2017年8月13日 (日)

少女ファニーと運命の旅

 ナチス・ドイツ支配下のフランスからスイスへと逃走するユダヤ人の子どもたちを描いた映画「少女ファニーと運命の旅」を見てきました。
 封切り3日目日曜日、全国6館、東京で唯一の上映館TOHOシネマズシャンテスクリーン1(224席)午前9時55分の上映は8割くらいの入り。

 1943年、フランス。支援者たちがユダヤ人の子どもをかくまっている児童施設に両親から離れ幼い妹2人とともに預けられた13歳の少女ファニー(レオニー・スーショー)は、通報により施設にドイツ兵が乗り込む直前にイタリア支配地域の支援者マダム・フォーマン(セシル・ドゥ・フランス)の下に移される。ファニーは、厳格なマダム・フォーマンにはなじめなかったが、料理担当の陽気な青年エリー(ヴィクトール・ムートレ)とコンビを組み、様々なことを教えられながらそこでの生活になじんでいく。しかし、ムッソリーニが逮捕され、イタリアが撤兵しドイツが進軍することを察したマダム・フォーマンはスイスへの逃走を決断し、子どもたちに偽名を与え行き先を決して口外しないよう厳命して子どもたちを列車に乗せる。偽造パスポートを調べられると計画が発覚するマダム・フォーマンは列車には乗らず乗換駅に車で先回りして先導し、列車内ではエリーが子どもたちを引率する計画だったが、乗換駅でドイツ兵が乗り込んでくるのを見たエリーは一人で逃走し、それを知ったマダム・フォーマンはこれからはファニーがリーダーと指名する。ところが、次の乗換駅の手前で橋が爆破されて、そのままではマダム・フォーマンと待ち合わせた駅に行けないことを知ったファニーは・・・というお話。

 13歳の少女が、子どもたちを率い、幼い子どもからは疲れた、もう歩けない、お腹がすいたとこぼされ、年上の子どもからはリーダーシップの不足を非難され計画遂行の見通しへの疑念を示されながら、当然に内心不安で心細くて泣き出したい気持ちであろうに、ときにはかんしゃくを起こしながらも、周りを叱咤したりなだめたりしながらけなげに初志を貫こうとする姿が、テーマであり、また見せどころです。
 設定もストーリーも雰囲気も違いますが、その点は、「ウィンターズ・ボーン」を思い起こしました。「ウィンターズ・ボーン」の主演でブレイクしたジェニファー・ローレンスはトップスターに上りつめましたが、映画初出演の新星レオニー・スーショーの今後はいかに。
 幼い子どもが、善意の大人と敵対する大人に囲まれながら、親や大人の保護から離れて生き抜きたくましく成長するというのは、立派ではありますが、しかし、幼い子どもをそのような運命に追い込む社会(というより政治か)と時代を作らないことが、大人の、親の責任なのだということを、かみしめておきたい。子を持つ親としてはそういうことを考える作品だと思います。

2017年7月30日 (日)

君の膵臓をたべたい

 膵臓の病で余命数か月の少女とそれを知ることになった地味な同級生の交歓を描いた映画「君の膵臓をたべたい」を見てきました。
 封切り3日目日曜日、新宿ピカデリースクリーン2(301席)午前10時50分の上映は8割くらいの入り。

 教師となり6年目に母校に赴任してきた教師志賀春樹(小栗旬)は、伝統ある図書室の建て替えに際して図書の整理を任される。図書委員栗山(森下大地)からこの図書ラベルを全部整理した図書委員は志賀先生なんですってねと話しかけられた志賀は、あぁ、もう一人迷惑な補助がいたが、と話し、12年前を回想する。病院の待合で拾った本を開けると「共病文庫」と題して膵臓病であと1年も生きられないと記されているのを読んで呆然とした「僕」こと志賀春樹(北村匠海)は、クラス一の人気者の同級生山内桜良(浜辺美波)から、それ私の、中身読んだねと話しかけられ、だれにも話さないことを求められる。翌日から桜良は図書館で本を整理する「僕」のそばで、いい加減なラベルを貼って、探すのに少しくらい苦労した方が宝探しみたいでいいでしょなどと言ってみたり、デートに誘ったり、挙げ句の果ては一緒に旅に出たいと言い出す。戸惑う「僕」に桜良は、君は私に真実と日常を与えてくれる唯一の存在だ、医者は(残酷な)真実しか与えてくれない、両親は日常を取り繕うのに精一杯だ、親友の恭子(大友花恋)に病気のことを言ったら両親と同じようになってしまう、恭子とのふつうに馬鹿を言ったり楽しく過ごす日常を失いたくない、と答え・・・というお話。

