2022年3月27日 (日)

ベルファスト

 北アイルランド紛争の中で1969年8月に起こったプロテスタントによるカトリック系住民襲撃の暴動に翻弄される家族を描いた映画「ベルファスト」を見てきました。
 公開3日目日曜日、WHITE CINE QUINTO(108席)午前9時30分の上映は4割くらいの入り。

 北アイルランドの首都ベルファストのカトリック系住民集住地域に住むプロテスタント家族の9歳の息子バディ(ジュード・ヒル:新人)は、税金の支払いに苦しみながらも実直に生きる母(カトリーナ・バルフ)、現実主義的な祖母(ジュディ・デンチ)、穏やかでユーモアのある祖父(キアラン・ハインズ)、年の離れた兄ウィル(ルイス・マカスキー)、ロンドンに出稼ぎに出て1~2週間に1度帰って来る大工の父(ジェイミー・ドーナン)とともに平和な日々を送っていた。ところが、1969年8月15日、プロテスタントの一団がカトリック系住民を地域から追い出そうと火炎瓶や道路の敷石を投げ暴動が生じた。そのニュースを聞いてロンドンから駆けつけた父は、プロテスタントの暴徒のリーダーからカトリック系住民襲撃に加担するよう求められて拒否したために家族への危害を予告されて動揺し…というお話。

 プロテスタントが多数派のベルファストの少数派のカトリック系住民集住地域の中に混住するプロテスタント家族という難しい立場に置かれた者を主人公に、プロテスタントとカトリックが対立し暴動に発展する中で、どのように生きるか、住み慣れた街にとどまるか移住するかの苦悩の選択がテーマです。北アイルランド紛争の中でも武装テロやゲリラ戦ではなく、比較的小集団による暴動での一家族の動向に焦点を当てていることで、宗教対立・民族対立などさまざまな対立抗争に不本意に巻き込まれる状況を普遍的に描写できているように思えます。
 この家族にみられるように、宗派の対立や民族間の対立の最中でも、みんなが他方を憎み嫌悪しているわけではなく、むしろ宗派や民族が違っても仲良くしたい、少なくとも敵対したくないと思っている人が多数いる/実はそれが多数派かもということに改めて思い至りました。プロテスタントでもカトリックでも、聖書には「汝の隣人を愛せよ」と書かれ、教会でそう教えられているはずですし。
 そして、一家族を描き続けることで、抗争中の地域でも、そこで生活している住民は、ごくふつうの穏やかに実直に生きている人たちなのだ/少なくともそういう人が少なからずいるのだということを示しています。

 家族の中で、さまざまな顔を見せる実直な母が実に魅力的です。また同級生のキャサリン(オリーヴ・テナント)に思いを寄せるバディの様子と、カトリック系の住民で優等生ながらバディに思いを寄せるキャサリン(テストの点数順に座席が決まる教室で、毎回1位のキャサリンの隣に座るためになかなか3位より上に上がれないバディが策を弄して2位になったときキャサリンが4位だったのは、運命のいたずらなんじゃなくて、キャサリンがバディの隣に座ろうとしてわざと間違えたと、私は思います)の様子も微笑ましく思えました。
 モイラ(ララ・マクドネル)から自分が店主を奥に行かせる間にチョコバーを万引きするように言われたバディが慌ててターキッシュ・ディライトを持って逃げたことを知って、モイラはそんなもの誰も食べないと嘆きます。「ナルニア国ものがたり」第1巻でエドマンドを魔女ジェイディスの誘惑に負けさせた栄光のターキッシュ・ディライトが…時代の流れ(1969年は、「ナルニア国ものがたり」出版からまだ20年足らずですが)でしょうか、制作者の「ナルニア国ものがたり」への当てこすりでしょうか。

2022年3月20日 (日)

Coda あいのうた

 フランス映画「エール!」のリメイク版にして2022年度アカデミー賞作品賞ノミネート作品「Coda あいのうた」を見てきました。
 公開9週目日曜日、WHITE CINE QUINTO(108席)12時40分の上映は6割くらいの入り。

