知られなかったできごとを描いていく、プチ「藪の中」(映画でいえばプチ「羅生門」)的手法の作品。おじさんには、同窓会で昔話をするうちに、へぇそんなことがあったのというような、学園生活のできごとの自分の知らなかった側面を後で気付くような、ノスタルジー目線で見る話に思えます。もちろん、そういうことは学園生活だけじゃなくて、自分の身の回りで似たようなことは今も起きているわけで、学園生活って、あるいは日常生活って、こういうものだ、自分が知らないところでいろいろな人がいろいろな思い・思惑を持っているんだ、自分が知っていることがすべてじゃない・・・そういうことを実感する映画ということになるのでしょう。
 異性へのあらわな視線と淡い思い、できるヤツへの羨望と諦め、こだわりと希望、そういったものが巧みに描き出されています。

 できるヤツは何でもできる、できないヤツはまるでダメというメッセージが見て取れ、男の目からは、女子はやっぱりイケメンの人気者になびいてしまうのねという僻みっぽい結論を導いているように思えます。かすみちゃんには、元バドミントン部としても期待してたんですけど。現実は厳しいですね。
 さまざまな意味で、高校時代を思い出させてくれる作品ですけど、女子はみんな恋愛第一みたいな描かれ方がちょっと気になりました。高校時代ってそうなんでしょうか。

 桐島をめぐる情報とその不在に影響を受けているのはバレー部と梨紗と宏樹、梨紗の友人で宏樹の恋人の沙奈、小泉の恋人(?)の実果くらいで、前田をはじめとする映画部、宏樹に片思いする吹奏楽部長の沢島、実果とコンビを組むかすみあたりは、桐島とは関係なく過ごしているだけだと思います。原作は読んでいませんので小説ではどうなっているのか知りませんが、映画を見る限り、全員が不在の桐島に振り回されるとか、桐島をめぐる事件から波紋が広がり「僕たちが日常だと信じていたものが、その日壊れはじめた」という公式サイトや映画紹介サイトでなされている表現は、あたらないと思います。

2012年8月14日 (火)

テイク・ディス・ワルツ

 2年連続アカデミー主演女優賞ノミネートで注目されるミシェル・ウィリアムズ主演のラブ・ストーリー「テイク・ディス・ワルツ」を見てきました。
 封切り4日目お盆休み中の火曜日、全国7館東京2館の上映館の1つヒューマントラストシネマ有楽町シアター1(162席)午前11時25分の上映は7~8割の入り。観客層は中高年が多数派でした。

 作家志望のライターマーゴ(ミシェル・ウィリアムズ)は、チキン料理のレシピを作っているルー(セス・ローゲン)と結婚して5年目。子どもはなく、新婚夫婦のようにじゃれ合って楽しい日々を送っているが、じゃれつきや会話に微妙なすれ違いも見られる。マーゴは取材で訪れた先で知り合ったダニエル(ルーク・カービー)と親しくなるが、ダニエルはマーゴの斜向かいに住んでいた。ダニエルの行動に目が行くマーゴにダニエルはマーゴの内心を見透かしたようにつきまとい自信過剰に誘う。最初は突き放していたマーゴだが、次第にダニエルと過ごす時間が長くなり、ダニエルからどっちつかずの状態はいやだといわれて・・・というお話。

