2018年11月 4日 (日)

スマホを落としただけなのに

 恋人がスマホを落としたことを契機にさまざまな被害に遭い危険にさらされるというSNSミステリー「スマホを落としただけなのに」を見てきました。
 公開3日目日曜日、新宿ピカデリースクリーン8(157席)10時40分の上映は9割くらいの入り。

 派遣社員の稲葉麻美(北川景子)が以前の派遣先の同僚で恋人の富田誠(田中圭)に電話をしたところ知らない男が出て、富田がスマホをタクシーの中に落としたことを知り、預けて置くからと言われて指定された店でスマホを無事に回収したが、その後、富田にはクレジットカードでの身に覚えのないショッピング代金の請求や、データを破壊されたくなければ身代金をよこせというランサムウェア感染などの異常が相次ぎ、麻美はSNSでかつての上司の知人と自己紹介しているネットセキュリティ業者に連絡し、その従業員の浦野(成田凌)に富田のスマホを見てもらい対策を施してもらう。対策が済んで安心したのもつかの間、今度は、麻美に、以前の派遣先での富田の上司からの執拗な誘いやSNSアカウントの乗っ取りと身に覚えのない投稿が相次ぎ・・・というお話。

 生活・仕事上の情報をスマホに集中し、連絡や情報収集などさまざまな場面でスマホに依存することが多くなっている現状の危うさを改めて実感させる作品です。そのことは、スマホに限らず、他のものであっても、1つのものにあまりに多くを依存してしまうと、それを失ったときのダメージが大きく、同じようなことになるわけです。この作品では、スマホを落としたという設定で、しかもパスワードを誕生日にしていたためにハッキングされたという描き方なので、どこか「自己責任」的な印象があり、システム自体の脆弱性とかメーカーや通信会社等には非難が向かないように配慮されていますが、能力のあるクラッカーの手にかかれば暗証番号をわかりにくくしても、またスマホを落とさなくても、ハッキングされるリスクというのは否定できないわけで、本当はもっと現代のシステムそのもののリスクに目を向けておくべきなのだと思いますが。
 この作品の秀逸なところは、スマホを落とした本人だけではなく、その恋人に被害・危険が及ぶというところにあります。そういう点では、自分に何ら落ち度がなくても、自分自身はスマホを落としたりしなくてもリスクがあり、そういう社会なのだという警告にもなっています(でも、それを考えても、非難はスマホを落とした個人に向けられるように作られています)。

 富田のスマホを拾って富田と麻美に攻撃を仕掛ける、連続女性殺人事件の犯人が、異常に気が短いというかいらだつとすぐ気ぜわしく足踏みをし手を震わせる様子が執拗に描写され、短時間しかふつうの社会人の態度をとれない(装えもしない)という戯画的な設定となっています。犯罪者は、ふつうの人とはまったく違う異常な人物だと言いたいのでしょうけど、エンタメだし犯罪者は自分たちとはまったく違う人間だという設定で安心して見せたいのでしょうけど、安易な感じがします。
 そして、犯人が長い黒髪の女性の下腹部を執拗に刺して殺す原因が、幼い頃に母親(黒髪の女性)から「あんたなんか産まなきゃよかった」と言われたことへの恨みとされます。その母がどうしてシングルマザーになったのか(父親はどこでどうしてる?)、母親がそこに至るまでにどのような苦労をして息子を育ててきたか、どういう経緯と思いでそのような言葉を発するに至ったかは何一つ描かれません。あくまでも無責任で身勝手な母親の心ない言葉と描きたいようです。母親のみなさん、どんな事情があれ、子どもを産んだ以上は育てる義務があります、子どもに心ない言葉をかけてはいけません、そうでないと犯罪者が生まれ社会に迷惑です、そう言いたいのでしょうか。

 知人の名をかたってヤミ金融から借金を繰り返し債務が1000万円にもなったということが、重要な設定となっています。事業者(自営業者)から手形や取引先への債権(売掛債権)の譲渡証書を書かせるなどして数百万円単位の金を貸すヤミ金融はありますが、ふつうの勤労者個人にはヤミ金融はせいぜい数十万円しか貸しません。それにヤミ金融は、まぁヤミ金融自体個人なのでいろいろいるとは思いますが、貸付に際して本人だけじゃなくて勤務先はもちろん親や兄弟などの名前と連絡先などをたくさん書かせるのがふつうです。返さなかったらそういうところへも追い込みをかけるぞというのが、ヤミ金融にとっての担保になるわけです。知人であってもそういう情報はふつうさらさらと書けませんから、知人の名をかたってヤミ金融から借入をするというのは、そう簡単ではないと思うのですが。

2018年10月28日 (日)

マイ・プレシャス・リスト

 大学卒業後他人に心を開けず引きこもりがちな天才女性がセラピストの勧めで to do リストをこなしていく映画「マイ・プレシャス・リスト」を見てきました。
 公開2週目日曜日で一番小さなクラスのスクリーン8(157席)に落とした新宿ピカデリー午前9時35分の上映は、それでも2割程度の入り。

 飛び級で14歳にしてハーバード大学に入学し18歳で卒業したが、他人に心を開けず、無職で読書にふける19歳のキャリー・ピルビー(ベル・パウリー)は、ロンドンで暮らす父親(ガブリエル・バーン)が感謝祭に帰らないと連絡してきたことに腹を立て、父の友人のセラピストのペトロフ(ネイサン・レイン)に不満をぶちまける。ペトロフは、キャリーに、年末までにするべきことのリストを考えるよう助言し、従わないキャリーに自ら作ったリストを渡す。父親の紹介で、法律事務所の文書校正の仕事を始めたキャリーは、自らも元彼を追いつつキャリーに積極的なハントを勧める同僚のタラ(ヴァネッサ・ベイヤー)らに唆されながら、リストの項目を実行していき、デートをするの項目を実行するために新聞広告で婚約者がいるのに「自分の気持ちを確かめたい」などというハント広告を出しているマット(ジェイソン・リッター)に電話を入れて逢うが・・・というお話。

