2020年9月20日 (日)

TENET テネット

 時間の流れを逆行して未来から来る人類滅亡の危機を阻止すべく主人公が奮闘するSFアクション映画「TENET テネット」見てきました。
 公開3日目日曜日、新宿ピカデリーシアター3(287席/販売135席)は、販売部分で見ると9割くらいの入り。コロナ後初めてと言っていいハリウッド超大作に観客の期待が集まりました。

 満員のキエフのオペラハウスを襲ったテロ事件の際に特殊部隊の装いで突入した主人公(名前は示されない:ジョン・デイビッド・ワシントン)は、テロリストに拘束されて拷問されるが仲間を売らずに服毒し、気がつくと船上で、キーワードはTENETというだけの特殊任務を告げられた。連れられて訪問した研究所で研究員バーバラ(クレマンス・ポエジー)から未来から送られてきた物質と時間を逆行する弾丸を示され、任務は第三次世界大戦を防ぐことと伝えられた主人公は、仲間となったニール(ロバート・パティンソン)とともに、弾丸の出所を追って忍び込んだ富豪の家で実権を握る妻プリヤ(ディンプル・カパディア)からプルトニウムを狙う武器商人セイター(ケネス・ブラナー)が鍵を握ると知らされ、セイターと接触するためにその妻キャット(エリザベス・デビッキ)に近づく。美術鑑定士であるキャットが愛人と疑われる男の贋作を本物と偽ってセイターに高額で買わせていたことを掴んだ主人公は、キャットの関心を惹くためにセイターがその贋作を保管している空港の保税地域(未通関地域)内の倉庫に航空機を突入させて火事を起こして贋作を消失させようとしたが、そこで未来から逆行してきた男と格闘するハメになり…というお話。

 非常にゴージャスな映像作品であることはわかる(本当にジャンボ機1機燃やしたらしい)のですが、見ていてわかりにくい作品です。
 通常のタイムトラベルものでは、未来から来た者は、登場してからは他の人物と同様に時間に沿って行動するのですが、この作品では、時間を逆行する者が度々登場します。しかも、挟み撃ち作戦ということで、未来からやってきた者がある者は時間に沿って(順行で)動き、ある者は時間に逆行して動くという場面があります。時間を逆行する場面では、車の進行や地雷の爆発、銃弾の発砲等が逆回しになり、その中で人は通常の動きをしたりして、斬新な映像ではありますが、やや気持ち悪く思えます。
 そもそもタイムトラベル、時間の逆行ということ自体が(量子レベルの議論はさておいて、人間の生活レベルでは)非現実的な設定ですが、そこを置くとして、時間を逆行する者と順行する者が併存するとき、両者の間に会話や格闘その他のコミュニケーションが可能でしょうか。逆行する者が発した言葉は順行する者の耳には逆さに聞こえるはず(逆行する者が後に発した音声が、順行する者のより前の時間の時に届く)ですから、逆さにしゃべらないと会話が成り立たないはずなんですが。

 主人公のミッションは、第三次世界大戦を防ぐことだったはずなのですが、その危機は、いつのまにか、一個人の怨念・信念、一個人の生死が鍵を握ることになってしまいます。その点も、ストーリー展開として、竜頭蛇尾というか、肩透かしっぽく感じてしまいます。

 見ていて疑問に思ったのは、冒頭のオペラハウスのテロの際、主人公がいかなる立ち位置で何を目的に突入したのかです。
 公式サイトのSTORYでは、「特殊部隊が館内に突入する。部隊に参加していた名もなき男」と紹介されてます。主人公はどこの国の特殊部隊に所属していたのでしょうか。ウクライナ政府でしょうか。待機していた車両中で、駆けつけた他の特殊車両のマークに合わせたワッペンを配って付けていたところからすると、政府の特殊部隊を偽装した部隊と見えます。また、「アメリカ人を起こせ」という発言があったことからして、CIA等のアメリカ政府のものでもないと思われます。そして、主人公は、合い言葉をやりとりし、何かを探している様子があり、後で登場するものに似た四角い金属ケースも登場していました。また、単に対テロ制圧のために突入したのであれば、拷問されて聞き出される秘密もないでしょう。最初の方で記憶がはっきりしない部分が多いのですが、私には、主人公は最初の時点から特殊な任務、たぶん後で従事することになっている任務にすでに従事していたのではないかと思えてしまうのです。勘違いかも知れませんが、ふつうに解説されている以上にあれこれ入れ子構造がある複雑な話なのかなと感じます。


2020年9月 6日 (日)

ブックスマート

 勉強一筋できた優等生2人が卒業直前に遊ばなかった高校生活を取り戻そうとパーティーに乗り込む青春コメディ映画「ブックスマート」を見てきました。
 公開3週目日曜日、新宿ピカデリースクリーン6(232席/販売112席)午前11時15分の上映は60~70人くらいの入り。

