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2012年1月

2012年1月29日 (日)

ALWAYS 三丁目の夕日’64

 三丁目の夕日シリーズ第3弾「ALWAYS 三丁目の夕日’64」を見てきました。
 封切り2週目日曜日、TOHOシネマズ渋谷SCREEN6(215席)午前10時15分の上映はほぼ満席。

 東京オリンピックに沸く1964年の東京、下町の夕日町三丁目では、少年雑誌に連載を持つ作家茶川竜之介(吉岡秀隆)は身重の妻で飲み屋の女将ヒロミ(小雪)、東大を目指して勉強しながら小説家への夢を捨てきれない淳之介(須賀健太)とともに暮らしていたが、謎の新進作家緑沼アキラに看板作家の座を奪われ、編集部から連載打ちきりの通告を受ける。茶川の向かいに住む鈴木則文(堤真一)の経営する鈴木オートでは、青森から上京して働く星野六子(堀北真希)が修理工として一人前になり事業を支えていたが、六子は火傷の治療で診察を受けた外科医菊池孝太郎(森山未來)に憧れて毎朝おめかしして菊池の通勤を待ち伏せし続ける。それを見かけたたばこ屋のキン(もたいまさこ)は菊池の病院に行き、菊池の悪い噂を聞いて、六子に忠告する。菊池から泊まりがけの旅行に誘われて六子は思い悩むが・・・というお話。

 60年代の東京の下町の風物へのノスタルジーと、人情味が売りの映画です。したがって、ストーリーは予定調和的なハッピーエンドしかありえず、まぁだいたい予測できるというか観客が期待するところに落ち着いていきます。
 男性陣では、堤真一のやり過ぎ気味でパロディっぽい頑固おやじぶりと、吉岡秀隆のひねくれいじけた屈折ぶりの対照と、それがまたうまく噛み合っていく様子が見せどころでしょう。自分が親父から小説家になるなら勘当だと言われたことについて恨みがましく根に持ちながら、自分が養う息子代わりの青年淳之介には小説家なんて不安定だからやめろ、自分を見ていればわかるだろ、編集者は売れてる間はちやほやするが売れなくなったらポイだと情けない声で言い募る吉岡秀隆の屈折ぶりは、見ていて好きになれませんが、そう思わせるだけ好演なのでしょう。
 女性陣では、堀北真希の恋する初心な乙女の初々しさ、小雪のいかにも姉さん女房って感じの(実生活でもそうなんだろうなぁ)包容力、すっかりお母さんしている薬師丸ひろ子の落ち着きの競演という感じ。悪い噂がつきまとう菊池のことを聞かれて、火傷や傷、しみは働く人の証だという菊池の言葉を思い起こし「私にはステキな人に見える」という堀北真希、幸せって何だろう、宅間先生はお金や出世が幸せじゃないって言ってた、「私は幸せだよ」って吉岡秀隆に寄りかかる小雪、堤真一にお茶をつぎながら何にもなかったけど幸せだった、「好きな人と一緒にいられるだけでこんなに幸せだなんて知らなかった」と寄り添う薬師丸ひろ子・・・下町の庶民の、人を好きになることの幸せが繰り返し語られる映画でもありました。
 ストーリーとしては中心にいる初々しい堀北真希よりも、姉御っぽい艶を見せる小雪よりも、地味な役回りの薬師丸ひろ子に一番女としての魅力を感じてしまったのは、やっぱり私の年のせいでしょうか。

 60年代の商品や風景の再現へのこだわりから、どうしてもキッチュな映像となっているところに、東京のシンボルとして何度も登場する東京タワーが、それに合わせようとしているからなんでしょうけど、CGが安っぽいのが気になります。
 同じく、3Dの売りのために作ったと思える冒頭の模型飛行機の飛び続けるシーン(ゴム動力だから勢いつけて投げても意味ないと思うけど)とか、菊池が殴られてガラスを突き破って倒れ込むシーンが、2Dで見たせいかいかにも不自然でわざとらしい。
 菊池を軽トラックで追いかける六子。いくら何でも自動車屋が町中を走らせる車を何年も野ざらしにしてたような埃に埋もれた状態でおいとくのかな(洗車はおろか、ぞうきんがけさえせずに)。64年としてもちょっと・・・

