2017年5月21日 (日)

メッセージ

 地球上に12か所現れた浮遊物体を通じてエイリアンとの会話を試みる言語学者とエイリアンの発するメッセージを描いたSF映画「メッセージ」を見てきました。
 封切り3日間日曜日、TOHOシネマズ新宿スクリーン7(407席)午前11時40分の上映はほぼ満席。

 ある日、モンタナ州(アメリカ)、中国、ロシア、スーダン、北海道など世界各地の12か所に長さ約450mに及ぶ巨大な長楕円盤状の浮遊物体が現れた。言語学者ルイーズ・バンクス(エイミー・アダムス)は、理論物理学者イアン・ドネリー(ジェレミー・レナー)とともにモンタナ州の浮遊物体でエイリアンの言語を分析してエイリアンの目的を解明することを要請された。18時間おきに2時間の間浮遊物体の下部が開き、透明の隔離壁越しにエイリアンとの面接が可能となっていた。ルイーズとイアンは、現れる2体の7本脚(ヘプタポッド)のタコ型エイリアンをアボットとコステロと名付け、エイリアンが肢先から発する煙状の物質を用いて描く環状の文字の解読を試みるが・・・というお話。

 得体の知れないエイリアンとの面接に臨むという使命をあまりにもあっさりと受け入れるルイーズの姿/職業意識の高さに、私はまず胸を打たれましたが、そこはごく淡々と描かれています。
 この作品では、当然のことながら遅々として進まない解明作業に倦まず数十回の面接を続け、エイリアンとの信頼関係を作りコミュニケーションを図ろうとするルイーズの冷静さと粘り強さを、不気味なエイリアンへの疑心と恐怖心に煽られて攻撃を主張する軍人や民衆と対比させ、恐怖を煽りまた疑心から好戦的な対応をとることを戒め、平和的な解決へと粘り強い/地道な対応をすることの価値を示しているように思えます。終盤で、中国が先行し、ロシアとスーダンがそれに続いてエイリアンへの宣戦布告をし、またデータ交換を拒否するという展開は、アメリカと中国・ロシア・スーダンは、お互いをエイリアンよりもさらに信じられないのかという疑問を提起しているのだと思いますし、ルイーズが解いたエイリアンのメッセージは人類が協力し合うことの大切さを示しています。
 SFとしての部分は、最初に示される、もし時が流れるものでなかったらという問いかけがキーポイントになっていますが、エイリアンとのミッションの「現在」の合間に度々挟まれるルイーズと娘と過ごす日々の喜びと切なさがうまくストーリーに織り込まれて心に染みるようになっています。また、ルイーズのイアンに対する、もし未来がわかったら選択を変えるかという問いかけは、人生論として、重いものがあります。もっとも、その時間をめぐる部分は、原作よりしかけが多用され、その分数々の疑問を呼び起こしますが。

 原作では、エイリアンの登場とエイリアンとの交信はごく淡々と描かれ、アメリカ以外の国の対応やエイリアンへの宣戦布告などの政治的対応はまったく描かれず、エイリアンは、人間の科学・数学への信頼/過信に対してまったく違うアプローチがあり得ること、人間がすでに常識として疑わない現在の物理学や数学の基本定理/公式も当然ではないのではないかという文明論的な問題提起の道具となっています。映画は、エイリアンと宇宙船をより神秘的に描き、原作にないエイリアンへの宣戦布告などを入れることで政治的なメッセージを追加しています。映像表現による驚きも含め、映画作品の方が感動的になっています。
 基本的な設定と展開は原作に沿っていますが、大きいところでは、原作ではエイリアンに対して宣戦布告をする中国やロシアなどの動きが全くないことのほかに、原作では姿見( looking glass )と名付けられた高さ10フィート(約3m)幅20フィート(約6m)程度の小さな交信スペースがアメリカに9か所世界に112か所現れるというのが、映画では巨大な宇宙船が12か所現れることになり、原作ではエイリアンは円盤状のディスプレイに文字を示すのに、映画では肢先から出す煙状の物質で空間に文字を示す(イメージ的にはハリー・ポッターふう)、原作では物理学・数学サイドからの解明の方が進みそこで人間の物理学・数学の常識への文明論的な問題提起がなされるのに対し、映画ではそこはほとんど登場しない(言語学者とともに物理学者が参加している意味が、映画ではほとんど不明)などの違いがあります。小さいところでは、物理学者の名前(原作ではゲーリー)、ルイーズがつけたエイリアンの名前(原作ではフラッパーとラズベリー)、ルイーズの娘の名前の明示(原作では最後まで「あなた」、映画ではハンナ:Hannah )、ルイーズの娘の死因(原作では山岳での遭難、映画は癌に思える病死)、ルイーズの離婚の原因(原作では明示されず、映画では・・・これはさすがにネタバレが過ぎるか)、映画では印象的な小道具となる娘の絵「動物と話すパパとママ」が原作にはないなどの違いがあります。全体としての作品の印象は、かなり違っているように思えます。

