2017年1月15日 (日)

ブラック・ファイル 野心の代償

 巨大製薬会社の治験データねつ造の証拠を不正に入手した若手弁護士の野心の行方を描いたサスペンス映画「ブラック・ファイル 野心の代償」を見てきました。
 封切2週目日曜日、全国10館東京で2館の上映館の1つ新宿ピカデリースクリーン9(127席)午前11時5分の上映は6割くらいの入り。

 公選弁護人事務所で勝訴を続けニュー・オーリンズの名門事務所に移籍し、ハードな残業をこなしながら11連勝していた若手弁護士のベン・ケイヒル(ジョシュ・デュアメル)は、病院勤めの妻シャーロット(アリス・イヴ)と流産以来すれ違いの日々を送っていた。元カノのエミリー(マリン・アッカーマン)からSNSで友達申請があり、妻とのデートの約束も忘れて10年ぶりにエミリーと会ったベンは、エミリーが偽名で暮らす隠れ家で愛人のピアソン製薬CEOアーサー・デニング(アンソニー・ホプキンス)のパソコンから抜き取った新薬の治験データをねつ造した決定的証拠となるファイルを受け取る。ベンは事務所の代表弁護士チャールズ・エイブラムス(アル・パチーノ)に、内部資料の入手を報告し、アーサーに対する訴訟提起を提案した。チャールズは、ベンに自分の価格を書いて見ろと、そのファイルを購入してベテランの弁護士に訴訟を遂行させようとしたが、ベンは自分をその主任にすることを求め、チャールズは渋々それを認めた。ベンはシャーロットと出かけたパブで謎の男(イ・ビョンホン)から訴訟から手を引かないと妻の笑顔を見るのは今日が最後になると脅され、アーサーの元には「12時間後にこの女を殺す」というエミリーの顔写真付きのメッセージが届き…というお話。

 新人弁護士のベンとベテラン弁護士のチャールズの言動に、弁護士のあり方、一般人が弁護士に対して持つイメージを考えさせられます。
 ベンは、「正義のためなら手を汚す」ことも辞さないという姿勢を度々示し強調しています。ここには2つの疑問があります。一般的に言って、弁護士は、「正義のためなら手を汚す」べきでしょうか。訴訟においては、ルールに従って訴訟行為を行うことが求められ予定されていて、弁護士は「ルールに従って勝つ」ことが求められているはずです。訴訟外の交渉においても、法律家として登場する以上、同様だと思います。世間一般では弁護士がルールに違反して手を汚して勝つことは期待されていないはずですし、そのようなやり方で勝訴しても尊敬を勝ち得ることはないと思います。依頼者の中にはそのような手を使っても勝ってほしいと考える者もいるかもしれませんが、それが正当な期待であるとはいえませんし、弁護士はそのような者の期待に応えるべきではないと思います。また、訴訟において弁護士がどのようにしてどこまでの証拠収集をすることが期待されるべきでしょうか。証拠は基本的には依頼者が所持しているか、そうでなければ訴訟手続を通じて入手するものです。それを超えて弁護士が独自に証拠を入手するということは現実的ではありません。リーガルミステリーでは、弁護士が調査員(しばしば元捜査関係者や私立探偵)を通じてまったく独自に証拠を入手するという設定が多く、この作品でも、ベンはハッカーの知人を通じて不正に証拠を入手しています。このようなことが期待されていると、弁護士が自ら「手を汚して」不正な方法で証拠を入手するという役割まで求められることになりかねませんが、それは誤った期待だと思います。
 チャールズは、真実よりもどう見えるかが大事だと語ります。民事訴訟の目的/役割/機能は、「真相の解明」ではなくその紛争/事件の適正な解決であること、いくら真実はこうだと叫んでもそれを立証(証明)できなければ裁判に勝てないということは、法律実務家であれば、誰しも認めるところです。それを超えて、裁判の目的が純然たる真相の解明にあるとか、証拠の裏付けのない自分にとっての「真実」(悪くいえば自分に都合のいい「真実」)が認められない限り「正義に反する」と言われても、困ります。しかし、同時に、弁護士が真実がどうでもいいと思っているわけではなく、証拠から見て通常の第三者の目からは真実と評価できる事実関係に基づいた適正な解決を目指しているものです。チャールズの言葉は誤解を招きやすいもので、不適切に感じます。

 サスペンス/ミステリー映画らしく、いくつかのどんでん返しがあり、そういう点では楽しめます。
 イ・ビョンホンの役割/パフォーマンスについては評価が分かれそうです。暗く不気味な雰囲気をよく演じていたと、イ・ビョンホンファンは評価するのでしょうし、非現実的で浮いていたという評価も可能でしょう。
 「戦慄のラストがあなたの人生も狂わせる」というキャッチ。う~ん。リーガルミステリーファンにはどこかで見たような感じがするラストのような…(どの作品とまで言うとネタバレなので…)。

2017年1月 8日 (日)

アイヒマンを追え! ナチスがもっとも畏れた男

 1960年のイスラエルの情報機関モサドによるナチ戦犯アイヒマン逮捕の裏側を描いた映画「アイヒマンを追え! ナチスがもっとも畏れた男」を見てきました。
 封切2日目日曜日、全国10館東京で2館の上映館の1つヒューマントラストシネマ有楽町シアター1(161席)午前10時の上映は満席(12時5分も満席と言ってました)。

