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2011年12月

2011年12月24日 (土)

サラの鍵

 1942年のナチス支配下のフランスで行われたユダヤ人弾圧の被害者とそれを調べ始めたジャーナリストのその後の人生を描いた映画「サラの鍵」を見てきました。
 封切り2週目日曜日、全国5館、東京3館の上映館の一つ銀座テアトルシネマ(150席)の午前11時20分の上映は9割くらいの入り。

 1942年7月、ナチス支配下のフランスで行われたユダヤ人一斉逮捕の時、10歳の少女サラ・スタルジンスキ(メリュジーヌ・マヤンス)は、弟ミシェルをかばうためにとっさに弟は病気で父親が医者に連れて行って留守だと嘘をつき弟を納戸に隠して鍵をかけた。しかし、サラたちは競輪場(ヴェルディヴ)に連行され収容所へと送られていく。弟を助けに行かなきゃと焦るサラは、収容所からの脱走を試みる。夫の祖父が長く住んできたパリのアパルトマンに引っ越すことになったアメリカ人ジャーナリストジュリア(クリスティン・スコット・トーマス)は、ヴェルディヴの弾圧の特集記事を書くために調査を続けるうち、引っ越し先のアパルトマンがヴェルディヴの弾圧で逮捕されたユダヤ人の借りていたアパルトマンだったことを知り、サラのその後を調査し、夫の父やサラの関係者に当たっていく。実家をめぐる過去を調査されて苛立つ夫、困惑するサラの関係者らを横目にジュリアは・・・というお話。

 1942年7月のパリに場面が転換して最初のベッドで弟と戯れるサラの表情(すごいかわいい)に象徴される幸せな生活が、ユダヤ人弾圧で暗転し、弟と別れ、父と引き離され、母とも引き離され、困惑し恐怖にさらされながら急速に大人びて強い意志と深い悲しみをたたえた表情へと変化していくサラの生き様が、その悲しみがその後のサラの人生に与えた影響とあわせ、ストーリーの1つの軸になっています。
 これにそのサラの人生を調べ続けるジュリアの現在と、ジュリアの調査で過去を暴かれ平穏を乱されて困惑する夫やその親族、サラの関係者たちの現在、そしてその調査でその人生が影響を受け変化していく様がもう1つの軸になっています。
 第1の軸の方は、ヴェルディヴの弾圧はやはり2010年のフランス映画で2011年7月に日本でも公開された「黄色い星の子どもたち」(このブログでは2011年8月13日の記事で紹介)で描かれていますが、歴史的な記述としてよりもサラという1人の子どもに焦点を当ててその後の人生までを描いたところに、特色があり、また見ていて共感しやすいというか涙を誘うものになっています。ごく短いカットなんですが、最初のサラのあどけない幸せそうな笑顔がとても効いていて、この笑顔とその後の対比には見ていて胸を引き裂かれる思いがします。
 そして、この映画のポイントは、弾圧されたユダヤ人のその後だけではなくて、それを調べるジャーナリストの現在の作業とそれによって関係者とそのジャーナリスト自身の人生が様々な影響を受けて変わっていく、その当事者にとって不愉快な変化もあり、また理解と納得もというあたりにこそあると思います。
 その両者をあわせて、人間の生き方、人生というものが不条理なものも含めて大小様々なことで影響を受け変わっていくこと、それについての人の受け止め方も様々で、自分に起こったこととそれをめぐる周囲の人々の受け止め方まで含めてあるがままに受け止めていけるかというようなことが、実はユダヤ人弾圧の問題以上にテーマになっているのかなと思いました。

 弟を納戸に隠して鍵をかけてきたことを後悔するサラに対して、母親も父親もおまえのせいだというシーン。いくら何でもそれはないだろって思う。娘が弟を匿いたくてしたことは明らかだし、何よりサラ自身が身悶えするほど悔やんでいるのに、10歳の娘に対してさらにむち打つようなこと言うもんだろうか。

 個人的な感傷ですが、サラの面立ちや表情の印象が私が小学生の時の初恋の人と似ていて(欲目と言われるかもしれませんが)、完全にサラのサイドに入り込んでみていたこともあり、特に子どもの頃のサラの運命には他の人の倍くらい涙してしまった感があります。

2011年12月23日 (金)

ミッション・インポッシブル ゴースト・プロトコル

 ミッション・インポッシブルシリーズ第4作「ミッション・インポッシブル ゴースト・プロトコル」を見てきました。
 封切り8日目祝日、新宿ミラノ2(683席)午前11時の上映は5割くらいの入り。