 アメリカ東海岸の漁村で両親と兄がいずれも聴覚障害者の家族に生まれたただ1人の健聴者の高校生ルビー・ロッシ(エミリア・ジョーンズ)は、毎朝午前3時に起きて父(トロイ・コッツァー)と兄(ダニエル・デュラント)とともに漁に出て捕れた魚を業者に売る際など父と兄の通訳を務める毎日を過ごしていた。高校で合唱部に入り、音楽教師に才能を見いだされて同期生で音大志望のマイルズ(フェルディア・ウォルシュ=ピーロ)と発表会でデュエットするように言われたルビーは、マイルズと一緒に部屋で練習するが、2人の仲を誤解した父親が「コンドームは着けろ」と大仰な手話で繰り返し、それが高校でうわさ話として広まったため、マイルズを避けるようになる。謝罪するマイルズを呼び出した日、ルビーが乗船していないところに監視員が現れ、健聴者不在での操船を見とがめられた父は…というお話。

 家業の漁業が自分なしには回らないという環境の下、毎日午前3時起きで漁に出て、捕れた魚の売りさばきなど父と兄の通訳を行い、その後高校に通うという多忙というか激務をこなし、学校では魚臭いと囁かれたり、居眠りを叱責され、音楽教師のレッスンに家業の都合で遅刻するたびに怒られるなどの嫌な思いもしながら、ブチ切れたり拗ねたりせずに対応し続けるルビーの姿は、それだけでもう(特に娘を持つ親には)鼻がツンとするくらい切ない。音楽教師からバークリー音楽大学への進学を推薦され、行きたいと家族にも宣言してみたのに、自分がいないと家業ができないことを見せつけられるやすぐさま諦めてみせる、アメリカ映画では考えがたいほどの孝行娘ぶりには、その健気さに涙してしまいます。

 聴覚障害者の家庭というと、静かな様子をイメージしてしまいますが、ロッシ家ではうるさくても気にならないということで、父親はトラック運転中その振動が心地よいとしてラップを大音響で流し続けます。ルビーがマイルズとともに部屋で合唱の練習をしていても気がつかない父フランクと母ジャッキー(マーリー・マトリン)は、ベッドをギシギシいわせ大音声を上げてセックスに励み、ルビーを困惑させます。そうか、そういうものかと思いました。もっともそれがまた別のステレオタイプの思い込み/先入観でなければいいのですが。
 高校生の娘にセックスを見られても悪びれず、あっけらかんとしているルビーの両親が微笑ましい。インキンタムシで医師から2週間のセックス禁止を言い渡されるや妻と顔を見合わせて、そんなことできるわけがないという(それもいちいちルビーに通訳させる)フランクとそうだそうだという顔のジャッキーの様子も好感が持てました。もっとも、医師の「2週間」を敢えて通訳せず、父にいつまで?と聞かれていったんは「一生」と答えたルビーは、両親のおおらかな性生活を好感していなかったのかもしれませんが。

2021年8月21日 (土)

うみべの女の子

 不器用に体を重ねる中学生女子と男子のすれ違いを描いた映画「うみべの女の子」を見てきました。
 公開2日目土曜日、ヒューマントラスト渋谷 odessa シアター1(200席)午前9時50分の上映は、7割くらいの入り。

 小さなごみごみした浜辺のある地方都市に住む中学2年生の佐藤小梅(石川瑠華)は、チャラい先輩三崎(倉悠貴)に告白するがフラれオーラルセックスだけを求められ、同期生で1年の時に小梅に告白してきた磯辺恵介(青木柚)を誘ってセックスする。磯辺からキスを求められてそれは拒み、佐藤が自分のことを好きになってつきあうことはないのと聞かれて、ないと答えた小梅は、その後も学校のトイレや磯辺の部屋で磯辺とのセックスを繰り返したが、磯辺は小梅の体を求めつつ次第に冷めた態度を取るようになり…というお話。