2017年5月14日 (日)

ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス

 マーベルのアメコミを映画化したSFアクション映画「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス」を見てきました。
 封切り3日目日曜日、新宿ピカデリースクリーン6(232席)午前10時35分の上映は9割くらいの入り。前作(ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:2014年)は、全米歴代47位、世界歴代70位とそれなりにヒットしたものの、日本では興収10億7000万円で(歴代ではなく)2014年の41位止まり。1週早く公開したアメリカでのオープニング興収は前作の154%だそうですが、どの程度まで伸ばせるでしょうか。

 前作で対立しながらもチームを組んだ宇宙のこそ泥ピーター・クイル(クリス・プラット)、暗殺者ガモーラ(ゾーイ・サルダナ)、マッチョ男ドラックス(デイヴ・バウティスタ)、凶悪なアライグマのロケット(声:ブラッドリー・クーパー)、前作で破壊され小枝から1フィート足らずに育ったベビー・グルート(声:ヴィン・ディーゼル)らは、高飛車な黄金の惑星の指導者アイーシャ(エリザベス・デビッキ)に雇われて宇宙怪物と戦ったが、ロケットが電池を盗んだことからアイーシャの怒りを買い、総攻撃を受ける。クイルらが逃げる途中、謎の男エゴ(カート・ラッセル)がアイーシャの軍団を壊滅させてクイルらを守り、不時着した宇宙船を追って現れて、クイルの父だと名乗る。ロケットとベビー・グルートを残してエゴの惑星を訪れたクイル、ガモーラ、ドラックスは、エゴが作り上げた平和な世界に驚き、ドラックスは触れると感情を読み取ることができるエゴの従者マンティス(ポム・クレメンティエフ)と微妙な関係になる。不時着大破した宇宙船を守っていたロケットらは、海賊ヨンドゥ(マイケル・ルーカー)らに捕まるが、海賊の宇宙船内で対立が起こり・・・というお話。

 破天荒で身勝手なキャラクターがいがみ合いながらもいつしか仲間意識を持ち、協力して戦い、敵に捕まった仲間を救おうとするという、「友情」がテーマになっています。
 そして、これに、クイルの出自と母親への愛情、父親探し、「育ての親」ヨンドゥとの絆、ガモーラの妹ネビュラ(カレン・ギラン)との愛憎複雑な思いといった「家族愛」が付け加わります。同じくディズニー傘下となったスター・ウォーズ同様に宇宙人の特異なキャラ、宇宙を舞台としたアクションで映像を作りながら、家族・血統の物語を色濃くする手法がとられています。ヨンドゥの終盤の使い方は、スター・ウォーズエピソード7でのハン・ソロのように見えましたし、仲間を「家族」という、近年では「ワイルド・スピード」シリーズを意識させる発言も見られます(ワイルド・スピードシリーズの主役ドミニク役のヴィン・ディーゼルが、自身には「俺たちは家族だ」という台詞はないものの出演しているのは、ご愛敬、なんでしょうか)。そういう、ヒット作品をあちこちかじったような構成が「リミックス」なんでしょうか。
 映像的にはテーマ・パークのアトラクションのイメージが色濃くありました。特に、アイーシャ軍団の遠隔操作攻撃は、ゲーセンのシューティングゲームを大会場にブースを並べてやっているようですし、クイルらが乗る宇宙船からの景色はいかにもテーマ・パークの映像系アトラクションのようです。
 エンド・ロールの間に何度も映像が入りますが、いずれも、続編を作るぞ、作るぞ、作るぞとただアピールするもので、垢抜けないなぁと思いました。

2017年5月 7日 (日)

