2021年6月 6日 (日)

いのちの停車場

 救急医療の戦場のような現場から在宅医療に転身した医師の目から医療の目的は何かを問う映画「いのちの停車場」を見てきました。
 公開3週目日曜日、新宿ピカデリーシアター7(127席:販売60席)午前10時25分の上映は、7割くらいの入り。

 多重交通事故で多数の重症患者が運び込まれた救急救命センターで後回しにされていた女児の痛みを抑えるために医師資格がない事務職員野呂(松坂桃李)が点滴の針を刺したことがその母親から指摘され病院側が野呂を問責しようとするのを見て、責任を取る者が必要なら自分が当日の責任者だとして救急救命センター部長の職を辞して故郷の在宅医療(往診)を行う小さな診療所「まほろば診療所」に勤めることになった白石咲和子(吉永小百合)は、交通事故で車椅子生活となって自分が往診に出られない仙川院長(西田敏行)、看護師星野(広瀬すず)、そして白石を追ってまほろば診療所に勤めることになった野呂とともに、最先端の設備の下での緊急の生死がかかった救急救命センターの医療とは異なる素手で患者と向きあうような在宅医療に戸惑いながら、進行した癌患者たちの医療に取り組むこととなった。そして、老いた父(田中泯)から、苦痛を除去するために安楽死を求められて…というお話。

 医師の仕事が、単に目の前の患者の命を救い(死なせない)、傷病から回復させるという比較的明確な方向で進めればよいということではなく、さまざまな患者のニーズ(意思)、患者の家族の意向により左右され、さまざまな困難を抱えていることを考えさせられます。
 寝たきりで生きながらえるのでは意味がない、自分がやりたいことができないと生きている意味がないという患者、コミュニケーションが難しくなり患者の気持ちに寄り添えているのか自信を失う家族、症状を悪化させないための医師の指示と患者本人の気持ちに挟まれて悩む家族、死を目前にしてけんか別れした息子との再開を願う患者の要請を満たせずに苦しむ家族など、医療そのものではない部分で、しかし確実にある患者側のニーズにどう向きあうべきかというようなことが描かれています。たぶん、そういうことに丁寧に対応していたら、医師の方が過労で倒れ、また病院・診療所は経営していけなくなることが予想されますが…
 そして、死を目前にして苦痛のコントロールができなくなった患者からの安楽死要請という現在の日本の法制上は医師が対応できない(やってはいけない)問題についても提起されています。川崎協同病院事件を題材にした「終の信託」(朔立木、光文社)、最近やはりこの事件を題材として書かれた「善医の罪」(久坂部羊、文藝春秋)でも描かれていますが、患者からの安楽死要請が、良心的な、有能な医師を犠牲にする(医師としての職を賭し、さらには犯罪者とされることまでも覚悟する)ことになることを考えれば、薬剤による苦痛のコントロールができなくなった末期の患者が主治医に早く楽になりたいと要請することは、してはいけないことと考えるべきでしょうか。
 冒頭の、自分の行為ではなく部下の事務職員の行為でその事務職員を守るために救急救命センター部長の職を自ら辞した設定に現れる白石医師の責任感というか、何でも自分で抱え込んでしまう性格設定が、患者のさまざまなニーズへの対応と父親の安楽死問題への悩みも抱え込んでしんどくなるというか自分を追いつめてしまうこととなるあたりは、見ていてつらいものがありました。

2021年5月23日 (日)

茜色に焼かれる

 夫を交通事故で失った後苦しみながら生きるシングルマザーを描いた映画「茜色に焼かれる」を見てきました。
 公開3日目日曜日、ユーロスペース2(145席:販売73席)午前10時40分の上映は、8割くらいの入り。

 7年前、元高級官僚の老人がブレーキとアクセルを踏み間違えたとして起こした交通事故で夫田中陽一(オダギリジョー)を亡くした田中良子(尾野真千子)は、謝罪の言葉もないことに憤り賠償金も受け取らず放棄して、コロナ禍で経営していたカフェを閉め、ピンサロで体を売り、花屋でパートをしながら、中1になる息子純平(和田庵)と2人暮らしを続け、養護施設に入った義父の施設料月10万円、夫が愛人幸子(前川亜季)に産ませた娘の養育費月6万円も支払い続けていた。純平は、中学の上級生から、母親が売春し、被害者面して税金で生活しているなどとからかわれいじめられ、良子は、花屋の取引先の娘をコネで雇うために解雇を言い渡され、ピンサロの同僚ケイ(片山友希)からどうしてそんなに我慢してるのかと問われるが…というお話。

 どんなに踏みつけられても、理不尽な目に遭っても、それでも生きていくし、そうするしかない、ということなんでしょう。
 良子の選択は、それしかなかったというわけでもないですし、合理的でもありません。
 加害者が謝罪しないから賠償金を受け取らないというのは、そういう心情はあるのでしょうけれども、交通事故の場合(加害者は元高級官僚ですし、当然対人無制限の保険をかけているはずですから)賠償金を支払うのは保険会社で、受け取りを拒否しても保管会社の儲けが増えるというだけです(保険会社は、発生する事故すべてに満額の保険金を支払っても十分に利益が出るように保険料を設定して保険商品を作っているのですから、保険会社に遠慮する必要はまったくありません)。示談に応じないという姿勢を見せることで刑事事件での処分を少しでも厳しくしたいという考えだとしたら、間違っても合意書や放棄書に署名しないことです。賠償を受け取らなくてもそれでいいという文書に署名してしまえば、遺族は納得したという扱いになり、賠償を受け取らないのに刑事処分も加害者に有利になるでしょう。合意することで刑事処分を加害者に有利にしたくないのなら、むしろ損害賠償の裁判を起こして遺族は納得していないという姿勢を見せた方がいいと思います。
 周囲の男たちへの怨みでも、良子を軽く見て弄ぼうとした点で、陽一のバンド仲間の滝(芹澤興人)も良子の中学の同級生の熊木(大塚ヒロタ)と大差ないと思いますが、熊木が圧倒的に恨まれます。滝に対しては良子がその気にならなかったからということではありましょうけど。
 しかし、現実の生活、人生で人の選択は必ずしも合理的ではなく、それでも「まぁ、頑張りましょう」と生きていくということは、あるよねというそういう作品です。

