2017年2月21日 (火)

湯を沸かすほどの熱い愛

 夫が失踪して休業中の銭湯の女将が末期がんと宣告された後の生きる意志を描いた映画「湯を沸かすほどの熱い愛」を見てきました。
 封切17週目(!)日曜日、新宿ピカデリースクリーン5(157席)午後7時25分の上映は、6~7割の入り。

 夫(オダギリジョー)がパチンコに行くと言ったまま失踪したため家業の銭湯「幸の湯」を休業しパートで働く幸野双葉(宮沢りえ)は、高校で同級生から陰湿ないじめを受けめげている幸野安澄(杉咲花)と二人で暮らしていたが、ある日、勤務先で倒れ、医師から末期がんで余命幾ばくもないと宣告される。さすがに落ち込んで銭湯の浴槽でうちひしがれていた双葉は、安澄からおなかすいたと電話で呼ばれ、わかった超特急で帰ってカレーつくると言い、安澄から少し待てるから急がないで気をつけて帰ってきてと言われて和む。探偵(駿河太郎)に夫の居場所を探させて乗り込んだ双葉は、同棲していた女に9歳の娘鮎子(伊東蒼)を残して逃げられきまり悪げにする夫を見て、末期がんの事実を伝える。夫と鮎子を迎え入れ、銭湯の営業を再開した双葉は、安澄と鮎子を連れて旅に出て…というお話。

 自分が末期がんで余命幾ばくもないとわかったとき、残り少ない月日をどう過ごすか。映画や小説の世界では、自分がやりたかったがやれなかった/あきらめていた娯楽や冒険の類にチャレンジするという選択と、これまでの日常通りに過ごすという選択が多く、私自身が直面すればたぶん後者の道を歩むと思います。
 この作品では、双葉は、残される家族のために、これまでできなかったことをやり遂げようとします。重荷を負い、家族を精神的に支え、耐え忍んで生きている庶民には、そういう人が意外に多いかもしれない、とは思いますが、双葉の境遇・人生に思いを致すと、うん、偉い、りえちゃん、偉いけど、そんなに頑張らなくていいんだよ、と胸が詰まります。生きている間の双葉の苦しそうな力の入ったややゆがんだ表情と、安らかでこぎれいな死に顔の対比が、最後に胸を打ちます。
 頑張り通す双葉、陰湿ないじめに耐え/立ち向かう安澄、母に捨てられた悲しみをこらえ新たな環境を受け入れようと努める鮎子の3人の女の悲しみと懸命さに対し、どこまで行っても何が起こっても約束したことを守れないへらへらしたオダギリジョーの軽さ。この軽さが、3人の女たちの生きづらさ・ひたむきさを浮かび上がらせているのですから、作品の中では名演なのでしょうけれども、現実世界でこういう事例を見たら、どうしてこういうどうしようもない男が…と思うでしょうね。
 かなり計算された構成で、多数の布石が打たれて回収され、ほとんどのシーンが後であぁこのための布石だったのかと思わされます。
 日本アカデミー賞優秀作品賞総なめを狙って(あとの4作品はもう見ていたので)見に行った感じですが、予想したよりもよかったなと思いました。

2017年2月12日 (日)

未来を花束にして

 1910年代のイギリスでの女性参政権運動を担った女性たちを描いた映画「未来を花束にして」を見てきました。
 封切3週目日曜日、メイン上映館のTOHOシネマズシャンテスクリーン2(201席)午前10時の上映は2割足らずの入り。

 1912年のロンドン、洗濯工場で生まれ父は不明(たぶん工場長かと)母は4歳の時に死に、自らは7歳からパートで働き12歳で正社員となり今は24歳の洗濯工場労働者モード・ワッツ(キャリー・マリガン)は、洗濯物の配達の途中、ショー・ウィンドウに投石し女性参政権を叫ぶ活動家に遭遇し、女性参政権運動を知る。同じ職場に入ってきた活動家のバイオレット・ミラー(アンヌ=マリー・ダフ)に誘われて国会の公聴会での証言を傍聴に行ったモードは突然代わりに自らが証言することになり、聞かれるままに自らの生い立ちと境遇、労働の実情を語る。モードの証言は聴衆の心を打ったが、議会は結局女性参政権を認めなかった。それに抗議する集会に警察が介入し、参加者たちは警官に殴り倒され、モードも逮捕される。釈放されたモードは、難詰する夫サニー(ベン・ウィショー)にもう二度としないと誓うが、女性参政権運動のリーダーエメリン・パンクハースト(メリル・ストリープ)が演説すると聞いて集会に参加し…というお話。

 参政権以前に、強欲な経営者に劣悪な労働条件の下で労働を強いられ、悪辣な職制(工場長)に虐げられ続ける労働者の境遇に涙し、その労働者が立ち上がるというストーリーに共感します。
 薄幸の女性労働者が、能弁に論じるのではなく、言葉少なに憂い/悲しみをたたえた眼で耐え、決意し前進する様子を、キャリー・マリガンが好演しています。私は、「わたしを離さないで」で初めてキャリー・マリガンを見て、諦念と悟りと哀しみに満ちた瞳と表情のすばらしさに感銘を受けたのですが、キャリー・マリガンは、こういう役がはまり役だと思います。
 女性参政権のために立ち上がれと演説するメリル・ストリープも、2017年1月8日のゴールデン・グローブ賞授賞式でのトランプ批判スピーチを彷彿とさせ(現実の順番はこの作品の収録が先ですが)、はまり役と見えますが…

