2019年3月17日 (日)

運び屋

 88歳のクリント・イーストウッド、10年ぶりの監督・主演作「運び屋」を見てきました。
 公開2週目日曜日、新宿ピカデリースクリーン8(157席)午前11時15分の上映は9割くらいの入り。

 華やかだが1日でしぼんでしまう「デイリリィ」の栽培に打ち込み、高い評価を受けていたが、家庭を顧みず妻・娘との約束を破り続けて愛想を尽かされ、事業もインターネットに対応せず先細りとなって、自宅も農場も差し押さえられたアール・ストーン(クリント・イーストウッド)が、孫娘ジニー(タイッサ・ファーミガ)のフィアンセとのパーティーに顔を出して娘のアイリス(アリソン・イーストウッド)や元妻のメアリー(ダイアン・ウィースト)の不興を買い、帰ろうとしたところでパーティーに出席していた男から車を運転するだけで金になる仕事があると紹介され、言われた場所に赴く。指示されたとおりに、指定されたホテルまでトラックで荷物を運び、車を降りて1時間して戻るとダッシュボードに大金が入っていた。アールは驚きつつも、その金でジェニーの結婚披露宴の2次会の費用を支払い、感謝されて気をよくする。退役軍人会がパーティーを開くのに使っていたバーが火事に遭い閉店し、店主から誰かが2万5000ドル寄付してくれるとかでもなければ営業は再開できないと言われたアールは、また運び屋の仕事を求めて連絡した。バーの再開のパーティーで褒め称えられたアールは上機嫌になり、味を占めて、運び屋の仕事を繰り返す。シカゴに赴任してきた麻薬取締局(DEA)の腕利き捜査官ベイツ(ブラッドリー・クーパー)は、麻薬組織のメンバーの弱みを握りスパイとして使って、毎月100kg以上のコカインをシカゴに運び込む新たな運び屋「タタ」の存在を掴み、検挙に向かうが…というお話。

 大輪の花を咲かせるが1日でしおれてしまうという「デイリリィ」の栽培に打ち込むというあたりから、宮澤賢治には「山師」と呼ばれるであろうアールですが、仕事に打ち込み、90歳になるまで無事故で違反切符も切られたことがない、実直な人物です。これが、外面がよく、周囲から褒め称えられることを好み、ある種利用されてしまうところがあり、品評会や仕事を優先し、またそういう場が居心地がいいために家庭を顧みず、妻との記念日や娘の各種の行事・式にも現れずに家族から愛想を尽かされる。そして、インターネットも利用せず、メールも打てないといった具合に頑固にアナログを貫いて、時代にも取り残され、事業も先細りになり、自宅も農場も手放すハメになる。このアールの設定が、まずもって身につまされ、切ない。
 家族の心情を思えば、致し方ないところはありますが、ただ外面がよく見栄っ張りでまわりの人に気前よすぎる(そういう形で浪費する)けれども悪いことをするでもなく怠惰でもない人物をこう悪く描き見放して孤立させてしまうのは、ちょっとどうかなと思う。そこのところの「違和感」というか、悲哀を感じさせるのが、むしろ制作サイドの狙いかも知れませんが。
 家庭を顧みずに妻子に見放された(孫娘しか味方がいない)アールが、家族のことを思いやらなければならないと、家庭回帰を試みるというのが、この作品のメインテーマとなっています。それはそれで、特に娘の手前もあり複雑な心境を見せるメアリーとの関係では感動的ではありますが、同時に、今改めて採り上げるテーマかなという印象も持ちます。

 作品のテーマではないと思いますが、私は、この作品に先入観の強さへの問いかけを感じました。長らく生業を持ち経営者だった無事故無違反の90歳の白人というのが、麻薬の運び屋の人物像とまるで合わない、このことが、ベイツ捜査官やその他の警官がアールと至近距離ですれ違いながら検挙に至らないという場面の繰り返しを生みます。運び屋はヒスパニックの粗暴な若者と決めつける、その偏見が事実を誤らせるということが印象深く語られているように思えたのです。

 麻薬組織のボス(アンディ・ガルシア)に招待されてコンパニオンの若い女性をあてがわれ、2人にベッドに押し倒された後、庭で休むアールの監視役の手下フリオ(イグナシオ・セリッチオ)に組織を辞めた方がいいんじゃないかとアドバイスして拒絶され、また部屋に戻る際、男になりに行くとつぶやくアール…90歳でも、できるんだと感心してしまいました (*^_^*)

2019年2月24日 (日)

天才作家の妻 40年目の真実

 グレン・クローズがアカデミー賞7回目のノミネートにして主演女優賞を射止めそうな映画「天才作家の妻 40年目の真実」を見てきました。(こう書いてみて、「明日、射止めることになる」というページと、同じ内容で「またしても逃すことになる」というページを両方作ってアップしておいて、外れた方をこっそり消しておけば、予言したことになる(残っている方のページは作成も最終更新も発表前のタイムスタンプが残る)ことになるのだなと思いつきました (^^;)
 公開5週目日曜日、新宿ピカデリースクリーン7(127席)午前11時20分の上映は8~9割の入り。