 水泳教室(水中エアロビ?)のシャワールームでマーゴのお友達が言っていた「新しいものは魅力的」「でも、新しいものもいつか古くなる」という台詞に象徴される、隣の芝生は青いというお話。
 ルーが、料理中にマーゴに後ろから抱きつかれてじゃれつかれたときに、危ないからと硬い態度を取るシーンが2回。マーゴの物足りなさ感を象徴するシーンになっています。ルーの言い分は正しいとしても、もう少し柔らかく、とりあえず火を止めてキスしたりじゃれ合ってから「続きは後でね」とか、うまくやれないかなとは思います。でも、ルーはいってみれば在宅勤務で始終マーゴと一緒にいられますし、仕事だからではありますが炊事は大部分ルーがやってくれるし、性格的にもマッチョな(俺様的な)ところは感じられず、今どきの妻から見ればかなりいい方の男に思えます。
 他方、ダニエルは、力車引きをしながら発表もしない絵を描き続けるマニアックな印象のストーカーっぽい、自信過剰の男で、おじさんの視線からは、危なっかしいいやなタイプの男に見えます。
 この設定でマーゴがルーを捨ててダニエルに走るというのは、おじさんの感覚ではルーがかわいそうだし男を見る目がないんじゃないのと思ってしまいます。そこは若い女性目線では違うのかな、退屈よりも危険を選ぶですか・・・とも思いますが。
 そういう意味で、中年男の感覚からは、そういう選択をしたマーゴが批判されるのは順当といえます。でも、33歳女性の映画監督にこういうパターンの映画を作られると、それはそれで若者にはもっと可能性を認めていいんじゃないか、男社会に媚びてない?なんて思ってしまったりもします。まぁ断定的にはしないでソフト気味に自己責任だからねといっている程度だから、冒険を否定していないというのかもしれませんが。

 R15+指定はダテじゃないといわんばかりに、ミシェル・ウィリアムズのヌードが過剰なほど登場します。後半には、私はずいぶん久しぶりに見るなぁと思う大きなぼかしも何度かあります。何度か出てくるシャワーシーンできれいとかグラマーとはいえない人を映しているのは、ヌードを売りにしてるんじゃないぞという主張(エクスキューズ?)なのかもしれませんが。
 ミシェル・ウィリアムズの髪ってブロンド?赤毛?茶髪?シーンごとに微妙に色が違って見えます(シャワーで濡れると黒っぽかったりします)から、染めてるんでしょうね。アンダーヘアが黒いのは確認できましたが。

2012年8月13日 (月)

トータル・リコール

 1990年の大ヒット映画のリメイク「トータル・リコール」を見てきました。
 封切り4日目お盆休み中の月曜日、ヒューマントラストシネマ渋谷シアター1(200席)午前11時55分の上映は8割くらいの入り。

 化学兵器による戦争のために居住可能地域が富裕層の住むブリテン連邦と貧困層が住むコロニー(オーストラリア大陸)の2か所しかなくなった近未来の地球で、労働者は地球の反対側まで「フォール」と呼ばれる乗り物で毎日移動して働いていた。コロニーに住む工場労働者クエイド(コリン・ファレル)は夜な夜な見知らぬ女性と2人で敵と戦いながら脱走しようとして失敗する夢にうなされていた。工場の同僚から勧められて娯楽のために別人の記憶を植え付ける「リコール社」を訪れたクエイドは、諜報員のコースを選択したが、現実と重なる記憶は植え付けられないという担当者から実施直前にストップをかけられたところに、多数の武装警察官に襲われ、とっさに武装警察官を倒して自宅に逃げ帰る。自宅で警察官の妻ローリー(ケイト・ベッキンセール)から事情を聞かれて答えたクエイドは、ローリーにも襲われ、クエイドという人間は存在しない、記憶を書き換えられてローリーは監視役だったと知らされる。数少ない情報から自分は本当は誰なのかを探り記憶を取り戻そうとするクエイドは・・・というお話。

 富裕層の住むブリテン連邦の指導者コーヘイゲン(だったと思います。例によって信じられないほど何も書いてないソニー・ピクチャーズの公式サイトには登場人物紹介もキャスト紹介もなくストーリーでも言及していませんので、確信は持てませんけど)と、貧困層の住むコロニーを解放しようとするグループの指導者(もちろん富裕層からはテロリストと呼ばれている)マサイアスの情報戦を背景に、その中で重要な役割と使命を与えられた主人公と、ブリテン連邦警察官で主人公の監視役だった女性とコロニー側での主人公の同志の女性が絡み合うアクション映画になっています。
 何が真実で、誰が味方かということが最大のポイントになっている作品で(そこはくどいくらい何転かするというか、問いかけがあります)、その展開とアクションが見せ場の映画です。

