2020年4月 8日 (水)

黒い司法 0%からの奇跡

 黒人死刑囚の弁護人として冤罪事件に取り組む若き人権活動家の黒人弁護士を描いた映画「黒い司法 0%からの奇跡」を見てきました。
 見たのはもう1月くらい前です(緊急事態宣言を受けて、今日はもう東京では上映している映画館はないようですしね)が、原作本を読んでから書くことにしましたので、今頃になりました。東京では映画館で見ることができない時期の紹介になり残念です。

 パルプ材の伐採・運搬に従事していた黒人ウォルター・マクミリアン(ジェイミー・フォックス)は、1987年6月、仕事帰りに待ち構えていた警官たちに逮捕され、身に覚えのない殺人罪で起訴され、死刑判決を受けて収監されていた。ハーバード・ロースクールを出た若き黒人弁護士ブライアン・スティーヴンソン(マイケル・B・ジョーダン)は、黒人が不当な扱いを受けている司法の現状を許せないと考えて、アラバマ州で黒人死刑囚らを弁護する事務所を作り、ウォルターと面会し、ウォルターの無実を証明するために調査を開始し、ウォルターを有罪とした証言が虚偽のものであることやウォルターのアリバイを証言できる者が多数いることなどを確認し、ウォルダーの無実を確信するが…というお話。

 ブライアンが、法廷での尋問で、有罪判決の際の目撃証人のマイヤーズから証言は司法取引で軽い判決を得ることや死刑囚監房から出してもらうためにウソを言ったものだという証言を得、それだけではなく、殺人現場に駆けつけた元警察官から被害者の死体が仰向けだったかうつ伏せだったかについて目撃証言は事実と反対だという証言などを得たにもかかわらず、裁判所が請求を認めないという場面は、やはり無力感を持ちます。有罪判決の証人マイヤーズの証言は、映画では、前の裁判での証言はウソだったというひと言しか出てこなくて、見ていて、いやそこで終わっちゃダメだろうと思いましたが、原作を読むと、当然にかなり詳しく一つ一つ確認して丁寧に証言させています(「黒い司法 黒人死刑大国アメリカの冤罪と闘う」226~229ページ)。そこは、映画だからそこに時間をかけてられないということと理解しましたが、弁護士の感覚では、裁判所はマイヤーズにウソだと言わせるだけでは簡単には認めないだろうと思います。本来の理屈では、有罪判決の最重要証言が覆れば裁判所は無罪を言い渡すべきですが、弁護士として実務をしていれば、裁判官がマイヤーズが何らかの事情で今ウソを言っているのではと疑うことを予測してしまいます。しかし、殺人事件の現場に現実に駆けつけた警察官が、被害者の死体の状況が違うということを明確に言ってくれているという事情(あと記憶が定かでなくなっていますが、ウォルターの乗車していたトラックの改造が殺人事件の6か月後に行われており殺人事件があったクリーニング店からウォルターのトラックが出て行くのを見たという証言もあり得ないという証言も、ウォルターのアリバイの証言の他にあったかと思います)があれば、マイヤーズの有罪判決の際の証言はウソだろうと、ごくふつうに思えるのです。そういうあたり、裁判での立証の描き方について、やはりアメリカ映画はきちんと丁寧に考えられていると感じました。しかし、それでもなお、実話に基づくストーリーで、裁判所は請求を認めないのです。
 ブライアンが証人尋問をした手続は、映画を見ていた時にはまったくわかりませんでした。再審請求はすでに棄却されていて、再審請求ではないという説明ではありましたが、それでは何の手続か、アメリカの司法制度がよくわからず、死刑囚の執行を回避するために人権派の弁護士がどんな手法を編み出しているのかと思いながら見ていましたが、原作を読むと、刑事訴訟法第32条請願という手続で、証拠開示請求手続のようです(原作191~193ページ、219~220ページ)。検察側の未提出証拠の開示を受けるために、弁護側でその必要性(ウォルターが無罪である可能性が相当程度あること)を示す手続ということでしょうか。その手続での請求を認めない郡の巡回裁判所の裁定に対する刑事上訴裁判所への上訴で、裁定が覆されたのを受けて、ブライアンは証拠開示手続に戻るのを待たず、地方検事に起訴の取り下げを求め、この申立に対する審問手続で、ウォルターの裁判での最終決着が図られます。日本とアメリカで刑事司法手続が違うためですが、手続に関しては、日本の弁護士が想定するのとは違うものが続き、やはり司法制度は国によりずいぶん違うのだなぁと感じました。

 ブライアンのように、まさしく正義のために、被告人からは費用・報酬を取らずに尽力する弁護士の姿は、美しいのですが、弁護士としては、それを求められても現実には無理と言わざるを得ません。ブライアンがそういうことができるのも、刑事弁護人について行政(連邦、州、郡)が公設弁護人事務所(パブリック・ディフェンダー・オフィス)を開設して弁護士を税金で雇用していること、社会的に意義のある活動への寄付が一般に根付いていることがあってのことですし、もちろんアメリカでもブライアンのような活動をしている弁護士は極めて例外的なごく一握りです。
 行政からの補助金はもちろんのこと、労働事件で心置きなく企業と闘えるように企業からの事件依頼も受けていない私にも、「庶民の弁護士」を名乗ること(企業側に立たないということで、その意味はあると私は考えていますが)から社会的に意義がある事件は当然に受けるべきだとか、無償あるいは低額の費用で受けるべきだと言ってくる方が時々いますが、私はそういうリクエストには到底応えられませんし、そういう物言いの方と議論するのも嫌なので早々にお断りしています。プロボノ的な活動というのは、自分がやる気になった事件でするべきで、他人からそれを言われたくないというのが率直なところです。