 ノーベル文学賞を受賞することになった作家ジョゼフ・キャッスルマン(ジョナサン・プライス)を長く支えてきた妻ジョーン・キャッスルマン(グレン・クローズ)は、受賞を喜びつつ、ジョゼフの言動や関係者の言動に少しずつ不満を募らせていた。ジョーンは、大学で文学を教えつつも作家として芽が出なかったジョゼフに見いだされ妻子あるジョゼフと関係を持ち、前妻と別れたジョゼフと結婚した経緯、作家を志しつつ才能があっても出版関係者に受け入れられない女性作家の言を聞き自らの道を諦めた経緯を思い起こしていた。授賞式に向かう機中で話しかけてきた記者ナサニエル・ボーン(クリスチャン・スレーター)から、専属フォトグラファーとしてあてがわれた若い女性にあからさまな関心を見せるジョゼフを置いて外出した際に誘われたジョーンは、前妻キャロルがジョゼフの作品はあなたと結婚してまったく変わったと証言している、あなたの学生時代に書いた作品はジョゼフのヒット作と似ている、吐き出したいことがあるのではないかと迫られるが…というお話。

 日本の興業筋は、ジョゼフの作品はジョーンがゴーストライターとして全部書いていたということを示唆し、真実の作者はジョーンであるのにそれを秘匿して影の存在として耐え忍んできたが、我慢の限界を超え…という作品として売ろうとしています。終盤でのジョーンの台詞の中にはそういう印象のものもありますが、そこはちょっとニュアンスが違うように思えます。そういう単純な構造ではなく、より現実的でより難しさのある設定の下での、夫婦の選択と関係を描いた、もう少し深みと味わいがある作品だと、私は思います。
 ジョーンがジョゼフの言葉として我慢ならないという台詞の1つ。予告では「妻には小説は書けんよ」となっていますが、作品では「妻は書かない」で、その後には「妻が書くと僕が自信を失うから」(字幕が一字一句そうだったかまでの自信はないですが)という台詞が続いていて、ジョークの扱いとも言えますが、ジョゼフは妻の方が文才があるという趣旨の発言をしています。作品の中では、ジョゼフは、浮気を繰り返すという問題がありますが、ジョーンを蔑んで見るという姿勢ではなく、それなりに気を遣い続けているように描かれています。
 タイトルも、邦題は、まるでテレビの2時間ドラマのようにあれこれ設定を詰め込もうとしていますが、原題は “ The Wife ”。原題の方が遙かに含みがあり、趣があると、私は思います。日本語訳するとしたら、定冠詞付きであることをどういうニュアンスで示すかが難しいとは思いますけど。

 より現実的で複雑な利害関係、夫の浮気に苦しみつつも長らく連れ添ってきて今もほぼ一日べったりと2人で過ごしている関係の下での思いを、グレン・クローズの態度と表情で含みと深みを持たせて描いているところが、この作品の真骨頂だと、私には思えます。
 その意味でも、ジョーンがジョゼフの作品のどこまでを書いていたかとかの「真実」などはうわべの問題で、長年連れ添った夫婦の関係の一筋縄では行かないところの方が見どころなわけで、やはり原題の方が遙かにふさわしいと言えるでしょう。

2018年12月 9日 (日)

マチルダ 禁断の恋

 ロシアロマノフ朝最後の皇帝ニコライ2世とプリマドンナマチルダの悲恋を描いた映画「マチルダ 禁断の恋」を見てきました。
 公開2日目日曜日、ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1(162席)午前10時15分の上映は、1割くらいの入り。

 父親アレクサンドル3世が列車事故で重傷を負い皇位継承の時が近づくニコライ2世(ラース・アイディンガー)は、若きバレリーナマチルダ・クシェシンスカヤ(ミハリナ・オルシャンスカ)に惹かれ、軍人の競技会の余興の間にマチルダを部屋に誘い込み関係を迫るが、1度だけの関係と聞いたマチルダに去られた挙げ句、競技会で勝ち得た王冠をマチルダに捧げようとマチルダを探すヴォロンツォフ大尉(ダニーラ・コズロフスキー)に襲われてしまう。マチルダと深い仲になったニコライ2世の元に母が推す婚約者アレックス(ルイーゼ・ヴォルフラム)が訪れ、マチルダに結婚を迫られたニコライ2世は、マチルダの言葉を信じていとこのアンドレイにマチルダの血縁を調べさせてポーランドの王位継承者資格があることを証明させようとするが…というお話。