 地球の反対側まで約17分間で移動する「フォール」。地球の核を通過するところで、一瞬無重力状態にして重力を反転させるとか、それだけでオイオイと思います。そこまでの科学力がある地球人が、解毒や除染をできないって化学兵器の毒はよほどのものなんでしょうね。
 そういう設定の荒唐無稽さ(もちろん、記憶を書き換えられるというところもそうなんですけど)もありますが、ラストに至る前提で、「フォール」を1つ爆破すればそれでブリテン連邦とコロニーの間の行き来ができなくなるとしているのが、見終わった後に全体として納得できない思いを残しました。映像としても爆破されたのはフォールの一部のように見えますし、単純に考えても、ブリテン連邦が必要としている労働者数がフォール1つに乗車できる人数で足りるとは思えず、フォールは多数あると考えざるを得ないのですが。

 武装警官はスターウォーズのクローンみたいで、それをクエイドが作ってるのはご愛敬ですが、そういうところとか、コロニーはオーストラリアなのに香港かと思えるアジアンテイストのスラムが広がってるとか、もうちょっときちんと考えて作って欲しいなと思いました。

2012年8月12日 (日)

あの日あの時愛の記憶

 ナチスの強制収容所で恋に落ちともに脱走したが生き別れた2人が32年後に再会するというラブストーリー「あの日あの時愛の記憶」を見てきました。
 封切り2週目日曜日、全国2館東京で唯一の上映館銀座テアトルシネマ(150席)午前10時30分の上映は8割くらいの入り。観客層は中高年が多数派でした。

 1976年のニューヨーク、夫の研究が報われて賞を受けることとなりそのホームパーティの準備でクリーニング店を訪れたハンナ(ダグマー・マンツェル)は、テレビのインタビューで死んだとされていた戦争中に生き別れた恋人トマシュ(レフ・マツキェヴィッチュ)が話しているのを見て、動揺し、戦後すぐに行方不明者捜しを依頼した赤十字に電話をかける。1944年、ポーランドの強制収容所でトマシュ(マテウス・ダミエッキ)は看守を補助し物資を調達して看守に回しながら強制収容所の実情を写真に撮り、脱走の準備を進めていたが、収容されていたユダヤ人ハンナ(アリス・ドワイヤー)と密かに逢瀬を重ね、ハンナはトマシュの子を孕みつつそのことを隠していた。ドイツ軍の軍服を密かに調達したトマシュは、ハンナを呼びつけて懲罰のために移送することを装って2人で強制収容所を脱走し、追っ手を振り切って、生家にたどり着いたが、そこはドイツ軍に接収され、母親(スザンヌ・ロタール)はユダヤ人のハンナとの結婚に反対する。トマシュとハンナは小屋に隠れていたが、ハンナが高熱を出し、トマシュは強制収容所の写真をレジスタンスグループに届けに行かねばならず、トマシュはハンナを母親に預け、2日後に帰ると言い残して立ち去り、その後2人は再会できなかった。ホームパーティ中も上の空で機嫌の悪いハンナに夫と娘は不信感を持つが・・・というお話。