 1950年代のフランクフルト、ヘッセン州検事長のフリッツ・バウアー(ブルクハルト・クラウスナー)は、逃亡・潜伏しているナチ戦犯の捜査を進めていたが、部下の検察幹部のほとんどは面従腹背で捜査は進展せず、バウアーが執務室を空けるといつの間にか捜査ファイルが消えているというありさまだった。バウアーの行動を快く思わない連邦刑事局長はユダヤ人のバウアーが戦時中デンマークに亡命した際に男娼といるところを逮捕されたことを材料にバウアーの失脚を画策し、バウアーの元には反ユダヤ主義者からの脅迫や嫌がらせの手紙が次々と送られ、バウアーは心理的に追い詰められていた。そんなある日、最重要戦犯とされていたアドルフ・アイヒマンが偽名でブエノスアイレスに潜伏しているという手紙が届いた。バウアーは、インターポール(国際刑事警察機構)に海外潜伏中のナチ戦犯の逮捕の可否を照会したが、インターポールからは政治犯は管轄外というつれない回答が来た。バウアーは、協力する姿勢を見せていた部下の検事カール・アンガーマン(ロナルト・ツェアフェルト)にイスラエルの情報機関モサドへの情報提供を相談したが、国家反逆罪に当たると反対され…というお話。

 アウシュビッツ裁判(「顔のないヒトラーたち」2014年、ドイツ:日本では2015年10月3日公開で描かれています)で有名なフリッツ・バウアーについて、バウアーをめぐる環境、バウアーへの圧力と、これまでドイツとは関係なくイスラエルのモサドが逮捕したと考えられてきたアイヒマン逮捕の陰にバウアーがいたということを中心に据えて描いた作品です。
 アイヒマン逮捕のためにフリッツ・バウアーが行った検察官としての捜査自体は、通報の手紙の処理と情報屋への依頼くらいしか描かれておらず、作品の中心は、バウアーの孤立、敵対勢力の陰謀・画策、バウアーが受け続けた圧力・恫喝です。
 日本とは対照的に、第二次世界大戦前・戦時中の暗い過去と正面から向き合い克服してきたと世界から評価されているドイツにおいても、その克服の過程は簡単ではなく、様々な抵抗勢力の妨害があったことがわかります。
 当時同性愛を処罰する刑法の規定があったことが、バウアーに協力する検事を陥れバウアーを国家反逆罪で告発するように脅しつける材料とされ、またバウアー自身の失脚を図る材料とされたことを見るにつけ、現実の被害者がいないような犯罪や微罪の類を幅広く処罰できる刑罰法規の存在が、国家・政権に都合の悪い者を排除する権力者の武器となることを痛感します。なんでも処罰処罰と言いたがる人とマスコミが、権力者の専横を助けていることを、「共謀罪」の亡霊がまた姿を現したこの国でももっときちんと認識してほしいと思います。

2017年1月 3日 (火)

ぼくは明日、昨日のきみとデートする

 「たった30日恋するためにぼくたちは出会った」というキャッチのラブ・ストーリー「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」を見てきました。
 封切3週目月曜日三が日、新宿ピカデリースクリーン5(157席)午前11時30分の上映は、7割くらいの入り。

 京都の美大の漫画学科の学生南山高寿(福士蒼汰)は、通学時の叡電(叡山電車:今は京福電鉄じゃなくて京阪なんですね。知らなかった…)の車中で見かけた福寿愛美(小松菜奈)を運命の人と感じて降車駅で声をかけた。「また会えますか」と聞かれて感極まって涙ぐんだ愛美は、「会えるよ。また明日」と言って叡電で去った。翌日岡崎の動物園でキリンを描く高寿の背後から愛美が現れ、驚く高寿に、愛美は「教室に張り出されるやつですね」とつぶやき、高寿は愛美に連絡先を聞く。ルームメイトの上山(東出昌大)に煽られて電話でデートを申し込んだ高寿に、愛美は即答で承諾、「明日」と答える。愛美とのデートに向かおうと大学を出る高寿に上山がお前の絵教室に張り出されたぞと声をかけ、高寿は一瞬立ち尽くすが、愛美とのデートは最高で、高揚した高寿は愛美に交際を申し込み、やはり涙ぐんだ愛美は、自己紹介したうえ「私涙もろいから」と断って「よろしくお願いします」と答えた。愛美は毎日のように高寿を訪れ、夢のような日々が続くが、ある日、愛美が帰った後高寿の部屋に遺されていた手帳には、驚くべき書き込みがあり…というお話。

 設定の着想がすべてといってよい作品で、それを書かないと具体的な議論ができないのですが、それを言ってしまったらネタバレにもほどがあるということで、記事を書くには悩ましい作品です。

 その理由はさておいて、自分の運命の行方、そして愛する人とともに過ごす運命の行方がわかってしまったら、人はどのようにそれを受け止めるか、残されたわずかな時間をどう過ごすか、自分の気持ちにどう踏ん切りをつけるか、そしてその時愛する人の気持ちをどこまで思いやり寄り添えるかが、テーマであり、泣かせどころです。終盤に盛り上がる愛美の思いの切なさ、高寿の成長が、泣かせてくれます。

