2016年8月21日 (日)

君がくれた物語

 作者ニコラス・スパークスが「最高傑作」と評しているという小説を映画化した「君がくれた物語」を見てきました。
 封切2週目日曜日、全国で5館東京では唯一の上映館の渋谷シネパレススクリーン1(182席)午前9時10分の上映は1割未満の入り。日曜日の午前9時台にだれが映画見に行くか、という問題ではありましょうけれど、東京ではここしかやっていない映画館で日曜日にこの惨状は…カップル向けの映画ですが、カップルは私たちを含め3組しか見当たりませんでしたし(あ、2階席までは確認してませんけど)。

 ガールフレンドのモニカ(アレクサンドラ・ダダリオ)と付き合ったり別れたりを繰り返し友人たちとボート遊びに興じていた獣医トラヴィス(ベンジャミン・ウォーカー)は、飼い犬モリーを孕ませたことと音楽がうるさいことに苦情を言いに来た隣人の医学生ギャビー(テリーサ・パーマー)に恋してしまう。ギャビーには医者の婚約者ライアン(トム・ウェリング)がいたが、ライアンが遠方に出張している間に、モリーの出産などを機にギャビーの自宅に招かれ急速に距離を縮めたトラヴィスと、ギャビーは関係を持ってしまう。ライアンが戻りギャビーと食事中の席に現れたトラヴィスは、ギャビーにプロポーズし、選択を迫る。若干の紆余曲折の末に結婚し2児をもうけ幸せに暮らす2人だったが、デートの夜に急患が現れてトラヴィスが遅れたのに業を煮やして帰るギャビーが交通事故にあい意識不明となり、トラヴィスは、主治医のライアンからギャビーが署名した延命措置拒否の書類を渡され…というお話。

 私は、「君に読む物語」は原作を読み映画は見ておらず、この作品は映画は見たが原作は読んでいないという状態ですが、やはり「君に読む物語」の2番煎じ、2匹目のドジョウ狙いに見えてしまいます。男が病院に向かうところから話が始まり、過去に戻り恋人を婚約者から奪い取る「略奪愛」の物語が長々と続き、その後幸せな日々を描いた挙句に、悲劇が訪れ、そのあと最初に戻って比較的短いストーリーでエンディングに達するという展開といい、愛を忘れぬ男の献身というテーマといい、ほとんど同じ作品のように見えました。
 夫婦に訪れた悲劇に耐え前向きに尽くす男というテーマを描くのに、激しい恋、婚約者から奪い取った愛という経緯と思い出がほしいのでしょうけれども、それが作品の大部分を占めていて、普通のラブ・ストーリーの性格の方が強いようにさえ見えてしまいます。特に、この作品のラストが、予想されたパターンではありますが、あっさりと唐突な感じがして、もう少し感動的に描けなかったのかと感じられてしまっただけに、テーマ部分がかすんでしまう印象を持ちました。
 私には、「君に読む物語」では夫が毎夜病院訪れて物語を読み聞かせるという積極的な献身を見せているのに、この作品では夫は思い出に浸りどちらかといえば自己満足的な行為に没頭していて、妻への献身という点でも今一つ感がありました。「君に読む物語」との大きな違いは、むしろその点と、婚約者を奪われた男が「君に読む物語」では弁護士だったが、この作品では医者という点か、と思ってしまいました (^^;)

2016年8月14日 (日)

ペット(吹き替え版)

 飼い主の留守中のペットたちの様子を描いたアニメ映画「ペット」を吹き替え版で見てきました。
 封切4日目日曜日、新宿ピカデリースクリーン2(301席)午前10時40分の上映は8割くらいの入り。

 捨てられていた子犬のマックスは、犬好きの少女ケイティに拾われ幸せな日々を送っていた。ケイティが出かけるのが寂しくて、マックスはケイティを出かけさせないよう懸命の芸をするのだが、ケイティを引き留めることはできず、マックスにはそれが一番の不満だった。マックスは、ケイティの留守中も、近所の他のペットたちとは異なり、飼い主の留守をいいことに乱行に及ぶことはなく、おとなしくケイティの帰りを待っていたが、ある日ケイティが保健所から大型犬のデュークを拾ってきたことから、ケイティの留守中にマックスとデュークは対立し、外へ出て保健所の職員に捕獲されてしまい…というお話。