2012年1月15日 (日)

ニューイヤーズ・イヴ

 ニューヨークで大晦日を過ごす人々のそれぞれのドラマを集めた群像劇「ニューイヤーズ・イヴ」を見てきました。
 封切り4週目日曜日、ヒューマントラストシネマ渋谷のシアター2(183席)午後2時5分の上映は5~6割の入り。

 ニューヨークの大晦日の恒例行事「ボール・ドロップ」を運営するタイムズスクエア協会副理事長のクレア(ヒラリー・スワンク)と、クレアを支える警備責任者ブレンダン(クリス・“リュダクリス”・ブリッジス)、ボール・ドロップの装置を長年取り扱ってきたがリストラされた技師コミンスキー(ヘクター・エリゾンド)、大晦日に交通事故に遭いかけた上に長年貢献してきたのにボーナスも少なく2週間の休暇も上司から拒否されてキレて会社を退職して1つも実現できていなかった「今年の目標」を見つめるイングリッド(ミシェル・ファイファー)とその目標実現につきあう自転車便メッセンジャーのポール(ザック・エフロン)、ポールの親友だが大晦日の空騒ぎをきらい家に引きこもろうとするランディ(アシュトン・カッチャー)とともにエレベーターに閉じ込められせっかく射止めた大晦日のコンサートのバック・シンガーの仕事に間に合わないと焦るエリーズ(リー・ミシェル)、親友の結婚式に出席した後自損事故を起こして車が故障し親が経営するレコード会社の大晦日のパーティーでのスピーチに駆けつけようと焦りつつ昨年の大晦日にあった謎の女性との約束が心を離れないサム(ジョシュ・デュアメル)、そのレコード会社の大晦日のパーティーの料理を任されて張り切る料理長のローラ(キャサリン・ハイグル)とそのパーティーのコンサートのメインを務める歌手ジェンセン(ジョン・ボン・ジョヴィ)、大晦日に産気づき新年1番の出産に2万5000ドルの賞金が出ると聞いて競争心をあらわにするテス(ジェシカ・ビール)とグリフィン(セス・マイヤーズ)、グレイス(サラ・ポールソン)とジェイムズ(ティル・シュバイガー)の2組のカップル、その病院に入院中の末期癌患者スタン(ロバート・デ・ニーロ)と最後の夜に付き添う看護師のエイミー(ハル・ベリー)、ボーイフレンドと大晦日をタイムズスクエアで過ごす計画を立てるポールの姪の15歳のヘイリー(アビゲイル・ブレスリン)とヘイリーを一人で行かせたくないシングルマザーのキム(サラ・ジェシカ・パーカー)のそれぞれの大晦日の計画とハプニングが次第に絡まり・・・というお話。

 予告編で「大晦日のニューヨーク、心残りを抱える8組の物語」と謳われていますが、その8組をどう捉えるかは見ているうちに少しずつずれてきて・・・という構成になっています。そのあたりは同じ監督の前作で同様の群像劇「バレンタイン・デー」(2010年)と似たようなテイストですが、今回は基本的にハート・ウォーミング系の話でまとめられています。エンド・ロール前にNG集が入るのも前作と同じ。
 むしろ一番違いを見せるのは、前作のカップルがほぼ同世代のカップルばかりだったのに、今回ははっきり女性が年上のカップルが2組入り、特にイングリッドとポールは年が2倍って・・・これがトレンドなんでしょうか。
 年齢を別としても、ジェンセンをいきなり平手打ちにしすがりつかれてもすげなく振り払うローラとか、女性のたくましさが光ります。

 ボール・ドロップのボールが途中で故障してつなぎのためにするクレアのスピーチと、エンディングに入る今年一年の様々な苦難に「地震と洪水」が入っているあたり、見ていてホロリとします。

2012年1月 9日 (月)