 戦争にひき裂かれた恋人たちの悲恋ということで、予告編でも「『ひまわり』『シェルブールの雨傘』に続く、切ない恋人たちの物語」と謳い、公式サイトでは「『ひまわり』、『シェルブールの雨傘』。生き別れた恋人たちを描いた名作に続く、切ない愛の物語」というキャッチフレーズを用いています。
 しかし、「ひまわり」も「シェルブールの雨傘」もひき裂かれた期間は数年レベルで、戦中・戦後の境遇の変化はあっても2人の人物像は大きくは変わらないという設定なのですが、この作品では32年が経過して、役者を変えざるを得ないほどの外見上の加齢の問題の他に、ハンナは一途で純朴な失うもののない若さが印象的な少女から成功した研究者の妻の地位を手に入れた不機嫌でジコチュウっぽいおばさんに変貌し、トマシュはレジスタンスの闘士からレジスタンスの事実を歴史から抹殺しようとする政府と闘おうと熱く語る娘を押しとどめようとする志を失ったコンサバ親父に変貌しています。その意味で、戦争と戦後の人生が2人それぞれに残した傷跡はクローズ・アップされているともいえますが、2人の純愛をひき裂いたという運命の過酷さという面はちょっと引いてしまう感じがします。
 「ひまわり」も「シェルブールの雨傘」も戦争によってひき裂かれ、運命に翻弄された後に出会った2人がどうするのかという点がストーリーのポイントになり、それがあってこそ悲恋が浮き彫りになり、ひいてはその原因となった戦争の悲惨さが描き出されるという構造になっています。この作品では、長い年月の経過によって、2人の人物像も相当変化していることから、観客としてはますますその変わってしまった2人が再会したときどうするのかに関心が引き寄せられます。にもかかわらず、完璧にネタバレですが、これは言ってしまいますけど、この作品は、それをネグレクトしています。観客が自身の想像力で勝手に想像しろということでしょうけど、このラストはないだろうと思います。映画館スタッフが、上映前のお願いでわざわざ「照明が点灯するまで席を立たないでください」といっていたにもかかわらず、エンドロールが始まるやバタバタと席を立つ観客が後を絶ちませんでした。
 純愛・悲恋ものとしてみるには戦後の2人が薹が立ちすぎていることと、観客が最も関心を持つ再会した2人がどうするかが描かれていないという2点で、「ひまわり」「シェルブールの雨傘」と比較するには力不足に思えます。

 さて、若い2人の命がけの純愛、の方ですが、こちらも見ていて少し引っかかりを感じました。まず、トマシュの強制収容所での位置づけが、見ていただけではよくわかりませんでした。私が見終わった時点の判断では、看守の手伝いをしていることから、強制収容所のスタッフとして働いているポーランド人というところでした。公式サイトのストーリー解説ではトマシュは政治犯で、そのために特権的な処遇を受けているということになっています。後者だと収容されている側ということになって微妙ですが、どちらにしても強制収容所に収容されているユダヤ人女性と、看守の補助をする特権を持った男性の、収容所内での性的な関係というのは、愛と呼ぶべきものなのでしょうか。収容されている側では、権限を持つ者と通じることで処遇上の配慮を受けたい、看守に殴る蹴るの暴行を受ける(最初の方にそういうシーンがあって迫力というか、ちょっと吐き気がしました)ようなハメになりたくないという思惑が当然に働いているはずで、今どきの感覚でいえばかもしれませんが、トマシュの行為はセクハラとか職権濫用という指摘をするべきものでしょう。
 命がけの脱走にしても、トマシュはハンナがいなくても自分の使命として強制収容所から脱走する予定だったわけですし、ハンナにはレジスタンスのことはまったく知らせていなかったし、脱走後もハンナはレジスタンスに加わろうという姿勢も見せていません。ハンナが加わることで捕まるリスクが高くなること、逮捕されたときにレジスタンスのことを知らない方が懲罰の程度が軽く済むと考えたこと、ハンナが病気で動けなかったことなどの事情で、一応説明されてはいますが、トマシュにとってハンナはともに戦う同志ではあり得ず、家庭を守る女という位置づけにとどまっています。
 そういう事情を認識し、その後の人生を経て図太くなり、また経済的地位も逆転したハンナが、志において挫折しているトマシュをどう見るかという点は、悲恋ものということとは別に、男と女の物語としても興味深いところです。また、トマシュの側では政治志向での共感はなく、若さと容姿か直感かはわかりませんがそういう部分での結びつきだったわけですから、容色衰え初心さも一途さも失いジコチュウさの目立つハンナをどう見るかも、興味深いところです。トマシュの方はバツイチだし政治的にも挫折しているし、男は一般論として元カノをいつまでも美化して忘れないことが多いということからしても、わりと変わっていても過去の残像でノスタルジーに浸るかもしれませんけどね。どちらにしても、先に述べたように、この作品ではこの肝心要のところが描かれていません。

 いずれの意味でも画竜点睛を欠くという言葉が実感される作品かなと思います。

2012年8月11日 (土)