 原作の漫画は全然読んだことないのですが、映画で見る限り、自分のことでいっぱいいっぱいで相手のことを思いやれず、自分の気持ちに素直になれず、不必要に苛立ち、苛立ちをまずぶつけてしまう不器用さ、恋愛を難しくするタイミングのずれといったことから生じる2人のすれ違いを切なく見る作品なのだなと思いました。
 海辺を美しくではなく、ごみごみした寂れた浜辺と印象づけるためか、今ひとつクリアでない映像が採用されていて、冒頭からそちらの印象を強く感じました。
 エンディングで、たぶん映画の撮影中に撮った写真が次々写されて、まぁ微笑ましいんですが、右下に「ISOBE CAMERA」とか「KOUME CAMERA」とかの表示があって、そうならそれぞれの立場から見たシーンやキャラの捉え方の違いなんかが反映されているかと思って見ていたのですけど、たくさん出てくるうちにあんまり変わらなく感じられました。「ISOBE CAMERA」の写真に磯辺も写っているし、「KOUME CAMERA」の写真に小梅も写っているし、それなら写真のチョイスで違いを出せよって思うんですが。
 ヒューマントラスト渋谷シアター1。昨年10月から「高域、低域を1つのスピーカーから出力することにより、従来スピーカーでは再現できなかった正確な音域を全席で解放。セリフや環境音をより正確に伝えることで、映画の持つ感情をよりリアルに、より鮮明に、お届けいたします。」「【odessa theatre】の特徴に加え、さらに音を堪能するためにボリュームをプラス。【odessa vol+】では耳だけではなく、全身で体感していただきます。音に包まれる新感覚音響体験をぜひお楽しみください。」という odessa シアターになってると、本編前に告知があるのですが、その告知直後の「映画泥棒」ビデオはよそで聞くのと変わらないし、本編も、カミさんは音が異常に大きいと文句いってたけど、私はあまり違いを感じられませんでした。耳が悪い?


2021年8月15日 (日)

ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結

 DCコミックの悪役たちが減刑と引き換えに危険なミッションに挑む「スーサイド・スクワッド」の続編「ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結」を見てきました。
 公開3日目東京23区西部大雨・洪水警報下の日曜日、新宿ピカデリーシアター2(301席:販売147席)午後1時30分の上映は8割くらいの入り。

 アメリカの刑務所に収監中の囚人サバント(マイケル・ルーカー)らは政府高官アマンダ・ウォラー(ヴィオラ・デイヴィス)の命で、減刑と引き換えに体内に爆弾を埋め込まれて命令違反をすると爆死させる条件で、南米の小さな島コルト・マルテーゼの独裁者が開発した地球外生命体スターフィッシュによる生物兵器を要塞ヨトゥンヘイムごと抹消するというミッションを課せられた。招集を拒否したが万引で逮捕された娘の処遇を人質に参加せざるを得なくなったブラッドスポート(イドリス・エルバ)は、平和のために大量殺人をいとわないというピースメイカー(ジョン・シナ)、ネズミ使いのラットキャッチャー2(ダニエラ・メルシオール)、水玉を放出して敵を倒すヒーローのポルカドットマン(デヴィッド・ラストマルチャン)、あらゆるものを食い尽くす鮫男キング・シャーク(シルベスター・スタローン)とともに島に上陸し、別部隊で生き延びたリック・フラッグ(ジョエル・キナマン)、ハーレイ・クイン(マーゴット・ロビー)と合流し、兵器開発者シンカー(ピーター・キャパルディ)を捕らえて要塞に挑むが…というお話。

 重大犯罪者を脅しつけて危険なミッションへの参加を強要する政府高官の悪辣さが、「極悪人」よりも際立ち、そういった権力者の非道ぶり、自国政府の悪質さ加減を平然と描いているのは、娯楽作品ながら、アメリカの自由さを感じさせます。
 他方で、強要されたミッションという設定ではありますが、悪役たちが最終的には自主的に世界をとか市民を救うというストーリーには、どこか違和感を持ちます。ガメラやモスラがいつの間にか人間の味方になり、キングコングがともだちになってしまったような…。悪役には、悪役としての矜持を持っていてもらいたいなぁと思います。

