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2011年7月

2011年7月30日 (土)

いのちの子ども

 ガザ地区に生まれた免疫不全症の乳児の命を救おうとイスラエル人医師とジャーナリストが奔走するドキュメンタリー「いのちの子ども」を見てきました。
 封切り3週目土曜日、全国で2館、東京では唯一の上映館のヒューマントラストシネマ有楽町の午後1時の上映は8割くらいの入り。

 イスラエルのジャーナリストエルダールは、医師ソメフから、ガザ地区から送られてきた免疫不全症で骨髄移植治療をしなければ1歳まで生きられない乳児ムハンマドを救うために治療費5万5000ドルの募金キャンペーンを依頼される。ムハンマドの母ライーダは、イスラエルのプロパガンダにすぎないと反対していたが、匿名の寄付者が現れ、治療が進められることになった。兄姉3人は骨髄の型が適合せず、従姉妹25人の型を調べることになったが、ガザ地区からの検問所通過はままならず血液サンプルをガザ地区で取って検査した結果、従姉の1人が適合者とわかる。自爆テロでの検問所封鎖で遅延した後、何とか入国を果たした従姉から骨髄の移植を受け、紆余曲折を経てムハンマドの体に従姉の骨髄が定着していく。ライーダと話すエルダールは、私たちにとって命は重くない、エルサレムは私たちの聖地だ、エルサレムに行ってみたい、聖地を守るために殉教するのは当然だ、一命を取り留めたムハンマドが成長して殉教してもかまわないと話すライーダに失望するが・・・というお話。

 目の前の一人のパレスチナ人乳児の命を救うために懸命になっているイスラエル人と、そのパレスチナ人の自爆テロで時折イスラエル人が殺傷され、その報復などのためにパレスチナ人を毎日数十人単位で殺傷し続けているイスラエル国軍の存在という矛盾を、乳児の命を救われる側のパレスチナ人からと救おうとするイスラエル人側からどう受け止めていくかというところがメインテーマとなります。
 イスラエル国軍に親族や知人たち同胞を日々殺傷されながら、その敵のイスラエル人に息子の命を救われるライーダは、より複雑な揺れる心情を見せ、その揺れる思いが更に踏み込んだテーマとなります。
 また、一人の命の救済や個人間の交流では解決できない民族間紛争の姿の描かれようも、見せどころとなっています。

 おそらくはソメフ医師の立場からは、自分は目の前の命を救うことが仕事で、それがイスラエル人の命であれパレスチナ人の命であれ関係ない、そして遠くで他人が行う殺戮は自分の手ではどうしようもなくそのことで思い悩んでも仕方ないと整理されることだろうと思います。自分のことを考えても、守るのが多くの場合「命」でなく「権利」とか被害の回復ということになるだけで、自分が担当した事件の依頼者はできるだけ何とかしようと思いますが、同種の被害者が多数いるということまで何とかしようとしても手に余るというか身が持たないですから。
 しかし、映画では、ジャーナリストを語り手とし、多数の同胞を背景に語る母親との対話を入れることで、民族的な視点というか全体主義的な感覚と具体的な個人の交流をともに意識させて、簡単な整理を排しています。簡単な解決、さらにいえば完全な解決があり得ないことを認識させつつ、結局は個人レベルの顔の見える関係を取り結び信頼関係を重ねていくことで平和の大切さを少しずつ浸透させていくしかない、そういうアピールと読みました。

2011年7月17日 (日)

ハリー・ポッターと死の秘宝 Part2

 2011年7月17日、「ハリー・ポッターと死の秘宝Part2」3D版を見てきました。
 封切り3日目日曜日、丸の内ピカデリー1(定員802人)の午後1時30分の上映は1階席を見る限り7割程度の入り(2階席は見えなかった)。
 以下、基本的には、ハリポタマニア向けのネタバレ解説です。

 原作37章(36章+1章)のうち24章分をPart1でこなして残り13章を展開するPart2は、ホグワーツでの戦いが中心となり、映画ではそれを強調した流れになります。