 公式サイトの「ストーリー」の最初に書かれているアイキャッチが「超天才だけど【コミュ力】ゼロのキャリーが6つの課題をクリアした先で出会ったものは-」。
 キャリーは、大学卒業後仕事もせず友達もなく読書にふけり(1週間で17冊)父の友人のセラピストにもほぼ一方的にまくし立てるだけという描写がなされていますが、行きつけの店で店員とはふつうにやりとりしていますし、法律事務所の仕事を始めると、下ネタが多い「変人」の同僚たちともふつうに話をしています。キャリーの方で他人に興味を持っておらずまた譲歩して合わせようという意欲に乏しいということはありますが、コミュニケーション能力を欠いているようには、私には思えません。少し不器用で、自己主張を持ち曲げない人物を、すぐ「協調性がない」と言い立て、この作品の日本版の公式サイトのように「コミュ力ゼロ」とか「コミュ障」などのレッテルを貼る(アメリカ版のサイトは、2016年の作品だということもあってか発見できませんでした。アマゾンのDVD紹介では孤独で友達がいないなどとは書かれています:Carrie finds herself isolated, friendless, dateless and  unemployed. が、キャリーの「コミュ力」の問題を指摘しているようには見えません。私の英語力の問題かも知れませんが)ような近時の日本社会の風潮にこそ、私は違和感を持ちます。

 他人との間に自ら壁を作り引きこもりがちだったキャリーが、セラピストに勧められてあまり気が進まないながらも様々な行動に出ることで変わっていくということが、見えやすいテーマではありますが、この作品のもう1つのテーマは、「セックス」です。
 キャリーが性関係について世間よりは厳しい/保守的な考えを持つことが、かなり自由奔放な性関係を志向するタラとの比較で、また婚約者がありながらガールハント広告を出すマットへの対応やペトロフの不倫を知った際の対応などを通じて描かれています。そのキャリーの価値観が度々表れ、周囲と対比されることで、その当否を考えさせられます。
 そして、後半で、ということはまぁネタバレになるわけですが、教え子である16歳のキャリーに手を出し、キャリーにある言葉を言わせようとして恥ずかしい/屈辱的とキャリーに拒否されるとキャリーに興味を失い立ち去った教授(コリン・オドナヒュー)との関係が問題となります。それを知って怒る父親に、16歳は同意があればセックスしても違法じゃない、強制されたわけじゃないと、教授をかばうキャリーの位置づけは微妙です。ハリウッドでのセクハラ・性的被害を告発する #Me Too の嵐のあとでこのような表現をどう扱う/受け止めるべきか(2016年の作品なのでアメリカでの公開は #Me Too 旋風の前ですが)、他方において若年者が自分の意思と判断でセックスすることがいけないのかというなかなかに考えさせられる問題を含んでいます。
 しかし、この作品の場合、キャリーの性関係についての厳しい考えが、教授との関係/教授に捨てられたことのトラウマに起因するということがうかがわれ、16歳のキャリーを弄んだ教授による性被害という色合いが強いように思えます。とすると、キャリーが教授をかばうような態度を、このように描いておくことに、この時期に日本で公開して無批判にやり過ごすことに、疑問を感じます。

 キャリーが後に「イン エクセルシス デオ」という言葉について言及するのを聞いたとき、これが教授がキャリーに言わせようとしてキャリーが恥ずかしくて言えないといった言葉かと思い、たぶん何かの文学作品に登場する、たぶんラテン語の、Hな言葉と思ったのですが、帰ってきて調べると、聖書の言葉(ルカ伝)でした( Gloria in excelsis Deo:いと高き処、神に栄光あれ) 。
 やっぱり文化的背景/素養がないと・・・ (^^;)

 終盤で、大晦日のカウントダウン近い夜の広場で変人の同僚から「6023の平方根」を聞かれたキャリーが即座に「75」「適当に言った」というシーン。超天才の数学力もこの程度と見るべきなのか、堅さがとれて捌けてきたと見るべきなのか。

2018年1月28日 (日)

ミッドナイト・バス

 深夜バス運転手の元妻との再会を機に生じた恋人と家族への波紋・戸惑いを描いた中高年ヒューマンドラマ「ミッドナイト・バス」を見てきました。
 (新潟での先行公開後の)全国公開2日目日曜日、全国30館東京で3館の上映館の1つ有楽町スバル座(270席)午前11時20分の上映は5~6割の入り。観客層は中高年中心。

 新潟で娘彩菜(葵わかな)と暮らす東京新潟間の夜行バスの運転手の高宮利一(原田泰造)は、東京(大森)で小料理屋「居古井」を経営する古井志穂(小西真奈美)と10年越しの交際を続けていた。白鳥が見たいという志穂を迎えるために新しいシーツや食器を用意し炊飯器をセットして、夜行バスで新潟を訪れた志穂とともに夜勤明けの利一が自宅に戻ると、就職して東京で暮らしているはずの息子怜司(七瀬公)が用意していた飯を食べ尽くし志穂のための布団に裸で寝ていた。仕事をやめ、家賃も払えなくなって東京のアパートを引き払ってきたという。気まずい思いで志穂はそのまま東京に帰ってしまう。そんなある日、利一は新潟の万代バスセンターのベンチで座り込む元妻美雪(山本未來)を見つける。新潟の実家を出てマンションに引っ越したばかりの父敬三(長塚京三)が事故で入院してしまい、実家の風通しや父の見舞いに月に1度新潟に通っているという。利一から敬三の実家の手入れや見舞いを頼まれて、怜司は文句を言いつつ手伝うが、母に捨てられたことを恨みに思う彩菜は反発する。利一は姑との対立で家を出た美雪を自宅に招き、姑の仏前で美雪の心のしこりを溶かそうとした。翌朝、朝食を摂っているところに、ビワ茶を飲みたいという敬三のために実家の庭のビワの葉を預けていた志穂がたくさんのおかずとビワ茶を持って現れて美雪と鉢合わせし・・・というお話。