 前半は、予告編や各種サイトでの紹介のとおり、マックスの近所に住むペットたちが、飼い主が出かけるや飼い主の前とは違う顔を見せて乱行に及ぶその姿のギャップが見せ場になっています。猫のクロエの冷蔵庫のごちそうを見て迷う姿や、ミキサーでマッサージを受けるダックスフントのバディ、テレビと扇風機でフライトシミュレーションを楽しむセキセイインコのスイートピー、そしてクラシック好きの飼い主がいなくなるやロックをガンガンかけるプードルのレナードのギャップがかわいい(しかし、公式サイトの情報のなさは、特筆ものです。予告編ビデオと劇場情報だけといってよいほどで、アニメなのにキャラクター紹介さえありません)。
 後半では、マックスとデュークの失踪と捨てられたペットたちを率いて「革命」を目指すウサギのスノーボールらの追跡、マックスの身を案じた向かいに住むポメラニアンのギジェットらのマックス探しの冒険アクションになります。マックスとデュークの友情、ギジェットのけなげで一途なマックスへの思いがテーマになり、そこが見どころに思えます。しかし、後半の展開は、たぶんこの作品の観客層の多くは今年すでに「ズートピア」と「ファインディング・ドリー」を見ていると思うのですが、似たような展開ですし、冒険ものとしてはそっちの方がきちんと作っている感じで、ちょっと今さら感があります。主役となるマックスとデュークのキャラクターも、なんだか「モンスターズ・インク」のマイクとサリーの設定に近くて、やはりどこか既視感があります(デュークの唸り声、小さい子が怖がって泣いてました)。マックスがデュークとの間で示すせこさ、ずるさもあり、ギジェットの一途さがどこか、もったいない感じもしてしまいます。
 さすがに前半のギャップだけで最後まで作るのには無理があるのでしょうけど、後半の冒険もの的な展開が中途半端で、何かもう少し工夫がほしかったなと思います。

 エンドロールの吹き替え版のキャスト紹介で、「ソーセージ界のドン 宮野真守」と大書されているのですが、「ドン」というほど大きなソーセージいなかったように思いますし、そんな声じゃなかったような…

2016年8月 7日 (日)

奇跡の教室 受け継ぐ者たちへ

 落ちこぼれクラスが担任教師の提案で強制収容所での子どもたちをテーマとするコンクールへの参加を通じ成長していく映画「奇跡の教室 受け継ぐ者たちへ」を見てきました。
 封切り2日目日曜日、全国で東京の3館だけの上映館の1つヒューマントラストシネマ有楽町シアター1(161席)午前10時30分の上映は9割くらいの入り。

 パリ郊外のレオン・ブルム高校のさまざまな人種・民族・宗派の生徒が集まる1年生の落ちこぼれクラスの担任となった教師アンヌ・ゲゲン(マリアンヌ・アスカリッド)は、問題を起こし、授業の進行も遅れ、成績も悪いと校長らから指摘され、生徒たちに、子どもたちと若者たち・ナチス強制収容所での日々というテーマで歴史コンクールに参加することを提案する。当初は無理だと拒絶反応を示した生徒たちも、好奇心に駆られて準備に参加するが、チームワークができず、研究は深まらない。そんなある日、アンヌは当時15歳で親兄弟とともに連行され強制収容所を生き延びた老人レオン・ズィゲル(本人)を教室に呼び、強制収容所での父親との別れなどを語らせた。生徒たちは諍いを抑え、前向きの提案をするようになり…というお話。

 荒れていた落ちこぼれクラスの生徒たちが、1つの目標に向けて取り組むうちに成長するという、ありがちなテーマですが、生徒たちの目の表情、描き方が印象的です。
 ナチスの強制収容所を採りあげ、占領下のフランス政府がナチスに協力し、フランス国内の強制収容所から5万1000人のユダヤ人、ロマが絶滅収容所に送られた事実を直視しようとしていますが、他方でアウシュビッツに匹敵する事実を問うたアンヌに答えてアラブ系の生徒がパレスチナ人の虐殺を、アフリカ系の生徒がアルジェリア(旧フランス植民地)での虐殺を挙げたのに対して、アンヌが戦闘での行為は「民族の絶滅」を目指すものではないとして質が違うと退ける姿には疑問が残ります。アウシュビッツと「同列」でないとしても、パレスチナ人に対するイスラエル政府の行為やアルジェリア人に対するフランス政府の行為が、「戦闘行為」などとして正当化できるものとは思えません。そこは、歴史教師として直視すべきではなかったでしょうか(また、「民族の絶滅」を目指すかがメルクマールであるとすれば、この作品では挙がりませんでしたが、ルワンダ虐殺やユーゴなどでの「エスニック・クレンジング」はどう捉えることになるのでしょう)。
 アンヌの授業で、キリスト教会の地獄を描いた絵の紹介でムハンマド(イスラム教の始祖)も地獄にいると描かれていると述べて、憤激した生徒に対して、当時のキリスト教会の敵は誰かと問い敵はみんな地獄に落ちるという教会のプロパガンダだと指摘する下りが印象的です。規則にはうるさく厳格だが、権威に媚びない姿勢が生徒たちの共感を呼んだというところでしょう。