カフェ・ソサエティ

 ウディ・アレン監督の新作「カフェ・ソサエティ」を見てきました。
 封切り3日目日曜日、TOHOシネマズ新宿スクリーン6(117席)午前10時10分の上映は7~8割の入り。

 ニューヨークのユダヤ人家庭に生まれた平凡でうだつの上がらない青年ボビー(ジェシー・アイゼンバーグ)は、母がハリウッドのやり手のエージェントの叔父フィル(スティーブ・カレル)に頼み込んだ結果、フィルの元で雑用係として働くようになりハリウッドの名士たちに紹介してもらいながら、フィルの秘書ボニー(クリステン・スチュアート)を見初めた。ボニーが交際を続けていた男に別れを言い渡されて落ち込んでいたのを機に2人は関係を深め、ボビーは、ニューヨークに戻り兄のベン(コリー・ストール)の経営するナイトクラブで働くことにしてボニーに結婚して一緒にニューヨークに来てほしいとプロポーズした。2人の関係はうまくいきそうだったが、憂い顔で座り込んでいるフィルから妻と離婚することを打ち明けられたボビーは、それをボニーに右から左に話してしまい、雲行きが怪しくなって・・・というお話。

 女優志望でハリウッドに職を求めたが芽が出ない女性と、ロスでは成功できない一青年が恋をして、後日女性は映画界の実力者と結婚、青年は自分の店を持ち一定の成功をしたところで、2人が再会し、あったかもしれない2人の関係を想起して切ない思いを持つという、まるでラ・ラ・ランドを思わせる設定とラストです。かつての恋愛でのあのときこうしていればというノスタルジーは、特に中高年観客には、鉄板のテーマともいえ、それでも(ラ・ラ・ランドを見た後であっても)甘く切ない思いは持つのですが。
(作品の公開は、この作品の方が、2016年5月のカンヌ国際映画祭で上映されていて、2016年8月のヴェネツィア国際映画祭が初上映のラ・ラ・ランドより早いのですが、ラ・ラ・ランドの脚本は2010年には書かれていたとされているようですし、両者の関係については、私は判断を避けておきます)
 確固たる価値観や信念も感じられず、自らの力と努力ではなく叔父の力と人脈、兄の経営するナイトクラブの承継という他人任せで成功した(もっとも店を繁盛させたのは人脈を築く力があったからということでしょうけど)中身のなさそうな軽い(口も軽い)青年と、私が以前からあまり好感を持てないクリステン・スチュアートの組み合わせなので、内容の類似性とオリジナリティの帰趨とは別に、ラ・ラ・ランドより素直に切なさを感じにくく思えました。

 「あの女優は誰と寝てもいい役を得られない」という台詞が出てきます。まぁハリウッドでは、日常会話なんでしょうね。でも、クリステン・スチュアートが、主役を得た「スノーホワイト」(2012年)の監督ルパート・サンダースとの間で不倫をしたという報道があり(監督側は不倫の事実を認めているそうな)、続編「スノーホワイト/氷の王国」(2016年)では監督は交代、クリステン・スチュアートも出演しなかったことを考えると、意味深です。その台詞に続いて、「水着姿を見たけど、脚が太すぎる」とあるのが、「クリステン、君のことじゃないからね」というウディ・アレン監督の言い訳のように聞こえます。(クリステン・スチュアートが水着姿で脚が太かったら、さらに笑えますけど。ちなみに日本では来週(2017年5月12日)公開の「パーソナル・ショッパー」では、クリステン・スチュアートが水着に近い黒い下着で登場するシーンが、予告編にあります (^^;)

2017年4月30日 (日)

ワイルド・スピード ICE BREAK

 ワイルド・スピードシリーズ第8弾「ワイルド・スピード ICE BREAK」を見てきました。
 封切3日目日曜日、TOHOシネマズ日劇スクリーン1(944席)午前10時45分の上映は、なんと1~2割の入り。2週前(2017年4月14日~)の公開初週末に世界興収でオープニング興収歴代1位の新記録を作った超話題作ですが、アメリカでは今一つ振るわず、日本では不人気なこのシリーズ(前作「ワイルド・スピード SKY MISSION」が、世界興収歴代6位なのに、全米では歴代38位、日本ではなんと歴代100位圏にも程遠く、35.4億円の興収は公開年の2015年の年間ランキングでさえ13位どまり)、またしても寂しい結果に終わって日本市場の特殊性を印象付けることになるかも。