 新潟で同居していた母も亡くなり息子は東京で就職し、2人住まいとなった娘も仕事をして結婚話も出ているという状況で、そろそろという思いで東京に住む10年越しの恋人を新潟の自宅に招いたところで、突然で戻ってきた息子、再会した元妻の幸せ薄い様子に、姑と妻の対立をうまく調整できず離婚に至ったという負い目が相まって生じた迷いが、恋人との関係・思いにどう影響するかが、ストーリーの軸になっています(たぶん、観客の大部分は、元妻美雪の登場で、利一と志穂の関係がどうなるのかに主たる関心を持って見続けると思います。にもかかわらず、公式サイトの「ストーリー」の最後には、その結末まで示唆されているというのが、何というか・・・)。
 原作では、志穂にあからさまにアタックしている志穂と同年代の男宇佐美をあしらう志穂の利一を妬かせようという微妙な計算が見え、また利一も宇佐美の存在故に自らが身を引いた方がという気持ちになるわけですが、映画では宇佐美は登場せず、志穂はより純情で一途に描かれています。利一も、原作では、美雪の求めに応じてHしようと試みてできなかったという場面がありますが、映画ではそれはなく、より理性的に描かれています。
 その結果、映画の中では、利一は気持ちとしては迷うことなく志穂を思い続けながら、ただ自分はもうすぐ50歳で、一回り以上年下の志穂を幸せにしてやれるかということへの理念的な迷いと自信のなさから志穂に別れを告げるということになります。確かに、今子どもを作ったらその子が成人するときには自分は70歳ということ自体は、厳然たる事実として突きつけられます。しかし、それにしても、そのことだけで、ここまでまっすぐに自分を思ってくれる恋人を、捨てることができるでしょうか。通常であれば、当然に利一の立場で見ることになる50過ぎのおっさんの私が、むしろ志穂の側でそれはあんまりだろうという方に思い入れてしまいました。

 この作品で、敬三の台詞が何度かポイントになるのですが、もう少し重く、あるいは弱々しくでいいからもっと間を取って語って欲しかったなと思います。キャラとしてももっと老人らしい方がよかったし、ほとんど間がなく高めの声で速いしゃべりのため、台詞が染みにくかったのが残念です。
 また、敬三とともに行く旅行先が、原作では、弥彦山上の温泉地で、せっかく新潟を去る前に新潟を見渡したいという敬三の希望が深い霧でうまくいかないという設定なのを、映画では佐渡島にしていて、敬三の台詞の「五里霧中」が、とってつけたようになってしまっています。撮影スケジュールから、霧が出るのを待てなかったのかもしれませんが・・・

2017年10月22日 (日)

女神の見えざる手

 凄腕ロビイストが銃擁護団体のオファーを断って銃規制法案推進に回るサスペンス映画「女神の見えざる手」を見てきました。
 封切り3日目衆議院選挙投票日の大雨の日曜日、TOHOシネマズシャンテスクリーン2(201席)午前10時の上映は7割くらいの入り。観客の年齢層は高め。

 有名なロビイストのエリザベス・スローン(ジェシカ・チャステイン)は、違法なロビー活動の疑いを受け、スパーリング上院議員(ジョン・リスゴー)の聴聞会に呼び出された。スローンは弁護士(マイケル・スタールバーグ)の指導に従い、あらゆる質問に黙秘権を行使していたが、執拗な質問に切れて答えてしまい、黙秘権を放棄したと見なされ、弁護士になじられる。
 その3か月前、スローンは、銃擁護団体から銃擁護派の女性団体を作って銃規制法案を葬り去るロビー活動を要請されて断り、上司(サム・ウォーターストン)から銃擁護団体のオファーを断るなら解雇すると言われ、チームのメンバーの多くを引き連れて銃規制法案を推進するシュミット(マーク・ストロング)の会社に移籍した。情勢は圧倒的に不利で、銃規制法案を通すには態度未定の国会議員22名中16名を味方にする必要があったが、スローンの作戦が功を奏し、勝利が近づいたかに見えたが・・・というお話。

 スローンの冷静であらゆる事態を想定した、そして冷徹な判断と、周到に準備された作戦の数々(失敗や事情変更、相手方の奇襲に応じた予備のプラン)に、驚き、感嘆し、プロの仕事ぶりを感じます。そこは素直にかっこいいと思いますし、しびれます。
 しかし、ラストの、スローンが最後に(たぶん。ひょっとしたらさらにこの裏まで用意していたかもしれませんけど)用意していた作戦は、「プロ」の仕事としては説明しにくく、スローンが何故そこまでの犠牲を払っても闘いを継続したのかに、疑問が残り、そこは今ひとつ説得力を欠くようにも思えます。
 睡眠時間を削り(そのうちに睡眠障害を生じて)薬物に依存する生活、性欲の処理はエスコートクラブから男を買って済ませるドライさ、敵を騙すにはまず味方からという冷徹さのために度々味わう孤立感など多くの犠牲を、勝利の快感のためのコストと割り切るスローンの価値観にも、なかなかついて行けないものを感じます。

2017年10月15日 (日)

愛を綴る女

 意に沿わぬ結婚をし愛を求める女の熱情を描いた映画「愛を綴る女」を見てきました。
 封切り2週目日曜日、全国7館東京で2館の上映館の1つヒューマントラストシネマ有楽町シアター1(161席)午前9時50分の上映は2~3割の入り。観客の年齢層は高め。

