2016年11月20日 (日)

聖の青春

 早世した棋士村山聖の生涯を描いた映画「聖の青春」を見てきました。
 封切2日目日曜日、新宿ピカデリースクリーン3(287席)午前10時55分の上映は、9割くらいの入り。

 子どものころネフローゼ(腎臓疾患)と診断され入院生活中に覚えた将棋に夢中になり、森信雄(リリー・フランキー)を師匠として大阪でプロの棋士になり活躍していた村山聖(松山ケンイチ)は、24歳の1994年、対局に赴く途中で道に倒れるほど腎臓が悪化していたが、頂点を極めつつあった1つ年下の羽生善治(東出昌大)のそばで将棋を指したいと、東京に転居する。病状が悪化し膀胱がんも発見されて医者からは手術を強く勧められながら麻酔をしたら脳に響く、将棋が弱くなりたくないと拒否し、対戦成績5勝6敗で迎えた羽生との対局で、聖は控室が驚く一手7五飛から羽生を追い込み勝利する。懇親会の席から羽生を居酒屋に誘い出した聖は、羽生に夢を語るが…というお話。

 東京の名人に対してライバル意識を燃やす大阪の野性的な棋士という構図は、私には、「王将」、阪田三吉をイメージさせるのですが、そのアナロジーは避けてあくまでも現代的に、不器用で不健康な生活を送る野性的な棋士と健康的で上品な天才棋士のマナーに則った対決の物語として描いています。
 聖が羽生を誘い出して居酒屋で語るシーンが2人の関係、人柄を印象付けています。少女漫画は?競馬は?と聞く聖に対し、読まない、やらないとあっさり答える羽生、趣味が合いませんねぇ…と、私生活の対比を見せつつ、会話にも行き詰まる2人。そこで聖が、自分には2つ夢がある、名人になって将棋をやめること、一度でいいから女を抱きたいと語ります。すでに名人を含め4冠を保持し、元歌手の畠田理恵と結婚している、つまり聖の夢をどちらも実現している羽生に、それを語る聖はどういう心境だったのでしょうか。普通に考えると、ライバルに対して、屈するような、うらやむような、弱みを見せる発言、意地でもするものかと考えると思うのですが、それを卑屈にならずに直球でぶつける聖と、答えようもないけれど反発することも諭すこともなく淡々としている羽生。他の棋士には憎まれ口を聞きダメ出しをする聖が、羽生にはなぜかあまりに素直に心を開き、負けて死にたいと思うほど悔しいという羽生が優しい(線が細いとも)気持ちでいるところが、従来のライバルものと違う関係性を示しているように思えます。
 この聖が勝って対戦成績を五分にした一戦、映画では雪国で行われたという描写です(雪原で松ケンなので、単純に青森かと思ってしまいました)が、史実としては1997年2月28日の竜王戦(予選)での対局で、場所は東京の将棋会館。念のため調べるとその日の東京は最低気温が6.7℃でもちろん降雪なし。ドキュメンタリーじゃなかったの?聖が前泊して見つけた鄙びた居酒屋、主人が有名人とわかっていても話しかけてこない、わかっていてもそぶりも見せないって、ただ知られていなかっただけだし、聖が気にいったのも、たぶん、店の名前が「よしのや」ということでしょうし…
 この作品で、聖が繰り返す、「牛丼は吉野家、シュークリームはミニヨン、お好み焼きはみっちゃん…」。ミニヨン、みっちゃんは特定の店の名前で全国的な影響力はありませんが、吉野家はタイアップかと思うほど。松屋やすき家の関係者は歯噛みして悔しがっているのではないかと。

2016年11月13日 (日)

ジュリエッタ

 置き去りにされた母の失踪した娘に対する葛藤を描いた映画「ジュリエッタ」を見てきました。
 封切2週目日曜日、全国11館、東京で2館の上映館の1つ新宿ピカデリースクリーン10(115席)午前8時25分の上映は3割くらいの入り。