 娯楽作品として、うまく流しうまくまとめていると思いますし、ビジュアルでは鳥やネズミ、クラゲ風のカラフルな魚(?)たちのCGに感心しますが、最後が怪獣映画になってしまうのが、今ひとつに思えました。
 「スーサイド・スクワッド2」ではなくて「ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結」というタイトルなのは、前作と共通のキャラがアマンダ・ウォラー以外では、リック・フラッグ、ハーレイ・クイン、キャプテンブーメランだけと少なすぎるせいでしょうか。原作タイトルは、前作が “ Suicide Squad ” 今作が “ The Suicide Squad ” と、the を付けただけですが。
 ラストに続編を示唆するカットがあります。今回「スーサイド・スクワッド2」としなかったことで、続編のタイトルはどうするのでしょう。

2021年8月 8日 (日)

ワイルド・スピード ジェットブレイク

 ワイルド・スピードシリーズ第9作「ワイルド・スピード ジェットブレイク」を見てきました。
 公開3日目日曜日、新宿ピカデリーシアター2(301席:販売147席)午後0時45分の上映は8~9割の入り。

 世界中のあらゆるコンピュータに侵入しあらゆる兵器を自由に操ることができるシステム「アリエス」を飛行輸送していたミスター・ノーバディ(カート・ラッセル)が襲われ、ビデオ通報を受けたドミニク・トレット(ビン・ディーゼル)らは墜落地に向かうが、大部隊の襲撃・追撃を受け、最後にやってきたジェイコブ(ジョン・シナ)にアリエスを持ち去られてしまう。ドムの父ジャック・トレットはレーサーだったがレース中にレーシングカーが発火炎上して死亡した。ドムはパイプのひび割れが放置されて発火したと判断し、整備を担当していたジェイコブが父を殺したと見て、けんか別れになり、その後ジェイコブは兄を怨み続けていた。ジェイコブを探して旧知の人脈をたどりロンドンを訪れたドムは、ジェイコブの意を受けた者にまんまとさらわれて、ジェイコブを支える富豪の息子オットー(トゥエ・エルステッド・ラスムッセン)の豪邸に呼び入れられるが…というお話。

 まぁ、ある意味ストーリーはどうでもいいシリーズではありますが、自由な生き方を志向し仲間(ファミリー)を大切にすることを強調するドムらが、悪役と戦い世界を守るみたいな話に巻き込まれていくパターンが続いています。
 今回は、第9作にして初めて突然、主人公ドムの父親や弟が登場し、ドムの青年時代が描写されます。
 シリーズ途中で2番手キャラだったブライアン(ドムの妹ミアの夫)が俳優が死んでしまっていなくなり、ドムらに事件を持ち込むFBI捜査官役だったドウェイン・ジョンソンが最近はジュマンジシリーズとかジャングル・クルーズとか主役を張れるようになって脇役で出ていられなくなったのか登場せず、その分、新たに弟ジェイコブを登場させ、死んだはずのハン(サン・カン)を復活させたりしてメンバーを増やしたのかなと思えます。
 その辺りのテキトーさ加減は、このシリーズはそういうもの、アクションができる前提があればそれでいいじゃんと思って見ましょう。

 毎回、新たなアイディアを入れたカーアクションが売りの作品ですが、今回は超強力電磁石です。崖っぷちで車を飛行機が拾い、周囲の金属製品や車を吸い寄せて追跡車にぶつけて攻撃し、敵の装甲車に自車を接着させて乗り移り、巨大車両の前部に自車を接着させてブレーキをかけて倒立・回転させるといったところが見どころです。
 ラストにまた続編作るぞというほのめかしをしていますが、次はどういうアイディアのカーアクションを見せてくれるのでしょうか。

2021年8月 1日 (日)

イン・ザ・ハイツ

 ブロードウェイミュージカルを映画化した「イン・ザ・ハイツ」を見てきました。
 公開3日目日曜日、緊急事態宣言&オリンピック開催中の映画サービスデー、新宿ピカデリーシアター8(157席:販売75席)午前10時20分の上映は、ほぼ満席。