 しかしながら、一般の方がこの作品を見て誤解されると困るので、弁護士としては言っておきたいことがいくつかあります。
 加害者が謝罪しないから賠償金を受け取らないというのは、ましてやピンサロで体を売るような屈辱を受けてまで受け取らないのはあまりにも不合理です。
 先に述べたように、加害者が許せないなら、示談ではなく裁判で賠償を請求すればいいことです。この作品では、人の命が3500万円などと言っていますが、ちゃんと弁護士に相談してください。事故当時、良子は主婦だったのですから、夫の死亡は「一家の支柱」の死亡で、死亡慰謝料だけで2800万円です。当時の夫の収入が少なかったとしても、(映画では夫の学歴は出てきませんが)仮に高卒として2013年の高卒男性の平均賃金が年間454万0800円、扶養家族2人だと生活費控除率が35%、30歳だと67歳まで稼働のライプニッツ係数が2020年3月31日以前の事故の場合16.711ですから、逸失利益が 454万0800円×(1-0.35)×16.711=4932万2850円になります(2020年4月1日以降の事故の場合はライプニッツ係数が22.167になり、逸失利益の計算というか一括受取額がそれに応じて高くなります)。これに葬儀費用がつきますが、それはたいしたことないとして7800万円程度にはなります(逸失利益は、事故前の現実の収入とそれまでのさまざまな事情から将来平均賃金を稼げる可能性が低ければもっと低くなりますが、年収300万円としても3200万円あまり→総額6000万円あまり、年収200万円としても2200万円弱→総額5000万円程度にはなります)。被害者は青信号の横断歩道上ですから基本的に過失割合0です。私は交通事故は専門ではありませんが、それでも弁護士ならふつうこの程度は答えられます。保険会社の担当者は素人相手に低い数字を言うかもしれませんが、弁護士が付いて裁判所に行けば、こういう数字になります。間違っても、死亡事故の賠償額がそんなものと思わないで欲しい。
 そして、私の専門の解雇の話。花屋は、良子がルール違反を犯したとして解雇を言い渡していますが、廃棄することになっている花を持ち帰った、それも何度も何度も繰り返し注意しているのに無視して繰り返しているということでもなく、注意されたらその後は料金を払って持ち帰ったとか、店の前で電話をしてはいけないというのに違反したとか、そんなもので解雇が有効になるはずがありません。闘えば勝てるはずです。
 また、解雇は2か月前にいうことになっているはずというのですが、労働基準法上の解雇予告は30日前です。もちろん、契約で労働者により有利にすることはできます(労働者により不利にすることはできません)が、そういう使用者は現実にはあまり見ませんし、法律より労働者に有利な契約をする使用者ならふつうは契約を守ると思います。さらに、解雇通告後すぐに解雇すると30日分の賃金に当たる解雇予告手当の支払義務が生じます(払わなかったら労基署に申告すれば、労基署が使用者に対して支払うよう指導します)。このケースでは、後任者をもうひとり新たに雇うのですから、結局賃金分を払うのなら、即日解雇するよりも30日勤務を続けさせて新人に仕事を教えさせる(引継をさせる)方が使用者にとって有利です。このケースで、契約上解雇予告期間が2か月に延長されていることも、使用者が即日解雇にこだわる/即日解雇をすることも、あまり現実的ではないように感じられます。

2021年5月 9日 (日)

ミナリ

 農場経営を夢見てアーカンソー州に移住した韓国系移民ジェイコブとその家族の顛末を描いた映画「ミナリ」を見てきました。
 公開8週目日曜日、うち続く映画館閉鎖「要請」の下、東京都内82館中上映継続が14館(映画.com調べ)となっている中、シネマ・ロサ2(177席:販売は半数程度。ネット予約なしにつき、正確には不明)午後1時40分の上映は、5割程度の入り。

 カリフォルニアでヒヨコの雌雄判別に従事してきた韓国系移民のジェイコブ(スティーヴン・ユァン)は、農業経営での自立を夢見てアーカンソー州に移住した。荒れ地とトレーラーハウスを見て妻のモニカ(ハン・イェリ)は、話が違う、心臓病の息子デビッド(アラン・キム)に何かあっても病院もないと抗議するが、ジェイコブは耕運機を買い、近隣の住民ポール(ウィル・パットン)を雇って荒れ地を耕して韓国野菜の栽培を始める。夫が亡くなりひとり住まいだったモニカの母スンジャ(ユン・ヨジョン)を引き取ることになり、祖母とともに寝るように言われたデビッドは反発するが…というお話。

 タイトルの「ミナリ」は韓国語で「セリ」を意味し、この作品は野に自生するセリのような庶民のたくましさを描いています(セリは、実は日本原産だそうですが)。その点では、好感を持てるのですが、その描き方には、私は、いくつか違和感を持ちました。