 前作でファミリーに完全復帰した恋人のレティ(ミシェル・ロドリゲス)といちゃつき、仲間たちとキューバでのバカンスを楽しむドミニク(ビン・ディーゼル)の前に、怪しげな女サイファー(シャーリーズ・セロン)が現れ、タブレット端末を見せ、凝視するドミニクに、私たちは出会うべくして出会ったとつぶやいた。ホブス(ドウェイン・ジョンソン)にミスター・ノーバディ(カート・ラッセル)から、ベルリンで新兵器のEMSを奪取するように指令があり、ホブスはドミニクらの協力を得て、EMSを奪取するが、追っ手を振り切ったと思いきや、ドミニクにEMSを奪われ、刑務所に入れられてしまう。刑務所でホブスは前作の仇敵デッカード・ショウ(ジェイソン・ステイタム)と遭遇し悪態をつき合うが、ミスター・ノーバディの策略で房の扉が開放され、ホブスもデッカードも脱獄する。ミスター・ノーバディのもとでドミニクからEMSを奪い返すミッションを与えられたホブスとファミリーの前にサイファーとドミニクが現れ、前作でファミリーが手に入れた監視プログラム「ゴッド・アイ」を持ち去った。ドミニクはサイファーの目を盗んで謎のママ(ヘレン・ミレン)に助けを求め、ホブスとファミリーとデッカードはドミニクを追ってニューヨークに向かうが…というお話。

 売り物のカーアクションは、冒頭のキューバでのポンコツ車を改造しての1マイル(1.6km)レース、ベルリンでのEMS奪取後のカーチェイスと鉄球作戦、ニューヨークでのハッキングによる無人車アタックと車の雨作戦、ロシアの軍事基地の氷上での巨大潜水艦との砲撃戦などの見せ場があります。
 自動車の運転制御システムをハッキングしての攻撃は、そこまでやれるなら、派手にあたり一帯の車を総動員しなくても、ターゲットの国防大臣のリムジンとせいぜい周囲の護衛車をハッキングすれば目的を達するんじゃないかと思ってしまいます。
 終盤のサイファーの基地となっている航空機への侵入と攻撃は、ガンアクションではありますが、あまりに都合よすぎてむしろコミカルな印象が強くなり「シューテム・アップ」(2008年)を思い起こしました。
 シリーズの継続により、常に前作を超えるアクションが求められるプレッシャーからでしょうけれども、まぁよくこういうの考え付くなぁとは思いますが、娯楽性が強くなって、手に汗握るスリルという感じは薄くなってきているように思います。

 本来的にはアクションが売りの映画なのですが、ドミニクとファミリー、特にレティとドミニクの絆、信頼、献身とその思いへの共感/感動がテーマとなっています。
 前作の撮影中に死亡したポール・ウォーカーの役柄のブライアンが、今回は登場しませんが、生きているという設定になっています(ドミニクの行方を追うのに、ブライアンならという話題が出て、ブライアンとミアを巻き込みたくないというセリフでその話題が打ち切られます)。一部の映像でCGで顔を作ったという前作の路線を続けるのか、保留になっているのでしょうけど、次回作ではブライアンを復活させるつもりなんでしょうか。

2017年4月23日 (日)

美女と野獣

 ディズニーの看板アニメの実写化映画「美女と野獣」を見てきました。
 封切3日目日曜日、新宿ピカデリースクリーン1(580席)午後1時40分の上映は、ほぼ満席。日本公開より5週早い2017年3月17日公開のアメリカでは歴代6位のオープニング興収を記録し、公開5週間ですでに全米歴代12位の興収を稼いでいる大ヒット作ですが、日本では前週公開のコナン、クレしんと翌週公開のワイルド・スピードに挟まれながらどこまで伸ばせるでしょうか。

