2020年7月 5日 (日)

レイニーデイ・イン・ニューヨーク

 ウディ・アレン監督の最新作「レイニーデイ・イン・ニューヨーク」を見てきました。
 公開3日目日曜日、新宿ピカデリーシアター3(287席/販売140席)午前11時40分の上映は、販売分の8割くらいの入り。

 ニューヨーク生まれの大学生のギャツビー(ティモシー・シャラメ)は、交際し始めて数か月の恋人アシュレー(エル・ファニング)が学生新聞の取材で巨匠の映画監督ローランド・ポラード(リーヴ・シュレイバー)のインタビューをすることになり、週末にマンハッタンの高級ホテルを予約してデートを楽しむつもりだった。ところがアシュレーがインタビューを始めるとポラードが編集中の新作への不満を言い出して、1時間の取材の約束が延長されて脚本家のテッド・ダヴィドフ(ジュード・ロウ)とともにその試写を見ることになった挙げ句、ポラードは試写の途中で出て行ってしまい、アシュレーはテッドとともにポラードを追って探すハメになり、デートをキャンセルされたギャツビーは高校の同級生が映画撮影中の現場を訪ね、元カノだったエイミーの妹チャン(セレーナ・ゴメス)と出くわし、いきなりキスシーンを演じるハメになる。アシュレーはポラードを追ううちスタジオで今をときめくイケメンスターのフランシスコ・ヴェガ(ディエゴ・ルナ)にディナーに誘われて舞い上がり…というお話。

 ひと言で言えば、ちょっとおしゃれで、コミカルで、ちょっと切ない、ウディ・アレンワールドにようこそ、という作品。ウディ・アレン信者、ウディ・アレンワールドを愛する人には賞賛され、そうでない人、何かテーマ/訴えるもの/考えさせるものを求める人には、だから何?という作品だと思います。
 成り上がりの富豪で上流社会に食い込みたくてパーティーを繰り返す両親に対して反発し拗ねているが、親のすねをかじり続けるギャツビー、銀行家の娘でいかにも軽い(おつむもお尻も)アシュレー、背景事情は説明されないものの姉エイミーが名門大学に進学して自身も大学生で皮膚科医と交際中というチャンも含め、富裕層の学生さんたちと、巨匠の映画監督と脚本家、映画俳優たちという恵まれた人たちが、いかにも軽く求愛し合う、その軽さを皮肉っているのだとは思います。その内面のことは知りませんけどいかにもチャラそうなティモシー・シャラメが、イケメン俳優を中身のないジュームス・ディーンなどとけなしているのも、あんたが言う?ということなのでしょう。
 地に足の付いた人物や貧しい人が出てこないのは、格差社会の批判等の社会派的な要素を入り込ませたくないからなのでしょうけれども、チャンをどう評価するかというところに解釈の余地を残しつつも、基本的にお金持ちの軽い人ばかりの物語では、コメディとペーソスの雰囲気は味わえても、共感しにくいように思えます。
 こう言うとウディ・アレン信者には怒られるとは思いますが、今どき、若く美しい準主役の女性をいかにも知性に欠け浮ついて尻軽に描いて低く見せるという手法は、コメディとしても品性を欠いた時代遅れのものだと、私には思えます。

2020年6月28日 (日)

ワイルド・ローズ

 前科者のシングルマザーが歌手になる夢を追う映画「ワイルド・ローズ」を見てきました。
 公開3日目日曜日、新宿ピカデリーシアター4(127席/販売60席)午前9時40分の上映は、販売分で見ると7割くらいの入り。朝9時台の上映ということからすれば結構入ってるなと思いました。

 未成年者に麻薬を譲渡した罪で服役していたシングルマザーのローズ=リン・ハーラン(ジェシー・バックリー)は、アメリカのナッシュビルに行ってカントリーの歌手になるのが夢だった。出所後、かつて看板歌手だったグラスゴーのナイトクラブで再起しようとするが追い出され、母マリオン(ジュリー・ウォルターズ)の知人の紹介で富豪の妻スザンナ(ソフィー・オコネドー)の屋敷で清掃婦として働くようになったローズ=リンは、留守中にカントリーソングを歌っていたところに帰宅した息子たちに気に入られ、スザンナからカントリー界の大御所のBBCラジオパーソナリティを紹介されて、ロンドンまで会いに行く。歌唱力を買われ、自分で歌を作れ、どんなメッセージを伝えたいと聞かれたローズ=リンは戸惑い…というお話。

 冒頭、出所の日に居室を整理し、刑務所から出て行くシーンで、まず、イギリスでは受刑者が自分の部屋でヘッドホンでCDを聞けるんだと、日本の刑務所との違いを感じさせます。出所の際に足首にGPSを嵌められて午後7時から午前7時まで自宅にいることを強いられる(たぶん、刑期満了前の仮出所で、その間ということなんでしょう)というのも違いを感じましたが。
 8歳の娘と5歳の息子の2児の母のローズ=リンが、出所して最初に行くのが愛人らしき男のところで、まずは屋外の芝生でセックスするという描写に、ローズ=リンの奔放さ、自己主張の強さ、母親としての自覚のなさが示されます。その後、子どもたちを預かっている母のところに行った際の、母、娘の表情、視線でそれがさらに決定づけられます。あまり台詞を多用せずにローズ=リンの人柄と家族との関係を印象づける手法は巧いなと思いました。
 歌唱力が高く評価され、ロンドンでもナッシュビルでも見知らぬ音楽業界関係者にすぐに認められて声をかけられるというあたりは、非現実的な設定ですが、この作品は、夢の実現に向けたシンデレラストーリーではなくて、むしろローズ=リンが歌手を夢見ながら、自分がどんな歌手になりたいのか、歌手になって何をしたいのかなどが実は見えていなかった、それを考えていくという方にポイントがあります。設定上は、ローズ=リンが歌手になる夢と家族・子どもたちに挟まれて悩むということになっているのですが、そちらよりも、ローズ=リンが本当は何をしたかったのかの方が、本筋に見えました。
 歌唱力が高く評価される歌手の話なので、予告編でも「ラスト5分、彼女の歌声にきっと涙する」とか、歌で売っているのですが、私は、ローズ=リン、マリオン、娘と息子の表情が売りの作品のように思いました。特にローズ=リンの得意げな、調子に乗ったときの表情を好ましく思えるかがこの作品を気に入るかどうかを左右するんじゃないかと思います。