 韓国系移民がアメリカ南部の片田舎で奮闘するという設定(1980年代の設定だそうです)ですが、登場人物が韓国系である故に差別的な取扱や屈辱感を持つ場面は、デビッドが教会へ行きその後のパーティーで出会った白人の子どもから、どうして平たい顔なんだと言われた場面(それもその一言で、後はこだわりなく話している)を除けば、皆無といっていいでしょう。
 差別のないあるべき世界を描いているということかも知れませんし、韓国系の主人公なら差別的な取扱を描けというステレオタイプはもううんざりだと言いたいのかもしれませんが、現実には差別がないとは考えにくい状態(アメリカ南部、1980年代の設定)でそこを無視した描き方をすることには、私は、ちょっとどうかなぁと思います。

 以下、ネタバレになりますが…
 この作品のテーマは、さまざまな苦境(息子の心臓病、経済的な余裕のなさ、水の枯渇、収穫した野菜の販路がない、祖母の病等)の下での家族の関係、絆ですが、農業経験もなく、ただ韓国系住民が多数いるからニーズはあるはずだということで農業を始めた無謀なジェイコブに対して、呆れ反発する妻がジェイコブとけんかし、カリフォルニアに帰ると言いながら、結局はジェイコブと行動をともにし付き従うというストーリーに収まります。その過程でジェイコブがモニカ(妻)に対して自分の非を認める場面はありません。
 おそらくは、今どき、白人夫婦を主人公に描けば、耐え忍ぶ妻、夫に付き従う妻という設定は相当なブーイングを受けるでしょう。それが韓国系夫婦の設定であれば許される、あるいはそういうストーリーを描きたいから韓国系の夫婦の設定にするということであるとすれば、近年流行のエスニシティへの配慮というよりも、エスニシティの利用とも思えてしまいます。

2021年5月 1日 (土)

街の上で

 下北沢の古着屋の店員の青年を中心にした青春映画「街の上で」を見てきました。
 公開4週目土曜日、東京都の「要請」によりほとんどの映画館が閉館して都内の映画館82館中14館(映画.com調べ)しか上映していない映画サービスデー、ユーロスペース:ユーロライブ(178席:販売94席)午前10時40分の上映は8割くらいの入り。

 下北沢の古着屋の店番をしている荒川青(若葉竜也)は、27歳の誕生日に恋人の川瀬雪(穂志もえか)から浮気をした、別れたいといわれたが、雪を諦められず、行きつけのバーのマスターから雪に連絡するのはもう止めろ、雪が嫌がっていると言われ、鬱屈した日々を送っていた。ライブハウスで出会った女性や行きつけの古書店の店番の田辺(古川琴音)らと微妙なコミュニケーションも持ちつつ深まらずにいる荒川に、古着屋に通って荒川がずっと本を読んでいる姿を見て卒業制作の映画に出演して欲しいという女子大生高橋町子(萩原みのり)の要請に荒川は心をときめかせるが…というお話。

 何とはない日常の延長に、ふつうの人生でありそうな小さなできごと・ラブアフェアのきっかけ・エピソードを織り込みながら、書物/出版、音楽、映画などの文化や文化とのつきあいを描いて、どこかのほほんとした切なさを味わわせる作品です。
 どうして広い家に一人で住んでいるのか、一人だけ関西弁キャラなのかなど設定に謎が多い高橋のアシスタントをする学生城定イハ(中田青渚)が、ふわっとしたいい感じでした。
 どちらかというと、心をほどきつつしんみり見る映画かと思いますが、ユーロスペースにはめったに来ないので(とっても久しぶりだったのでラブホ街の真ん中で道に迷いました (-_-; )ユーロスペースの文化なのか東京都の圧力によりほとんどの映画館が閉館したためにふだんは来ない映画難民の所業なのかわかりませんが、声を上げて笑う観衆が多数いたので、寄席を見ている感じで見ました。

 荒川がフラれた後の雪への未練がましい連絡、よりを戻そうと雪に迫り続けた様子は、マスターの言葉でしか表されていませんけど、そういう行為を正当化する、そういう人を勇気づけるというのは、今どき大丈夫かなと思いました。映像ではストーカー的な場面はなく、ストーカー行為まで正当化するということではないのでしょうけれども、ストーカー行為に及ぶ人って、自分の主観ではそんなに酷いことはしていない、自分は荒川程度だよって思っている場合が少なからずあると思います。映画が優等生的に勧善懲悪的な、迷惑行為はいつも戒められるような表現である必要はないのですが、そういうことを考えると、ちょっとどうかなと思います。

 「オール下北沢ロケ」(公式サイトのイントロダクション)だそうで、下北沢の風景・風土を味わう作品でもあります。私は、下北沢に住んだりしたことはないのですが、私のサイトのモバイル新館に掲載している小説「その解雇、無効です!2」で主人公狩野麻綾の居住地を下北沢に設定し、下北沢をロケハンしたので、見覚えのある場所も登場して懐かしく見させてもらいました。

 ところで、この作品中でおまわりさんが、自分の姉が年の離れた夫と結婚してその連れ子の姪が女優で好きになってしまった、結婚したいのだけど、いとこは4親等だから結婚できるのに、姪は3親等だから結婚できないって、2回も繰り返していっています。ちょっと、ここ、弁護士としては聞き捨てならないので、いっておきます。おまわりさん、よく聞いてください。姉の夫の連れ子(義兄の娘)と結婚するのに法律上は何の問題もありません。3親等までは結婚できないというのは、血族(血が繋がっている)の場合です。姪が姉の子(実子)だったら結婚できませんが、姉の子じゃなくてその夫の連れ子なら血族じゃないから結婚するのに法律上は何の問題もありません。だから、結婚できるかどうかは、法律の問題じゃなくて、姪を魅了できるかの問題なんですよ。健闘を祈る。