 しかし、シンデレラの愛美は、あの手帳をいつ/どうやって回収したのでしょうか…

 映像としては、学生時代を過ごした鴨川の眺めをはじめ観光地でない京都の雰囲気が、私には懐かしくいい感じでした。

2017年1月 1日 (日)

ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅

 「ハリー・ポッター新シリーズ」と銘打たれた映画「ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅」を見てきました。
 封切6週目日曜日映画サービスデー、新宿ピカデリースクリーン1(580席)午後1時55分の上映は9割くらいの入り。

 ハリー・ポッターシリーズよりも70年ほど前、ヨーロッパでは闇の魔法使いグリンデルバルドが席捲した後姿を隠していたとき、魔法生物学者ニュート・スキャマンダー(エディ・レッドメイン)は、ニューヨークを訪れ、鞄の中に魔法生物を隠したまま無事税関をすり抜けた。その頃、ニューヨークでは、正体不明の謎の生物による建物破壊が続き、合衆国魔法議会(MACUSA)の高官グレイブス(コリン・ファレル)は現場検証を続けていた。ニューヨークの街頭では、人間(ノー・マジ)に対して、魔法使いの実在を主張してその危険性を訴えるセーラム慈善協会のメアリー・ルー・ベアボーン(サマンサ・モートン)の脇でその養子のクリーデンス(エズラ・ミラー)らがチラシを配っていた。ニュートが演説するメアリーのそばを通ったときニュートの鞄から光るものが好きな魔法生物ニフラーが逃げ出し、銀行に飛び込んだ。ニフラーを探すニュートは、パン屋を開業するために融資を申し込みに来たノー・マジのジェイコブ・コワルスキー(ダン・フォグラー)を巻き込んでしまう。今は単純作業担当に左遷されている元合衆国魔法議会調査部の闇払いティナ・ゴールドスタイン(キャサリン・ウォーターストン)は、ニュートがノー・マジのジェイコブの前で魔法を使うのを見てニュートを調査部に連行するが、謎の魔法生物による建物破壊事件を検討していた元上司たちはそれどころではないとティナを追い返す。ニュートの鞄を取り違えて持ち帰ったジェイコブは、自宅で鞄の中の魔法生物を逃がしてしまいジェイコブの家が大破し…というお話。

 1920年代のアメリカが舞台ですから、当然、生まれてもいないハリー・ポッターも、ロンも、ハーマイオニーも、まったく登場しません。ニュート・スキャマンダーは、ハリー・ポッターの中では、ホグワーツ指定教科書「幻の生物とその生息地」の著者として名前が出るだけで、ホグワーツの教員でもなく、登場しませんし、「伝説の人」として重要視されたわけでもありません。それで、そのハリー・ポッターシリーズで現実に登場することもなくさしたる重要性もない場面でただ名前が出てきただけのニュート・スキャマンダーが主人公の話を、スピン・オフ作品としてさえ無理があると思われるのに、あろうことか「ハリー・ポッター新シリーズ」などと銘打って売り出そうというのですから、商魂の逞しさに、ただただ驚きます。
 ストーリーも、ニュート・スキャマンダーが鞄に入れていた魔法生物が複数逃げ出して、それを回収するのにてんてこ舞いし、その過程で周囲にいたノー・マジ(一般人)のジェイコブと魔法議会の元闇払いのティナ、その妹のケイニー(アリソン・スドル)を巻き込み、魔法議会内部の人間関係・対立・陰謀が絡むという、かなりシンプルな構成です。

 人情ものとしては、ニュート・スキャマンダーが、ハリー・ポッターファンにわかりやすくいえば、スマートで能力があり標準語をしゃべるルビウス・ハグリッドのようなキャラ(第三者から見れば危険な魔法生物を「かわいい」ものと見て思い入れを持ち、トラブルを引き起こす)設定になっていること、ジェイコブが親しみを感じさせるキャラで、ケイニーがルーナ・ラブグッドのような不思議ちゃん系の惚れっぽさを見せるあたりが、巧みで、みせどころになっています。
 映像面では、魔法生物、特にニフラー、ボウトラックル等の可愛さが見どころになっています(私としては、こういうテーマでつくるのだったら、ハリー・ポッター本編で登場しなかったサンダーバードとかエルンペントなどを新たに作るよりは、本編で重要な位置づけだったはずなのに映画で登場させなかった尻尾爆発スクリュートとかを、今ならCG技術も発達して作りやすくなってるんですから、この際登場させて欲しかったなぁと思いますが)。

 他方、ネタバレになりますが、終盤で、子どもが作り出す謎の生物「オブスキュラス」(ハリー・ポッターシリーズでは影も形もなかったと思います)を生み出した子どもに対して、その危険性から抹殺を図る魔法議会議長セラフィーナ・ピッカリー(カルメン・イジョゴ)と、利用しようとするグレイブス、助けたいニュートの3者が対立する構造となった後、子どもが抹殺された(本当に抹殺されたかは、続編でどうなるか疑問ですが)段階で、ニュートが即座にグレイブスを拘束して魔法議会に協力するのは、私には違和感があります。
 現実的には、ニュートのその選択が、ニュートのその後のニューヨークでの滞在に有利に働きまたニュートのイギリス魔法省でのキャリアにも有利に働くことになるでしょうし、ティナやケイニーの立場も好転させるということになります。しかし、ニュートはそういう清濁併せ呑むタイプに描かれていません。そのニュートが、自分が守ろうとした子どもを目の前で抹殺した人物に対して苦渋の選択という描写もなく(心理的には一転してのはずの)協力をするというのは、私には、すとんと落ちず、素直に受け入れることができませんでした。