 フランスの公立高校が舞台で、スカーフ(ブルカ、ヘジャブ)の着用禁止に加えて十字架のペンダントも見えるような着用を禁止していたところ、成績判定会議とおぼしき会議に校長と教師とPTAとさらにクラスの生徒代表2名が参加しているところが印象的でした。

2016年7月31日 (日)

シン・ゴジラ

 「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」シリーズの最終作予定のタイトルを「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」と発表したきり一向に作れない庵野秀明監督が、その隙間に作ったゴジラ新作その名も「シン・ゴジラ」を見てきました。
 封切り3日目日曜日、新宿ピカデリースクリーン3(287席)午前11時15分の上映は、ほぼ満席。
 通常以上にネタバレの議論をしますので、これから見る予定の方はご注意を。

 東京湾で発生した学者の失踪と救出に向かった海保巡視艇の遭難、海底トンネルの損傷をめぐり、緊急対策本部で、官房副長官矢口(長谷川博已)は巨大生物の疑いを進言するが、官邸は新たな海底火山か熱水噴出口と判断する。しかし、会議のさなか、海上に尻尾が振り上げられる映像がテレビ放映され、巨大生物対策本部が立ち上げられるが、省庁の縦割りや権限、根拠法律をめぐり会議は混乱する。巨大生物は、大田区から川を遡上して陸に這い上がり、上陸後さらに巨大化し2本脚歩行を開始し街を破壊し続け、防衛大臣(余貴美子)と官房長官(柄本明)の進言で首相(大杉漣)は自衛隊の出動を決断するが、住民の避難が未了という報告で攻撃開始直前に中止命令を発する。行方不明の学者を追っていたアメリカ大統領特使カヨコ・アン・パタースン(石原さとみ)は矢口に接触し、アメリカ政府はその学者により " Godzilla " と名付けられた巨大生物を追っていると伝えた。ゴジラは、なぜかそのまま海中に戻ったが、後日、より巨大に変身して相模湾から上陸し、東京方向に突き進んだ。首相権限で自衛隊による全面攻撃が始められたが…というお話。

 「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」シリーズと同様、公式サイトには何の情報もありません。キャストさえ、役名記載なしで名前が羅列されているだけ。今どき、ここまで不親切なサイトは珍しいと思います。

 前半のテーマは、緊急事態に遭遇した際に、法律の根拠がなく、省庁が業務を押しつけあい省益重視の保身に徹する中、会議と手続にばかり時間を取られ、有効な対策を実施できない政府に対する揶揄と批判です。あからさまに、私たち中高年層では「有事立法」、昨今では「安保法制」「緊急事態条項」と呼ばれるものの整備を求める、あるいはそれを主張する政治勢力をサポートするものです。

 後半は、米軍の核攻撃宣言に対して、オタクっぽい若手の官僚や学者たちが結束してそれより先にゴジラを倒す作戦に奔走し、結果を出す、オールジャパンで戦えばけっこういけるぜ、日本人の底力はすごいって、自画自賛する民族意識・国粋意識の高揚が見せ場になります。

 そしてさらにもう一つのテーマは、老人たちが牛耳る政府の非効率・無能ぶりを、若手政治家と若手官僚の目から苦々しく「老害」と描き出し、若手の活躍で問題を解決する過程を見せて、これからは自分たちの時代だという世代交代の主張をすることにあります。

 合わせて言えば、安倍自民と大阪維新などの改憲勢力を支持する20代若手層をターゲットに、これからは君たちの/我々の時代/出番だと言っている(監督の世代を考えればネトウヨ若者層に媚びている)作品なのだと、私は思いました。