 ヴォルデモートの分霊箱探しとヴォルデモートとハリーの対決というメインストーリーでは、原作では後で明かされるグリフィンドールの剣なき後の分霊箱破壊手段が、最初から明かされてハリーとロン・ハーマイオニーの分担作戦展開となり、それに合わせてレイブンクロウの髪飾りの破壊手段も原作と変わっています。最後に残された分霊箱のナギニの破壊も原作と異なり観客の目の前で展開され、ロンとハーマイオニーも参加した作戦になっています。このあたりは、映像とわかりやすさを重視した変更ですが、映画の方が原作よりよかった感じがします。
 原作のサイドストーリーというか読ませどころのダンブルドアとプリンスの物語は、Part1のときに予測したように、原作でさんざん展開されたダンブルドアの若き日の過ちなり否定的評価はほとんど登場せず、ホグズミードでアバーフォースがほのめかすだけで具体的な話は全部カットされ、プリンスの物語の方は描かれてはいますが2部構成で時間を使ったわりには端折られた感じ。まぁ、このあたりは読み物だから味わえるところで映像では難しいってことで削られたんでしょうね。
 原作ではフル活用される透明マントが、映画ではPart2ではグリンゴッツに忍び込むとき以外はまったく登場しないのも、映像重視のためでしょう。ニワトコの杖(ElderWand)の運命を変えてしまうのも、原作通りだと絵にしにくく説明が面倒だからでしょうか。
 確かに、原作よりも、いずれの点でもわかりやすくなっているのですが、原作を先に読んでいる読者にとっては、やはり原作の味わいが損なわれるよなぁと思ってしまいます。

 これは、この作品の段階の話ではなくて、そもそもシリーズの最初の時点で瞳がグリーンでない(青い)ダニエル・ラドクリフをハリーにキャスティングしたこと自体の問題ですが、ハリーが父親に生き写しだが目だけは母親にそっくりというときに、原作では緑色であることが明記されているのに映画ではそうは言えない。色の特色がないから、そっくりと言われても全然印象に残らないし、見てもそっくりと思えない。この作品では、そこがポイントの一つになるだけに、ちょっと締まらないなぁと思ってしまいます。

 目に付きにくい変更ですが、グリンゴッツから脱出するときにドラゴンに乗ることを言い出すのがハーマイオニーに変更されています。これまで映画では、ほとんどの場合、原作よりもハーマイオニーの主体性を弱める方向で変更がなされてきただけに、ちょっと、おやっと思いました。
 それから、マクゴナガル先生がりりしくてかっこいい。

 ラストの19年後、17歳と36歳だからそりゃ髪が白くなるわけじゃないし、シワシワになるわけでもないでしょうけど、ほとんどそのままで出て来られてもなぁ。

2011年7月16日 (土)

コクリコ坂から

 スタジオジブリの世襲宣言ともいえる宮崎息子監督第2作「コクリコ坂から」を見てきました。
 封切り初日土曜日、9月11日閉館の決まったパルコ調布キネマの午前10時15分の上映は2割くらいの入り。

 朝鮮戦争で船乗りだった父を失い、大学教授の母はアメリカ勤務で、かつて祖父が営んでいた病院の建物を改造して祖母が経営する下宿屋で勤勉に食事を作り事実上切り盛りする高校2年生の松崎海は、子どもの頃からの習慣で今も毎朝父の無事航海を祈願する旗を揚げ続ける。その旗を毎朝父が岸へ送ってくれるタグボートから見て返礼の旗を揚げる高校3年生の風間俊は、高校の古い部活棟、通称カルチェラタンでガリ版の「週刊カルチェラタン」を発行しつつ、生徒会長の水沼と共に、カルチェラタンの取り壊し(建て替え)反対闘争の先頭に立っていた。妹の空に引っ張られてカルチェラタンの俊を訪ねた海は、次第に俊に惹かれ、カルチェラタンの維持のために大掃除をしてきれいにすることを提案し、水沼の賛同を得る。大挙して女子が押しかけて、カルチェラタンの部活動を担う変人男子たちと共に大掃除と補修が続けられ、カルチェラタンは見違えるほどきれいになる。下宿人の研修医の引越パーティーに招かれた俊は、海と2人で下宿の部屋を見るうち、海の父の写真を見て青ざめる。それからつれない態度を取るようになった俊に海はいらだつ。そうした中、高校はカルチェラタンを夏休み中に取り壊すことを決定、水沼と俊は海を連れて東京の財界人である学園の理事長にカルチェラタンを見に来てくれと直訴に行くが・・・というお話。

 東京オリンピック前の(まだ原発もない)日本(横浜)を舞台に、青年たちの蛮カラでまっすぐな思いと勤勉で誠実な生き様、カルチェラタン建て替え反対闘争と、愛し合う2人が兄妹だったという今どき口にするのも恥ずかしいほどベタな設定での純愛ストーリーが、特に木々の緑が際立つ爽やかなアニメで描かれています。そういうノスタルジーと爽やかさが売りの作品で、そういう作品が好きなら○、より複雑な陰影を求めるなら×でしょう。念のためにいっておきますが、私の感性は前者です。ものを書く段階では後者ですが・・・