 序盤にマチルダの見せ場が2つ用意されています。1つは、ソロの舞台で、先輩プリマドンナレニャーニから次の主役はあなたねと声をかけられた際に肩紐を引っ張られ、踊っている最中に肩紐がほどけて胸がはだけるという嫌がらせを受けた際に、動じずはだけた胸を隠そうとする素振りも見せず最後まで踊り続け、ポーズを決めて目力のある笑顔を見せるシーン。これを見たニコライ2世がマチルダに夢中になるという設定ですが、うん、これは惚れる。おっぱいポロリのサービスカットというよりも(サービスカットの性質はあるとは思いますが)ハプニングに動じないマチルダの精神力と、最後まで踊りきって笑顔を見せるプロ意識に感心します。
 次いで、ニコライ2世に誘われた部屋で、1度だけの関係だ、次を期待しないで欲しいといわれ、ネックレスを首にかけられて、主役がとれるように力になるといって抱こうとするニコライ2世をかわし、正面からにらみつけて、あなたは私を忘れられない、嫉妬に狂うことになるといって、ネックレスを外して部屋から立ち去る姿。これがまたりりしい。この強気さ加減は、傲慢さと紙一重で、たぶん現実に目の前にこういう人がいたらタカビーで嫌なやつだと思う可能性の方が高いのですが、その前の舞台のシーンの残照で、やはり強い魅力に感じます。この2つのマチルダの魅力に、最初は一夜の遊びのつもりでいたニコライ2世が引き込まれのめり込んでいくわけです。(ただ、後者は、すぐに乗り込んできたヴォロンツォフ大尉にマチルダが逃げて震えるシーンが続くのでりりしさの印象が大きく減殺されてしまうのですが)
 序盤は強さが印象的なマチルダですが、ニコライ2世と深い仲になってしまい婚約者が出現すると、追う側、結婚を求める側になり、今ひとつ精彩を欠くようになってしまいます。
 しかし、ここでマチルダと絡むのが、ニコライ2世のいとこのアンドレイ。このアンドレイが、ニコライ2世のいとこでニコライ2世に任されてマチルダの手伝いや案内役をするのですが、一方で自分もマチルダに気があって合間合間に口説いたりします。それでいてあまりそこに葛藤を感じるふうもなくて、どういうモラル感なのよとも思いますが、悲壮感漂うニコライ2世と好対照の軽さを感じさせます。その2人をまた、マチルダが手玉に取る場面があり、マチルダの魅力が息を吹き返す、といった風情です。ストーリーとしては、ニコライ2世との悲恋なのですが、マチルダにとっては、軽めのアンドレイの方が実は御しやすく安心感があったかも知れません。

 儀式の場面等の絢爛豪華さ、バレエの舞台の華やかさ軽やかさなどの映像美が見ていてお得感があります。
 決め技のフェッテ32回というのは、現代のトリプルアクセルのような感じでしょうか。

2018年11月25日 (日)

ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生

 「ハリー・ポッター魔法ワールド最新作」と銘打たれた映画「ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生」を見てきました。
 公開3日目日曜日、新宿ピカデリースクリーン1(580席)午前8時50分の上映は、8~9割の入り。

 前作の最後にアメリカ合衆国魔法議会の高官グレイブスに化けていてニュート・スキャマンダー(エディ・レッドメイン)に拘束された闇の魔法使いグリンデルバルト(ジョニー・デップ)が、護送中に脱走した。イギリス魔法省はホグワーツの教師となっていた最強の魔法使いといわれるダンブルドア(ジュード・ロウ)にグリンデルバルトとの闘いを求めるが断られる。ダンブルドアは、ホグワーツの教え子だった卒業生ニュートに、「グリンデルバルトと闘えるのは君だけだ」と唆し、ニュートは、思いを寄せつつも兄テセウス(カラム・ターナー)の婚約者リタ・レストレンジ(ゾーイ・クラビッツ)をニュートの婚約者と間違えてすねてしまった闇祓いティナ(キャサリン・ウォーターストン)を探し求めるとともに、グリンデルバルトを追って、ニューヨークからニュートを訪ねてきたノーマジ(人間)のジェイコブ(ダン・フォグラー)とともに、パリに向かう。グリンデルバルトは前作で消滅させられたはずのクリーデンス(エズラ・ミラー)を探し求め…というお話。

 ハリー・ポッターシリーズ本編ではホグワーツ指定教科書「幻の生物とその生息地」の著者として名前が出ていただけのニュート・スキャマンダーを主人公にして、「ハリー・ポッター新シリーズ」とか「ハリー・魔法ワールド」などといって映画を5作も作ろうという強欲な企画の第2作。前作は、ハリー・ポッターとは違う舞台のニューヨークで、まったく別の話としてシンプルに作っていましたが、前作で新登場させた孤児のクリーデンスを重要なキャラに格上げし、そのクリーデンスを中核に据えて、ハリー・ポッターシリーズの終盤で語られたダンブルドアとグリンデルバルトの決戦に至るエピソード、言わばハリー・ポッターエピソード0を、あと3作もかけて描こうとする展開をしています。そのために、今回、すぐにダンブルドアがグリンデルバルトと直接対決しなくていいように(直接対決したら1作で終わってしまいますから)それができないわけを作り、ハリー・ポッターでヴォルデモートが飼っていた大蛇ナギニを人間として登場させた挙げ句に、この作品の中ではニュート側に配置し、他方前作でニュート・ジェイコブ側だったクイニー(アリソン・スドル)をグリンデルバルト側に走らせ、今後の紆余曲折で話を保たせようとしています。前作で消滅させられたはずのクリーデンスは説明もなくよみがえり、さらには、ハリー・ポッターでは弟のアバーフォースと妹のアリシアとの3人兄弟という設定だったダンブルドアにもう一人「アウレリウス」なる弟がいたことにされます。
 新たな展開と楽しめれば、いいんですけど、なんだか無理してこじらせねじれさせている感じがしますし、この作品自体、見ていて話がわかりにくく、なんといってもイメージが暗い。ハリー・ポッターファン向けのトリビアというか小ネタが多数仕込まれていて、それはそれで楽しめますけど、これで5作まで引っ張ると言われてもねという気持ちがどうしても前に出てしまいます。