 数年越しの恋人のロレンソ(ダリオ・グランディネッティ)とともに暮らすためポルトガルに引っ越す準備をしていたジュリエッタ(現在:エマ・スアレス)は、通りで偶然、12年前に失踪した娘アンティア(失踪時:ブランカ・パレス)の親友だったベア(現在:ミシェル・ジェネール)と遭い、アンティアとコモ湖畔でばったり会った、2人の子を連れていたと聞かされ、マドリードに残る決意をしてポルトガル行きを取りやめ、アンティアが失踪したときに棲んでいたアパートを再度借りて転居した。ロレンソとも別れジュリエッタは一人部屋でアンティアに対し、出す当てもない(送り先もわからない)手紙を書き始め、アンティアの父ショアン(ダニエル・グラオ)と出会った25歳のころに思いをはせ…というお話。

 終始ジュリエッタの視点でストーリーが展開するため、スクリーンで描かれるのは、基本的にジュリエッタの、置き去りにされた母の心の痛み、失踪した娘への愛憎・葛藤ですが、読み取るべきは、娘アンティアの心の傷と、心の傷・痛みを伝える/汲み取ることの難しさかなと思いました。
 夫の死でうつになった母親を終始支え、けなげにまっすぐに育ち、母親には憎悪の片鱗も見せなかったアンティアが、ひそかに傷つき苦しみ、親友はその怖いほどの変化を見取っていたという、親として娘の心の変化・苦しみを読み取ることができない現実に、慄くとともに、自分の気持ちを隠し通した/隠さざるを得なかったアンティアの心情に涙してしまいます。
 ラストシーンに至ったとき、「えっ、ここで終わる?」(まぁ、カンヌ映画祭出品作品だし、なんとなくここで終わりそうだなとも思いましたが)という思いを持ちましたが、考えるうちに、説明しないことが、人の心を汲み取ることの難しさを感じさせ、余韻を残していいかなという気になりました。
 ジュリエッタが、長く病床に伏す母サラ(スシ・サンチェス)を尻目に家政婦サナア(マリアム・バチール)と情交を続ける父サムエル(ジョアキン・ノタリオ)を母が死んだ後もなお許せない一方で、自分は長く病床に伏す妻がいるショアンとそれを聞かされながら初めて出会った日に列車内で肉体関係を持ち、その後ショアンから妻の容体が悪化したという手紙が来てのこのことショアンの自宅に行き、そこで家政婦マリアン(ロッシ・デ・パルマ)から妻が死亡したこと及びショアンが前々から不倫の関係を続けるアバ(インマ・クエスタ)のところにいて今日は帰らないと知らされ、帰るように言われたにもかかわらずショアンを待ちセックスにふけりそのまま居ついたという、自分が嫌い許せない父親とまったく同じタイプの男(ジュリエッタの父の方が相手は一人だからまだましというべきでしょうけど)を愛し、自分自身父の家政婦と同じことをしていながら、その矛盾を突きつけられることも、気づいて葛藤することもないというところが、人が自分を客観的に評価することの難しさを示し、人間ってそういうものというあたりで放り出すことで、かえって深みを持たせるというか、余韻を残している感じもします。

 そういった、老いてなお自分を客観視できず、娘の心の傷を汲み取れず、自分の痛みに悶えるジュリエッタの姿を、人間ってそういうものだよねとしみじみする作品なのだと思います。

2016年10月31日 (月)

インフェルノ

 ダン・ブラウンのラングドン教授シリーズ第3作を映画化した「インフェルノ」を見てきました。
 封切3日目日曜日、新宿ピカデリースクリーン6(232席)午前11時20分の上映はほぼ満席。

 頭部を負傷し数日間の記憶を失ってフィレンツェの病院で目覚めたラングドン教授(トム・ハンクス)は、暗殺者ヴァエンサ(アナ・ウラル)の襲撃を、担当医シエナ(フェリシティ・ジョーンズ)の導きで辛くも逃げ、シエナのアパートに逃げ込んだ。上着のポケットに入っていた指紋認証のバイオチューブから出てきたポインターを操作すると、人口増加を放置していては100年後に人類は滅亡すると説きウィルスによる人口の抑制を主張する生化学者ゾブリスト(ベン・フォスター)がウィルスの隠し場所を示唆していると思われるボッティチェリの地獄絵が映し出された。ラングドンを追ってシエナのアパート前に次々と集結したヴァエンサ、WHOの監視チーム隊長ブシャール(オマール・シー)、WHOの事務局長シンスキー(シセ・バベット・クヌッセン)らをすり抜けて、シエナとラングドンはヴェッキオ宮殿に向かう。「依頼者」から24時間後に公表するよう指示されたビデオを見て、依頼者の計画が人類の半減を招くウィルスの散布と知った総監シムズ(イルファン・カーン)は、ヴァエンサにラングドンの殺害を指示し、ポインターの謎を追うラングドンとシエナをヴァエンサとシムズ、ブシャール、シンスキーがそれぞれに追い…というお話。