 東宝の宝であった初代ゴジラは、被爆国日本にあって、放射能により突然変異で生まれた怪物として、恐怖と不安の対象として描かれていました。この作品で、ゴジラは、人間を超えた究極の進化を遂げた生物、未知の放射性元素を内蔵する科学の発展のカギを握るものとして、恐怖と殲滅の対象であるとともに人類にとって有用なものという肯定的な評価がなされています。それはまさしく、放射能について、否定的な側面だけでなく、人類に恩恵をもたらすものとして、またしても懲りることなく「原子力明るい未来のエネルギー」と言おうとするものでもあります。
 かつて、原爆を生み出した科学とそれを操る者たちへの不信と、さらには反核・反戦のシンボルとさえなっていたゴジラを、戦争法制、緊急事態条項導入の道具とし、原子力利用の有用性さえもアピールする材料とすることには、私は強い反発を感じます。
 怪獣映画なのだから、そうならざるをえない、でしょうか。ゴジラに大型高所放水車で血液凝固剤を放水するというのは、福島原発事故の際の使用済み燃料プールへの放水をイメージしたものと考えられます。そうであれば、ゴジラに有効に対処できない政治家・官僚たちを描くにも、「法的根拠」よりも、「想定外の事態です」「巨大生物の存在を主張した学者がいたのに御用学者を動員して握りつぶしたのはお前の省だろう」「はっきりした証拠もないのに巨額の費用をかけて対策なんかできるか」などのやりとりをさせてもいいでしょうし、血液凝固剤の注入でゴジラが活動を停止した後についても、ゴジラが活動を再開しないように血液凝固剤を注入し続けるということに(映画でなければ当然に)なるはずですが、注入した分が傷口などから流出し放射能を含んだ汚染水となり、その対策に苦しみ、対策をめぐる利権争いが生じる等の展開を描くなど、現政権に媚びることなく非効率な政府のありようを表現することはできたはずです。

 最初は愛嬌のあるトカゲふうだったゴジラが最初にあげる雄叫びは「トトロ」のようですし、その後「進化」するのは、ポケモンのイメージでしょうか。
 「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」とあわせて上映された、「巨神兵東京に現わる」での特撮・街並みの破壊と殺戮を撮ったときから、ゴジラもやりたかったのかなぁ、という感じですが、それが動機だったら、変に政治ストーリーをつけないで怪獣映画に徹した方がよかったような気がしますが。

2016年7月24日 (日)

帰ってきたヒトラー

 アドルフ・ヒトラーが2014年のドイツにタイムスリップし物まね芸人としてテレビ出演し人気を博すという映画「帰ってきたヒトラー」を見てきました。
 封切り6週目日曜日、TOHOシネマズ新宿スクリーン1(86席)午前10時50分の上映は、ほぼ満席。

 1945年に籠もった地下壕から2014年にタイムスリップして現代ドイツに現れたアドルフ・ヒトラー(オリバー・マスッチ)は、テレビ局からリストラ通告された番組制作者ファビアン・ザヴァツキ(ファビアン・ブッシュ)に引きずり回されて各地で人々と対話し、その様子を撮影したビデオがYouTubeで話題を呼んだ。ザヴァツキからアピールされたテレビ局が、局長カッチャ・ベリーニ(カッチャ・リーマン)の判断でヒトラーをバラエティ番組に出演させたところ、ヒトラーは持ち前の演説・演出力で聴衆を引き込み、視聴率も上昇するが、ザヴァツキとの行脚の途中でヒトラーが指に噛みついた犬を射殺したビデオが放映されると、視聴者の非難が集中し、ヒトラーの出演はストップ、局長は辞任に至った。諦めきれないザヴァツキは、ヒトラーに日記を書かせて出版し、これが話題を呼んでその映画化を図るが…というお話。

 ナチスの行為を批判し、過去と訣別したはずのドイツにおいて、それでも独裁/民主主義・自己決定の放棄への誘惑、国粋主義・排外意識のくすぶりが、きっかけ/言い訳さえ見いだせばすぐにも顔を出し人々を魅了しかねないという危うさが、テーマとされています。
 そして現代ドイツのマスメディアのありようが、それに次ぐテーマになっていると思います。いかなるものでも自己の利益のために利用し、視聴率が稼げればどのような番組でも作るが、肝心なことは報道しようとしないテレビ局の体質も。ヒトラーのテレビ出演をやめさせたのがユダヤ人大量虐殺などの過去への反省ではなく、犬が射殺されたことへの反発だったことも。
 ヒトラーが、計画を明示した上で、選挙で勝利したということを何度か示し、この独裁者を政権につけたのは、民衆の選択であった、視聴率第一主義のテレビ局にバラエティ番組しか作らせない結果となる人々の視聴傾向もあわせて、それは人々の意識/民主主義のありようにかかっているのだと、この作品はいいたいのです。
 ヒトラーが、緑の党が一番本物だ(祖国と環境を守るというのはいいことだ。ただし反原発は間違っている。原子力は核兵器に利用できるのだから)と述べ、ネオナチをニセモノだと批判するのは、皮肉と見るべきでしょうか、そのままに受け取るべきでしょうか。