 原作では、ウォルターがブライアンの申し出に否定的な態度を取り、なかなか事件依頼をしないという場面はありませんが、映画ではそういう場面があります。映画化に際して原作では書いてないけど実際はそうだったという話があったのかも知れません。私は、どんな事件であれ、自分から積極的に「やりたい」と思うことはありませんから、依頼者が依頼を渋ったり、ましてや「やりたいか?」などと言ってきたら、まず受けませんが、ブライアンは無報酬の事件を、依頼者が乗り気でないのに自らやろうとします。そういう姿も、美しいかも知れませんが、それで弁護士はそういうものと誤解する人が出るのはいやだなと思ってしまいます。
 法廷での元警察官の証言が、原作では被害者の死体のあった場所が違う、実際にあった場所はマイヤーズが目撃したという場所と違うというものでした(原作230ページ)が、先ほど述べたように映画では死体が仰向けかうつ伏せかの違いに変えられています。ここはどうして変更したのか全然わかりません。
 また、上訴裁判所で裁定が覆された後の起訴取下の申立に対する審問期日の描写も、原作では開廷前の打ち合わせまでに結果は確認されていた(原作294~298ページ)のに、映画では開廷して初めて地方検事が表明するという形になっています。それもチャップマン検事は特に劇的な形ではなく述べています。ここも原作の方が現実的だと思えますし、映画が劇的な効果を狙って変えるのならもっと劇的にやればいいのにと思いました。

 弁護士としては、違和感がある点もありますし、思うところはいろいろありますが、やはり裁判、司法制度についての描写の迫真性と現実性、弁護士としての生き様ややりがいなども含めて、見ていて感動しました。宣伝では、オバマ前大統領が2019年でいちばんの作品だと述べているということですが、そこは納得できる気がします(オバマは黒人で弁護士ですからね)。私としては、多くの人に見てもらいたい作品だと思っています。

2020年4月 5日 (日)

21世紀の資本

 トマ・ピケティの経済学書を映画化したドキュメンタリー映画「21世紀の資本」を見てきました。
 公開3週目日曜、お上からの週末外出自粛指令が続く中、週末休館する映画館が圧倒的多数となっている状況の下で、週末の上映を継続する今や貴重な映画館ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1(162席)午後2時の上映は4割くらい(間隔を空けての座席指定のため、販売対象座席数からすると8割以上か)の入り。

 第1次世界大戦以降を中心に、時には産業革命あたりまでを振り返る歴史映像に、トマ・ピケティ自身や経済学者らのコメントを組み合わせ、所得・資産の格差の拡大とその固定が語られていくというスタイルの作品です。

 開始早々、というよりも開始直前に「TAKESHOBO(竹書房)」の大きなクレジットが入ります。えっ、提供竹書房って…、ここがいちばんインパクトがあったかも。原著は、私は読む気力も出なくて、実際読んでないんですが、私のおぼろげな記憶では、確かみすず書房だったんじゃ…まさか、あの竹書房が経済学の専門書を出していたのか、いや、そんなはずは…

 作品の中で、学生を使って、コイントスで富者と貧者に組み分けして富者に圧倒的に有利な不公正なルール(ゲームの各場面で同じことをしても富者は貧者より2倍点数を稼げる)でゲームをさせると、富者に当たった学生は例外なく尊大な態度を取り、勝った原因はツキではなく自分の実力と考えたという紹介があります。理由なく優遇を受けていると、それに慣れてそれを当然視し、それが自分の実力だと誤解しうぬぼれてしまい、恵まれない境遇の他者を理解も共感もせず蔑むようになりかねない、いやそうなる可能性が高いということですね。心しておきたいところです。

 格差を拡大し、かつその格差を固定する(貧者が成り上がる可能性がきわめて低い)現代社会の是正方法について、ピケティは、富者・巨大企業への累進課税と資産課税(特に相続税)の強化を薦めています。近世以降、中産階級が拡大した例外的な時期だった第2次世界大戦後の高度成長期には、世界中でそれが公平だと、考えられ、日本でも実施されていた(日本の戦後税制のスタートとなったシャウプ勧告の基本的姿勢ですね)のに、近年は経済界(大企業)を優遇しすり寄る政治家たち(新自由主義とかいう連中)に投げ捨てられ顧みられなくなった考え方ですけど。アップルやグーグル、フェイスブックなどの多国籍企業が巨額の利益を得ながら税を免れる様を批判し、多国籍企業の本社がどこに置かれようが、どのような法的技巧が施されようが、全体の売上の例えば10%がフランスで売り上げていれば全利益の10%に対してフランス政府が課税できるようにすればいいと論じています。消費税を上げてその分を(口先では社会保障に使うなどといいながら、実際には)丸々法人税減税に充てるような格差拡大と固定を是とする大企業にだけ奉仕する政治家には、絶対に見向きもされない提言ですが、正しいところをついていると思います。

2020年3月29日 (日)

世界でいちばん貧しい大統領

 ウルグアイの第40代大統領ホセ・ムヒカを描いたドキュメンタリー映画「世界でいちばん貧しい大統領 愛と闘争の男、ホセ・ムヒカ」を見てきました。
 公開3日目コロナ自粛延長中「不要不急の外出」自粛要請の日曜日降雪の中、ヒューマントラストシネマ有楽町シアター2(63席)12時30分の上映は3割くらいの入り。