 ロシアの刑務所に入獄していたイーサン・ハント(トム・クルーズ)は、CIAの特殊チームIMF(Impossible Mission Force)のメンバーのハッカーベンジー・ダン(サイモン・ペグ)と新メンバージェーン・カーター(ポーラ・パットン)の手によって脱獄し、IMFが追っていた核ミサイル発射コードの機密ファイルを奪った殺し屋モローと取引するコードネーム「コバルト」の正体を知るためにチームメンバーとともにクレムリンに潜入するが、その直後クレムリンが爆破されてその容疑をかけられ、大統領はゴースト・プロトコルを発しIMFはアメリカ政府から隔離されサポートを受けられなくなる。長官は、イーサンに分析官ウィリアム・ブラント(ジェレミー・レナー)と引き合わせ、大統領のゴースト・プロトコルを知らせるとともに、最後のサポートを知らせ逃走して容疑を晴らすように示唆したところで襲撃犯に射殺されてしまう。ブラントとともに逃げ出したイーサンはチームの仲間とともにクレムリン爆破犯を核ミサイル発射をもくろむ人物として特定し、奪われた核ミサイル発射コード、クレムリンから持ち出された起爆装置、ロシアから売りに出された人工衛星の3つのアイテムを追って行くが・・・というお話。

 予告編でも使われているドバイの現在のところ世界一高い超高層ビル「ブルジュ・ハリファ」でのアクションが一番の売りになっています。もっとも、取引に使われる119階と118階は実際にはホテルじゃなくて事務所フロアのようですが(ホテルは低層階だけで、それじゃアクションが使えないからあえて高層階に移したんでしょうけど)。
 トム・クルーズが接着手袋とロープでガラスの壁面をよじ登ったり駆け下りる姿は、実際にこのビルの高層階の壁面でやったようですし、とてもスリリング。高所恐怖症の人には見ていられないくらい。ただ、このパターンはいかにもスパイダーマンで、接着手袋が途中で効かなくなってひらひら落ちていくあたりはパロディにに見えてしまいます。
 そういうあたりも含めて、ストーリー展開のテンポのよさ、盛りだくさんのアクションは見ていて飽きさせませんが、全体のストーリーというかつくりが、ロシアの核ミサイルの発射させて核戦争を起こさせようとする狂信的人物の陰謀とそれを阻止する闘いというもう何度もどこかで見たような安易なもので、それを最新のテクノロジーというか主としてコンピュータ、ハッキング、科学的に見えるガジェットと激しいアクションをちりばめて見せているのを観客がどう見るか。あんまり考えずにおもしろけりゃいいじゃん、で見れればエンタメとしては上出来となるでしょうし、ストーリーや深さを求めるならアクションで目くらましして観客をなめてるんじゃないのと思えるかもしれません。
 それと同時に、愛する者を襲った者に対する復讐というドラマが2つ伏線になっていますが、それもラストにも引っかけてうまくスパイスになっていると評価することも、つくりの古くささをさらに印象づけると評価することもできるでしょう。

 クレムリンの中の映像は本物なんでしょうか。クレムリンの荘厳さというか大仰さとセキュリティのちぐはぐさ、侵入のために使ったスクリーンアイテムの高度さとその限界とかも、スリルとユーモアを感じさせて、見どころかなと感じました。そういう場面場面の巧さというのは、いろいろと感じます。

2011年12月18日 (日)

クリスマスのその夜に

 7組のカップルのクリスマスを描いた群像劇映画「クリスマスのその夜に」を見てきました。
 封切り3週目日曜日、全国7館、東京では唯一の上映館ヒューマントラストシネマ有楽町シアター2(62席)の午前11時20分の上映はほぼ満席でした。

 医師のクヌート(ワリチョフ・ソーハイム)は、往診で忙しく、教会のミサに行くという妻とはクリスマス・イヴもすれ違い。そのクヌートを呼び出したのは故郷に帰ることができないセルビア人とアルバニア人のカップル。ふだんは人のいない教会に潜んでいたがクリスマス・イヴは教会にいることもできずに廃小屋に隠れていたところ産気づき破水してしまった。クヌートは産湯も用意できず水は雪を溶かして得るしかないという男にため息をつきつつ、赤ん坊をとりあげる。離婚した妻トネ(クリスティーネ・ルイ・シュレッテバッケン)に新たな恋人ができて閉め出されたパウル(トロン・ファウサ・アウルヴォーグ)は、子どもたちにクリスマスプレゼントを渡したい一心でサンタに変装して妻の家を訪れる。不倫の関係を続けているカリン(ニーナ・アンドレセン=ボールド)は、クリスマスが過ぎたら妻とは別れるというクリステン(トマス・ノールストロム)の約束を信じていたが、クリスマスの日、クリステンは子どもがいる間は妻と別れられないと言い出す。少年トマス(モッテン・イルセン・リースネス)はクリスマスを祝う家族の元に帰らず、クリスマスを祝わないイスラム教徒の上級生の少女ビントゥ(サラ・ビントゥ・サコール)の家で二人して屋上で星を見続ける。かつては故郷の英雄だったサッカー選手のヨルダン(ライダル・ソーレンセン)は大事な一戦でペナルティキックを外して以来酒浸りになり今では乞食をしていて故郷に帰る電車賃もなかったが、さまよい歩くうちに偶然かつての恋人だったヨハンヌ(イングン・ベアテ・オイエン)の住むトレーラーにたどり着く。ある家では年老いた男が手をふるわせながらアイロンをかけ、病床の年老いた妻と過ごすクリスマスの準備をしている・・・というお話。