 余命数か月の高校生が、死の恐怖を隠し、同級生に、そして真実を知る「僕」にも見せる満面の笑み、残された短い日々を腫れ物に触るようにではなくふつうの日常として送りたいという思い故にではあっても、余命幾ばくもないことを医者と両親と「僕」以外には知らせないと決意し淡々とそれを実行してみせる強さ、当然叫びたくなるほど怖いに決まっているのにそれを見せず、人間はいつか死ぬし病気でなくても明日死ぬかもしれない、一日の貴重さは私も仲良し君も同じとうそぶいて強がる様子に、もともと難病ものに弱い上に、近い世代の娘を持つ私には、いじらしくて切なくて、涙腺が緩みます。
 浜辺美波の笑顔がとても魅力的です。もちろん、作品の設定上、本当は悲しくて怖くて仕方がないはずなのにそれを隠しての笑顔という見方をすることが強く影響しているのですが、私のツボにはまった感じです。主演女優の笑顔の魅力で印象に残っている「言えない秘密」(2007年。日本公開は2008年)のグイ・ルンメイ、「モテキ」(2011年)の長澤まさみにも匹敵すると、思いました。浜辺美波の笑顔以外も含めたビジュアルが大変美しい作品だとも思いますが。

 誰かを好きになる、誰かを嫌いになる、誰かと手をつなぐ、誰かとハグをする、それが生きるということ。一人じゃ、自分がいるってわからない。好きだけど嫌い、一緒にいて楽しいけど鬱陶しい、そういう人と私の関係が私が生きているってことだと思うって、高校生に言わせちゃうところがすごい。
 他方、桜良に私が本当は死ぬのがめちゃくちゃ怖いって言ったらどうする?と聞かれて黙り込む「僕」。安易な答えはしたくないということかもしれませんが、どうかなぁ。そんなの当然じゃないか、だれだってもうすぐ死ぬって知ったら怖いよ、桜良がその恐怖を乗り越えて笑ってるのはすごいと思う、でも怖かったら泣いていい、叫んでいい、「僕」はそういう桜良をまるごと受け止めたい、とか言えないかなぁ・・・

 最初のデートの日、桜良が「僕」の初恋の人のどこを好きになったか問い詰めて何でも「さん」付けする人であらゆるものに敬意を持ってるんだと感心してという答えに好きになった理由が予想外によかったと感心し、後日クラスでも一人で本に向き合っている強さに関心を持っていたと言ってみたり、元彼の委員長は見かけだけでネチネチとして度量が狭かったと言い委員長の陰湿さを描き出し、また恭子の結婚相手の選択など、全体を通じて、人の価値は見かけじゃないよというメッセージがちりばめられています。
 それにもかかわらず、福岡のホテル(ヒルトン福岡シーホーク)のスイートルームでの「真実か、挑戦か」ゲームで、桜良がクラスで一番かわいいのは誰か、自分は何番目にかわいいかと、自分は見かけで評価しないと答えている「僕」に対して、見かけを聞いてるのと言いつのってまでこだわりを見せるのは違和感がありました。

 病室での最後の「真実か、挑戦か」で桜良が「僕」に聞きたかったことも、期待を持たせた割には、肩すかし感があります。
 桜良と「僕」の関係を「恋人ではない」と位置づけることへのこだわりがあり(原作との関係でそれは譲れない線かもしれませんが)、桜良が「僕」に私を彼女にする気はないねと確認した挙げ句に、死ぬ前にしたいことリストの最後を「恋人でない男の子といけないことをする」としています。でも、そこは桜良は「僕」に思い直させて告白して/させて、「好きな人とHする」にしたかったんじゃないかと思うのですが、それは通俗的解釈に過ぎるでしょうか。

 現在と12年前が行き来する構成を、現在(茶系)と12年前(紺系)で制服を変えることで、一目で時代がわかるようにされています。手紙やスマホの画面(メール、ライン)が写るときも、ほぼ全部ナレーションをつけて読み上げています。近年、スマホの画面の文字映像を写して観客に読ませる作品が多く、視力の落ちた私には字幕よりさらに読みにくくて苦労していますので、こういう配慮はとても助かります。そういう面で観客に優しい作りになっていることも感心しました。

2017年7月23日 (日)