 フランスの片田舎の城に住み美しいものだけを呼び寄せてパーティーを繰り返していた王子(ダン・スティーヴンス)が、吹雪の夜、バラを代償に暖を求めた魔女を嘲笑して、野獣の姿に変えられ、家来たちも時計やポットに変えられてしまい、魔女が持ってきたバラの花びらがすべて散る前に王子が心から愛し愛される人が現れなければ永遠に呪いは解けないと宣告された。近くの村に住むシェークスピアを愛読する娘ベル(エマ・ワトソン)は、自由を求め、本を読み、近隣の子に文字を教えるなどが村人の反発を呼び、変人扱いされていた。ベルの父モーリス(ケヴィン・クライン)が制作した商品を売りに遠出する際、ベルは土産にバラの花を希望し、モーリスは村に帰る際森で落雷と狼に追われて城にたどり着いたがしゃべるカップに驚いて逃げ出しその途中でベルへの土産を忘れていたことに気づきバラを折って、野獣に泥棒と見られて捕らえられる。馬だけが帰ってきたため帰らぬ父を探して馬に乗り城にたどり着いたベルは、父と交換で自分が城の牢にとどまり…というお話。

 ハリー・ポッターシリーズで秀才ハーマイオニーを演じてスターになり、その後若手女優のフェミニストのシンボルとなっているエマ・ワトソンを、聡明で進歩的でそれゆえに村人から変人扱いされているベルにキャスティングし、野獣の見た目に囚われずその本質を見抜くという設定は巧みで説得力を感じさせます。
 しかし、その一方で、野獣王子は荒んだ心で、呪いを解く者が現れないことに焦りいらだつのみで、呪いをかけられた頃から特に成長しているように見えません。ベルが、村の傲慢な青年ガストン(ルーク・エバンス)を振る時に言った、内面の美しさは、野獣王子にもないように思えます。野獣王子にベルが優しさを見出すのは、城を出て森で狼に襲われたベルを救った時という、べたにマッチョなパターン。聡明で進歩的/フェミニストのベル/エマ・ワトソンが惹かれたのは男の強さ/戦闘能力って、それはないでしょうと思う。
 さらに、ベルは醜い野獣の外見に囚われず王子の本質を評価するという設定なのに、美しいものだけを呼び寄せてパーティを開いていた王子が呪いをかけられその成長を求める作品で、野獣王子が愛する相手はなぜ「美女」でなければならないのでしょう。なぜ野獣王子には、女性の外見に囚われずにその本質を見抜き内面を愛することが求められないのでしょう。私の感覚では、モーリスを森で救うみすぼらしい村の女アガット(ガストンに能無し呼ばわりされていますし)あたりを野獣王子が愛するという話の方が、野獣王子が改心して呪いが解けるという展開にふさわしいと思うのですが…

 原題は「 Beauty and the Beast 」。野獣が「 the Beast 」なのに対して、「 Beauty 」には「 the 」がつけられていません。これを「美女」と訳すなら、美女は特定の存在ではなく、つまりベルである必要もなく、美女ならだれでもいいということになりそうです。そう解すると野獣王子の呪いを解く人はあくまでも「美女」でなければならないということが強調されることにもなります。呪いをかけられた経緯からすれば、それは奇妙なことに思えます。「 Beauty 」に定冠詞がつけられていない以上、それは抽象的な美を意味し、むしろ野獣の外見と対比される美、つまり内面の美と解することもできます。そう解するなら、これを「美女」と訳すことは誤りだということになると思うのですが。

 フランスの片田舎という設定ですが、登場するフランス語は、「ボンジュール」と「マドモワゼル」だけ(「ベル」も美しいという意味のフランス語でしょうけど)。「ボンジュール Bonjour 」に対して毎度「グッデイ Good day 」が返されています。それならいっそのこと全部英語にすればいいのに。

2017年4月16日 (日)

名探偵コナン から紅の恋歌

 名探偵コナン劇場版第21作「名探偵コナン から紅の恋歌」を見てきました。
 封切2日目日曜日、新宿ピカデリースクリーン2(301席)12時30分の上映は、ほぼ満席。

 毛利小五郎が(なぜか…)百人一首界をリードする「皐月会」の阿知波会長のインタビューをすることになり、またその前段で遠山和葉の同級生枚本未来子と高校生クイーンの大岡紅葉が対戦することになり、コナンらと「西の高校生探偵」服部平次らが日売テレビに集合していた時、百人一首の札のイラスト付きの爆破予告が入り、スタッフらは避難するが、皐月会の伝統の札を守ろうと会場に戻る枚本を追っていた平次と和葉は爆発に巻き込まれ、コナンに救われて九死に一生を得る。他方、京都では、皐月杯の連続チャンピオン矢島が自宅で撲殺され、その犯人と疑われた2年連続決勝敗退者の関根を乗せた車が爆破され、矢島の死体には百人一首の札が握らされており、関根のスマホには百人一首の札を添付したメールが送られていたことが発覚した。2つの事件の関連性を見たコナンと平次は、次の殺害対象と睨む阿知波と紅葉をマークするが…というお話。