2020年6月14日 (日)

コリーニ事件

 フェルディナント・フォン・シーラッハのリーガル・サスペンスを映画化した映画「コリーニ事件」を見てきました。
 公開3日目日曜日、YEBISU GARDEN CINEMA スクリーン1(187席/販売97席)午前11時の上映は観客30人あまり。

 弁護士になって3か月の駆け出し弁護士カスパー・ライネン(エリアス・ムバレク)は、そうと知らずに青少年時代の恩人ハンス・マイヤー(マンフレート・ザパトカ)を殺害した犯人ファブリツィオ・コリーニ(フランコ・ネロ)の国選弁護人となる。ライネンが殺害の動機を聞いてもコリーニは話そうともせず、裁判は淡々と進んでいく。このままでは謀殺(計画的殺人)として終身刑になってしまうとライネンは焦るが、法廷で犯行に使われた拳銃がワルサーP38であることが話題になり、ライネンに閃きが生じて、ライネンは裁判長(カトリン・シュトリーベック)に1週間の休廷を申し出、調査を開始する…というお話。

 この作品のテーマをネタバレなしに論じることはおよそ不可能なので、以下ネタバレ解説になります。

 この作品では、謀殺であれば終身刑となるが、殺人であっても「低劣な動機」でない場合には「故殺」となり、法定刑が低くなるという枠組みの下で、コリーニによるハンス・マイヤー殺害の動機が何かが問題となります。前半では、コリーニが動機を(それ以外も含めてほとんど)話そうとしないので、コリーニはいったいなぜハンス・マイヤーを殺害したのかを軸に展開され、後半ではそのコリーニの動機を法的にどう評価すべきかが問題になります。
 その中で、1968年に成立した「秩序違反法に関する施行法」によって謀殺罪の幇助犯は故殺犯として扱われることになったことがクローズアップされます。法廷でその説明をするように求められたマッティンガー弁護士/教授(ハイナー・ラウターバッハ)がその内容(謀殺罪の幇助者は故殺として扱われることになった)を2度繰り返しても、皆がその重大な意味をそれでは理解できないというシーンが描かれているように、その適用によってナチスによる虐殺の関与者のほとんどが「故殺」扱いされることによりすでに公訴時効が成立したことになって一切処罰され得ないにもかかわらず、そのことが十分に理解されないままにこの法律が可決されてしまったということが争点となります。
 映画では、この点が焦点化される前から、コリーニが、何の法律によって、奴(ハンス・マイヤー)が処罰を免れるのか教えてくれと繰り返し、法律の欠陥があるのだということが示唆され、アピールされています。
 この点は、原作の中心テーマで、原作本(日本語訳)の末尾にも「本書が出版されて数か月後の2012年1月、ドイツ連邦共和国法務大臣は法務省内に『ナチの過去再検討委員会』を設置した。」と記載されていますし、映画の公式サイトにもその紹介がなされています。その委員会が結局何をしたのかは、私が調べてもよくわからないのですが。
 謀殺と故殺は、そういう区別がない日本刑事法しか知らない弁護士にとっては、今ひとつよくわからないのですが、どちらも明らかに計画的な殺人であるハンス・マイヤーの住民殺害(命令)とコリーニのハンス・マイヤー殺害が、一方は法の規定により一律に故殺とされて不処罰となり、他方は弁護人がその動機を理由に故殺を主張しているという構図は、どこかアイロニカルにも思えます。
 コリーニの最後の決断の動機が、映画ではより見えにくいように思えますが、ハンス・マイヤーの行為と刑事処分の不法を確認した満足なのか、自己の減刑を求めることを不本意と思う故なのか、考えさせられます。ただ、この点に関しては、原作のラストが、コリーニの長年にわたる悲しみと懊悩を感じさせるのに対して、設定を変えてしまったことでよりシンプルなものになっています(これを深みを失ったと見るか、問題点/焦点が純粋になったと見るか、意見が分かれるかも知れませんが、原作とかなり味わいの違うものになっていることは間違いありません)。

 さまざまな点で、原作が現役弁護士によるものであり現実的に抑制された記述となっているのに対して、映画では派手な展開を狙って変更を試みています。
 弁護士の目から見ると、地味な点ではありますが、被害者が自分の青少年時代の恩人/知人であることに気がついた時点で被疑者(コリーニ)にそのことを説明した上で、それでも自分が弁護することを希望するかを確認する場面が、原作ではベテラン弁護士マッティンガーが助言し、ライネン自身直ちに行っていますが、映画ではそれがありません(ずいぶん後になって言及しています)。弁護士としては、欠かせない手続だと思うのですが、弁護士以外にとってはどうでもいいことなんでしょうね。
 ライネンがコリーニの動機に気がついたきっかけの凶器がワルサーP38であることは、原作では、記録をめくっていて気がつき、それ以上には説明されません。ちなみに休廷はライネンが申し出るのではなく参審員がインフルエンザに罹患したためです。これに対し、映画では、法廷での証言を聞いて初めてライネンが気がついた挙げ句、ライネンが調査もしない段階で1週間の休廷を求めます。現実に裁判を行っている者の目からはかなり非現実的に思えます。そしてワルサーP38は今ではほとんど目にしない、ライネンが子ども時代の記憶を頼りにハンス・マイヤーの書斎からワルサーP38を発見するなど、十重二十重に説明してくれます。ドイツ人には第2次世界大戦時にドイツ軍の制式拳銃であったことは説明しなくてもわかる(原作はそれで十分と判断したのでしょう)が、一般向けにはきちんと説明してあげないとという配慮でしょう。私には、ワルサーP38といえば、アニメ「ルパン三世」でルパンが愛用していたというくらいしか思い浮かびませんから。
 その休廷期間中、原作ではライネンが独りで連邦文書館にこもりますが、映画ではピザ屋の配達員(ピア・シュトゥッツェンシュタイン)を連れ、長らく連絡していなかった父親にも手伝わせて文書館の文書を分析するだけでなく、イタリアに調査に出かけます。そのイタリア調査で訪問した虐殺現場にいた通訳(通訳自身は戦後ナチス協力者として処刑)の息子クラウディオ・ルケージ(サンドロ・ディ・ステファノ)を証人として尋問し、証人自身は見たはずもない(父親から聞いたのでしょうけど)ことを見てきたように証言させ、さらには当時9歳の少年コリーニ自身が虐殺現場にいて目の当たりにしたという設定になっています。
 法廷での尋問では、ハンス・マイヤーの行為が当時の国際法、戦後の国内法上合法であったかに関する議論を、原作では文書館長のシュバーン博士を、ライネンとマッティンガーが尋問する形で応酬しますが、映画では何と問題の立法の過程に若き日に参加したとしてマッティンガーを証人申請してハンス・マイヤーの遺族代理人のマッティンガーにハンス・マイヤーの行為を不処罰とすることが不正義であると言わせます。(映画ではその際にライネンはマッティンガーに、それは法治主義と言えるかとも尋問していますが、立法してその法律に従って処分が決定されているのを「法治主義じゃない」と言うのはかなり無理があります。翻訳の問題があるのかも知れませんが)