2021年4月25日 (日)

SNS 少女たちの10日間

 12歳の少女を装った偽アカウントに群がり局部を曝し裸の写真や性交を求める男たちの醜態を描いたドキュメンタリー「SNS 少女たちの10日間」を見てきました。
 3度目の緊急事態宣言初日となった公開3日目日曜日、全国7館東京3館の公開館中のメイン館ヒューマントラストシネマ渋谷シアター2(173席)11時25分の上映は7割くらいの入り。予想以上に入っているのは、大規模映画館が軒並み休館して映画難民が開けている数少ない映画館に集まったおかげでしょうね。己の無策・無能を糊塗するために一つ覚えに民に「欲しがりません勝つまでは」を強いる権力者のおかげで、ふつうにやっていれば観客が分散するのに一部の映画館がかえって密になってるんだと思います。

 SNSで「オオカミたちが子どもたちと巧妙にコミュニケーションを取りながら、騙したり操ったりする全てのトリックを事細かに、かつ正確に伝え」るため(公式サイトでの監督の発言)に、12歳に見える18歳以上の女性をオーディションで集め、3名を選んで偽のアカウントで12歳として登録させ、そこに連絡を取ってきた男たちとやりとりをさせてその様子を撮影したドキュメンタリー。

 初対面の女性に対して、いきなり局部を露出してオナニーを始める中高年男性たち、物欲しげに服を脱ぐように求め裸の写真を送ってくれと言い、セックスしようと言い寄る男たち、12歳なんだけどと言われても問題ないと言って続ける男たちを次々と見せることで、まぁ見る前から予想される展開ではありますが、こういう行為・姿が相手方、第三者、覚めた目から見たら、いかに恥ずかしいかを改めて実感させる、そういう点で、成功していると思います。

 しかし、こういった犯罪の告発という場面でメディアはどういう立ち位置を取るべきか、という問題で、この作品は躓いているように、私には感じられます。
 例えば、アフリカで飢餓に倒れたり猛禽類が死んだら死体をつつこうと待ち構えていたりする場面を撮影し報じた写真家・記者をなぜ助けないのかと詰る人々がいます(私は、目の前で死にかけている人を助けない、見殺しにするというレベルのものは、やや薄情だとは思っても批判する気にはなりません。日本にいたって、例えば冬の寒い時に路上で寝ているホームレスを見て一々「大丈夫ですか」と声をかける人などほとんど見ませんし、私もそうはしません)。こういうドキュメンタリーを見ても同じようなことを言う人がいるのでしょう。この映画の制作者たちは、映画自体の中でも、このような犯罪者たちを許せないと、糾弾し、警察に映像を提供したそうです。最後にそういう説明が入り、公式サイトのイントロダクションでも「児童への性的搾取の実態を描いた映像として、チェコ警察から刑事手続きのための映像が要求された。実際の犯罪の証拠として警察を動かした大問題作がいよいよ日本公開となる」と書かれています。
 メディアは、その表現の中で不正を、犯罪を、告発することにとどまらず、制作者が犯罪を告発すべきなのでしょうか。この作品の最後の説明を見て、万引き犯を映した監視カメラ映像を公開する店主を見るような、まぁ怒る気持ちはわかるけど、また万引き犯が悪いのはそのとおりだけど、しかしどこか感じる胸くその悪さ・不快感と同じようなものを感じました。
 出演した女性たちは、いきなり局部を露出してオナニーを始める姿を見せられたり、そういう連中が多数いることを思い知らされることでそれがトラウマになったり人間不信を引き起こすということはありそうです。また合成画像ではあっても顔は本人の顔のヌード写真を送ってそれをばらまくぞと言われれば恐怖を感じるでしょうし、実際にネットにアップされれば(現にアップされたという話になっています)嫌な思いをするでしょう。そういう連中、それも相手が12歳の少女だと聞きながらそういうことをする連中を放置できないと感じるのはある程度自然な感情だとは思います。その意味で観客がそう思うのは理解できます。しかし、実際には出演した女優は全員18歳以上の成人です。そして、男性の局部を見せつけられることも、さらに言えば裸体写真を送ればいつかはそれがネットにアップされたり脅迫に使われることも、わかっていたはずで、そうだとすれば、この作品中で行われた行為は「犯罪」と言えるでしょうか。出演した女性が局部を見せられることや送った写真がネットにアップされたりそれをネタに強請られることを理解して納得してやっていたら、その予期されたことがなされた場合にそれは「犯罪」と言えるでしょうか。少なくとも監督や制作スタッフは、局部の露出や送った裸体写真がネット上アップされたり脅迫に使われることは当然に予想し、さらに言えばそれを期待していたはずです。出演女性に監督や制作スタッフがそれを十分に説明して納得させていなかったとしたら、出演女性が感じた不快感や恐怖、受けた心の傷は、直接には相手の男の行為によるものではありますが、監督や制作スタッフの責任もかなり大きいのではないでしょうか。ライオンが待つ檻にそのことを十分に説明しないで人を誘い込んだら、それ自体犯罪じゃないでしょうか。
 この作品の構造は、行為者の主観・意図は悪い(犯罪そのものではある)けれども客観的には犯罪と言えるか疑問のもの、たとえて言えば空箱の商品を並べておいてそれを万引きした者を万引き犯としてその映像をネット上公開しているような、そういう後味の悪さがあります。SNSでの悪行を告発するという目的のために、自分たちもあまりフェアとは言えないことをやっているという、そういう自己批判というか苦渋に満ちた思い、謙虚な姿勢があってしかるべきだと思うのですが、この監督や制作スタッフはそういう意識・認識はまったくないようで、行為者の主観が悪い、けしからんと憤慨して、警察に引き渡そうというのですから、義憤の空回りを感じます。
 最初に述べたように、SNSで少女に群がる大人たちの行為の第三者の目から見た恥ずかしさを実感させるという点では(そこにとどめておけば)優れたものであったとは思うのですが、それを超えたところで残念に感じてしまいました