 テレビ局が選挙期間中は政治の報道をしない、選挙期間中以外でももはや政権に不利益になる報道はしないという状態が続き、憲法改正をいう(選挙期間中だけはいわないという小狡さだけはある)政治勢力が選挙で勝利してしまう国は、この映画の状況よりも問題が進んでいるように思えます。そしてその政治勢力が、かつてはその民族主義的主張から旗印としていた「陛下」からも平和の大切さを指摘され暴走をたしなめられて、その言葉さえ無視するほどに凶暴に変身していることを考えれば、危険の度合いはドイツの比ではないと思えるのですが。

2016年7月17日 (日)

ファインディング・ドリー

 「ファインディング・ニモ」(2003年)の「絶対作らない」はずだった続編「ファインディング・ドリー」を見てきました。
 封切り2日目日曜日、TOHOシネマズ新宿スクリーン9(499名)午前9時30分の上映は5割くらいの入り。アメリカでは公開4週で全米アニメ映画史上最高興収がほぼ確実(4億2258万ドル。過去最高は「シュレック2」の4億4120万ドル)になっていますが、日本では「ベビー・ドリー」ステッカーの入場者プレゼントで後押しして果たして…まぁ日曜日の午前9時台で5割入ってるのは上々と見るべきでしょうか。

 カクレクマノミのマーリンが忘れんぼのナンヨウハギのドリーとともに、息子のニモを助け出してから1年後、ニモとその仲間たちとともに暮らしていたドリーは、幼い日に両親(チャーリーとジェニー)と過ごしたこと、幼い日に両親とはぐれてしまったこと、そして「カリフォルニアの宝石」という言葉を思い出す。両親を探しに行くというドリーに、マーリンは、無謀だと止めるが、ニモに協力を促され、仕方なくウミガメのクラッシュの導きでカリフォルニアを目指すが…というお話。

 前作に続いて、離散した親子の深い愛情の物語、なんですが、ドリー、マーリン、ニモの眼の作画自体が力が入っているというのかウルウルした感じで、なんだかかえって泣きにくいという印象でした。そして、子を失ったチャーリーとジェニーが、その後の人生を犠牲にしてドリーを探し続け、ドリーも(映画ですからそれがあって当然ということではありましょうが)危険を数々冒しながら両親を探すという設定に、あるべき論的な押しつけがましさも感じてしまいます。
 タコのハンクや、鳥のベッキー、アシカのフルークとラダーなどのサブキャラクターの造形と、前作と絡めたファンサービス的ユーモア(カモメ軍団とか、エンドロール後のビニール袋軍団とか…)は、さすがと思います。何年か後に作られるであろう第3作は、「ファインディング・ハンク」でしょうか。

2016年7月10日 (日)

ブルックリン

 ニューヨークに来たアイルランド移民の少女の揺れる心を描いた青春映画「ブルックリン」を見てきました。
 封切り2週目日曜日、角川シネマ新宿シネマ1(300席)午前11時10分の上映は、1~2割の入り。地味目の作品とはいえ、アカデミー賞作品賞と主演女優賞ノミネートの作品にしては、あまりに寂しい。

 1950年代、求人が少ないアイルランドの小さな町で、意地悪な店主ケリー(ブリッド・ブレナン)の下で店員として働いていたエイリシュ・レイシー(シアーシャ・ローナン)は、姉ローズ(フィオナ・グラスコット)がフラッド神父(ジム・ブロードベント)を通じて仕事と住処を手配してくれたことを受けて、ニューヨークのブルックリンに移住した。姉と母を故郷の町に遺して長い船旅の末にやってきたブルックリンで、エイリシュはデパートでの接客に自信が持てず、故郷を思って泣き暮らしていた。フラッド神父の勧めでブルックリン大学で会計を学び、寮母のキーオ夫人(ジュリー・ウォルターズ)の勧めで参加したダンスパーティで知り合ったイタリア移民の青年トニー(エモリー・コーエン)からダンスの秘訣は自分が上手だと信じて踊ることと知らされ、エイリシュは次第に自信を持ちニューヨークでの生活に馴染んでいく。そんなある日、情のこもった手紙でエイリシュの心を支え、年老いた母を支えてきた姉ローズが急逝し…というお話。