 これらの変更は、より劇的になり、またわかりやすくなるのでしょうけれども、弁護士の目には/私には、何だかなぁと思えました。

 この映画では、他にも、原作とは多数の点で設定が変更されています。
・コリーニがハンス・マイヤーに撃ち込んだ銃弾の数:原作では4発、映画では3発。
・カスパー・ライネンが弁護士になってからの期間:原作では42日、映画では3か月。
・カスパー・ライネンが受任後に被害者が青少年時代の恩人と知った経緯:原作ではヨハナから知らされた、映画では弁護士仲間から知らされた。
・カスパー・ライネンの出自:原作では明示はされていないが父がバイエルン州に遺産相続した森を持っていることからドイツ人と思われ、ルートヴィヒスブルグで乗車したタクシーの運転手がトルコ系と見られる描写があるがその際特に親近感その他の描写もない、映画ではトルコ人。
・カスパー・ライネンの親との関係:原作では母が別の男を作って出て行き父親に育てられた、父は森の林務官屋敷に独り住まいで今も連絡している、映画では父が出て行き母に育てられた、父は書店を経営、父とは長らく連絡がなくライネンは恨みに思っている。
・カスパー・ライネンの喫煙:原作ではライネンは喫煙せず、コリーニがタバコを出して「火は?」と聞くがライネンはライターを持ち合わせていなかった、映画ではライネンが独りでタバコを吸い続け、終盤でコリーニが心を開く表れとして初めて一緒にタバコを吸う。
・カスパー・ライネンのボクシング:原作ではまったく示唆もないが、映画では冒頭からライネンがボクシングをするシーンが多用される。これはライネンの闘争心をイメージさせる目的と思われる。その点は悪い演出ではない。
・カスパー・ライネンとヨハナの学生時代の関係:原作では一度ヨハナがライネンにキスをするだけだが、映画では肉体関係を持つ。
・カスパー・ライネンとハンス・マイヤーの関係:原作ではもらった物は古いチェスのセットくらいだが、映画では自動車をもらって現在も乗っている。
・カスパー・ライネンに対する買収:ライネンに弁護をやめたら高額の報酬のある事件を回そうと持ちかけるのは、原作ではマイヤー機械工業の顧問弁護士バウマン、映画ではマッティンガー。
・コリーニの姉:原作では戦時中に殺された、映画では生きながらえて事件の2か月前に死んだ。



 基本的にドイツ語の映画です(イタリア調査の場面でイタリア語も出てきます)ので、聞いていても全然わかりませんが、ヨハナ(アレクサンドラ・マリア・ララ)のライネンに対する台詞で突如「ファック・ユー」と言われてびっくりしました。え…ドイツ語にも「ファック・ユー」が?ドイツ語には適切な罵り言葉がない(上品な言語)?
 そういうシーンも含め、原作ではより抑制的なヨハナが、映画では感情を露わにし、しかしそれならさすがにコリーニの弁護人となったライネンとエッチはしないだろうと思っていたら、そこはきっちりするんです。ライネンの側で、仮に過去に何があったとしても、刑事事件受任中に被害者の親族と肉体関係を持つって、どう考えてもダメだろうと思います(原作を読んだところでそう思いました)が、ヨハナの側もブレ/揺れが大きすぎる感じがします。被害者が受ける心の傷とダメージを描くのならばもっと別の表現方法があると思いますし、この作品のヨハナの描き方には、私は違和感を持ちました。

2020年6月 7日 (日)

ハリエット

 自身が奴隷として生まれ奴隷の逃亡/解放を先導した実在の黒人女性の活動を描いた映画「ハリエット」を見てきました。
 公開3日目、緊急事態宣言解除による東京都での映画館上映再開後最初の日曜日 、渋谷シネクイントスクリーン2(115席/販売57席)12時45分の上映は、観客6名。
 もともと日本ではなじみ/関心の薄いテーマだからなのか、映画館で映画を見るという行動/文化自体が自己顕示欲と権勢欲にまみれた政治家たちの行為とそれに同調するマスメディアと自粛警察たちのために踏み潰され廃れてしまったのかわかりませんが、寂しい限りです。

 メリーランド州の農家で奴隷として働かされているミンティ(シンシア・エリヴォ)は、1849年のある日、自由黒人の夫ジョン(ザカリー・モモー)、やはり自由黒人の父ベン(クラーク・ピータース)とともに、牧場主エドワード(マイケル・マランド)に対し、弁護士に調査してもらったところ牧場主の祖父の遺言でミンティの母リット(ヴァネッサ・ベル・キャロウェイ)は45歳で解放されその子たちも解放するとされている、現在リットとミンティを奴隷としているのは違法だ、ミンティの子が生まれたら自由にして欲しいと掛け合ったが、エドワードはその弁護士からの手紙を破り捨て、ミンティもその子も一生自分のものだと言い放った。エドワードが借金を残して死に、残された妻エリザ(ジェニファー・ネトルズ)と息子ギデオン(ジョー・アルウィン)はミンティを南部に売ろうとし、それを知ったミンティは逃亡を図り、奴隷の逃亡を密かに支援するグリーン牧師(ボンディ・カーティス=ホール)の助言を受けて自由州ペンシルヴァニアに向けて走り続け…というお話。