2021年4月11日 (日)

21ブリッジ

 ニューヨーク市警の武闘派刑事が警察官を多数射殺したコカイン強盗犯を追うアクション映画「21ブリッジ」を見てきました。
 公開3日目日曜日、渋谷HUMAXシネマ(202席)午後1時15分の上映は1割足らずの入り。

 殉職した警官の父の後を継いでニューヨーク市警の刑事となったアンドレ・デイビス(チャドウィック・ボーズマン)は、9年間で8名を射殺して査問を受け、認知症気味の母と住む住まいにも早く帰れない忙しい日々を送っていた。元軍人のレイモンド(テイラー・キッチュ)とマイケル(ステファン・ジェームズ)がコカイン50kgを強奪し警官7名を射殺して逃走した事件で、署長マッケナ(J・K・シモンズ)から麻薬捜査官フランキー(シエナ・ミラー)とコンビを組んで担当するよう命じられ、犯人への復讐を示唆されたデイビスは、マンハッタン島の封鎖を提案し、午前5時までの期限付きで認められる。監視カメラ映像を駆使して犯行に使用された車両を割り出しその名義人を問い詰めて犯人を聞き出したデイビスは、監視カメラの情報で犯人の足取りを追うが…というお話。

 深く考えずにただアクションと展開のスリルを楽しむ作品です。それに没入できれば、その点では悪くないとは言えるでしょう。しかし…

 タイトルは、ブラック・ジャックとコントラクトブリッジのスリルを併せ持つカードゲーム、ではなくて、マンハッタン島にかかる橋が全部で21ということから来ているようです。21の橋すべてとトンネル、川もすべて封鎖してマンハッタン島全域を封鎖して犯人を追いつめるというアイディア、ほぼこれが売りの作品と言っていいでしょう。日本の警察映画で最高の興行成績(今のところ歴代9位)を記録している作品がレインボーブリッジ1つ封鎖するのもおっかなびっくりだったことを考えても、大胆な着想と言えるでしょう。
 しかし、アメリカではコロナ禍前の2019年11月22日からの公開初週末、FrozenⅡ(アナと雪の女王2)とぶつける勇気ある決断は実らず930万ドルで4位(ちなみにアナと雪の女王2は1億2700万ドル)と残念な成績に終わり、その後6位、7位、10位でランキングから消え去り、興行的にはハリウッド作品としては惨敗と言ってよいでしょう。
 その後2020年8月に主演のチャドウィック・ボーズマンが病死(癌だったとか)し、それを宣伝材料にして、ハリウッド大作不足の2021年の日本で公開してきたわけですが、果たしてどうなることか…

 主演は「ブラック・パンサー」の主役、制作が「アベンジャーズ エンドゲーム」のルッソ兄弟と大書されているマーベルな価値観の映画らしく、犯人射殺について尋問を受けるデイビスは、南北戦争では発砲せずに弾倉を取り替えてばかりの兵士がいたと言い、何を言うかと思ったら、次はベトナム戦争で敵を撃った兵士は3割に過ぎない、本当の兵士は3割しかいない、お前らは7割の方だと言い放ちます。現在のアメリカで、ためらわずにベトコンを射殺するのが本当の兵士だ/正義だと言いきるこのあっけらかんとした態度には驚きました。深く考えずにただアクションとその展開のスリルを楽しむ(しかない)作品ですが、そこまでの能天気さを示されると、いくらなんでもねぇと思ってしまいます。

2021年4月 4日 (日)

ノマドランド

 アメリカ西部をキャンピングカーで流浪する女性労働者を描いた映画「ノマドランド」を見てきました。
 公開2週目日曜日、グランドシネマサンシャイン池袋シアター8(79席)午前11時15分の上映は、6~7割の入り。

 夫ボーに先立たれ、勤めていた大企業が倒産してその企業城下町だった街が閉鎖されることになり、キャンピングカーで放浪しながらそこここで働くという生活を選択したファーン(フランシス・マクドーマンド)は、国立公園(清掃業務)や、厨房、アマゾンの物流センターなどで働きながら、出会った人たちと交流しては、美しい光景に感動し、姉やファーンを見初めた男からの定住の勧めを拒んで我が道を行き…というお話。

 不安定雇用に従事し、十分な蓄えはなく、ときにタイヤのパンクや車の故障に苦しみ、ひとりの夜の不安と寂しさを感じつつも、自らの意思で定住を拒み放浪を選択した者の自由と誇りを描き出すという作品で、ほぼそこに尽きると言ってよいでしょう。
 底辺労働者にも自由と誇りはある…それは見落としてはならないことで、また映画作品としてそのテーマはありなのだとは思います。
 ファーンの不安と諦念を感じさせながらも強い意志を秘めた表情が印象的で、それがこの作品のトーンを決定づけていると思います。
 老後をひとりで誇りを持って自由な生活を切り開いて行く、そういう生き方を肯定し、そういう生き方をし、またそうしたいと思う人たちに勇気を与え、力づける作品と評価することもできるかも知れません。