2018年11月18日 (日)

人魚の眠る家

 脳死と推定される娘を最先端の技術で状態をコントロールし続ける夫婦の姿と思いを描いた映画「人魚の眠る家」を見てきました。
 公開3日目日曜日、新宿ピカデリースクリーン1(580席)午前10時15分の上映は、3~4割の入り。

 描いた絵を見せ、きれいなところを見つけたの、今度連れて行ってあげると微笑む6歳の娘瑞穂(稲垣来泉)を母千鶴子(松坂慶子)と妹美晴(山口紗弥加)に預け、夫の浮気を契機に別居中の夫和昌(西島秀俊)とともにお受験の模擬面接に臨んだ薫子(篠原涼子)は、瑞穂がプールで溺れたと知らされて、和昌とともに病院に駆けつけるが、医師(田中哲司)から、瑞穂は脳死状態と推定されると告知され、臓器提供の意思の有無を確認される。自宅に戻り、瑞穂が四つ葉のクローバーを見つけた際に、それが幸せを呼ぶから持ち帰ったらといわれて、瑞穂は幸せだからいい、他の人に残してあげると答えたことを思い出した薫子は、瑞穂なら他の人の役に立ちたいと考えるだろうと、いったんは臓器提供を決意した。ICUで、親族が集まり、瑞穂に別れを言う中、弟生人(斎藤汰鷹)がお姉ちゃんさよならと言ったときに瑞穂の手がピクリと動いたのを感じた薫子は、この子は生きていますと、臓器提供の意思を撤回する。障害を負った人の補助テクノロジーを開発する会社の社長である和昌は、自社の研究者から聞き及んだ情報に基づいて、横隔膜ペースメーカーを埋め込む手術で瑞穂に電気信号で呼吸をさせ、さらに脊髄への磁気刺激で手足を動かす技術を研究している星野(坂口健太郎)に信号で瑞穂の手足を動かすよう求めたが・・・というお話。

 何が子どものためなのかということを、素直にも、同時に覚めた目でも考えさせられる作品です。自分の意思を表示できない/できなくなった子どもの周囲で、それぞれが瑞穂ちゃんのためには、と思い、語り、それがある場面では頷け、ある場面では自己満足な身勝手な考えではないかと思える、その繰り返し、移り変わりが、味わいどころと思えました。場面は違うのですが、仕事がら、離婚事件で、裁判所も(裁判官も家裁調査官も)、双方の当事者も(父も母も)、代理人も(原告代理人も被告代理人も)、言葉としては未成年子のため(業界人の言葉では「未成年子の福祉」)と口をそろえつつ違う主張を闘わせる姿を想起しました
(-_-;)
 映画では、原作にあった薫子が夫との離婚をしないままに別の男と逢瀬を繰り返す場面や江藤雪乃ちゃんを救う会に潜入する場面(これは和昌が行くことに替える)など、読んでいて薫子に心情的に反発を感じやすい(私はそういう反発があり原作の薫子に入りにくく思いました)ところを切り落とし、プール事故前に瑞穂が薫子に絵を見せて微笑む美しいシーンを追加して、薫子を屈折した底意地の悪い女からまっすぐな女に作り替え、エンターテインメントとしてわかりやすくしています。原作で感じた、薫子の行為がいかにも金持ちの自己満足という印象が薄れ、子を持つ親の多くが思う悩みのように感じられます。その点、私には、むしろ映画の方がうまいように思えました。
 公式サイトのトップにある「娘を殺したのは、私でしょうか。」というキャッチに、すごく違和感があります。原作でも感じたのですが、瑞穂は生きていると主張し、寄り添い続ける薫子が、法的評価、国のお墨付きを求める問いかけをするクライマックスは、原作者の問題意識・問題提起がそこにあるとしても、母の行動・価値観・心情としてはあまりにも不自然に思えるのです。むしろ薫子の行動の流れからは、国がどう言おうが関係ない、私は瑞穂を守る、という主張が行動の基準となるはずなのに。薫子の行動、作品の全体の中では浮いて感じられるその場面での薫子の台詞を使ったキャッチは、作品全体の印象からかけ離れ、読む者をミスリードするだけだと思います。気を引きさえすれば、かまわないという感覚でこういったものが作られているとしたら、残念です。
 自分も親として、薫子の心情を思い泣かされるだろうと予想していたのですが、むしろ、子どもたち(瑞穂や、若葉や生人)の心情に涙ぐみました。

2018年11月 4日 (日)

スマホを落としただけなのに

 恋人がスマホを落としたことを契機にさまざまな被害に遭い危険にさらされるというSNSミステリー「スマホを落としただけなのに」を見てきました。
 公開3日目日曜日、新宿ピカデリースクリーン8(157席)10時40分の上映は9割くらいの入り。