 イェール大学入学を決め最年少最高裁判事を目指す生徒会長のモリー(ビーニー・フェルドスタイン)とコロンビア大学入学を決めボツワナでタンポンを作るボランティアに従事する計画をしている親友のエイミー(ケイトリン・デヴァー)は、高校生活を学業一筋で過ごしてきたが、卒業前日、遊び暮らしていた同級生たちもイェールやスタンフォード、ハーバードに進学したり、グーグルへの就職が決まっていることを知り、遊ばなかった高校生活を後悔して一夜でそれを取り戻そうと、クラスメイトが企画するパーティーに参加しようとするが、その場所がわからず、違うパーティーに紛れ込んだりして悪戦苦闘の末、パーティー会場にたどり着くが、2人が目指す相手は別の人とキスしていて…というお話。

 多様性・多面性がテーマです。この作品の新しさは、それを声高に強調することなく、当たり前の、当然にあるものとして描いているところにあると思います。
 主人公の「ウザい」生徒会長モリーは肥満体、親友のエイミーはレズビアンでそれを2年前にカミングアウトしたという設定ですが、その点について劣等感や後ろめたい思いを持っていません。パーティーに乗り込むとことを決めて着替えた2人はお互いに最高・完璧と誉め讃え、エイミーの両親(リサ・クドロー、ウィル・フォーテ)は、エイミーの恋人はモリーだと誤解しつつモリーがエイミーを泊まりがけで連れ出すことを容認しています。
 モリーの冒険の動機となったように、遊びほうけていたように見える級友たちは有名大学への進学を決めており、勉強をしなかったのではなく、勉強以外もしていたんだと言います。モリーがそれを聞いたトイレ自体、この高校では男女共用です。
 校長(ジェイソン・サダイキス)はタクシー運転手のバイトをしていますし、担任の教師(ジェシカ・ウィリアムズ)も車にたくさんのドレスを積んで、夜は別の顔を持つことを示唆しています。
 同級生から遊んでいると見られているトリプルAことアナベル(モリー・ゴードン)は勝手に流れた噂に悩んでいますし、ちゃらんぽらんな男と見られていたニック(メイソン・グッディング)は予告なくパーティーに乱入してきたモリーを歓迎しモリーがまじめな話をするのに耳を傾けます。

 終盤で重要な役割を果たすホープ(ダイアナ・シルヴァース)ですが、私が見落としただけなんだろうとは思いますが、序盤の高校生活の日常なりその後のパーティー等で印象がありません。終盤との対比の関係で、序盤で印象づけておいて欲しかったと思います。

 モリーとエイミーの会話を中心に下ネタというかきわどいトークが多いので、まだHしてないカップルで見るのはちょっときついかも知れません。

2020年8月30日 (日)

青くて痛くて脆い

 サークルを離脱した学生がサークルの「変質」に憤り潰そうとするという青春サスペンス映画「青くて痛くて脆い」を見てきました。
 公開3日目日曜日、新宿ピカデリーシアター6(232席/販売112席)午前11時25分の上映は、70人くらいの入り。観客の多数派は1人客、次いで女性の2~3人組、カップルが数組というところ。

 大学の授業で質問と言って「この世界に暴力はいらない」「みんなが武器を捨てれば戦争はやめられる」などの意見を繰り返す秋好寿乃(杉咲花)から声をかけられて行動を共にするようになった田端楓(吉沢亮)は、いろいろなサークルに顔を出しては雰囲気が違うという秋好と2人で「秘密結社」モアイを立ち上げる。「世界を変える」「なりたい自分になる」ことを掲げて、秋好と田端はフリースクールでの慰問等のボランティア活動を続けるが、秋好の活動を評価して近寄ってきた院生脇坂(柄本佑)のサポートでモアイのメンバーが増え、さらに秋好と脇坂が付き合い始めたことを知り、田端はモアイを去った。3年後、就活を続け内定を取った田端は、友人の前川董介(岡山天音)に、就活サークルとして巨大化したモアイはもともと自分と友人が作ったが、その友人は死に、モアイは変質した、モアイを潰して元のモアイを取り返したいと言い、前川の後輩のポンちゃん(松本穂香)を利用してモアイの内情を偵察し始めるが…というお話。

 「人に不用意に近づきすぎないこと」「誰かの意見に反する意見をできるだけ口に出さないこと」を人生のテーマにし、自分から誰かを不快にさせる機会を減らし、不快になった誰かから自分が傷つけられる機会を減らしたいという行動原理をとっているという自己認識の田端楓が、当初は自分にちやほやしてくれつきまとってくれていた秋好がかまってくれなくなると拗ねてサークルを離脱した挙げ句、自分の手を離れて相手が大きくなったことが気に入らないと陰湿な攻撃を試みるという、本人の自分は消極的でまっとうな人物という主観と、身勝手で自己中なかまってちゃんが逆ギレして攻撃するという客観的行動のギャップがテーマであり、見せどころなのだと思います。共感はできませんし、見ていて愉快ではありませんが。