 ニューヨーク・マンハッタン北部の移民集住地区「ワシントンハイツ:Washington Heights」に住むドミニカ移民のウスナビ(usnavi:アンソニー・ラモス)は、雑貨店(コンビニ)を経営し、店に通うネイリストのヴァネッサ(メリッサ・バレラ)に恋心を抱きつつ告白できないでいた。地域の期待を受けてスタンフォード大学に入学したニーナ(レスリー・グレイス)は、寮の白人学生のネックレスが紛失したというので荷物検査をされ、また学費の支払いのために父親が店を半分手放したことを苦にして大学に退学届を出してワシントンハイツに戻ってきた。ニーナの父はニーナに大学に戻ることを求め、置いて行かれた恋人のベニー(コーリー・ホーキンズ)はニーナの帰還を歓迎する。ウスナビは亡き父がドミニカで経営していた店を手に入れ、年来の希望の帰郷に向けて動き出すが、従弟のソニーの計らいでヴァネッサとデートできることになり…というお話。

 底辺ではないけれども、裕福とは言えず何とか生活している中南米からのヒスパニック・ラテン系移民たちの悩み・苦しみと強さをテーマとする作品です。
 「イン・ザ・ハイツ」のハイツは、特定の建物のことかと思いましたが、「ワシントンハイツ」というマンハッタン北部の移民集住地区の名称のようです。

 街中での群舞と、終盤のニーナとベニーの壁面でのダンスのビジュアルの美しさが印象に残ります。

 ストーリー展開の根幹に関わるところなので、具体的には書きませんが、ラスト付近で、それまでの設定(前提)がひっくり返されますが、これは反則なんじゃないかと思います。ずっと気を揉み、そうなるのはどうもしっくりこないなぁと思いつつ見ていたところなので、落としどころとしては理解できますが、しかし…

2021年7月18日 (日)

プロミシング・ヤング・ウーマン

 将来を約束された若い女性だった元医大生の復讐劇映画「プロミシング・ヤング・ウーマン」を見てきました。
 公開3日目日曜日4度目の緊急事態宣言中の渋谷シネクイントシアター1(162席:販売82席)午前10時の上映は3割くらいの入り。

 大学医学部を中退し、30歳目前のキャシー(カサンドラ)・トーマス(キャリー・マリガン)は、恋人も友人もなく親元に住み、カフェの店員をしながら、単身バーに乗り込み、泥酔したふりをして、声をかけてお持ち帰りを試みる男たちについて行き、ベッドでことに及ぼうとする男に、冷ややかな言葉を投げかけて拒絶して帰るということを繰り返していた。ある日、カフェに今は小児科医となった医大の同級生ライアン(ボー・バーナム)が訪れ、学生時代から好きだったと、キャシーにデートを申し込んだ。喫茶店でライアンが話す同級生の消息で、マディソン(アリソン・ブリー)が2児の母になっていることそしてアル・モンロー(クリス・ローウェル)が結婚することを知ったキャシーは…というお話。

 酔い潰れた/酔い潰した女性に対してわいせつ行為に及ぶ男たちとその男たちを許し/野放しにして被害女性を嗤う周囲の者たちに対する復讐がテーマの作品です。タイトルは、将来を約束されていたはずの若き女性が、こんなことで人生を棒に振るような社会でいいのかというアピールを示しています。
 公式サイトに「この映画を観たあとキャシーの計画をバラさないで下さいね。なぜなら、これは彼女が語るべきストーリーだから。」とネタバレ禁止が念押しされているので具体的には触れませんが、そういうことならば、どうしてキャシーが、具体的な事件の当事者ではなく、酒場で悪事を働く男たち一般を相手に「復讐」を演じていたのか、序盤に違和感を持ちます。(ついでに言うと、このコロナ禍のご時世、いかにチャーミングな女性であれ、「落とせそう」な風情であれ、見知らぬ人と接触したくないと、私は思うんですが、性欲はコロナの恐れに勝るのでしょうか)
 また、キャシーが酒場で声をかけてきた男と密室で2人になった後で、冷淡に拒絶するのも、映画ではキャシーが優位に圧倒していますが、現実にはかなりリスキーで、かえってキャシーが傷を深め立ち直れないトラウマを受けることも予想されます。道の真ん中で停車していたときに罵倒してきた運転手(交差点の真ん中でって字幕でしたが、映像は交差点じゃなかった…)への攻撃や終盤のナース服等のビジュアルがハーレイ・クインみたいでりりしかった(この作品のプロデューサーにマーゴット・ロビーが入ってる影響でしょうね)けれど、それでもキャシーの痛々しさ、哀しさの方を感じてしまいました。

