2017年3月20日 (月)

わたしは、ダニエル・ブレイク

 役所から手当受給を拒否され当惑し苦しむ心臓病で働けなくなった高齢の大工とシングルマザーの姿を描いた映画「わたしは、ダニエル・ブレイク」を見てきました。
 封切3日目月曜日・祝日、全国11館東京2館の上映館の1つヒューマントラストシネマ有楽町シアター1(162席)午前10時20分の上映は満席。

 心臓病のため医師から労働を禁止された59歳の大工ダニエル・ブレイク(デイヴ・ジョーンズ)は、支援手当の受給を申請したが、「就労可能」と判定され受給を拒否される。拒否の通知に異議を述べようとしても役所への電話はつながらず1時間48分待たされた挙句、認定人からの電話連絡の後でないと不服申立はできない、電話は認定人の手が空いたらかけるだろうと言われるだけ。憤慨して役所に行ったダニエルは、ネットで予約しないと受け付けられないとにべもなく拒否され、パソコンは使えないと言っても相手にされない。ロンドンからニューカッスルに引っ越してきたばかりで道に迷ったというシングルマザーのケイティ(ヘイリー・スクワイアーズ)を予約時間に遅れたと追い返す役人に、ダニエルは幼子を2人も連れた母を追い返すなんてひどいと抗議するが、一緒に役所から追い出される。フードバンクでの配給を受けたとき、空腹のあまりその場で棚にあった食品をむさぼり情けなくなって泣き崩れるケイティに、付き添ってきたダニエルは、あんたは悪くない、立派にやっていると励ますが、ダニエルも隣人や周囲の人々の助けを受けてパソコンから申請手続をしても、役所の壁は厚く…というお話。

 冒頭、おそらくは民間委託(アウト・ソーシング)で支援手当(日本の生活保護に相当するものと思われる)の受給要件として就労できないことの認定を担当する医師でも看護師でもない「医療専門家」が、ダニエル・ブレイクにマニュアルに沿って質問を続けるシーンが象徴的です。心臓病のために医師から働くことを禁止されたダニエル・ブレイクが、それを繰り返し述べているのに、心臓病とは関係なく、「介助なしで50m歩けるか」「手を上にあげられるか」等の一般的な質問を続け、その点数だけで機械的に判定する。ダニエルからすれば、医師から労働を禁じられているのだから、死亡/心臓病悪化のリスクを賭けるのでなければ働きようがない、それにもかかわらず手当の受給の段になると、手当を受給させないために極端に狭くされている要件(生活保護の不正受給などを言い立てるマスコミ等の連中がそれを後押ししている)を盾に「就労可能」と判定されてしまう。役所は法律(実際は役所がつくった基準)を口実に手当受給は拒否し、それを申請者側の落ち度と言い、また民間委託により責任を回避しようとする。こういった役所のやり口で、役所は手当の受給を減らし(税金は役人の給料や軍事費や銀行や電力会社の救済のような役人の目から見て有意義な使い道に回されることになる)、困っている人が、本来権利を有する手当の受給をできず貧困にあえぎ、健康を害し、またホームレスになっていく。この作品で描かれている、制度としては存在するセーフティネットが役所の都合で本来適用されるべき人に適用されない実情は、言うまでもなく、イギリスだけのことではありません。
 そして小役人、または民間人でも一定の権限を持たされた者が、弱者に対しては居丈高にふるまい権力を濫用したがるのも、普遍的な姿です。この作品ではアン(ケイト・ラッター)というダニエルの力になろうとし、ダニエルにあきらめないでと言い続けるケースワーカーと思われる職員も登場しますが、良心的な職員が少数いたとしても、組織の中でどうにもできません。
 手当を受給できず食べるものにも困り最終的には体を売ることになるケイティを、本来は助けるべき役所の代わりに励ますのが自分も手当が受給できず苦しんでいるダニエルであったり、ダニエルを最後に支援手当不支給に対する不服申立手続の専門家(弁護士と思われる)のもとに導くのがケイティというあたり、貧しい者同士の助け合う姿の美しさを感じるのですが、本来は役所がきちんとやるべきことをやっていればどちらも救われたはずなのにという思いが募ります。
 ダニエルが、自分は人間だ、犬ではないと言い、ずっと働き、税金を払ってきたしそのことを誇りに思っている、権利のはずの手当をなぜ誇りを持って/プライドを捨てずに受けることができないのかと問う姿は、りりしくも悲壮感が漂い、見ていて涙が出ます。
 こういう作品をパルムドール(最高賞)に選んだカンヌ国際映画祭の姿勢は称賛に値すると思います。

2017年3月19日 (日)

SING シング

 廃業を迫られる劇場主が再起を賭けて歌のオーディション企画に取り組むという、「ミニオンズスタッフ最新作」映画「SING シング」を見てきました。
 封切3日目日曜日、新宿ピカデリースクリーン5(157席)午後6時10分の上映は、ほぼ満席。