 ミンティが、逃走するに際して、一緒に行こうと迎えに来た夫ジョンに対して一緒に逃走して捕まったら自由黒人の地位を剥奪されると気遣って一人で逃走し、160kmを単独で逃げ切ってフィラデルフィアで新しい名前ハリエットで市民登録をして1年間働いて生活基盤を作った後に、自分が逃走したことで夫や父が酷い目に遭っているはずだとして、単身メリーランドに潜入して夫と父にペンシルヴァニア行きを誘うが、夫はハリエットが死んだと知らされて新たな妻と再婚しており、父は状態の悪い母を置いていけないと拒む(その際に別の奴隷たちが逃走を希望してハリエットが先導して逃走させる)という場面が、切なく悩ましい。
 ハリエットが、置いてきてしまった夫を気遣って危険を冒してメリーランドに戻ったにもかかわらず裏切られたという心情を持つのもわかりますが、他方で、ジョンはハリエット/ミンティの逃走を知ったギデオンの拷問を受けたためと思われますが左目を潰されて、それでもミンティを売らずに知らないと言い続けたものです。死んだと言われて絶望したその心情を責めるのも厳しすぎるように思えます。
 ここは、ハリエットとジョンの感情の対立に着目してそれを批評するのではなく、2人をそのような状況に追い込んだ奴隷制度の非情さ・残酷さの問題にこそ目を向けるべきでしょう。

 ハリエットが、奴隷の連れだしに向かおうとして奴隷解放組織「地下鉄道」のウィリアム・スティル(レスリー・オドム・Jr)や他の活動家から危険すぎる、無理だと反対され、奴隷の置かれた過酷な状況を考えれば一刻の猶予も許されない、あなたたち自由黒人として生まれた人たちには奴隷のことはわからないと言い返す場面が何度か描かれます。
 こういう議論になってしまうと、運動家の中では、良心的であればあるほど反論ができず、左翼的な/反政府的な組織では声が大きく原理的な主張が通りがちです。そのような運動論は、現実的ではなく、容易に権力の弾圧を招いて組織が壊滅したり、表だっては反対できないが嫌気がさした穏健派が抜けていって組織が先細りになるということが多いと予測されます。
 しかし、別の見方をすれば、仮に進化論レベルの多数の失敗が許されるとしたならばではありますが、一見無謀に見える方針であっても結果を出した組織と戦術は生き延びて引き継がれ、結果を出せなかった組織は消えていき、結果を出せなかった戦術は引き継がれないということになり、人間はそういった歴史に学びながら、組織と戦術をも進化させていると言えるわけで、結果を出したからこそ今に言い伝えられたハリエットの行動をただ無謀だと言っていたのでは前進もなかったわけです。といって、ハリエットの行動を他の者がまねて同様の結果を出せるのか、成功の条件/要因は何だったかのきちんとした検討ができなければ、次の成功は導けないわけで、組織論、運動論として、なかなかに難しく悩ましいと思いました。

2020年4月 8日 (水)

黒い司法 0%からの奇跡

 黒人死刑囚の弁護人として冤罪事件に取り組む若き人権活動家の黒人弁護士を描いた映画「黒い司法 0%からの奇跡」を見てきました。
 見たのはもう1月くらい前です(緊急事態宣言を受けて、今日はもう東京では上映している映画館はないようですしね)が、原作本を読んでから書くことにしましたので、今頃になりました。東京では映画館で見ることができない時期の紹介になり残念です。

 パルプ材の伐採・運搬に従事していた黒人ウォルター・マクミリアン(ジェイミー・フォックス)は、1987年6月、仕事帰りに待ち構えていた警官たちに逮捕され、身に覚えのない殺人罪で起訴され、死刑判決を受けて収監されていた。ハーバード・ロースクールを出た若き黒人弁護士ブライアン・スティーヴンソン(マイケル・B・ジョーダン)は、黒人が不当な扱いを受けている司法の現状を許せないと考えて、アラバマ州で黒人死刑囚らを弁護する事務所を作り、ウォルターと面会し、ウォルターの無実を証明するために調査を開始し、ウォルターを有罪とした証言が虚偽のものであることやウォルターのアリバイを証言できる者が多数いることなどを確認し、ウォルダーの無実を確信するが…というお話。

 ブライアンが、法廷での尋問で、有罪判決の際の目撃証人のマイヤーズから証言は司法取引で軽い判決を得ることや死刑囚監房から出してもらうためにウソを言ったものだという証言を得、それだけではなく、殺人現場に駆けつけた元警察官から被害者の死体が仰向けだったかうつ伏せだったかについて目撃証言は事実と反対だという証言などを得たにもかかわらず、裁判所が請求を認めないという場面は、やはり無力感を持ちます。有罪判決の証人マイヤーズの証言は、映画では、前の裁判での証言はウソだったというひと言しか出てこなくて、見ていて、いやそこで終わっちゃダメだろうと思いましたが、原作を読むと、当然にかなり詳しく一つ一つ確認して丁寧に証言させています(「黒い司法 黒人死刑大国アメリカの冤罪と闘う」226~229ページ)。そこは、映画だからそこに時間をかけてられないということと理解しましたが、弁護士の感覚では、裁判所はマイヤーズにウソだと言わせるだけでは簡単には認めないだろうと思います。本来の理屈では、有罪判決の最重要証言が覆れば裁判所は無罪を言い渡すべきですが、弁護士として実務をしていれば、裁判官がマイヤーズが何らかの事情で今ウソを言っているのではと疑うことを予測してしまいます。しかし、殺人事件の現場に現実に駆けつけた警察官が、被害者の死体の状況が違うということを明確に言ってくれているという事情(あと記憶が定かでなくなっていますが、ウォルターの乗車していたトラックの改造が殺人事件の6か月後に行われており殺人事件があったクリーニング店からウォルターのトラックが出て行くのを見たという証言もあり得ないという証言も、ウォルターのアリバイの証言の他にあったかと思います)があれば、マイヤーズの有罪判決の際の証言はウソだろうと、ごくふつうに思えるのです。そういうあたり、裁判での立証の描き方について、やはりアメリカ映画はきちんと丁寧に考えられていると感じました。しかし、それでもなお、実話に基づくストーリーで、裁判所は請求を認めないのです。
 ブライアンが証人尋問をした手続は、映画を見ていた時にはまったくわかりませんでした。再審請求はすでに棄却されていて、再審請求ではないという説明ではありましたが、それでは何の手続か、アメリカの司法制度がよくわからず、死刑囚の執行を回避するために人権派の弁護士がどんな手法を編み出しているのかと思いながら見ていましたが、原作を読むと、刑事訴訟法第32条請願という手続で、証拠開示請求手続のようです(原作191~193ページ、219~220ページ)。検察側の未提出証拠の開示を受けるために、弁護側でその必要性(ウォルターが無罪である可能性が相当程度あること)を示す手続ということでしょうか。その手続での請求を認めない郡の巡回裁判所の裁定に対する刑事上訴裁判所への上訴で、裁定が覆されたのを受けて、ブライアンは証拠開示手続に戻るのを待たず、地方検事に起訴の取り下げを求め、この申立に対する審問手続で、ウォルターの裁判での最終決着が図られます。日本とアメリカで刑事司法手続が違うためですが、手続に関しては、日本の弁護士が想定するのとは違うものが続き、やはり司法制度は国によりずいぶん違うのだなぁと感じました。