 終盤、泥酔した女性に対するわいせつ行為等で起訴された男の弁護のために、SNSなどから被害女性のふしだらな様子の写真等を探し出してそれで陪審員を説得してきたが、それを後悔して業務を続けられなくなり休業している弁護士(アルフレッド・モリーナ)が登場します。後で後悔して苦しむくらいなら最初からやらなきゃいいとは思いますが、弁護士が当然に鉄の心臓を持っているわけではなく、人間味があるものとして描かれていることには、少しホッとしました。

2021年7月 4日 (日)

Ark アーク

 遺伝子操作技術により不老不死を達成した社会で、最初に治験者となった女性の人生と選択を描いた映画「Ark アーク」を見てきました。
 公開2週目日曜日小雨の都議選投票日、新宿ピカデリーシアター9(127席)午後1時10分の上映は、8割くらいの入り。

 17歳の時産んだばかりの新生児を見捨てて放浪しショーダンサーとなっていたリナ(芳根京子)は、観客のエマ(寺島しのぶ)に見いだされて遺体の体液を交換して死亡時の姿を保つ「プラスティネーション」施術を行う企業「ボディワークス」に勤め、エマの指導の下で頭角を現して行く。ボディワークスは、アメリカに留学していたエマの弟天音(岡田将生)が開発した遺伝子操作技術により人間を不老不死化する事業を開始することになり、これに反対するエマはボディワークスを去った。リナは葛藤を抱えつつもボディワークスに残り、天音とともに自ら不老不死の施術を受け、30歳の姿で生き続けるが…というお話。

 細胞分裂の回数を制約するテロメアを初期化する技術ができたとして、その細胞を体液交換でどうやって元の細胞と置き換えて行くのか、免疫系をどうかいくぐるのか、注入された細胞はたまたま注入された先の臓器に合わせた細胞になれるのか、その後の細胞分裂の過程でのがん化のリスクにどう対応するのかなどの疑問を持ちますが、それはおいて、老化しないという場合、子どもは成長しないのか、施術後も成長はするとすると何歳までは成長するのか/どこで老化が止まるのかもなかなか興味深いところです。また施術を1回すれば永遠の命が得られるということでもないようで、リナが施術後にもインスリン注射のように自分で腹部に注射をする場面があります。そうすると、遺伝子操作した細胞を施術後も作り続けなければならない(当然、汎用の細胞というわけにはいかないはずですから各人の細胞を採取して遺伝子操作をする必要があるはずです)わけで、かなり大がかりなシステムを常時稼働させ続けないといけないことになりそうです。