 エメリン・パンクハーストが投石等の実力行使を指示し、モードたちはポストや大臣の別荘を爆破し、女性参政権を求める者たちの存在をアピールするために破壊活動を行います。今、こういった破壊活動を/爆弾闘争を伴う運動の正当性を主張する映画がつくられることに、驚きました。
 モードたちの活動は、かつて、のちに連合赤軍の一翼となる「革命左派」が行っていた米軍基地に爆弾を仕掛け、それを通じて米軍基地の問題性をアピールしようという「反米愛国」(これが左翼/極左グループのスローガンだったことにも驚きますが)のプロパガンダ闘争とも共通性を持ちます。日本においても、そのような(被害者が出ない)爆弾闘争に相応の共感を示すメディアと民衆がおり、そのメンバーが(交番を襲って、ですが)射殺された葬儀にはかなりの参列者があり警察に批判的な報道がなされた、そういう時代があったのです。思えば、私たちはそこから随分と離れた時代と雰囲気の中にいます。他国では、「テロとの戦争」を絶叫し米軍と「同盟国」軍以外の実力行使を「テロリスト」と名付けて絶対悪視する権力とメディアの風潮の中でも、虐げられた者たちの抵抗の正当性を見ようとする流れもあるということを認識し、時代に流され変容した日本の世論の過去に思いをはせる、そういった契機を与えてくれる作品ともいえるかもしれません。

 エンドロールで、各国での女性参政権の実現の年が紹介されていますが、そこに日本は登場しません。日本の女性参政権(立法は1945年、行使は1946年)は運動で勝ち取ったものではないと評価されたからでしょうか。

2017年2月 5日 (日)

スノーデン

 アメリカ政府が一般人のメールやSNSなど非公開情報を収集し監視していることを暴露したNSA職員エドワード・スノーデンが内部告発をするに至った経緯を描いた映画「スノーデン」を見てきました。
 封切2週目日曜日、TOHOシネマズ新宿スクリーン3(128席)午後0時30分の上映はほぼ満席。

 9.11テロに衝撃を受けて軍に入隊したエドワード・スノーデン(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)は、特殊部隊での訓練の過程で両足を骨折し、除隊を強いられる。CIAの採用試験を受けて合格したスノーデンは、コンピュータの知識を生かし、訓練センターで抜群の成績を残し、指導教官コービン・オブライアン(リス・エヴァンス)に高く評価された。その頃、スノーデンは、交流サイトで知り合ったリベラルなダンサーのリンゼイ・ミルズ(シャイリーン・ウッドリー)と、政治信条では対立しながらも交際を始めた。スノーデンは予期していたイラクではなく国連のアメリカ代表部に派遣され、そこで有力者をCIAの協力者に仕立てるために、有力者の親族のメールやSNSを覗き込み、パソコンのカメラを遠隔操作して私生活を覗き、弱点を嗅ぎまわって義妹の恋人が不法滞在であることを見つけて強制送還させたり、有力者本人を飲酒させて飲酒運転をせざるを得ない状況に追い込んだうえで通報して逮捕させてその後便宜を図って恩を売るなどの策略に加担させられ、嫌気がさしてCIAを辞職する。バラク・オバマの大統領就任を受け、スノーデンは、民間企業から改めてCIAに派遣されるが…というお話。

 「テロとの戦い」の場面でも、無人機からピンポイントで「テロリスト」を攻撃するにあたって、特定の携帯電話(からの電波)を標的にしているという説明に対して、スノーデンが、その携帯電話を持っているのが別の人物でないという保証は、と聞き、それは地上部隊が確認していると答えるシーン、それに引き続き、自動車がその前に立っていた人物3人と対向車ともども攻撃されるシーンがあります。「テロリスト」を殺害するために(そもそもテロリストなら裁判手続も取らずに殺害してよいという考え自体、その正当性には強い疑問がありますが)、罪もない民間人が多少犠牲になってもかまわないという傲慢な姿勢が鼻につきます。
 そして、「テロとの戦い」を(内部的な)大義名分として極秘裏に行われるインターネットの監視が、CIAが民間人の有力者の弱みを探して協力者に仕立て上げるために、テロなどまったく関係ない有力者の親族のメールやSNSを覗き込み、異性関係を把握したり、コンピュータのカメラを遠隔操作して私生活を覗くといったことに使われている実情。権力は権力であるがゆえに腐敗するということを地で行くような担当者たちの腐敗堕落ぶりに吐き気を覚えます。「テロとの戦い」とか「安全保障」とかのために(果ては、オリンピック開催のためとか:あきれ果てますけど)権力者の権限を拡大させることは、このような権力の乱用、市民の生活への監視へとつながっていくものと考えておく必要があるでしょう。
 スノーデンが、自ら担当した業務で、横田基地勤務の際に、日本がアメリカの同盟国でなくなったときには日本が壊滅するように、電源供給やコンピュータシステムの隅々にマルウェア(悪意のあるプログラム:コンピュータ・ウィルス)を仕掛けたとされています。このような仕打ちを受けても、抗議ひとつせず、首都を1時間程度で制圧できるような場所に広大な基地を供与し続け、あまつさえ自ら米軍の駐留をお願いし、沖縄の人々に多大な犠牲を強いて我が国の美しい海と貴重な生態系を破壊してまで米軍基地を造って提供しようという権力者は、言葉の本来の意味での「売国奴」そのものだとしか、私には思えないのですが…

2017年1月22日 (日)