 父が洗車屋で稼いだ資金で劇場主となったコアラのバスター・ムーン(声:マシュー・マコノヒー)は、出資者に追加の出資を断られ、銀行に返済を迫られ、役者へのギャラも払えず、長年の友人の羊のエディ(声:ジョン・C・ライリー)にも廃業を勧められていたが、一発逆転を狙い、アマチュアの歌唱オーディションを行うことにした。賞金は全財産をはたいて1000ドルの予定だったが、秘書のトカゲのミス・クローリー(声:ガース・ジェニングス)のミスで10万ドルと印刷された大量のチラシが配布されてしまう。劇場には応募者が長蛇の列をなし、バスターは8組を選んで準備を進めるが、選ばれた者たちもそれぞれの事情があって…というお話。

 追い込まれた劇場主バスターのあがきと、選ばれた歌手のそれぞれの事情、特に25匹の子どもたちの世話に追われる日常を過ごしつつ夢を持つブタの主婦ロジータ(声:リース・ウィザースプーン)、自分より才能に欠ける俺様男の恋人との関係に悩むヤマアラシのアッシュ(声:スカーレット・ヨハンソン)、ギャングのボスの父親に盗みの手伝いをさせられて悩むゴリラのジョニー(声:タロン・エドガートン)、あがり症で人前で歌えないゾウのミーナ(声:トリー・ケリー)の物語で、見せる作品です。
 私には、ブタの主婦ロジータの、25匹の子どもたちの世話に明け暮れ、帰宅するや疲れて眠りこみロジータの様子はもちろん存在さえ把握できていない夫(この夫自身、へとへとになるまで働かされている、強欲な経営者の犠牲者だと思うのですが)との日常を抱えながら、晴れの舞台での輝き(必ずしもその日常から脱出しようというのではなく、一時の夢として)を求めるバイタリティに、最も魅力を感じました。画としては太めのブタなのですが、そのロジータに、10代のアッシュよりも魅力を感じてしまうのは、やはり私の年齢のせいか。

 オーディション等の場面で多数の歌が流れる中、きゃりーぱみゅぱみゅの歌が日本語で流れ(いずれも一瞬でしたが、公式サイトで確認すると3曲も)、レッサーパンダの5人組のアイドルグループが日本語でしゃべり(私は、「ミニハムず」(古い!(^^;))をイメージしてしまいましたが…)、と日本市場を意識した構成になっています。
 公式サイトでも「ミニオンズスタッフ最新作」が謳い文句になっていて、上映開始直前にミニオンズが登場します。独立の短編というほどではなく、今後ミニオンズの新たな作品が出るぞという広告で、そのエンドは制作会社の「 ILLUMINATION 」が「 ILLUMINATION 」になるというミニオンズの宣伝です(色が変わったところが、MINION になっている)。エンドロールの後、続編制作決定のお知らせがあり、予告編で大活躍のブタのグンターが出てきたので、続編の一部が予告編として出るのかと思ったら、それもなしですっと終わってしまいました。ディズニー/ピクサーと互角の戦いができる制作会社になるには、こういうところ、きちんと観客の期待に応える必要があると、私は思うんですが。

2017年3月12日 (日)

お嬢さん

 結婚により莫大な遺産を相続することになっている屋敷に囚われたお嬢さんを騙す計画で詐欺師と侍女が乗り込むR18+指定のミステリー映画「お嬢さん」を見てきました。
 封切2週目日曜日、全国15館東京3館の上映館の1つTOHOシネマズシャンテスクリーン2(201席)午前10時20分の上映は7割くらいの入り。R18+指定ではありますが、割と女性の観客もいました。

 1939年、日本の植民地支配下の朝鮮で、叔父上月(チョ・ジヌン)の屋敷で膨大な書物に埋もれて叔父の命で書物の朗読をして日々を過ごす秀子(キム・ミニ)が、結婚すれば莫大な財産を相続することになっており、自分が秀子と結婚して財産を手にしたあと秀子を日本の精神病院に閉じ込めて財産を自由にしようという詐欺師(ハ・ジョンウ)に誘われ、スッキ(キム・テリ)は「珠子」と名乗って秀子の侍女として屋敷に入り込み、藤原伯爵を名乗って上月に取り入った詐欺師をアシストして、秀子が詐欺師に好感を持つように仕向けようとする。しかし、一方で秀子の世話をするうちにスッキは秀子に好意を持ち、さらには思いを寄せ、ついには性的な関係を持ってしまい、心が揺れ…というお話。