 ブライアンのように、まさしく正義のために、被告人からは費用・報酬を取らずに尽力する弁護士の姿は、美しいのですが、弁護士としては、それを求められても現実には無理と言わざるを得ません。ブライアンがそういうことができるのも、刑事弁護人について行政(連邦、州、郡)が公設弁護人事務所(パブリック・ディフェンダー・オフィス)を開設して弁護士を税金で雇用していること、社会的に意義のある活動への寄付が一般に根付いていることがあってのことですし、もちろんアメリカでもブライアンのような活動をしている弁護士は極めて例外的なごく一握りです。
 行政からの補助金はもちろんのこと、労働事件で心置きなく企業と闘えるように企業からの事件依頼も受けていない私にも、「庶民の弁護士」を名乗ること(企業側に立たないということで、その意味はあると私は考えていますが)から社会的に意義がある事件は当然に受けるべきだとか、無償あるいは低額の費用で受けるべきだと言ってくる方が時々いますが、私はそういうリクエストには到底応えられませんし、そういう物言いの方と議論するのも嫌なので早々にお断りしています。プロボノ的な活動というのは、自分がやる気になった事件でするべきで、他人からそれを言われたくないというのが率直なところです。

 原作では、ウォルターがブライアンの申し出に否定的な態度を取り、なかなか事件依頼をしないという場面はありませんが、映画ではそういう場面があります。映画化に際して原作では書いてないけど実際はそうだったという話があったのかも知れません。私は、どんな事件であれ、自分から積極的に「やりたい」と思うことはありませんから、依頼者が依頼を渋ったり、ましてや「やりたいか?」などと言ってきたら、まず受けませんが、ブライアンは無報酬の事件を、依頼者が乗り気でないのに自らやろうとします。そういう姿も、美しいかも知れませんが、それで弁護士はそういうものと誤解する人が出るのはいやだなと思ってしまいます。
 法廷での元警察官の証言が、原作では被害者の死体のあった場所が違う、実際にあった場所はマイヤーズが目撃したという場所と違うというものでした(原作230ページ)が、先ほど述べたように映画では死体が仰向けかうつ伏せかの違いに変えられています。ここはどうして変更したのか全然わかりません。
 また、上訴裁判所で裁定が覆された後の起訴取下の申立に対する審問期日の描写も、原作では開廷前の打ち合わせまでに結果は確認されていた(原作294~298ページ)のに、映画では開廷して初めて地方検事が表明するという形になっています。それもチャップマン検事は特に劇的な形ではなく述べています。ここも原作の方が現実的だと思えますし、映画が劇的な効果を狙って変えるのならもっと劇的にやればいいのにと思いました。

 弁護士としては、違和感がある点もありますし、思うところはいろいろありますが、やはり裁判、司法制度についての描写の迫真性と現実性、弁護士としての生き様ややりがいなども含めて、見ていて感動しました。宣伝では、オバマ前大統領が2019年でいちばんの作品だと述べているということですが、そこは納得できる気がします(オバマは黒人で弁護士ですからね)。私としては、多くの人に見てもらいたい作品だと思っています。

2020年4月 5日 (日)

21世紀の資本

 トマ・ピケティの経済学書を映画化したドキュメンタリー映画「21世紀の資本」を見てきました。
 公開3週目日曜、お上からの週末外出自粛指令が続く中、週末休館する映画館が圧倒的多数となっている状況の下で、週末の上映を継続する今や貴重な映画館ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1(162席)午後2時の上映は4割くらい(間隔を空けての座席指定のため、販売対象座席数からすると8割以上か)の入り。

 第1次世界大戦以降を中心に、時には産業革命あたりまでを振り返る歴史映像に、トマ・ピケティ自身や経済学者らのコメントを組み合わせ、所得・資産の格差の拡大とその固定が語られていくというスタイルの作品です。

 開始早々、というよりも開始直前に「TAKESHOBO(竹書房)」の大きなクレジットが入ります。えっ、提供竹書房って…、ここがいちばんインパクトがあったかも。原著は、私は読む気力も出なくて、実際読んでないんですが、私のおぼろげな記憶では、確かみすず書房だったんじゃ…まさか、あの竹書房が経済学の専門書を出していたのか、いや、そんなはずは…

 作品の中で、学生を使って、コイントスで富者と貧者に組み分けして富者に圧倒的に有利な不公正なルール(ゲームの各場面で同じことをしても富者は貧者より2倍点数を稼げる)でゲームをさせると、富者に当たった学生は例外なく尊大な態度を取り、勝った原因はツキではなく自分の実力と考えたという紹介があります。理由なく優遇を受けていると、それに慣れてそれを当然視し、それが自分の実力だと誤解しうぬぼれてしまい、恵まれない境遇の他者を理解も共感もせず蔑むようになりかねない、いやそうなる可能性が高いということですね。心しておきたいところです。