 冒頭からラストシーンまで、基本的には原作どおりの点が多いのですが、重要な変更も見られます。
 原作では、秋好について「この世界にはいない」と繰り返し、「死んだ」という言葉は慎重に避けられているのですが、映画では「もうこの世界にはいない」という原作どおりの表現もされてはいますが、田端がモアイを一緒に作った友達は「死んだ」と明言しています。「この世界にはいない」と「死んだ」は同じだと映画制作サイドはみなしたのでしょうけれど、作者は、ここ、こだわりを持っていたんじゃないかと思います。「君の膵臓をたべたい」でも「僕」の名前を終盤まで隠し続けたのと同様、観客/読者からはさしたる意味が感じられないところにこだわっているという感じではありますが。
 それに関連して、モアイの現在のリーダーについて、原作は「ヒロ」というあだ名で紹介し、実名での記述を可能な限り遅らせようとしていますが、映画ではそういう配慮はなく、わりと早い時期に登場します。
 原作では、田端と秋好が2人でやっている頃の活動は、世界中のスクープ写真を展示した展覧会に行ってみたり、ヘイトスピーチへの反対を訴え続ける作家の講演会に行ってみたり、戦争についてのドキュメンタリー映画を観に行ったり(42ページ)ということで、秋好の発言と合わせて反戦志向が表現されていますが、映画では原作にはまったく登場しないフリースクールの慰問に差し替えられて、政治的な色彩が削除されています。
 秋好の交際相手は、原作では「モアイ関係で僕の知っている人間だった」(137ページ)とはされていますが、それが誰かは書かれず、もうすぐ2年生になる頃に「食堂に行くと、時々秋好と脇坂が一緒に食事しているのを見ることがあった」として8行空けて「秋好はモアイに恋に勉強にと忙しそうだった」とされて(187ページ)ほのめかされているとも言えますが、脇坂が登場する場面で秋好の恋人とか元彼という記述はなく、明言はされません。映画では脇坂が秋好の交際相手だと秋好が認め、脇坂も秋好と1年間つきあったと述べています。
 田端がモアイを去ったきっかけは、原作ではモアイの集会で出た意見を秋好が「現実的には厳しい」と、現実を持ち出して理想を否定したことに驚き、その日を最後に参加しなくなったとされている(189~190ページ)のに対し、映画では秋好と脇坂が交際していることを知ったのがきっかけと示唆されています。
 原作では、田端はモアイの部室があるのかどうかも知らない(284ページ)というのですが、映画では部室の前に何度か現れ、夜間に忍び込みます。
 モアイ攻撃についても、原作にはないモアイについてのビラまきが追加され、田端の反省の弁が、原作では5年後にモアイの交流会に呼ばれた場で語られるのに対し、映画ではリーダーによる報告会直後にネットの書き込みでなされます。
 総じて、原作では踏み込まずにぼやかした設定・展開をしているところを、映画ではまぁこういうことの方がわかりやすいよねって解釈で作っている感じで、実際、映画の方がわかりやすい(原作での作者のこだわりに意味を見いだしにくい点も多い)のですが、原作と映画で少し肌触りの違いを感じました。

2020年8月23日 (日)

 中島みゆきの歌「糸」から作った北海道生まれの2人の行き違い恋愛映画「糸」を見てきました。
 公開3日目日曜日、新宿ピカデリーシアター1(580席/販売267席)午前11時の上映は60人前後の入り。

 13歳の時、美瑛町花火大会をめざして親友竹原と自転車で急ぐ髙橋漣(13歳時:南出凌嘉)は勢い余って転倒し、親友後藤弓とともに花火を見に来ていた園田葵(13歳時:植原星空)から絆創膏を差し出されるが、葵の左手の包帯を見て「大丈夫?」と問いかけた。漣のサッカーの試合を差し入れの弁当を持って見に来た葵に、漣はこんなうまいもの食べたことないと目を丸くし、葵は喜ぶ。美瑛の丘で将来日本代表になって世界を転戦するのが夢だと語った漣は、葵が好きだと叫び、葵はうれしいと言うが、「帰りたくない」という葵に、漣は、また明日会えるよと答える。翌日から学校に来なくなった葵を探して札幌のアパートを訪ねた漣は、右目にあざを作り眼帯をした葵を見つけ、葵を連れて逃げる。翌日、警察に発見されて2人は握りあった手を引き離され、別々の人生を歩むことになる。8年後、東京で行われた竹原(成田凌)と後藤(馬場ふみか)の結婚式で、漣(菅田将暉)は葵(小松菜奈)と再会するが、少し言葉を交わしただけで、葵は迎えに来た男(斎藤工)の外車に乗り立ち去ってしまう。漣は勤務先のチーズ工場の先輩桐野香(榮倉奈々)とつきあうようになり…というお話。