 3部構成の作品の第2部まで隠していることなので、書いてしまうとネタバレではありますが、予告編でもお嬢さんと人形の疑似性交や春画が登場するのでまぁ推測がつくと思います。この作品では、叔父の下で軟禁状態のいたいけな少女(お嬢さん)が叔父と叔父の取り巻きのスケベ男たちの前で春本を朗読させられ続けているというシチュエーションが重要な意味を持っています。原作( FINGERSMITH 邦題は「荊の城」:サラ・ウォーターズ、2002年)は、ロンドン郊外の人里離れた古城が舞台ですが、これを日本支配下の朝鮮を舞台にしたのは、日本の支配層にそのような堕落を見出し/感じたということなのでしょうね。
 韓国映画ですが、日本の支配層の屋敷が舞台のため、半分近いセリフが日本語です。しかし、この日本語が、ネイティブの日本語スピーカーには片言のたどたどしさが残り、違和感があるというかどこかしらけがちです。お嬢さんが、いたいけな少女が、叔父やスケベ男たちの前でエロ本を朗読するシーンは、観客にはお嬢さんの肉声で聞かせるのがアピールすると思いますし、それは観客の母国語の方がいいと思いますが、これだと、韓国の観客は字幕で見ることになり、日本の観客は片言の日本語で、どちらも今一つに感じるんじゃないかと思いました。いたいけな少女感が、たどたどしい日本語の方がふさわしいという向きもあるかもしれませんが。

 力入れて、原作を読んで見たのですが、公式サイトの解説で「…そして、物語の幕開けから60分、我々は予想だにしなかった展開に目を見張ることとなる」とある第1部の終わり、ここは原作を読んだ時には、確かに考えてみれば相応に布石はあるのですが、驚かされましたが、さすがに原作を読んでから見ると、予定通りの展開です。しかし、むしろ原作を読んでから見た観客には、その後第2部の後半、これも予告編にありますからいいでしょうけど、お嬢さんの首つりシーンがまず驚きで、そこからは原作から大きく外れていきます。原作からの離脱が、好ましいかどうかに意見が分かれるでしょうけれど、例えばグリムのラプンツェルで王子とラプンツェルを7年間も荒野をさまよわせて苦労させなくても、と思う私のようなタイプには、この作品の展開は、原作よりも好ましく、原作を読んで重苦しく感じた読者には最も喜ばしく痛快と言えるでしょう。いやいや物語の主人公は激しく苦労しなければ(貧民層の読者でも世の中にはすごく苦労している人がいるんだ、自分はまだまだましだと思えるようでないと、読者が、救われないじゃないか!)というタイプには、原作の重厚さが失われているということになるのでしょう。
 お嬢さんとスッキの長めの濡れ場が3回あるのは、R18+の観客サービスなんでしょうね。スッキの側から見る第1部とお嬢さん側から見る第2部で2回出てくるのは一応必然でしょう(2回目も同じだけの長さで繰り返す必要があるかは…)けど、3回目は必然性はあまり…

2017年3月 5日 (日)

ラビング 愛という名前のふたり

 1967年、異人種間の婚姻を禁止したヴァージニア州法を無効とする判決を勝ち取ったラビング夫妻を描いた映画「ラビング 愛という名前のふたり」を見てきました。
 封切3日目日曜日、全国で13館東京では唯一の上映館TOHOシネマズシャンテスクリーン1(224席)午前10時の上映は6割くらいの入り。

 黒人の恋人ミルドレッド(ルース・ネッガ)から妊娠を告げられた白人のレンガ職人リチャード(ジョエル・エドガートン)は、喜んでミルドレッドに求婚し、2人はワシントンDCで結婚の手続をして、ヴァージニア州の自宅に戻った。深夜保安官(マートン・ソーカス)が2人の自宅を襲い、2人を逮捕した。ヴァージニア州では黒人と白人の結婚が禁止されていたからだ。リチャードが依頼した弁護士は司法取引(有罪答弁)を勧め、直ちにヴァージニア州を立ち去り2人一緒にはヴァージニア州に戻らないことを条件に懲役1年、執行猶予25年の判決が言い渡された。2人は、ワシントンDCのミルドレッドのいとこのうちで結婚生活を過ごすが、子どもが交通事故に遭ったことを機にミルドレッドは逮捕されてもヴァージニア州に戻りたいと言い出し…というお話。

 公民権運動のシンボルの1つとなった裁判の当事者を、リチャードは朴訥な無口で悲観的な職人、ミルドレッドは前向きで希望を捨てないが活動家ではなく夫についていくタイプの人物と描いています。ルース・ネッガの潤んだ瞳と笑顔が魅力的です。
 そういう、活動家ではない、ごく普通の庶民の裁判が歴史を動かしたという事実、言い換えれば、ほんの60年ほど前のアメリカで、普通の庶民がただ結婚したというだけで逮捕・投獄されていたという事実に、感動と驚きを覚えます。
 タイトルの「ラビング」 Loving は Love の現在分詞ではなく、2人の名前。原題は単純に " Loving " で、アメリカでは公民権運動史上の人物として通じるのですが、日本では無名のため、邦題に苦労の跡がしのばれます。