怪盗グルーのミニオン大脱走

 「怪盗グルー」シリーズ第3弾の映画「怪盗グルーのミニオン大脱走」を見てきました。
 封切り3日目、TOHOシネマズ新宿スクリーン7(407席)午前9時30分の上映は5割くらいの入り。USJでは2017年4月21日の「ミニオン・パーク」オープンを始めこの夏の主役となっているミニオンたちの勢い、世界興収では第1作「怪盗グルーの月泥棒」(2010年)が5.431億ドルで歴代154位、第2作「怪盗グルーのミニオン危機一髪」(2013年)が9.708億ドルで歴代32位、スピンアウト作品の「ミニオンズ」(2015年)が11.594億ドルで歴代13位、この作品も全米公開3週目の2017年7月18日現在ですでに6.224億ドルで歴代119位にランクインしていることからすると、予想より不入り。日本での興行成績ではいずれも歴代100位に入れず、第1作が2010年の41位タイ(12.0億円)、第2作が2013年の21位(25.0億円)、「ミニオンズ」が2015年の6位(52.1億円)止まりなので、日本ではそれほど期待できないともいえますが。笑いのツボが違うということでしょうか(私には、同様に笑いのツボがずれているように感じられるパイレーツ・オブ・カリビアンシリーズは、日本でも大ヒットしているので、そういうことでもないかと思いますが)。

 泥棒稼業から足を洗い、ルーシーと結婚したグルーは、反悪党同盟の捜査官として、1980年代に子役として人気を博したが番組を打ち切られてすねて泥棒になったバルタザールを追っていたが、目の前で世界最大のダイヤモンドを盗まれて取り逃がし、ルーシー共々反悪党同盟から解雇されてしまう。グルーの解雇を知ったメルらミニオンたちはグルーが泥棒に戻ると期待して大騒ぎするが、グルーは泥棒には戻らないと宣言し、ミニオンたちは失望して出て行く。失意のグルーの元にグルーがその存在を知らなかった一卵性双生児の兄弟ドルーから連絡があり、グルーの母と別れた父が大泥棒でドルーにそれを継ぐことを期待していたが亡くなり、グルーに父を継いで欲しいとして父の遺産の様々な装備を提供した。グルーは、それを利用して再度バルタザールに挑むが・・・というお話。

 グルーとルーシーの夫婦愛、グルーと娘たちの親子愛の物語と、ミニオンたちのコミカルさが売りなのだと思いますが、グルーをめぐるストーリーと、ミニオンたちの流れが別々で統合されない感じが残り、そこが今ひとつかなと思いました。
 バルタザールが音楽に乗って踊ったり戦うのに、カセットテープを使うのが、新鮮というか・・・今どきカセットテープを再生できる端末がどれだけあるのか・・・もちろん音楽も1980年代で、私のようなおじさんには懐かしいのですが、そういう世代を客層に狙ってるわけではないでしょうに。

2017年7月16日 (日)

パイレーツ・オブ・カリビアン 最後の海賊

 ディズニーランドのアトラクション「カリブの海賊」からひねり出した映画の第5弾「パイレーツ・オブ・カリビアン 最後の海賊」を見てきました。
 封切り3週目日曜日、新宿ピカデリースクリーン2(301席)午後1時25分の上映は、ほぼ満席。

 沈没船「フライング・ダッチマン」号に閉じ込められた父ウィル・ターナー(オーランド・ブルーム)を救うために必要な「ポセイドンの槍」を探し求めるウィルの息子ヘンリー・ターナー(ブレントン・スウェイツ)は、イギリス軍の船員となりジャック・スパロウを探していたが、船が「魔の三角水域」に入り込み、呪われた亡霊海賊サラザール(ハビエル・バルデム)に襲われ、呪いを解くためにジャック・スパロウのコンパスを求めていることを知らされ、ジャック・スパロウを探すように言われる。顔も知らぬ父から受け継いだガリレオ・ガリレイの日記の謎を解こうとしている孤児の天文学者カリーナ・スミス(カヤ・スコデラリオ)は、その知識故に「魔女」と疑われ、追われていた。島で新たな銀行のお披露目の日、金庫の中から泥酔状態で現れたジャック・スパロウ(ジョニー・デップ)は、仲間の海賊たちに馬で金庫を引かせて銀行強盗を企て・・・というお話。