 行き違いでじらして、最後はこうなるしかないと予想できていても、それでもラストには鼻がツンとしてしまいました。率直に言ってじらす過程はあまりうまくないし、9.11もリーマンショックも東日本大震災もうまく使えていないというか別にそのエピソードを使わなくてもいいのに一応触れておきたかったくらいの感じですが、小松菜奈の耐えというか溜めがラストに効いてくる、そこに悦びというか救いを見るという作品かなと思います。

 冬の北海道で空きロッジの窓ガラス割って入って夜明かししたら凍死するんじゃないでしょうか。
 沖縄に住んでいる葵、少しくらいは日焼けして役作りして欲しい。
 葵が母親を訪ねて来て漣が函館に住む葵の伯父のところまで車で送って行った日、半日以上行動をともにして(美瑛から函館までは約460km:GoogleMapは6時間と計算)アドレスも携帯番号も交換しないものでしょうか。その後に、まさに携帯がなかった時代でないと考えにくいすれ違いを作るためとはわかっていますが、ちょっと釈然としません。
 シンガポールで親友の裏切りによって会社が破綻したとき、銀行から求められた返済が、水島(斎藤工)にもらった金でまかなえてしまうって、どういう…
 震災から7年が過ぎても津波のトラウマに悩まされているという妻利子(二階堂ふみ)の前で、竹原が「ファイト」の「冷たい水の中をふるえながらのぼってゆけ」とか「暗い水の流れに打たれながら」とか歌い、漣が合いの手を入れるというのは、どういう考えでしてるんだろうと思います。
 最後の函館のシーン、葵はスーツケースをどうしたのでしょうか。

 終盤にテレビ局が都庁前で通行人に自分にとっての平成年間についてインタビューをしているシーンがあり、人それぞれに違うということを感じさせますが、この作品が取り上げたとされる「平成の30年間」自体が、阪神大震災や地下鉄サリン事件(平成7年)は触れられもせず、漣が工房のチーズが著名レストランで採用された挨拶で失敗作をフードプロセッサーにかけたら娘がおいしいと言ってというだけで止まってしまい田中耕一のノーベル賞受賞(平成14年)の際の失敗した試料がもったいないから分析したら成功につながった話とかまったく頭にないとか、私のような中高年者にとっての平成の30年間と、平成元年生まれの若者にとっての平成の30年間はまるで違うものだと思い至り、その気づきに意味があるのかもとも思いました。

2020年8月16日 (日)

思い、思われ、ふり、ふられ

 同じマンションに住み同じ高校に通う4人の高1男女の恋愛模様を描いた映画「思い、思われ、ふり、ふられ」を見てきました。
 公開3日目日曜日、新宿ピカデリーシアター3(287席/販売135席)午前11時30分の上映は、40~50人の入り。

 自分に自信がなく消極的な高校1年生市原由奈(福本莉子)は、駅で由奈に借金を求めてきたのをきっかけに友達になった山本朱里(浜辺美波)に、絵本の王子様そっくりな男がいたと相談していたが、同じマンションに住む朱里の部屋を訪ねると、その男山本理央(北村匠海)が出てきて驚く。理央は朱里に告白するつもりだったその日に理央の父と朱里の母が再婚して義姉弟となってしまい、告白できないまま一緒に住んでいた。朱里は2人を部屋に置いて「買い出し」に出ると言って近くの公園で時間を潰していたが、やはり同じマンションに住む由奈の幼なじみ乾和臣(赤楚衛二)に声をかけられて意気投合する。図書館で理央に数学を教えてもらうようになった由奈は、理央の励ましもあって理央に告白するが、断られ、でも告白することで自分が変われたと感じ、自分が理央の相談相手になれる友達になると決意する。雨の日の帰り道、傘を差しだして一緒に帰る際、路上で理央は朱里にキスをするが…というお話。

 自分の気持ちをうまく伝えられない、相手の気持ちが読めない、告白してもフラれたらどうしようという不安、その中で自分は恋の駆け引きができているつもり、そういう不器用な青春の恋愛模様が見どころになります。
 そういうものだから、しかたないと言えるのですが、キスをして朱里に「ノリでやっていいことと悪いことがある」と叱り飛ばされた理央。器のレベルで朱里に届かず頭が上がらないのだとしても、「ごめん。朱里の言うとおりだ、ノリでやっていいことと悪いことがある」はないでしょう。ここは、あくまでも「ノリでしたんじゃない。ずっと朱里のことが好きなんだ。わかってるだろ」でしょ。