僕らのごはんは明日で待ってる

 瀬尾まいこの青春恋愛小説をジャニーズアイドル主演で映画化した映画「僕らのごはんは明日で待ってる」を見てきました。
 封切3週目日曜日、公開初週末・2週目ともにベスト10にも入れない大コケをにらんででしょう、封切16日目の日曜日にしてミニシアターレベルの一番小さなスクリーンで1日1回だけの上映にまで落としたTOHOシネマズ新宿のスクリーン12(73席)午前10時50分の上映は、意外にも満席。観客の圧倒的多数は若い女性の2人連れ・3人連れ。満席の客席に男性客は数人レベル。男性1人客もいることはいましたが、この会場に男性1人で入るのは度胸がいるかなと…

 兄が病死してから孤独にたそがれていた高校生葉山亮太(中島裕翔)は、同級生の上村小春(新木優子)から体育祭で米袋ジャンプでコンビを組み1位になったのを機に告白される。不器用にすれ違いを見せつつも、2人は交際を始め、葉山は大学では誰にでも講義ノートを貸したためにとんでもなく心が広い奴と噂され「イエス・キリスト」と呼ばれるようになり、2年後には上村は短大を卒業して保育士になり、翌年葉山も就職が内定した。2人の関係は順調に見えたが、ある日、ファミレスで食事中、上村が突然別れを切り出し、葉山はまったく理解できず困惑し…というお話。

 原作を読んでから映画を見ると、使われているセリフはほぼ原作どおりで、特に前半は、(細かくいえば、原作では米袋ジャンプを含む「ミラクルリレー」は得点に入らないのに映画ではそのリレーを受けて「総合優勝!」ってコールされてるとか、上村の「ヒミツ」が原作で「おばあちゃんを裏切って父親が誰か調べようとしたこと」が映画では「静電気が苦手なこと」に変えられてるとか、上村が葉山に別れを告げた時に原作ではハンバーグを残して去るのに映画では持ち帰りするとか…)カーネル・サンダース関係のエピソード(握手も含め)が映画独自に追加されていることや上村のおじいさんが勝手に殺されていることを除けば、かなり原作に忠実に作られていると感じられます。
 しかし、牛乳を買う日や子どもの名前が上村が別れを切り出す前に出てくるあたりから「あれっ?」と思うのですが、後半になり、ストーリーも作品の軸というかテーマというか上村のキャラ設定の根幹にかかわるところまでもが、原作とは違ってきます。もっとも、登場するエピソードやセリフはほとんどが原作にあるもので、ことがらの順番を入れ替えるとここまで意味を変えられるのかと感心します。
 原作では、上村は、わかりにくく我が道を行く(他人に合わせようとしない)気まぐれで扱いにくいキャラで、葉山が別れを宣言されて納得できないのも当然ですし、読者にあえて理解を求めていないと思います。それに対して、映画は、公式サイトのキャッチで「彼女には、好きだからこそ言えない、ある秘密があった」と整理されてしまうように、ものすごくわかりやすい話に変更されています。映画の方が、わかりやすいし、「うるきゅん」しやすいし、上村のキャラも実はいいやつで純愛/殉愛の美談にふさわしいものと受け取られて好感をもたれることになります。それもこの作品の1つの解釈なのかもしれません。しかし、原作は、上村の尖がった拗ねたはずれたキャラでもそのまま丸ごと受け止める、生きたいようにあるがままにいていいんだよという、よりフレキシブルな許容性を持ったものだと思うのです。わかりやすい美談にすることで失われるものも多いように感じました。

 予告編でも使われているクライマックスの葉山がカーネル・サンダース像を抱えて走るシーン。原作には影も形もないシーンですが、私の世代のおじさんは、つい川沿いの道を走る(橋を渡る)場面では、そのまま川にダイブ!(よい子はマネしないように!)と期待してしまうと思います。そういう世代のおじさんは見ない映画だと思いますが…
 終盤登場する山崎さん(片桐はいり)も後半の設定が全く違うためにセリフも原作とだいぶ変わりますが、少ない登場シーンでいい味を出しています。山崎さんへのプレゼントが、原作ではわざわざ「大きな瓶のふりかけは明日も明後日も同じ味だが」たくさんの種類なら「明日のご飯はどれをかけようか楽しみになるね」と書いているのに、映画では大きな瓶のふりかけ1つというのは、どうかと思いますが。

2017年1月15日 (日)

ブラック・ファイル 野心の代償

 巨大製薬会社の治験データねつ造の証拠を不正に入手した若手弁護士の野心の行方を描いたサスペンス映画「ブラック・ファイル 野心の代償」を見てきました。
 封切2週目日曜日、全国10館東京で2館の上映館の1つ新宿ピカデリースクリーン9(127席)午前11時5分の上映は6割くらいの入り。

 公選弁護人事務所で勝訴を続けニュー・オーリンズの名門事務所に移籍し、ハードな残業をこなしながら11連勝していた若手弁護士のベン・ケイヒル(ジョシュ・デュアメル)は、病院勤めの妻シャーロット(アリス・イヴ)と流産以来すれ違いの日々を送っていた。元カノのエミリー(マリン・アッカーマン)からSNSで友達申請があり、妻とのデートの約束も忘れて10年ぶりにエミリーと会ったベンは、エミリーが偽名で暮らす隠れ家で愛人のピアソン製薬CEOアーサー・デニング(アンソニー・ホプキンス)のパソコンから抜き取った新薬の治験データをねつ造した決定的証拠となるファイルを受け取る。ベンは事務所の代表弁護士チャールズ・エイブラムス(アル・パチーノ)に、内部資料の入手を報告し、アーサーに対する訴訟提起を提案した。チャールズは、ベンに自分の価格を書いて見ろと、そのファイルを購入してベテランの弁護士に訴訟を遂行させようとしたが、ベンは自分をその主任にすることを求め、チャールズは渋々それを認めた。ベンはシャーロットと出かけたパブで謎の男(イ・ビョンホン)から訴訟から手を引かないと妻の笑顔を見るのは今日が最後になると脅され、アーサーの元には「12時間後にこの女を殺す」というエミリーの顔写真付きのメッセージが届き…というお話。