 ゾブリストのウィルス散布計画とウィルスの所在をめぐる謎解きと、ラングドンが記憶を失い襲撃された経緯と背景をめぐる謎解きが絡み合いながら展開していきます。後者のラングドンを襲った者とラングドンがポインターを持つに至る経緯などは、アクションとともに明かされていくのですが、前者のラングドン教授の本領を発揮すべき宗教象徴学的な謎解きは、映画としての前作「天使と悪魔」同様、映画としてはわかりにくいというか、もっとゆっくり見せ場にしてほしいなぁと思いました。
 ラスト近くのラングドンとシンスキーの大人の雰囲気のある会話、正確には記憶できていないのですが、僕との関係について別の道を考えたことはなかったのかい、物語には謎(ミステリー)があった方がいい、あなたと私の間にもね、みたいなセリフが味があってよかったと感じました。前半の展開からは、ラングドンとシエナの間にロマンスが生じるのかと思いましたが、そこはもう年齢的に無理ということだったのでしょうか。

2016年10月23日 (日)

スター・トレック BEYOND

 スター・トレック新シリーズ第3作「スター・トレック BEYOND 」を見てきました。
 封切2日目日曜日、新宿ピカデリースクリーン3(287席)午前10時25分の上映は8割くらいの入り。

 5年間の深宇宙探索の任務3年目に入った宇宙船USSエンタープライズ号のジム・カーク船長(クリス・パイン)は、惑星連合の巨大宇宙都市ヨークタウンに寄港した際、船を降りてヨーク・タウンの副提督への就任を申請し、後任の船長にスポック(ザッカリー・クイント)を推薦する。他方、スポックは、バルカン人再興のためにバルカン人の子を増やす必要を感じ、バルカン人と一緒になるために地球人の恋人ウフーラ(ゾーイ・サルダナ)に別れを告げる。ヨークタウンに救助を求める信号を送ってきた遭難船の救助に向かうことになったカークとスポックは互いに胸の内を伝えられないまま、待ち受けていた宇宙船からの攻撃を受け、USSエンタープライズ号は主エンジンを失い、クルーは脱出ポットで惑星にばらばらに降り立ち…というお話。

 新シリーズ第2作でやや円熟味を見せたカークは、クルーの意見を聞かず暴走する場面もなく、クルーとの信頼感・チームワークを尊重し、温厚で模範的な船長ともいえる態度で、第3作ではカークの円熟味・成長を超えて、老いを感じさせています。スポックは、ウフーラとの関係で人間味を見せ、カークとの間でも人情味のある表情の場面が多くなっています。
 機関士スコッティ(サイモン・ベッグ)、医師ボーンズ(カール・アーバン)、パイロットスールー(ジョン・チョウ)らクルーの見せ場も用意され、チームの勝利的な演出もなされています。
 他方、敵役のクラール(イドリス・エルバ)の設定は、本来的にはその背景事情に深みを持たせうると思うのですが、「ウルトラマン」のジャミラと比較しても複雑な感情や哀感を誘う描きぶりがなく、そこにやや物足りなさを感じました。経緯はどうあれテロリストはテロリストでしかない、という割り切りが、アメリカ的/いや日本も含めた現代の世情、でしょうか。

2016年10月16日 (日)

何者

 朝井リョウの直木賞受賞作を映画化した「何者」を見てきました。
 封切2日目日曜日、新宿ピカデリースクリーン6(232席)午前10時35分の上映は9割くらいの入り。