 ミルドレッドがケネディ司法長官に書いた手紙がACLU(アメリカ自由人権協会)に回され、ACLUが組織的に取り組むことになって、ACLUから指名された弁護士バーナード・コーエン(ニック・クロール)がラビング夫妻と面談します。その際、コーエンが、すでに有罪判決から5年がたっていて、控訴できないので、争うために2人でヴァージニア州に戻り再逮捕されることを提案し、リチャードから直ちに拒否されます。当事者が公民権運動の活動家で、組織として悪法の撤廃に向けた運動の活動方針を協議しているのなら、それもありでしょうけど、普通の当事者にそういうこと、言うかなぁ。その後、コーエンが、優秀な人権派弁護士フィリップ・ハーシュコプ(ジョン・バース)から憲法訴訟の経験を聞かれて、ほとんどないと答える場面、さらにはハーシュコプが、再逮捕されたらまずいぞという場面が置かれ、コーエンが経験の乏しい弁護士と評価されていますけど。
 裁判を進めながら、リチャードが、弁護士たちを評して、「ただの弁護士などあてにならん」というシーンがあります。ACLUが運動として取り組んでいるために無償とされているわけですし、ACLUが組織的に取り組んでもこう言われるのって…世間の弁護士への視線に、忸怩たる/悲しい/嘆かわしいものを感じます。

2017年2月26日 (日)

ラ・ラ・ランド

 売れないジャズピアニストと芽が出ない女優志望者の恋を描いたミュージカル映画「ラ・ラ・ランド」を見てきました。
 封切3日目日曜日、アカデミー賞発表前日、TOHOシネマズ新宿スクリーン7(407席)午前9時10分の上映はほぼ満席。

 高速道路の渋滞中にオーディションのセリフを練習し始め前の車が動いても気づかない女優志望のミア(エマ・ストーン)に対しセバスチャン(ライアン・ゴズリング)は後ろからクラクションを鳴らし続けそれでも動かないミアを追い越し、それを見たミアはセバスチャンに中指を立てる。オーディションに落ちたミアは、同じく女優志望のルームメイトたちに誘われてパーティーに出かけるが、愛車プリウスをレッカー移動され、とぼとぼと帰宅中見つけたバーに入ると、セバスチャンがピアノを演奏していた。セバスチャンの演奏が気に入ったミアが話しかけようとしたが、クリスマスソングを演奏するように言われていたのに逆らってオリジナルジャズナンバーを弾いたためにその場で支配人(J.K.シモンズ)からクビを言い渡されたセバスチャンはミアを突き飛ばして去っていった。春になりプールサイドパーティーで、セバスチャンがバンド演奏しているのを見たミアは、チャラい曲をリクエストしてセバスチャンの不興を買うが、脚本家に迫られているところを通りかかったセバスチャンに車のキーを取ってくれと頼み、2人はそのままパーティー会場を後にして丘の上の駐車場にのぼり、言い争った末ダンスを始め、意気投合する。紆余曲折の末、2人は交際を始め、ミアはオーディションに落ち続け、セバスチャンはかつてのジャズバンド仲間キース(ジョン・レジェンド)に誘われて不本意な曲の演奏を続け人気を得るが…というお話。

 基本的に、抒情というかノスタルジーの「気分」を味わう映画だと思います。
 冒頭シーンをはじめとして、カラフルなイメージを強調する作風と、エンディングは、私には、「シェルブールの雨傘」を思い起こさせましたが、この作品では、ミアはオーディションに落ち続けカフェのバイトを続けるという点では下積みの重さを感じさせますが、そのミアも後にはあっけなく成功し、セバスチャンは才能豊かで曲目・演奏のスタイルさえ妥協すればすぐに人気を博し成功する、2人の別離も生活苦や戦争のためではなく、成功のためということで、宿命とか生活や人生の重苦しさ、ましてや反戦のメッセージなど感じさせず、共通点は、抒情と悲恋のイメージのカラフルさにこだわったミュージカルだという点に尽きるように思えます。
 夕闇を背景にした駐車場でのダンス(ポスターに使われているシーン)に次ぐ見せ場のプラネタリウムでの空中ダンスは、私にはシャガールの絵をイメージさせます。そして、ラストのセバスチャンの表情にすべてが集約され、後々までその印象が胸に残ります。いろいろな点で視覚的な/絵的な印象の強い作品です。

2017年2月21日 (火)

湯を沸かすほどの熱い愛

 夫が失踪して休業中の銭湯の女将が末期がんと宣告された後の生きる意志を描いた映画「湯を沸かすほどの熱い愛」を見てきました。
 封切17週目(!)日曜日、新宿ピカデリースクリーン5(157席)午後7時25分の上映は、6~7割の入り。