 新人弁護士のベンとベテラン弁護士のチャールズの言動に、弁護士のあり方、一般人が弁護士に対して持つイメージを考えさせられます。
 ベンは、「正義のためなら手を汚す」ことも辞さないという姿勢を度々示し強調しています。ここには2つの疑問があります。一般的に言って、弁護士は、「正義のためなら手を汚す」べきでしょうか。訴訟においては、ルールに従って訴訟行為を行うことが求められ予定されていて、弁護士は「ルールに従って勝つ」ことが求められているはずです。訴訟外の交渉においても、法律家として登場する以上、同様だと思います。世間一般では弁護士がルールに違反して手を汚して勝つことは期待されていないはずですし、そのようなやり方で勝訴しても尊敬を勝ち得ることはないと思います。依頼者の中にはそのような手を使っても勝ってほしいと考える者もいるかもしれませんが、それが正当な期待であるとはいえませんし、弁護士はそのような者の期待に応えるべきではないと思います。また、訴訟において弁護士がどのようにしてどこまでの証拠収集をすることが期待されるべきでしょうか。証拠は基本的には依頼者が所持しているか、そうでなければ訴訟手続を通じて入手するものです。それを超えて弁護士が独自に証拠を入手するということは現実的ではありません。リーガルミステリーでは、弁護士が調査員(しばしば元捜査関係者や私立探偵)を通じてまったく独自に証拠を入手するという設定が多く、この作品でも、ベンはハッカーの知人を通じて不正に証拠を入手しています。このようなことが期待されていると、弁護士が自ら「手を汚して」不正な方法で証拠を入手するという役割まで求められることになりかねませんが、それは誤った期待だと思います。
 チャールズは、真実よりもどう見えるかが大事だと語ります。民事訴訟の目的/役割/機能は、「真相の解明」ではなくその紛争/事件の適正な解決であること、いくら真実はこうだと叫んでもそれを立証(証明)できなければ裁判に勝てないということは、法律実務家であれば、誰しも認めるところです。それを超えて、裁判の目的が純然たる真相の解明にあるとか、証拠の裏付けのない自分にとっての「真実」(悪くいえば自分に都合のいい「真実」)が認められない限り「正義に反する」と言われても、困ります。しかし、同時に、弁護士が真実がどうでもいいと思っているわけではなく、証拠から見て通常の第三者の目からは真実と評価できる事実関係に基づいた適正な解決を目指しているものです。チャールズの言葉は誤解を招きやすいもので、不適切に感じます。

 サスペンス/ミステリー映画らしく、いくつかのどんでん返しがあり、そういう点では楽しめます。
 イ・ビョンホンの役割/パフォーマンスについては評価が分かれそうです。暗く不気味な雰囲気をよく演じていたと、イ・ビョンホンファンは評価するのでしょうし、非現実的で浮いていたという評価も可能でしょう。
 「戦慄のラストがあなたの人生も狂わせる」というキャッチ。う~ん。リーガルミステリーファンにはどこかで見たような感じがするラストのような…(どの作品とまで言うとネタバレなので…)。

2017年1月 8日 (日)

アイヒマンを追え! ナチスがもっとも畏れた男

 1960年のイスラエルの情報機関モサドによるナチ戦犯アイヒマン逮捕の裏側を描いた映画「アイヒマンを追え! ナチスがもっとも畏れた男」を見てきました。
 封切2日目日曜日、全国10館東京で2館の上映館の1つヒューマントラストシネマ有楽町シアター1(161席)午前10時の上映は満席(12時5分も満席と言ってました)。

 1950年代のフランクフルト、ヘッセン州検事長のフリッツ・バウアー(ブルクハルト・クラウスナー)は、逃亡・潜伏しているナチ戦犯の捜査を進めていたが、部下の検察幹部のほとんどは面従腹背で捜査は進展せず、バウアーが執務室を空けるといつの間にか捜査ファイルが消えているというありさまだった。バウアーの行動を快く思わない連邦刑事局長はユダヤ人のバウアーが戦時中デンマークに亡命した際に男娼といるところを逮捕されたことを材料にバウアーの失脚を画策し、バウアーの元には反ユダヤ主義者からの脅迫や嫌がらせの手紙が次々と送られ、バウアーは心理的に追い詰められていた。そんなある日、最重要戦犯とされていたアドルフ・アイヒマンが偽名でブエノスアイレスに潜伏しているという手紙が届いた。バウアーは、インターポール(国際刑事警察機構)に海外潜伏中のナチ戦犯の逮捕の可否を照会したが、インターポールからは政治犯は管轄外というつれない回答が来た。バウアーは、協力する姿勢を見せていた部下の検事カール・アンガーマン(ロナルト・ツェアフェルト)にイスラエルの情報機関モサドへの情報提供を相談したが、国家反逆罪に当たると反対され…というお話。