 格差を拡大し、かつその格差を固定する(貧者が成り上がる可能性がきわめて低い)現代社会の是正方法について、ピケティは、富者・巨大企業への累進課税と資産課税(特に相続税)の強化を薦めています。近世以降、中産階級が拡大した例外的な時期だった第2次世界大戦後の高度成長期には、世界中でそれが公平だと、考えられ、日本でも実施されていた(日本の戦後税制のスタートとなったシャウプ勧告の基本的姿勢ですね)のに、近年は経済界(大企業)を優遇しすり寄る政治家たち(新自由主義とかいう連中)に投げ捨てられ顧みられなくなった考え方ですけど。アップルやグーグル、フェイスブックなどの多国籍企業が巨額の利益を得ながら税を免れる様を批判し、多国籍企業の本社がどこに置かれようが、どのような法的技巧が施されようが、全体の売上の例えば10%がフランスで売り上げていれば全利益の10%に対してフランス政府が課税できるようにすればいいと論じています。消費税を上げてその分を(口先では社会保障に使うなどといいながら、実際には)丸々法人税減税に充てるような格差拡大と固定を是とする大企業にだけ奉仕する政治家には、絶対に見向きもされない提言ですが、正しいところをついていると思います。

2020年3月29日 (日)

世界でいちばん貧しい大統領

 ウルグアイの第40代大統領ホセ・ムヒカを描いたドキュメンタリー映画「世界でいちばん貧しい大統領 愛と闘争の男、ホセ・ムヒカ」を見てきました。
 公開3日目コロナ自粛延長中「不要不急の外出」自粛要請の日曜日降雪の中、ヒューマントラストシネマ有楽町シアター2(63席)12時30分の上映は3割くらいの入り。

 監督が葉巻を吹かし、ホセ・ムヒカがストロー付きのカップに入れた飲み物(茶色っぽかったですが、何でしょう。あまりおいしそうではなかったですけど)を飲んだり監督に勧めながら続けられるインタビューに、大統領就任前のホセ・ムヒカと妻ルシア・トポランスキーの写真や、大統領在任中のビデオ等を挟みながら、農業を営みつつ大統領職を務め、民衆と対話し、貧困者用の住宅や学校を作り、給料の多くを寄付し、外国と交渉したりスピーチする様子を紹介しています。

 多くの国民から選ばれる者は多くの国民と同じ生活をすべきだとして、自らトラクターで、さらにはスコップで農地を耕し、自ら乗用車を運転して通勤する姿は共感を呼びます。政治の世界で探すべきは大きな心と小さなポケットの人物だという言葉や給料の多くを貧しい人のために寄付していることと合わせ、監督がいちばん描きたかったテーマはここにあります。
 しかし、私はむしろ、この作品を見て、権力者や社会の大勢に抗う異端の少数者に対する民衆の評価の日本との違いの方に関心を持ちました。チェ・ゲバラに心酔し、軍事独裁政権に対する反政府勢力の活動家として、自らは銀行強盗などを行い、妻は文書偽造を担当し、13年間の刑務所暮らしを経て1985年に出所したホセ・ムヒカが、過去の活動について弁解することなく(銀行強盗は楽しかったと述懐していたように記憶しています)大統領に就任し、国民から愛される様子に、文化というか、価値観の違いを感じさせられたのです。近時の硬直した、犯罪者の更生はおろか敗者復活が非常に困難な日本社会は、世界標準ではないのだということを改めて考えました。

2020年3月22日 (日)

弥生、三月 君を愛した30年

 惹かれ合いながら別の道を歩んだ2人のすれ違い交差するその後を描いた恋愛映画「弥生、三月 君を愛した30年」を見てきました。
 公開3日目、コロナ自粛延長中の日曜日、新宿ピカデリーシアター6(232席)午前11時の上映は、1~2割の入り。恋愛映画のはずなんですが、時節柄か、カップルは少なく、1人客が多数派…

 友達思いで正義感の強い結城弥生(波瑠)は、難病の友人渡辺サクラ(杉咲花)が思いを寄せていた同学年の山田太郎(成田凌)に、サッカー部をやめたことを思い直させようとして口げんかになり、太郎の頬を張ってしまう。そのまま登校した弥生は教室の黒板に書かれたサクラのエイズ罹患をからかう落書きに怒り、穏便に済ませようとする教師を叱咤し、エイズは血液交換でしかうつらないと、皆の前でサクラにキスをして、親友を傷つける者を私は許さないと宣言する。あっけにとられて見ていた太郎は、その後2人と親しくなり、サクラの病床を見舞うようになる。1988年3月の卒業式に遺影を持って登壇したサクラの両親は、サクラの好きだった歌を聴いてくださいと、「見上げてごらん 夜の星を」を流す。卒業式を終えて、サリバン先生のような教師になるという弥生とサッカー選手としてワールドカップに出場するという太郎は、互いに夢を語り、別々の道を歩んだ。その後、思うに任せぬ人生を歩み、それぞれに別の人と結婚した2人だったが…というお話。

 難病ものと恋愛ものの掛け合わせですが、難病で死んだサクラが太郎を好きだったという設定が、サクラの親友の弥生が容易には太郎と結ばれない、それぞれの現状や心境がサクラの墓参りの場面で語られる、そしてサクラが残したメッセージがもつれよじれた2人の心に沁みるというようにさまざまな場面で効いてきます。常に「3月」を描くというコンセプトは、惹かれ合いながら友達でいることを選んだ男女の23年間を7月15日だけで描いた「ワン・デイ 23年のラブストーリー」に着想を得たものでしょうけれど、弥生が東京にいたという設定で1995年3月(地下鉄サリン事件等)は何故出てこないのかが気になったりとか、もうすぐ東日本大震災の津波が来るよねと先が予想できたりとか、必ずしも成功したようには見えません。むしろサクラの好きだった歌として「見上げてごらん 夜の星を」を取り上げてさまざまな場面で、この「昭和」な歌を流し、1985年8月12日の日航機墜落事故で坂本九が死んだこととサクラの死あるいはサクラの思いを偲ばせることがより効果的だったといえるかも知れません。
 ラストシーンからすると、弥生も(まぁ弥生は、名前自体からそうだろうなと思いますけど)太郎も3月生まれのようですが、2人の30年を3月の場面だけで描いたというこの映画で、1度も誕生日を祝うシーンがないということが、2人の人生を象徴しているように思えます。
 いくつかの場面でりりしさを見せる弥生が、重く沈んだ表情を続け、サクラが死んでから心から笑ったことがないかも知れないという様子、高校時代おどけて人を楽しませることが好きだった太郎が、どんどんと情けなくなっていく様子に、人生の哀しさを感じます。人生は、そういうものだから、だからひとときでも自分を貫き輝く場面が貴重で尊いのだ、ふだんくすぶり、打ちひしがれていたとしても、それだけじゃないんだともいえますが。