 夫(オダギリジョー)がパチンコに行くと言ったまま失踪したため家業の銭湯「幸の湯」を休業しパートで働く幸野双葉(宮沢りえ)は、高校で同級生から陰湿ないじめを受けめげている幸野安澄(杉咲花)と二人で暮らしていたが、ある日、勤務先で倒れ、医師から末期がんで余命幾ばくもないと宣告される。さすがに落ち込んで銭湯の浴槽でうちひしがれていた双葉は、安澄からおなかすいたと電話で呼ばれ、わかった超特急で帰ってカレーつくると言い、安澄から少し待てるから急がないで気をつけて帰ってきてと言われて和む。探偵(駿河太郎)に夫の居場所を探させて乗り込んだ双葉は、同棲していた女に9歳の娘鮎子(伊東蒼)を残して逃げられきまり悪げにする夫を見て、末期がんの事実を伝える。夫と鮎子を迎え入れ、銭湯の営業を再開した双葉は、安澄と鮎子を連れて旅に出て…というお話。

 自分が末期がんで余命幾ばくもないとわかったとき、残り少ない月日をどう過ごすか。映画や小説の世界では、自分がやりたかったがやれなかった/あきらめていた娯楽や冒険の類にチャレンジするという選択と、これまでの日常通りに過ごすという選択が多く、私自身が直面すればたぶん後者の道を歩むと思います。
 この作品では、双葉は、残される家族のために、これまでできなかったことをやり遂げようとします。重荷を負い、家族を精神的に支え、耐え忍んで生きている庶民には、そういう人が意外に多いかもしれない、とは思いますが、双葉の境遇・人生に思いを致すと、うん、偉い、りえちゃん、偉いけど、そんなに頑張らなくていいんだよ、と胸が詰まります。生きている間の双葉の苦しそうな力の入ったややゆがんだ表情と、安らかでこぎれいな死に顔の対比が、最後に胸を打ちます。
 頑張り通す双葉、陰湿ないじめに耐え/立ち向かう安澄、母に捨てられた悲しみをこらえ新たな環境を受け入れようと努める鮎子の3人の女の悲しみと懸命さに対し、どこまで行っても何が起こっても約束したことを守れないへらへらしたオダギリジョーの軽さ。この軽さが、3人の女たちの生きづらさ・ひたむきさを浮かび上がらせているのですから、作品の中では名演なのでしょうけれども、現実世界でこういう事例を見たら、どうしてこういうどうしようもない男が…と思うでしょうね。
 かなり計算された構成で、多数の布石が打たれて回収され、ほとんどのシーンが後であぁこのための布石だったのかと思わされます。
 日本アカデミー賞優秀作品賞総なめを狙って(あとの4作品はもう見ていたので)見に行った感じですが、予想したよりもよかったなと思いました。

2017年2月12日 (日)

未来を花束にして

 1910年代のイギリスでの女性参政権運動を担った女性たちを描いた映画「未来を花束にして」を見てきました。
 封切3週目日曜日、メイン上映館のTOHOシネマズシャンテスクリーン2(201席)午前10時の上映は2割足らずの入り。

 1912年のロンドン、洗濯工場で生まれ父は不明(たぶん工場長かと)母は4歳の時に死に、自らは7歳からパートで働き12歳で正社員となり今は24歳の洗濯工場労働者モード・ワッツ(キャリー・マリガン)は、洗濯物の配達の途中、ショー・ウィンドウに投石し女性参政権を叫ぶ活動家に遭遇し、女性参政権運動を知る。同じ職場に入ってきた活動家のバイオレット・ミラー(アンヌ=マリー・ダフ)に誘われて国会の公聴会での証言を傍聴に行ったモードは突然代わりに自らが証言することになり、聞かれるままに自らの生い立ちと境遇、労働の実情を語る。モードの証言は聴衆の心を打ったが、議会は結局女性参政権を認めなかった。それに抗議する集会に警察が介入し、参加者たちは警官に殴り倒され、モードも逮捕される。釈放されたモードは、難詰する夫サニー(ベン・ウィショー)にもう二度としないと誓うが、女性参政権運動のリーダーエメリン・パンクハースト(メリル・ストリープ)が演説すると聞いて集会に参加し…というお話。

 参政権以前に、強欲な経営者に劣悪な労働条件の下で労働を強いられ、悪辣な職制(工場長)に虐げられ続ける労働者の境遇に涙し、その労働者が立ち上がるというストーリーに共感します。
 薄幸の女性労働者が、能弁に論じるのではなく、言葉少なに憂い/悲しみをたたえた眼で耐え、決意し前進する様子を、キャリー・マリガンが好演しています。私は、「わたしを離さないで」で初めてキャリー・マリガンを見て、諦念と悟りと哀しみに満ちた瞳と表情のすばらしさに感銘を受けたのですが、キャリー・マリガンは、こういう役がはまり役だと思います。
 女性参政権のために立ち上がれと演説するメリル・ストリープも、2017年1月8日のゴールデン・グローブ賞授賞式でのトランプ批判スピーチを彷彿とさせ(現実の順番はこの作品の収録が先ですが)、はまり役と見えますが…