 前作「名探偵コナン 純黒の悪夢」でシリーズ最高興収を記録した後、ネタ切れなのか、力を抜いたのか、今回は「名探偵服部君 ちはやふる便乗版」の趣です。
 タイトル(「から紅」:在原業平の「ちはやぶる神代も聞かず竜田川から紅にみずくくるとは」に由来することは明らか)からして、「ちはやふる」人気への便乗商法と予測されましたが、大岡紅葉とその師匠の名頃が絶対相手に取らせない6枚の札にして、殺害予告のキーとなる札(歌)が「ちはやぶる」で、百人一首決戦に挑む和葉が死守する札が「しのぶれど」って、まるっきり「ちはやふる」のパクリ(「ちはやふる」の千早のライバル若宮詩暢がこだわり死守する札が「しのぶれど」です)。同じ百人一首をテーマにする/舞台に使うにしても、もっと調べ上げて別のエピソードを作れば/探せばいいのに、と思います。

2017年4月 9日 (日)

午後8時の訪問者

 診療時間終了後の訪問を無視した医師がその訪問者が殺害されたことに自責の念を持ち真相を探るサスペンス映画「午後8時の訪問者」を見てきました。
 封切2日目日曜日、全国5館東京2館の上映館の1つヒューマントラストシネマ有楽町シアター1(161席)午前11時50分の上映は、入場者プレゼント(ベルギーワッフル)付で7~8割くらいの入り。

 入院中の老齢の医師の診療所で代診を務めているジェニー(アデル・エネル)は、採用されることが決まった病院の歓迎会の夜、診療時間を1時間余り過ぎた午後8時05分に鳴ったブザーにドアを開けようとした研修医(オリヴィエ・ボノー)を制止する。翌朝、ジェニーが出勤したところに刑事が訪ねてきて、近くで身元不明の若い女性の死体が発見されたが、診療所の防犯カメラに写っていないかを尋ねられ、ビデオを確認した刑事から、死んだのは昨夜午後8時5分に訪ねて来た者だと知らされる。自責の念に駆られたジェニーは、老医師の診療所を継ぐ決意をして病院への就職を断り、訪れる患者に次々とビデオに写っていた女性の写真を見せて被害者の名前を知ろうとし、無縁仏として共同墓地に埋葬された被害者のために墓地を確保するが…というお話。

 小さな診療所で町医者/家庭医として、次々と訪れるさまざまな病気・ケガを負った人たちを診察し、多数の患者の家庭に往診で回るジェニーの多忙な日々が、こまめに丁寧に描かれています。こうした町の人々の雑多なニーズに応えることのしんどさとやりがいを、専門医としてのキャリア形成を捨てて選び取るジェニーの姿勢に、それが自責の念が絡んだ苦渋の選択ではあるとしても、共感します。
 いつ急患が目の前に立ち現れるかわからない、プライベートの時間の確保が困難な医師という仕事柄ではありましょうが、診療時間を過ぎて訪れた者に応えなかったという、本来何ら責められるいわれのないことでジェニーが自責の念を感じる姿、しかもその者が急患で病気やけがで死んだのならまだしも、何者かに殺害されたという医師には関係のない死に至った、ただ開けてやっていれば追ってきていた殺人者に見つからなかっただろうという、医師かどうかにも関係がない事情で、自責の念を感じる姿に、医師という職業の過酷さ、業を感じます。このような姿、ジェニーの思いが描かれること自体に、医師に対する世間の期待、幻想の重さが感じられ、そういったものに応えようとする良心的な医師たちの苦労がしのばれます(方向性や質は違っても、類似の期待と幻想を持たれがちな仕事をしている者として、実感しています)。

 予告編でも/公式サイトのイントロダクションでも、紹介されているテレラマ誌の「かつてない力強いラスト」って、ラストシーンのことじゃないですよね? ラストシーンが近づいたところで、ふと、フランス映画だから/カンヌ国際映画祭のコンペティション出品作品だからここで終わりってありそうだけど…と思ったら、本当にそこで終わり、「えっ」(「あっ」と驚くのではない)と思いました。

2017年4月 2日 (日)