おおかみこどもの雨と雪

 おおかみおとこと愛し合い2人のおおかみこどもを育てることになった母とそのこどもたちの成長と選択を描いたアニメ「おおかみこどもの雨と雪」を見てきました。
 封切り4週目土曜日、109シネマズ木場シアター4(86席)は2~3割の入り。

 父を亡くし奨学金を得てバイトを掛け持ちする苦学生の花は、働きながら授業を受けに来るニセ学生と恋に落ちたが、その相手はニホンオオカミを祖先に持つおおかみおとこだった。その告白を聞いても心変わりしなかった花はおおかみおとこと結ばれ、雪の日に生まれた雪と雨の日に生まれた雨の2人の子どもに恵まれるが、雨が生まれてすぐおおかみおとこは近所の川で死体で発見された。花は子どもたちを独りで育てることを決意したが、感情が高ぶるとオオカミになってしまう子どもたちの鳴き声に隣人や家主から追い立てられ、田舎の廃屋に移り住む。ひっそりと人目を避け、子どもたちが山野を自由に駆け巡れるようにと考えた花だったが、独り畑作の試行錯誤を続ける花の姿に周囲の人々が手助けをするようになり、花たちは次第に村人に溶け込んでいく。雪は学校に通い、人間の少女として生きていく決意を固め、内気で学校に慣れない雨は学校に行かず山に通い続けるが・・・というお話。

 おおかみこどもの子どもたちが人間として生きるか、オオカミとして生きるかの選択が、どちらでも可能なようにと田舎の廃屋に居を構えた花が、子どもたちの選択を見守り、子どもたちは自ら選んだ道を歩み自立していくという、人生の選択と、子どもの自立・親離れのあり方がテーマになっています。
 親からすれば、12歳の娘と10歳の息子の自立・親離れは早すぎて、たぶん親の方が子離れできないだろうと思える展開ですが。

 花に、花のようにいつも笑顔でいて欲しい、そうすればどんなことでも乗り越えられるといい、若くして死んだ花の父親、おおかみおとこでありながら(仕事は力仕事ですけど、また狩りはしますが)家庭内で暴力的な要素をまるで見せずやはり若くして死んだおおかみおとこと、2代続けて父親は早く死んで不在となり、生前においても強圧的指導的要素を見せない、家父長的色彩の払拭された家族構成が設定されています。
 登場人物の中では、韮崎じいさんだけが頑固親父で父権的なイメージですが、その韮崎においても農作業については一方的な指示・命令をしますが、それ以外の家庭生活や生き方などには一切口を挟みません。
 そういう設定が、花、あるいは雨と雪の自由な選択と早期の自立につなげられているのだと思います。

 他方において、自由奔放におてんばに育った雪(とても元気でかわいい)が、小学校に入るや「アオダイショウを腕に巻き付けて喜ぶ女の子などいない」「小動物の骨や爬虫類のコレクションを喜ぶ女の子などいない」と学習しておしとやかな少女になっていく姿、内気で引っ込み思案だった雨が山の先生から学んで山で動物たちを束ねて雄々しく生きていく姿は、「そうあれ」と露骨にいってはいませんが、男らしさ・女らしさの枠へのはめ込みの図式が見えてげんなりとしました。
 雪に与えられるのは、オオカミとして生きるか、人間として生きるかの選択肢だけで、人間として生きるという選択肢の中で自由に活発に野原を駆け巡り世間からは「男の子みたい」「男子顔負け」といわれるような少女として生きるという道は頭をよぎることさえありません。終盤で草平がバスケットボールをする姿をコートサイドでただ見ている雪の姿は象徴的です。山村の1学年が10人くらいしかいない小学校の6年生が、男子がバスケットボールをしているとして、女子はコートサイドで黙ってみてるって、むしろ不自然でしょう。
 父権的なシンボルの不在とあわせて、昔のような上から押しつける男らしさ・女らしさではなく、子どもが自分の意思で自由に選択して受け入れるという、より洗練された見る者に受け入れやすい男らしさ・女らしさへの順応モデルが提示されているものと思います。