 もう一つのテーマ。家族のしがらみと将来/進路をめぐる親との意見の対立などから、将来と日常をめぐる閉塞感にどう対応するかが、「ここではないどこか」に行きたいという朱里と、高台の公園(ロケ地は神戸の大丸山公園だそうです)からキラキラと輝く特別な場所を見つけて行ってみたが、行ってみるとふつうの住宅地ふつうのビル等があるだけだった、「ここではないどこかなんてない」という和臣のやりとりに象徴されます。
 映画制作の途を希望する和臣が朱里に勧めた恋愛映画「アバウト・タイム」は、過去にタイムトラベルできる男が、よりよい恋愛ができるようにタイムトラベルの試行錯誤をするが、結局は「今ではない時」に自由に行けてもやはり君を選ぶというような作品です。みんなが幸せになれるような選択を模索するという朱里たちの志向とマッチするとも言えますが、「ここではないどこか」に行きたいという希望との関係は微妙です。

 朱里が和臣のところまで持っていったクリスマスケーキ、特別に手荒にしてるわけじゃないですが、あれだとたぶん、ケーキがどこか崩れてると思うんですが…

2020年8月 9日 (日)

ジョーンの秘密

 ソ連にイギリスの原爆開発データを提供したスパイの行動と動機を描いた映画「ジョーンの秘密」を見てきました。
 公開3日目日曜日、渋谷HUMAXシネマ(202席/販売101席)午前11時40分の上映は、20人くらいの入り。

 2000年5月、夫に先立たれ引退して一人暮らしをしていたジョーン・スタンリー(ジュディ・デンチ)が、ソ連に原爆開発の機密を漏洩した罪でMI5に逮捕された。ジョーン(ソフィー・クックソン)はケンブリッジ大学で物理学を専攻していたが、門限破りで寮に入れなくなりジョーンの部屋の窓から入ってきたのを機に知り合ったユダヤ系の学生ソフィア(テレーザ・スルボーヴァ)からナチとの闘いを演説する従弟レオ・ガーリチ(トム・ヒューズ)を紹介され、共産主義者の集会にも誘われる。ジョーンはレオと恋に落ち、肉体関係も持つが、レオは活動のためにソ連行きなどを繰り返し、ジョーンはレオとなかなか会えないでいた。ケンブリッジ大学を首席で卒業し、マックス・デイヴィス教授(スティーヴン・キャンベル・ムーア)に見いだされてイギリスの原爆開発プロジェクト「チューブ・アロイズ」で働くことになったジョーンをレオが訪ね、原爆開発のデータの提供を求めるが、共産主義に賛同できず、秘密保持を誓っているジョーンは拒否し、レオが自分を愛しているのではなくただ利用しようとしているのではないかと疑念を持つ。カナダとの共同研究のためにカナダに向かう船の中でマックスと不倫の関係を持ってしまったジョーンの前にレオが現れ、重ねて原爆開発のデータ提供を求めるが…というお話。

 ジョーンの動機がポイントであり、それを語るジョーンの言葉が見せ場となっている映画ですが、それに触れないで論じることができない作品ですので、ネタバレですが、書いてしまいます。

 この作品、事実に基づく物語とされていますが、ジョーン(事実の方では、メリタ・ノーウッド)の思想・信条の設定がかなり違います。現実の「スパイ」メリタ・ノーウッドは、若き日から共産主義者でイギリス共産党に入党していて、ソ連への原爆開発データの提供はその思想・信条に基づく確信的な行為とされています。それに対し、映画のジョーンは、共産主義者の集会に誘われて参加はしていたものの共産主義に賛同する気持ちになれず、ただ共産主義者のレオに惹かれて恋に落ち肉体関係を持ちます。
 史実を脚色してジョーン自身の思想・信条に基づく積極的な提供ではなく、恋愛関係にある異性からの要求というシチュエーションにしてしまった結果、日本の観客である私としては、外務省機密漏洩事件との比較・アナロジーを見てしまいます。外務省機密漏洩事件では、沖縄返還の際の日米両政府間の密約を毎日新聞記者が、男女関係にあった秘書官を通じて入手したことについて、裁判所は記者の情報取得方法の違法性を強調して有罪判決を言い渡しました。記者に沖縄密約を知らせた秘書官には自らの主体的な判断、正義感による行為という意識はなかったのか、秘書官が自分は自らの正義感に基づいて密約の存在や民主主義国家においてこのようなことが秘密裏に行われることが許されないと判断して記者に情報を渡したと明言したらどうなったのかという疑問がくすぶった事件でした。
 この作品で、ジョーンは、レオからの、ある種「色仕掛けの」要求は断った上で、原爆の広島、長崎への投下、それによる数十万人に及ぶ人々の死亡に心を痛めます。原爆開発計画の当初、マックスは、原爆開発は抑止力のためだ、ナチスに先に開発されたらどうなるか、イギリスが先に開発することでナチスが原爆を使えなくなると主張していたのに、いざ開発されてみると、プロジェクトのメンバーからは、ドイツが降伏する前に使えばよかったなどという意見が出、日本への投下をめぐっては、マックスが、自分たちは開発するだけだ、その後の利用は政治家に任せておけばいいなどと言いだしたという経緯も、ジョーンにやりきれない思いを持たせたものと見えます。
 ジョーンが、アメリカとイギリスだけではなく戦後対立することとなるソ連にも原爆を持たせることでアメリカやイギリスが2度と原爆を使えない抑止力となることを期待して、主体的に判断して情報を提供したという主張には考えさせられます。
 イギリス映画ですから特に日本の観客へのメッセージを重視しているわけではないでしょうけれども、日本(広島、長崎)への原爆投下への衝撃が動機となり、外務省機密漏洩事件と類似のシチュエーションを(史実を変えて)作っていることには、日本の観客として、よく考えてみるべきではないかと思います。