 ヘンリーと父親のウィル、カリーナとその父の、2組の父子の絆、愛情を軸にしたアドベンチャー作品です。
 ジコチュウで無責任なジョニー・デップ(ジャック・スパロウ)が狂言回しを務めていますが、ジャック・スパロウとサラザールとイギリス海軍が対立する世界という舞台を作っているもので、この作品の主役はヘンリーとカリーナとみるべきだろうと思います。
 それでも、ジョニー・デップの無責任でおちゃらけた対応がおもしろい、ギャグだと感じられるか、うっとうしいだけで笑いのツボも外してると感じるかで、作品への評価は大きく変わるだろうと思いますが。

 公式サイトのトップページにある「これまで決して明かされることのなかったジャック・スパロウ誕生の瞬間―― 『パイレーツ・オブ・カリビアン』最大にして最高の謎が、ついにベールを脱ぐ!」という宣伝文句。シリーズのファン、ディズニーに忠実なファンには、そうなのかなぁとは思いますが、いや、これが、シリーズ「最大にして最高の謎」?
 あらゆる宣伝文句が、誇大で、言葉の重みというのが感じられない、という印象を持ちます。

 サブタイトルの「最後の海賊」。予告編では「最後の冒険が、ついに始まる」、公式サイトのイントロダクションでも「すべての謎が明かされる<最後の冒険>が、ついに幕を開ける!」とされています。原題は“ Pirates of the Caribbean: Dead Men Tell No Tales ” で、サブタイトルは「死人に口なし」。「最後」という言葉はどこにもありません。エンドロールのラストにほのめかし映像があり、続編制作が示唆されています。こういう状態で、いかにもこれが最終作みたいな宣伝をする日本の興業サイドのやり方には強い疑問を感じます。
 もともとシリーズ化を予定していなかったけど、第1作(2003年)が大ヒットしたので、3部作と言い出し、第3作(2007年)が終わった後から、未練がましく第4作(2011年)を作りさらにこの第5作(2017年)に至った経緯からして、稼げる限り前言など気にせずに翻すことは観客もわかっているはずということかもしれませんが、私には詐欺的で恥知らずな姿勢に思えます。

2017年7月 9日 (日)

ヒトラーへの285枚の葉書

 ヒトラー政権下のベルリンで平凡な夫婦がペンとカードのみで試みた抵抗の記録を映画化した「ヒトラーへの285枚の葉書」を見てきました。
 封切り2日目日曜日、全国6館東京で2館の上映館の1つヒューマントラストシネマ有楽町シアター1(161席)午前10時50分の上映は5割くらいの入り。観客の年齢層は高め。

 1940年6月、工場の職工長のオットー・クヴァンゲル(ブレンダン・グリーソン)と妻アンナ(エマ・トンプソン)の元に一人息子のハンスが戦死したという軍事郵便が届いた。やり場のない悲しみと怒りに打ちひしがれたオットーは、カードに「総統は私の息子を殺した。あなたの息子も殺されるだろう」などのメッセージを記し、街中の各所に置き始めた。カードを見て届けた市民の通報を元にエッシャリヒ警部(ダニエル・ブリュール)は捜査を始め、カードが置かれた場所から居住域を絞り一人息子が殺された父親を探し続けるが・・・というお話。

 オットーの息子ハンスは戦死したというだけで、その死は、別段、「ナチスの戦争」「ヒトラーの戦争」に特有のものではないように見受けられます。
 ヒトラー親衛隊の奢りのさばる様子、ユダヤ人を密告する者たちの略奪/窃盗行為と卑しさ、人道的な/良心の呵責を持つ者の社会的地位の危うさ、ヒトラーに従わない態度自体の甚だしいリスクといった「世情」が描かれ、それがヒトラーとその体制への反発/抵抗へとつながったという面はあると思いますが、オットーとアンナの思いは、ナチスではなくても、戦争一般への反対に通じるものであったと考えられます。
 オットーは、公式サイトで繰り返されている「労働者階級」ではありますが職工長というむしろ管理者の立場にあり、それまでは反体制の意識は持っていなかったと考えられます(そこははっきり描かれていないと思いますが)。アンナは国家社会主義女性同盟の活動で募金や労働奉仕を求めて戸別訪問するという体制側の人でした。そのもともと反体制派でない夫婦が、一人息子の戦死を機に反戦に目覚め、組織的基盤もなく個人の創意工夫で権力に抵抗するというところが、この作品のポイントになっています。