ムーンライト

 黒人少年/青年の友人男性への恋心を描いたアカデミー賞作品賞受賞作「ムーンライト」を見てきました。
 封切3日目日曜日、TOHOシネマズシャンテスクリーン1(224席)午前9時45分の上映は8割くらいの入り。

 麻薬の売人の黒人フアン(マハーシャラ・アリ)は、いじめっ子に追われてフアンが麻薬を隠していた廃墟に逃げ込んだ黒人少年を連れて恋人テレサ(ジャネール・モネイ)のもとに帰る。少年は黙り込んでいたが、食事をさせて話を聞くうち、シャロンと名乗った。フアンは翌朝、シャロンを自宅に送るが、シャロンの母(ナオミ・ハリス)は、後日、フアンから麻薬を買っている客とわかる。フアンはシャロンを気にかけて何かとかまうようになり、海で泳ぎを教えたり、自分の道は自分で決めろ、周りに決めさせるなと諭すなどしていた。シャロンの母が客を取りその間家にいないように言われてシャロンは行き場がなくなり、学校でも心を許せるのは親友のケヴィンしかいなかったが、フアンが亡くなり…というお話。

 母子家庭に育ちその母ともしっくりいかず、学校でもいじめられて、居場所がない少年が、目をかけてくれた大人に影響されながら育っていく様子、唯一の友人に友情を超えた恋心を抱いていく様子を、少年期の「 Little (チビ)」、青年期の「 Chiron (シャロン)」、成人後の「 Black (ブラック)」の3部構成で描いています。家庭環境/生育環境から抜け出せず、ケヴィンのほかには友人もできず、内気で自分からなかなか話さないシャロンの、目に見えた成長/状況の好転が描かれない/観客が見られないもどかしさ、切なさ、ケヴィンに寄せる思いと高校時代の事件をめぐる複雑な思いというあたりを味わう作品です。言葉少ないシャロンの目の表情が印象的です。

2017年3月26日 (日)

モアナと伝説の海

 南の島に住む少女の冒険を描いたディズニーアニメ映画「モアナと伝説の海」を見てきました。
 封切3週目日曜日、新宿ピカデリースクリーン8(157席)午前8時10分の上映は8割くらいの入り。

 幼い頃に卵から孵ったばかりのウミガメを鳥から助けて海に好かれた南の島に住む村長の娘モアナは、サンゴ礁の外の海に好奇心を持ち続けていたが、父トゥイからサンゴ礁の外の海に出ることを固く禁じられていた。トゥイ自身が若いころ仲間と外海に出て大波に遭い仲間を失った苦い経験をしていたためだった。成長したモアナは村長を継ぐ決意をしたが、ヤシの実が水分を失い、内海で魚が獲れなくなって、モアナの知恵では解決できない危機が訪れ、モアナは、幼い頃祖母から聞かされた人間の英雄マウイが世界を創造した女神テ・フィティの心を奪ったため暗黒が訪れたという伝説を思い出し、マウイを探し出してテ・フィティに盗んだ心を返させようと、海へと漕ぎ出すが…というお話。

 少女の冒険と成長がテーマで、それはよく描かれていると思うのですが、物語(伝説、童話)としては、モアナが帰還した(一応ネタバレではありましょうが、この設定でモアナが帰還しないという進行はあり得ないでしょう)際に、モアナが冒険に出る前に生じていた問題(ヤシの実が水分を失ってカスカスになっている、内海で魚が獲れない)が解決したという描写がはっきりなされていないのは、不完全燃焼感があります。海洋の民としての本分を取り戻すというところにポイントがあったのかもしれませんが、それであれば、女神にマウイが盗んだ心を返すということは必要なかったわけで、ディズニーにしては、抜かりがあったと思います。

 本編上映前の短編アニメは、健康管理と単調なデスクワークに縛られたビジネスマン(そう言えば、今どきにしては、女性労働者も同時に描こうという努力が見えなかったような…)の悲哀を描き、たまには自由にやりたいようにやろうよというものでしたが、春休み公開のアニメのターゲット層のお子様連れ(字幕版上映ではわずかしかいませんでしたけど)にはちょっと物悲しいかと思います。

2017年3月20日 (月)

わたしは、ダニエル・ブレイク

 役所から手当受給を拒否され当惑し苦しむ心臓病で働けなくなった高齢の大工とシングルマザーの姿を描いた映画「わたしは、ダニエル・ブレイク」を見てきました。
 封切3日目月曜日・祝日、全国11館東京2館の上映館の1つヒューマントラストシネマ有楽町シアター1(162席)午前10時20分の上映は満席。