 南フランスのラベンダー農家の娘ガブリエル(マリオン・コティヤール)は、教師に惚れ熱烈なラブレターを渡すが突き放される。ガブリエルの奔放さを持て余した母は、ガブリエラを精神科医に診せ、雇っていた労働者のジョゼ(アレックス・ブレンデミュール)と結婚させる。ガブリエルは、ジョゼに「あなたを絶対に愛さない」と宣言、ジョゼも「俺も愛してない」と応じた。流産し、その原因が腎臓結石と診断され、医師に温泉療法を勧められたガブリエルは、逗留先で尿毒症が進んだ帰還兵のアンドレ・ソヴァージュ(ルイ・ガレル)と出会い、その病室に足繁く通い・・・というお話。

 情熱に突き動かされ奔放に行動するが、思いは満たされないガブリエルの焦燥感、渇望感と、「愛していない」と言いながら妻の行動を見守るジョゼの露わにしない献身、包み込むような愛情が描かれています。
 それをシンプルに見せるためか、原作の重要な設定である主人公(原作では名前は示されず「祖母」、映画ではガブリエル)の創作意欲、詩作と様々なことを手帖に書き込む姿、主人公と夫の奇妙な/ぎこちない夫婦生活、帰還兵の読書と新聞朗読と主人公への質問などをそぎ落としています。その結果、原作では、娼婦にやらせていたことの代わりを務めるだけの性生活、話をしても上の空で質問にまともに答えない夫への不満、他方において帰還兵は主人公の創作を理解し主人公の意見を聞きたがり尊重してくれるということから主人公が帰還兵に惹かれていったのに、映画では主人公が何故夫に心を許さず帰還兵に惹かれたのかがよくわからない、主人公の気まぐれな情動と見えてしまいます。原作でも映画でも、主人公はわがままで気まぐれなのですが、それでも自分の生き様・大切なものを理解してくれるという信条と心情が基盤になっているのと、それがない直感的なものだけというのでは、主人公の評価、主人公への共感はずいぶん変わってくるんじゃないでしょうか(映画は、主人公をより気まぐれでわがままと描いた方が「ジョゼの愛と献身」をイメージさせやすいと考えたのでしょうけど)。
 また、ラストは、原作がぼかし気味に示唆するにとどめた帰還兵と主人公の真実を、隅々まで(観客が想像をめぐらす余地がないほど)説明しています。これもまた、ジョゼの愛と献身を明確にするためですが、その分、原作にあった余韻はありません。
 総じて、原作の複雑さ、曖昧さ、登場人物の陰の部分などを排して、人物像を純粋にしてストーリーもシンプルにしていて、原作を読み終わったときの印象と映画を見終わったときの印象はかなり違う気がします。予告編で「ミレーネ・アグスのベストセラー小説『祖母の手帖』を完全映画化!」と銘打っているのですが、これだけ変えて「完全映画化!」って、どうかと思う。

 最初の方で、ガブリエルが川に入り腰まで水に浸かっているシーンがあり、スカートをたくし上げてもやっとしたアンダーヘアが見えるのが、きれいなんですが艶めかしくもあり鮮烈な印象を残します。しかし、このシーンが何をしているのかよくわからない。公式サイトの監督インタビュー(Q&A)で、監督は、「冒頭のシーンで、ガブリエルが川の水のなかに入り、スカートがめくれて水中で彼女の性器があらわになる。それこそ私が見せたかったことなの。クールベの描いた〝世界の起源〟ね。それが、この映画のテーマなの。」と答えていますが、ただマリオン・コティヤールの性器を見せたかったと?(見た印象では「性器があらわになる」という感じではないのですけど、日本版では若干カットされているのでしょうか)

2017年10月 8日 (日)

ナラタージュ

 20歳の時に「リトル・バイ・リトル」で野間文芸新人賞を最年少受賞した島本理生が大学在学中に書いた代表作的な恋愛小説を映画化した映画「ナラタージュ」を見てきました。
 封切り2日目日曜日、新宿ピカデリースクリーン2(301席)午後1時10分の上映は、9割くらいの入り。

 夜遅く一人残業中だった工藤泉(有村架純)は、雨の中を社に戻ってきた同僚(瀬戸康史)から手にしていた懐中時計のいわれを聞かれ、学生時代を回想する。大学2年になった泉に、高3の時に友人が転校してしまいクラスで居場所がなかった泉を演劇部に誘ってくれた教師葉山(松本潤)から、部員が減ってしまった演劇部の文化祭公演を手伝って欲しいと電話が入った。高校の時毎日社会科準備室に葉山を訪ねる泉に葉山は気を許しつつ、泉が葉山に付き合っている人はいないかと尋ねると、かつて結婚していたが妻(市川実日子)が義母との確執から心を病み自宅に火をつける事件があり、その後別れ、妻は東京の実家にいると答えた。先生の力になりたいという泉を葉山は突き放すが、卒業式の日挨拶に来た泉に葉山は口づけをする。泉は、卒業後ずっと連絡を待っていたと葉山に迫るが、葉山の部屋を訪れて、妻とのツーショットの写真や葉山がけなしていた映画のDVDを見つけ、葉山が妻と離婚していないことを知る。文化祭を終え、葉山と気まずい握手をして取り残された泉は、助っ人で来ていて練習の過程で泉に言い寄り泉が拒絶した学生小野(坂口健太郎)から、今から実家に行くので一緒に来ないかと誘われ・・・というお話。

 寄せる思いが実るのは簡単ではない、恋は思うに任せないということではありましょうけれど、むしろ泉にはダメ男を引き寄せる要素があるのではというようにも見たくなる作品です。
 たぶん、見た人の多くが、「松潤、はっきりしろよぉ!」と何度も机があったら叩きたくなると思います。葉山の「大人」にしてはあまりの優柔不断さ、そして一見爽やかなイケメン男子の小野の粘着系嫉妬深さ。どうして泉が好きになる男って、こういうダメ男ばかりなの?って、そう思ってしまう。
 「純愛」って言えば聞こえがいいけど、やっぱり高校生の泉の葉山に寄せる思いの初心さ一途さは、子どもっぽく、教師がそれに思わせぶりにはぐらかすというのはひどいと思う。
 原作を読んだのが12年前なもので、記憶が曖昧ですけど、原作の葉山は、単に優柔不断なだけでなくて、もっとずるかったと思います。松潤のイメージダウンを避けるために、葉山のずるさが薄められているような気がしました。