 アウシュビッツ裁判(「顔のないヒトラーたち」2014年、ドイツ:日本では2015年10月3日公開で描かれています)で有名なフリッツ・バウアーについて、バウアーをめぐる環境、バウアーへの圧力と、これまでドイツとは関係なくイスラエルのモサドが逮捕したと考えられてきたアイヒマン逮捕の陰にバウアーがいたということを中心に据えて描いた作品です。
 アイヒマン逮捕のためにフリッツ・バウアーが行った検察官としての捜査自体は、通報の手紙の処理と情報屋への依頼くらいしか描かれておらず、作品の中心は、バウアーの孤立、敵対勢力の陰謀・画策、バウアーが受け続けた圧力・恫喝です。
 日本とは対照的に、第二次世界大戦前・戦時中の暗い過去と正面から向き合い克服してきたと世界から評価されているドイツにおいても、その克服の過程は簡単ではなく、様々な抵抗勢力の妨害があったことがわかります。
 当時同性愛を処罰する刑法の規定があったことが、バウアーに協力する検事を陥れバウアーを国家反逆罪で告発するように脅しつける材料とされ、またバウアー自身の失脚を図る材料とされたことを見るにつけ、現実の被害者がいないような犯罪や微罪の類を幅広く処罰できる刑罰法規の存在が、国家・政権に都合の悪い者を排除する権力者の武器となることを痛感します。なんでも処罰処罰と言いたがる人とマスコミが、権力者の専横を助けていることを、「共謀罪」の亡霊がまた姿を現したこの国でももっときちんと認識してほしいと思います。

2017年1月 3日 (火)

ぼくは明日、昨日のきみとデートする

 「たった30日恋するためにぼくたちは出会った」というキャッチのラブ・ストーリー「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」を見てきました。
 封切3週目月曜日三が日、新宿ピカデリースクリーン5(157席)午前11時30分の上映は、7割くらいの入り。

 京都の美大の漫画学科の学生南山高寿(福士蒼汰)は、通学時の叡電(叡山電車:今は京福電鉄じゃなくて京阪なんですね。知らなかった…)の車中で見かけた福寿愛美(小松菜奈)を運命の人と感じて降車駅で声をかけた。「また会えますか」と聞かれて感極まって涙ぐんだ愛美は、「会えるよ。また明日」と言って叡電で去った。翌日岡崎の動物園でキリンを描く高寿の背後から愛美が現れ、驚く高寿に、愛美は「教室に張り出されるやつですね」とつぶやき、高寿は愛美に連絡先を聞く。ルームメイトの上山(東出昌大)に煽られて電話でデートを申し込んだ高寿に、愛美は即答で承諾、「明日」と答える。愛美とのデートに向かおうと大学を出る高寿に上山がお前の絵教室に張り出されたぞと声をかけ、高寿は一瞬立ち尽くすが、愛美とのデートは最高で、高揚した高寿は愛美に交際を申し込み、やはり涙ぐんだ愛美は、自己紹介したうえ「私涙もろいから」と断って「よろしくお願いします」と答えた。愛美は毎日のように高寿を訪れ、夢のような日々が続くが、ある日、愛美が帰った後高寿の部屋に遺されていた手帳には、驚くべき書き込みがあり…というお話。

 設定の着想がすべてといってよい作品で、それを書かないと具体的な議論ができないのですが、それを言ってしまったらネタバレにもほどがあるということで、記事を書くには悩ましい作品です。

 その理由はさておいて、自分の運命の行方、そして愛する人とともに過ごす運命の行方がわかってしまったら、人はどのようにそれを受け止めるか、残されたわずかな時間をどう過ごすか、自分の気持ちにどう踏ん切りをつけるか、そしてその時愛する人の気持ちをどこまで思いやり寄り添えるかが、テーマであり、泣かせどころです。終盤に盛り上がる愛美の思いの切なさ、高寿の成長が、泣かせてくれます。

 しかし、シンデレラの愛美は、あの手帳をいつ/どうやって回収したのでしょうか…

 映像としては、学生時代を過ごした鴨川の眺めをはじめ観光地でない京都の雰囲気が、私には懐かしくいい感じでした。

2017年1月 1日 (日)

ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅

 「ハリー・ポッター新シリーズ」と銘打たれた映画「ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅」を見てきました。
 封切6週目日曜日映画サービスデー、新宿ピカデリースクリーン1(580席)午後1時55分の上映は9割くらいの入り。

 ハリー・ポッターシリーズよりも70年ほど前、ヨーロッパでは闇の魔法使いグリンデルバルドが席捲した後姿を隠していたとき、魔法生物学者ニュート・スキャマンダー(エディ・レッドメイン)は、ニューヨークを訪れ、鞄の中に魔法生物を隠したまま無事税関をすり抜けた。その頃、ニューヨークでは、正体不明の謎の生物による建物破壊が続き、合衆国魔法議会(MACUSA)の高官グレイブス(コリン・ファレル)は現場検証を続けていた。ニューヨークの街頭では、人間(ノー・マジ)に対して、魔法使いの実在を主張してその危険性を訴えるセーラム慈善協会のメアリー・ルー・ベアボーン(サマンサ・モートン)の脇でその養子のクリーデンス(エズラ・ミラー)らがチラシを配っていた。ニュートが演説するメアリーのそばを通ったときニュートの鞄から光るものが好きな魔法生物ニフラーが逃げ出し、銀行に飛び込んだ。ニフラーを探すニュートは、パン屋を開業するために融資を申し込みに来たノー・マジのジェイコブ・コワルスキー(ダン・フォグラー)を巻き込んでしまう。今は単純作業担当に左遷されている元合衆国魔法議会調査部の闇払いティナ・ゴールドスタイン(キャサリン・ウォーターストン)は、ニュートがノー・マジのジェイコブの前で魔法を使うのを見てニュートを調査部に連行するが、謎の魔法生物による建物破壊事件を検討していた元上司たちはそれどころではないとティナを追い返す。ニュートの鞄を取り違えて持ち帰ったジェイコブは、自宅で鞄の中の魔法生物を逃がしてしまいジェイコブの家が大破し…というお話。