 派遣社員の稲葉麻美(北川景子)が以前の派遣先の同僚で恋人の富田誠(田中圭)に電話をしたところ知らない男が出て、富田がスマホをタクシーの中に落としたことを知り、預けて置くからと言われて指定された店でスマホを無事に回収したが、その後、富田にはクレジットカードでの身に覚えのないショッピング代金の請求や、データを破壊されたくなければ身代金をよこせというランサムウェア感染などの異常が相次ぎ、麻美はSNSでかつての上司の知人と自己紹介しているネットセキュリティ業者に連絡し、その従業員の浦野(成田凌)に富田のスマホを見てもらい対策を施してもらう。対策が済んで安心したのもつかの間、今度は、麻美に、以前の派遣先での富田の上司からの執拗な誘いやSNSアカウントの乗っ取りと身に覚えのない投稿が相次ぎ・・・というお話。

 生活・仕事上の情報をスマホに集中し、連絡や情報収集などさまざまな場面でスマホに依存することが多くなっている現状の危うさを改めて実感させる作品です。そのことは、スマホに限らず、他のものであっても、1つのものにあまりに多くを依存してしまうと、それを失ったときのダメージが大きく、同じようなことになるわけです。この作品では、スマホを落としたという設定で、しかもパスワードを誕生日にしていたためにハッキングされたという描き方なので、どこか「自己責任」的な印象があり、システム自体の脆弱性とかメーカーや通信会社等には非難が向かないように配慮されていますが、能力のあるクラッカーの手にかかれば暗証番号をわかりにくくしても、またスマホを落とさなくても、ハッキングされるリスクというのは否定できないわけで、本当はもっと現代のシステムそのもののリスクに目を向けておくべきなのだと思いますが。
 この作品の秀逸なところは、スマホを落とした本人だけではなく、その恋人に被害・危険が及ぶというところにあります。そういう点では、自分に何ら落ち度がなくても、自分自身はスマホを落としたりしなくてもリスクがあり、そういう社会なのだという警告にもなっています(でも、それを考えても、非難はスマホを落とした個人に向けられるように作られています)。

 富田のスマホを拾って富田と麻美に攻撃を仕掛ける、連続女性殺人事件の犯人が、異常に気が短いというかいらだつとすぐ気ぜわしく足踏みをし手を震わせる様子が執拗に描写され、短時間しかふつうの社会人の態度をとれない(装えもしない)という戯画的な設定となっています。犯罪者は、ふつうの人とはまったく違う異常な人物だと言いたいのでしょうけど、エンタメだし犯罪者は自分たちとはまったく違う人間だという設定で安心して見せたいのでしょうけど、安易な感じがします。
 そして、犯人が長い黒髪の女性の下腹部を執拗に刺して殺す原因が、幼い頃に母親(黒髪の女性)から「あんたなんか産まなきゃよかった」と言われたことへの恨みとされます。その母がどうしてシングルマザーになったのか(父親はどこでどうしてる?)、母親がそこに至るまでにどのような苦労をして息子を育ててきたか、どういう経緯と思いでそのような言葉を発するに至ったかは何一つ描かれません。あくまでも無責任で身勝手な母親の心ない言葉と描きたいようです。母親のみなさん、どんな事情があれ、子どもを産んだ以上は育てる義務があります、子どもに心ない言葉をかけてはいけません、そうでないと犯罪者が生まれ社会に迷惑です、そう言いたいのでしょうか。

 知人の名をかたってヤミ金融から借金を繰り返し債務が1000万円にもなったということが、重要な設定となっています。事業者(自営業者)から手形や取引先への債権(売掛債権)の譲渡証書を書かせるなどして数百万円単位の金を貸すヤミ金融はありますが、ふつうの勤労者個人にはヤミ金融はせいぜい数十万円しか貸しません。それにヤミ金融は、まぁヤミ金融自体個人なのでいろいろいるとは思いますが、貸付に際して本人だけじゃなくて勤務先はもちろん親や兄弟などの名前と連絡先などをたくさん書かせるのがふつうです。返さなかったらそういうところへも追い込みをかけるぞというのが、ヤミ金融にとっての担保になるわけです。知人であってもそういう情報はふつうさらさらと書けませんから、知人の名をかたってヤミ金融から借入をするというのは、そう簡単ではないと思うのですが。

2018年10月28日 (日)

マイ・プレシャス・リスト

 大学卒業後他人に心を開けず引きこもりがちな天才女性がセラピストの勧めで to do リストをこなしていく映画「マイ・プレシャス・リスト」を見てきました。
 公開2週目日曜日で一番小さなクラスのスクリーン8(157席)に落とした新宿ピカデリー午前9時35分の上映は、それでも2割程度の入り。

 飛び級で14歳にしてハーバード大学に入学し18歳で卒業したが、他人に心を開けず、無職で読書にふける19歳のキャリー・ピルビー(ベル・パウリー)は、ロンドンで暮らす父親(ガブリエル・バーン)が感謝祭に帰らないと連絡してきたことに腹を立て、父の友人のセラピストのペトロフ(ネイサン・レイン)に不満をぶちまける。ペトロフは、キャリーに、年末までにするべきことのリストを考えるよう助言し、従わないキャリーに自ら作ったリストを渡す。父親の紹介で、法律事務所の文書校正の仕事を始めたキャリーは、自らも元彼を追いつつキャリーに積極的なハントを勧める同僚のタラ(ヴァネッサ・ベイヤー)らに唆されながら、リストの項目を実行していき、デートをするの項目を実行するために新聞広告で婚約者がいるのに「自分の気持ちを確かめたい」などというハント広告を出しているマット(ジェイソン・リッター)に電話を入れて逢うが・・・というお話。