 演劇サークルで脚本を書いていたがタッグを組んでいた演出家烏丸ギンジが独立して別の劇団を作り喧嘩別れになって自分は引退した二宮拓人(佐藤健)は、ルームシェアしている学生バンド「オーバーミュージック」のヴォーカル神谷光太郎(菅田将暉)、拓人が思いを寄せるが光太郎に心を奪われている同級生の田名部瑞月(有村架純)、瑞月が留学生交流会で知り合った小早川理香(二階堂ふみ)とともに就職活動を始める。4人と理香の同棲相手の宮本隆良(岡田将生)は、一堂に会してエントリーシートを書く練習や情報交換をしながら、同時進行で黙ってその状況をツィートしたり、志望先を隠して面接に出かけてばったり出会って驚いたりと、微妙な心のとげを抱えながらそれぞれの就活を進めていた。拓人は、バイト先の先輩沢渡(山田孝之)から、ギンジを隆良と同じとまとめて切り捨てるのは間違いだと指摘され、田舎の家を飛び出してきた母を抱えて大企業に就職することを優先してエリア職で通信会社の内定を得た瑞月は、ギンジとのコラボを中止した言い訳にギンジをけなす隆良を批判して10%でも20%でも自分の中から出さなきゃ始まらないと声を荒げ…というお話。

 就活の過酷さ(というか、だいたいなんだって、消費者の立場からしたらどうということもない企業の面接官にそこまで媚びなきゃならないのか、心を折られなきゃいけないのか…私がそう思うのは自分が就活した経験がないから、なんでしょうけど)と、それに押しつぶされる就活生のストレス、心のゆがみ、目の前にいる相手と向き合えずSNS等での発信(虚像・取り繕い)に没頭する現代人の姿というあたりがテーマになっています。
 心情的には、一貫して瑞月に思いを寄せながら、瑞月が光太郎と付き合い振られながらまだ光太郎を思っているゆえに、瑞月に思いを伝えられない拓人の切なさ、歯がゆさに心を揺さぶられ、喧嘩別れの形になったギンジへのねじくれた気持ちと意地でも認めたくない別離への後悔を哀しく思う、そういう作品だと思います。

 ほぼ原作通りの展開で、原作にないシーンはラスト前の拓人と瑞月の会話、拓人のツィートを演劇化した見せ方くらい、原作から落とされたシーンで展開に影響しそうなものは最初のライブのシーンで拓人がジンバックをこぼして瑞月がハンカチを差し出すシーン(原作ではここで拓人がスーツ姿という言及はありません)と瑞月が留学先から拓人に電話するシーンくらいでしょうか。

2016年9月25日 (日)

ハドソン川の奇跡

 2009年に起こった離陸直後にエンジン停止した航空機のハドソン川への不時着を描いた映画「ハドソン川の奇跡」を見てきました。
 封切2日目日曜日、新宿ピカデリースクリーン6(232席)午前10時25分の上映は、ほぼ満席。

 2009年1月15日、ニューヨークのラガーディア空港を離陸したUSエアウェイズ1549便は、離陸直後にバードストライクのため両エンジンが停止した。機長チェスリー・サリー・サレンバーガー(トム・ハンクス)と副操縦士ジェフ・スカイルズ(アーロン・エッカート)は、エンジン再起動を試みるが、エンジンは起動せず、機長は管制官に事故を伝え、ラガーディアに戻ると通告した。しかし、1549便は高度を保てず、機長はハドソン川への不時着を決行した。機体は無事に着水し、乗客は翼の上や緊急脱出用ロフトに出て救助を待ち、不時着を見ていた沿岸警備隊や民間のフェリーが駆けつけて、乗員乗客155名全員が生還した。テレビはサレンバーガーを英雄として報道したが、事故調査委員会は、フライトレコーダーの記録から片側のエンジンはわずかながら動いており、ラガーディア空港や近隣の空港への帰還が可能だったと言い出した。サレンバーガーは、事故調査委員会の主張はコックピットでの記憶とあわないと、反発するが、先行きに不安を感じ…というお話。