 それとともに、オットーが決意したペンとカードによる抵抗運動に、アンナが自分も同行すると言い、アンナ自身も実行するに至る、その過程でオットーはアンナを巻き込むまいと気遣い、アンナはオットーのピンチを救うべく立ち向かう、命の危険を賭けた夫婦の心情、夫婦愛が、第2のテーマであり、終盤の法廷で手を握り合う二人の姿が見せ場だと、私は思います。
 二人の抵抗の実践の経緯は、夫唱婦随的な色彩が強いのですが、アンナは国家社会主義女性同盟の活動でヒトラー親衛隊幹部の妻に対しても労働奉仕しないのはおかしいと詰め寄る一本気な強さが描かれていて、ただ夫に従った妻というのではない位置づけもいい感じです。

2017年6月25日 (日)

ハクソー・リッジ

 武器を持たずに沖縄の戦場で倒れた兵士75名を救出した米軍衛生兵を描いた映画「ハクソー・リッジ」を見てきました。
 封切り2日目日曜日、TOHOシネマズ新宿スクリーン9(499席)午前9時の上映は8割くらいの入り。

 ヴァージニア州の田舎町で野山を駆け巡って育ったデズモンド・ドス(アンドリュー・ガーフィールド)は、過去のできごとから銃を持たないと決意していたが、町の多くの若者たちが志願して戦場に行き、自らも人殺しはしないが衛生兵としてなら貢献できると考え、恋人の看護師ドロシー(テリーサ・パーマー)にも相談せずに陸軍への志願を決める。入隊し、体力では負けなかったが、銃を持つことを拒否したドスに対し、部隊長のグローヴァー大尉(サム・ワーシントン)は呆れ、除隊を勧める。ドスは、除隊を断り、自分は良心的兵役拒否者ではない、軍服や軍隊は大丈夫だが人を殺したくないだけだ、衛生兵として従軍したいと述べ、上官や兵士から嫌がらせを受ける。ドロシーと結婚式を挙げる予定だった休暇の日に上官からライフルの訓練を終えないと休暇を認めないと言われたドスは、命令を拒否して軍法会議にかけられる。軍法会議で刑務所に入れられるピンチをしのいだドスは、1945年5月、沖縄に送られ、難攻不落の激戦地「ハクソー・リッジ」(のこぎりの崖)と米軍が名付けた戦場に足を踏み入れ、日本軍の激しい攻撃に直面し・・・というお話。

 予告編から予想したよりは、ドスが沖縄に達するまでの展開が長く、ドスの幼少時代から「人を殺さない」「武器を持たない」という信念が形成された過程、第1次世界大戦に従軍して友人を戦場で失いトラウマとアルコール中毒に苦しむねじくれた父との葛藤と家族愛、ドロシーへの思いとドスの心の支えとなるドロシーの一途さ、ドスが信念を貫くことへの障害とそれを乗り越える困難が、丁寧に描かれていて、むしろそちらが見どころの映画かもと思ってしまいます。
 戦場の描写は、兵士の死傷、凄惨な傷口、死傷者に襲いかかるネズミたちがこれでもかとばかりに続きます。戦争の無残さをしみじみと感じさせます。
 しかし、ではこれが反戦の映画かというと、そうとも考えにくい。作品の流れは、ドスを蔑んでいた兵士たちが戦場を駆け回り砲弾をかいくぐり日本兵の隙を見て倒れた重傷者を救出し続けるドスの姿に驚き感動して、ドスとともに戦いたい、ドスがいるから安心して戦えると結束して勝利を収めるという団結と英雄の物語に回収され、日本兵も勇敢に戦ったと称揚することはあっても、一方的に被害を受けるだけの沖縄の民衆はまったく登場もしません。犠牲は多いものの戦争は否定はされず、従来とはタイプが違う英雄譚と位置づけるべきでしょう。
 感動できる部分と、あまりにも凄惨な戦場の死傷者の映像に、複雑な形容しがたい印象を残す作品です。

2017年6月18日 (日)

22年目の告白 私が殺人犯です

 時効が成立した殺人事件の手記を出版して登場した犯人を名乗る男をめぐるサスペンス映画「22年目の告白 私が殺人犯です」を見てきました。
 封切り2週目日曜日、新宿ピカデリースクリーン2(301席)午前11時の上映は、9割くらいの入り。