 公式サイトの「ストーリー」の最初に書かれているアイキャッチが「超天才だけど【コミュ力】ゼロのキャリーが6つの課題をクリアした先で出会ったものは-」。
 キャリーは、大学卒業後仕事もせず友達もなく読書にふけり(1週間で17冊)父の友人のセラピストにもほぼ一方的にまくし立てるだけという描写がなされていますが、行きつけの店で店員とはふつうにやりとりしていますし、法律事務所の仕事を始めると、下ネタが多い「変人」の同僚たちともふつうに話をしています。キャリーの方で他人に興味を持っておらずまた譲歩して合わせようという意欲に乏しいということはありますが、コミュニケーション能力を欠いているようには、私には思えません。少し不器用で、自己主張を持ち曲げない人物を、すぐ「協調性がない」と言い立て、この作品の日本版の公式サイトのように「コミュ力ゼロ」とか「コミュ障」などのレッテルを貼る(アメリカ版のサイトは、2016年の作品だということもあってか発見できませんでした。アマゾンのDVD紹介では孤独で友達がいないなどとは書かれています:Carrie finds herself isolated, friendless, dateless and  unemployed. が、キャリーの「コミュ力」の問題を指摘しているようには見えません。私の英語力の問題かも知れませんが)ような近時の日本社会の風潮にこそ、私は違和感を持ちます。

 他人との間に自ら壁を作り引きこもりがちだったキャリーが、セラピストに勧められてあまり気が進まないながらも様々な行動に出ることで変わっていくということが、見えやすいテーマではありますが、この作品のもう1つのテーマは、「セックス」です。
 キャリーが性関係について世間よりは厳しい/保守的な考えを持つことが、かなり自由奔放な性関係を志向するタラとの比較で、また婚約者がありながらガールハント広告を出すマットへの対応やペトロフの不倫を知った際の対応などを通じて描かれています。そのキャリーの価値観が度々表れ、周囲と対比されることで、その当否を考えさせられます。
 そして、後半で、ということはまぁネタバレになるわけですが、教え子である16歳のキャリーに手を出し、キャリーにある言葉を言わせようとして恥ずかしい/屈辱的とキャリーに拒否されるとキャリーに興味を失い立ち去った教授(コリン・オドナヒュー)との関係が問題となります。それを知って怒る父親に、16歳は同意があればセックスしても違法じゃない、強制されたわけじゃないと、教授をかばうキャリーの位置づけは微妙です。ハリウッドでのセクハラ・性的被害を告発する #Me Too の嵐のあとでこのような表現をどう扱う/受け止めるべきか(2016年の作品なのでアメリカでの公開は #Me Too 旋風の前ですが)、他方において若年者が自分の意思と判断でセックスすることがいけないのかというなかなかに考えさせられる問題を含んでいます。
 しかし、この作品の場合、キャリーの性関係についての厳しい考えが、教授との関係/教授に捨てられたことのトラウマに起因するということがうかがわれ、16歳のキャリーを弄んだ教授による性被害という色合いが強いように思えます。とすると、キャリーが教授をかばうような態度を、このように描いておくことに、この時期に日本で公開して無批判にやり過ごすことに、疑問を感じます。

 キャリーが後に「イン エクセルシス デオ」という言葉について言及するのを聞いたとき、これが教授がキャリーに言わせようとしてキャリーが恥ずかしくて言えないといった言葉かと思い、たぶん何かの文学作品に登場する、たぶんラテン語の、Hな言葉と思ったのですが、帰ってきて調べると、聖書の言葉(ルカ伝)でした( Gloria in excelsis Deo:いと高き処、神に栄光あれ) 。
 やっぱり文化的背景/素養がないと・・・ (^^;)

 終盤で、大晦日のカウントダウン近い夜の広場で変人の同僚から「6023の平方根」を聞かれたキャリーが即座に「75」「適当に言った」というシーン。超天才の数学力もこの程度と見るべきなのか、堅さがとれて捌けてきたと見るべきなのか。

2018年1月28日 (日)

ミッドナイト・バス

 深夜バス運転手の元妻との再会を機に生じた恋人と家族への波紋・戸惑いを描いた中高年ヒューマンドラマ「ミッドナイト・バス」を見てきました。
 (新潟での先行公開後の)全国公開2日目日曜日、全国30館東京で3館の上映館の1つ有楽町スバル座(270席)午前11時20分の上映は5~6割の入り。観客層は中高年中心。