 監督が葉巻を吹かし、ホセ・ムヒカがストロー付きのカップに入れた飲み物(茶色っぽかったですが、何でしょう。あまりおいしそうではなかったですけど)を飲んだり監督に勧めながら続けられるインタビューに、大統領就任前のホセ・ムヒカと妻ルシア・トポランスキーの写真や、大統領在任中のビデオ等を挟みながら、農業を営みつつ大統領職を務め、民衆と対話し、貧困者用の住宅や学校を作り、給料の多くを寄付し、外国と交渉したりスピーチする様子を紹介しています。

 多くの国民から選ばれる者は多くの国民と同じ生活をすべきだとして、自らトラクターで、さらにはスコップで農地を耕し、自ら乗用車を運転して通勤する姿は共感を呼びます。政治の世界で探すべきは大きな心と小さなポケットの人物だという言葉や給料の多くを貧しい人のために寄付していることと合わせ、監督がいちばん描きたかったテーマはここにあります。
 しかし、私はむしろ、この作品を見て、権力者や社会の大勢に抗う異端の少数者に対する民衆の評価の日本との違いの方に関心を持ちました。チェ・ゲバラに心酔し、軍事独裁政権に対する反政府勢力の活動家として、自らは銀行強盗などを行い、妻は文書偽造を担当し、13年間の刑務所暮らしを経て1985年に出所したホセ・ムヒカが、過去の活動について弁解することなく(銀行強盗は楽しかったと述懐していたように記憶しています)大統領に就任し、国民から愛される様子に、文化というか、価値観の違いを感じさせられたのです。近時の硬直した、犯罪者の更生はおろか敗者復活が非常に困難な日本社会は、世界標準ではないのだということを改めて考えました。

2020年3月22日 (日)

弥生、三月 君を愛した30年

 惹かれ合いながら別の道を歩んだ2人のすれ違い交差するその後を描いた恋愛映画「弥生、三月 君を愛した30年」を見てきました。
 公開3日目、コロナ自粛延長中の日曜日、新宿ピカデリーシアター6(232席)午前11時の上映は、1~2割の入り。恋愛映画のはずなんですが、時節柄か、カップルは少なく、1人客が多数派…

 友達思いで正義感の強い結城弥生(波瑠)は、難病の友人渡辺サクラ(杉咲花)が思いを寄せていた同学年の山田太郎(成田凌)に、サッカー部をやめたことを思い直させようとして口げんかになり、太郎の頬を張ってしまう。そのまま登校した弥生は教室の黒板に書かれたサクラのエイズ罹患をからかう落書きに怒り、穏便に済ませようとする教師を叱咤し、エイズは血液交換でしかうつらないと、皆の前でサクラにキスをして、親友を傷つける者を私は許さないと宣言する。あっけにとられて見ていた太郎は、その後2人と親しくなり、サクラの病床を見舞うようになる。1988年3月の卒業式に遺影を持って登壇したサクラの両親は、サクラの好きだった歌を聴いてくださいと、「見上げてごらん 夜の星を」を流す。卒業式を終えて、サリバン先生のような教師になるという弥生とサッカー選手としてワールドカップに出場するという太郎は、互いに夢を語り、別々の道を歩んだ。その後、思うに任せぬ人生を歩み、それぞれに別の人と結婚した2人だったが…というお話。

 難病ものと恋愛ものの掛け合わせですが、難病で死んだサクラが太郎を好きだったという設定が、サクラの親友の弥生が容易には太郎と結ばれない、それぞれの現状や心境がサクラの墓参りの場面で語られる、そしてサクラが残したメッセージがもつれよじれた2人の心に沁みるというようにさまざまな場面で効いてきます。常に「3月」を描くというコンセプトは、惹かれ合いながら友達でいることを選んだ男女の23年間を7月15日だけで描いた「ワン・デイ 23年のラブストーリー」に着想を得たものでしょうけれど、弥生が東京にいたという設定で1995年3月(地下鉄サリン事件等)は何故出てこないのかが気になったりとか、もうすぐ東日本大震災の津波が来るよねと先が予想できたりとか、必ずしも成功したようには見えません。むしろサクラの好きだった歌として「見上げてごらん 夜の星を」を取り上げてさまざまな場面で、この「昭和」な歌を流し、1985年8月12日の日航機墜落事故で坂本九が死んだこととサクラの死あるいはサクラの思いを偲ばせることがより効果的だったといえるかも知れません。
 ラストシーンからすると、弥生も(まぁ弥生は、名前自体からそうだろうなと思いますけど)太郎も3月生まれのようですが、2人の30年を3月の場面だけで描いたというこの映画で、1度も誕生日を祝うシーンがないということが、2人の人生を象徴しているように思えます。
 いくつかの場面でりりしさを見せる弥生が、重く沈んだ表情を続け、サクラが死んでから心から笑ったことがないかも知れないという様子、高校時代おどけて人を楽しませることが好きだった太郎が、どんどんと情けなくなっていく様子に、人生の哀しさを感じます。人生は、そういうものだから、だからひとときでも自分を貫き輝く場面が貴重で尊いのだ、ふだんくすぶり、打ちひしがれていたとしても、それだけじゃないんだともいえますが。

2020年3月15日 (日)

時の航路

 いすゞ自動車雇止め事件での派遣切りと労働者の闘い、裁判を描いた映画「時の航路」を見てきました。
 公開2日目コロナ自粛延長中の日曜日、池袋シネマ・ロサ1(193席)12時10分の上映は、2割くらいの入り。