 1995年に東京で起こった5件の被害者を近親者の目の前で後ろから縄で絞殺するという残忍な手口の連続殺人事件が、殺人事件の公訴時効撤廃の当日・施行直前の2010年4月27日午前0時に時効が成立し、当時おびき出された犯人と組み合い口を切り裂かれながら肩を銃撃しつつも取り逃がし、その報復として自室に仕掛けられた罠で目の前で上司滝幸宏(平田満)を殺害された刑事牧村航(伊藤英明)は、2017年、連続殺人事件の手記を出版した曾根崎雅人と名乗る人物(藤原竜也)が記者会見をすると連絡を受けた。曾根崎は、記者会見で一躍時の人となった後、遺族の医師山縣明寛(岩松了)の病院に謝罪のパフォーマンスに訪れ、曾根崎と遭遇した牧村は曾根崎を殴ろうとして取り押さえられる。曾根崎のサイン会には若い女性たちが押し寄せ、遺族の暴力団組長橘大祐(岩城滉一)の意を受けた組員戸田丈(早乙女太一)は曾根崎を狙って発砲し、遺族の娘岸美晴(夏帆)は曾根崎を刺そうとするが、いずれも牧村に阻止される。曾根崎は、かつて戦場カメラマンで帰国直後に起こった東京連続殺人事件の取材で名を挙げたジャーナリスト仙堂俊雄(仲村トオル)がメインキャスターを務めるNEWSEYESに生出演し、仙堂から追及されるが、番組で真犯人を名乗る人物がネットにアップした5件目の牧村宅での事件直後に縛られた牧村の妹里香(石橋杏奈)を映した映像が流され、食堂でテレビを見ていた牧村は・・・というお話。

 「巧い」つくりではあります。公式サイトのキャッチフレーズが「男の告白に、刑事が、遺族が、メディアが、そして日本中が動き出す!あなたは、その衝撃に裏切られる-。」で、確かに出だしからの流れ、曾根崎の正体に関しては、しっかり乗せられ、だまされました。また、殺人罪の公訴時効廃止をめぐる法技術的なポイントの、2010年4月27日午前0時までに(15年の)公訴時効が成立した殺人事件は公訴時効、その時点で公訴時効が成立していない殺人事件は公訴時効なしという遺族にとっても警察にとってもそして犯人にとっても天と地を分ける運命の1日も巧く使われています。
 他方で、進行の過程で感じられるいくつもの不自然さ(それを具体的に書くとストレートなネタバレになってしまうのであえて書きませんが)があり、これをもう少し拭えないかと感じるか、その程度に見せることが「布石」なのだと感じるか、たぶん評価が分かれるのでしょう。私は、ミステリーとして作る以上、もう少し隠して欲しい感じがしましたが。
 この巧さといくつもの不自然さのために、見る前の予想よりも、殺人事件そのもの、遺族感情そのものに入り込めなかったという印象を持ちました。予告を見ている段階では、もっと曾根崎に憎しみを感じ、遺族の心情に涙すると予測していたのですが。

 不自然さとは別に、東京に来て15年たっても関西弁が抜けない人が、それから7年後には関西弁がきれいに抜けてるっていうのは、今ひとつ日頃の経験からの実感に合わないように思えるのですが・・・

2017年6月11日 (日)

マンチェスター・バイ・ザ・シー

 避けていた過去の過ちと向き合うことを強いられた男の苦悩を描いた映画「マンチェスター・バイ・ザ・シー」を見てきました。
 封切り5週目日曜日、ヒューマントラストシネマ渋谷シアター1(200席)午後0時10分の上映は8割くらいの入り。

 ボストンでアパートの便利屋として働くリー・チャンドラー(ケイシー・アフレック)は、仕事は堅実だが、無愛想で、呼ばれた顧客の住人に挨拶もせず、不評を買っていた。心臓病を抱えていた兄ジョー・チャンドラー(カイル・チャンドラー)の入院の報を聞いて、リーは故郷の町マンチェスター・バイ・ザ・シーの病院に駆けつけたが、兄はすでに死んでいた。兄の遺言で、幼い頃にはよく遊んだ甥のパトリック(ルーカス・ヘッジズ)の後見人に指名されたことを知り驚いたリーは、パトリックにジョーの船や自宅を売却してボストンに転居することを提案するが、パトリックは船は売りたくない、自分はここに学校も友人もホッケークラブもバンドも2人の彼女もいる、便利屋なんてどこでもできるんだからおじさんがここに引っ越してくればいいと、引っ越しを拒否する。リーは、ジョーの葬儀の準備をしながら思い悩むが・・・というお話。