 タイトルの Ark は、原作のタイトルが「円弧」と訳されていて、映画の公式サイトのイントロダクションでも「人生の軌跡=円弧(Ark)」と書いています。しかし、通常は、聖櫃(失われたアーク:インディ・ジョーンズ!)か方舟と訳される用語ですし、天音が人類が舟に乗れる人と乗れない人に二分されると述べるシーンが置かれていることからも、むしろ方舟が意識されているように思えます。
 この作品では、リナが不老不死の施術を受けた後の大部分を、その後不老不死が一般化した社会で不老不死の施術を受けなかったごく少数派の人たちを受け入れる施設「天音の庭」でのできごと・描写に割いています。圧倒的多数派の不老不死となった人々の社会の方は、出生率が異常に低くなった(たぶん、合計特殊出生率のことでしょうけれども、0.2になった)と報道されたくらいです。
 リナの子ハルや孫エリは別として、不老不死の施術を選択したリナや天音はどこか人工的な美しさの中に哀しさをはらんで描かれ、他方で施術受けないエマや芙美(風吹ジュン)とその夫(小林薫)は人間くさく描かれ、後者の方が魅力的に思えます。天音の庭の入所面接で、なぜ施術を受けなかったのかと聞かれて費用が高くて250年ローンならと言われたが払えないと思ってと答えた老人がいて、逆に、そんな費用を払っても大多数が施術を受けるのかと驚きますが、そういう状況も含め、不老不死を選択しなかった者の方に温かい目が注がれているように感じました。
 新たな技術や選択肢をめぐって、個人の選択が問われる場面が増え、他人の選択に干渉・非難する人が目に付く傾向があります。ごく近いところでは、新型コロナウィルスのワクチンの接種でもワクチン接種を選択しない/拒否する人への攻撃が表面化しています。個人の選択を尊重し、少数派の人々の選択に理解を示せるような寛容性のある社会を維持することが、大切だと思います。

2021年6月27日 (日)

夏への扉

 タイムトラベルSFの古典を日本を舞台に1995年起点に映画化した映画「夏への扉」を見てきました。
 公開3日目日曜日、新宿ピカデリーシアター5(157席)午前10時40分の上映は、2割くらいの入り。

 両親を失い科学者の養子として育てられ、義叔父松下和人(眞島秀和)が経営する会社のエンジニアとして人工頭脳(AI)を搭載したロボットと自己再生発電機関である「プラズマ蓄電池」を開発中の高倉宗一郎(山﨑賢人)は、義妹の松下璃子(清原果耶)に慕われつつ、社長秘書の白石鈴(夏菜)のプロポーズを受け入れ、所持していた会社の株を譲渡したところ、和人と示し合わせた白石の裏切りにより開発中のロボットの販売が決定され、研究成果を奪われ持ち去られた。失意に暮れる宗一郎は、諦めるなと叱咤し、ずっと好きだった一緒にいたいという璃子を突き放し、冷凍睡眠サービスを行う保険会社を訪れて30年間の冷凍睡眠を申し込む。診査医から血中アルコール濃度が高いことを指摘されて翌日再審査を申し渡された宗一郎は、和人宅に乗り込み研究成果の取り戻しを求めるが、白石に麻酔薬を打たれ、そのまま和人の会社の系列の保険会社で冷凍睡眠させられてしまう。30年後に目覚めた宗一郎は…というお話。

 「夏への扉」と聞いて、「フレッシュ!フレッシュ!フレッシュ!」と松田聖子の声が脳内に鳴り響く人(私の世代はそういう人が多いと思う)は、「へ」があることに思いを致し、まず誤解を解きましょう。「夏の扉」ではなく、「夏への扉」はタイムトラベルSFの古典です。

 粒子を粗くした「過去」の映像/テレビ画像の中で、1995年時点で、瞬間移動(テレポーテーション)が実現しており、冷凍睡眠(人工冬眠)が民間企業(保険会社)のサービスとして運用されているというのが違和感がありますが、そこを乗り越えられれば、前半での科学者の、パラレルワールドは存在しない、時間がループするという説明と、最初は何のためかと訝しく思う宗一郎の冷凍睡眠に2つの保険会社が絡む設定が、後から考えると意外にもよく練られていて、タイムトラベルものとしては破綻の少ないできになっていると、私は思いました(宗一郎が目覚めたときの医師の説明には綻びがあると思います。そこは、余計な説明はやめときゃよかったのに、あるいはストーリーを考えればそういう設定はしない方がよかったのにと、残念に思うのですが)。