2020年3月15日 (日)

時の航路

 いすゞ自動車雇止め事件での派遣切りと労働者の闘い、裁判を描いた映画「時の航路」を見てきました。
 公開2日目コロナ自粛延長中の日曜日、池袋シネマ・ロサ1(193席)12時10分の上映は、2割くらいの入り。

 大手自動車メーカー「ミカド自動車」で旋盤工として働く五味洋介(石黒賢)は、派遣労働者ながら古株で新人の正社員の指導も任され、人望を集めていた。妻夏美(中山忍)と子ども2人を青森の夏美の実家に残して静岡の工場で働く洋介は、正社員登用をほのめかされて、息子の大学進学も決まり、家族を呼び寄せての生活を期待していたが、リーマンショックで事情は一変し、会社から契約打ち切りを告げられ、いちばんのベテランの洋介が承諾しないと収まらないからと派遣会社の担当者に次の働き口のあっせんを努力するからと言われて、差し出された書面に署名してしまう。派遣会社から、努力はしたが次の仕事はないと言われて唖然とした洋介は、労働組合の活動家、弁護士らの話を聞いているうちに会社との闘いを決意する。夏美と家族は洋介の組合活動に反対し、青森に帰ってきてくれと洋介に伝えるが…というお話。

 大企業と派遣会社の傲慢さ、狡猾さ、非正規労働者に対する非情さ、残酷さ、非正規労働者がいかに弱い立場かということが実感されます。
 現実の事件(いすゞ自動車雇止め事件)に基づいて作られているので、しかたないのですが、見ていて希望が持てないのが哀しいところです。不遇の者同士が助け合い、また夏美の闘病を聞いた同志たちが連帯する姿に暖かさは感じられ、そのレベルでは闘うモチベーションが与えられるのですが、映画を見終わったところで、洋介は、最愛の妻夏美を失い、裁判を優先してその死に目にも駆けつけることができず、家族に詰られながら、闘っていったい何を得たのかを思うと、暗澹たる気持ちになります。
 闘争とは別に、離ればなれの洋介と夏美が久しぶりに再会するシーンでの思いを寄せ合い表現する場面が、夫婦愛を感じさせて印象的でした。

 私は、いすゞ自動車事件にはまったく関与していませんから裁判の具体的な経過は知りませんが、この作品での裁判の描き方には疑問を持ちました。裁判の場面で(東京地裁の法廷の傍聴席が2階建てなのは、もう論外として)会社側の証人(常務)に対して、労働者側の弁護士がその場で取締役会議事録を書証として提出して突きつけてその前の証言(生産減少とその回復の見込みがなかったこと)と矛盾すると迫り、証人からそれは正式の議事録ではない、自分は見たことがないと突っぱねられると常務の尋問を打ち切った挙げ句にその場でそれでは社長の尋問を申請すると言い出し、裁判所が必要性がないと却下すると裁判官を忌避するというシーンがありました。証人に示す書証は原則として相当期間前に提出しなければなりませんし、しらを切られたくらいで動揺して尋問をやめて(2の矢、3の矢を用意しておくのが尋問準備だと思います)社長を呼べと言い出す、人証調べ開始後の法廷でいきなり人証申請ということ自体ふつうあり得ない(人証調べ開始前にひととおり申請して誰を採用するか決めてから人証調べを始めるのがふつう)し、社長を呼べというのにその理由が用意されていない、そういう展開なら社長の人証採用などあり得ないことはふつうに予想されるのに採用しないと言われると動揺して認められることはほとんど考えられない「忌避」をしてしまうというバタバタぶりでは、弁護士の能力を疑ってしまいます。映画だから派手な展開を作ったのでしょうけれども、どちらかというと地道に展開してきた作品でこういうシーンを作る必要があったのでしょうか。制作側は、裁判所と被告側の冷たさ、悪辣さをイメージさせたいのでしょうけど、裁判実務をある程度知っている者の目には、いくら正義は自分の方にあると言ったって、そんなやり方じゃ勝てるものも勝てなくなるだろと、労働者側のやり方のまずさの方に目が行ってしまうのではないでしょうか。
 いすゞ自動車事件の判決を見ると、裁判シーンでこだわった景気回復の予想とその関連書類の問題よりも、その後の回復の見込みがどうあれ現実に生産台数が減少すれば期間工(有期契約労働者)は雇止めにしてもかまわない(ただし期間中の解雇はダメだし期間中の賃金は全額払え)、派遣をしばらく続けたら期間工にしてその後また派遣に戻すことを繰り返して派遣期間制限を潜脱するやり方をしてもかまわないという裁判所の姿勢が問題の根本にあり、そこが変わらないと結局リストラされた非正規労働者の救済は困難に思えます。その部分は、この事件の判決だけじゃなくて、裁判所の趨勢となっています。私の感覚では、この事件での裁判所が悪かったという位置づけではなく、非正規労働者が法的に極めて弱い立場に置かれていることを正面から描いて、それでいいのかをもっとストレートに問うた方がいいように思えます。

2020年3月 8日 (日)

レ・ミゼラブル

 ビクトル・ユーゴーの小説「レ・ミゼラブル」で幼いコゼットがテナルディエ夫妻の下で働かされていたモンフェルメイユの街を舞台に現代フランスが抱える問題を描いた映画「レ・ミゼラブル」を見てきました。
 公開2週目コロナ自粛最中の日曜日、ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1(162席)午前10時20分の上映は2~3割の入り。