 「シリーズ」になると、今回は名前と顔写真だけだったリタ・レストレンジとの過去ないしはやけぼっくいとティナとの三角関係、原作では終盤の大きなテーマとなっているのに映画では避け続けられたダンブルドアとグリンデルバルドの関係で話を膨らませてゆくことになると予想されます。後者はハリー・ポッターファンの琴線に触れるテーマだけに、どのように取り扱われるのか、続編も見ることになれば、注目です。

2016年12月31日 (土)

バイオハザード ザ・ファイナル

 TVゲームを映画化したゾンビ・アクション映画の完結編「バイオハザード ザ・ファイナル」を見てきました。
 封切2週目土曜日、新宿ピカデリースクリーン1(580席)午前11時35分の上映は、1~2割の入り。「世界最速公開」の前週末は、「スター・ウォーズ」の天敵「妖怪ウォッチ」を抑えて興行成績1位となったものの、先行きは暗そう。

 廃墟と化したワシントンで一人さまようアリス(ミラ・ジョヴォヴィッチ)は、アンブレラ社のホスト・コンピュータのレッド・クィーン(エバー・アンダーソン:ミラ・ジョヴォヴィッチの実娘)から、現在生存している人類は世界に4000人余り、ラクーンシティのハイブにT-ウィルスに対抗するウィルスがあり、人類を救うためにはそれを散布するしかない、制限時間はこれから48時間と告知され、ラクーンシティへと向かう。途中、罠にかかって捕獲され、アンデッドに追われながらアンブレラ社の戦車に引きずられるピンチを脱したアリスは、再会したクレア(アリ・ラーター)ら新たな仲間と砦にこもってアンデッドの群衆の襲撃と闘い、ハイブに潜入するが…というお話。

 ミラ・ジョヴォヴィッチの超人的な/不死身の(アンデッド)ともいうべき格闘技的なアクション(同じゲームでも、ストリートファイターのイメージの方に近いような)で見せる作品だと思います。
 アリスとは何者か、なぜアリスに過去の記憶がないのか、人類をアンデッドに変えるT-ウィルスはなぜ流出したのか、何のために開発されたのか、アンブレラ社の目的は何か、アンブレラ社のホストコンピュータのレッド・クィーンとは何か(ついでになぜミラ・ジョヴォヴィッチの娘がその役なのか)、なぜクローンが作られたのか、などのこれまでのシリーズで明らかにされていなかった謎が、一通り説明され、シリーズのファンの人には満足度がたぶん高く、ファンでない観客にとってもようやく普通に理解できる作品となっています。
 レッド・クィーンの葛藤、「本物」とそのクローンの相克、クローンにとってのアイデンティティなど、人情の機微に迫り、考えさせられるところもあります。

 しかし、私は、ゾンビ映画は、どうしても好きになれません。相手を理解不能の不気味なもの、意思疎通不可能で有害な(加害者/攻撃的な)ものと表現し、それに「人間でないもの」とラベリングすることで殺害してよい(もっとも、「殺せない」のがゾンビなわけですけど)ものと扱い、徹底的に情け容赦なく殺戮の限りを尽くすが、良心の呵責は感じないというシーンを量産して、それに慣れ不感症にしてゆく。そのような感性には、同調できませんし、不愉快に思います。象徴的な「敵」を作って敵愾心をあおり、相手は人間ではない(鬼畜米英とか。ベトコンとか不逞鮮人とか「テロリスト」もそういう扱いかも)とすることで戦争や虐殺を容易にする人たちの論理/手法と通じるものを感じてしまいます。
 ましてや、この作品では、アンデッドはT-ウィルス感染被害者で、何ら罪なき人です。エリートではなく感染を防げなかった普通の庶民が劣等人類として抹殺すべき対象と扱われているのです。アンデッドが無差別に攻撃してくる凶悪な映像があるゆえにそこが隠蔽されていますが、この作品を支える世界観は、優越民族を守るために劣等民族を抹殺してよいというナチスの思想と親和性を持っているように、私には感じられます。
 アリス自身は、そこまでの意図を持たない(アリスの立場に身を置けば、相手の素性がどうあれ攻撃してくる以上戦い続けなければ生き残れない)としても、T-ウィルス感染被害者であるアンデッドの群衆を全員殺し尽くす/焼き尽くすことにまったくためらいも見せず葛藤がないアリスを英雄視する(制作側、興行側、そしてメディア・観客側の)姿勢は、人の命の尊さや弱き者・被害者の気持ち・立場への感受性を決定的に欠くものと見えます。

2016年12月25日 (日)

アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場

 無人機による爆撃をめぐる軍人・政治家らの葛藤を描き倫理を問う映画「アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場」を見てきました。
 先行公開3日目、全国唯一の先行上映館TOHOシネマズシャンテスクリーン2(201席)午前10時30分の上映は9割くらいの入り。