 雨と雪の選択が、自ら選んだものでありながら、今ひとつ2人の表情に明るさや前向き感が乏しく、どちらかというと宿命的な感じで悲壮感の方に近く感じられるのも、少し後味が悪いところです。人生の選択としても、親は干渉しなかったとしても、苦渋の選択しかないということでしょうか。それは現実社会を反映しているともいえますが、あとあと線量計を隠して線量をごまかしながら原発で働くのも人生の選択なんて方向に後押しすることにならなければいいのですが。

 予告編で見る元気で伸びやかな映像に期待して見に行った者としては、残念な印象が残りました。

2012年8月 5日 (日)

The Lady アウンサンスーチー ひき裂かれた愛

 ビルマ民主化運動のシンボルアウンサンスーチーの半生を描いた「The Lady アウンサンスーチー ひき裂かれた愛」を見てきました。
 封切り3週目日曜日、全国15館東京3館の上映館の1つシネマスクエアとうきゅう(224席)午前10時35分の上映は1~2割の入り。観客の多数派は中高年層。

 イギリス人の学者マイケル・アリスと結婚して2児を出産してごくふつうの生活を送っていたアウンサンスーチーは、1988年母親の入院を聞いてビルマに帰国し、そこで軍事政権による学生デモへの弾圧・発砲を目にし、国民的英雄アウンサン将軍の娘が帰国していると聞いて訪れた民主化運動の指導者たちに説得されて国民民主同盟の旗頭となり、演説と遊説を始めることになった。軍事政権は政治活動を始めたスーチーに対し、激励に訪れて運動を支援するマイケルを強制的に出国させたり、スーチーを出国させようとしたりするが、スーチーが運動を続けることに業を煮やして1989年には自宅軟禁と称してスーチー家に集合していた活動家を排除し電話回線も切断し軍による監視を続けた。1991年には引き延ばしていた選挙が行われ、国民民主同盟が圧勝したが、軍事政権は選挙結果を無視して国民民主同盟の活動家を大量逮捕した。マイケルはスーチーの身を案じて奔走し、1991年、スーチーにノーベル平和賞が授与されたが、自宅軟禁は解けなかった。アメリカ政府に軍事政権に対する圧力をかけるように要請したり、ASEAN加盟に条件をつけるよう要請したり、マイケルの努力が続き、1995年にいったんは自宅軟禁が解かれたが、その後も状勢は一進一退を繰り返してスーチーの家族との面会は緩められたり制限されたりし、自宅軟禁も再度行われた。1999年、マイケルは余命幾ばくもないことを宣告されたが、軍事政権はマイケルの入国を拒否し続け、スーチーに対しては出国を勧めたが一度出国すれば二度と入国できないと知るスーチーはマイケルの危篤を聞いても出国できないと答える・・・というお話。

 政治活動家としてよりも、夫や子どもと切り離され、なかなか会えず電話での会話さえ盗聴され続けて途中で回線を切られる、会いに来ようとする家族は入国を拒否され自らが会うために出国すれば二度と戻れないために不治の病を宣告された夫にも危篤の夫にも会えないという、家庭人としての哀しみを前面に出したつくりになっています。
 映画の軸となっている夫婦愛には、何年も会えないままに心を通じることが可能かと考えさせられますが、映像的には久しぶりに会うシーンでのキスの情感があらゆる疑問符をうまく消しています。

 大観衆の前で演説台に上り、人前で話したことがないと告白するスーチーは、一面初心で爽やかではありますが、同時に国民的英雄の娘として生まれたというだけで民主化運動の旗頭にされてしまう運命の過酷さと、血統・生まれに対する信仰の強さについて、これでいいんだろうかと考えさせられます。ビルマに限ったことじゃないですが。

 ビルマの兵士や民衆に語りかけたり文字でアピールするときに英語を使うのかなという疑問は感じます(ビルマ語での演説シーンもあります:って、聞き覚えのない言葉で日本語字幕だけじゃなくて英語字幕もあったからビルマ語だろうって思うだけですが)。ビルマとミャンマーにしても、ビルマ(バーマ、Burma)が英語的な呼称なのに対してミャンマーの方が現地の言葉ということからすると、軍事独裁政権が変更したからビルマにこだわりたいということはわかるけど、それとは別の文化的な感覚が根底にあるのじゃないかって気もします。元イギリス植民地でもあり、英語が話せる人が多いのでしょうから、また簡単には言えないかもしれませんが・・・