 心臓病のため医師から労働を禁止された59歳の大工ダニエル・ブレイク(デイヴ・ジョーンズ)は、支援手当の受給を申請したが、「就労可能」と判定され受給を拒否される。拒否の通知に異議を述べようとしても役所への電話はつながらず1時間48分待たされた挙句、認定人からの電話連絡の後でないと不服申立はできない、電話は認定人の手が空いたらかけるだろうと言われるだけ。憤慨して役所に行ったダニエルは、ネットで予約しないと受け付けられないとにべもなく拒否され、パソコンは使えないと言っても相手にされない。ロンドンからニューカッスルに引っ越してきたばかりで道に迷ったというシングルマザーのケイティ(ヘイリー・スクワイアーズ)を予約時間に遅れたと追い返す役人に、ダニエルは幼子を2人も連れた母を追い返すなんてひどいと抗議するが、一緒に役所から追い出される。フードバンクでの配給を受けたとき、空腹のあまりその場で棚にあった食品をむさぼり情けなくなって泣き崩れるケイティに、付き添ってきたダニエルは、あんたは悪くない、立派にやっていると励ますが、ダニエルも隣人や周囲の人々の助けを受けてパソコンから申請手続をしても、役所の壁は厚く…というお話。

 冒頭、おそらくは民間委託(アウト・ソーシング)で支援手当(日本の生活保護に相当するものと思われる)の受給要件として就労できないことの認定を担当する医師でも看護師でもない「医療専門家」が、ダニエル・ブレイクにマニュアルに沿って質問を続けるシーンが象徴的です。心臓病のために医師から働くことを禁止されたダニエル・ブレイクが、それを繰り返し述べているのに、心臓病とは関係なく、「介助なしで50m歩けるか」「手を上にあげられるか」等の一般的な質問を続け、その点数だけで機械的に判定する。ダニエルからすれば、医師から労働を禁じられているのだから、死亡/心臓病悪化のリスクを賭けるのでなければ働きようがない、それにもかかわらず手当の受給の段になると、手当を受給させないために極端に狭くされている要件(生活保護の不正受給などを言い立てるマスコミ等の連中がそれを後押ししている)を盾に「就労可能」と判定されてしまう。役所は法律(実際は役所がつくった基準)を口実に手当受給は拒否し、それを申請者側の落ち度と言い、また民間委託により責任を回避しようとする。こういった役所のやり口で、役所は手当の受給を減らし(税金は役人の給料や軍事費や銀行や電力会社の救済のような役人の目から見て有意義な使い道に回されることになる)、困っている人が、本来権利を有する手当の受給をできず貧困にあえぎ、健康を害し、またホームレスになっていく。この作品で描かれている、制度としては存在するセーフティネットが役所の都合で本来適用されるべき人に適用されない実情は、言うまでもなく、イギリスだけのことではありません。
 そして小役人、または民間人でも一定の権限を持たされた者が、弱者に対しては居丈高にふるまい権力を濫用したがるのも、普遍的な姿です。この作品ではアン(ケイト・ラッター)というダニエルの力になろうとし、ダニエルにあきらめないでと言い続けるケースワーカーと思われる職員も登場しますが、良心的な職員が少数いたとしても、組織の中でどうにもできません。
 手当を受給できず食べるものにも困り最終的には体を売ることになるケイティを、本来は助けるべき役所の代わりに励ますのが自分も手当が受給できず苦しんでいるダニエルであったり、ダニエルを最後に支援手当不支給に対する不服申立手続の専門家(弁護士と思われる)のもとに導くのがケイティというあたり、貧しい者同士の助け合う姿の美しさを感じるのですが、本来は役所がきちんとやるべきことをやっていればどちらも救われたはずなのにという思いが募ります。
 ダニエルが、自分は人間だ、犬ではないと言い、ずっと働き、税金を払ってきたしそのことを誇りに思っている、権利のはずの手当をなぜ誇りを持って/プライドを捨てずに受けることができないのかと問う姿は、りりしくも悲壮感が漂い、見ていて涙が出ます。
 こういう作品をパルムドール(最高賞)に選んだカンヌ国際映画祭の姿勢は称賛に値すると思います。

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