 長年にわたりパイロットとして勤めてきた、プロとしての経験とプライド、直面した事態の下での判断への自信とあり得た他の選択肢への一抹の不安と迷い。サレンバーガーの胸に去来するそういった思いが切々と描かれ、プロとしての仕事のあり方、判断について、考えさせられる作品です。
 片側のエンジンが生きていたというフライトレコーダーの記録は、サレンバーガーのコックピットでの認識・実感と異なるものでしたが、仮にエンジンがわずかに生きていたとしても、その結果、客観的にはラガーディアに戻ることができたのだとしても、それは机上での後付のシミュレーションに過ぎず、ベテランのプロが現場で冷静に対応して当時可能な中での最善と判断したものを、理論的には他の選択肢もあり得たと批判するのは、間違いだと私は思います。サレンバーガーでなくても(サレンバーガーはそうは言わないのですが)、そういう主張をする調査委員会に、あの現場でそんな判断できるというならお前がやってみろと言いたくなるでしょう。
 私自身、職業柄、本当の意味の客観的なベストが何かはわからない、あとから「たら」「れば」を考えだしたらきりがないという場面は、よく経験します。例えば敵性証人・相手方本人の反対尋問で、もう一歩突っ込むべきだったか、あの場面でこう聞いたらどうなったか、というのはたびたび頭をよぎります。しかし、敵性証人がこちらの主張を相当程度認める証言をしたところで、調子に乗ってあからさまにつまり被告の主張は虚偽だということですねなんて聞き方をすれば、しまったと思い取り繕ってこれまでの証言はそういう意味ではない別の意味だとかごまかす機会を与えることにもなりかねません。そこらを見計らって、その時の判断としてはここで止めるのがベストと判断しているわけですが、そこは究極的にはわからないことであり、100%の正解はありません。そういうところを、他人からあれこれ言われたら、やってられないなという気になります。

 現実に緊急事態に遭遇したときに、人間がどれだけ冷静でいられるか、その時点ではどれだけの情報を得ているかを度外視して、当時はパイロットが知らなかった情報を前提に、シミュレーションで、できたはずだという事故調査委員会の言い草は、あまりにも非現実的で、いかにも役人の机上の空論に思えます。
 しかし、そう考えたところで、これは、過去の事故調査だけの問題ではないということに気づきました。この事故調査委員会の思考パターンと手法は、将来の事故の際の対応について、机上の論理だけで、事故のときに運転員がこのように適切に対処できる「はず」だから、重大事故対策が有効だと言って、原発の再稼働を次々認めているわが国の原子力規制委員会と同じですから。

2016年8月21日 (日)

君がくれた物語

 作者ニコラス・スパークスが「最高傑作」と評しているという小説を映画化した「君がくれた物語」を見てきました。
 封切2週目日曜日、全国で5館東京では唯一の上映館の渋谷シネパレススクリーン1(182席)午前9時10分の上映は1割未満の入り。日曜日の午前9時台にだれが映画見に行くか、という問題ではありましょうけれど、東京ではここしかやっていない映画館で日曜日にこの惨状は…カップル向けの映画ですが、カップルは私たちを含め3組しか見当たりませんでしたし(あ、2階席までは確認してませんけど)。

 ガールフレンドのモニカ(アレクサンドラ・ダダリオ)と付き合ったり別れたりを繰り返し友人たちとボート遊びに興じていた獣医トラヴィス(ベンジャミン・ウォーカー)は、飼い犬モリーを孕ませたことと音楽がうるさいことに苦情を言いに来た隣人の医学生ギャビー(テリーサ・パーマー)に恋してしまう。ギャビーには医者の婚約者ライアン(トム・ウェリング)がいたが、ライアンが遠方に出張している間に、モリーの出産などを機にギャビーの自宅に招かれ急速に距離を縮めたトラヴィスと、ギャビーは関係を持ってしまう。ライアンが戻りギャビーと食事中の席に現れたトラヴィスは、ギャビーにプロポーズし、選択を迫る。若干の紆余曲折の末に結婚し2児をもうけ幸せに暮らす2人だったが、デートの夜に急患が現れてトラヴィスが遅れたのに業を煮やして帰るギャビーが交通事故にあい意識不明となり、トラヴィスは、主治医のライアンからギャビーが署名した延命措置拒否の書類を渡され…というお話。

 私は、「君に読む物語」は原作を読み映画は見ておらず、この作品は映画は見たが原作は読んでいないという状態ですが、やはり「君に読む物語」の2番煎じ、2匹目のドジョウ狙いに見えてしまいます。男が病院に向かうところから話が始まり、過去に戻り恋人を婚約者から奪い取る「略奪愛」の物語が長々と続き、その後幸せな日々を描いた挙句に、悲劇が訪れ、そのあと最初に戻って比較的短いストーリーでエンディングに達するという展開といい、愛を忘れぬ男の献身というテーマといい、ほとんど同じ作品のように見えました。
 夫婦に訪れた悲劇に耐え前向きに尽くす男というテーマを描くのに、激しい恋、婚約者から奪い取った愛という経緯と思い出がほしいのでしょうけれども、それが作品の大部分を占めていて、普通のラブ・ストーリーの性格の方が強いようにさえ見えてしまいます。特に、この作品のラストが、予想されたパターンではありますが、あっさりと唐突な感じがして、もう少し感動的に描けなかったのかと感じられてしまっただけに、テーマ部分がかすんでしまう印象を持ちました。
 私には、「君に読む物語」では夫が毎夜病院訪れて物語を読み聞かせるという積極的な献身を見せているのに、この作品では夫は思い出に浸りどちらかといえば自己満足的な行為に没頭していて、妻への献身という点でも今一つ感がありました。「君に読む物語」との大きな違いは、むしろその点と、婚約者を奪われた男が「君に読む物語」では弁護士だったが、この作品では医者という点か、と思ってしまいました (^^;)