 ケニヤのナイロビのアジトにイスラム過激派「アル・シャバブ」の幹部が集結するという情報をつかんだイギリス軍は、上空の無人機からの映像を見ながら、キャサリン・パウエル大佐(ヘレン・ミレン)が率いるイギリス軍統合司令部、フランク・ベンソン中将(アラン・リックマン)らが控える内閣(首相、外相は外遊中)、無人機を操縦するスティーブ・ワッツ(アーロン・ポール)らが待機するネバダ州の米軍基地の3か所での合同作戦を展開し、現地での対象者の捕獲を準備していたが、パウエルが最重要対象者の確認を待つように指示する中、アル・シャバブの幹部らが車で過激派の支配地域内に移動してしまい、捕獲作戦は現地隊員の犠牲が大きくなるために困難になった。パウエルは、現地のスパイジャマ・ファラ(バーカッド・アブディ)を過激派支配地域に潜入させてアル・シャバブ幹部が集結した家の中に甲虫型の盗撮ビデオカメラを飛ばして最重要対象者の存在を確認したが、その際、自爆テロ用の爆弾を仕込んだベストなどが用意されていることを確認した。作戦を捕獲から無人機による対象者殺害(爆撃)に変更することを主張するパウエルに対し、内閣内では殺害を主張する軍側、決断の責任を回避する政治家、法的正当性がないことを指摘するアンジェラ・ノース(モニカ・ドラン)らが対立して紛糾し、決断は先延ばしにされる。アメリカ側の決断で爆撃が決定され、発射準備が整ったところで、爆撃対象の家の前で少女がパンを売り始め、爆撃による少女の死亡確率をめぐり、作戦はさらに迷走し…というお話。

 自爆テロで失われるかもしれない80人の命を守るために1人の少女を犠牲にしてもテロリストを爆撃すべきか、という問いが度々投げかけられています。
 この種の「究極の選択」を迫りたがる多くの作品同様、まずこの「二者択一」に疑問があります。長時間にわたり上空からの監視を続けて議論しているわけですから、パウエルはまずは捕獲作戦のために待機させている特殊部隊を過激派支配地域の外側に移動させて待機させておくべきで、自爆テロの行為者が移動を始めればそれを上空から監視を続け、支配地域を出たところで捕獲する、そこで抵抗すれば初めて射殺等の対応をするというのが本筋でしょう。自爆テロを続ける過激派を捕獲する作戦に従事する特殊部隊は、対爆弾用の装備もしているはずですし。パウエルらは過激派は人混みで自爆テロをすると繰り返し主張していますが、過激派が自分たちの支配地域で自爆テロをすることは考えられませんから、自爆テロの実行犯が支配地域からそうでない地域の人口密集地帯までの間の非居住地帯を通る場面が当然にあるはずです。その程度の冷静な判断もできないようなら、まず軍の作戦を指揮する資格はないでしょう。むしろ、パウエルには、自分が最重要対象者の存在確認に手間取って、その間に過激派支配地域に移動されて、捕獲作戦には軍の犠牲が大きくなってしまったという、自己の失策を糊塗するためにも、軍の犠牲を払わなくてよい殺害に切り替えたいという動機、6年間探し求めてきた最重要対象者の存在をようやく把握したことから逃がすリスクを最小限にするため捕獲より殺害にしたいという動機があったものと見えます。自爆テロが迫っているというのは、パウエルにとってはむしろ殺害に切り替えるための口実に過ぎなかったように思えます(終盤での2回目の爆撃指示を見ると、その感を強くします)。
 ここでは、自爆テロを準備しているテロリストなら裁判もなしに殺してよいのか、という問いかけはありません。過激派には人権はないと言っているようです。イギリス軍やアメリカ軍は、またアメリカ政府は、そしてまた少なくない人々は、いつからこのような感覚と認識を持つようになってしまったのでしょうか。
 まず、たぶんふつうの法的な考えでは、少なくとも私の感覚では、自爆テロを準備して敢行しようとしている人物は、爆発物を持って公道に出たところで爆発物所持の現行犯として、過激派の幹部は国際指名手配されているというのですから当然に逮捕令状が出ているはずなので令状により、いずれも逮捕はできるでしょうし、それで起訴・刑事裁判と進むべきで、裁判なしで殺害することは法的には許されません。国際法的な問題として、ケニア国内でイギリス軍やアメリカ軍が無人機を飛行させてその無人機からミサイルを発射すること自体、主権侵害でしょうし、いずれにしてもそれで人に危害を加えるなど犯罪というべきでしょう。自爆テロによる被害を防ぐため、だとしても、なにゆえにイギリス軍やアメリカ軍がそのような権限を持つのか、大いに疑問です。
 国際的な権限の問題を置いて、自爆テロを防ぐためにテロリストを殺害してよいという考え方は、国家権力の行使をテロリストの自爆テロと同次元に引き下げ、貶めるものです。国家権力の行使は、それが国家権力であるがゆえに(その理由が国民の信託によるものであるからか、権力が巨大であるからかは置いても)謙抑的な行使が求められ、また正義を具現するために行使されるべきであり、適正手続を守って行われるべきですし、権力を行使する者には一定の矜持(ノブレス・オブリージュ)が求められます。テロリストが悪を行うのだから、国家も同様に目には目をでいいというのは、子どもの喧嘩レベルの議論でしょう。ブッシュが「対テロ戦争」などと言い出してから、アメリカという国は、そのレベルで議論するように成り果ててしまいました。その「同盟国」も、そのレベルに落ちる国が多いようです。床屋談義であればともかく、権力を行使する人物がそのレベルでいることに、私は、戦慄を覚えます。この作品の登場人物で、私の眼には冷静に論じているのはアンジェラただ一人です。そのアンジェラでさえ、少女の犠牲がなければ殺害自体には反対しない姿勢で、私にはその価値観の飛び方が法律顧問として疑問に思えるのですが。