 エメリン・パンクハーストが投石等の実力行使を指示し、モードたちはポストや大臣の別荘を爆破し、女性参政権を求める者たちの存在をアピールするために破壊活動を行います。今、こういった破壊活動を/爆弾闘争を伴う運動の正当性を主張する映画がつくられることに、驚きました。
 モードたちの活動は、かつて、のちに連合赤軍の一翼となる「革命左派」が行っていた米軍基地に爆弾を仕掛け、それを通じて米軍基地の問題性をアピールしようという「反米愛国」(これが左翼/極左グループのスローガンだったことにも驚きますが)のプロパガンダ闘争とも共通性を持ちます。日本においても、そのような(被害者が出ない)爆弾闘争に相応の共感を示すメディアと民衆がおり、そのメンバーが(交番を襲って、ですが)射殺された葬儀にはかなりの参列者があり警察に批判的な報道がなされた、そういう時代があったのです。思えば、私たちはそこから随分と離れた時代と雰囲気の中にいます。他国では、「テロとの戦争」を絶叫し米軍と「同盟国」軍以外の実力行使を「テロリスト」と名付けて絶対悪視する権力とメディアの風潮の中でも、虐げられた者たちの抵抗の正当性を見ようとする流れもあるということを認識し、時代に流され変容した日本の世論の過去に思いをはせる、そういった契機を与えてくれる作品ともいえるかもしれません。

 エンドロールで、各国での女性参政権の実現の年が紹介されていますが、そこに日本は登場しません。日本の女性参政権(立法は1945年、行使は1946年)は運動で勝ち取ったものではないと評価されたからでしょうか。

2017年2月 5日 (日)

スノーデン

 アメリカ政府が一般人のメールやSNSなど非公開情報を収集し監視していることを暴露したNSA職員エドワード・スノーデンが内部告発をするに至った経緯を描いた映画「スノーデン」を見てきました。
 封切2週目日曜日、TOHOシネマズ新宿スクリーン3(128席)午後0時30分の上映はほぼ満席。

 9.11テロに衝撃を受けて軍に入隊したエドワード・スノーデン(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)は、特殊部隊での訓練の過程で両足を骨折し、除隊を強いられる。CIAの採用試験を受けて合格したスノーデンは、コンピュータの知識を生かし、訓練センターで抜群の成績を残し、指導教官コービン・オブライアン(リス・エヴァンス)に高く評価された。その頃、スノーデンは、交流サイトで知り合ったリベラルなダンサーのリンゼイ・ミルズ(シャイリーン・ウッドリー)と、政治信条では対立しながらも交際を始めた。スノーデンは予期していたイラクではなく国連のアメリカ代表部に派遣され、そこで有力者をCIAの協力者に仕立てるために、有力者の親族のメールやSNSを覗き込み、パソコンのカメラを遠隔操作して私生活を覗き、弱点を嗅ぎまわって義妹の恋人が不法滞在であることを見つけて強制送還させたり、有力者本人を飲酒させて飲酒運転をせざるを得ない状況に追い込んだうえで通報して逮捕させてその後便宜を図って恩を売るなどの策略に加担させられ、嫌気がさしてCIAを辞職する。バラク・オバマの大統領就任を受け、スノーデンは、民間企業から改めてCIAに派遣されるが…というお話。

 「テロとの戦い」の場面でも、無人機からピンポイントで「テロリスト」を攻撃するにあたって、特定の携帯電話(からの電波)を標的にしているという説明に対して、スノーデンが、その携帯電話を持っているのが別の人物でないという保証は、と聞き、それは地上部隊が確認していると答えるシーン、それに引き続き、自動車がその前に立っていた人物3人と対向車ともども攻撃されるシーンがあります。「テロリスト」を殺害するために(そもそもテロリストなら裁判手続も取らずに殺害してよいという考え自体、その正当性には強い疑問がありますが)、罪もない民間人が多少犠牲になってもかまわないという傲慢な姿勢が鼻につきます。
 そして、「テロとの戦い」を(内部的な)大義名分として極秘裏に行われるインターネットの監視が、CIAが民間人の有力者の弱みを探して協力者に仕立て上げるために、テロなどまったく関係ない有力者の親族のメールやSNSを覗き込み、異性関係を把握したり、コンピュータのカメラを遠隔操作して私生活を覗くといったことに使われている実情。権力は権力であるがゆえに腐敗するということを地で行くような担当者たちの腐敗堕落ぶりに吐き気を覚えます。「テロとの戦い」とか「安全保障」とかのために(果ては、オリンピック開催のためとか:あきれ果てますけど)権力者の権限を拡大させることは、このような権力の乱用、市民の生活への監視へとつながっていくものと考えておく必要があるでしょう。
 スノーデンが、自ら担当した業務で、横田基地勤務の際に、日本がアメリカの同盟国でなくなったときには日本が壊滅するように、電源供給やコンピュータシステムの隅々にマルウェア(悪意のあるプログラム:コンピュータ・ウィルス)を仕掛けたとされています。このような仕打ちを受けても、抗議ひとつせず、首都を1時間程度で制圧できるような場所に広大な基地を供与し続け、あまつさえ自ら米軍の駐留をお願いし、沖縄の人々に多大な犠牲を強いて我が国の美しい海と貴重な生態系を破壊してまで米軍基地を造って提供しようという権力者は、言葉の本来の意味での「売国奴」そのものだとしか、私には思えないのですが…