 大手自動車メーカー「ミカド自動車」で旋盤工として働く五味洋介(石黒賢)は、派遣労働者ながら古株で新人の正社員の指導も任され、人望を集めていた。妻夏美(中山忍)と子ども2人を青森の夏美の実家に残して静岡の工場で働く洋介は、正社員登用をほのめかされて、息子の大学進学も決まり、家族を呼び寄せての生活を期待していたが、リーマンショックで事情は一変し、会社から契約打ち切りを告げられ、いちばんのベテランの洋介が承諾しないと収まらないからと派遣会社の担当者に次の働き口のあっせんを努力するからと言われて、差し出された書面に署名してしまう。派遣会社から、努力はしたが次の仕事はないと言われて唖然とした洋介は、労働組合の活動家、弁護士らの話を聞いているうちに会社との闘いを決意する。夏美と家族は洋介の組合活動に反対し、青森に帰ってきてくれと洋介に伝えるが…というお話。

 大企業と派遣会社の傲慢さ、狡猾さ、非正規労働者に対する非情さ、残酷さ、非正規労働者がいかに弱い立場かということが実感されます。
 現実の事件(いすゞ自動車雇止め事件)に基づいて作られているので、しかたないのですが、見ていて希望が持てないのが哀しいところです。不遇の者同士が助け合い、また夏美の闘病を聞いた同志たちが連帯する姿に暖かさは感じられ、そのレベルでは闘うモチベーションが与えられるのですが、映画を見終わったところで、洋介は、最愛の妻夏美を失い、裁判を優先してその死に目にも駆けつけることができず、家族に詰られながら、闘っていったい何を得たのかを思うと、暗澹たる気持ちになります。
 闘争とは別に、離ればなれの洋介と夏美が久しぶりに再会するシーンでの思いを寄せ合い表現する場面が、夫婦愛を感じさせて印象的でした。

 私は、いすゞ自動車事件にはまったく関与していませんから裁判の具体的な経過は知りませんが、この作品での裁判の描き方には疑問を持ちました。裁判の場面で(東京地裁の法廷の傍聴席が2階建てなのは、もう論外として)会社側の証人(常務)に対して、労働者側の弁護士がその場で取締役会議事録を書証として提出して突きつけてその前の証言(生産減少とその回復の見込みがなかったこと)と矛盾すると迫り、証人からそれは正式の議事録ではない、自分は見たことがないと突っぱねられると常務の尋問を打ち切った挙げ句にその場でそれでは社長の尋問を申請すると言い出し、裁判所が必要性がないと却下すると裁判官を忌避するというシーンがありました。証人に示す書証は原則として相当期間前に提出しなければなりませんし、しらを切られたくらいで動揺して尋問をやめて(2の矢、3の矢を用意しておくのが尋問準備だと思います)社長を呼べと言い出す、人証調べ開始後の法廷でいきなり人証申請ということ自体ふつうあり得ない(人証調べ開始前にひととおり申請して誰を採用するか決めてから人証調べを始めるのがふつう)し、社長を呼べというのにその理由が用意されていない、そういう展開なら社長の人証採用などあり得ないことはふつうに予想されるのに採用しないと言われると動揺して認められることはほとんど考えられない「忌避」をしてしまうというバタバタぶりでは、弁護士の能力を疑ってしまいます。映画だから派手な展開を作ったのでしょうけれども、どちらかというと地道に展開してきた作品でこういうシーンを作る必要があったのでしょうか。制作側は、裁判所と被告側の冷たさ、悪辣さをイメージさせたいのでしょうけど、裁判実務をある程度知っている者の目には、いくら正義は自分の方にあると言ったって、そんなやり方じゃ勝てるものも勝てなくなるだろと、労働者側のやり方のまずさの方に目が行ってしまうのではないでしょうか。
 いすゞ自動車事件の判決を見ると、裁判シーンでこだわった景気回復の予想とその関連書類の問題よりも、その後の回復の見込みがどうあれ現実に生産台数が減少すれば期間工(有期契約労働者)は雇止めにしてもかまわない(ただし期間中の解雇はダメだし期間中の賃金は全額払え)、派遣をしばらく続けたら期間工にしてその後また派遣に戻すことを繰り返して派遣期間制限を潜脱するやり方をしてもかまわないという裁判所の姿勢が問題の根本にあり、そこが変わらないと結局リストラされた非正規労働者の救済は困難に思えます。その部分は、この事件の判決だけじゃなくて、裁判所の趨勢となっています。私の感覚では、この事件での裁判所が悪かったという位置づけではなく、非正規労働者が法的に極めて弱い立場に置かれていることを正面から描いて、それでいいのかをもっとストレートに問うた方がいいように思えます。

2020年3月 8日 (日)

レ・ミゼラブル

 ビクトル・ユーゴーの小説「レ・ミゼラブル」で幼いコゼットがテナルディエ夫妻の下で働かされていたモンフェルメイユの街を舞台に現代フランスが抱える問題を描いた映画「レ・ミゼラブル」を見てきました。
 公開2週目コロナ自粛最中の日曜日、ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1(162席)午前10時20分の上映は2~3割の入り。

 サッカーワールドカップ優勝に沸くパリ郊外の町モンフェルメイユに赴任してきた新人警察官ステファン(ダミアン・ボナール)は、クリス(アレクシス・マネンティ)、グワダ(ジェブリル・ゾンガ)とチームを組んで、犯罪多発地区をパトロールしていた。法的な手順を無視して高圧的に振る舞うクリスに対して、ステファンは反発し、クリスとの間で感情的な対立が生じていく。アフリカ系の移民が集住する団地で「市長」を自称する男(スティーブ・ティアンチュー)のところへ、ロマのサーカス団長が、アフリカ系の少年がサーカスのライオンの子どもを盗んだと抗議して押しかけ、抗争になりかけたところに割って入ったクリスは、犯人を探し出すと約束し、情報屋を通じて、ライオンの子を盗み出して得意げにしている少年イッサ(イッサ・ペリカ)を探し出す。クリスらを見るなり逃げ出したイッサを追い、追い詰めたクリスらはイッサに加勢する少年たちに囲まれて動揺し、グワダが逃げようとしたイッサに至近距離からゴム弾を撃ち重傷を負わせてしまう。その光景をドローンで撮影していた少年がいたことを知ったクリスは、救急車を呼ぼうとするステファンを制してドローンの持ち主の少年を追うが…というお話。