 新潟で娘彩菜(葵わかな)と暮らす東京新潟間の夜行バスの運転手の高宮利一(原田泰造)は、東京(大森)で小料理屋「居古井」を経営する古井志穂(小西真奈美)と10年越しの交際を続けていた。白鳥が見たいという志穂を迎えるために新しいシーツや食器を用意し炊飯器をセットして、夜行バスで新潟を訪れた志穂とともに夜勤明けの利一が自宅に戻ると、就職して東京で暮らしているはずの息子怜司(七瀬公)が用意していた飯を食べ尽くし志穂のための布団に裸で寝ていた。仕事をやめ、家賃も払えなくなって東京のアパートを引き払ってきたという。気まずい思いで志穂はそのまま東京に帰ってしまう。そんなある日、利一は新潟の万代バスセンターのベンチで座り込む元妻美雪(山本未來)を見つける。新潟の実家を出てマンションに引っ越したばかりの父敬三(長塚京三)が事故で入院してしまい、実家の風通しや父の見舞いに月に1度新潟に通っているという。利一から敬三の実家の手入れや見舞いを頼まれて、怜司は文句を言いつつ手伝うが、母に捨てられたことを恨みに思う彩菜は反発する。利一は姑との対立で家を出た美雪を自宅に招き、姑の仏前で美雪の心のしこりを溶かそうとした。翌朝、朝食を摂っているところに、ビワ茶を飲みたいという敬三のために実家の庭のビワの葉を預けていた志穂がたくさんのおかずとビワ茶を持って現れて美雪と鉢合わせし・・・というお話。

 新潟で同居していた母も亡くなり息子は東京で就職し、2人住まいとなった娘も仕事をして結婚話も出ているという状況で、そろそろという思いで東京に住む10年越しの恋人を新潟の自宅に招いたところで、突然で戻ってきた息子、再会した元妻の幸せ薄い様子に、姑と妻の対立をうまく調整できず離婚に至ったという負い目が相まって生じた迷いが、恋人との関係・思いにどう影響するかが、ストーリーの軸になっています(たぶん、観客の大部分は、元妻美雪の登場で、利一と志穂の関係がどうなるのかに主たる関心を持って見続けると思います。にもかかわらず、公式サイトの「ストーリー」の最後には、その結末まで示唆されているというのが、何というか・・・)。
 原作では、志穂にあからさまにアタックしている志穂と同年代の男宇佐美をあしらう志穂の利一を妬かせようという微妙な計算が見え、また利一も宇佐美の存在故に自らが身を引いた方がという気持ちになるわけですが、映画では宇佐美は登場せず、志穂はより純情で一途に描かれています。利一も、原作では、美雪の求めに応じてHしようと試みてできなかったという場面がありますが、映画ではそれはなく、より理性的に描かれています。
 その結果、映画の中では、利一は気持ちとしては迷うことなく志穂を思い続けながら、ただ自分はもうすぐ50歳で、一回り以上年下の志穂を幸せにしてやれるかということへの理念的な迷いと自信のなさから志穂に別れを告げるということになります。確かに、今子どもを作ったらその子が成人するときには自分は70歳ということ自体は、厳然たる事実として突きつけられます。しかし、それにしても、そのことだけで、ここまでまっすぐに自分を思ってくれる恋人を、捨てることができるでしょうか。通常であれば、当然に利一の立場で見ることになる50過ぎのおっさんの私が、むしろ志穂の側でそれはあんまりだろうという方に思い入れてしまいました。

 この作品で、敬三の台詞が何度かポイントになるのですが、もう少し重く、あるいは弱々しくでいいからもっと間を取って語って欲しかったなと思います。キャラとしてももっと老人らしい方がよかったし、ほとんど間がなく高めの声で速いしゃべりのため、台詞が染みにくかったのが残念です。
 また、敬三とともに行く旅行先が、原作では、弥彦山上の温泉地で、せっかく新潟を去る前に新潟を見渡したいという敬三の希望が深い霧でうまくいかないという設定なのを、映画では佐渡島にしていて、敬三の台詞の「五里霧中」が、とってつけたようになってしまっています。撮影スケジュールから、霧が出るのを待てなかったのかもしれませんが・・・

2017年10月22日 (日)

女神の見えざる手

 凄腕ロビイストが銃擁護団体のオファーを断って銃規制法案推進に回るサスペンス映画「女神の見えざる手」を見てきました。
 封切り3日目衆議院選挙投票日の大雨の日曜日、TOHOシネマズシャンテスクリーン2(201席)午前10時の上映は7割くらいの入り。観客の年齢層は高め。

 有名なロビイストのエリザベス・スローン(ジェシカ・チャステイン)は、違法なロビー活動の疑いを受け、スパーリング上院議員(ジョン・リスゴー)の聴聞会に呼び出された。スローンは弁護士(マイケル・スタールバーグ)の指導に従い、あらゆる質問に黙秘権を行使していたが、執拗な質問に切れて答えてしまい、黙秘権を放棄したと見なされ、弁護士になじられる。
 その3か月前、スローンは、銃擁護団体から銃擁護派の女性団体を作って銃規制法案を葬り去るロビー活動を要請されて断り、上司(サム・ウォーターストン)から銃擁護団体のオファーを断るなら解雇すると言われ、チームのメンバーの多くを引き連れて銃規制法案を推進するシュミット(マーク・ストロング)の会社に移籍した。情勢は圧倒的に不利で、銃規制法案を通すには態度未定の国会議員22名中16名を味方にする必要があったが、スローンの作戦が功を奏し、勝利が近づいたかに見えたが・・・というお話。