 故郷を遠く離れて大都会に移住した少女が、自分に元気と自信を与えてくれた恋人とともに大都会の生活に慣れたときに、故郷での姉の死と老いた母一人の状態に接し、知り合って日の浅い恋人(夫)との大都会での生活を選ぶか、故郷での母と旧友との生活を選ぶかという、心の揺れと選択がテーマです。
 前半は、おじさん世代には、かつて太田裕美が歌い上げた田舎から東京に出て来た少女の物語「赤いハイヒール」あるいはその裏側としての「木綿のハンカチーフ」のニューヨーク版といった趣き、後半は、老親の将来の介護問題を背景に控えた離散家族を抱えた者の望郷物語という趣で、多くの人にとって自分に引きつけて考えさせられるテーマだろうと思います。
 人生の選択が、えてして偶然のできごとにかかっていること、そしてそれ故に現在の自分や家族との関係が、貴重な、たぶん感謝すべき偶然の賜なのだということを、感じさせられました。

2016年7月 3日 (日)

アリス・イン・ワンダーランド 時間の旅

 「不思議の国のアリス」のキャラと世界観を借りたファンタジーの2匹目のドジョウ「アリス・イン・ワンダーランド 時間の旅」を見てきました。
 封切り3日目日曜日、新宿ピカデリースクリーン2(301席)午前10時20分の上映は、7~8割の入り。

 1875年、中国への船旅からロンドンに戻ったアリス(ミア・ワシコウスカ)を、不思議の国の賢者アブソレムが訪れ、アリスは船主協会の会長になっていたヘイミッシュ(レオ・ビル)の館の鏡から不思議の国に舞い戻った。不思議の国の仲間たちからマッド・ハッター(ジョニー・デップ)がふさぎ込んでいることを聞いたアリスは、マッド・ハッターを訪れ、昔怪物ジャバウォッキーに殺されたはずのマッド・ハッターの家族を取り戻して欲しいと憔悴しきったマッド・ハッターから頼まれる。そんなことはできないとうちひしがれるアリスに白の女王(アン・ハサウェイ)は、時間を司るタイム(サシャ・バロン・コーエン)の館の大時計の力の源泉クロノスフィアを使えば時間を遡れると囁き、アリスはタイムの館に忍び込み…というお話。

 第1作の「アリス・イン・ワンダーランド」もそうでしたが、「不思議の国のアリス」のキャラと世界観だけを借用して、設定(そもそも原作ではアリスは少女のはず)やストーリーは全然無関係と言ってよい作品。今回も「鏡の国のアリス」を原作のように見せているけど、キャラクター以外は、鏡 ( Looking Glass ) を通って不思議の国に入り込むことが使われているだけだと思います(誰がタルトを盗んだかという「不思議の国のアリス」の方の裁判のテーマが借用されていたりはしますけど)。前作は全米興行収入が歴代42位(2016年6月27日現在。3億3420万ドル)のヒット作となりましたが、続編のこの作品は、アメリカでは公開初週末(2016年5月27~29日)2位、2週目4位、3週目8位、4週目9位、5週目10位で5週目の週末までの累計で7457万ドル(今年の作品でいえば、「ズートピア」の公開初週末3日間の興収と同じくらい)という惨憺たる成績。やはり柳の下に2匹目のドジョウはいなかったというべきでしょう。

 アリスと、アリスの航海中に家屋敷をヘイミッシュに取られ、アリスが乗っている今は亡き父親が遺した船「ワンダー号」をヘイミッシュに売る約束をしてしまった母親との対立と和解の物語、マッド・ハッターの、子どもの頃に恨んだ父親を含む家族への郷愁と悔恨の物語、幼い頃の事件を通じて決裂し対立を深めた赤の女王と白の女王の対立と和解の物語という、家族関係と愛情の物語3つをテーマとしています。
 すべてを家族関係とその愛憎、そしてハッピーエンドに描いてみせる、いかにもディズニーワールドの作品に、社会性の欠落と身の回り1mの世界への埋没を見るか、夢に満ちたエンターテインメントを見いだすかに、評価がかかってくるでしょう。
 アリスを成人の勇敢なチャレンジャーと描いてみせることで、女性の自立を印象づけたことは、「原作」がアリスを作者の掌で踊らせる父権主義(パターナリズム)を感じさせることへの皮肉も込めて、よい試みと評価できますが。