 自らの過ちと圧倒的な喪失感/悲しみに耐えられず、故郷の町を離れて一人暮らしてきたリーが、兄の死と未成年(高校生)の甥パトリックの存在(放置できない/後見人指名)故に、故郷の町に呼び戻され、避けていた過去と向き合わざるを得なくなった苦悩、それにリーがどう対処するのかがテーマです。
 事件の前の、幼いパトリックとじゃれ合う陽気でフレンドリーな姿、ジョーとパトリックと海へ出て帰った後の妻ランディ(ミシェル・ウィリアムズ)から絡まれながらも悪びれずに娘たちとハグしランディの機嫌を取りに行くリーの朗らかさ、事件直前に友人たちを招いて騒ぐ陽気さと、現在のリーの寡黙で無表情な様子が対比され、リーの変化、取り返しのつかない喪失感を印象づけています。
 そして、いずれも「現在」のリーですが、ボストンの居酒屋でちょっとしたことから居合わせた客を殴りつけるいらだち/不安定さが、ラスト近くでマンチェスター・バイ・ザ・シーの居酒屋でも再現され、兄の死・パトリックの後見人就任の一連のできごとでも変わらないリーの姿が描かれています。ありがちな「リーの成長物語」にはならず、そんな簡単に成長したり解決できるはずがないだろと言っているようです。
 そういった、大きな悲しみがあっても、人間はなんとか生きていく、簡単に立ち直ったり乗り越えられなくても、見苦しくても不器用でも、苦悶しあがきながら生き続ける姿が、この作品の味わいどころになっています。
 リーの立場に身を置いた時、自分だったらどのように生きていけるか、想像ができません。リーとランディの再会の時の壊れた会話、その心情、取り乱しぶりに、見ていて心が壊れそうな思いをいました。

 無愛想さに加えて、周囲の女性からかけられるモーションをことごとくスルーするリーの対応が、父ジョーの死後も(彼なりに父の死に傷ついてはいるのですが)Hの機会は決して逃すまいと二股かけてH道に邁進するパトリックと対比的に描かれて、リーの対人関係への消極さ、無気力さが印象づけられています。
 でも、最初のアパートの住人の「アパートの便利屋に恋しちゃいそう」という電話の聞こえよがしの会話。その女性のトイレの詰まりを直しに来て、詰まった大便を吸引し、大便で汚れた手を洗っているというシチュエーションでそれを聞かされて、その気になる(萎えない)ものでしょうか。悲劇で人格が変わり無気力無感動になったという描写以前の問題があるような気も・・・

2017年6月 4日 (日)

ゴールド-金塊の行方-

 金鉱を探し求める鉱山会社経営者の執念と栄枯盛衰を描いた映画「ゴールド-金塊の行方-」を見てきました。
 封切り4日目日曜日、TOHOシネマズシャンテスクリーン2(201席)午後2時の上映は9割くらいの入り。

 父から引き継いだ鉱山会社「ワショー社」の経営が悪化し投資銀行からも融資を断られ続け、自宅も失って恋人のケイ(ブライス・ダラス・ハワード)の家に転がり込み浴びるように酒を飲み続けていた経営者ケニー・ウェルス(マシュー・マコノヒー)は、夢で見た情景に賭けてインドネシアに飛びかつて銅山を発見したが今は事業者から相手にされていない地質学者マイケル・アコスタ(エドガー・ラミレス)と組んで、残されたわずかな私産をつぎ込んで金鉱の試掘を始めた。マイケルが睨んだ住民が以前から砂金をとっている川の上流の山地から金が発見されるが試掘を続けるに従いその品質が落ち、雇った鉱夫たちも去りケニーはマラリヤに罹患して生死の境をさまよう。ようやくマラリヤから回復したケニーにマイケルはサンプルの分析結果を示し、良質の金鉱が発見されたことを知らせた。金鉱発見の報はたちまち広まり、ワショー社の株価は高騰し、投資銀行は掌を返したように支援を申し出てきたが・・・というお話。

 マシュー・マコノヒーの、泥臭く品のない山師の執念と、その山師らしい浮き沈みに伴う喜怒哀楽の演技が、一番の見どころだと思います。
 ケニーは、浴びるように酒を飲み続けるだらしない人物ですが、儲かったときにも、会社の事務所を復活させたり、自宅の土地を買いはしますが、成金的な行動に走らず、金銭よりも探鉱者の誇り・プライドを重視し、苦しい時代をともにしたケイを捨てることなく、金鉱を見つけてから言い寄ってきた美女にデレデレはしますが少なくともケイが出て行くまでは浮気もせず、という姿勢は憎めず、人物として好感が持てます。
 実話に基づくサスペンス仕立てなのですが、サスペンスとしての作りはどうでしょうか。途中でケニーがFBIに尋問されている場面が挟まれていて、途中でそういうほのめかしをしないとサスペンスと感じてもらいにくいということなのかもしれませんが、この尋問のやりとりで、ほぼ筋立てが見えてしまいます。そういうパターンの作りだったら、最初に尋問シーンから入って過去の回想に進むというパターンが多いと思います。それを避けるのなら、むしろ終盤まで尋問シーンを入れない方がよかったんじゃないかと、私は思いました。
 実話に基づく物語とされ、公式サイトにも「驚愕の実話」とうたわれていますが、予告編の最後に強調されている「驚愕のラスト10秒」も実話なんでしょうか。そこ、一番興味がありますが。