 登場する人々のエピソードが少しずつ絡んでいく展開ではありますが、全部が絡むわけではなく、4つのグループになって行くにとどまります。その意味では中途半端感があります。
 大きくは希望というかハートウォーミングな方向を示す2グループと、悲哀とわびしさに満ちた2グループという感じで、全体が暖かな幸せな感じで終われるということでもありません。そのあたりはむしろ現実的といえるでしょうけど。

 登場人物が多い上に全体が絡まるわけでもないので感想も断片的ですが、医者というのはやっぱり大変な仕事だなぁとやはり実感してしまいます。元妻にサンタのマスク越しに新しい恋人と思い込まれたまま迫られるパウルの切なさは何かちょっと沁みる。でも新しい恋人、結局死んじゃったんでしょうか。ちょっと気がかりでした。トマスとビントゥの少し切ないやりとりがほほえましい。キリスト教徒白人とイスラム教徒アラブ人のかわいいカップル、セルビア人とアルバニア人のカップルをあえて登場させたあたりにはちょっと政治的な(といっても平和的なヒューマニズム方向の)メッセージが込められているのでしょう。エピソードの中で一番感じが悪い、不倫二股男のクリステンの不誠実さ。もっとも、妻と愛人におそろいのマフラーをプレゼントするのは、不誠実というよりも手抜き・無神経というべきなんでしょうね。見終わってカミさんが、あの無神経ぶりはあり得ない、あなたはマメだからそういうことはないよねって。あの・・・前半分はいいんですが、後ろ半分はそういう問題じゃないように思うんですが。

2011年12月11日 (日)

三銃士 王妃の首飾りとダ・ヴィンチの飛行船

 17世紀フランスを部隊に銃士たちが繰り広げる冒険活劇映画「三銃士 王妃の首飾りとダ・ヴィンチの飛行船」を見てきました。
 封切り8週目日曜日、上野東急2(234席)午後2時20分の上映は3割くらいの入り。

 時は17世紀、フランスでは王が暗殺され、幼少のルイ13世が即位し、宰相のリシュリュー(クリストフ・ヴァルツ)が政治を差配していた。そうした中、アトス(マシュー・マクファディン)、ポルトス(レイ・スティーヴンソン)、アラミス(ルーク・エヴァンス)の三銃士は、アトスの元恋人ミレディ(ミラ・ジョヴォビッチ)とともにベネチアで厳重に保管されていたダ・ヴィンチの飛行船の設計図を盗み出すが、ミレディと組んだバッキンガム公爵(オーランド・ブルーム)に横取りされてしまう。1年後、銃士を夢見て田舎からパリに出てきたダルタニアン(ローガン・ラーマン)が、失意にくれていた三銃士と絡んでいたところに衛兵隊が現れ、三銃士とともに4人で40人と戦い蹴散らしてしまう。リシュリューから三銃士たちの懲罰を決めるよう求められたルイ13世は、三銃士たちを気に入り、新しい服と金貨を与える。ミレディと内通するリシュリューは、王妃とバッキンガム公爵の密通をでっち上げ、王妃の首飾りを盗み出し、ルイ13世に王妃が首飾りをバッキンガム公爵に愛の証として贈与したという偽造した手紙を見せ、ルイ13世は王妃に6日後の舞踏会に首飾りをして出席するように通告する。ダルタニアンが慕う王妃の侍女コンスタンス(ガブリエラ・ワイルド)から王妃の危機を聞いた三銃士たちは、首飾りを取り戻しにロンドン塔に乗り込むが・・・というお話。