 1920年代のアメリカが舞台ですから、当然、生まれてもいないハリー・ポッターも、ロンも、ハーマイオニーも、まったく登場しません。ニュート・スキャマンダーは、ハリー・ポッターの中では、ホグワーツ指定教科書「幻の生物とその生息地」の著者として名前が出るだけで、ホグワーツの教員でもなく、登場しませんし、「伝説の人」として重要視されたわけでもありません。それで、そのハリー・ポッターシリーズで現実に登場することもなくさしたる重要性もない場面でただ名前が出てきただけのニュート・スキャマンダーが主人公の話を、スピン・オフ作品としてさえ無理があると思われるのに、あろうことか「ハリー・ポッター新シリーズ」などと銘打って売り出そうというのですから、商魂の逞しさに、ただただ驚きます。
 ストーリーも、ニュート・スキャマンダーが鞄に入れていた魔法生物が複数逃げ出して、それを回収するのにてんてこ舞いし、その過程で周囲にいたノー・マジ(一般人)のジェイコブと魔法議会の元闇払いのティナ、その妹のケイニー(アリソン・スドル)を巻き込み、魔法議会内部の人間関係・対立・陰謀が絡むという、かなりシンプルな構成です。

 人情ものとしては、ニュート・スキャマンダーが、ハリー・ポッターファンにわかりやすくいえば、スマートで能力があり標準語をしゃべるルビウス・ハグリッドのようなキャラ(第三者から見れば危険な魔法生物を「かわいい」ものと見て思い入れを持ち、トラブルを引き起こす)設定になっていること、ジェイコブが親しみを感じさせるキャラで、ケイニーがルーナ・ラブグッドのような不思議ちゃん系の惚れっぽさを見せるあたりが、巧みで、みせどころになっています。
 映像面では、魔法生物、特にニフラー、ボウトラックル等の可愛さが見どころになっています(私としては、こういうテーマでつくるのだったら、ハリー・ポッター本編で登場しなかったサンダーバードとかエルンペントなどを新たに作るよりは、本編で重要な位置づけだったはずなのに映画で登場させなかった尻尾爆発スクリュートとかを、今ならCG技術も発達して作りやすくなってるんですから、この際登場させて欲しかったなぁと思いますが)。

 他方、ネタバレになりますが、終盤で、子どもが作り出す謎の生物「オブスキュラス」(ハリー・ポッターシリーズでは影も形もなかったと思います)を生み出した子どもに対して、その危険性から抹殺を図る魔法議会議長セラフィーナ・ピッカリー(カルメン・イジョゴ)と、利用しようとするグレイブス、助けたいニュートの3者が対立する構造となった後、子どもが抹殺された(本当に抹殺されたかは、続編でどうなるか疑問ですが)段階で、ニュートが即座にグレイブスを拘束して魔法議会に協力するのは、私には違和感があります。
 現実的には、ニュートのその選択が、ニュートのその後のニューヨークでの滞在に有利に働きまたニュートのイギリス魔法省でのキャリアにも有利に働くことになるでしょうし、ティナやケイニーの立場も好転させるということになります。しかし、ニュートはそういう清濁併せ呑むタイプに描かれていません。そのニュートが、自分が守ろうとした子どもを目の前で抹殺した人物に対して苦渋の選択という描写もなく(心理的には一転してのはずの)協力をするというのは、私には、すとんと落ちず、素直に受け入れることができませんでした。

 「シリーズ」になると、今回は名前と顔写真だけだったリタ・レストレンジとの過去ないしはやけぼっくいとティナとの三角関係、原作では終盤の大きなテーマとなっているのに映画では避け続けられたダンブルドアとグリンデルバルドの関係で話を膨らませてゆくことになると予想されます。後者はハリー・ポッターファンの琴線に触れるテーマだけに、どのように取り扱われるのか、続編も見ることになれば、注目です。

2016年12月31日 (土)

バイオハザード ザ・ファイナル

 TVゲームを映画化したゾンビ・アクション映画の完結編「バイオハザード ザ・ファイナル」を見てきました。
 封切2週目土曜日、新宿ピカデリースクリーン1(580席)午前11時35分の上映は、1~2割の入り。「世界最速公開」の前週末は、「スター・ウォーズ」の天敵「妖怪ウォッチ」を抑えて興行成績1位となったものの、先行きは暗そう。

 廃墟と化したワシントンで一人さまようアリス(ミラ・ジョヴォヴィッチ)は、アンブレラ社のホスト・コンピュータのレッド・クィーン(エバー・アンダーソン:ミラ・ジョヴォヴィッチの実娘)から、現在生存している人類は世界に4000人余り、ラクーンシティのハイブにT-ウィルスに対抗するウィルスがあり、人類を救うためにはそれを散布するしかない、制限時間はこれから48時間と告知され、ラクーンシティへと向かう。途中、罠にかかって捕獲され、アンデッドに追われながらアンブレラ社の戦車に引きずられるピンチを脱したアリスは、再会したクレア(アリ・ラーター)ら新たな仲間と砦にこもってアンデッドの群衆の襲撃と闘い、ハイブに潜入するが…というお話。