 ラストの問いかけがとても重い作品なので、以下、ネタバレで書きます。

 作品のテーマは、「レ・ミゼラブル」というタイトル、移民が集住する犯罪多発地区という舞台、ラストでの「悪い草も、悪い人間もない。ただ育てる人間が悪いだけだ」(字幕の訳は正確にはこうだったか、よく覚えていませんが)というユーゴーの言葉の引用などからしても、犯罪と暴力の蔓延する環境で育つことの不幸と悲しみということだと思います。冒頭に、イッサらアフリカ系ムスリムの少年たちが、パリに繰り出して、白人たちに交じって、フランスのワールドカップ優勝(2018年)を喜び酔いしれる映像、イッサらがフランス人としての帰属意識とある種の愛国心を感じている象徴的な映像からも、そのテーマが重く、またアイロニカルに感じられます。

 しかし、私は、この作品を見て、他者との、あるいは異文化との相互理解と共存の困難さ(だから共存できない/しなくてよいというのではなく、共存しなければならない/避けられないにもかかわらずそれが困難であることの認識と苦悩)を考えさせられました。
 まずは警察チーム内でのクリスとグワダ、ステファンの溝。クリスはかなり強権的で横暴な態度を取っています。しかしそれは犯罪多発地域で相手に甘く見られては秩序を守れないしさらにいえば警官自身に身の危険が及びかねないからで、私欲のためではありません。同じく新人警察官がベテラン警察官と組んでパトロールする「トレーニング・デイ」のアロンゾ(デンゼル・ワシントン)とはその点で大きく違います。象徴的なシーンとして、街角で女学生がハシシを吸っていたのを見とがめたクリスが、女学生の手を掴み匂いを嗅いでハシシの匂いがする、誰から買ったか吐け、尻の穴に指を突っ込むこともできるんだぞを怒鳴りつけ、友人がクリスがそういうのをスマホで撮影したのを見てそのスマホを奪って道路に叩き付けるという場面がありました。もちろん、女学生側からすれば、クリスの行為は違法ですし、暴力行為で権限濫用です。しかし、クリスは、そこで女学生に対してわいせつ行為には及びませんし金品も要求しません。ただ立ち去り際に「タバコは体に悪いぞ」と告げるだけです。クリスからすれば、女学生がここで嫌な思いをすることでタバコや薬物をやめてくれればという思いでやっているということになります。クリスが移民たちが集住する団地の「市長」とサーカス団の抗争を避けるために、ライオンの子を盗んだ犯人を24時間以内に探し出すと何の得にもならない困難を買って出るのも、クリスが私欲ではなく行動していることの表れでしょう。 また、クリスもうちに帰れば2人の娘の父親として、やはり不器用な愛情表現をしていますが、家族思いの一面を覗かせています。もちろん、クリスが正しいと評価するべきではないでしょうし、この作品もそういう主張ではなく、しかしものごとはそう単純ではあるまいといっているのだと思います。
 次に、イッサとクリスたちあるいは観客の私たちの認識・文化のギャップ。序盤で、イッサがニワトリを盗んで警察に捕まり、親が呼ばれて、親がイッサを見放した言動をする場面が描かれています。そしてイッサは続いてライオンの子を盗み、クリスらに捕まってサーカス団長のところに連れて行かれ、サーカス団長にライオンの檻に入れられて辱めを受け、クリスらに対して激しい憎悪を抱くことになります。ここで、確かに至近距離でゴム弾を顔に向けて発射したグワダ/警察の行為はやり過ぎですし、救護よりもドローン探し/証拠隠滅を優先した対応は卑怯なものですし、ライオンの檻に入れたサーカス団長の私刑もやり過ぎですが、元はといえばイッサがライオンの子を盗んだことに起因するもので、ある程度は自業自得・因果応報という面があるのでは、と私(たち:たぶん)は思ってしまいます。「庶民の弁護士」といいながら貧困階級の心情に寄り添っていないではないかといわれるかもしれませんが、まぁ「弁護士」なんで、ある程度世の決まりごとは守ってもらいたいと思うし、悪いことをしたら反省はして欲しいという気持ちはあります。盗み、あるいは子どもにとっては悪ふざけに重罰で臨むなということなんでしょうし、「盗人にも3分の理」ということわざを残した近世の日本人の鷹揚さから私たちは大きくかけ離れてしまったということかもしれませんが、イッサとその友人たちの激しい怒りには、どうも自分のことを棚に上げてそこまで…という意識を持ってしまうのです。
 そして私にとって最も衝撃的というか最も考えさせられたのは、終盤、ラストシーンに至るまでのイッサと友人たちの目に映る、クリスとステファンの差異です。この作品が、基本的にステファンの視点で描写されていることもあり、私たちには、強権的に振る舞うクリスと、それに反発し、少しでもフェアネスを守ろうとするステファンの行動・生き様の違いが印象に残ります。イッサとの関係でも、イッサが撃たれたときステファンは救急車を呼ぼうとし、クリスがそれを制します。倒れたイッサを放置してクリスらがドローンを追う間にステファンはイッサを連れて薬局に行き応急手当をします。しかし、イッサと友人たちの目からは、ステファンもしょせん警察の一味に違いなく、倒すべき敵と評価されます。ラストシーンでステファンの説得が功を奏するか、あえて描かれていないので、究極的に同視されているのか最後の一線で分かれるのかは観客の解釈に任されますが、ある意味で体制内で良心的な行動を取ろうと心がけているという位置づけの者の1人としては、相対的に良心的な行動など外部には理解されない自己満足でしかないのか、という非常に重い問いかけに戸惑い心をかき乱されます。