2016年6月26日 (日)

嫌な女

 まじめで不器用な弁護士がいとこのわがままな詐欺師に翻弄される映画「嫌な女」を見てきました。
 封切り2日目日曜日、新宿ピカデリースクリーン5(157席)午前10時40分の上映は7割くらいの入り。

 弁護士となり同業者と結婚もしたが充実感を持てない日々を送っていた石田徹子(吉田羊)の元へ、小学生の時にお揃いのひまわり柄のワンピースを自分の方が似合ってるのに同じ物を人が着るのは気にくわないと徹子のワンピースを目の前で切り裂いて以来会っていなかった同い年のいとこ小谷夏子(木村佳乃)が、婚約破棄で慰謝料を請求されていると、依頼に来た。徹子が相手の西岡章夫(近藤公園)の話を聞くと、西岡の家の名義を夏子名義にすることを要求されて断ると婚約破棄をしたという。徹子が夏子に聞くと、内心のことは黙ってればわからないでしょとうそぶく。西岡の件は、夏子に未練のある西岡を、夏子が復縁を匂わせて丸め込み、夏子は弁護士報酬も払わずに姿をくらませたが、その後、夏子がゴッホのひまわりの贋作を200万円で売りつけた嶋正義(金子昇)から代金の返還請求を受けて、またしても徹子の元を訪れた。夏子は病院に通って、寝たきりの橋本敬一郎(寺田農)にかいがいしく世話を焼くが…というお話。

 まじめで不器用な徹子が、自分とは正反対のわがままで破天荒だが人の懐に入り相手の男の気持ちを明るくさせて心をつかみ好かれる夏子に対し、最初は嫌悪しながら、次第に気を許し好感を持つようになるという徹子の心の変化を見る作品です。
 夏子が、まったく身勝手であるにもかかわらず、一生懸命生きてる感があり、他方、徹子はまじめに対応しているけれどもずっと不機嫌な表情で、タイトルの「嫌な女」はむしろ徹子に当てはまりそう。

 原作の小説8章分のうち、前半の第4章までのエピソードを使っていますが、原作では第6章で初めて登場する(第4章まででは登場しないはずの)勤務弁護士の磯崎(中村蒼)が登場したり、事務員のみゆき(永島暎子)が名前を変えられた(原作は「藤田」、映画は「大宅」。名前が変わってるのはみゆきだけ。なぜでしょう)上、原作では第8章まで生きているのに病死させられてしまうとか、所長の荻原弁護士(ラサール石井)の人柄が原作では飄々とした感じで包容力を感じさせるのに、映画ではいらついた感じだったり、ストーリー展開では夏子が貢いでいた男太田(古川雄大)の関係で、原作では真里菜(佐々木希)が殴られたといって夏子に損害賠償請求する話を、夏子が殴った相手が太田と変えた上に原作にはない結婚式のエピソードを追加してそれがクライマックスになっているなど、かなり大胆に変更されています。
 作品の質という点で、私の目から一番の違いは、徹子の弁護士としての仕事ぶり、事件での対応にあると思います。この映画を見る限り、徹子は、ただ愚直に不器用に対応しているだけで、事件解決に当たって弁護士としての手腕を見せる場面はありません。原作では、特にこの作品で使われた、嶋正義へのニセ絵画売りつけと太田との関係での交渉で、したたかさを見せつけて、本来は夏子にまったく理がない事件で相手の請求をすべて引っ込めさせています。このあたりの、弁護士としての徹子の性格の描き方が違うため、原作が弁護士としての職業観に絡めた諦念・無常観を印象づけるのに対して、映画は徹子の夏子に対する人格評価に基づく感情レベルの描写にとどまっています。
 原作では、徹子が磯崎に対して語る「原告と被告のどちらかの希望が通れば、どちらかの願いが砕かれています…」という発言が映画では徹子の発言ではなく、荻原から徹子への教えになっているのは、徹子の弁護士としての手腕が描かれないためでしょうか。もっとも、「弁護士の仕事って、やりがいを求めてはいけない領域のものだと思ってる。淡々と仕事をして、もちろん、手は抜かずに、当たり前のことをする。それを積み重ねるだけ。結果として、それが誰かを助けることになって、感謝されるかも知れない。でもね、感謝されることを目的にしてはいけないし、期待してはいけないと思ってる。救えると考えてはいけないと思う。救えないもの。ただ、ベストを尽くすだけ」という台詞は、原作では夏子の息子幸一に対しての台詞なのを磯崎に対する台詞に変えて、徹子の台詞として残していますが。