2016年8月14日 (日)

ペット(吹き替え版)

 飼い主の留守中のペットたちの様子を描いたアニメ映画「ペット」を吹き替え版で見てきました。
 封切4日目日曜日、新宿ピカデリースクリーン2(301席)午前10時40分の上映は8割くらいの入り。

 捨てられていた子犬のマックスは、犬好きの少女ケイティに拾われ幸せな日々を送っていた。ケイティが出かけるのが寂しくて、マックスはケイティを出かけさせないよう懸命の芸をするのだが、ケイティを引き留めることはできず、マックスにはそれが一番の不満だった。マックスは、ケイティの留守中も、近所の他のペットたちとは異なり、飼い主の留守をいいことに乱行に及ぶことはなく、おとなしくケイティの帰りを待っていたが、ある日ケイティが保健所から大型犬のデュークを拾ってきたことから、ケイティの留守中にマックスとデュークは対立し、外へ出て保健所の職員に捕獲されてしまい…というお話。

 前半は、予告編や各種サイトでの紹介のとおり、マックスの近所に住むペットたちが、飼い主が出かけるや飼い主の前とは違う顔を見せて乱行に及ぶその姿のギャップが見せ場になっています。猫のクロエの冷蔵庫のごちそうを見て迷う姿や、ミキサーでマッサージを受けるダックスフントのバディ、テレビと扇風機でフライトシミュレーションを楽しむセキセイインコのスイートピー、そしてクラシック好きの飼い主がいなくなるやロックをガンガンかけるプードルのレナードのギャップがかわいい(しかし、公式サイトの情報のなさは、特筆ものです。予告編ビデオと劇場情報だけといってよいほどで、アニメなのにキャラクター紹介さえありません)。
 後半では、マックスとデュークの失踪と捨てられたペットたちを率いて「革命」を目指すウサギのスノーボールらの追跡、マックスの身を案じた向かいに住むポメラニアンのギジェットらのマックス探しの冒険アクションになります。マックスとデュークの友情、ギジェットのけなげで一途なマックスへの思いがテーマになり、そこが見どころに思えます。しかし、後半の展開は、たぶんこの作品の観客層の多くは今年すでに「ズートピア」と「ファインディング・ドリー」を見ていると思うのですが、似たような展開ですし、冒険ものとしてはそっちの方がきちんと作っている感じで、ちょっと今さら感があります。主役となるマックスとデュークのキャラクターも、なんだか「モンスターズ・インク」のマイクとサリーの設定に近くて、やはりどこか既視感があります(デュークの唸り声、小さい子が怖がって泣いてました)。マックスがデュークとの間で示すせこさ、ずるさもあり、ギジェットの一途さがどこか、もったいない感じもしてしまいます。
 さすがに前半のギャップだけで最後まで作るのには無理があるのでしょうけど、後半の冒険もの的な展開が中途半端で、何かもう少し工夫がほしかったなと思います。

 エンドロールの吹き替え版のキャスト紹介で、「ソーセージ界のドン 宮野真守」と大書されているのですが、「ドン」というほど大きなソーセージいなかったように思いますし、そんな声じゃなかったような…

2016年8月 7日 (日)

奇跡の教室 受け継ぐ者たちへ

 落ちこぼれクラスが担任教師の提案で強制収容所での子どもたちをテーマとするコンクールへの参加を通じ成長していく映画「奇跡の教室 受け継ぐ者たちへ」を見てきました。
 封切り2日目日曜日、全国で東京の3館だけの上映館の1つヒューマントラストシネマ有楽町シアター1(161席)午前10時30分の上映は9割くらいの入り。