 勝てなかった学園闘争を、「こうありたかった」なのか、「こうすればよかったのに」なのか、大衆の参加と共感とその結果による大人(支配者)の説得による円満な勝利の形に描き出すことをどうみるか。全共闘世代でない親子に言われるのは余計なお世話に感じる向きの方が多いように(そう思う向きはジブリのアニメなんて見ない?)。ましてや直接テーマになる学生寮闘争との関係では、これまでの負けた学生寮闘争は闘争側のやり方に問題があったといってるようで・・・

 船乗りの父を待つ子が丘の上の家から毎日信号を送り続ける姿や海のまっすぐな告白は「丘の上のポニョ」をイメージさせます(もちろん、海はでんぐり返りしたりしないけど)し、木々の緑の鮮やかさや最初に出てくるバスが猫バスっぽいのは「となりのトトロ」をイメージさせます。そういうジブリの遺産で食ってるアニメかなという感じもしました。

 海は下宿でも高校でも、海のフランス語( mer )をあだ名にして、メルちゃんと呼ばれています。当時の高校生は、そういう知識への憧れというか背伸び志向があったんでしょうね。私も、映画の最初からメルちゃんと呼ばれている主人公が祖母からは海と呼ばれているのを聞いて、あっそういうことねとわかる程度には、一応頭にフランス語が残っていてホッとしました(で、空は何だったっけと考えると、出て来なかったりするのですが:正解は ciel )。

2011年7月 2日 (土)

SUPER8

 スピルバーグ製作のSF映画「SUPER8」を見てきました。
 封切り2週目土曜日、ヒューマントラストシネマ渋谷午前10時の上映は3~4割の入り。観客層は若者が多数派、次いで「未知との遭遇」とか「E.T.」とかを若い頃に見たと思われる中高年層という感じ。

 1979年夏、事故で母親を亡くし、保安官の父親と2人暮らしの中学生ジョー(ジョエル・コートニー:新人)は、ジョーの父親の8ミリカメラで、友人たちとスーパー8ムービーの撮影をしていた。夜に家を抜け出して通り過ぎる列車を背景に映画の撮影をしていたジョーたちの前で、列車がトラックと衝突して大爆発をし、ジョーたちは命からがら逃げ惑う。トラックを運転していたのはジョーたちの中学の理科の教師だった。列車事故を知って軍が駆けつけてくるのを見たジョーたちは車を持ち出してきたアリス(エル・ファニング)の無免許運転がばれることをおそれ、慌てて撮影機材を回収して逃げ去り、見たことを秘密にすることを誓い合った。その日から停電が度々起こり、犬が町からいなくなり、行方不明者が出始めるなど不思議な事件が続いた。3日後にようやく現像できた列車事故の時のフィルムには、列車の中から脱出しようとするモンスターの姿が映っており、ついにはアリスが父親の目の前でモンスターに連れ去られ、ジョーはアリスの救出を決意するが・・・というお話。

 うーん・・・SF映画なんですけど、映画少年たちの友情と淡い恋心を描いた青春グラフィティの部分の方がわかりやすくて、SFとしての部分は、今どきの感覚ではちょっと中途半端な気がしました。
 ずっとモンスターを見せずに展開していって、最後の方で出てくるのですが、ここまで引っ張ったらむしろ最後まで見せない方がよかったかなという気がします。今は撮影技術のレベルが上がって観客の要求水準も高くなっていますから、ある意味でどんなモンスターを見せられてもそれほどの驚き・恐怖感はないと思います。なまじっかずっとほんの一部しか見せずにいると期待水準が高まるので、姿が出てきたところで、なんだこんなものかと思ってしまいます。
 米軍も、軍の最高機密を守っているという設定なのに、素人が潜入して簡単に突破できたり、あまりにゆるい。
 SFとしての部分で、列車に積まれていた謎のキューブがなんなのか見ていて最後までわからなかった(どこかで説明されたのを私が字幕を読み切れなかったのかもしれませんが)し、ラストも宇宙から来たのではないモンスターがどうして宇宙にサヨナラするのかもよくわからなくて、雰囲気を味わう(スピルバーグ映画へのノスタルジーを味わう)にはいいでしょうけど、どうもしっくり来ませんでした。

 設定で、スリーマイル島原発事故の年のオハイオ州(ペンシルバニア州の西隣ですけど、距離は遠い。福島第一原発から東京くらいでしょうか)を選んだのはどうしてでしょう。人々の不安、暗い雰囲気を出す要素としてでしょうか。それとも原発事故後不思議な現象があると放射能と結びつけられがちだったけど、実は違う(でも、それがモンスターの仕業って・・・)という反原発派への揶揄的なメッセージでしょうか。

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