 ビジュアル的には、富山でロケしたというのに、雨や曇りの映像が多く、蜃気楼の映像がありませんでした。回想、幻想の映画ですから、どこかで使うと思ってみていたのですが、そういう俗っぽさを避けたのでしょうか。
 泉の足のアップが多かったのですが、有村架純の足の作りがわりと無骨というか肌もしっとりしてないというか、今ひとつな感じで、こういう作品なら足のきれいな女優さんを選ぶべきだったのではないかと・・・やはり泉には洗練されていない初心さをイメージさせるためとかいうことでしょうか。
 エンドロールに、「飲酒運転は犯罪です」とか・・・入れたら、笑いがとれたでしょうけど、余韻が台無しでしょうか。

2017年10月 1日 (日)

ドリーム

 アメリカ初の有人宇宙飛行計画を陰で支えた黒人女性たちを描いた映画「ドリーム」を見てきました。
 封切り3日目日曜日映画サービスデー、TOHOシネマズ新宿スクリーン4(200席)午前9時50分の上映はほぼ満席。(ネタバレ注意)

 1961年、ソ連に人工衛星打ち上げ(スプートニク)、有人宇宙飛行(ガガーリン)で後れを取ったアメリカでは、有人宇宙飛行の成功が求められ、NASAに強いプレッシャーがかかっていた。ヴァージニア州にあるNASAのラングレー研究所に勤めていた黒人女性のキャサリン(タラジ・P・ヘンソン)、メアリー(ジャネール・モネイ)、ドロシー(オクタヴィア・スペンサー)の3人は、キャサリンは宇宙船の軌道計算のために幾何学解析のエキスパートが欲しいスペース・タスク・グループに抜擢されるが「非白人用トイレ」もない中でその都度800m離れた別棟のトイレに駆け込み白人男性ばかりの職場で白人男性の上司ポール・スタッフォード(ジム・パーソンズ)に見下されながら孤軍奮闘し、宇宙船の風洞実験に立ち会ったメアリーは遮熱板の剥離の対策を論じてエンジニアへの応募を勧められたがマネージャーミッチェル(キルステン・ダンスト)にエンジニアとして採用されるにはどちらも白人しか入学を許可されていない大学(ヴァージニア大学)か高校を出ていなければならない規則があると拒絶され、西計算グループを管理するドロシーは管理職登用を求めてもミッチェルから黒人グループに管理職は置かないと拒否される。キャサリンの卓越した能力を見いだした本部長ハリソン(ケビン・コスナー)は、キャサリンがいつも大事なときに席を外していると問い詰めて、キャサリンから建物に「非白人用」トイレがなく毎度800m離れた西計算グループまで走って行くから40分もかかる、コーヒーポットさえ「白人用」と「非白人用」(非白人はキャサリンしかいないのに)に分けられて「非白人用」のポットはだれも触らないと訴えられ・・・というお話。

 黒人女性の主人公3人が、職場で、能力があってもいつまでも臨時職扱いで正社員や管理職になれない、部屋が隔離されていたり、抜擢されてもトイレやコーヒーポットも「白人用」のものは使わせない、会議には参加させない、書類には計算係の名前は書かせないなどの差別を受けつつ、それぞれのやり方でそれを乗り越えていくという過程がテーマで、それぞれに乗り越えていく場面で感動があります。

 キャサリンは、小学生にして、黒人が行ける最高の高校への入学を許された天才少女。NASAでも与えられた難題を次々と黒板に手計算で数式を連ねて解答を出し、実力を見せつけ、周囲に存在を認めさせ、本部長の信認を勝ち得ていきます。キャサリンの訴えを聞いた本部長がトイレの「非白人用」の表示を叩き壊し、これからは「白人用」も「非白人用」もない、どちらを使ってもいい、できるだけ席に近い方を使え、NASAでは黒人も白人も小便の色は同じだというシーンが象徴的です。
 メアリーは、すでにウェストヴァージニア大学(黒人も入学可:南北戦争の際、奴隷解放反対の南軍の中心となったのがヴァージニア州で、当時のヴァージニア州から奴隷解放賛成派が独立してウェストヴァージニア州を作ったという歴史的経緯があります)の大学院を出ていて本来今更高校で学ぶ必要などないのですが、ミッチェルが規則だという白人しか入学を許可しない高校に入学するため、裁判所に訴えます。メアリーは、判事の経歴を調べ上げ、何事にも初めてのことがある、あなたは一族で初めての判事だ、私はNASAで初めての黒人のエンジニアになりたい、肌の色は変えられないからこの高校に入る必要がある、判事が抱えている多数の事件に初めてを作る事件は、100年後にも意味がある事件はいくつあるかと迫ります。説得術として、参考にしたいところです。
 ドロシーは、NASAにコンピュータが導入されたのを見て、このままでは計算係は皆職を失うと危惧して、図書館に行き、非白人用のコーナーには目指す本がないため白人用書棚に行ったところ、警備員に追い出されたがフォートラン(コンピュータ言語)の解説書を発見して持ち出して、独学でコンピュータ操作を学び、白人職員たちがせっかく導入されたコンピュータを動かすこともできずにいるのを尻目にコンピュータ室に忍び込み計算を始めます。ドロシーがコンピュータを使えることがわかったNASAからの抜擢を、自分一人では嫌だと断り、計算係全員にプログラミングを教えてプログラマーとして採用させてその室長に収まります。

 差別を、運動・闘争によってではなく、個人の実力を示すことで乗り越えた黒人女性たちの物語で、ストーリーとしてはキャサリン中心なのですが、私としては、ドロシーのしたたかさが光る話に思えました。

2017年9月24日 (日)