 私の眼には唯一冷静な判断をしているアンジェラに、自分たちは安全な場所で戦争をしていると指摘させ、他方そのアンジェラの指摘に対してベンソン中将が自分は自爆テロの現場に何度も行った「決して軍人に言ってはならない。彼らが戦争の代償を知らないなどと」と諭すシーンを置き、そのベンソン中将が子どもへのプレゼントを持って帰るシーンをつなげるあたりは、アンジェラが現場を知らない頭でっかちだと言いたいのか、自分の子どもはかわいくても見知らぬ子どもには冷酷になれると言いたいのか…
 アンジェラの問いかけを採って、原題にはないサブタイトル「世界一安全な戦場」を付けた日本の興行サイドに、少しだけ拍手。

 パウエルが、爆撃の際の少女の死亡確率を計算する部下がどう計算しても上限は65%になると答えたのに対して、爆撃を実行するために、計算結果を45%以下にしろと命じ、部下が戸惑いながら計算をせずに着弾点をここにすればたぶん45%になると答える場面があります。何としてでも自分の希望を押し通したい権力者と、権力の意向を気にして希望的観測で自己の良心をなだめてさじ加減する技術者のやり取り。私は、原発の設計や事故評価の計算をイメージしてしまいます。

 家屋内に令状もなく盗撮ビデオカメラを飛ばして中の様子を監視することも、もちろん違法で、犯罪と言ってよい行為です。これも、犯罪者(犯罪を準備する者)には人権などないというレベルの粗雑な議論で押し通すのでしょうか。盗聴法が制定されて実施され、2016年7月の参議院選挙期間に大分県警が連合大分の事務所に盗撮用カメラを設置した事件が発覚しても政権が転覆することもない日本でも、他人事には思えません。米軍が駐留し、首都(東京)を1時間程度で制圧できる位置に米軍基地(横田基地)があり、米軍機やオスプレイがどこでも自由に飛行できる(原発の上は、なるべく飛ばないようにする、けど)この国では、無人機がどれほど飛んでも不思議はありませんし、無人機が民家を爆撃しても、オスプレイが墜落しても米軍と政府に遠慮して「着水」なんて報道しかしないマスコミばかりの現状では、きっともみ消されてしまうでしょう。この映画のテーマは、全然他人事には思えませんでした。

2016年12月18日 (日)

マダム・フローレンス!夢見るふたり

 音痴の歌手フローレンス・フォスター・ジェンキンスがカーネギーホールでコンサートを開いた実話に基づく映画「マダム・フローレンス!夢見るふたり」を見てきました。
 封切3週目日曜日、TOHOシネマズ新宿スクリーン1(86席)午前8時50分の上映は3割くらいの入り。

 父親の莫大な遺産を相続したマダム・フローレンス(メリル・ストリープ)は、初婚の夫からうつされた梅毒の治療のため左手にマヒが残りピアニストの道をあきらめて歌手を目指してレッスンを受ける。事実婚の夫シンクレア(ヒュー・グラント)は、フローレンスの音痴ぶりを知りつつも、妻の夢をかなえるため、協力する伴奏者コズメ・マクムーン(サイモン・ヘルバーグ)を見出して高額の報酬で釣り、好意的な観客を集め、記者を買収し、小さな会場での公演を続け、好意的な論評を得ていた。しかし、フローレンスは、それに飽き足らず、レコードを録音し、さらにカーネギーホールでの公演を希望し…というお話。

 初婚の夫から17歳の時に梅毒をうつされ、その治療のために髪の毛が抜け左手にマヒが残るマダム・フローレンスと、マダム・フローレンスの離婚後に知り合い事実婚状態となったシンクレアの夫婦関係。肉体関係は最初から控え、別の女性キャサリン(レベッカ・ファーガソン)と暮らし愛人関係を保ちつつ、フローレンスの夢を包み込むように支え、献身的に尽くすシンクレア。肉体関係はなくても、また不倫相手と同居しながらも、フローレンスを愛し心が通いあうという様子・描写に、夫婦関係のありようを考えさせられます。
 明らかに音程を外しているけどそれと気づかないフローレンスに対して称賛するシンクレア。「ほめて伸ばす」は、どこまで通用するのか。真実を直視させるのが愛情だと言いたくなりますが、人々の気持ちに訴えるのは歌唱力だけではなく、下手でもそれを聞いて喜ぶ/癒される観衆もいて、現実のフローレンスのカーネギーホールでの公演が記憶に残り愛されていることを考えれば、一概には言えないという気持ちになります。
 距離を置いて見れば、大金持ちの夫人が、金にものを言わせて道楽をし、身勝手な自己満足をごり押ししていくのを、財産目当ての後添えが愛人と暮らしながら夫人の財産を駆使して助けていくという、金持ちのわがまま話と考えられるのですが、メリル・ストリープのとぼけた天真爛漫さとヒュー・グラントのフローレンスを見つめるまなざし・表情の演技がそういった俗っぽさ・いやらしさを消し、むしろ奥行きを感じさせる人情ドラマになっています。

2016年12月11日 (日)