2017年1月22日 (日)

僕らのごはんは明日で待ってる

 瀬尾まいこの青春恋愛小説をジャニーズアイドル主演で映画化した映画「僕らのごはんは明日で待ってる」を見てきました。
 封切3週目日曜日、公開初週末・2週目ともにベスト10にも入れない大コケをにらんででしょう、封切16日目の日曜日にしてミニシアターレベルの一番小さなスクリーンで1日1回だけの上映にまで落としたTOHOシネマズ新宿のスクリーン12(73席)午前10時50分の上映は、意外にも満席。観客の圧倒的多数は若い女性の2人連れ・3人連れ。満席の客席に男性客は数人レベル。男性1人客もいることはいましたが、この会場に男性1人で入るのは度胸がいるかなと…

 兄が病死してから孤独にたそがれていた高校生葉山亮太(中島裕翔)は、同級生の上村小春(新木優子)から体育祭で米袋ジャンプでコンビを組み1位になったのを機に告白される。不器用にすれ違いを見せつつも、2人は交際を始め、葉山は大学では誰にでも講義ノートを貸したためにとんでもなく心が広い奴と噂され「イエス・キリスト」と呼ばれるようになり、2年後には上村は短大を卒業して保育士になり、翌年葉山も就職が内定した。2人の関係は順調に見えたが、ある日、ファミレスで食事中、上村が突然別れを切り出し、葉山はまったく理解できず困惑し…というお話。

 原作を読んでから映画を見ると、使われているセリフはほぼ原作どおりで、特に前半は、(細かくいえば、原作では米袋ジャンプを含む「ミラクルリレー」は得点に入らないのに映画ではそのリレーを受けて「総合優勝!」ってコールされてるとか、上村の「ヒミツ」が原作で「おばあちゃんを裏切って父親が誰か調べようとしたこと」が映画では「静電気が苦手なこと」に変えられてるとか、上村が葉山に別れを告げた時に原作ではハンバーグを残して去るのに映画では持ち帰りするとか…)カーネル・サンダース関係のエピソード(握手も含め)が映画独自に追加されていることや上村のおじいさんが勝手に殺されていることを除けば、かなり原作に忠実に作られていると感じられます。
 しかし、牛乳を買う日や子どもの名前が上村が別れを切り出す前に出てくるあたりから「あれっ?」と思うのですが、後半になり、ストーリーも作品の軸というかテーマというか上村のキャラ設定の根幹にかかわるところまでもが、原作とは違ってきます。もっとも、登場するエピソードやセリフはほとんどが原作にあるもので、ことがらの順番を入れ替えるとここまで意味を変えられるのかと感心します。
 原作では、上村は、わかりにくく我が道を行く(他人に合わせようとしない)気まぐれで扱いにくいキャラで、葉山が別れを宣言されて納得できないのも当然ですし、読者にあえて理解を求めていないと思います。それに対して、映画は、公式サイトのキャッチで「彼女には、好きだからこそ言えない、ある秘密があった」と整理されてしまうように、ものすごくわかりやすい話に変更されています。映画の方が、わかりやすいし、「うるきゅん」しやすいし、上村のキャラも実はいいやつで純愛/殉愛の美談にふさわしいものと受け取られて好感をもたれることになります。それもこの作品の1つの解釈なのかもしれません。しかし、原作は、上村の尖がった拗ねたはずれたキャラでもそのまま丸ごと受け止める、生きたいようにあるがままにいていいんだよという、よりフレキシブルな許容性を持ったものだと思うのです。わかりやすい美談にすることで失われるものも多いように感じました。

 予告編でも使われているクライマックスの葉山がカーネル・サンダース像を抱えて走るシーン。原作には影も形もないシーンですが、私の世代のおじさんは、つい川沿いの道を走る(橋を渡る)場面では、そのまま川にダイブ!(よい子はマネしないように!)と期待してしまうと思います。そういう世代のおじさんは見ない映画だと思いますが…
 終盤登場する山崎さん(片桐はいり)も後半の設定が全く違うためにセリフも原作とだいぶ変わりますが、少ない登場シーンでいい味を出しています。山崎さんへのプレゼントが、原作ではわざわざ「大きな瓶のふりかけは明日も明後日も同じ味だが」たくさんの種類なら「明日のご飯はどれをかけようか楽しみになるね」と書いているのに、映画では大きな瓶のふりかけ1つというのは、どうかと思いますが。