ジュリーと恋と靴工場

 やっと見つけた就職先でリストラ計画と職人たちのストライキに巻き込まれた試用期間中の労働者の揺れを描いたミュージカル映画「ジュリーと恋と靴工場」を見てきました。
 封切り2日目日曜日、全国13館、東京2館の上映館の1つ新宿ピカデリースクリーン6(232席)午前10時40分の上映は2割くらいの入り。(ネタバレ注意)

 靴の量販店で試用期間満了時に本採用されずに追い出されたジュリー(ポーリーヌ・エチエンヌ)は、就職情報誌を見て手当たり次第に応募するがすべて断られ、正社員になれるならどこでもいいと伝統ある高級靴メーカーの田舎の靴工場の倉庫係に応募し、試用期間を1か月として採用された。採用早々、新聞に経営者の「近代化」発言を目にした職人たちが工場長にリストラの可能性について詰め寄るのについて行ったジュリーは工場長から危険分子と目をつけられる。職人たちは、さらにパリの本社にバスを仕立てて経営者に抗議行動を行い、訳もわからないうちについて行ったジュリーはバスの運転手サミー(オリビエ・シャントロー)と意気投合し、一夜の関係を持つ。ストライキに入り工場でピケラインを張る職人たちに対し、経営者に雇われたスト破り部隊が実力行使して工場の倉庫から製品を運び出した。スト破り部隊にサミーがいるのを見たジュリーはサミーともみ合いになるが押し倒される。荒らされた工場を片付けた職人たちは、残った材料で昔の靴モデル「戦う女」を復刻生産してアピールし、これが評判を呼んで・・・というお話。

 前半は、正社員の募集が少なく、若者が正社員になれないという、日本と同様の社会情勢を背景に、若者の就職活動の苦労と悲惨さを描いています。ジュリーの身の上に、このあたり、涙します。こんな社会にだれがした、とも。
 後半は、工場の職人たちの闘いで、そんな簡単に勝利できるかなとも思いあっけなさも感じますが、展望が開けます。時代に取り残されたとも見られかねない、熟練職人たちの団結と闘いを描く作品にもなり得るところです。
 しかし、ネタバレではありますが、書いてしまうと、ジュリーの行動は、私には納得できず、後味の悪いものとなっています。どうしてよりによって労働者/職人たちと敵対したスト破り部隊のサミーを選ぶのでしょうか。ジュリーのこの選択は、(若い)女は同僚労働者との団結よりも労働者の敵との恋愛を選ぶ、そういった同僚との連帯意識も誠実さもない浅はかな者だと印象づけたいのでしょうか。そうでないとすると、主人公の選択は正しくて、闘う過激な労働者には正義はない、スト破りの若者の方が共感できる(まぁ経営者に指示されてやむなく参加した無力な若者だし、というところですかね)というアピールなんでしょうか。
 いずれにしても、正社員になることが困難な状況に置かれた若者が、労働者の連帯を選択せず、それと反対方向の者に共感するというのは、労働者の敵としか考えられない政治家たちが若者層に支持されている日本の現状と共通していますが、それがまた非正規雇用が増大し若者が正社員になれないこんな社会を支持し促進しているということを考えると、前半でジュリーの身上に涙した思いが、ある部分自業自得にも思えて最後に興ざめしてしまうわけです。

2017年9月17日 (日)

ダンケルク

 第2次世界大戦初期のダンケルクからの撤退(救出)劇を描いた映画「ダンケルク」を見てきました。
 封切り2週目日曜日、新宿ピカデリースクリーン1(580席)午前10時35分の上映は、9割くらいの入り。

 ドイツ軍に追われてダンケルクの街にたどり着いたイギリス兵トミー(フィオン・ホワイトヘッド)は、海岸で時折ドイツ空軍の爆撃を受けながら救出船の到着と乗船を待つ多数の兵士たちの姿に呆然としつつ、優先的に乗船を許される負傷兵を担架で運び同乗しようとして追い出され、港ですぐ爆撃を受けて沈没した船からの脱出兵たちに紛れて次の船に乗り込むが、その船もまたドイツ軍の攻撃を受けて沈没してしまう。イギリスでは、民間船も救出作戦に徴用され、空軍パイロットの長男が戦死した民間船の船長ドーソン(マーク・ライランス)は、次男らとともにダンケルクを目指し、途中の海で兵士を一人救出し、ダンケルクには行きたくない、行けばみんな死ぬぞ、戻れと叫ぶその兵士を尻目にダンケルクに向かう。イギリス空軍パイロットのファリア(トム・ハーディ)は、隊長機と友軍機が墜落・不時着し1機だけ残されて、ダンケルクで爆撃を続けるドイツ空軍機を追い続け・・・というお話。

 陸のトミーの視点では、反撃の手段/武器もなくただ無防備にドイツ軍の攻撃/射撃を受け続け、救出も国(イギリス軍優先、フランス軍等は後回し)、所属部隊別等の優先順位が定められて順番を待っていてはいつまでも船に乗ることさえできず、あれこれ策を弄して船に乗り込んでもその船がまたドイツ軍の攻撃で沈没してそこからまた命からがら抜け出して海岸に戻り振り出しに戻るという徒労感/絶望感と、しかしそれでもただ生き抜いてみせるという執念がテーマになります。同乗者を助けようという行動も見られますが、どちらかというと自分が助かるために他人を蹴落とそうというエゴの方が目につきます。その点から見ると、戦争の無意味さ、「英雄」の無内容さを描いた反戦というか厭戦の映画にも受け取れます。
 しかし、他方において、従軍し危機に陥った兵士を救出するために強い志を持ってダンケルクに向かい海中の兵士たちを救助する民間船の船長、ダンケルクの桟橋で救出の最後まで自分が居残る海軍中佐、燃料がつきるまでドイツ空軍戦闘機を追い続けるイギリス空軍パイロットといった、観客が共感できる英雄的行為も描かれていて、全体として厭戦的と評価できるかは微妙な感じです。
 私たちが、歴史的なできごと・事件を受け止めるときに、あまりに多くの人数(ダンケルクでは40万人)を聞いて感覚が麻痺してしまいがちですが、その中の一人一人に命があり、生きたい、生き抜きたいという強い気持ちがある(さらには、この作品ではそちらへの言及は見られませんが、一人一人に家族や愛する人がいる)ということを、無名の兵士たちの生き残るための懸命な行動/執念を通じて、再確認させられます。その無様で愚直な姿と、帰還した際に出迎え支援する人たちからの労い/英雄視とのギャップ、ここは、英雄の実情と見るべきか、従軍しただけ/生き残っただけで立派なものだ、卑下するんじゃないと見るべきか、見る側の信条で分かれるかもしれません。そして最後に、政治家(チャーチル)の勇ましい強硬姿勢の演説をかぶせるところも、政治家のエゴ/一将功なって万骨枯ると見るか、トップたる者こうあるべきと見るか、見る側の価値観で分かれるのかもしれません。