 ジョーンが物理学を選んだ動機が、幼い頃にオタマジャクシを洗おうと湯につけたら茹だって死んでしまった、そのしくみを知りたくてというのですが、それならなぜ生物学ではなく、物理学、それも理論物理なんでしょうか?
 007シリーズでMI6の局長「M」だったジュディ・デンチがMI5に逮捕されるという配役はそれ自体見せ場ですが、それならこの際取調官をダニエル・クレイグにするとか、それはやり過ぎならもう少し地味な配役の007シリーズのMI6関係者で固めてみるくらいの遊びが欲しい気がしました。

2020年8月 2日 (日)

君が世界のはじまり

 大阪の地方都市で鬱屈する高校生たちの青春群像劇「君が世界のはじまり」を見てきました。
 公開3日目日曜日、テアトル新宿(218席/販売111席)正午の上映は、30~40人の入り。

 成績が学年で1番の高校2年生縁(松本穂香)は、小学校からの幼なじみで成績が一番ビリで校則を守らず数学教師桑田(板橋駿谷)に追われて逃げ回る同級生琴子(中田青渚)とつるんでときどき授業をサボり、学校の片隅の廃屋に溜まっていた。ある日2人が溜まり場にしていた廃屋の部屋でサッカー部の業平(小室ぺい)が泣いていたのを見た琴子は業平に一目惚れし、これまでの体だけの関係だった8人の男とは違うと、業平に近寄る。通学途上にあるタンクを眺めていた業平と遭遇した縁は、業平から琴子さんから話を聞かされていますと声をかけられ、子どもの頃に親から悪さをした子はあのタンクに閉じ込められると脅かされたことなどを話す。業平と京都でデートして帰ってきた琴子は、縁に、業平が縁のことばかり話していたとキレる。母親が出て行き父親(古舘寛治)と2人暮らしの純(片山友希)は、毎日食事を作り純に声がけする父を無視して出かけ、継母ミナミ(億なつき)と肉体関係を持つ鬱屈した伊尾(金子大地)と肉体関係を持ち…というお話。

 両親がそろった和やかな中流家庭に育ち成績も学年1番の縁は、京大の赤本(過去問)を眺めながら、贅沢な悩みではあるもののこの先幼なじみの琴子と一緒に進めない進路に悩む。
 業平に思いを寄せる琴子は、業平が自分よりも縁の方を向いていることに悩む。
 業平は、生まれてすぐに母親に去られて父と2人暮らしだが、その父が心を病み時折発作を起こすことに悩む。
 サッカー部のキャプテンで縁と親しい岡田(甲斐翔真)は、超人気者だが、思いを寄せる琴子にはまったく見向きもされないことに悩む。
 純は、母親が出て行ったことを父のせいだと言って父を恨み自暴自棄になる。
 伊尾は父の再婚で東京から大阪の地方都市に引っ越してきたことに閉塞感を感じ、東京に戻りたいと言い、継母と、純と、肉体関係を持つ。
 贅沢な悩み、身勝手な悩みも含め、各人各様の悩み・鬱屈が、交錯し絡んだりほどけたりする様が切なく描かれ、そこを見て味わう作品です。

 高校生主体の青春群像劇ですが、家だけ、ラブホだけの体だけの関係を8人と持った後に業平に一目惚れした娘を「あの子もやっと恋愛始めたんやなぁ」「初恋」としみじみ言う琴子の母楓(江口のりこ)、ゆかりが連れてきた男友達におならを嗅がせて「ソースの匂いやろ」とおどける縁の父(山中崇)、娘に無視されても食事を作って待ち続けるけなげな純の父など、親たちのキャラも味わい深く思えます。