2020年3月 1日 (日)

パラサイト 半地下の家族

 カンヌのパルムドールに続きアカデミー賞作品賞も受賞した超話題作「パラサイト 半地下の家族」を見てきました。
 公開9週目、コロナ自粛開始の週末の日曜日、新宿ピカデリーシアター1(580席)午前9時の上映は2割くらいの入り。

 友人の大学生ミニョク(パク・ソジュン)が留学するためその紹介でIT企業社長令嬢パク・ダヘ(チョン・ジソ)の家庭教師になった浪人生キム・ギウ(チェ・ウシク)は、ダヘとその母親ヨンギョ(チョ・ヨジョン)の信頼を勝ち取り、半地下住宅で同居してる姉ギジョン(パク・ソダム)をタヘの弟ダソン(チョン・ヒョンジュン)の家庭教師に送り込むことに成功した。ギジョンは、パク家の運転手を陥れて解雇させて、代わりに父ギテク(ソン・ガンホ)を運転手に採用させ、さらには長年働いてきた家政婦ムングァン(イ・ジョンウン)をも失脚させて、母チュンスク(チャン・ヘジン)を採用させる。全員失業状態から全員がパク家のお抱えとなったキム一家は、パク家がそろって泊まりがけでキャンプに出かけた夜にパク家の豪邸で宴会を繰り広げるが、その最中に追い出した家政婦のムングァンが忘れ物があると訪ねてきて…というお話。

 カンヌでパルムドールを競った「レ・ミゼラブル」とともに、格差社会を描いたと言われていますが、「パラサイト」は、貧困問題について問題提起したというよりは、格差社会をモチーフにした娯楽作品という色彩が強いように思えます。問題提起色が薄まっても、娯楽作品故に多数の人に見てもらえて強い影響力を持つことができることの方が、作品としての問題提起が明確でもシリアスである故に少数の人にしか見られない(もともと問題意識の強い人しか見ない)よりもよいという判断はあるかも知れませんが。

 貧困層のキム家族の特徴は、したたかさ、諦めない心の強さ、それに対するパク家族の特徴は、他者への無関心というところでしょうか。本来は社長のパク・ドンイク(イ・ソンギュン)は当然に意欲的でしたたかなはず(そうでないと社長になれないでしょう)ですが、パク家の人々は比較的淡泊で他人を疑わない、善人でやや抜けている性格を持たされています。富裕者を悪くは描かないところも、問題提起色を薄め、中流・富裕層の反発を買わない工夫となっているのかも知れません。

 ある意味で、ミステリー・コメディ的な娯楽作品として展開する中で、少し目を引くのが、キム父ギテクの社長ドンイクに対する恨みです。映画の展開上は、やや唐突感があったところですが、見終わってみると、大事なポイントになっているように思えます。
 ギテクの憎しみは、遡って考えてみて、運転中に臭いを指摘されたことに発するとしか考えられません。人の体臭は、生活様式や食生活、加齢等によるもので、基本的には容易になくしたり変えたりできるものではなく、場合によってはその人のアイデンティティに関わるものかも知れません。インド人(だけじゃないでしょうけど)からはクミンシードやカルダモンの匂いがすることが多いですが、それは食文化に関わります。ホームレスの人の汗や饐えた匂いも、本人は好きでそうしているわけでもなく、指摘されれば言われた側は嫌な気持ちになるでしょう。近年、スメハラなどということを言う人たちがいますが、それはスメハラを言う人が被害者なのではなく、人の顔色をうかがわない人を「KY」(空気が読めない:もう死語でしょうね)などと呼んで低く見て仲間はずれにしたのと同様の同調圧力・同調強制で、スメハラなどと言いたがる人こそが弱者の事情を配慮できない鈍感な加害者なのだと思います。臭い(体臭)をめぐる上流者の心ない指摘が、貧困者の強い恨みを買うという構図が、この作品で、実はいちばん格差社会のゆがみの描写になっているのかも知れません。

2020年1月26日 (日)

風の電話

 震災で家族を失った女子高生の喪失感と再生の兆しを描いた映画「風の電話」を見てきました。
 公開3日目日曜日、新宿ピカデリーシアター9(127席)午前11時30分の上映は8~9割の入り。

 9歳の時東日本大震災の津波で両親と弟を失い、呉に住む伯母広子(渡辺真起子)と暮らす17歳のハル(モトーラ世理奈)は、広子が倒れて意識不明となったのを見て、何故私から何もかもを奪うのかと絶望的になり、人里離れて荒れ地をさまよい倒れていたところを、豪雨による土砂崩れの際に危うく生き残り痴呆気味の母と暮らす公平(三浦友和)に拾われて、生き残った者は食べなきゃなと諭される。ハルは、故郷の大槌を目指してヒッチハイクを始め、臨月の姉と弟の2人組、次いで夜の停車場で絡んできた男たちから助けてくれた元原発作業員の森尾(西島秀俊)に拾われて、埼玉、福島を経て大槌に至るが…というお話。