2017年9月10日 (日)

三度目の殺人

 是枝裕和監督の法廷心理劇映画「三度目の殺人」を見てきました。
 封切り2日目日曜日、新宿ピカデリースクリーン6(232席)午前10時20分の上映は9割くらいの入り。

 事務所の同僚弁護士摂津(吉田鋼太郎)から起訴後になって強盗殺人事件の弁護を引き継がされた弁護士重盛(福山雅治)は、被告人三隅(役所広司)からギャンブルのための金欲しさにかつての雇い主を殺害したと聞かされるが、三隅が乗ったタクシーのカメラの映像や証拠品の財布から財布にガソリンがかかっており、三隅が財布を取ったのは殺害後ガソリンをかけてからで殺人の際にはまだ財布を取ろうと考えていなかった(強盗殺人ではなく殺人+窃盗)と見立てた。その直後、三隅が殺害は被害者の妻(斉藤由貴)にメールで依頼されたと述べたという週刊誌報道がなされ、面会に行った重盛に三隅は取材にそう答えた、その通りだという。重盛は、公判前整理で、犯人性は争わない、殺害時には財布を奪う意思はなかった、殺害は被害者の妻の依頼によるという弁護方針を立て、三隅の携帯のメール履歴を証拠請求した。三隅のアパートを訪ねた重盛は、三隅の部屋を被害者の娘咲江(広瀬すず)が訪れていたことを知り・・・というお話。

 朝日新聞の映画紹介記事(2017年9月1日夕刊)には、次のように書かれています。「是枝裕和監督は、本作のために弁護士に取材をした。彼らは口をそろえて『法廷は真実を解明する場所ではない』と答えたという。確かに当然のことで、司法関係者は犯罪現場に居合わせたわけではない。彼らは自供や数々の証拠などから、量刑を判断する。真実をわかる必要はないという前提が、法廷に横たわっている。」・・・本当かなぁと思います。裁判で解明すべき事実の範囲が他の人々(被害者やマスコミや一般人)が知りたい事実と異なるということはよくあり、そういうときに「法廷は真実(というよりは「そういうこと」)を解明する場でない」と説明することはよくあります。また、真実を解明できる限度/限界を繰り返し実感した上での一種の諦めとして、本当の意味での/厳密な「真実」はわかるとは限らないという意味で、「法廷は真実を解明する場所ではない」と言うことはあるでしょう。さらに言えば、もちろんそれでも裁判や弁護はしなければいけないわけですから、意地悪な人(記者にありがち)から「真実がわからないのに弁護ができるのか」などと質問/詰問されれば、「真実」がわからなくても弁護はできる、真実などわかる必要はないと言いたくなることもあるでしょう。しかし、裁判ではもともと真実などわかる必要はない、真実を解明する必要はないと考えている弁護士は、私はいないんじゃないかと思っています。
 アメリカのリーガルサスペンスでは、被疑者/被告人が事実について話そうとするのに対して、自分は事実を知りたくない、知る必要がないと言って遮る弁護士が度々登場します。アメリカでそういうやり方でも刑事弁護ができるのは、(これもリーガルサスペンスによる知識ですから、本当のアメリカでの刑事弁護の実務がどうかは私は厳密には知りませんけど)被告人に法廷で証言させるかどうかが自由で(リーガルサスペンスでは)証言しない方が原則であること、事前の証拠開示(ディスカバリー)が徹底していて検察側の予定証人にも事前に尋問できることなどの制度保証があるからです。日本では、公判期日での被告人質問はまず回避できませんし、検察側証人への事前質問もほぼ無理(私は、2007年5月以降刑事事件を取り扱っていないので、その後日本での証拠開示の実務がどの程度進んだかわかりませんから断言はしませんけど)という状況では、劣位に立たされる弁護側のほぼ唯一のカードが、被告人が検察側が知らない情報を持っている可能性ですから、弁護人はとにかく被告人の話をよく聞くという選択しか考えられません。
 公式サイトで紹介されている「裁判で勝つためには、真実は二の次と割り切る」という重盛の弁護士像には、私は違和感を持ちます。
 その真実より法廷戦術などという小理屈というか観念的な言葉を振り回している部分以前に、重盛には事実をきちんと確認しようという法律実務家に確実に必要な素養が欠けているように思えます。三隅に解雇された理由を聞いてその次にすぐ「その日」は酒を飲んでいたかって質問。「その日」って解雇されたときのことを聞いているのか事件の当日なのか、内容的に事件の当日なんでしょうけど、聞き方に着実に事実を確認していこうとする姿勢が見られない。咲江が告白したときに「どこでやったのか」という質問も「だれと」があいまい。そもそも咲江が三隅の部屋を訪ねていたことを知ったら、何故すぐそれを三隅に聞かない?本来的に三隅(依頼者)が味方で咲江(被害者の娘)は敵方な訳で、ふつう、三隅に事情を聞いて敵方をどう攻略するかを協議するはずでしょ。一番唖然としたのは、公判が始まった後に面会の場で三隅が自分は殺していない、事件現場にも行っていないと言い出したときの対応。それならそれで、じゃあ事件当日はどこにいたのか、ド素人でもまず聞くでしょ。プロなら当然に、それなら事件の夜あの時刻にあそこからタクシーに乗った理由、タクシーに乗った時点でガソリンが付着した被害者の財布を持っていた理由を説明してくれって聞くでしょ。この時期は、裁判員裁判が始まって連日開廷中の弁護士の頭の中で証拠関係が一番整理されているとき。そしてこのタクシーのビデオ映像とガソリン付きの財布は、初期の弁護方針を支える基本証拠。三隅が事件現場に行っていないと発言して3秒以内にこの質問ができないなら、重盛弁護士、悪いけど法廷弁護士としては使い物にならないから、引退を考えた方がいい。少なくとも、「勝負にこだわる」なんて言えるほど勝てるはずはない。