 目が悪くて星が見えないという業平に指を1本立てて「これは?」と聞き、「1」と答える業平に対し、「ブ~ッ。指でした」と答える縁。優等生でも、機会があれば笑いをとろうとする大阪の風土が現れています。
 縁のうちで家族と業平が食べるご飯も、純が朝帰りして待ち受けていた父が用意していたご飯も、お好み焼き定食(ご飯と味噌汁とお好み焼き。お好み焼きをおかずにご飯を食べる)というのも、大阪以外ではまず見られない光景です。
 そういうコテコテではない大阪感も見どころかも知れません。

2020年7月26日 (日)

コンフィデンスマンJP プリンセス編

 いろいろと話題の映画「コンフィデンスマンJP プリンセス編」を見てきました。
 公開3日目日曜日、新宿ピカデリーシアター2(301席/販売147席)午前11時30分の上映は50~60人くらいの入り。

 世界第3位の大富豪レイモンド・フウが死亡し、その遺言で当主の座を誰も知らない隠し子ミシェル・フウに譲ると書かれていたが、数か月が経ってもそのミシェル・フウが発見されないことを知ったダー子(長澤まさみ)は、スリのヤマンバ(濱田マリ)に虐待されていたところを助けて手なずけた孤児コックリ(関水渚)をミシェル・フウに仕立て上げようと計画する。執事トニー(柴田恭兵)の疑いの目をくぐり抜け、フウ家の子息ブリジット(ビビアン・スー)、クリストファー(古川雄大)、アンドリュー(白濱亜嵐)らに敵視されつつ、フウ御殿で暮らしながら、ダー子は多額の手切れ金をせしめようと画策したが失敗し、新当主のお披露目のパーティーの際に玉璽をすり替えて入手して売りさばく作戦に変更する。パーティー会場には、アンドリューと手を結んだダー子の宿敵赤星栄介(江口洋介)が登場し…というお話。

 わざとらしいオーバーアクションも、非現実的な進行も、娯楽作品ですからということで気にせず、親切にたくさん作られたひねりというか伏線と種明かしを素直に喜べば、楽しく見ることができる作品です。
 東出昌大はよりまじめで純朴に見え、三浦春馬は予想外に重要な役を明るく演じていて、それだけでも観客の期待に応えていたと言えるでしょう。

 ダー子がコックリを引き取って6か月経ちフウ家に連れて行った時点でなおコックリの手足に青あざが残っていたのは、それがその後すぐに消えていたのは、やっぱり単純ミスなんでしょうね。
 エンドロールの後、「蒲田行進曲」をパロったと思われる、しかしそれにしては手抜きが目に付く(池田屋階段落ちの階段が低いし、落ち方がいかにもぬるい)シーンが入っていますが、あれは何だったのか、謎でした。

2020年7月19日 (日)

ステップ

 妻に先立たれ残された幼い娘を育てるシングルファーザーの思いを描いた重松清の小説を映画化した映画「ステップ」を見てきました。
 公開3日目日曜日、新宿バルト9シアター2(137席/販売68席)午前10時50分の上映は20~30人の入り。

 妻朋子の1周忌を終え、2歳の娘美紀(2歳時:中野翠咲/6~8歳時:白鳥玉季/9~12歳時:田中里念)を保育所に預け、残業せずにすむ総務部に異動してもらい復帰した武田健一(山田孝之)は、営業部時代の上司から度々営業部への復帰を誘われながら断り、美紀と2人での生活を続ける。保育所ではケロ先生(伊藤沙莉)からパパの抱っこは忙しいと何でもなくただ抱きしめることの大切さを指摘され、小1では担任から母の日の絵を描かせるように求められて朋子に似たコーヒーショップの店員(川栄李奈)の手を借り、というように周囲の助けを受けながら日々を過ごしていくが、営業開発部で部下となった斎藤奈々恵(広末涼子)と親密になり、美紀と顔合わせをした際、美紀は上機嫌で奈々恵と話すがうちに帰ると吐いてしまうということを繰り返し…というお話。

 シングルファーザーの立場から、あるいはその周囲の親族(義父母、義兄夫妻)から見た幼子を育てともに暮らすことのしんどさ・困惑・喜び、故人を介した人間関係の維持と再構成がテーマです。
 自分の体験から娘が幼かった頃を思い出し投影して見てしまいますので、私だったら娘が無理をしてハイテンションで振るまい後で吐いてしまい、それが繰り返されたところで、もう無理、美紀無理しないでくれパパが悪かった、奈々恵さんごめんなさいとなると思いました。原作でも映画でも、美紀がもう奈々恵とは会えない、2人で会ってくれ、自分は中学に行ったら横浜の祖父母のところに行くから2人で新婚してくれとまで言い、健一が日曜日の朝に奈々恵を呼んで朝食をともにして突破を図り、その後度々訪れる奈々恵に美紀もわだかまりなく馴染んでいるように描かれ、美紀の心の変化、美紀がどう折り合いを付けていったのかはよくわかりません。子どもは日々成長していく、時間が解決するというような理解をすべきなのでしょうか。現実の人生でも子育てでも、よくわからないままに反発することも受け容れることもあり、それが人間ともいえますけど、見ていて今ひとつわからず、またこれでいいのかなぁと思いました。