 ミラ・ジョヴォヴィッチの超人的な/不死身の(アンデッド)ともいうべき格闘技的なアクション(同じゲームでも、ストリートファイターのイメージの方に近いような)で見せる作品だと思います。
 アリスとは何者か、なぜアリスに過去の記憶がないのか、人類をアンデッドに変えるT-ウィルスはなぜ流出したのか、何のために開発されたのか、アンブレラ社の目的は何か、アンブレラ社のホストコンピュータのレッド・クィーンとは何か(ついでになぜミラ・ジョヴォヴィッチの娘がその役なのか)、なぜクローンが作られたのか、などのこれまでのシリーズで明らかにされていなかった謎が、一通り説明され、シリーズのファンの人には満足度がたぶん高く、ファンでない観客にとってもようやく普通に理解できる作品となっています。
 レッド・クィーンの葛藤、「本物」とそのクローンの相克、クローンにとってのアイデンティティなど、人情の機微に迫り、考えさせられるところもあります。

 しかし、私は、ゾンビ映画は、どうしても好きになれません。相手を理解不能の不気味なもの、意思疎通不可能で有害な(加害者/攻撃的な)ものと表現し、それに「人間でないもの」とラベリングすることで殺害してよい(もっとも、「殺せない」のがゾンビなわけですけど)ものと扱い、徹底的に情け容赦なく殺戮の限りを尽くすが、良心の呵責は感じないというシーンを量産して、それに慣れ不感症にしてゆく。そのような感性には、同調できませんし、不愉快に思います。象徴的な「敵」を作って敵愾心をあおり、相手は人間ではない(鬼畜米英とか。ベトコンとか不逞鮮人とか「テロリスト」もそういう扱いかも)とすることで戦争や虐殺を容易にする人たちの論理/手法と通じるものを感じてしまいます。
 ましてや、この作品では、アンデッドはT-ウィルス感染被害者で、何ら罪なき人です。エリートではなく感染を防げなかった普通の庶民が劣等人類として抹殺すべき対象と扱われているのです。アンデッドが無差別に攻撃してくる凶悪な映像があるゆえにそこが隠蔽されていますが、この作品を支える世界観は、優越民族を守るために劣等民族を抹殺してよいというナチスの思想と親和性を持っているように、私には感じられます。
 アリス自身は、そこまでの意図を持たない(アリスの立場に身を置けば、相手の素性がどうあれ攻撃してくる以上戦い続けなければ生き残れない)としても、T-ウィルス感染被害者であるアンデッドの群衆を全員殺し尽くす/焼き尽くすことにまったくためらいも見せず葛藤がないアリスを英雄視する(制作側、興行側、そしてメディア・観客側の)姿勢は、人の命の尊さや弱き者・被害者の気持ち・立場への感受性を決定的に欠くものと見えます。

2016年12月25日 (日)

アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場

 無人機による爆撃をめぐる軍人・政治家らの葛藤を描き倫理を問う映画「アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場」を見てきました。
 先行公開3日目、全国唯一の先行上映館TOHOシネマズシャンテスクリーン2(201席)午前10時30分の上映は9割くらいの入り。

 ケニヤのナイロビのアジトにイスラム過激派「アル・シャバブ」の幹部が集結するという情報をつかんだイギリス軍は、上空の無人機からの映像を見ながら、キャサリン・パウエル大佐(ヘレン・ミレン)が率いるイギリス軍統合司令部、フランク・ベンソン中将(アラン・リックマン)らが控える内閣(首相、外相は外遊中)、無人機を操縦するスティーブ・ワッツ(アーロン・ポール)らが待機するネバダ州の米軍基地の3か所での合同作戦を展開し、現地での対象者の捕獲を準備していたが、パウエルが最重要対象者の確認を待つように指示する中、アル・シャバブの幹部らが車で過激派の支配地域内に移動してしまい、捕獲作戦は現地隊員の犠牲が大きくなるために困難になった。パウエルは、現地のスパイジャマ・ファラ(バーカッド・アブディ)を過激派支配地域に潜入させてアル・シャバブ幹部が集結した家の中に甲虫型の盗撮ビデオカメラを飛ばして最重要対象者の存在を確認したが、その際、自爆テロ用の爆弾を仕込んだベストなどが用意されていることを確認した。作戦を捕獲から無人機による対象者殺害(爆撃)に変更することを主張するパウエルに対し、内閣内では殺害を主張する軍側、決断の責任を回避する政治家、法的正当性がないことを指摘するアンジェラ・ノース(モニカ・ドラン)らが対立して紛糾し、決断は先延ばしにされる。アメリカ側の決断で爆撃が決定され、発射準備が整ったところで、爆撃対象の家の前で少女がパンを売り始め、爆撃による少女の死亡確率をめぐり、作戦はさらに迷走し…というお話。