 パリ郊外のレオン・ブルム高校のさまざまな人種・民族・宗派の生徒が集まる1年生の落ちこぼれクラスの担任となった教師アンヌ・ゲゲン(マリアンヌ・アスカリッド)は、問題を起こし、授業の進行も遅れ、成績も悪いと校長らから指摘され、生徒たちに、子どもたちと若者たち・ナチス強制収容所での日々というテーマで歴史コンクールに参加することを提案する。当初は無理だと拒絶反応を示した生徒たちも、好奇心に駆られて準備に参加するが、チームワークができず、研究は深まらない。そんなある日、アンヌは当時15歳で親兄弟とともに連行され強制収容所を生き延びた老人レオン・ズィゲル(本人)を教室に呼び、強制収容所での父親との別れなどを語らせた。生徒たちは諍いを抑え、前向きの提案をするようになり…というお話。

 荒れていた落ちこぼれクラスの生徒たちが、1つの目標に向けて取り組むうちに成長するという、ありがちなテーマですが、生徒たちの目の表情、描き方が印象的です。
 ナチスの強制収容所を採りあげ、占領下のフランス政府がナチスに協力し、フランス国内の強制収容所から5万1000人のユダヤ人、ロマが絶滅収容所に送られた事実を直視しようとしていますが、他方でアウシュビッツに匹敵する事実を問うたアンヌに答えてアラブ系の生徒がパレスチナ人の虐殺を、アフリカ系の生徒がアルジェリア(旧フランス植民地)での虐殺を挙げたのに対して、アンヌが戦闘での行為は「民族の絶滅」を目指すものではないとして質が違うと退ける姿には疑問が残ります。アウシュビッツと「同列」でないとしても、パレスチナ人に対するイスラエル政府の行為やアルジェリア人に対するフランス政府の行為が、「戦闘行為」などとして正当化できるものとは思えません。そこは、歴史教師として直視すべきではなかったでしょうか(また、「民族の絶滅」を目指すかがメルクマールであるとすれば、この作品では挙がりませんでしたが、ルワンダ虐殺やユーゴなどでの「エスニック・クレンジング」はどう捉えることになるのでしょう)。
 アンヌの授業で、キリスト教会の地獄を描いた絵の紹介でムハンマド(イスラム教の始祖)も地獄にいると描かれていると述べて、憤激した生徒に対して、当時のキリスト教会の敵は誰かと問い敵はみんな地獄に落ちるという教会のプロパガンダだと指摘する下りが印象的です。規則にはうるさく厳格だが、権威に媚びない姿勢が生徒たちの共感を呼んだというところでしょう。

 フランスの公立高校が舞台で、スカーフ(ブルカ、ヘジャブ)の着用禁止に加えて十字架のペンダントも見えるような着用を禁止していたところ、成績判定会議とおぼしき会議に校長と教師とPTAとさらにクラスの生徒代表2名が参加しているところが印象的でした。

2016年7月31日 (日)

シン・ゴジラ

 「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」シリーズの最終作予定のタイトルを「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」と発表したきり一向に作れない庵野秀明監督が、その隙間に作ったゴジラ新作その名も「シン・ゴジラ」を見てきました。
 封切り3日目日曜日、新宿ピカデリースクリーン3(287席)午前11時15分の上映は、ほぼ満席。
 通常以上にネタバレの議論をしますので、これから見る予定の方はご注意を。

 東京湾で発生した学者の失踪と救出に向かった海保巡視艇の遭難、海底トンネルの損傷をめぐり、緊急対策本部で、官房副長官矢口(長谷川博已)は巨大生物の疑いを進言するが、官邸は新たな海底火山か熱水噴出口と判断する。しかし、会議のさなか、海上に尻尾が振り上げられる映像がテレビ放映され、巨大生物対策本部が立ち上げられるが、省庁の縦割りや権限、根拠法律をめぐり会議は混乱する。巨大生物は、大田区から川を遡上して陸に這い上がり、上陸後さらに巨大化し2本脚歩行を開始し街を破壊し続け、防衛大臣(余貴美子)と官房長官(柄本明)の進言で首相(大杉漣)は自衛隊の出動を決断するが、住民の避難が未了という報告で攻撃開始直前に中止命令を発する。行方不明の学者を追っていたアメリカ大統領特使カヨコ・アン・パタースン(石原さとみ)は矢口に接触し、アメリカ政府はその学者により " Godzilla " と名付けられた巨大生物を追っていると伝えた。ゴジラは、なぜかそのまま海中に戻ったが、後日、より巨大に変身して相模湾から上陸し、東京方向に突き進んだ。首相権限で自衛隊による全面攻撃が始められたが…というお話。