 また、この作品では、被告人質問の直前の打ち合わせで、重盛が三隅にこう答えてくれと「指導」する場面があります。弁護士は、被告人に法廷で事実と違っても都合がいいことを述べろと指示していると見られているようです。たいへん、残念なことです。
 私は、これまでの弁護士生活(1985年から30年あまり)で、刑事・民事、証人・当事者を通じて、法廷ではこう答えてくれという要求や指導をしたことは一度もありません。もちろん、事実確認は繰り返しします。その人がそれまでに言ってきたことと違うことを言い出したら、これまでの話と今言っていることとどちらが本当かということも、当然聞きます。しかし、その上で、なお、私が想定していることと違うというか、自分の依頼者に不利なことをいう場合、私は、それは困るから違うことを言ってくれとは決して言いません。それは、もちろん、偽証を求めることが許されないということもあります。また、そういうことをしたらその人は法廷で自分が嘘を言ったという後悔を引きずります。私は自分の依頼者等にそういう思いをさせたくありません。そして、それ以上に、私は、素人は嘘をつけないものだと考えています。事前の打ち合わせで、素直に聞いたときに出てきた答えを、法廷では違うことを言ってくれと頼んでも、緊張する法廷で「しくじる」可能性は低くないし、主尋問では「指導」通りに答えられても反対尋問で追及されているうちに化けの皮が剥がれるリスクは小さくありません。「嘘」が発覚したときの裁判に与えるダメージはかなり大きなものとなり得ます(ほかの本来は信憑性の高いことまで信じてもらえなくなりかねません)。私は、そういう事前打ち合わせで相手が法廷で話して欲しくない答えをした場合、その項目は質問しないことにします。そういうあやふやな材料を足場にしないで勝てるストーリー/論証を考えます。実務的にはその方が安全/着実だと、私は思っています。
(なお、一般の方は、そういう依頼者に不利なことを聞いたことに触れない/「隠す」こと自体、アンフェアだと考えるかもしれません。しかし、その人の話が真実かどうかは簡単には言えません(基本的にはあくまでもその人が言っているというだけです)し、弁護士が依頼者に不利な事実を依頼者の同意なく法廷に出したら誠実義務違反とか守秘義務違反で懲戒事由になります)

 この作品のレビューで、事件の真相は「藪の中」、「羅生門」のよう(つまり真相は不明/複数)とするものを目にしました。そう言えば、公式サイトの「ストーリー」でも「本当に彼が殺したのか?」の文字があり、作品中でも他の者が殺害したことを示唆する映像が挟まれています。この作品には、三隅と重盛と咲江が雪合戦をする映像のように、幻影も含まれているとしても、重盛が調査の過程で見たタクシーのビデオ映像は、明確に「事実」の領域に含まれています。事件の夜事件後と考えられる時刻に事件現場付近から(作品ではそのことは明示されてはいませんが、そうでなかったらビデオを見た時点で重盛が別の戦術:三隅は犯行時刻に別の場所にいたというアリバイ等を考えるはず)三隅がタクシーに乗り、その際ガソリンが付着した被害者の財布(つまり殺害されガソリンをかけられた後火をつけられるまでのごく限られた時間に被害者のポケットから抜かれた/言い換えれば犯人以外が抜き取ることは考えがたい物)を持っていたという事実がある以上、三隅以外の犯行というストーリーはほぼ不可能です。是枝監督が、もし、真相は不明という作品にする意図を持っていたのであれば、三隅がタクシーに乗っている映像を遺したのは失敗というべきでしょう。

 勾留中の被告人が週刊誌の取材に答えるというのは現実的ではないと思います(最近はそういうことも可能になっているのでしょうか?)が、何より、被告人の携帯電話のメールを検察側が調べてなかった(検察側がそのメールは殺人依頼ではなかったと判断しながら、それが殺人依頼でないという証拠固めをしていない)というのは、私の感覚ではおよそ考えられません。弁護士に多数取材しながら、こういう設定を取材を受けた弁護士が容認したのであれば、私には驚きです。
 殺人事件の遺族に被告人の手紙を持って会いに行き、玄関先でその手紙を読まずに破られて、最近は被害者なら何をやってもいいという風潮があると愚痴る重盛にも、驚きました。殺人事件の遺族ですよ。それくらいごくふつうに予測できることじゃないですか。重盛弁護士、殺人事件初めてですか?何年弁護士やってるのかと聞きたくなりますし、さらに言えば、もし初めてだとしても、遺族感情にそれくらいしか理解がないなら弁護士やってられないと思う。
 弁護士事務所の(古株と思われる)事務員が、金目当てか怨恨かで殺人事件の量刑が変わるのかと嘆いているのも、弁護士じゃないにしても法律事務所の事務員何年やってるのかと思う。
 いろいろ取材した跡が見えるところも多々ありましたが、それでも私には、弁護士としての実務面で違和感があるところが多い映画でした。

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