 しかし、ファーンは、自身が大企業に勤務していたことから見ても、社会の底辺層でもマイノリティでもなく、姉が同居を求め、ファーンを見初めた男が同居・再婚を求めていて、その気になれば定住ができるという、言わば恵まれた条件の下で、自らの意思で放浪生活を選択したものです。キャンピングカーでの放浪生活に積極的な意味を見いだすグループの会合も描かれていますが、アメリカでキャンピングカーでの生活を続ける人たちの多数派はそういう人たちなのでしょうか。
 労働者派遣法が制定されたときには「多様な働き方」がもてはやされました。かつては「フリーター」が拘束を嫌がる若者の新たな生き方だと喧伝されました。非正規労働、企業がいつでも切り捨てられる安い労働を拡大しようとする勢力は、実際にそれを求めているのは企業・経営者なのに、労働者自身がそれを求めていると言いたがるものです。現実には多数の者ができることなら回避したいが仕方なくキャンピングカーでの生活に追い込まれているのだとしたら、そのときに、一握りのそれを自己の意思で選択し自由を謳歌している恵まれた条件の人に焦点を当て強調することは、何を結果するでしょうか。
 ケン・ローチが口当たりのいい個人事業主の体裁に騙されて経済的にも時間的にもまったく余裕のない状況に追い込まれていく労働者を描く「家族を想うとき」を想起すると、アマゾンの物流センターでの労働を肯定的に描く(少なくとも過酷な労働というニュアンスはまったく感じさせずに描く)ディズニー作品を、底辺労働者やマイノリティを力づける作品だという無邪気な評価をすることには、私は抵抗を感じます。

2021年3月28日 (日)

騙し絵の牙

 大泉洋を主人公と想定して書かれた小説を大泉洋主演で映画化したエンタメ作品「騙し絵の牙」を見てきました。
 公開3日目日曜日、新宿ピカデリーシアター3(287席)午前10時5分の上映は、8割くらいの入り。

 大手出版社薫風社の社長伊庭喜之助が急死し、経営改革を推進してきた専務東松龍司(佐藤浩市)が社長となり、収益性の低い雑誌等の廃刊等のリストラが進められることになった。「小説薫風」編集部の新人編集者高野恵(松岡美優)は新人賞の応募原稿「バイバイを言うとちょっと死ぬ」を高く評価して会議で推すが、編集長江波百合子(木村佳乃)は反対し、落選となった。大物作家二階堂大作(國村隼)の作家デビュー40周年パーティーの席上、カルチャー雑誌「トリニティ」の新編集長速水輝(大泉洋)に挑発されて二階堂大作の作品の女性キャラが古すぎるから改めた方がいいと正直に指摘してしまった高野は二階堂の怒りを買い、江波編集長から販売部門への異動を命じられ腐っていた。「トリニティ」編集部員の意欲のなさに困った速水は高野に「トリニティ」への移籍を勧誘し、編集がやりたい高野はこれに応じた。速水の指示で二階堂との手打ちの会合に出た高野はワインをしこたま飲まされてベロンベロンに酔い、速水にタクシーに押し込まれたとき、「バイバイを言うとちょっと死ぬ」の原稿を落としてしまう。これを読んだ速水は、「トリニティ」で連載小説として掲載することを決め、作者とされるイケメンの矢代聖(宮澤氷魚)をクローズアップした大宣伝を打つが…というお話。

 原作を先に読んだので、原作と映画の相違点をピックアップして指摘しようと手ぐすね引いて待っていたのですが、登場人物からして違う(原作では社長は死なない、常務は出てこない、原作のキーパースンの編集局長相沢が映画では出てこない、たぶん東松がその代わり、やはり原作のキーパースンのひとりの速水の同期秋村も映画には出てこない、原作では高野の父も出てこないし、伝説の作家神座も出てこないし、「バイバイを言うとちょっと死ぬ」やその作者も出てこない。名前も速水輝也が速水輝、永島咲が城島咲に変わってますし)、人間関係も違う、ストーリーも大幅に違うし、原作から残っているエピソードも行う人物が違ったりするし、ラストも全然違うという具合に、相違点を並べる気になれないくらいでした。もうこれは、違う作品だと思います。

 ちょっと目を引いたのは、これも原作にはないエピソードですが、事件を起こして逮捕された人物の写真・原稿を差し替えるかという点への問題提起です。ドラマや映画に出演している俳優が逮捕されると放映・上映が中止になったり撮り直しになったりすることが、日本社会では非常に多いというか、それが慣例にさえなっていますが、本当に馬鹿馬鹿しいことだと思います。犯罪を犯したとしてもそれに対しては刑罰が科されるわけで、それを超えて社会から抹殺しようとすることには、私は強い反感を持ちます。そういう勢力のおかげで犯罪者の更生が妨げられることにもなります。この作品の中で、速水は次号の表紙と看板原稿に予定していた人物が逮捕されても、仮に広告が全部引き上げられても部数を増加して9割売れば黒字と計算した上で、差し替えを拒否します。速水に唆されて東松が取締役会で、犯罪への非難と作者の表現は別だ、文学はむしろ異端から生まれる、そういった発表の場を出版社は守るべきだと論じる姿は、この問題への問題提起となっています。もっとも、そういった正論は建前だけで、実際は儲かると踏んだからやっているという描き方ですから、社会の趨勢に刃向かう側を揶揄しているのかも知れませんが。
 もし、この作品の出演者が誰か逮捕されていたら、それでもこの作品がそのまま公開されたかは興味深いところです。コロナ禍を理由に公開を2回も延期した制作・営業サイドにそんな勇断は期待できそうもないですけど。