2017年1月15日 (日)

ブラック・ファイル 野心の代償

 巨大製薬会社の治験データねつ造の証拠を不正に入手した若手弁護士の野心の行方を描いたサスペンス映画「ブラック・ファイル 野心の代償」を見てきました。
 封切2週目日曜日、全国10館東京で2館の上映館の1つ新宿ピカデリースクリーン9(127席)午前11時5分の上映は6割くらいの入り。

 公選弁護人事務所で勝訴を続けニュー・オーリンズの名門事務所に移籍し、ハードな残業をこなしながら11連勝していた若手弁護士のベン・ケイヒル(ジョシュ・デュアメル)は、病院勤めの妻シャーロット(アリス・イヴ)と流産以来すれ違いの日々を送っていた。元カノのエミリー(マリン・アッカーマン)からSNSで友達申請があり、妻とのデートの約束も忘れて10年ぶりにエミリーと会ったベンは、エミリーが偽名で暮らす隠れ家で愛人のピアソン製薬CEOアーサー・デニング(アンソニー・ホプキンス)のパソコンから抜き取った新薬の治験データをねつ造した決定的証拠となるファイルを受け取る。ベンは事務所の代表弁護士チャールズ・エイブラムス(アル・パチーノ)に、内部資料の入手を報告し、アーサーに対する訴訟提起を提案した。チャールズは、ベンに自分の価格を書いて見ろと、そのファイルを購入してベテランの弁護士に訴訟を遂行させようとしたが、ベンは自分をその主任にすることを求め、チャールズは渋々それを認めた。ベンはシャーロットと出かけたパブで謎の男(イ・ビョンホン)から訴訟から手を引かないと妻の笑顔を見るのは今日が最後になると脅され、アーサーの元には「12時間後にこの女を殺す」というエミリーの顔写真付きのメッセージが届き…というお話。

 新人弁護士のベンとベテラン弁護士のチャールズの言動に、弁護士のあり方、一般人が弁護士に対して持つイメージを考えさせられます。
 ベンは、「正義のためなら手を汚す」ことも辞さないという姿勢を度々示し強調しています。ここには2つの疑問があります。一般的に言って、弁護士は、「正義のためなら手を汚す」べきでしょうか。訴訟においては、ルールに従って訴訟行為を行うことが求められ予定されていて、弁護士は「ルールに従って勝つ」ことが求められているはずです。訴訟外の交渉においても、法律家として登場する以上、同様だと思います。世間一般では弁護士がルールに違反して手を汚して勝つことは期待されていないはずですし、そのようなやり方で勝訴しても尊敬を勝ち得ることはないと思います。依頼者の中にはそのような手を使っても勝ってほしいと考える者もいるかもしれませんが、それが正当な期待であるとはいえませんし、弁護士はそのような者の期待に応えるべきではないと思います。また、訴訟において弁護士がどのようにしてどこまでの証拠収集をすることが期待されるべきでしょうか。証拠は基本的には依頼者が所持しているか、そうでなければ訴訟手続を通じて入手するものです。それを超えて弁護士が独自に証拠を入手するということは現実的ではありません。リーガルミステリーでは、弁護士が調査員(しばしば元捜査関係者や私立探偵)を通じてまったく独自に証拠を入手するという設定が多く、この作品でも、ベンはハッカーの知人を通じて不正に証拠を入手しています。このようなことが期待されていると、弁護士が自ら「手を汚して」不正な方法で証拠を入手するという役割まで求められることになりかねませんが、それは誤った期待だと思います。
 チャールズは、真実よりもどう見えるかが大事だと語ります。民事訴訟の目的/役割/機能は、「真相の解明」ではなくその紛争/事件の適正な解決であること、いくら真実はこうだと叫んでもそれを立証(証明)できなければ裁判に勝てないということは、法律実務家であれば、誰しも認めるところです。それを超えて、裁判の目的が純然たる真相の解明にあるとか、証拠の裏付けのない自分にとっての「真実」(悪くいえば自分に都合のいい「真実」)が認められない限り「正義に反する」と言われても、困ります。しかし、同時に、弁護士が真実がどうでもいいと思っているわけではなく、証拠から見て通常の第三者の目からは真実と評価できる事実関係に基づいた適正な解決を目指しているものです。チャールズの言葉は誤解を招きやすいもので、不適切に感じます。

 サスペンス/ミステリー映画らしく、いくつかのどんでん返しがあり、そういう点では楽しめます。
 イ・ビョンホンの役割/パフォーマンスについては評価が分かれそうです。暗く不気味な雰囲気をよく演じていたと、イ・ビョンホンファンは評価するのでしょうし、非現実的で浮いていたという評価も可能でしょう。
 「戦慄のラストがあなたの人生も狂わせる」というキャッチ。う~ん。リーガルミステリーファンにはどこかで見たような感じがするラストのような…(どの作品とまで言うとネタバレなので…)。

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