 サッカーワールドカップ優勝に沸くパリ郊外の町モンフェルメイユに赴任してきた新人警察官ステファン(ダミアン・ボナール)は、クリス(アレクシス・マネンティ)、グワダ(ジェブリル・ゾンガ)とチームを組んで、犯罪多発地区をパトロールしていた。法的な手順を無視して高圧的に振る舞うクリスに対して、ステファンは反発し、クリスとの間で感情的な対立が生じていく。アフリカ系の移民が集住する団地で「市長」を自称する男(スティーブ・ティアンチュー)のところへ、ロマのサーカス団長が、アフリカ系の少年がサーカスのライオンの子どもを盗んだと抗議して押しかけ、抗争になりかけたところに割って入ったクリスは、犯人を探し出すと約束し、情報屋を通じて、ライオンの子を盗み出して得意げにしている少年イッサ(イッサ・ペリカ)を探し出す。クリスらを見るなり逃げ出したイッサを追い、追い詰めたクリスらはイッサに加勢する少年たちに囲まれて動揺し、グワダが逃げようとしたイッサに至近距離からゴム弾を撃ち重傷を負わせてしまう。その光景をドローンで撮影していた少年がいたことを知ったクリスは、救急車を呼ぼうとするステファンを制してドローンの持ち主の少年を追うが…というお話。


 ラストの問いかけがとても重い作品なので、以下、ネタバレで書きます。

 作品のテーマは、「レ・ミゼラブル」というタイトル、移民が集住する犯罪多発地区という舞台、ラストでの「悪い草も、悪い人間もない。ただ育てる人間が悪いだけだ」(字幕の訳は正確にはこうだったか、よく覚えていませんが)というユーゴーの言葉の引用などからしても、犯罪と暴力の蔓延する環境で育つことの不幸と悲しみということだと思います。冒頭に、イッサらアフリカ系ムスリムの少年たちが、パリに繰り出して、白人たちに交じって、フランスのワールドカップ優勝(2018年)を喜び酔いしれる映像、イッサらがフランス人としての帰属意識とある種の愛国心を感じている象徴的な映像からも、そのテーマが重く、またアイロニカルに感じられます。

 しかし、私は、この作品を見て、他者との、あるいは異文化との相互理解と共存の困難さ(だから共存できない/しなくてよいというのではなく、共存しなければならない/避けられないにもかかわらずそれが困難であることの認識と苦悩)を考えさせられました。
 まずは警察チーム内でのクリスとグワダ、ステファンの溝。クリスはかなり強権的で横暴な態度を取っています。しかしそれは犯罪多発地域で相手に甘く見られては秩序を守れないしさらにいえば警官自身に身の危険が及びかねないからで、私欲のためではありません。同じく新人警察官がベテラン警察官と組んでパトロールする「トレーニング・デイ」のアロンゾ(デンゼル・ワシントン)とはその点で大きく違います。象徴的なシーンとして、街角で女学生がハシシを吸っていたのを見とがめたクリスが、女学生の手を掴み匂いを嗅いでハシシの匂いがする、誰から買ったか吐け、尻の穴に指を突っ込むこともできるんだぞを怒鳴りつけ、友人がクリスがそういうのをスマホで撮影したのを見てそのスマホを奪って道路に叩き付けるという場面がありました。もちろん、女学生側からすれば、クリスの行為は違法ですし、暴力行為で権限濫用です。しかし、クリスは、そこで女学生に対してわいせつ行為には及びませんし金品も要求しません。ただ立ち去り際に「タバコは体に悪いぞ」と告げるだけです。クリスからすれば、女学生がここで嫌な思いをすることでタバコや薬物をやめてくれればという思いでやっているということになります。クリスが移民たちが集住する団地の「市長」とサーカス団の抗争を避けるために、ライオンの子を盗んだ犯人を24時間以内に探し出すと何の得にもならない困難を買って出るのも、クリスが私欲ではなく行動していることの表れでしょう。 また、クリスもうちに帰れば2人の娘の父親として、やはり不器用な愛情表現をしていますが、家族思いの一面を覗かせています。もちろん、クリスが正しいと評価するべきではないでしょうし、この作品もそういう主張ではなく、しかしものごとはそう単純ではあるまいといっているのだと思います。
 次に、イッサとクリスたちあるいは観客の私たちの認識・文化のギャップ。序盤で、イッサがニワトリを盗んで警察に捕まり、親が呼ばれて、親がイッサを見放した言動をする場面が描かれています。そしてイッサは続いてライオンの子を盗み、クリスらに捕まってサーカス団長のところに連れて行かれ、サーカス団長にライオンの檻に入れられて辱めを受け、クリスらに対して激しい憎悪を抱くことになります。ここで、確かに至近距離でゴム弾を顔に向けて発射したグワダ/警察の行為はやり過ぎですし、救護よりもドローン探し/証拠隠滅を優先した対応は卑怯なものですし、ライオンの檻に入れたサーカス団長の私刑もやり過ぎですが、元はといえばイッサがライオンの子を盗んだことに起因するもので、ある程度は自業自得・因果応報という面があるのでは、と私(たち:たぶん)は思ってしまいます。「庶民の弁護士」といいながら貧困階級の心情に寄り添っていないではないかといわれるかもしれませんが、まぁ「弁護士」なんで、ある程度世の決まりごとは守ってもらいたいと思うし、悪いことをしたら反省はして欲しいという気持ちはあります。盗み、あるいは子どもにとっては悪ふざけに重罰で臨むなということなんでしょうし、「盗人にも3分の理」ということわざを残した近世の日本人の鷹揚さから私たちは大きくかけ離れてしまったということかもしれませんが、イッサとその友人たちの激しい怒りには、どうも自分のことを棚に上げてそこまで…という意識を持ってしまうのです。
 そして私にとって最も衝撃的というか最も考えさせられたのは、終盤、ラストシーンに至るまでのイッサと友人たちの目に映る、クリスとステファンの差異です。この作品が、基本的にステファンの視点で描写されていることもあり、私たちには、強権的に振る舞うクリスと、それに反発し、少しでもフェアネスを守ろうとするステファンの行動・生き様の違いが印象に残ります。イッサとの関係でも、イッサが撃たれたときステファンは救急車を呼ぼうとし、クリスがそれを制します。倒れたイッサを放置してクリスらがドローンを追う間にステファンはイッサを連れて薬局に行き応急手当をします。しかし、イッサと友人たちの目からは、ステファンもしょせん警察の一味に違いなく、倒すべき敵と評価されます。ラストシーンでステファンの説得が功を奏するか、あえて描かれていないので、究極的に同視されているのか最後の一線で分かれるのかは観客の解釈に任されますが、ある意味で体制内で良心的な行動を取ろうと心がけているという位置づけの者の1人としては、相対的に良心的な行動など外部には理解されない自己満足でしかないのか、という非常に重い問いかけに戸惑い心をかき乱されます。

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