 設定を1995年にしたのは、原作(1956年発表、1970年のロサンジェルスが舞台)の30年冬眠を前提に冬眠明けを近未来にすることからの逆算でしょうか。宗一郎は手計算で開発を進めていくし、コンピュータを使うとしても専門家には Windows95 が販売されてもそれで何か飛躍的に環境が変わったわけでもないでしょうし、映像的には阪神大震災の高速道路崩壊は使われていましたけど、他には特に印象的・効果的なものはありませんでしたし。1995年2月から始まり、1995年3月1日、3月8日と日付が刻まれていく間は、まさか地下鉄サリン事件に絡めて新興宗教団体が新たな兵器(地震兵器とか)を開発とかストーリーに入れてくるのかと思いながら見てしまいましたが。

 ビジュアルで、肥満が悪、みたいな表現ぶりは、わかりやすいのかも知れませんが、安直に過ぎ、古くさいセンスだなと思えました。

2021年6月 6日 (日)

いのちの停車場

 救急医療の戦場のような現場から在宅医療に転身した医師の目から医療の目的は何かを問う映画「いのちの停車場」を見てきました。
 公開3週目日曜日、新宿ピカデリーシアター7(127席:販売60席)午前10時25分の上映は、7割くらいの入り。

 多重交通事故で多数の重症患者が運び込まれた救急救命センターで後回しにされていた女児の痛みを抑えるために医師資格がない事務職員野呂(松坂桃李)が点滴の針を刺したことがその母親から指摘され病院側が野呂を問責しようとするのを見て、責任を取る者が必要なら自分が当日の責任者だとして救急救命センター部長の職を辞して故郷の在宅医療(往診)を行う小さな診療所「まほろば診療所」に勤めることになった白石咲和子(吉永小百合)は、交通事故で車椅子生活となって自分が往診に出られない仙川院長(西田敏行)、看護師星野(広瀬すず)、そして白石を追ってまほろば診療所に勤めることになった野呂とともに、最先端の設備の下での緊急の生死がかかった救急救命センターの医療とは異なる素手で患者と向きあうような在宅医療に戸惑いながら、進行した癌患者たちの医療に取り組むこととなった。そして、老いた父(田中泯)から、苦痛を除去するために安楽死を求められて…というお話。

 医師の仕事が、単に目の前の患者の命を救い(死なせない)、傷病から回復させるという比較的明確な方向で進めればよいということではなく、さまざまな患者のニーズ(意思)、患者の家族の意向により左右され、さまざまな困難を抱えていることを考えさせられます。
 寝たきりで生きながらえるのでは意味がない、自分がやりたいことができないと生きている意味がないという患者、コミュニケーションが難しくなり患者の気持ちに寄り添えているのか自信を失う家族、症状を悪化させないための医師の指示と患者本人の気持ちに挟まれて悩む家族、死を目前にしてけんか別れした息子との再開を願う患者の要請を満たせずに苦しむ家族など、医療そのものではない部分で、しかし確実にある患者側のニーズにどう向きあうべきかというようなことが描かれています。たぶん、そういうことに丁寧に対応していたら、医師の方が過労で倒れ、また病院・診療所は経営していけなくなることが予想されますが…
 そして、死を目前にして苦痛のコントロールができなくなった患者からの安楽死要請という現在の日本の法制上は医師が対応できない(やってはいけない)問題についても提起されています。川崎協同病院事件を題材にした「終の信託」(朔立木、光文社)、最近やはりこの事件を題材として書かれた「善医の罪」(久坂部羊、文藝春秋)でも描かれていますが、患者からの安楽死要請が、良心的な、有能な医師を犠牲にする(医師としての職を賭し、さらには犯罪者とされることまでも覚悟する)ことになることを考えれば、薬剤による苦痛のコントロールができなくなった末期の患者が主治医に早く楽になりたいと要請することは、してはいけないことと考えるべきでしょうか。
 冒頭の、自分の行為ではなく部下の事務職員の行為でその事務職員を守るために救急救命センター部長の職を自ら辞した設定に現れる白石医師の責任感というか、何でも自分で抱え込んでしまう性格設定が、患者のさまざまなニーズへの対応と父親の安楽死問題への悩みも抱え込んでしんどくなるというか自分を追いつめてしまうこととなるあたりは、見ていてつらいものがありました。

«茜色に焼かれる

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