2017年5月28日 (日)

光をくれた人

 孤島の灯台守夫婦の元に流れ着いた乳児を自らの子として育てる流産直後の妻と規則違反を後ろめたく思いつつ押し切られる夫、行方不明の乳児を思い涙に暮れる母の葛藤を描いた映画「光をくれた人」を見てきました。
 封切り3日目日曜日、TOHOシネマズシャンテスクリーン1(224席)午後7時の上映は2割くらいの入り。

 第1次世界大戦に従軍し地獄を見ながら生き残ったトム・シェアボーン(マイケル・ファスベンダー)は、1918年、前任者が心を病んで休職した絶海の孤島ヤヌス島の臨時灯台守に志願した。3か月後、本土のパルタジョウズに呼ばれ、前任者が自殺したため正式に3年任期で赴任することを求められたトムは、地元の名士の娘イザベル(アリシア・ヴィキャンデル)からピクニックに誘われ、ヤヌス島に連れて行ってくれと言われる。文通を続けるうちにトムはイザベルに心を開くようになり、パルタジョウズの町で結婚式を挙げ、2人はヤヌス島で水入らずの新婚生活を送った。イザベルはトムの子を身ごもるが1921年の嵐の夜に流産してしまい、2年後の1923年春にもまた流産した。2度目の流産の直後、男の遺体と乳児を乗せた手こぎボートがヤヌス島に漂着した。信号で報告しようとするトムをイザベルは止め、この子を自分の子として育てると言い張り、情にほだされたトムもボートの件を報告せず、イザベルが予定より早く出産したと虚偽の報告をする。2年後に、ルーシーと名付けた娘の洗礼式でパルタジョウズを訪れたトムは墓地で涙する女性ハナ・ポッツ(レイチェル・ワイズ)の姿を見、海に消えたドイツ人の夫フランクと乳児グレースの悲劇を知った。良心の呵責に耐えかねたトムは・・・というお話。

 戦場で地獄を見て老けて生気のない表情のトムが、積極的なイザベルに心を開き明るく若々しくなり、イザベルとルーシーに囲まれ和らいでいく様子、そしてハナの存在を知り身構え思い詰めていく様子、明るく行動的なイザベルが流産して打ちひしがれ、ルーシーを得て輝きを取り戻し、ルーシーを失って無気力になる様子の、対比・起伏が印象的です。トムとイザベルの甘い新婚生活の描写が、その後の不幸/暗転を際立たせています。光を絞った暗がりの映像と光あふれる映像、荒れる海と青空、夕陽の美しさなどの映像の対比も効果的に使われている感じです。
 育ての親(イザベル)と生みの親(ハナ)の対立・葛藤が、テーマではあるのですが、私には、むしろ、規則・法に背いて妻への情にほだされたものの良心の呵責に耐えかねた夫と、子を失った(流産した)悲しみから目の前の乳児にしがみついた妻の、夫婦のありよう、(できた子どもは、もちろんかわいいのだけれども)子ができないときに夫婦水入らずでしみじみ暮らすという選択はそれほどに魅力的でないのか、妻をかばって罪をかぶる夫の姿勢は悲しみに打ちひしがれる妻には評価されないのかなどの方が、考えさせられます。

 トムがイザベルに出会う前のパルタジョウズに向かう船の中でハナを助けたエピソード、ハナの妹のグウェンがハナに内緒でルーシー/グレースをイザベルに会わせたエピソードなどが落ちていますが、概ね原作通りに展開しています。
 印象としては、イザベルと引き離されたルーシーのわめきぶりが原作のイメージよりは弱い感じがしますし、後半でのトム、イザベル、ハナそれぞれの葛藤が原作よりはシンプルに描かれているように思えます。監督の方針として過剰な演出を嫌ったのかもしれませんし、上映時間の制約から後半の描写を絞ったということかもしれません。原作を先に読んだためでしょうけど、そのあたりはもう少しそれぞれの心の揺れ・葛藤を描き込んで欲しかったなと思います。

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