2012年8月 4日 (土)

ダークナイト ライジング

 バットマンシリーズ最新作「ダークナイト ライジング」を見てきました。
 封切り2週目土曜日、新宿ピカデリースクリーン1(580席)午前9時40分の上映は4割くらいの入り。
 前作「ダークナイト」も北京オリンピックの最中に見たのですが、今回もロンドンオリンピックの最中。あえてオリンピックにぶつけてるんでしょうか。

 前作「ダークナイト」で地方検事ハーベイ・デントの裏切りを隠すためにデント殺害の汚名をかぶったバットマンがゴッサム・シティから姿を消して8年が過ぎ、ゴッサム・シティは犯罪者を厳しく処遇する「デント法」の威力で犯罪の少ない街になっていた。ブルース・ウェイン(クリスチャン・ベール)は屋敷の地下で隠居生活を送っていたが、忍び込んだセリーナ・カイル=キャットウーマン(アン・ハサウェイ)が母親の形見のネックレスとともに指紋を盗み出し、これを利用して会社を乗っ取られたことから、隠してあった武器と核融合炉を守るために動き始める。他方、CIA機からパヴェル博士を誘拐したベイン(トム・ハーディ)は、博士にウェイン産業の核融合炉を核兵器に改造させ、ゴッサム・シティから逃げ出したものが1人でも出れば爆破スィッチを押すと脅迫しつつ、市民に革命を扇動した。ベインに囚われ地下の牢獄に監禁されたウェインは・・・というお話。

 「これは車ではない」空飛ぶ「バット」や超大型トラックのタイヤを穿かせたバイク「バットポッド」を駆ったアクションも売りではありますが、人間の絶望と希望、不屈の意志、人情といったものが中心をなす作品だと思います。
 バットマンの隠居生活での喪失感、会社を乗っ取られ核融合炉も奪われた絶望感、加えて活動を再開したもののベインに捕らえられて地下牢に閉じ込められテレビでゴッサム・シティがベインのいいように破壊される姿を見せつけられる屈辱感から、立ち直り脱獄に挑み続ける姿が、時間をかけて描かれています。不可能とも思える脱獄がかつて獄中で母親を多数の囚人たちに奪われ陵辱された怒りによって実現したというエピソードを事件の黒幕の生い立ちと重ね、悪役側のキャラクターにも深みを持たせています。

 ウェインの指紋を売りながら、その後ウェインに親近感を感じて動くキャットウーマンは、妖艶な表情・姿態もあわせて「ルパン3世」の峰不二子のような妖しい魅力を持つキャラに仕上がっています。何考えてんだかというところもありますが。
 ベインの屈強な体力と不屈の意志に見られる悪役の手強さ(ベインについては、終盤、急速に失速する感じがむしろ残念)と対比されるようなゴードン市警本部長(ゲイリー・オールドマン)の憂わしげな無念の表情、執事アルフレッド(マイケル・ケイン)の憂い・哀しみなどの人物造形と表情の演技が重層感を持たせています。
 そういう登場人物の思い、人間関係が、実は見どころかなと思います。

 デント法で収容された受刑者たちを刑務所から釈放させて市民軍を形成し、民衆を煽って略奪させ、富裕層や警察官に対して「人民法廷」で追放(氷結した川を渡らせ、氷を踏み割ったところで凍死させる)を宣告し続けるという描写には、前作「ダークナイト」のラストのデントの実像を隠すことで平和を守るという考えに見られる愚民思想がより先鋭に現れています。このあたりは、前作でも感じましたが、ちょっといやな感じ。

 ダークナイト3部作はこれで完結のはずですが、エンディングでは、次へのつなぎかと思える映像も見られます。続編への色気もあるのでしょうか。

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