 徹子が橋本と同室の入院患者近藤(織本順吉)に頼まれて撮ったビデオ遺言(原作は、時代設定が違うため録音テープ遺言)。弁護士業務としては、よさそうだなと思います。情緒的思い出的なメッセージだけでなく、本来の遺言の補足としても。
 なお、民事事件で、「弁護する」って言葉は、弁護士はふつう使いません。依頼者との関係でいえば、受任する、事件を受ける、対外的には(相手方とか)代理する、代理人になる、くらいですね。

2016年6月19日 (日)

マネーモンスター

 財テク番組のオンエア中に株式投資で全財産を失った男が乱入し、生放送で株暴落の真相を追うというサスペンス映画「マネーモンスター」を見てきました。
 封切り2週目日曜日、TOHOシネマズ新宿スクリーン8(88席)午前11時40分の上映は、ほぼ満席。アメリカでは公開初週末(2016年5月13~15日)興収が3位、2週目6位、3週目8位で以後トップ10から消え、日本では公開初週末(2016年6月11~12日)8位。ジュリア・ロバーツとジョージ・クルーニーのギャラだけ考えても赤字になりそう。演技のレベルは高いと思うのですが、テーマが観客の興味を惹きにくいというか宣伝とうまくマッチしていないのかも。私も、カミさんが、朝日新聞のジョディ・フォスター監督のハリウッドの女性監督に対する「セルロイドの天井」インタビューで見る気になって引っ張られて見たという状況ですし…

 財テク娯楽番組「マネーモンスター」のキャスターリー・ゲイツ(ジョージ・クルーニー)は、番組で直近に起こったアイビス社の株式の暴落についてアイビス社側のアルゴリズムのバグによるものという説明を受ける予定で、スタッフと様々なジョークを交わしながら本番に向けて準備を続けていた。本番が始まり、例によって台本通りにしゃべらずアドリブを続けるリーに苦笑しつつコントロールルームで見守る番組ディレクターパティ・フェン(ジュリア・ロバーツ)は、スタジオに箱を持って潜入する男(ジャック・オコンネル)を発見したが、リーが準備したサプライズと受け止めてカメラを向ける。しかし、男は、リーに拳銃を突きつけ、爆弾を装着したベストを着用させ、自分がリモコンから手を離したら爆発すると通告し、リーが番組で「銀行預金より安全」といったアイビス社の株に全財産をつぎ込み失ったことを告白して、アイビス社の株暴落の真相解明とアイビス社からの謝罪を求めた。公式回答を続けてモニターを銃で撃たれたアイビス社広報責任者ダイアン(カイトリオーナ・バルフェ)は、以後の出演を拒否しつつ、リーの身を案じるパティの要求に応じて、連絡不能状態のアイビス社CEOウォルト(ドミニク・ウェスト)の行方を追うが…というお話。

 作品の基本線は、乗っ取られた生放送番組を進行しながら、アイビス社の株式暴落が株式売買プログラムのアルゴリズムのバグという公式説明の真相をパティの指揮の下にスタッフが懸命に探り、真相を解き明かしていくというサスペンスで、その緊迫感とスリルを味わうエンターテインメントです。
 そこに、ウォール街に巣食う金の亡者の犯罪、隠蔽と、その周辺でバカ騒ぎするマスコミ、ウォール街とマスコミに踊らされてなけなしの金を巻き上げられる一般人という社会の構図、それが白日の下にさらされても結局はすぐにそれを忘れ、忘れたように同じことを繰り返していく現代社会の救いのなさといったことがサブテーマとして乗せられています。
 ジュリア・ロバーツ演じるパティの極度の緊張感の下での沈着さと瞬時の判断力、粘り強さとしたたかさ、そしてアイビス社CEOの愛人の広報責任者ダイアンの正義感の設定と描写が印象的です。ハリウッドでの女性監督に対するガラスの天井「セルロイドの天井」を訴えるジョディ・フォスターの信念といったところでしょうか。

 サスペンスとして引き込まれるのですが、終了後はウォール街のマネーゲームへの怒りと失望、踊らされる者たちの虚しさと悲哀にしんみりとするじんわり系の作品です。

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