 「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」シリーズと同様、公式サイトには何の情報もありません。キャストさえ、役名記載なしで名前が羅列されているだけ。今どき、ここまで不親切なサイトは珍しいと思います。

 前半のテーマは、緊急事態に遭遇した際に、法律の根拠がなく、省庁が業務を押しつけあい省益重視の保身に徹する中、会議と手続にばかり時間を取られ、有効な対策を実施できない政府に対する揶揄と批判です。あからさまに、私たち中高年層では「有事立法」、昨今では「安保法制」「緊急事態条項」と呼ばれるものの整備を求める、あるいはそれを主張する政治勢力をサポートするものです。

 後半は、米軍の核攻撃宣言に対して、オタクっぽい若手の官僚や学者たちが結束してそれより先にゴジラを倒す作戦に奔走し、結果を出す、オールジャパンで戦えばけっこういけるぜ、日本人の底力はすごいって、自画自賛する民族意識・国粋意識の高揚が見せ場になります。

 そしてさらにもう一つのテーマは、老人たちが牛耳る政府の非効率・無能ぶりを、若手政治家と若手官僚の目から苦々しく「老害」と描き出し、若手の活躍で問題を解決する過程を見せて、これからは自分たちの時代だという世代交代の主張をすることにあります。

 合わせて言えば、安倍自民と大阪維新などの改憲勢力を支持する20代若手層をターゲットに、これからは君たちの/我々の時代/出番だと言っている(監督の世代を考えればネトウヨ若者層に媚びている)作品なのだと、私は思いました。

 東宝の宝であった初代ゴジラは、被爆国日本にあって、放射能により突然変異で生まれた怪物として、恐怖と不安の対象として描かれていました。この作品で、ゴジラは、人間を超えた究極の進化を遂げた生物、未知の放射性元素を内蔵する科学の発展のカギを握るものとして、恐怖と殲滅の対象であるとともに人類にとって有用なものという肯定的な評価がなされています。それはまさしく、放射能について、否定的な側面だけでなく、人類に恩恵をもたらすものとして、またしても懲りることなく「原子力明るい未来のエネルギー」と言おうとするものでもあります。
 かつて、原爆を生み出した科学とそれを操る者たちへの不信と、さらには反核・反戦のシンボルとさえなっていたゴジラを、戦争法制、緊急事態条項導入の道具とし、原子力利用の有用性さえもアピールする材料とすることには、私は強い反発を感じます。
 怪獣映画なのだから、そうならざるをえない、でしょうか。ゴジラに大型高所放水車で血液凝固剤を放水するというのは、福島原発事故の際の使用済み燃料プールへの放水をイメージしたものと考えられます。そうであれば、ゴジラに有効に対処できない政治家・官僚たちを描くにも、「法的根拠」よりも、「想定外の事態です」「巨大生物の存在を主張した学者がいたのに御用学者を動員して握りつぶしたのはお前の省だろう」「はっきりした証拠もないのに巨額の費用をかけて対策なんかできるか」などのやりとりをさせてもいいでしょうし、血液凝固剤の注入でゴジラが活動を停止した後についても、ゴジラが活動を再開しないように血液凝固剤を注入し続けるということに(映画でなければ当然に)なるはずですが、注入した分が傷口などから流出し放射能を含んだ汚染水となり、その対策に苦しみ、対策をめぐる利権争いが生じる等の展開を描くなど、現政権に媚びることなく非効率な政府のありようを表現することはできたはずです。

 最初は愛嬌のあるトカゲふうだったゴジラが最初にあげる雄叫びは「トトロ」のようですし、その後「進化」するのは、ポケモンのイメージでしょうか。
 「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」とあわせて上映された、「巨神兵東京に現わる」での特撮・街並みの破壊と殺戮を撮ったときから、ゴジラもやりたかったのかなぁ、という感じですが、それが動機だったら、変に政治ストーリーをつけないで怪獣映画に徹した方がよかったような気がしますが。

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