ひまわり デジタルリマスター版

 1970年のイタリア映画の名作のニュープリント再上映「ひまわり デジタルリマスター版」を見てきました。
 封切り4週目祝日、全国3館東京で2館の上映館の1つ新宿武蔵野館の3番スクリーン(84席)午後2時20分の上映は9割くらいの入り。

 徴兵前のバカンスでナポリに来ていたアントニオ(マルチェロ・マストロヤンニ)と恋に落ちたジョヴァンナ(ソフィア・ローレン)は、アントニオの召集を延ばすために結婚し、さらには病気を装うが、詐病がばれたアントニオはロシア戦線に送られる。終戦後、帰国した戦友から、アントニオが極寒の雪原の行軍から倒れて動けなくなり取り残されたことを聞いたジョヴァンナは、現地で写真を持ってアントニオを捜し歩き、ついにアントニオを発見するが、アントニオは瀕死の状態を助けてくれた村の娘と結婚して子どもも産まれ記憶もなくしていた。ジョヴァンナは失意のうちに帰国し、工場で働いていたが、記憶を取り戻したアントニオが訪ねてきて・・・というお話。

 愛し合う2人が戦争で引き裂かれ、男は戦地で瀕死の状態を救助された上に記憶を喪失して、救助した娘と結婚し、残された女(妻)は男(夫)の生存を信じて探し歩き、見つけたがその時には男は娘と結婚して子どももいた。実に悲劇的でありつつ当事者は誰も悪くないという、シンプルで悲劇の王道ともいうべき設定です。ジョヴァンナの執念と、この力強い設定が、泣かせます。
 雪原で死にかけている敵国の兵士を見つけたうら若い村の娘が動けない兵士を自ら引きずって自宅に連れ帰り助けるか、むしろ敵地の雪原で倒れた兵士にはとどめを刺そうとしたり装備品を引きはがそうとする村人に襲われるという運命か誰にも見つけられずに凍え死ぬという運命がふつうだろうと思いますが。また、何年も前の写真1枚を手がかりに聞き込みだけで探し当てられるか、それよりも当時のソ連で外国人が当局者の監視を逃れて自由に住民に接触できたかというあたりもかなりの疑問を感じますが。
 それはさておき、村からの引越の途中で記憶を取り戻したアントニオの掌を返したような態度にはあきれました。命の恩人であるもう何年も連れ添った妻に「引っ越してから私と口をきいてくれないのね」「私を愛していないの」とまで言わしめ、しかもそれに対して慰めの言葉もかけず、イタリアへの単独の帰国を申請し、「私は待っています」という妻へのいたわりや感謝の姿勢さえ見せず、ジョヴァンナに再会するや、妻のことは愛していないというアントニオ。ジョヴァンナとアントニオの愛とそれを引き裂く戦争の不条理を描いた映画とはいえ、確かに記憶を失っていたというアントニオには致し方ない条件はあるにせよ、そこまで身勝手になれるかなと思います。どちらかというと、私は後半は、アントニオを支えてきた村の娘の側で、そのけなげさとアントニオの身勝手さ・軽さを比較して、村の娘の悲恋ものとして涙を禁じ得ませんでした。そういう意味で、アントニオの不誠実で軽い態度のために、ちょっと興ざめし、ジョヴァンナと村の娘を襲った悲劇・悲恋という見方をしてしまいました。

 丘いっぱいのひまわりの花が冒頭、ジョヴァンナのさすらう場面、エンディングで登場し効果的に使われて印象に残りますが、エンディングではアップになったひまわりがいずれも花が下を向いていて(実るほど頭を垂れるということかも)咲き誇る引いたシーンとは違うイメージがあり、そういったところにも巧さを感じました。
 そして私には、丘いっぱいのひまわり以上に、丘いっぱいを埋め尽くす墓標のシーン(実際の墓標なのか、セットとして作ったとしたらCGもない時代にかなり大変だったと思いますが)が印象的でした。映画では2人のあるいは3人の悲劇・悲恋ですが、語られないそれだけ多数の人々の悲劇が累積していることを思い涙ぐみました。

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