 自爆テロで失われるかもしれない80人の命を守るために1人の少女を犠牲にしてもテロリストを爆撃すべきか、という問いが度々投げかけられています。
 この種の「究極の選択」を迫りたがる多くの作品同様、まずこの「二者択一」に疑問があります。長時間にわたり上空からの監視を続けて議論しているわけですから、パウエルはまずは捕獲作戦のために待機させている特殊部隊を過激派支配地域の外側に移動させて待機させておくべきで、自爆テロの行為者が移動を始めればそれを上空から監視を続け、支配地域を出たところで捕獲する、そこで抵抗すれば初めて射殺等の対応をするというのが本筋でしょう。自爆テロを続ける過激派を捕獲する作戦に従事する特殊部隊は、対爆弾用の装備もしているはずですし。パウエルらは過激派は人混みで自爆テロをすると繰り返し主張していますが、過激派が自分たちの支配地域で自爆テロをすることは考えられませんから、自爆テロの実行犯が支配地域からそうでない地域の人口密集地帯までの間の非居住地帯を通る場面が当然にあるはずです。その程度の冷静な判断もできないようなら、まず軍の作戦を指揮する資格はないでしょう。むしろ、パウエルには、自分が最重要対象者の存在確認に手間取って、その間に過激派支配地域に移動されて、捕獲作戦には軍の犠牲が大きくなってしまったという、自己の失策を糊塗するためにも、軍の犠牲を払わなくてよい殺害に切り替えたいという動機、6年間探し求めてきた最重要対象者の存在をようやく把握したことから逃がすリスクを最小限にするため捕獲より殺害にしたいという動機があったものと見えます。自爆テロが迫っているというのは、パウエルにとってはむしろ殺害に切り替えるための口実に過ぎなかったように思えます(終盤での2回目の爆撃指示を見ると、その感を強くします)。
 ここでは、自爆テロを準備しているテロリストなら裁判もなしに殺してよいのか、という問いかけはありません。過激派には人権はないと言っているようです。イギリス軍やアメリカ軍は、またアメリカ政府は、そしてまた少なくない人々は、いつからこのような感覚と認識を持つようになってしまったのでしょうか。
 まず、たぶんふつうの法的な考えでは、少なくとも私の感覚では、自爆テロを準備して敢行しようとしている人物は、爆発物を持って公道に出たところで爆発物所持の現行犯として、過激派の幹部は国際指名手配されているというのですから当然に逮捕令状が出ているはずなので令状により、いずれも逮捕はできるでしょうし、それで起訴・刑事裁判と進むべきで、裁判なしで殺害することは法的には許されません。国際法的な問題として、ケニア国内でイギリス軍やアメリカ軍が無人機を飛行させてその無人機からミサイルを発射すること自体、主権侵害でしょうし、いずれにしてもそれで人に危害を加えるなど犯罪というべきでしょう。自爆テロによる被害を防ぐため、だとしても、なにゆえにイギリス軍やアメリカ軍がそのような権限を持つのか、大いに疑問です。
 国際的な権限の問題を置いて、自爆テロを防ぐためにテロリストを殺害してよいという考え方は、国家権力の行使をテロリストの自爆テロと同次元に引き下げ、貶めるものです。国家権力の行使は、それが国家権力であるがゆえに(その理由が国民の信託によるものであるからか、権力が巨大であるからかは置いても)謙抑的な行使が求められ、また正義を具現するために行使されるべきであり、適正手続を守って行われるべきですし、権力を行使する者には一定の矜持(ノブレス・オブリージュ)が求められます。テロリストが悪を行うのだから、国家も同様に目には目をでいいというのは、子どもの喧嘩レベルの議論でしょう。ブッシュが「対テロ戦争」などと言い出してから、アメリカという国は、そのレベルで議論するように成り果ててしまいました。その「同盟国」も、そのレベルに落ちる国が多いようです。床屋談義であればともかく、権力を行使する人物がそのレベルでいることに、私は、戦慄を覚えます。この作品の登場人物で、私の眼には冷静に論じているのはアンジェラただ一人です。そのアンジェラでさえ、少女の犠牲がなければ殺害自体には反対しない姿勢で、私にはその価値観の飛び方が法律顧問として疑問に思えるのですが。

 私の眼には唯一冷静な判断をしているアンジェラに、自分たちは安全な場所で戦争をしていると指摘させ、他方そのアンジェラの指摘に対してベンソン中将が自分は自爆テロの現場に何度も行った「決して軍人に言ってはならない。彼らが戦争の代償を知らないなどと」と諭すシーンを置き、そのベンソン中将が子どもへのプレゼントを持って帰るシーンをつなげるあたりは、アンジェラが現場を知らない頭でっかちだと言いたいのか、自分の子どもはかわいくても見知らぬ子どもには冷酷になれると言いたいのか…
 アンジェラの問いかけを採って、原題にはないサブタイトル「世界一安全な戦場」を付けた日本の興行サイドに、少しだけ拍手。

 パウエルが、爆撃の際の少女の死亡確率を計算する部下がどう計算しても上限は65%になると答えたのに対して、爆撃を実行するために、計算結果を45%以下にしろと命じ、部下が戸惑いながら計算をせずに着弾点をここにすればたぶん45%になると答える場面があります。何としてでも自分の希望を押し通したい権力者と、権力の意向を気にして希望的観測で自己の良心をなだめてさじ加減する技術者のやり取り。私は、原発の設計や事故評価の計算をイメージしてしまいます。

 家屋内に令状もなく盗撮ビデオカメラを飛ばして中の様子を監視することも、もちろん違法で、犯罪と言ってよい行為です。これも、犯罪者(犯罪を準備する者)には人権などないというレベルの粗雑な議論で押し通すのでしょうか。盗聴法が制定されて実施され、2016年7月の参議院選挙期間に大分県警が連合大分の事務所に盗撮用カメラを設置した事件が発覚しても政権が転覆することもない日本でも、他人事には思えません。米軍が駐留し、首都(東京)を1時間程度で制圧できる位置に米軍基地(横田基地)があり、米軍機やオスプレイがどこでも自由に飛行できる(原発の上は、なるべく飛ばないようにする、けど)この国では、無人機がどれほど飛んでも不思議はありませんし、無人機が民家を爆撃しても、オスプレイが墜落しても米軍と政府に遠慮して「着水」なんて報道しかしないマスコミばかりの現状では、きっともみ消されてしまうでしょう。この映画のテーマは、全然他人事には思えませんでした。

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