 中年おじさんの目からは、なんといってもミラ・ジョヴォヴィッチの妖艶さと大胆なアクションが見どころの作品です(最近こういう評価が多くて、ちょっと恥ずかしい気も・・・)。露出としては胸元と太ももまでで、ヌードにはなっていないのですが、脱がなくても妖艶さを十分にアピールできるところに、大人の魅力を感じます(監督が夫ですから、ミラ・ジョヴォヴィッチのプロモーションビデオっぽくなっているのかも)。
 役どころの裏切りが平気なキャラ、妖艶さ、大胆なアクションとも、私たちの世代には「ルパン三世」の峰不二子を思い起こさせます。

 単純にアクション映画としておもしろい、従って同時に荒唐無稽ですからあれこれ考え出すと無理な場面が多い、そういう作品です。
 赤外線センサーで守っているかのようなダ・ヴィンチの飛行船の設計図の収納場所といい、飛行船といい、どこが17世紀なんだと思いますし、チャンバラ・乱闘シーンの活躍もかなり非現実的。でも、それだからおもしろいわけで・・・
 それと、アクション活劇としてみたときに、陰謀の設定があまりにもちゃちというか子どもっぽい(王妃が浮気しているかどうかが国の最大の関心事で、しかもそれを王が王妃に直接聞くことができずに舞踏会に首飾りをつけてきてくれといって確かめるって)のが、いくらなんでもね、とは思いますが。

 エンディング、確かに最後にどうなったかなと気にはなりますが、いかにも次回作を作るぞという宣言付きで見せられるとしらけます。これだったら、どうなったのかなという余韻を残して終わってもらった方が。

源氏物語 千年の謎

 源氏物語の執筆の経緯を描いた映画「源氏物語 千年の謎」を見てきました。
 封切り2日目日曜日、封切り2日目にもかかわらず7週目の「ステキな金縛り」、名画座上映のユスフ3部作を優先してシアター3(40席)を充てたキネカ大森の午前10時25分の上映は6割くらいの入り。

 帝に娘彰子(蓮佛美沙子)を嫁がせた藤原道長(東山紀之)は、彰子付きの女官紫式部(中谷美紀)と関係を持った上、帝を彰子の元に長くとどまらせるために恋愛物語を書くように求める。式部はこれに応じて、道長が逢瀬の際に名乗った「光」の君を主人公として、身分が低いものの帝の寵愛を得て懐妊したが出産時になくなった桐壺更衣(真木よう子)の子源氏(生田斗真)が左大臣の娘葵の上(多部未華子)を娶りながら、六条御息所(田中麗奈)、夕顔(芦名星)と逢瀬を重ね、粗略にされて恨みを持った六条御息所の生き霊に夕顔も葵の上も呪い殺され、六条御息所も都を去り、源氏は幼い頃から慕っていた帝の後妻藤壺(真木よう子)と関係を持ち、藤壺は源氏の子を孕み帝が源氏の子を東宮の跡継ぎに指名して世を去ると藤壺も仏門に入ってしまうという物語を書き続ける。物語の初期に彰子が懐妊し、藤原の子を後の帝にするという目的を果たした道長は、式部にもう物語は必要ないというが、式部は書き続け、いつしか道長もその物語に惹かれていく・・・というお話。

 道長と式部らの現実の世界と、源氏物語の世界が交互に展開していく形が取られています。
 その結果、映画として一本全部充てても展開を追うのが難しい源氏物語部分はかなり簡略化され、登場人物もずいぶんと端折られています。内容的にも第10帖の「賢木」の途中までですが、その範囲でも空蝉も若紫も末摘花も朧月夜も出て来ません(若紫と朧月夜は関係を持つのは賢木の後半以降だから省いたのでしょうけど)。生田斗真のそれぞれの女性の前で語る愛の言葉の軽々しさというか白々しさは、この簡略化して同時進行を感じにくくした設定でさえ、むしろ見どころかなとさえ感じましたが、源氏物語の展開を忠実になぞっていたらもっとこの人物の誠意のなさが際立ったと思います。
 他方、六条御息所の怨念は、源氏物語以上に強調されています。源氏物語では夕顔を呪い殺したのが六条御息所かははっきりしていなかったと思いますし、葵の上については源氏物語では車争いが前段にあり必ずしも正妻に対する愛人の怨念だけからではないはずなのに、この映画ではものすごくシンプルに六条御息所が正妻であれ愛人であれ源氏の寵愛を受けるものを次々と呪い殺すという描かれ方になっています。夫と死別した子持ちの年増女は怖いみたいな偏見につながらなければいいのですが。