 津波で9歳にして両親と弟を失い心を閉ざして生きるハル、豪雨による土砂崩れ災害で隣人たちが飲み込まれるのを目の当たりにした公平、津波で妻と娘を失い車で放浪していた森尾のエピソードを通じて、災害の残酷さ、残された者の哀しさが描かれます。
 自分を襲った運命の過酷さを悲しみ呪っていたハルが、隣人が土砂崩れに巻き込まれて偶然に生き残り、妹が自殺し、痴呆気味の母と2人で生き残って、生き残った者は食べなきゃならんと諭す公平の姿に、過酷な運命に襲われたのは自分だけではなく生き残ったこと自体に感謝すべきことを感じ取り、ヒッチハイクで車に乗せてくれた臨月の妊婦から命の不思議と尊さを感じ取り、森尾とともに訪ねたクルド人難民家族から家族の中心となる者が入管に収容されいつ出てこれるかわからない中で助け合って暮らす強さを感じ取り、森尾自身が妻と娘を津波で失いながら生き続ける様子からやはり自分と同じような運命に襲われた者が他にいて生きていることを感じ取りという経験を経て、自らの再生の手がかりを掴んでいくというようなことが示唆されます。
 そのあたりが、この作品のメインテーマと思われます。

 もっとも、冒頭、伯母から話しかけられても生返事に終始し、学校に通う乗船場で近隣のおばさん、おじさんから「ハルちゃんおはよう」と挨拶されてもまったく反応もしないハルの様子が描かれていて、そのハルが大槌の生家跡を訪れて、繰り返し「ただいま」と言い続け、その後に「どうして誰も答えてくれないの」と泣き崩れるシーンで、この冒頭のハルが思い起こされてしまいます。
 挨拶されても挨拶を返さない少女、ある意味では私たちの世代からは「近頃の若い者は」と言われる若者たちにありがちな態度でもありますが、その内面には、態度に表さないさまざまな感情や思いが渦巻いている、それをよく引き出さずに上っ面だけで判断してはいけないという読み方をすべきところでしょうか。

 そうは言っても、家族を失ったハルを引き取り、一人で8年間も面倒を見てきた広子は、倒れて入院するとそのままハルに見捨てられて置き去りにされています。私の目には、広子の方がかわいそうに見えてしまうのですが。

 震災と原発事故の際に福島第一原発で働いていて、その間に妻と娘を津波で失い、仕事も辞めて失意のうちに車で放浪を続ける元原発作業員の森尾は、避難地域に戻り住む今田老人(西田敏行)から事故について問われて「申し訳ないと思っている」とぼそっと答えます。自らも被災者としての側面を有しながら、原発の運転に関与していた故に被害者面もできず、罪悪感を抱き続けているという福島第一原発の運転員・作業員像は、それが多数派であるか、また森尾のように責任感ないし罪悪感あるいは喪失感から仕事を辞めてさすらうという人がどの程度いるのかはわかりませんが、私には、比較的現実にフィットするものに思えます。事故の渦中に福島第一原発にいた運転員の人たちは、できる限りのことをしようと、職業的な誠実さと創意工夫をもって作業に当たっていたと思います。しかし、電源を失い、水も十分にない状況の下でできることは限られており、最終的にはなすすべもなくなって事故の進展を見守るしかなかったのです。その喪失感というか無念の思いは相当なものだったと思います。そして運転員、作業員の多くは、事故対応のために現場を離れられず、家族の安否の確認もできなかったのです。原発の再稼働の都合から運転員の人為ミスを強調してよりうまく操作・対応すれば事故の進展を防げたかのように言いたがる人たち(例えば政府事故調)や、運転員たちをやたらと英雄視しようとする人たち(戦争で死んだ人たちを「英霊」として讃えたがる人たちのように)が多い中で、西島秀俊演じる森尾の姿は、私には納得しやすいように思えるのです。

2020年1月19日 (日)

ラストレター

 岩井俊二監督が自らの小説を映画化した「ラストレター」を見てきました。
 公開3日目日曜日、新宿ピカデリーシアター2(301席)午前10時15分の上映は、5~6割の入り。

 自殺した姉未咲(広瀬すず)の葬儀に出席した裕里(松たか子)は、未咲の娘鮎美(広瀬すず:2役)から高校の同窓会のお知らせを見せられる。同窓会に出席した裕里は周囲から未咲と勘違いされて未咲の死を言い出せず、不本意ながら未咲として振る舞い、帰りのバス停で未咲の同窓生であり自らが憧れていた先輩でもある乙坂鏡史郎(福山雅治)にもっと話したい場所を変えて飲まないかと誘われるが、もう帰らないといけないからと連絡先を交換して別れた。鏡史郎から「君にまだずっと恋してるって言ったら信じますか」などのメールが来て、それを見た夫(庵野秀明)にスマホを水没させられた裕里は鏡史郎に手紙を書き始め…というお話。

 乙坂鏡史郎と未咲、裕里の青春時代が原作では中学生時代で映画は高校生時代(ここは、さすがに中学生時代にするとキャスティングに無理があるからでしょう)、原作では乙坂鏡史郎がサッカー部のエースストライカーで裕里はマネージャーといういかにも青春もののベタな設定だったのが映画では生物部の先輩と後輩という2点を除けば、ほぼ原作どおりの設定と展開です。
 原作を読んだとき、この読み味/後味の悪い小説をいったいどうやって映画化するのかと思いましたが、映画では、前半を乙坂鏡史郎ではなく裕里と鮎美、裕里の娘の颯香(森七菜)サイドから描いていて、松たか子と森七菜のキャラ/演技のせいでしょうけれども、原作の乙坂鏡史郎サイドの自己中の偏執的な人物視点の重苦しさとは大きく異なり、明るく軽やかなタッチに仕上がっています。設定も展開もほぼ原作どおりなのに、視点を変えることでこれだけ印象が違うのかと驚きました。この点は、ものを書くときのアイディアとして参考になります。後半は、原作のエピソードにこだわる限り、乙坂鏡史郎サイドからしか描けなくなることもあり、原作同様の重苦しく偏執的な印象になっていくのを、やはり裕里、回復した鮎美、颯香がカバーしてなんとか明るさを保つという展開ですが。