 原作とは、ケロ先生のパンチラがない(笑)とか、原作では色づく前のあじさいを緑色の花と言っていたのが映画では散った後の桜に変わっているとか、盆に美紀や義父母義兄夫妻とともに義母の郷里を訪れた健一が原作ではひとり東京に戻り見合いをするのに映画では見合いを予め断っているとか、原作では子どもが目を離した隙にベランダから転落死してそれが奈々恵の心の傷になっているのを映画では死産に変えているとか、映画では義父が引退後ボウリングを始める、美紀が病室を訪れた際義父がパジャマでなく背広を着ているなど、いくつかの点で変えられています。
 ラストシーンも、見方によっては大差ないのかも知れませんが、原作では学校へ送る道の途中で美紀は友達とともに先に行っちゃうねと走り去り、娘はいつまでも子どもじゃないと健一は喜び半分寂しさ半分で見送るのに対し、映画では通学路を美紀と健一がかけっこして、これからもずっと一緒だという印象です。どちらも美紀が学校へ駆けていくシーンなのですが、けっこう作品のコンセプトを左右する違いに思えます。

2020年7月12日 (日)

私がモテてどうすんだ

 第40回講談社漫画賞(2016年)受賞の少女漫画を映画化した「私がモテてどうすんだ」を見てきました。
 公開3日目日曜日、松竹配給映画のど本丸新宿ピカデリーシアター1(580席/販売267席)午前9時30分の上映は、なんと観客11人。

 親友のあーちゃん(上原実矩󠄃)とともにイケメン男子同士のカップリングを妄想して楽しむ腐女子芹沼花依(激ヤセ前:富田望生)は、お気に入りのアニメのキャラシオン様が殺されたことにショックを受けて寝込み、激ヤセして美少女になる(激ヤセ後:山口乃々華)。久しぶりに登校すると、同級生のスポーツ系イケメン五十嵐(神尾楓珠)、チャラい系イケメン七島(伊藤あさひ)、ツンデレ系後輩四ノ宮(奥野壮)、史学部の先輩六実(吉野北人)から次々とデートに誘われ、花依は誰も選べずに全員とデートする。あーちゃんからデートではオタクの正体を見せるなと忠告されながら、待ち合わせ場所をオタクの殿堂池袋のアニメショップ前にしてしまった花依は、何か食べようとか言ってごまかそうとするが、店員の限定スペシャルグッズ販売残り1点の呼び込みに耐えきれず店に飛び込みアニメキャラの抱き枕を買って出てきてオタクをカムアウトする。それでも諦めない4人に囲まれ、困惑と喜びを隠せない花依に、優勝しないと廃部と言い渡された演劇部から演劇コンクールでの主役のオファーがあり…というお話。

 再度太ってしまってもイケメン4人が見捨てず、そこでは心がまっすぐだとか評価してはいますが、基本的には、外見がすべて、やせればモテるという、エステ業者のCMのようなコンセプトの作品です。
 城の城壁(石積み)を偏愛するオタク志向の六実が、激ヤセする前から花依に通りがかるたびに丁寧に挨拶し、他の知人が激ヤセした花依を別人と間違える中、初見で「芹沼さん」と声がけするなど、「美少女」になる前からきちんと花依を見ていたという描写に、若干救いがあるものの、この映画では花依がそれ故に六実を選ぶという設定でもなく、見た目重視の印象のまま終わってしまいます。

 激ヤセする前の花依と激ヤセ後の花依が並ぶ場面はいくつかあるのですが、激ヤセ後の方がはっきり身長が高いのはなんとかならなかったのでしょうか。激ヤセするという設定だから、横幅は before/after で大幅に変わって問題ないですが、寝込んで絶食したら身長が伸びるってことはないでしょう。
 激ヤセ前は、丸眼鏡をかけていた花依ですが、激ヤセ後は眼鏡なし、激ヤセ後に再度太っても眼鏡なし。最初の眼鏡は何だったのか、視力はどうだったのか、まったく説明もありません。

 花依がオタクをカムアウトしたところで、測ってませんでしたが開始から10分か15分くらいだったかと思いますが、出演者の名前が流れ始め、おいおいもう終わりかよと思います。
 演劇部には、ボーイッシュなパトロンの娘(中山咲月)に加え美少女だがあがり症で舞台に上がると台詞が言えないマスクの女性がいて、「広瀬すず」と紹介されます。本当に広瀬すずがカメオ出演してたら面白いなと、エンドロールをしっかり見つめましたが…
 最後のエンドロール終了後に、劇場でしか見られないスペシャル映像と称してNG集が流されます。





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