 スローンの冷静であらゆる事態を想定した、そして冷徹な判断と、周到に準備された作戦の数々(失敗や事情変更、相手方の奇襲に応じた予備のプラン)に、驚き、感嘆し、プロの仕事ぶりを感じます。そこは素直にかっこいいと思いますし、しびれます。
 しかし、ラストの、スローンが最後に(たぶん。ひょっとしたらさらにこの裏まで用意していたかもしれませんけど)用意していた作戦は、「プロ」の仕事としては説明しにくく、スローンが何故そこまでの犠牲を払っても闘いを継続したのかに、疑問が残り、そこは今ひとつ説得力を欠くようにも思えます。
 睡眠時間を削り(そのうちに睡眠障害を生じて)薬物に依存する生活、性欲の処理はエスコートクラブから男を買って済ませるドライさ、敵を騙すにはまず味方からという冷徹さのために度々味わう孤立感など多くの犠牲を、勝利の快感のためのコストと割り切るスローンの価値観にも、なかなかついて行けないものを感じます。

2017年10月15日 (日)

愛を綴る女

 意に沿わぬ結婚をし愛を求める女の熱情を描いた映画「愛を綴る女」を見てきました。
 封切り2週目日曜日、全国7館東京で2館の上映館の1つヒューマントラストシネマ有楽町シアター1(161席)午前9時50分の上映は2~3割の入り。観客の年齢層は高め。

 南フランスのラベンダー農家の娘ガブリエル(マリオン・コティヤール)は、教師に惚れ熱烈なラブレターを渡すが突き放される。ガブリエルの奔放さを持て余した母は、ガブリエラを精神科医に診せ、雇っていた労働者のジョゼ(アレックス・ブレンデミュール)と結婚させる。ガブリエルは、ジョゼに「あなたを絶対に愛さない」と宣言、ジョゼも「俺も愛してない」と応じた。流産し、その原因が腎臓結石と診断され、医師に温泉療法を勧められたガブリエルは、逗留先で尿毒症が進んだ帰還兵のアンドレ・ソヴァージュ(ルイ・ガレル)と出会い、その病室に足繁く通い・・・というお話。

 情熱に突き動かされ奔放に行動するが、思いは満たされないガブリエルの焦燥感、渇望感と、「愛していない」と言いながら妻の行動を見守るジョゼの露わにしない献身、包み込むような愛情が描かれています。
 それをシンプルに見せるためか、原作の重要な設定である主人公(原作では名前は示されず「祖母」、映画ではガブリエル)の創作意欲、詩作と様々なことを手帖に書き込む姿、主人公と夫の奇妙な/ぎこちない夫婦生活、帰還兵の読書と新聞朗読と主人公への質問などをそぎ落としています。その結果、原作では、娼婦にやらせていたことの代わりを務めるだけの性生活、話をしても上の空で質問にまともに答えない夫への不満、他方において帰還兵は主人公の創作を理解し主人公の意見を聞きたがり尊重してくれるということから主人公が帰還兵に惹かれていったのに、映画では主人公が何故夫に心を許さず帰還兵に惹かれたのかがよくわからない、主人公の気まぐれな情動と見えてしまいます。原作でも映画でも、主人公はわがままで気まぐれなのですが、それでも自分の生き様・大切なものを理解してくれるという信条と心情が基盤になっているのと、それがない直感的なものだけというのでは、主人公の評価、主人公への共感はずいぶん変わってくるんじゃないでしょうか(映画は、主人公をより気まぐれでわがままと描いた方が「ジョゼの愛と献身」をイメージさせやすいと考えたのでしょうけど)。
 また、ラストは、原作がぼかし気味に示唆するにとどめた帰還兵と主人公の真実を、隅々まで(観客が想像をめぐらす余地がないほど)説明しています。これもまた、ジョゼの愛と献身を明確にするためですが、その分、原作にあった余韻はありません。
 総じて、原作の複雑さ、曖昧さ、登場人物の陰の部分などを排して、人物像を純粋にしてストーリーもシンプルにしていて、原作を読み終わったときの印象と映画を見終わったときの印象はかなり違う気がします。予告編で「ミレーネ・アグスのベストセラー小説『祖母の手帖』を完全映画化!」と銘打っているのですが、これだけ変えて「完全映画化!」って、どうかと思う。

 最初の方で、ガブリエルが川に入り腰まで水に浸かっているシーンがあり、スカートをたくし上げてもやっとしたアンダーヘアが見えるのが、きれいなんですが艶めかしくもあり鮮烈な印象を残します。しかし、このシーンが何をしているのかよくわからない。公式サイトの監督インタビュー(Q&A)で、監督は、「冒頭のシーンで、ガブリエルが川の水のなかに入り、スカートがめくれて水中で彼女の性器があらわになる。それこそ私が見せたかったことなの。クールベの描いた〝世界の起源〟ね。それが、この映画のテーマなの。」と答えていますが、ただマリオン・コティヤールの性器を見せたかったと?(見た印象では「性器があらわになる」という感じではないのですけど、日本版では若干カットされているのでしょうか)

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