 またネットでも映像でも見ることができないもの、ここでしか手に入れられないものを売り物にするという戦略は、これからますます大切になっていくと思えます。そういう意味では、原作よりもいいラスト(正確にはラス前)と言えるでしょう。

 コメディなんですが、いちばん笑えたのが最初の方の「機関車トーマツ」の映像でした。そこがピークというのでは情けないのですが。
 ラストの接見室。制作サイドはアメリカ映画しか見ていないのでしょうか。日本では、少なくとも成人の場合、ああいう接見はあり得ません。法律監修までしなくても、ふつうのドラマでも接見室はそれなりに再現しているのに。ちょっと情けなく思いました。
 公式サイト、予告編で繰り返される「騙し合いバトル」というキャッチはミスリーディングです。予告編に登場するシーン・台詞はすべて本編にあります(予告編だけの映像ではない)が、たぶん多くの人にとっては予告編を見たときにそこから描いたイメージとは違う場面だと思います。この映画でいちばん騙されるのは、予告編を信じた自分だということが次第に実感されていくのを面白がれる余裕があるかが作品評価のポイントになるかも知れません。

2021年2月28日 (日)

あのこは貴族

 松濤の豪邸に住む富裕層の娘華子と富山から上京し苦労して生きる美紀の生き様を描いた映画「あのこは貴族」を見てきました。
 公開3日目日曜日、WHITE CINE QUINTO(108席)(松濤が舞台の映画だしやっぱり渋谷で見たい…って関係ないですけど)午前10時の上映は3割くらいの入り。

 渋谷区松濤の豪邸に住む開業医の娘榛原華子(門脇麦)は、2016年元日の家族勢揃いの祝宴で紹介する予定だった婚約者にその日に別れを告げられ、見合いやさまざまな伝手で男を紹介してもらうがいい相手が見つからずに焦っていたところに、義兄から紹介された勤務先の顧問弁護士青木幸一郎(高良健吾)と出会う。幸一郎に好意を持った華子は幸一郎とのデートを重ねるが、青木家は高い家柄で親族には政治家もいて、幸一郎もいずれ政治家となることを嘱望されていた。幸一郎と婚約した華子は幸一郎の祖父に紹介されるが、その席で祖父はあなたのことは調べさせてもらった、この話は進めていいと言い放った。2人になってから幸一郎に、調べさせてもらったってどういうことと聞いた華子に、幸一郎は、興信所だろう、ふつうだろうと平然としていた。他方で、富山から上京して慶応大学に入学した時岡美紀(水原希子)は、内部進学者の富裕エリート層との落差を感じながら勉学に励んでいたが、父親が失業して仕送りを打ち切られ、キャバクラ勤めを始めた。長らくキャバクラ勤めを続けるうちに、学生時代にノートを借りていったまま返さなかった男と再会した美紀は、その男と関係を持つが…というお話。

 金持ちの家に生まれ、豪邸で暮らし、良家の子女に囲まれて育ち、誰かの妻となり母となること以外には人生設計を描けない華子。
 名門の家に生まれ、幼稚舎から一貫して慶応、東大のロースクールを経て弁護士になったものの将来は親族の地盤を継いで政治家になることが予定されている幸一郎。
 受験勉強の末慶応大学に合格しながら実家からの仕送りが途絶えてキャバクラ勤めを続け、金に苦労し続ける美紀。
 富裕層に生まれた2人も進路に自由はなく、庶民の生まれの者も思うような人生を送れない。3者はそう思い、嘆くのですが、そうなのだろうか、と考えてしまいます。
 幸一郎は、華子に対する接し方・態度(興信所問題も含め)、愛人問題など人間的にどうよと思いますし、弁護士として見て有能にも見えず(同業者の視線ですが…弁護士業務に関するシーンはほとんどなく、祖父の遺言についてひっくり返せないかと聞かれたときに、自分の祖父で生活状況がわかっているのに、また事実関係を確認しようともせずに抽象論しか答えないというか、いやいや事実関係を確認しないままに抽象論でも答えるなよ…)、魅力を感じません。
 華子と美紀の2人の生き様を描いているのですが、それぞれのほぼ同じ出自の友人、華子の同級生でヴァイオリニストとして、生計を立てるほどには仕事がなく苦しみながらも一人で生き続ける逸子(石橋静河)、美紀と同郷の同級生で地元に戻りながら東京での起業を試みる里英(山下リオ)の方が主人公の2人よりも伸びやかで魅力的に感じられます。
 私は、あぁ逸子さんいいなぁなどと思ってしまうのですが、主要な3人よりも脇役2人の方に目が行ってしまうと、映画としてのアピール力はどうなのかなぁと思ってしまいます。

 幸一郎が「雨男」だという設定のため、雨のシーンが多いのですが、富裕層の華子が差す雨傘が、いつもビニール傘、それも最初はビニール傘でもちょっとしゃれたデザインのものでしたが、その後はすべてふつうのビニール傘なのはどうしてなんでしょう。

2021年2月14日 (日)

私は確信する

 フランスの実在の刑事事件ヴィギエ事件を題材にした法廷サスペンス「私は確信する」を見てきました。
 公開3日目日曜日、ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1(162席)午前11時30分の上映は、2~3割くらいの入り。