 原作でほとんど描かれていないため、映画でも乙坂鏡史郎と未咲の大学時代の交際、阿藤陽市(豊川悦司)と未咲の結婚生活は若干の言葉での描写以外は描かれません。阿藤陽市は恋敵である乙坂鏡史郎から悪の権化のように見られますが、乙坂が送った未咲を描いた小説の原稿を取り上げることも破くこともせずにいたわけで、裕里の夫よりは鷹揚に思えます。物語としてみるとき、残された鮎美の視点を考えるとき、大学生時代や阿藤陽市との結婚生活も含めた未咲の人生の起伏をもう少し描いて欲しかったなと思いました。

 乙坂に思いを寄せている自分に、話したことさえない姉の顔を見ただけで好きになったとして、自ら申し出たこととはいえ、姉宛のラブレターを繰り返し届けさせたという過去、そしてその後終わった恋にいつまでも固執して姉のことを書いた小説を1つ書いただけでろくに小説も書けずに作家もどきのフリーターを続けるこれまで、さらにはかつて告白した自分に姉宛のずっと君に恋してるなどというメールを送りつける現在(子どもの頃はまだしも40過ぎてこんなことできる?)を経て、それでもなお乙坂を初恋の人、憧れの先輩と扱う裕里の、私には奇跡的とも思える優しさ、それを演じた松たか子に救われた作品と思えます。

 原作の感想は、別のブログですが、こちらに書いています。

2020年1月 5日 (日)

決算!忠臣蔵

 お家取り潰し後の浅野家の家臣たちの行動を残された者たちの利害得失と財政面から描いた歴史コメディ「決算!忠臣蔵」を見てきました。
 公開7週目日曜日、新宿ピカデリーシアター8(157席)午前11時の上映は5割くらいの入り。

 お家取り潰しとなり幕府から城の明け渡しを求められた赤穂藩では、籠城仇討ちを主張する家臣たちと幕府に従った上でお家再興を申し出ることを望む親族たちに挟まれた筆頭家老大石内蔵助(堤真一)が、幼なじみの勘定方矢頭長助(岡村隆史)から藩の財政について知らされ、籠城戦を行うなら割賦金(退職金)の原資が大幅に減ることを伝えられて、家臣たちの士気が一気に下がったこともあり、城の明け渡しとお家再興申し出で意見をとりまとめた。残務整理が進む中で、かき集めた資金を浪費し続ける内蔵助に矢頭は釘を刺し嘆息し続けていた。赤穂でも江戸でも仇討ちを切望する侍たちが内蔵助らの態度に不満を持ち続け、江戸では将軍綱吉への反感もあり仇討ちを期待する町人たちの声が高まっていた。内蔵助らが期待した吉良への処分は吉良上野介の隠居により望みがなくなり、お家再興も絶望的になり、侍たちの突き上げに内蔵助は討ち入りを決意するが、それまでに浪費が続いたために手元にある資金は討ち入りに必要な額に届きそうになく…というお話。

 内蔵助の浪費体質(妾が4人とか10人とか、3日にあげずの郭通いとか)からして自業自得とは言えますが、何をするにもお金がかかる、目標を実現するのに手許金が足りないという話は、コメディではありますが、身につまされます。

 資金に窮する現状を直視せずに、見栄を張り贅沢を言う侍たちが、討ち入りの計画で、吉良邸の戸にかすがいを打ち込んで吉良方や応援の侍たちが出てこれないようにした上、両脇から飛び出してくる吉良方の侍は弓矢で射殺し、その後で出てくる吉良方の侍に対しては1人に対して3人組で対応して前の1人が斬り合うところへ後ろの2人が飛び出して行って両側から斬り殺すと説明され、さすがに「それは卑怯」なんじゃないかと質問したのに対して、内蔵助が、「これは戦や」と答えて、議論が収まるというシーンがあります。しょせん、武士道とか見栄を張る者たちの志はこの程度というところでしょうか。
 実際、戦争は、いかに自軍の損耗を避けつつ敵軍にダメージを与えるかを目標として、言い換えればいかに卑怯な攻撃をすることを可能にするかを目指して、戦術を変化させてきました。素手の攻撃から武器という名の凶器の開発・使用へ、自分が攻撃されない距離から攻撃できる飛び道具の開発・使用、その距離の拡大、航空機からの爆撃、そして近年は無人機(ドローン)からの攻撃と。日頃、犯罪を憎み(憎んでいると表明し)犯罪者を声高に糾弾し、また武士道とかフェアネスを重んじる(重んじると言っている)人たちが、こと「戦争」というマジックワードに触れた途端、殺人を肯定し(少なくとも糾弾せず)、空爆やドローンからの攻撃も非難せず正当化するのは、すでに見飽きた光景とさえ言えて、珍しくもないのですが。

 お家取り潰しから討ち入りまで1年9か月。ずいぶんと長い期間が過ぎているように思えますが、自分の仕事になぞらえてみれば、不当解雇から裁判を経て解雇無効の判断をもらって現実に復職させる場合(この場合も、過ちをただして正義を回復する場面と言えると思いますが) 、おおかたそれくらいの期間がかかるのが現実です。その間の生活費を心配しながら闘うことになる(蓄えや家族・親族の収入に頼れないときは、失業保険、仮払い仮処分、他企業への就職/アルバイト等という手段がありますが)ということも似ています。大きな相手と闘うということは、そういう困難があり、覚悟を要するということでありましょう。

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