アズミハルコは行方不明

 現代日本社会での女性の生きにくさを描いた映画「アズミハルコは行方不明」を見てきました。
 封切2週目日曜日、新宿武蔵野館スクリーン1(128席)午前9時45分の上映は2割くらいの入り。

 親元の地方都市で暮らす28歳・独身・恋人なしの事務員安曇春子(蒼井優)は、勤務先では、女性は早く結婚して子どもを産むべきだと言い募り安月給しか払わない社長と専務の下、会社を事実上切り盛りしている10歳年上の吉澤(山田真歩)が手取り月給17万円で働かされ煙たがられている姿を見続け、家では疲れた両親の様子を見続けていた。安曇春子は、母に言われてトイレットペーパーを買いに行ったスーパーで幼馴染の曽我(石崎ひゅーい)と再会し、曽我が女子高生軍団にリンチを受けて池に投げ込まれたのを助けた夜、曽我の部屋でセックスし、逢瀬を重ねるようになる。時は飛んで、アズミハルコが失踪し交番に尋ね人ポスターが貼られた同じ都市で、名古屋の大学に行ったユキオ(太賀)と成人式で再開したキャバクラ嬢の愛菜(高畑充希)は、ユキオと同級生だった学(葉山奨之)が街頭でスプレイの落書きを始めアズミハルコの尋ね人ポスターの写真を使った落書きを量産するのを見て一緒に落書きを始め、盛り上がるが…というお話。

 最初からネタバレになりますが、女性の生きにくい社会で、抑圧者としての男たちへの復讐心を表現するのに、たまたま出会った男にストレートに暴力をぶつける謎の女子高生軍団、自分を傷つけた男の作品(物)の破壊に励む愛菜、自分を傷つけた男に刃を向けることなく失踪し自分が「優雅な生活」を送ることが復讐だと愛菜に諭す安曇春子という、3者3様が、おそらくは制作者の目指したテーマなのだろうと思います。そして、ラストに愛菜に微笑む安曇春子を置く構成からしても、安曇春子の選択が、より洗練された復讐であると言いたいのでしょう。
 しかし、加害者の受けるダメージは、女子高生軍団のリンチでは直接的(心理的なダメージもかなり大きいと思います。特に、女性はか弱く従順なものという、「常識」・認識を持つ男ほど)なのに対し、愛菜の破壊では間接的に、そして安曇春子の失踪なり「優雅な生活」ではほとんどない(痛くもかゆくもない)ということになります。安曇春子側の気持ちの整理としては、現実的なものと言えますが、加害者に打撃を加えうる復讐を抑制することで、加害者に都合のいいものとも言えます。そもそもこの作品自身が描いている女性が生きにくい現在の日本社会で、親元/勤務先を離れて失踪した安曇春子は、どうやって「優雅な生活」を手に入れるというのでしょうか。現実の世界/人生の現実が変わらない/変えられない中で、気の持ちようだけを変えて、惨めだったはずの現実を優雅なものと受け入れていく、怪しげな新興宗教にからめとられていくような途しか待っていないということでなければよいのですが。
 私には、むしろ謎の女子高生軍団の暴力の方が爽快に見えてしまいました。誠意のない甲斐性なしの男たちがなすすべもなく倒される展開は、男たちもまた生きにくい様子をも示しているようにも見えますし、一番無節操で無責任なユキオはやられないで、相対的には愛菜に向き合おうとする学の方がリンチに遭うというのも不条理に思えますが。

2016年11月20日 (日)

聖の青春

 早世した棋士村山聖の生涯を描いた映画「聖の青春」を見てきました。
 封切2日目日曜日、新宿ピカデリースクリーン3(287席)午前10時55分の上映は、9割くらいの入り。

 子どものころネフローゼ(腎臓疾患)と診断され入院生活中に覚えた将棋に夢中になり、森信雄(リリー・フランキー)を師匠として大阪でプロの棋士になり活躍していた村山聖(松山ケンイチ)は、24歳の1994年、対局に赴く途中で道に倒れるほど腎臓が悪化していたが、頂点を極めつつあった1つ年下の羽生善治(東出昌大)のそばで将棋を指したいと、東京に転居する。病状が悪化し膀胱がんも発見されて医者からは手術を強く勧められながら麻酔をしたら脳に響く、将棋が弱くなりたくないと拒否し、対戦成績5勝6敗で迎えた羽生との対局で、聖は控室が驚く一手7五飛から羽生を追い込み勝利する。懇親会の席から羽生を居酒屋に誘い出した聖は、羽生に夢を語るが…というお話。