 現実世界の方の式部と道長の関係も、なにかレイプ+いやよいやよも好きのうちみたいな感じで、見ていていやな感じがしました。
 そういうことも含めて、恋愛を描いた映画のはずなんだけど、今ひとつ恋愛の情というか、幸福感の感じられない、恨みの方が前に出た作品だなぁと思いました。
 それは、恋愛の場面だけのことではなくて、道長が例の「この世をば我が世とぞ思う望月の欠けたることもなしと思えば」という歌を詠むシーンですら満足感よりも虚しさの方が感じられてしまいました。
 映画のテーマの源氏物語執筆の動機という点でも、文学・歴史研究の立場だと細かい違いも争われるのでしょうから、謎に挑むということになっているのかもしれませんが、ごくふつうの素人の立場から見る限り、紫式部と道長に関係があったとか光源氏が道長をモデルにしているとかいう説は昔からいわれていることで特に新味は感じられません。
 時間を半分にして源氏物語を浅くし過ぎていることとあわせ、中途半端さが強く感じられました。

2011年12月 4日 (日)

50/50

 27歳の青年が5年生存率50%の癌と宣告された後の生活を描いた映画「50/50」(フィフティ・フィフティ)を見てきました。
 封切り4日目日曜日、TOHOシネマズ渋谷(旧渋東シネタワー)スクリーン1(154席)での午後2時40分の上映は9割くらいの入り。
 ほんとは今日も映画見てから仕事のつもりだったんですが、フェイク・クライムがまさかの満席で、カミさんとランチ・バイキングの後こちらに転戦で、予定の仕事は明日に先送り。

 27歳の青年アダム(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)は、腰痛のために検査に訪れた病院で癌の宣告を受ける。アダムから癌の告知を受け、別れてもいいといわれた恋人のレイチェル(ブライス・ダラス・ハワード)はそばにいたいと答え、最初は寄り添っていたが、病院の中には入らず、次第に足が遠のき、別の男と人前でキスする姿をアダムの親友のカイル(セス・ローゲン)に見つけられる。アダムの母(アンジェリカ・ヒューストン)は、認知症の夫を抱えながら、アダムの病気を聞いて同居して看病するといいだし、毎日電話をしてくるが、アダムはうるさがって電話にも出なくなる。女好きの親友カイルは、アダムにレイチェルと別れるように勧め、癌をネタにナンパしようとアダムを連れ回す。アダムが病院から受診を指示されたセラピストのキャサリン(アナ・ケンドリック)は24歳の新米でアダムが3人目の患者というありさま。淡々と過ごすアダムにも、病院で知り合った患者が次々と死に、抗癌剤も効かなくなって、成功率の低い大手術を受けなければならないときが訪れ・・・というお話。

 いわゆる難病悲恋ものの展開は、もともとややぎこちないレイチェルとの関係が、レイチェルの浮気で破綻して早々に消え去り、難病美談ものとしても、癌を告知する医師の人間味のなさ、セラピストは新米で技術・経験なし、父親は認知症、母親はお節介、恋人は不実の飢えに離れ、親友は女好きでナンパばかり勧めという具合ではまっていきません。
 むしろそういうこれまでの難病ものの設定・展開を外し、いかにも現実にありがちな、癌になったけどいいことがあるというわけでもなく人間関係がうまく行くわけでもない、という中でどう生き、どう過ごすかを、ややコミカルに描いたところが、この映画の売りになっています。
 酒も煙草もドラッグもやらない、交通事故の危険を考えて運転免許も取らない、車が来なくても交通信号を守るといった、ふつうよりまじめで健康志向の強いアダムが若くして癌に冒されるという不条理。悲恋ものなら癌を契機に愛情が深まるところ、最初は寄り添ってくれていた恋人も次第に疎遠になり実は浮気していたという悲しい展開。こういう状況で、淡々と生きて行かざるを得ないアダムを、女好きのカイルがはやし立てけしかけることで、闘病中だからといって変わらない思いと、揺れ動く思いを浮かび上がらせています。
 難病ものでは、癌宣告ですべてが変わるように描かれがちですが、仮に数か月の余命と宣告されたとして、日々の生き方は案外あまり変わらないのではないか、最近ではそういう思いの方が強くなりました。自分がそういう立場に立たされても、結局は、当面の仕事をそのまま続け、日々やってきたことを続けていくのではないかと思います。たぶん新しい仕事は(すぐ終われるものでない限り)受けないとは思いますが。死ぬ前にもう一度燃え上がるような恋をしてみたいとか思ったとしても、都合よく突然に恋人が現れる、なんてことは現実の社会ではあり得ないでしょうしね。もっとも、そういう考え方をするようになったのは自分が年を取ったからなんでしょうけど。

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