 2000年に発生したスザンヌ・ヴィギエの失踪をめぐり、夫ジャック・ヴィギエ(ローラン・リュカ)が殺人容疑で起訴されて2009年4月に行われた1審は無罪判決が出たヴィギエ事件で検察官が控訴し、2010年3月にその控訴審の裁判が始まろうとしていた。ヴィギエ夫婦の娘クレマンス(アルマンド・ブーランジェ)に息子フェリクスの家庭教師をしてもらっていた調理師ノラ(マリーナ・フォイス)は、腕利き弁護士デュポン=モレッティ(オリヴィエ・グルメ)にジャックの弁護を頼み込む。忙しくて受けられない、中途半端にやりたくないというモレッティは、ようやく開示された250時間分の通話記録をノラに渡し、書き起こすよう求めた。裁判の開始までに書き起こせなかったノラは、公判期日の都度、関連部分を整理した短縮バージョンやメモを作ってモレッティに渡し、モレッティはそれをその場で咀嚼して証人への尋問を続けるが…というお話。

 私が、もう長らく刑事事件をやらず、裁判員裁判は経験がなく、そしてフランスの刑事裁判制度をよく知らないためかも知れませんが、多数の謎がある映画でした。
 まず、そもそも1審が無罪なのになぜ必死になって弁護人を変えようとするのか。ふつうは、1審勝訴なら同じ弁護人に依頼するものだと思うのですが。その辺の事情はまったく説明されません。実在の事件なので1審の弁護士に何か問題があるとしても言いにくかったのかもしれませんが。
 弁護士への依頼を、被告人本人や家族ではなく、娘の知人くらいのノラがするのはなぜか。モレッティ弁護士からも、弁護士を交代させたいなら本人が来いと言われていましたが。
 このノラが、後で1審の参審員(陪審員と字幕で書かれていますが、フランスは「陪審」ではなく職業裁判官も評議に参加する参審制なので)であったことがわかります。ノラがジャックの娘クレマンスと知り合ったのが、1審判決前からなのか、1審判決後なのかは、説明がありませんでした。後者で、1審の審理を通じてジャックの無罪を確信したノラが、検察官控訴を不正義と考えてジャックの支援をする気になってクレマンスと接触したという流れならば問題ないといってよいでしょうけれど、もともとジャック(の娘)と関係がある人物が参審員として入り込んで無罪を強く主張して評議が無罪となったのだとしたら大問題でしょう。そこが説明されないのは、欲求不満が残ります。もっとも、実在の事件を題材にしているけれども、ノラについては創作らしいので、仕方ないかもしれませんが(それでも、そういう設定にする以上はそこまで考えろよとも思いますけど)。
 そして、250時間分の通話記録(通話の録音データ)です。これはどうやって録音されたのか、ジャックのさまざまな人との通話だけじゃなくて、スザンヌの愛人(不倫相手)だったデュランデ(フィリップ・ウシャン)のさまざまな人との通話もあり、誰かが任意に提出したというものとは考えにくい。すると事件後警察が関係者の通話を盗聴して録音していた記録と考えるしかないでしょう。盗聴捜査が可能になると、こんなことになるのかと、まずそこでぞっとします。
 その録音の作成の経緯はおいて、結果として生じた250時間分の録音、これ自体、弁護士にとってはぞっとするものです。およそ聞いて確認することが不可能なもの、しかし、その中に無罪の証拠が眠っている可能性があり逆に被告人に決定的に不利な証拠が眠っている可能性もあるもので、存在する以上は何らかの方法で確認する必要があるものです。弁護士の標準的な応答は、モレッティ弁護士がそう言ったように、依頼者に、書き起こしてくれということでしょう。ただ、これ、民事事件ならまず間違いなくそう言います。依頼者が書き起こさないなら、どんな録音があると言われても無視する、依頼者が書き起こす価値がないと考えるなら、書き起こす労力をかけないなら、それで宝の山を逃してもそれは依頼者のせい、で済みます。しかし、刑事事件では、なかなかそれで済ますわけにも…現実問題としては、労力的にはそうするしかないのですが…そこに良心の呵責を感じてしまうと、弁護士には過労死の道が待っているわけで、悩ましいところです。
 モレッティ弁護士、依頼者がまとめて書き起こしてくれば、それを検討して弁護方針を立て、尋問に反映させるのが当然ですが、全体がまるで見えない中で、ノラが一部だけ書き起こしてきたのを録音自体に自分で当たらずに、その場で尋問に使っていく、これ、弁護士としてはかなり怖いと思うのですが。実話を題材としており、モレッティ弁護士は現実世界で膨大な数の無罪判決を取った腕利き弁護士なので、そういう綱渡りもこなせるということかもしれませんが。
 そもそもスザンヌの死体も発見されず、スザンヌが死んだことさえ十分な立証がない中で、もっぱら、ジャックの行動が不自然で疑わしいということで検察官が有罪を主張し、弁護側が追いつめられていきます。モレッティ弁護士の最終弁論、弁護士として聞いていると、もう明らかに敗訴覚悟の弁論に聞こえます。日本の裁判や、マスコミ論調でも、被告人が「不合理な弁解」をすること自体が、有罪の証拠であるかのように扱われがちですが、フランスでもそうなのでしょうか。それは、本来、刑事裁判の原則に反するものだと思うのですが。無罪判決を多数取ったモレッティ弁護士が法相を務めているという現在のフランスの情勢なら、刑事事件がもっと原則に則ったものになるように変化させることも可能かと期待したいところです。

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