 東京の名人に対してライバル意識を燃やす大阪の野性的な棋士という構図は、私には、「王将」、阪田三吉をイメージさせるのですが、そのアナロジーは避けてあくまでも現代的に、不器用で不健康な生活を送る野性的な棋士と健康的で上品な天才棋士のマナーに則った対決の物語として描いています。
 聖が羽生を誘い出して居酒屋で語るシーンが2人の関係、人柄を印象付けています。少女漫画は?競馬は?と聞く聖に対し、読まない、やらないとあっさり答える羽生、趣味が合いませんねぇ…と、私生活の対比を見せつつ、会話にも行き詰まる2人。そこで聖が、自分には2つ夢がある、名人になって将棋をやめること、一度でいいから女を抱きたいと語ります。すでに名人を含め4冠を保持し、元歌手の畠田理恵と結婚している、つまり聖の夢をどちらも実現している羽生に、それを語る聖はどういう心境だったのでしょうか。普通に考えると、ライバルに対して、屈するような、うらやむような、弱みを見せる発言、意地でもするものかと考えると思うのですが、それを卑屈にならずに直球でぶつける聖と、答えようもないけれど反発することも諭すこともなく淡々としている羽生。他の棋士には憎まれ口を聞きダメ出しをする聖が、羽生にはなぜかあまりに素直に心を開き、負けて死にたいと思うほど悔しいという羽生が優しい(線が細いとも)気持ちでいるところが、従来のライバルものと違う関係性を示しているように思えます。
 この聖が勝って対戦成績を五分にした一戦、映画では雪国で行われたという描写です(雪原で松ケンなので、単純に青森かと思ってしまいました)が、史実としては1997年2月28日の竜王戦(予選)での対局で、場所は東京の将棋会館。念のため調べるとその日の東京は最低気温が6.7℃でもちろん降雪なし。ドキュメンタリーじゃなかったの?聖が前泊して見つけた鄙びた居酒屋、主人が有名人とわかっていても話しかけてこない、わかっていてもそぶりも見せないって、ただ知られていなかっただけだし、聖が気にいったのも、たぶん、店の名前が「よしのや」ということでしょうし…
 この作品で、聖が繰り返す、「牛丼は吉野家、シュークリームはミニヨン、お好み焼きはみっちゃん…」。ミニヨン、みっちゃんは特定の店の名前で全国的な影響力はありませんが、吉野家はタイアップかと思うほど。松屋やすき家の関係者は歯噛みして悔しがっているのではないかと。

2016年11月13日 (日)

ジュリエッタ

 置き去りにされた母の失踪した娘に対する葛藤を描いた映画「ジュリエッタ」を見てきました。
 封切2週目日曜日、全国11館、東京で2館の上映館の1つ新宿ピカデリースクリーン10(115席)午前8時25分の上映は3割くらいの入り。

 数年越しの恋人のロレンソ(ダリオ・グランディネッティ)とともに暮らすためポルトガルに引っ越す準備をしていたジュリエッタ(現在:エマ・スアレス)は、通りで偶然、12年前に失踪した娘アンティア(失踪時:ブランカ・パレス)の親友だったベア(現在:ミシェル・ジェネール)と遭い、アンティアとコモ湖畔でばったり会った、2人の子を連れていたと聞かされ、マドリードに残る決意をしてポルトガル行きを取りやめ、アンティアが失踪したときに棲んでいたアパートを再度借りて転居した。ロレンソとも別れジュリエッタは一人部屋でアンティアに対し、出す当てもない(送り先もわからない)手紙を書き始め、アンティアの父ショアン(ダニエル・グラオ)と出会った25歳のころに思いをはせ…というお話。

 終始ジュリエッタの視点でストーリーが展開するため、スクリーンで描かれるのは、基本的にジュリエッタの、置き去りにされた母の心の痛み、失踪した娘への愛憎・葛藤ですが、読み取るべきは、娘アンティアの心の傷と、心の傷・痛みを伝える/汲み取ることの難しさかなと思いました。
 夫の死でうつになった母親を終始支え、けなげにまっすぐに育ち、母親には憎悪の片鱗も見せなかったアンティアが、ひそかに傷つき苦しみ、親友はその怖いほどの変化を見取っていたという、親として娘の心の変化・苦しみを読み取ることができない現実に、慄くとともに、自分の気持ちを隠し通した/隠さざるを得なかったアンティアの心情に涙してしまいます。
 ラストシーンに至ったとき、「えっ、ここで終わる?」(まぁ、カンヌ映画祭出品作品だし、なんとなくここで終わりそうだなとも思いましたが)という思いを持ちましたが、考えるうちに、説明しないことが、人の心を汲み取ることの難しさを感じさせ、余韻を残していいかなという気になりました。
 ジュリエッタが、長く病床に伏す母サラ(スシ・サンチェス)を尻目に家政婦サナア(マリアム・バチール)と情交を続ける父サムエル(ジョアキン・ノタリオ)を母が死んだ後もなお許せない一方で、自分は長く病床に伏す妻がいるショアンとそれを聞かされながら初めて出会った日に列車内で肉体関係を持ち、その後ショアンから妻の容体が悪化したという手紙が来てのこのことショアンの自宅に行き、そこで家政婦マリアン(ロッシ・デ・パルマ)から妻が死亡したこと及びショアンが前々から不倫の関係を続けるアバ(インマ・クエスタ)のところにいて今日は帰らないと知らされ、帰るように言われたにもかかわらずショアンを待ちセックスにふけりそのまま居ついたという、自分が嫌い許せない父親とまったく同じタイプの男(ジュリエッタの父の方が相手は一人だからまだましというべきでしょうけど)を愛し、自分自身父の家政婦と同じことをしていながら、その矛盾を突きつけられることも、気づいて葛藤することもないというところが、人が自分を客観的に評価することの難しさを示し、人間ってそういうものというあたりで放り出すことで、かえって深みを持たせるというか、余韻を残している感じもします。

 そういった、老いてなお自分を客観視できず、娘の心の傷を汲み取れず、自分の痛みに悶えるジュリエッタの姿を、人間ってそういうものだよねとしみじみする作品なのだと思います。

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